黒岩比佐子『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』
黒岩比佐子『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社、2010年)
先ごろ亡くなられた黒岩比佐子さんの遺作となってしまった。
外国語の翻訳や論説から広告文、果ては卒業論文や恋文の代筆まで、文章という文章ならなんでもござれ──今風に言うなら編集プロダクションの草分けとも言うべき会社が大正時代にあった。その名も、売文社。大逆事件後のいわゆる社会主義運動“冬の時代”、厳しい風雪をしのぐため堺利彦が同志と共に設立した。彼らは高い教養と卓抜した語学力を持ちながらも、正規の高等教育を卒えていない上に社会主義者として逮捕・服役の前科もあるため、まともな職に就くことはできない。自分たちの能力を活かしながら生計の手段を立てるため、売文社というのは実に見事なアイデアであった。本書はまさにこの売文社に光を当てながら堺利彦の生涯を描き出している。著者の古書店通いの成果であろう、なかなか珍しい本もよく発掘しており、当時の出版史をうかがう上でも興味深い。
堺利彦の名前は歴史の教科書でも社会主義者として登場するが、幸徳秋水とはパーソナリティーが異なる。幸徳がどこか漢学者然とした険しいオーラを放つのに対して堺は人情の機微に通じた人柄であり、軽妙洒脱なユーモリストとしておもしろおかしく読める戯文もたくみに書ける人であった。売文社に集った面々もそれぞれにクセが強く、そうした個性的な群像劇としても面白い。
社会主義運動の展開を主とするかつての思想史叙述において、売文社の位置付けはあくまでも脇役に過ぎなかった。実は私自身、だいぶ以前のことではあるが、ある関心から初期社会主義運動について少々調べたことがあり、そのときに売文社から刊行されていた雑誌『へちまの花』『新社会』なども全ページに目を通したことがあった。おふざけや遊び心もあっていわゆる“主義者”のしかめっつらしい相貌とは全く異なり、意外に面白いと思っていた。しかしながら、ユーモリスト堺と個性豊かな売文社の面白さはアカデミックな思想史家で描ける人はいないだろうとあきらめていたところ、本書の登場を迎え、読みたかったのはまさにこういうのなんだよ、と半ばジェラシーも混じりながら興奮した。読み進めながら色々と思い出すこともあり、この時代について私ももう一度調べなおしてみようかという思いを刺激された。
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