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2011年1月

2011年1月29日 (土)

山県有朋について6冊

 山県有朋について今日一日で6冊にざっと目を通した。

 山県有朋は1838年、長州萩城下、足軽以下の軽輩の家に生まれた。上昇志向からであろうか、槍術に打ち込んで師範として身を立てようと考えたが、尊皇攘夷思想の影響も受けて松下村塾に入門、吉田松陰の薫陶を受け、また高杉晋作の奇兵隊に参加。明治維新後、自ら望んで欧州視察に出て中央集権体制の実現と国防のための軍備拡張が必要だと確信。帰国後兵部省に入り、1873年には初代陸軍卿となる。大村益次郎の構想を受け継ぎ、国民皆兵主義から徴兵令を制定、軍人勅諭、またプロイセン式軍事二元主義を範にとって参謀本部を設置、自ら初代本部長に就任する。参謀本部は天皇に直属、太政官・内閣から独立し、これが明治憲法において統帥権の独立として規定され、さらに軍部大臣現役武官制も含め、彼の手によって陸軍の制度が確立された。第一次伊藤博文内閣では内務大臣となって地方制度を制定、また自由民権運動など民衆運動の盛り上がりに危機感を抱いて弾圧(保安条例)。1889年、憲法発布後には内閣総理大臣となり、超然主義をとる。

 明治から大正にかけて権勢を振るい、ライバル伊藤博文なき後は文字通り元老の第一人者となった山県有朋。幕末維新の激動を生き抜いた人らしく政治的争いをも軍事的視座から考えて周到に布石を打ち、陸軍・官僚・貴族院・枢密院に張り巡らした派閥網によって隠然たる力を握った。どのような評価を下すかはともかく近代日本における国家制度確立への彼の寄与は大きかった一方で、それは後に軍部暴走を許す種となったこと、民衆基盤を無視する権威主義的態度、さらにはどこか陰険に見える人柄もあって、後世の歴史家の間で山県の評判は甚だ芳しくない。岡義武『山県有朋──明治日本の象徴』(岩波新書、1958年)は烈しい権力意志で一貫した政治的人間として彼の経歴をスケッチする。藤村道生『山県有朋』(吉川弘文館、1961年)は自尊心と劣等感との葛藤に彼の権力志向を見出す。半藤一利『山県有朋』(ちくま文庫、2009年)も山県の生涯をたどりながら、彼の明治国家発展に向けた貢献は認めつつも最後まで親近感は抱けなかった…と記す。それでもこれらの著作が敢えて山県という人物にこだわるのは、彼の政治経歴と軍政上の事績は近代日本の権力構造を考え直す上でどうしても無視できないからである。

 伊藤之雄『山県有朋──愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009年)は、先行研究では参照されていなかった一次資料を丹念に渉猟しながら山県の性格にむしろ不器用な生真面目さを見出し、その愚直さはある種の責任感であったろうと考える。一般に権力志向とされる点については、例えば征韓論政変で木戸孝允・西郷隆盛の狭間にあって義理と人情とで身動きがとれなかったことなど様々な葛藤を経ながら見つけた老獪さ、言い換えれば人間的成熟とみる。昭和期陸軍の暴走につながる制度的欠陥をつくったという否定的評価に対しては、彼は陸軍に対する文官の介入=専門家に対する素人の口出しを嫌っており、当時の陸軍は陸相を中心に統制がとれた集団であったと指摘、彼の軍拡志向もあくまでも防衛的なもので、大陸政策ではむしろ消極的であったとする。

 川田稔『原敬と山県有朋──国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書、1998年)は元老指導から議会指導への移行期における国家構想の相違という視点から原と山県の二人を取り上げる。藩閥官僚系だけでは国政運営が難しくなりつつあり、政党も交えた挙国一致が望ましいと山県も考えるようになっていたという。山県の外交方針は日露提携によって英米と拮抗しながら大陸への勢力拡大を図るところにあったが、ロシア革命で挫折、新たな外交政策上の方針が必要となった。そこに、政党嫌いの山県も対英米協調的な原敬に国政を委ねざるを得なくなった理由の一つがあると考える(他に、米騒動による大衆の勢い、人材不足などの要因)。原の対英米協調、中国への内政不干渉方針は、言い換えると海外市場への進出は経済競争によることになり、こうした外交政策の転換と連動して国民経済の国際競争力強化を目指した政策が打ち出されたと捉える。

 井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス、2010年)は、リアリストとしての山県が認識した当時における二つの危機に注目しながら彼の抱いた政治構想の再検討を目指す。第一に、対外的な国家の独立をめぐる危機感であり、対列国協調外交、とりわけ対米協調を重視したと指摘。第二に、近代国家のモデルとするはずだった十九世紀欧州における大衆民主主義の台頭と君主制の危機であり、日本でも同様の危機がおこるのを防ぐため選出勢力と非選出勢力とのバランスを図ろうと権謀術数をめぐらしたのだという。陸軍建設者たる山県が目指したのは近代国民国家の基礎的条件としての国民軍の創出であり、そのためには民衆の動員が必要であった(国民皆兵主義→徴兵制)。他方で、民衆のイデオロギーが軍隊にまで波及するおそれがあり、このジレンマを解決する工夫として編み出されたのが軍人勅諭、参謀本部、統帥権の独立であった。言い換えると、軍部の政治的中立性の確保を山県は目指していたのだと指摘する。戦後歴史学が強調してきた、昭和期陸軍暴走の歴史的起源を山県に求める議論に対しては上掲伊藤書と同様に批判的で、山県有朋イメージの再検証によって日本近代史像の分裂状態を克服しようという問題意識が示される。

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岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』

岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』(研文出版、2004年)

 日本統治期に育った台湾人にとって唯一の書き言葉は日本語であったため、文筆を生業とする者は「国語」=日本語を使わざるを得なかった。1945年を境に「国語」が中国語となったとき、ある者は中国語を習得して作家稼業を続け、またある者は筆を折る、もしくは日本語でひそかに書き続けた。日本語、中国語のどちらを使うにしても、彼らの多くがテーマとしたのは植民地支配下の苦悩、もしくは二・二八事件以降は「祖国」への期待が裏切られた失望。こうした自らが体験せざるを得なかった葛藤を表現するのが戦後台湾文学の柱となった。しかし、それは時代的な証言ではあっても、純粋な文芸作品とは言えないのではないか、もっと持ち味の違う作家はいないのか、そうした問題意識を持った著者が再発見したのが黄霊芝である。

 黄霊芝は1928年、台南生まれ。父親は明治大学卒業、実業家として成功して公的役職にも就いた黄欣である。改姓名のとき黄霊芝は国江春菁と名乗る。戦後間もなく新制台湾大学外文系に入学、この頃からアトリエに通って彫刻にも打ち込む。講義にはほとんど出席しないまま肺結核で中退。その後は、病弱と貧窮の中、創作を続ける。1970年には第一回呉濁流文学賞を受賞、また台北俳句会の中心メンバーともなる。

 彼は政治やイデオロギーとは距離をおき、ありのままの日常に垣間見られる人間の滑稽さや愚かさ、哀しみを浮かび上がらせるところに彼の筆致の特徴があるのだという。ところで、彼の作品の大半は日本語が用いられた。国民党政権下では日本語使用は厳しく禁じられ、日本語作品を発表するあてはない。それにもかかわらず彼が日本語を使い続けたのは、別に日本に愛着があるわけではない。1945年の時点で彼はすでに17歳、青年期になって学んだ中国語はある意味、外国語のようなもので、自分の表現が自然にできる書き言葉が日本語だったからである。発表する当てがなくてもとにかく自分の書きたいものを表現し続けた、その点で彼は明らかに純文学志向であった。

 エピソード的に二人の人物が現われるところに興味を持った。一人目は湯徳章。以前に行ったことのある台南の国立台湾文学館(日本統治期の台南州庁の建物を利用)の前がロータリーになっており、そこが湯徳章紀念公園となっていた。湯徳章のことはよく知らなかったのだが、二・二八事件で処刑された人だという。黄霊芝の作品「董さん」のモデルとなっているのだが、実は父親は日本人だったそうだ。彼は1908年に日本人巡査の父、台湾人の母の息子として生まれた。1915年の西庵来事件で父親は命を落とし、以後、母の手で育てられる。日本留学を経て高等文官試験に合格、台湾に戻って弁護士登録。日本敗戦後、台湾人意識を持っていた彼は台湾に残り、二・二八事件処理委員会のメンバーとして台南の治安維持に尽力したが、逮捕されて処刑された。この湯徳章を通して、国籍と内面的精神性とのズレを描こうとしたのではないかと著者は指摘する。

 もう一人が、黄霊芝の「紫陽花」という作品のモデルとなった陳惠貞こと陳真(→以前にこちらで取り上げた)。彼女は1946年に弱冠14歳で発表した小説「漂浪の子羊」が評判となった。彼女の父親・陳文彬は当時、台湾大学教授として台北にいた。黄霊芝が下宿していた姉婿・陳紹馨(社会学者として著名)も台湾大学教授であり、陳文彬の家とはお隣同士、評判となった美少女・陳惠貞も見かけていたそうだ。

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2011年1月28日 (金)

澤田典子『アテネ民主政──命をかけた八人の政治家』

澤田典子『アテネ民主政──命をかけた八人の政治家』(講談社選書メチエ、2010年)

 アテネ民主政の特徴は、国家的危機に対してリーダーが必要であると同時に、特定の個人に権力が集中しすぎるのを出来るだけ避けようとする傾向も内包していた点にある。リーダーは常に何らかの手段によって市民を説得し続けなければならないという意味で直接民主政であったが、それは弾劾裁判によって時として死刑も含む失脚・落命のリスクと隣り合わせで、不断の緊張状態を強いるものであった。それにもかかわらず、第一人者としての名誉をかけてリーダーたらんとした政治家たち。本書は、時代状況の変遷に応じて彼らがどのように「説得」のあり方を変えてきたのかに着目しながら古代アテネ政治史における群像を描き出す。

 テミストクレスの陶片追放は、むかし世界史の教科書を読んだときには僭主登場の抑止が目的だったと説明されていた記憶がある。ところが近年の研究では、初期アテネ民主政では貴族グループ同士の激しい政治抗争が常態となっていたため、クーデターや集団亡命に伴う血みどろの報復の連鎖を断ち切ってこうした抗争を平和裏に解決するためだったと解するのが有力らしい。

 民主政初期では名門貴族出身の威信やストラテゴス(将軍)としての輝かしい戦功をもとに市民からの支持を得ていた。そうした中、ペリクレスは自身も名門出身ではあるが、民主政進展という社会状況を踏まえて弁論術による合理的・論理的な説得を通して不特定多数の市民に支持を訴える政治手法を導入、また富の市民への分配という手法も用いると同時に、財政上の公私の別を立てて公金の会計検査システムも確立したという。以降、伝統的威信を背景に持たなくとも弁論術でのし上がる政治家たちが現われ始め、彼らはデマゴーグと呼ばれた(この言葉に当時はマイナスの意味はなかったと指摘される)。

 アテネが同盟市戦争で敗北後、国際的地位の低下によって軍事指導者が国政指導の重きに当たる必要性もなくなり(著者はここに直接民主政の真髄としての政治的アマチュアリズムの成熟を指摘する)、かつて頻繁に行なわれていた弾劾裁判も見られなくなったという。さらにマケドニアの圧迫下、今度は対マケドニア政策をどうするかが政治的争点となった際、デモステネスは反マケドニアの愛国主義に向けて弁論術を用いたことで知られる。

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2011年1月27日 (木)

与那原恵『わたぶんぶん──わたしの「料理沖縄物語」』

与那原恵『わたぶんぶん──わたしの「料理沖縄物語」』(西田書店、2010年)

 「わたぶんぶん」とは、沖縄の言葉で、お腹いっぱい、という意味。新宿にあった沖縄料理店「壷屋」の肝っ玉おばあさん、著者の前著『美麗島まで』(文藝春秋、2002年/ちくま文庫、2010年)や『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)にも出てきて非常に印象的な人だったが、本書もやはり彼女から沖縄料理の手ほどきを受けるところから始まる。沖縄料理ではラードが決め手となるという。手料理にまつわる言葉「てぃあんだぁ」とは、つまりお母さんの手のあぶらが料理をおいしくするということらしい。

 基本的には沖縄料理エッセイではあるが、話題はそこにとどまらない。ブラジル移民が形成した沖縄系コミュニティーへの訪問記、戦後も石垣島に残った台湾人コミュニティーなどの話題も取り上げられている。台湾総督府によるサトウキビ栽培推進政策によって土地を失った台湾人が石垣島へ入植してパイナップル栽培を始めたという背景は初めて知った。

 著者は東京生まれだが、まだ少女だった頃に沖縄出身の両親をなくしており、沖縄を身近には感じつつもよくは知らなかった。沖縄への旅はいつしか両親の面影を求める旅となり、さらに足跡をたどって台湾まで旅路は広がり、そうした経緯については『美麗島まで』に記されている。

 母方の祖父にあたる南風原朝保、その弟で画家の南風原朝光、また縁戚にあたる古波蔵保好(本書のサブタイトルにある「料理沖縄物語」は、古波蔵の著作のタイトルからとられている)、旅行や取材で出会って世話になった人々、気の合った友人たち。様々な懐かしい思い出が、これから紹介しようとする沖縄料理の一品一品に触発されたかのように次々と流れ出てくる。両親の面影は、彼と彼女を生んだ沖縄文化へと重なり、さらに「壷屋」のおばあさんをはじめ著者を暖かく迎え入れてくれた人々すべてと、あたかも両親のように、家族のように心情的につながっている手応えを感じていく。本書で描かれているのは単に味覚としてのおいしさではなくて、こうした温もりある人間関係の中だからこそかみしめられた味わいなのだろう。

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堅田剛『明治文化研究会と明治憲法──宮武外骨・尾佐竹猛・吉野作造』

堅田剛『明治文化研究会と明治憲法──宮武外骨・尾佐竹猛・吉野作造』(御茶の水書房、2008年)

 明治文化研究会に参集した吉野作造、尾佐竹猛、宮武外骨、石井研堂、斉藤昌三、木村毅、柳田泉、他の関係者も探れば色々と出てくるだろうが、それぞれに個性が強く、思想史的群像ドラマとして考えると面白そうに思って、何か取っ掛かりはないかと検索していたら見つけた本。著者の基本的な関心は法制史の方にあるらしく私の関心を必ずしも満足させてくれるわけではないが、これはこれで興味深い。

 明治文化研究会の設立意図の中心として吉野の明治憲法制定史への関心をたどり、合わせて宮武外骨・尾佐竹猛にも言及される。本書の軸となるのは『西哲夢物語』である。原本は、漏洩した明治憲法関係文書、特にグナイストの講義録や憲法草案などを、明治憲法制定に批判的な民権派が暴露の意図を持って秘密出版したものらしい。これをある日、吉野作造が古書店で見つけて鳥肌が立ったのが話の発端となる。明治憲法制定史の洗い直しを意図していた吉野だが、以前、伊藤博文と共に憲法制定に深く関わった伊東巳代治に談話を求めたところ拒絶されたという経緯があった。『西哲夢物語』と題された文書は、実は伊東から盗まれて流出したものだったらしく、それが拒絶の理由でもあったろうか。民本主義の旗手としての吉野への反感もあったらしいが、いずれにせよ、憲法制定史の空白を埋める文書として吉野は注目し、明治文化全集憲政編に収録された(校訂は吉野の弟子であった今中次麿)。

 宮武外骨は明治憲法発布に際して、「大日本頓智研法発布式」というパロディを書いて投獄されたが、後に井上毅文書を調べていた尾佐竹猛がその中に宮武を告訴する必要などなかったという井上の意見書があるのを発見、これを受けて宮武は筆禍雪冤祝賀会なるものを1934年に日比谷松本楼で開いたらしい。出席者を挙げると、尾佐竹、石井、斎藤昌三、柳田泉、穂積重遠、伊藤痴遊、小林一三、博報堂の瀬木博尚、江見水蔭、白柳秀湖、篠田鉱造、今村力三郎、国分東厓など。人脈の幅広さが面白い。

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2011年1月25日 (火)

藤原保信『大山郁夫と大正デモクラシー』

藤原保信『大山郁夫と大正デモクラシー』(みすず書房、1989年)

・大正デモクラシーにおいて吉野作造と共に民本主義の旗手として注目を浴び、その後はマルクス主義へと接近した大山郁夫。本書は、彼に思想上の転換を促した論理構造への理解を通して大正デモクラシー期における時代思潮の一側面をうかがおうとする。著者の先輩だからだろうか、早稲田精神なるものも強調されている。

・大山郁夫は1880年、兵庫県赤穂の開業医・福本家に生まれたが、大山家の養子となる。神戸商業学校を経て東京専門学校(在学中に早稲田大学となる)に入学。植村正久の教会で洗礼を受ける。1910~1914年までシカゴ大学(社会学のアルビオン・スモール、公法学のフロイント、政治学のメリアムに師事)、ミュンヘン大学へ留学。帰国後、早稲田大学教授。1919年、長谷川如是閑らと共に雑誌『我等』創刊。1926年、早大教授を辞して労働農民党委員長。以降は本書の対象範囲から外れるが、1930年に代議士当選、労農党解散後は1932年にアメリカへ亡命、ノースウェスタン大学教授。1947年に帰国、早大教授に復職。1950年、社共統一推薦で参議院議員当選。1951年、スターリン平和賞。1955年に他界。

・当初は政治的機会均等主義を主張:民衆の台頭という社会状況を踏まえ、選挙権の拡大と、普通選挙を通して多数を獲得した政党による内閣の組織が必要。民衆を政治の客体から主体へと転換させる。社会的分業としての職業政治家の存在→彼らをチェックする国民の政治意識を高める必要→客観的な啓蒙に学者の役割。政治における精神的・道徳的意義を強調する人格的理想主義→その論拠は「生の欲求」「生の創造」に求められた。

・理想主義の一方で、国民的統合として民本主義を捉える視点も持っていた。また、国際社会では力の論理が厳然として作用していることを認め、マキャベリズム・現実的対応の必要も指摘。デモクラティックな国内体制を取る諸国を単位とした国際協調主義→リベラルな国際協調主義と民族主義は両立する。極端な国家主義、極端な自由主義の両方に反対→自由主義、民主主義を介した国家主義という考え方。

・1919年以降、第一次世界大戦後の社会状況の変化に伴って彼も思想的展開を示し、マルクス主義へと接近し始める。当初は人格的理想主義に基づき「人心の改造」を政治の前提に置いていたが、やがて「制度の改造」が先決だと考え始める。理論と実践との統一として現実政治に乗り出し、労働農民党委員長に就任、総選挙に出馬。科学としての政治学を提唱→社会法則の探究、多元的な集団闘争として政治現象を把握。これらも学問論であると同時に、改造という政治的実践に向けての前提であったとも考えられる。マルクス主義へと接近する一方で、政治を価値的に正当化する人格的理想主義は一貫して持続していたとも指摘される。

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2011年1月24日 (月)

【映画】「ヤコブへの手紙」

「ヤコブへの手紙」

 終身刑で服役していたレイラは恩赦を受け、老牧師ヤコブのもとに身を寄せることになった。毎日届けられる人生相談の手紙を生きがいとするヤコブ、目の見えない彼に変わって手紙を読み上げ、返信を口述筆記するのが彼女の役目だ。しかし、自暴自棄になっているレイラは心を閉ざしたまま。

 ヤコブへ手紙の届かない日が続いた。自分は必要とされていていないんだと落ち込むヤコブ、そんな彼に対して「人生相談だって、結局、あなた自身のためでしょ」とレイラは容赦なく厳しい言葉を浴びせる。彼女は出て行こうとしたが、行き場がない。そんな彼女を見かけたヤコブは「残ってくれたのかい、ありがとう」と変わらずにやさしい。ある日、レイラは郵便配達を呼び、ヤコブの前で手紙を読むふりをするのだが、彼にはお見通し。やがて彼女は、自分自身の「手紙」を語り始める。

 世間から冷たい視線を浴びる元受刑者と、すたれた教会近くに住む盲目の老人。孤独な二人の心情的交流が丁寧に描かれる。ヤコブの純粋な善意、ただしそれも聖人のように美化されるわけではなく、だからこそ二人の交流にある種のリアルさが感じられる。見捨てられたと思い込む彼の不安は、一面において達観しきれないかすかなエゴイズムとも言えるし(レイラは最初そう考えた)、承認欲求が満たされない老境の葛藤が表現されているとも言える。ヤコブのもとに届く手紙には、例えば家庭内暴力に苦しむなど、身近に人間はいても心を許せる人のいない、そうした孤独な人たちからの切実な声がしたためられていた。現代社会に特徴的な孤独、その各人各様のあり方がこの映画の題材になっている。

 取り立てて起伏のあるストーリーではない。だが、教会と牧師館を囲む木立や野原、風景が実に美しく、その中で二人の心情的変化を自ずと浮かび上がらせていく描写は、観ているこちらの心を静かに揺さぶってくる。

【データ】
原題:POSTIA PAPPI JAAKOBILLE
監督:クラウス・ハロ
原案・脚本:ヤーナ・マッコネン
2009年/フィンランド/75分
(2011年1月21日、銀座テアトルシネマにて)

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尤哈尼•伊斯卡卡夫特(Yohani Isqaqavut)《原住民族覺醒與復振》

尤哈尼•伊斯卡卡夫特(Yohani Isqaqavut)《原住民族覺醒與復振》(台北:前衛出版社、2002年)

 先日、台北の順益台湾原住民族博物館へ行ったときにミュージアムショップで購入した本。経歴を見ると、著者はブヌン(布農)族出身の牧師で、台湾原住民の研究や権利向上を求める社会運動に従事、国連先住民会議にも出席、民進党の陳水扁政権では行政院原住民族委員会主任委員(閣僚)や総統府国策顧問なども歴任している。

 台湾の原住民族の人口はすべて合わせて全体の2%程度に過ぎず、その他の漢族系から歴史的に圧倒され、また差別を受け、日本統治期及び国民党政権期それぞれの「国語」政策等によって同化の対象としてアイデンティティの危機にさらされてきた。その後、民主化運動の進展と歩調を合わせるように1980年代から原住民族の社会的権利やアイデンティティの回復を求める動きが活発化、1996年には行政院に原住民族委員会が設置され、原住民族の権利保護は公的に進められることになった。

 台湾の原住民が抱えるアイデンティティの危機、漢族系に比べて低い経済・教育・社会福祉・生活環境など様々な問題点について網羅的に記されている。個々の論点について見開き2ページにまとめたエッセイ的項目を並べる形式なので全体像を見通しやすく、現在の台湾原住民を取り巻く社会問題を概観する取っ掛かりとして参考になる。

 本書に様々な問題が並べられていることからうかがえるように、台湾原住民出身者の社会的・経済的地位はまだまだ十分ではない。同時に関心を引くのは、原住民をはじめ複数のアイデンティティを認める多文化主義の考え方が公的にも漢族系を含めた一般世論としても台湾社会では定着しつつあるらしいことだ。この点では台湾は世界的に見て先進的なのではないかという印象を持っている。最終章では、様々な国際交流の中、中国側から「我々は同じ中国人だ、中国の少数民族政策は台湾より優れているぞ」と言われることを引き合いに出し疑問符をつける。その上で、「台湾是台湾、中国是中国」という一文で結ぶあたり、ナショナル・アイデンティティとしての台湾、エスニック・アイデンティティとしての各原住民という意識構造がうかがえる。著者は民進党支持者であるし、巻末に王育徳全集の広告があるから刊行元も台湾独立派のようだ。

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2011年1月23日 (日)

大正デモクラシーについて何冊か

 大正デモクラシー研究でまず思い浮かぶのは松尾尊兌である。大正デモクラシーという言葉で総括される時代思潮について、松尾の議論では、日露戦争講和反対という形で大衆的な盛り上がりを見せた1905年から始まり、政治・社会・文化の各分野で表れた民主主義的・自由主義的傾向を指し、政治的には普通選挙による政党政治を求める運動となって(吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが理論的根拠)、1918年の原敬内閣の成立から元号では昭和に入るが1932年に五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されて政党政治が終わるまでの期間に及ぶ。それは内に立憲主義であると同時に、始まりが講和反対運動として始まったことに顕著に見られるように外には帝国主義という二面性を持つものとして特徴付けられる。帝国主義的契機を克服できずファシズムに屈服した限界を指摘する一方で、民主主義・自由主義・平和主義といった戦後民主主義の要素はこの時期からすでに胚胎していたとしてそれらを掘り起こそうとする情熱もうかがえる。

 松尾尊兌『大正デモクラシー』(岩波現代文庫、2001年、最初の刊行は岩波書店、1974年)は概説的な叙述の中で、急進的自由主義としての『東洋経済新報』(植松孝昭、三浦銕太郎、片山潜、石橋湛山)、地方の市民政社の動向、茅原華山の雑誌『第三帝国』、「冬の時代」の社会主義、部落解放運動、普通選挙運動、民本主義の朝鮮論など大正デモクラシー期の多面的な動向を取り上げている。様々な人物群像を通して時代の大きな流れを示そうとするのが著者の筆致の特徴でもあり、『大正デモクラシーの群像』(岩波書店・同時代ライブラリー、1990年)ではルソー生誕二百周年式典に集まった面々を皮切りに、夏目漱石の持つ社会批判の一面、三浦銕太郎と石橋湛山の自由主義、憲法論からデモクラシーを根拠付けた美濃部達吉、吉野作造の中国革命論や朝鮮論、佐々木惣一、山本宣治などを、『大正時代の先覚者たち』(岩波書店・同時代ライブラリー、1993年)では内村鑑三と堺利彦、友愛会の鈴木文治、原敬の小伝、行動的アナキストの高尾平兵衛、京大の河上肇と佐々木惣一、瀧川事件に際しての岩波茂雄などが取り上げられる。

 鹿野政直『大正デモクラシーの底流──“土俗”的精神への回帰』(NHKブックス、1973年)は、一般大衆レベルに底流した精神史として大正デモクラシーを捉え返そうとしている。明治の文明開化以来進められてきた「近代化」政策、そうした明治的近代への反措定として登場した大正デモクラシーの近代的理念、いずれに対しても生活実感とのギャップを感じてくすぶっていた“土俗”的精神を汲み取り表現したものとして創唱宗教の大本教、地方における青年団運動、大衆文学として中里介山『大菩薩峠』を取り上げる。

 三谷太一郎『大正デモクラシー論──吉野作造の時代とその後』(東京大学出版会、1974年)は、大正デモクラシーを国家的価値に対する非国家的価値の自立化の傾向が現れたことで国家の再定義が必要となり、国家経営への国民参加の拡大が求められた時代精神として捉える。三谷もやはり日露戦争講和条約反対によって引き起こされた街頭騒擾を起点とし、1926年に至る政治的民主化過程において、政友会と藩閥勢力との政権交代の時代(桂園時代)から護憲三派内閣の登場によって政党間の政権交代の時代への転換、同時に無産政党の形成過程、両者の交錯点は1925年の普通選挙法制定に求められる。こうした背景として指導体制の多元化、国民の政治参加の範囲が徐々に拡大、相対的に言論の自由が拡大といった点を指摘。大正デモクラシーから胚胎した反政党的な「革新勢力」によって侵蝕・解体されつつも、政治的遺産として戦後民主主義につながるという視点はやはり上掲松尾の議論と同様である。こうした見通しを踏まえて、直接行動論によって「政治」=憲政や政党を否定した大正社会主義の捉えた「政治」観の変容、ウィルソン主義の影響に着目して大正デモクラシーとアメリカとの関係、思想家としての吉野作造(人間的現実を歴史の相の下に捉える歴史主義、相対主義。民本主義を踏まえて、対外的に応用した中国革命論や朝鮮論、日本史の中で位置付けようとした明治文化研究)などの論点が取り上げられる。他に、国際環境変動に対する日本の知識人の認識、『木戸幸一日記』についての論考も収録されている。

 伊藤之雄『大正デモクラシーと政党政治』(山川出版社、1987年)は、原敬内閣成立から犬養毅内閣で政党政治が終焉するまでの期間における政治過程について史料を踏まえながら実証的に分析する。当時における政策課題としての社会運動対策、経済問題、対中関係を主とした外交政策に注目しながら、政党と官僚系勢力もしくは政党同士の権力抗争の描写が中心となるが、同時に第二部では政党の基盤となっている地方政治の変動も考察し、個々の記述は微細にわたる一方で、中央・地方合わせて大正デモクラシー期に展開した政党政治の動態を大きく描き出そうとしている。

 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊──内政と外交』(東京大学出版会、1992年)は、大正デモクラシー体制を国内的には政党内閣制、対外的にはワシントン体制とした上で1920~30年代を一体的に把握、満州事変、五・一五事件の衝撃はこの体制の終わりだったのではなく、崩壊過程の始まりであったと位置付ける。大正デモクラシー体制は当時の世界の中では相対的に安定した体制であり、従って内発的要因では崩壊しにくかった。むしろ外部の危機がもたらされたことで内政システムのバランスが変化、なし崩し的に崩壊が始まったと考える。すなわち、満州事変の衝撃が国内政治体制の深層へと構造化していくプロセス、及びそれを阻止しようとする試みとのせめぎ合いとして軍部・政府それぞれの内部における多元的力学やソ連要因に注目しながら分析が進められる。

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2011年1月22日 (土)

ジョン・J・ミアシャイマー『リーダーはなぜウソをつくのか?:国際政治学からみた「ウソ」の真実』

John J. Mearsheimer, Why Leaders Lie: The Truth about Lying in International Politics, Oxford University Press, 2011

 著者は国際政治学でネオリアリズムの理論家として知られている。本書が着目するのは対外交渉における政治的ツールとしてのウソであって、そこからは倫理的な意味合いは排除され、ウソを使った結果として政治目標にプラスとなるか、マイナスとなるのかを判断基準として議論は進められる。

 本書の要点は、一般的に政治指導者が対外交渉におけるカウンターパートナーに対してウソをつくケースは意外と少ない一方で、対外政策を進めるにあたっての必要から自国民に対してウソをつくケースが多いという指摘にある。

 国内政治と国際政治との相違を端的に言うなら、前者が一定のヒエラルキー的秩序の中で行われるのに対し、後者はさらに上位の審級がない、従ってアナーキーなホッブズ的世界観が通用するところにある。もちろん、国際関係認識のあり方は論者の立場によって様々であるが、著者はリアリズムの理論家なのでこれが前提とされている。アナーキーな世界の中で自己の生き残りを図るには暴力、策略、欺瞞、ありとあらゆる手段の行使が可能である。そうであるなら、交渉にあたってウソも頻繁に使われて当然のはずだが、著者が実際に国際政治史の事例を調べてみても、手段としてウソを用いた交渉は意外に少ないという。この場合のウソ(lies)とは事実とは明白に異なるストーリーをでっち上げることで、誇張(spinning)や情報の秘匿(concealing)とは区別される。もちろん、具体例は一定数あるにしても、実際の対外交渉について理論的一般化ができるほどには十分なサンプルがないということである。アナーキーな世界の中では互いに猜疑心を抱いているのでウソをついても効果があがらないこと、コストの割りに成果が乏しいことなどに理由が求められる。

 本書で項目として挙げられている通常の対外交渉におけるウソ、ナショナリスト神話(nationalist mythology、例えば、イスラエルは建国に際してのパレスチナ人への蛮行をナショナル・ヒストリーの構築によって無視、正当化した)、リベラルなウソ(liberal lies、つまりリベラルな規範を口実に自国の野心的行動を正当化、「リアリストとして振舞いながらリベラルに語る」)などは政治史的にみて珍しいことではない。本書がとりわけ問題意識の重点を置くのは、「政策の隠蔽」(covering up)と「恐怖の売り込み」(fearmongering)である。

 「政策の隠蔽」は、第一に戦時下にあって政策失敗の露呈が国益を損なうことを回避するため、第二に民主主義国家にあって国民には不評だが将来的に必要な政策を採用するために行われる。こうした場合のウソは時として必要なこともあるが、合理的な政治運営ができなくなってしまうリスクがある。

 「恐怖の売り込み」とは、指導者が国家の安全保障に重大な危機が迫っていると認識しているのに対して国民はそう思っていないとき、国民を政治目標に向けて動員するため危機感を意図的に煽ることである。著者はリアリズムの立場からブッシュ政権によるイラク戦争を批判したことで知られているが、サダム・フセインの核開発施設はないという主張は意外と正しかったこと、ブッシュ政権が戦争開始のきっかけをつくるためアメリカ国民にウソをついたことは、本書の議論に適合的な事例として示されている。

 「政策の隠蔽」にせよ、「恐怖の売り込み」にせよ、将来的に必要な政策や安全保障上の危機に対して国民が無関心であるというギャップを目の当たりにした政治指導者が政策遂行の正当性を確信してついたウソである。これを必要悪として許容するか、愚民観だとして批判するか、判断は難しい。もちろん、ブッシュ政権のように指導者自身の認識が間違っていることもあるし、こうした形でウソが露見した場合には政権基盤は崩壊する。いずれにせよ、民主主義国家における政策決定上のアポリアをウソという切り口から取り上げた議論として興味深い。

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2011年1月21日 (金)

王甫昌《當代台灣社會的族群想像》

王甫昌《當代台灣社會的族群想像》(台北:群学出版、2003年)

 台湾の政治的・社会的な変動力学を考察する上でどうしても避けては通れないのが「族群」という現象である。本書は戦後台湾社会においてこの「族群」意識が芽生えてきた社会的条件の検討を通して、いわゆる「四大族群」それぞれの成立経緯を整理してくれる。「族群」問題の格好な手引きとなる本だ。

 「族群」(ethnic group)の第一の条件は「我々」と「他者」との区別であり、その際には来歴・文化的共通性が指標となる。ただし、その共通性とは本質主義的に自明なものというわけではなく、歴史的・社会的・政治的条件に応じて選択的に構築された側面が強い。その点に本書は着目して「族群想像」(ethnic imagination)という表現を用いている。とりわけ自分たちは社会的に不公平な立場を強いられているという弱勢意識を抱いているときに集団行動の必要性が自覚される。その際に集団的凝集力を強める「神話」として「族群想像」は作用するわけだが、自分たちの権利の公的認知を求める動きとして表れる点で現代的性格の強いことが指摘される。

 台湾の「四大族群」は重層的な構造となっており、第一に漢人と南島語族系の原住民、第二に漢人の中でも本省人と外省人、第三に本省人の中でも閩南人と客家人の区別がある。それぞれの内部でも方言的・習俗的差異があって決して一つにまとまっているわけではない。特に原住民に関しては、本書執筆の時点では十族とされているが、アイデンティティ・ポリティクスの進展により、さらに「族群」としての認知を求める動きがあって増加傾向にあり、数字は流動的だ。

 それぞれの「族群意識」を成立させる種族的・文化的条件は過去に遡ることができるにしても、政治意識としての自覚が芽生えたのは実はそれほど古いことではない。国民政府の遷台、とりわけ二・二八事件をはじめとする恐怖政治によって、台湾在来の人々には外省人から抑圧されているという思いから本省人アイデンティティが生まれた(省籍矛盾)。そして1970年代以降、台湾内外の情勢変化に応じて民主化運動が本格化、ここから台湾民族主義の言説が表面化し始める。

 漢族優位の社会経済システムの中で原住民は最底辺に置かれていたが、1980年代になって大学に学ぶ原住民青年たちを中心に自覚的な動きが始まり、これが民主化運動と結び付く中で原住民アイデンティティの回復を目指す運動が本格化した。

 他方で、台湾民族主義言説が人口的に多数派の閩南人中心の動きであったため、同じ本省人でも少数派として飲み込まれかねない危機意識を募らせた客家人は閩南人への対抗意識から客家アイデンティティの主張を強める。これは1987年の「客家権益促進会」結成が起点とされる。

 外省人は中国各地から逃げ込んできた人々の総称で、出身地も方言もばらばらであったが、国民党政権との結びつきによって本省人とは異なるグループとして一体感が形成された。外省人もまた客家人と同様に、閩南人中心の台湾民族主義言説によって自分たちの拠り所である中華民族主義が消え去ってしまうという危機意識を抱き始め、1990年代に国民党主流派や民進党に反対して国民党を離党した新党の結成が一つのメルクマールとなる。この時点では外省人の方が閩南人に対して弱勢意識を持ったと言える。

 「族群」間の抗争は不毛な泥仕合に陥ってしまうおそれがある一方で、権利を主張する社会運動の手段として一定の有効性があることも指摘される。以上の「四大族群」の成立経緯からは、不平等意識、弱勢意識をきっかけとした対抗言説が連鎖的に相互反応を示しながら「族群意識」が展開してきたことが見て取れる。これはそれぞれの社会的権利やアイデンティティの回復・維持を目指して表面化した動きなのだから、「族群」としての主義主張の内容如何に目を奪われるのではなく、こうした社会的コンテクストそのものにどのような問題点が伏在しているのかを改めて問い直す必要があるのだろう。

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2011年1月20日 (木)

嵯峨隆『近代中国の革命幻想──劉師培の思想と生涯』

嵯峨隆『近代中国の革命幻想──劉師培の思想と生涯』研文出版、1996年

・民族主義、アナキズム、帝政支持論とそれぞれ異質な政治的立場を経た劉師培の名前は以前から気になっていたので手に取った。本書は彼の生涯をたどりながら、彼の思想の展開とそれを内在的に支えていた伝統的価値観による独自の思想解釈のあり方とを把握しようと試みる。
・劉師培は1884年、揚州の生まれ。幼少から神童の誉れ高く、社会問題にも関心。科挙に挫折して失意のとき、章炳麟の招きで1907年に東京へ行き、中国革命同盟会に加入。
・反帝国主義と排満革命との結び付き。当初、ユートピア社会を目指すアナキズムは否定しつつ、テロリズムは礼讃(主義と手段の分離)。
・中国思想史における『春秋』の解釈の違い:今文派=『公羊伝』→異民族との融和を前提→立憲主義→改良を目指した(康有為、梁啓超など)のに対して、古文派=『左氏伝』→漢民族と異民族との差異を強調→民族主義→革命(章炳麟など)。劉師培は後者であり、中国の伝統的学問を踏まえて排満民族主義の主張を展開。
・東京では、『民報』『天義』『衡報』などで論説を次々と発表。この頃は、排満民族主義とアナキズムとが並存した状況だったが、同盟会内部の権力闘争の渦中にあってアナキズムの方を選択的に突出させる。
・封建的桎梏からの解放、同時に「群」としての中国が生き残らなければならない→個人主義ではなく、合群主義(集団主義)的アナキズム、クロポトキンの連合主義を重視。清末の課題を反映した議論だったと指摘される。
・アナキズム思想受容において、中国の伝統思想の中から革命的要素とみなしたものを再構成しながら解釈。伝統思想の中から理想社会を見出し、それを未来の無権力社会へと再現させようという発想→文化的保守主義と政治的急進主義との結び付き。
・社会主義講習会を張継と共に主宰→講師には日本人の幸徳秋水、堺利彦、山川均、大杉栄、宮崎民蔵、竹内善朔、守田有秋、中国人の章炳麟、景梅九など。幸徳とは北一輝を介して知り合った可能性。
・アジア各国の亡命者と共に亜洲和親会→中国、日本、インド、フィリピン、ベトナムの革命家(確かファン・ボイ・チャウもいたはず)、ただし朝鮮人は出席せず。堺利彦、山川均、大杉栄、森近運平、守田有秋、竹内善朔、汪精衛など。
・「亜洲現勢論」→弱小民族の独立→政府を廃止し、人民大同の思想、連邦主義。日本の侵略主義への批判。
・大杉栄からエスペラントを習う。
・1908年に帰国。同時に転向して清朝帝政派のスパイとなる→金銭問題や人間関係的な不和(妻の問題、章炳麟との仲違い)、清朝側とのもともとの人脈(端方など)、文化的価値観の持続。
・辛亥革命時に逮捕されたが、劉師培の考証学者としての深い学識を惜しんだ章炳麟・蔡元培らが「彼を処刑したら中国の学術界にとって一大損失だ」とアピールして救出、釈放。彼は学問に専念するつもりだったが、やがて閻錫山の顧問となり、さらに袁世凱のもとに送り込まれ、帝政復活支持の言論活動→楊度、厳復らと共に籌安会の発起人となる。この時点ではアナキズムを社会的混乱の思想と捉え、伝統思想を君主制復活と中央集権的政治体制確立の論拠として援用する。
・袁世凱の死後は没落、しかし彼の学識を惜しんだ蔡元培の招聘により北京大学で中国文学担当教授となる。1919年、五四運動後の11月に結核で病死。享年35歳。
・劉師培が目の当たりにしたのは「革命」という幻想、しかし唯一幻ではなかったのは中国伝統の歴史であり、学問であったのだろうと総括される。

・劉師培という人の思想的変遷は、自国の伝統思想と海外からの近代思想とが出会ったときにどのような形で継受が試みられたのかという葛藤の一例として興味深い。彼の場合、第一に内面において深い学殖に支えられた伝統的価値が確固としてあるのが大前提で、第二に外面において急進主義から保守主義まで政治的言説が二転三転していく、その都度内面における伝統思想が参照点として求められたという構図がうかがえる。言い換えれば、現実局面での政治的立場の変化に応じて、後知恵的に正当化するために伝統的教養をもってきたという印象があり、その点では意外と魅力は乏しい。外来思想は代替可能な表皮であり、根っこというか碇というか、そうした重しとしての伝統思想との接続がうまくいくかどうかという問題が彼には端的に表れていると言える。

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2011年1月18日 (火)

張文環『地に這うもの』

張文環『地に這うもの』(現代文化社、1975年)

 舞台は台湾南部・嘉義に近い山村。日本の植民地支配下、やがて皇民化政策が強められていく時代。村の顔役として台湾土着社会と統治者側との接点にあって改姓名を選択した家族・陳家をめぐる人々を中心に、彼らの暮らした生活光景と各人各様の心理的葛藤とを描いた大河小説的構成の小説である。なお、本書は日本語で書かれている。

 かつて台湾社会には“媳婦仔”と呼ばれる習慣があった。息子の嫁にすることを前提によそから幼女をもらい受けるのだが、幼い頃から事実上の労働力としてこき使われることにもなった。本書の主人公の一人である陳啓敏が駆け落ち同然に一緒になった秀英及びその連れ子の阿蘭の二人の姿からは、そうした陋習の束縛から女性としての自立を目指す葛藤が描かれている。当時の台湾における日常生活の中で “伝統”と“近代”との相克が最も明瞭な形で表れていたテーマだったと言えるだろうか。

 “近代”のもう一つの問題はコロニアリズムであり、それは日常生活レベルでは言語の問題で直面した。公学校を中心とした「国語」(=日本語)教育、「国語」常用家庭の顕彰、改姓名、さらに一連の皇民化政策。日本人になろうとしてもなれず、かと言って台湾人にも戻れず、宙ぶらりんの葛藤。例えば、次のような一文があった。「台湾はいたるところで、言葉上のまちがいが、日本人と台湾人のあいだのギャップになっていることが非常に多い。そのうえ台湾人は日本語があまり上達しない反面、繊細な感情をあらわす台湾語もやがてなくなるであろう。いつまでも蜜柑皮式な日本語をつかいながら、台湾語の語彙が失われつつある」(120ページ)。蜜柑皮式な日本語とは本書中のエピソードで、日本人に向かって「蜜柑の皮をむいてください」という意味のことを伝えるのに「蜜柑、皮、サヨナラ」とたどたどしい言葉遣いを指す。また、陳啓敏の義弟・陳武章はエリートとなり、敢えて改姓名を選んだため兄の陳啓敏まで日本名を名乗らざるを得なくなってしまったが、彼は日本語が苦手なのでいつもハラハラして落ち着かず、精神的負担が大きかった。植民地における統治階級には近づくものの、それにはなりきれず、同時に土着感覚からも切り離されてしまった不安感が吐露される。

 張文環(1909~1978年)は日本統治期台湾における代表的な作家の一人で、重厚なリアリズムが作風の特徴とされる。嘉義に生まれ、公学校卒業後は日本へ渡り、東洋大学へ入学。東京で台湾人の民族主義・社会主義の思潮に触れ、王白淵・巫永福らと共に台湾芸術研究会を組織、文学雑誌『フォルモサ』を刊行。1938年に台湾へ戻り、台湾映画株式会社に入社、かたわら文筆活動も続けた。西川満を中心とした雑誌『文藝台湾』に対抗する形で雑誌『台湾文学』を立ち上げる。1942年には西川満、浜田隼雄、龍瑛宗と共に第一回大東亜文学者大会に参加、1943年には皇民奉公会第一回台湾文学賞を受賞。戦後は創作活動をやめて実業に専念し、彰化銀行などに務めた後、日月潭観光大飯店を経営。本書『地に這うもの』は絶筆後30年を経て刊行された。

 彼の経歴には大東亜文学者大会、皇民奉公会などとの関連も見られるが、それは時代状況の中で逃れられないものであった。彼の作品を読めば、自身の自然な感情表現が植民地的状況の中で難しくなっている葛藤を、他ならぬ押しつけられた外国語=「国語」=日本語で表現せざるを得ないという二重の困難がうかがえる。さらに彼を作家として苦しめたのは、戦後、新たに「国語」となった中国語の問題である。当時、台湾の作家は書き言葉としての日本語から中国語への転換に随分苦労したと言われる。台湾語は書き言葉として洗練されていなかったし、急激な中国語化政策には台湾人における中華民族イデンティティ確立という政治的意図もあった。その上、張文環は1947年の二・二八事件で逃亡生活せざるを得なくなったことがあり、そうした体験から国民党政権と共にやって来た北京語を抑圧の象徴とみなして拒絶したとも指摘される(周婉窈《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年→こちら)。日本語・中国語、いずれにしても素直に自身の感情表現をしていける言語的手段を獲得すること自体が難しかった悲劇。彼が日本語で創作を行なった裏にはそうした心情表現と使用言語との葛藤が常につきまとっていたことを見逃してはならないし、それは彼に限らず同世代の多くの台湾人についても言えることであろう。

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2011年1月16日 (日)

松本三之介『近世日本の思想像──歴史的考察』『明治思想における伝統と近代』『明治精神の構造』『明治思想史──近代国家の創設から個の覚醒まで』

 明治思想史をもう一度頭の中で整理しなおしたいと思い、以前読んだのも含めて何冊か松本三之介の本に今日一日でざっと目を通した。江戸期思想からの流れの中で伝統思想の近代思想に対する接合、対外危機を契機に国家中心の政治傾向→社会的にある程度まで成熟して富国強兵路線が国家目標として機能しなくなってきた→個の覚醒という流れ、政府主導による上からの欧化路線の一方で思想と現実生活との乖離、以上の問題点について当時の人々はどのように思想課題として取り組もうとしたのかがポイントになるだろう。

松本三之介『近世日本の思想像──歴史的考察』(研文出版、1984年)
「近世における歴史叙述とその思想」
・安積澹泊『大日本史賛藪』→歴史に「勢」や「機」を見出し、儒教的な名分論など自己の主観的意図ではどうにもならない客観的な事実の力を認める、「人心」「衆心」「民心」などに歴史を動かす力。
・伊達千広『大勢三転考』→客観的歴史叙述、歴史的必然(「止事をえぬ理」)を見出す。

「天賦人権論と天の観念──思想史的整理のためのひとつの試み」
・明治啓蒙思想において個人の自由権は伝統的な観念としての「天意」の読み替え→「天」の観念の二つの傾向:①自然的欲求そのものは非社会的→道徳的抑制が条件。②両者の対置論はとらず、自己中心性も肯定→国家すら奪えない固有の自然的権利。
・「生」を「天」へと結び付ける発想の系譜を、伊藤仁斎、安藤昌益などにさかのぼって考察。

「幕末国学の思想史的意義──主として政治思想の側面について」
・幕末国学における具体的な日常的生活倫理への傾斜→被治者論として庶民生活内部まで入り込む。

「近代思想の萌芽」
・政治を道徳への従属性から解放した荻生徂徠→政治の理性(丸山眞男の指摘)
・詩歌の本質を人間の感情表現に求めた国学→文学という私的領域の自立化。生身の人間像の躍動を認める「事実」への志向、主情主義から儒教的規範を攻撃。
・徳川吉宗の実学奨励→洋学の勃興。
・こうした趨勢の中で封建的価値優位性を批判的に見る態度が芽生える。
・佐久間象山、吉田松陰のリアリズム。横井小楠の「公共の政」。明六社の近代性。

「安藤昌益──その思想像の構造と特質」
「広瀬淡窓の哲学──状況の動態化と思想の対応」:経世論では荻生徂徠と共通する点が多い一方で、正しいあり方としての自愛心を肯定→明治期天賦人権論へとつながり得た。
「勝海舟における政治的思考の特質」
「思想史の方法としての文学──小林秀雄著『本居宣長』をめぐって」

松本三之介『明治思想における伝統と近代』(東京大学出版会、1996年)
「天皇制国家像の一断面──若干の思想史的整理について」
・政治的機能の他の社会的機能に対する価値的優越→「個人」「私」<「国家」「公」とする規範意識が広く国民に浸透→天皇制国家において権力悪の発想、権力の抑制、国民の政治参加などの近代国家固有の問題意識が希薄。

「家族国家観の構造と特質」
・君臣=父子観念→治者の仁政原理と同時に、臣民の随順倫理として援用。政治的観念を共同体的道徳によって補強。

「新しい学問の形成と知識人──阪谷素・中村敬宇・福沢諭吉を中心に」
・西欧文明導入に際して、有形/物質の世界に対する無形/精神の世界を重視する点では共通。ただし、後者について阪谷が儒教的理、中村が造物主への畏敬を強調するのに対して、福沢は西洋の文明、「日用に近き実学」へと転換、形而上学的にも西欧化・世俗化を推進。

「福沢諭吉の政治観──国家・政府・国民について」
「福沢諭吉における「公」と「私」──「瘠我慢の説」を手がかりに」
・精神の働きが「古習の惑溺」から免れて自由に発揮しうるには既存の権威や価値に対して己れ自身の精神に忠実であろうとする勇気が必要。「独立自尊」の精神の担い手として士族の気風に着目。

「中江兆民における伝統と近代──その思想構築と儒学の役割」
・思想と生活の乖離という日本思想史における課題を念頭に置きながら、理論と実践との結合に向けて細かい配慮をしていた人物として兆民を取り上げる。すなわち、欧米近代思想を学びながら、同時にいかに伝統的な東洋の儒学思想を読み替え接合させながら思想の血肉かを図ろうとしたか。

「政教社──人と思想」→志賀重昂、杉浦重剛、陸羯南、福本日南、長沢別天、内藤湖南。
「陸羯南における「国家」と「社会」」
・政治的領野としての「国家」に対して「社会」を弁別→共同生活の中で歴史的に形成された風俗・習慣・道徳感情・文芸などの有機的人間関係を指し(天皇も含まれる)、志賀重昂の言う「国粋=ナショナリティ」概念と共通する。→羯南の立憲政治論はこうした国家と社会との二元論の上で構築、「社会」によって「国家」は基礎付けられていると認識。

松本三之介『明治精神の構造』(岩波書店・同時代ライブラリー、1993年)
・代表的な人物を取り上げながらコンパクトにまとめた明治思想史概論。
・明治期精神の特徴→①国家的精神、②進取の精神、③武士的精神。
・福沢諭吉:文明の精神、科学的思考、明治ナショナリスト→「一身独立して一国独立す」。
・民権思想のナショナリズムには国家の対外的独立、国家権力との一体性、国民的連帯の意識。植木枝盛の思想には、ナショナリスティックな側面とリベラリスティックな側面とが未整理に共存。
・中江兆民:彼の民権論の深化は、現実へと柔軟に対応できる政治的思考の深まり。立憲政治論→国民不在で制定された憲法を国民の手に取り戻すために国会。
・明治期における政治への批判として、徳富蘇峰の平民主義、政教社グループの国粋主義、内村鑑三の愛国と平和主義、平民社の社会主義。
・日露戦争講和反対の大衆運動、煩悶青年の登場、富国強兵という国是が機能しなくなった時代→明治の終焉。

松本三之介『明治思想史──近代国家の創設から個の覚醒まで』(新曜社、1996年)
・対外危機→幕藩体制の割拠性から挙国意識。維新をどのように位置付けるかという議論→新しい国家構想の模索。明六社など啓蒙思想家たちの議論。自由民権運動→国民の政治参加を媒介とした国民的一体感の醸成という意図、下からのナショナリズム。憲法制定の思想像。明治憲法体制を内面において支える役割として教育勅語(1890年)→新しい政治的人間像を提示。上からの欧化路線に対する批判→徳富蘇峰の平民主義は下からの欧化主義、政教社グループは国粋重視の批判。政治優位の風潮の中、政治社会を担う「平民」一人ひとりの日常的生活利益へと議論の重点の推移。日清戦争後、社会問題の顕在化。幸徳秋水たち初期社会主義の問題意識の根底には、維新以来の文明開化のひずみへの批判。また、個人的意識の台頭→国家と個人との乖離という傾向。高山樗牛の日本主義には「個」の満たされざる内面を支えるものとして「国家」を捉え、個人の精神的渇きを満たすための国家という発想。苦悩する個→藤村操の自殺。天皇機関説をめぐる上杉・美濃部の論争→富国強兵を支えてきた国家主義的個別主義と、開かれた世界へ向けた普遍主義・立憲主義という二つの潮流の衝突として把握。

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三澤真美恵『「帝国」と「祖国」のはざま──植民地期台湾映画人の交渉と越境』

三澤真美恵『「帝国」と「祖国」のはざま──植民地期台湾映画人の交渉と越境』(岩波書店、2010年)

 リュミエール兄弟によって商業的上映が行なわれた1895年を映画史の起点とするなら、台湾における映画受容は日本による植民地支配とほぼ同時に始まったと言える。本書は、この映画というある種の近代性を表象するメディアを台湾の人々が主体的に摂取して自らを語る手段としたくとも、日本による植民地的抑圧性と中国において国民国家的枠組みを前提とした台湾の周縁化というそれぞれの政治性によって翻弄されてしまった葛藤を主題としている。

 1920年代後半から台湾へ大陸の中国映画輸入が始まり、それが人気を博していることに台湾総督府は警戒を強めていた。当時の台湾人が総督府による映画統制をもちろん快く受け入れたわけではない。ただし、映画のコンテンツよりも、映画という仕掛けそのものに物珍しい魅力があって、抗日意識からそれを排除するよりも、娯楽として楽しむ状況があったという。従って、「中国映画の歓迎」と「日本映画の排斥」とが必ずしもワンセットとして表面化したわけではなかった。仮に台湾人自身が映画製作に乗り出そうとしても、「抵抗」を前面に出すと弾圧されるし、「交渉」によって妥協すれば「抵抗」の契機は薄れて観客への訴求力が弱まってしまう。ところで、台湾製映画がなかったため日本・中国・欧米など輸入ものが上映されることになるが、一般の台湾人には言葉が分からない。そのため台湾人弁士による解説が入るわけだが、そこには即興の風刺も交えられ、娯楽受容の場でささやかながらも民族的主張が表れることになり、そうした形で映画の臨場的土着化が行なわれたという指摘が興味深い。

 台湾で映画づくりが無理ならば外に行ってつくるしかない。本書では大陸へと越境した劉吶鷗(1905~1940年)と何非光(1913~1997年)という二人の台湾出身映画人に注目される。

 劉吶鷗については田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年)でも取り上げられていたが、新感覚派の作家でもあり、日本留学を経て上海に渡った。彼にはとにかく映画をつくりたいという情熱こそあったが、祖国意識=ナショナリズムなどの政治意識は希薄であった。映画製作の手段と割り切って国民党にも日本軍にも接近していたため漢奸とみなされ、1940年に暗殺されてしまう。「越境先での中国のナショナリズム」と、彼を追いかけて「越境してきた日本の帝国主義」とが激突するはざまにあってつぶされてしまった彼の宿命を本書は浮彫りにするが、そうした悲劇は戦後、タブーとなった。

 他方、劉吶鷗とは対照的に祖国意識=ナショナリズムを胸に熱く秘めて大陸に渡った何非光は「抗日」映画の製作に邁進したが、彼もまた悲劇に見舞われた。台湾出身者が「日本のスパイ」とみなされた大陸において彼もその偏見から免れず反右派闘争、文化大革命と続く中で不遇を余儀なくされた。同時に台湾へと逃れた中華民国では、彼は共産主義中国に残留した裏切り者とみなされた。つまり、共産党と国民党というかつての抗日勢力が分裂した後も、それぞれの正統的革命史観から外れた者として戦後はタブー視されたことになる。彼の映画語法にうかがえる「敵である彼ら(日本人)にも顔がある」という語り方が「日本情結」(日本コンプレックス)と解釈されたのではないかとも指摘される。

 台湾・中国・日本の三角関係の中、越境的な軌跡をたどった彼らのような台湾人は極めて難しいアイデンティティの矛盾に直面した。それは当時の政治状況だけでなく、共産党・国民党ぞれぞれの正統的革命史観、また日本におけるかつての植民地支配の捉え方など、戦後における歴史叙述のあり方そのものとも絡まりあって、国民国家的枠組みには収まらない彼らの存在はタブー視されざるを得なくなった。そのように二重に錯綜した困難に、本書は映画というテーマを通して果敢に切り込んでいく。博士論文をもとにした学術書という性格から必ずしも読みやすい本ではないが、丁寧に読み進めるなら、まさにその複雑さそのものが圧倒的に迫ってきて、さらなる関心が触発されてくる。

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2011年1月15日 (土)

【映画】「海炭市叙景」

「海炭市叙景」

 佐藤泰志という作家のことを私は知らなかったが、不遇のうちに二十年ほど前に自殺してしまった人で、根強いファンもいるそうだ。未完になった彼の連作短編集をもとにしたオムニバス的な群像劇。海炭市とは彼の郷里・函館をイメージした架空の都市である。函館を観光地イメージとは違う角度で撮ってみるというのもこの企画の趣旨の一つらしい。

 造船所の閉鎖に伴い解雇された青年とその妹が一緒に初日の出を見に行くシーンから始まる。再開発で立ち退きを迫られている猫好きの老婆。水商売に出る妻への疑惑を募らせるプラネタリウムの寡黙な映写技師。ガス店経営の二代目社長は再婚したばかりだが浮気をしており、妻は腹いせに彼の息子をいじめている。仕事で郷里に戻ってきたが、父との折り合いが悪くて実家には戻らない男性。

 それぞれ、人生の歯車がどこかずれてしまった不全感を抱えながら戸惑う人々の姿が描かれていく。雪も降り積もる年の瀬、クリスマスから新年に向けての華やぎには縁遠い彼らのたたずまいは、寒々とした気候の中でいっそう際だつ。ただし、やるせないという印象だけを受けるわけではない。どうにもならないみじめさの中でもがくにしても、それでもやはりひたむきにもがくしかない。ストーリーそのものに激しさはなくとも、心中の葛藤は表情に自然と表れる。冷たさで張りつめた空気を如実に伝えるような映像には同時に緊張感があって、それが人々の心象風景と重なり合って見えてくるとき、パセティックな感傷も静かに浮かび上がってくる。それがまた哀しくも美しく感じられてくる。

【データ】
監督:熊切和嘉
原作:佐藤泰志
音楽:ジム・オルーク
出演:谷村美月、竹原ピストル、中里あき、小林薫、南果歩、加瀬亮、三浦誠己、山中崇、ほか
2010年/152分
(2011年1月15日、渋谷、ユーロスペースにて)

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2011年1月13日 (木)

前田愛『成島柳北』

前田愛『成島柳北』(朝日選書、1990年)

 成島柳北は1837(天保8)年、江戸は浅草に生まれ、儒家の家柄である成島家の養子となった。若くして将軍侍講を務めたが、率直に発言する性格であり、狂歌で幕閣を批判したりしたため解任された。早くから洋学を積極的に学び、江戸幕府瓦解直前の時期には外国奉行、会計副総裁に就任。江戸開城後は32歳にして隠居、以後、「天地間無用の人」と自ら称して文人として生きる。東本願寺法主の随行員として欧米旅行にも出かけた。1874(明治7)年には「朝野新聞」に入り、今風に言うならジャーナリストとなるが、明治新政府の讒謗律・新聞紙条例を批判したかどで4ヶ月間入獄させられることもあった。1884(明治17)年、48歳で病没。

 本書は、若くして幕閣枢要の座に就きつつも、維新後は典雅な詩文人として在野に生きた成島柳北の生涯をたどった評伝である。併せて明治という時代を見つめた彼の視点のありかをうかがい、例えばホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を引き合いに出しながら、薩長の田舎武士と対置された彼の江戸情緒濃厚なスタイルに闊達な自由の精神を見出す。

 本書でも初めに引用される「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」とは福澤諭吉の言であるが、江戸時代から明治時代へと急激な社会的変化を目の当たりにした世代にとって、これは実感こもる共通体験をいみじくも言い当てているのかもしれない。時代をうまく泳ぎ渡った者もいたろうが、それ以上に多くの者は絶え間なく押し寄せる新しい時代の波間に漂い、流されるままただ茫然と追随していくよりほかに術はなかったであろう。そうした中、旧幕時代への懐旧は退嬰的なアナクロニズムに陥るかと言えば、必ずしもそうではない。洗練された眼識さえあれば、むしろ新しい時代のひずみを見据える文明批評の鋭利な眼差しともなり得た。成島柳北はまさしくそうした一人であった。柳北の系譜は、やはり江戸趣味に韜晦しながら一個の反時代的精神として生きようとした永井荷風へとつながっていく。

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2011年1月12日 (水)

《光影詩人──李屏賓》

《光影詩人──李屏賓》(台北:田園城市文化、2009年)

 現在公開中の映画、村上春樹原作でトラン・アン・ユン監督の「ノルウェイの森」を観に行ったが、私にとって一番のお目当ては撮影監督・李屏賓(Mark Lee Ping-Bing)による映像だったと言っても言い過ぎではない。例えば、侯孝賢監督「百年恋歌」「珈琲時光」、トラン・アン・ユン監督「夏至」、是枝裕和監督「空気人形」──思わずため息が出るほど本当に美しい映像だなあと感じた映画がいくつかあり、エンドクレジットを眺めていて、それぞれ監督は違っても撮影:李屏賓という名前が共通して出てくることに気づいたのは、それほど前のことでもなかった。自覚的に彼の映像を観に行こうと考えたのは今回が初めてだ。

 今や台湾を代表する撮影監督、李屏賓。掲題書は、彼が撮影の合間に撮った作品を集めた写真集であり、先日、台北の書店の美術書コーナーで面陳されているのを見かけて購入した。

 本人の風貌を見ると、まるで山賊か鬼軍曹かといった感じのいかつい強面だ。この人が、あのカラフルだが落ち着きがあり、繊細で叙情的に美しい映像をつくっているのかと思うと、正直、あまりのギャップに驚いた(序文を寄せている映画監督何人かもそういう趣旨のコメントをしている)。巻末には彼へのインタビューが収録されており、生い立ちからこれまで関わった映画作品について語っている。パーソナリティーとしては風貌通りに一徹な職人肌という印象も受ける。水墨画に関心があるというのが意外だった。とりわけ李可染の山水画が好きだという。李屏賓の奇を衒わないのに印象が強く迫ってくる風景の撮り方は、山水画の落ち着き払った美しさと相通ずるものがあると言えるだろうか。

 彼は侯孝賢をはじめ東アジアを中心に著名な監督たちと一緒に仕事をしており、フィルモグラフィーからいくつか下に書き抜いておく。
1984「策馬入林」(「逃亡」)王童監督
1985「童年往事」侯孝賢監督
1986「恋恋風塵」侯孝賢監督
1987「稲草人」(「村と爆弾」)王童監督
1989「悲情城市」侯孝賢監督
1993「戲夢人生」侯孝賢監督
1994「女人四十」許鞍華監督
1998「海上花」(「フラワーズ・オブ・シャンハイ)侯孝賢監督
1999「心動」(「君のいた永遠」) 張艾嘉監督 
2000「夏天的滋味」(「夏至」)トラン・アン・ユン監督   
2001「花様年華」王家衛(ウォン・カーワイ)監督
2001「千禧曼波」(「ミレニアム・マンボ)侯孝賢監督
2002「小城之春」(「春の惑い」)田壮壮監督   
2002「想飛」(「プリンセスD」)張艾嘉監督   
2004「珈啡時光」侯孝賢監督   
2004「一個陌生女人的來信」(「見知らぬ女からの手紙」)徐靜蕾監督
2005「春の雪」行定勲監督
2005「最好的時光」(「百年恋歌」)侯孝賢監督
2006「父子」譚家明監督
2007「紅気球之旅」(ホウ・シャオシエンのレッド・バルーン)侯孝賢監督
2007「太陽照常升起」姜文監督
2007「不能說的•秘密」(「言えない秘密」)周杰倫(ジェイ・チョウ)監督
2007「心中有鬼」騰華濤監督
2008「今生,緣未了」(「Afterwards」)Gilles Bourdos(吉爾布都)監督
2008「親密」岸西監督   
2009「トロッコ」川口浩史監督
2009「空気人形」是枝裕和監督   
2009「殺人犯」周顯揚監督
2009「ノルウェイの森」トラン・アン・ユン監督

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2011年1月11日 (火)

陸羯南について

 羯南陸実(くが・みのる)は1857年、弘前藩士の家に生まれた。東奥義塾、宮城高等師範学校を経て司法省法学校に入ったが、いわゆる賄征伐で同期生の原敬、福本日南、国分青厓らと共に退学処分を受けた。学んだ法学知識とフランス語を武器に新聞記者としてやっていこうとしたが、生活が貧窮する中、品川弥二郎のすすめで政府の文書局・官報局に出仕。この頃、フランスの保守主義思想家ド・メストル『主権原論』の訳述もしている。32歳で依願退職、『東京電報』さらに新聞『日本』を創刊(1889年)。1906年には経営不振のため『日本』を実業家の伊藤欽亮に売却、健康も思わしくなかったため引退。伊藤経営の『日本』が営業重視の編集方針を示したため、それと対立した記者たちは一斉退社、三宅雪嶺、古島一雄、長谷川如是閑、千葉亀雄らは政教社に合流して翌1907年に『日本及日本人』刊行の運びとなった。ここに羯南も名前を列ねたが、同年51歳で病没した。

 羯南の政治的主張は、対外的には国民精神の発揚、対内的には国民的一致を説き、日本主義、国民主義などと呼ばれる。ただしそれは決して排外主義を意味するのではなく、明治期において急激な欧化が進行するのを目の当たりにする中、外国文化を摂取するにしても日本固有の文化的背景を基準として実用本位に進めるべきだという穏当なものであった。明治の社会的変革期において近代的国民国家形成を如何に進めるかという課題に応じた議論だったと言える。

 羯南再評価の先鞭をきったのは丸山眞男である。『中央公論』1947年2月号に発表された「陸羯南──人と思想」(『丸山眞男集 第三巻』[岩波書店、1995年]所収)では、彼の国粋保存の立場が封建的伝統の温存につながってしまう点を時代的制約と指摘する一方、日本主義のフレーズが昭和期において反動的なアナクロニズムを示したのとは著しく異なり、羯南のそれはナショナリズムとデモクラシーの綜合を意図した健康的・進歩的なものであったと総括している。司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)でも正岡子規との関わりで陸羯南が登場し(NHKのドラマでは佐野史郎が演じていた)、明治期における健全なナショナリズムを代表する知性として描かれていたが、それはこうした丸山による再評価を受けたものであろう。

 小山文雄『陸羯南──「国民」の創出』(みすず書房、1990年〕は彼の伝記を描きながら、明治の政治史的な動向の中、それに応じて羯南の政論が思想としていかに展開していったのかをたどっていく。理想と現実との狭間としての「常」の立場を重視した彼のバランス感覚を高く評価している。

 有山輝雄『陸羯南』(吉川弘文館、2007年)と松田宏一郎『陸羯南──自由に公論を代表す』(ミネルヴァ書房、2008年)は、それぞれ彼のジャーナリストとしての側面を重視する。彼は新聞紙たるの職分として私利や党派ではなく、「一定の義」(羯南の場合には国民主義)のみに立脚すべきことを主張。「独立」の意見が現実を踏まえながら互いに「理」を争う「相関的議論」に新聞の役割がある。理性に基づいた議論を行わねばならず、羯南は例えば自由民権論等に現れた粗暴な「壮士」的議論を否定し、批判的思考の材料を提供するためのいわば高級オピニオン誌としての職分を自覚的に追求していた。有山書では、こうした理想的なやり方は職業政治家と有産有識選挙民中心の政治空間では一定の有効性を持ちつつも、「民衆的」政治空間の出現、その過激な「情」の議論(例えば、日露講和の反対論)に対して大勢順応を拒む彼のやり方はもはや難しくなってきたことが指摘される。また、松田書は、志操高潔な孤高の言論人として羯南を理想化する傾向に対しては異議を唱え、当時、『東京朝日』の池辺三山や『大阪毎日』の原敬らは読者層の変化を敏感に捉えながら経営手腕を発揮、対して、大衆迎合を拒む羯南は、言論の商品化として読者に売りたくないのであれば資金提供先を求めて政治家に売り込む選択肢をとらざるを得なくなってしまった点を指摘する。羯南は当初は品川弥二郎、谷干城、杉浦重剛、後に近衛篤麿らのバックアップを受けていた。

 朴羊信『陸羯南──政治認識と対外論』(岩波書店、2008年)は、先行研究ではあまり大きくは取り上げられていなかった羯南の対外論に注目、彼の論説の検討を通して、自衛的国民主義、国民の公益のための経済的膨張主義から侵略的な国民主義への転換を読み取っていく。大雑把で粗雑なまとめ方になってしまうが、デモクラシーやリベラリズムとナショナリズムとが両立していたとする従来の羯南再評価で(ただし、松田書は羯南の国民主義にあまり好意的ではない)、両者の比重の置き方についてデモクラシー≧ナショナリズムとして捉えているとするなら、朴羊信書ではデモクラシー<ナショナリズムという捉え方になっていると言えるだろうか。なお、羯南の台湾論についても言及があり、「北守南進」策における南進の基地、大陸進出の足がかりとして台湾を位置付けていたこと、他方、内地延長主義の立場から六三法は違憲だという議論を展開していたことが指摘される。

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【映画】「モンガに散る」

「モンガに散る」

 1980年代後半の台北、日本でたとえると浅草とも言うべきコテコテの下町・艋舺(モンガ)が舞台。気弱な転校生が不良仲間と出会って高校を中退、義兄弟の契りを結んで極道の世界に入っていく。ところが、この台湾人中心の下町に外省人系の組織暴力団が進出を図り、いくつかの事件をきっかけに抗争が勃発、この混乱の中で義兄弟の契りを結んだはずの彼らも義理と裏切りの葛藤に直面する、という筋立て。いわば「ゴットファーザー」の台湾黒社会版にほろ苦い青春ストーリーを加味した感じだ。二時間以上の長丁場だが映像転換のテンポはスムーズで観ていて飽きさせない。

 映画中の字幕で1986─87年の出来事であることが明示される。台湾はすでに高度な経済成長を遂げつつあった上に、長年続いた戒厳令が解除、間もなく蒋経国が死んで李登輝が総統に昇格、民主化も本格化しようという時期である。台湾史上、最も高揚感のあった時期と言ってもいいだろう。だが、この映画で描かれるのは、高校をドロップアウトした若者たち、報われないアウトロー、組織暴力団の攻勢を前に揺れる時代遅れのヤクザ、借金のかたに娼婦に身を落とした少女。上昇気分のあった時代にはかえって影が際立つ人々の姿、彼らはだからこそ互いに密な関わりを持とうともがく。それが報われるかどうかはともかく。

 外省人暴力団の進出を受けて「大陸の奴らと手なんか組めるか!」「俺は北京語なんてしゃべれないよ」といったセリフからは、近年の台湾映画でよく見受けられるモチーフの一つ、族群政治(エスニック・ポリティクス)の影もうかがえる。ただし、監督自身は外省籍のようである。映画プログラムにある野林厚志氏の背景解説では、外省人ヤクザが艋舺のような下町に入り込もうとしている思惑には台湾本土化の趨勢にあって彼らも土着化を選択せざるを得なくなっていることが示されているという趣旨の指摘があり、興味を持った。

 監督のニウ・チェンザー(鈕承澤)はもともと侯孝賢映画で子役としてデビュー、その後テレビ・ディレクターとして人気を博したが、スランプに陥った自分自身を題材にした映画「ビバ!監督人生!!」で復活、映画二作目の今作は台湾で「海角七号」に次ぐヒットとなったらしい。両作とも映画中に日本を示すモチーフが入っているのはどういう偶然か。ニウ監督は大の日本贔屓だという。艋舺の極道のゲタ親分には日本統治期世代の精神造型が表現されているというのだが、いまいちピンとこなかった(ちなみにゲタ親分役は「海角七号」にも出演、コテコテ“台湾オヤジ”として人気を博した馬如龍)。それから主人公の青年は、会ったことのない父親が日本から送ってきた絵葉書を形見として大切にして日本への憧憬を語るが、その絵柄は富士山と桜。ラストで血しぶきがその桜に変わるシーン、色合いがピンクの桜色ではなく、むしろ梅の赤色に近いのは、いかにも台湾的に解釈された日本イメージが象徴されているとも言えるか。

【データ】
原題:艋舺
監督・脚本:ニウ・チェンザー(鈕承澤)
2010年/台湾/141分
(2011年1月11日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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2011年1月 9日 (日)

【映画】「ノルウェイの森」

「ノルウェイの森」

 原作の村上春樹よりもトラン・アン・ユン監督と李屏賓(リー・ピンビン)撮影という二人の組み合わせに関心があり、ストーリーではなく映像そのものを鑑賞するつもりで観に行った。この二人による「夏至」という作品を以前に観たことがあり、色合いが瑞々しく静かな叙情性が私は好きだった。そうした映像感覚は今回の「ノルウェイの森」にもよく生きている。日本の四季の移り変わりが映像的にしっかり織り込まれており、その点では南国ベトナムを舞台とした「夏至」よりも劇的変化を感じさせる緊張感も醸し出され、それが登場人物の心象風景と見事に呼応している。

 村上作品にはどこか乾いた気だるさが漂っている。その中で描かれている他者とのつながりを望みながらもなかなかうまくいかないもどかしさは、もしドラマに仕立て上げようとする場合、下手すると内向きに甘ったれたものになりかねない。ところが、この二人による映像を背景にすると、感傷的な切なさにも奥行きの広がりが浮かび上がってきて、そこが実に良い。

 1970年代の日本が舞台、セリフは日本語、撮影も日本で行なわれているが、時折カメラアングルによってはどこか別の国というか、我々が見知ったのとは異なるもう一つの日本のように感じられる瞬間があるのも面白い。日本を意識しながら撮影しても目のつけ所が違うからだろう。例えば、水辺で読書しているシーンとか。ミドリ役・水原希子の静かな微笑みはベトナム美人のように見えてくる。ちょい役で糸井重里、細野晴臣、高橋幸宏も出ていた。

 村上春樹作品の世界的ブームはよく知られているが、欧米では『羊をめぐる冒険』の人気が高い一方、東アジアでは『ノルウェイの森』の方が人気があると言われている(藤井省三『村上春樹のなかの中国』朝日選書)。例えば、つい先日台湾へ行ってきたばかりだが、この映画は台湾でもほぼ同時に上映が始まっており、駅構内やテレビでは広告をよく見かけたし、書店のベストセラー棚では『挪威的森林(ノルウェイの森)』が外国文学の1位になっていた。台湾大学近くの学生街では挪威的森林という名前のカフェを見かけた覚えもある。日本人原作の作品をベトナム人(フランス在住)監督と台湾人撮影監督が撮り、東アジア全般で見られているというこの状況が今や当たり前となっていること自体が少々感慨深い。

【データ】
監督・脚本:トラン・アン・ユン
撮影監督:李屏賓(リー・ピンビン)
原作:村上春樹
出演:松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、高良健吾、玉山鉄二、霧島れいか、ほか。
(2011年1月9日、日比谷、TOHOシネマズ・スカラ座にて)

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黒岩比佐子『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』

黒岩比佐子『パンとペン──社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社、2010年)

 先ごろ亡くなられた黒岩比佐子さんの遺作となってしまった。

 外国語の翻訳や論説から広告文、果ては卒業論文や恋文の代筆まで、文章という文章ならなんでもござれ──今風に言うなら編集プロダクションの草分けとも言うべき会社が大正時代にあった。その名も、売文社。大逆事件後のいわゆる社会主義運動“冬の時代”、厳しい風雪をしのぐため堺利彦が同志と共に設立した。彼らは高い教養と卓抜した語学力を持ちながらも、正規の高等教育を卒えていない上に社会主義者として逮捕・服役の前科もあるため、まともな職に就くことはできない。自分たちの能力を活かしながら生計の手段を立てるため、売文社というのは実に見事なアイデアであった。本書はまさにこの売文社に光を当てながら堺利彦の生涯を描き出している。著者の古書店通いの成果であろう、なかなか珍しい本もよく発掘しており、当時の出版史をうかがう上でも興味深い。

 堺利彦の名前は歴史の教科書でも社会主義者として登場するが、幸徳秋水とはパーソナリティーが異なる。幸徳がどこか漢学者然とした険しいオーラを放つのに対して堺は人情の機微に通じた人柄であり、軽妙洒脱なユーモリストとしておもしろおかしく読める戯文もたくみに書ける人であった。売文社に集った面々もそれぞれにクセが強く、そうした個性的な群像劇としても面白い。

 社会主義運動の展開を主とするかつての思想史叙述において、売文社の位置付けはあくまでも脇役に過ぎなかった。実は私自身、だいぶ以前のことではあるが、ある関心から初期社会主義運動について少々調べたことがあり、そのときに売文社から刊行されていた雑誌『へちまの花』『新社会』なども全ページに目を通したことがあった。おふざけや遊び心もあっていわゆる“主義者”のしかめっつらしい相貌とは全く異なり、意外に面白いと思っていた。しかしながら、ユーモリスト堺と個性豊かな売文社の面白さはアカデミックな思想史家で描ける人はいないだろうとあきらめていたところ、本書の登場を迎え、読みたかったのはまさにこういうのなんだよ、と半ばジェラシーも混じりながら興奮した。読み進めながら色々と思い出すこともあり、この時代について私ももう一度調べなおしてみようかという思いを刺激された。

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2011年1月 8日 (土)

台北旅行メモ3

◆1月3日(月)
【烏来へ】
・烏来へ行くつもりだが、朝から雨。肌寒い。台北車站の南側、青島西路に烏来行きのバス停があることは前日に確認してあったので、雨の中で待つ。台湾のバス停の時刻表は、よほど本数が少ない場合には個別の時間が記されているが、普通は「何時~何時まで、何分間隔で運行」という書き方である。
・9時ちょっと前に来たバスに乗る。すいており、観光客は他にいない。MRT新店線が地下を走っている上の大通りを進み、新店駅を過ぎたあたりから山の中へと入っていく。目的地に近づくにつれて原住民をデフォルメした彫像が目に入る。烏来はもともとタイヤル族の集落で、タイヤルの言葉で「温泉」という意味らしい。もともとこの地の人々に温泉につかるという習慣はなかったが、日本統治期に日本人がやって来て温泉地として開発されたという。
・1時間20分ほどで終着点に到着。雨だし、月曜日なので、観光客は少ない。商店街を抜け、大きく切れ込んだ川の上にかかった橋を渡り、対岸に行く。川岸に湯気がたって人々が湯治しているのが遠くに見える。対岸では川沿いにトロッコが運行されているので乗車。5分ほど乗って、烏来瀑布の見える地点まで行く。
・烏来瀑布前に土産物店があり、その前で「烏来原住民歌舞団の公演が10時30分から始まるのでどうぞ」とちらしをもらったので入ってみる。二階にのぼるとちょっとした舞台がしつらえてあり、私のあとから日本人の団体観光客も入ってきた。時間になると暗くなり、場末の安っぽいキャバレーのような照明がチカチカ。音楽とともにタイヤルの民族衣装を身に着けた若い男性2人、女性6人ほどの踊り手が入場してきた。この瞬間、私が想定していたのとは明らかに雰囲気が違うので困惑…。最後には観客を舞台に引っ張って一緒に簡単な踊りをして(私は断った)、踊る姿を写真に撮って帰り際にお金をとっていた。
・11時20分頃に終わったので外に出る。もう少し上に上っていくと、観光案内所があった。このあたりは桜が名物とのことで、4月が見頃なのかもしれない。近くにロープウェイがあったので乗ってみた。対岸の山上にある雲仙楽園につながっているのだが、雨の中散策に行く気力はない。なぜか小さな遊園地もあった。
・ロープウェイ脇の展望台に一人たたずみ、烏来の峡谷をじっと見下ろしながらもの思いにふける。温泉街の土産物屋に遊園地を目の当たりにした後では、かつて精悍な原住民が漢族系移民や日本軍とこの辺りで格闘したという歴史的イメージがどうにもわいてこない。雨降りにつれて雲があたりに立ち込め、はるか見やっていた視界を遮り始めた。先ほど見た歌舞団の踊りを思い返す。現代的にアレンジしたと言えないこともないが、文字通り温泉街のホテルや飲み屋の出し物という感じ。一生懸命踊ってくれているからそれなりに様にはなっているし、中には目鼻立ちのかわいい娘もいたので目はひかれるのだが、困惑感がどうしても拭えない。ここ烏来には温泉地として日本人観光客が頻繁に訪れる。従ってそうした観光客の趣向に合わせてこのような出し物になったのだろう。お金を落としてもらうため迎合せねばならず、これは見方を変えれば一種の経済的コロニアリズムとも言えるだろうか。民族学的関心よりも、むしろ社会学的関心の対象になる。話の脈絡としては適切ではないかもしれないが、踊りを見ながら何となく黄春明『さよなら・再見』を思い浮かべてしまった。そのようなことをつらつら考えているうちに、霧は晴れてきた。ロープウェイ発車の合図にベルが鳴ったので慌てて乗り込み、ふもとへ戻る。
・雨が降っていなければもう少しあたりを散策してもいいのだが、再びトロッコに乗ってバス停近くの商店街まで戻る。もうお昼どきなので、食事することにした。竹筒飯と筍のスープ、それから空心菜の炒め物もすすめられたので合わせて3点を注文。

【台北市内散策】
・バスに乗り、今度は新店で下車。MRTに乗り、公館で下車。台湾大学があるこの近辺には書店も多い。南天書局と台湾e店が今日は営業しているかどうかを確認、いま本を買い込むと散歩がきついので後ほど改めて戻ってくることにして、台湾大学脇の新生南路を北上。しばらく行くと、台北清真寺。イスラム圏と外交関係を結ぶようになってから1960年に建てられたらしい。ちょっと中に入りづらい雰囲気だったので、写真だけ撮ってさらに北へ進む。近くには天主教の大聖堂もあった。
・この辺りで北西方向に進路を切り替え、永康街に入る。台湾大学からこの永康街にかけてはかつて日本人が住む区域だったらしい。古い日本式家屋を今でもところどころ見かけるが、戦後は主に外省人が住んでいた。歩きながら日本式家屋ハンティングに勤しむ。すでに半世紀以上経過しているわけだから相当がたがきている。屋根がつぶれかけ、家屋全体をさらに鉄骨のアーケードで覆っているのもみかけた。永康街を歩いているとところどころ櫛の歯が欠けたように空地を見かけるが、おそらく古い日本式家屋を崩した跡であろう。

【中正紀念堂】
・信義路に出たので左折、中正紀念堂へ向かう。永康街から歩いて8分ほどだ。中正紀念堂には裏口から入り、まず1階の展示室へ。蒋介石についての通常展示のほか、第7回漢字文化節に合わせて「台湾百年詩社」という特別展示もしていた。台北の瀛社、台中の櫟社、台南の南社などに所属した詩人たちの書を展示。有名どころでは林献堂とか林熊徴とか。中には「昭和」の年号が記された時代の書もあった。
・中正紀念堂のご本尊をおがみに行ったところ、ちょうど儀仗兵の交代式だった。そうか、馬九英政権になって儀仗兵が復活したんだな。三人の衛兵が歩調をぴったり合わせ、ペースはゆったりながらも動作のきびきびとしたグースステップをふむ。小銃をクルクル回すパフォーマンスも息が合っている。好き嫌いは別として、国家予算をかけてパフォーマンス・アートを洗練させていると言えるか。よくできていても拍手しちゃいけないのが普通の芸人と違うところだ。
・2年前にここへ来たときはちょうど選挙戦の真っ最中、陳水扁が汚職疑惑で低下した支持率を挽回しようと悪あがきして正名運動を展開していたときだ。中正紀念堂は台湾民主紀念館と名称が変更され、通りに面した大門の扁額は自由広場と書き換えられた。堂内では恐怖政治に対する民主化運動の成果を示すパネル展示を並べ、蒋介石の銅像の周りにはポップ・アート調の凧が舞っていた。結局、国民党が政権に復帰し、自由広場の扁額は残ったものの、中正紀念堂は元に戻され、儀仗兵も復活した。台湾における族群政治の焦点となった場所の一つである。

・中正紀念堂車站からMRTに乗って公館に戻り、南天書局と台湾e店のそれぞれで棚をくまなく眺めながら本を買い込んだ。両手がふさがってしまったのでタクシーに乗って宿舎に戻り、荷物を置いてから再び外出。
・すでに19時過ぎ。歩いて林東芳牛肉麺を食べに行く。きれいとは言い難い店のたたずまいは、日本でも下町のうまいラーメン屋といった雰囲気だ。有名店の割りに商店の並びにまぎれているが、行列があったのでここかと見当がついた。牛肉麺大椀160元を注文。今日みたいに肌寒い日には本当においしい。酒を飲んだ帰りにラーメンを1杯という感じだ。横で牛肉麺をすすっていた柄の悪いにいちゃんは最初にスープを飲み干して、スープだけお代わりしていた。なお、牛肉麺は大陸から来た外省人が工夫したメニューで、眷村文化に分類されるらしい。
・微風広場の紀伊國屋書店(ここは他にも東急ハンズ、無印良品など日本系店舗が集まっている)、太平洋SOGOのジュンク堂書店を見て回ってから、誠品書店敦南本店へ行く。
・宿舎へ戻る途中、コンビニに寄ったところ、飲冰室茶集なる紙パックのお茶を見かけ、梁啓超先生に敬意を表して買って飲んでみた。ミルク・砂糖入りの緑茶だったのだが、まずくはないにせよ、日本人の味覚にはちょっと合わないな。

◆1月4日(火)
・早朝から24時間営業の誠品書店敦南本店へ行って棚を眺める。それからMRTに乗って台北車站で下車、10時ちょうどのタイミングで台北當代藝術館にたどり着いた。
・台北當代藝術館は日本統治期の小学校、戦後は台北市庁舎になっていたレトロなレンガ建築の中で現代アートを展示している。「媒體大哼(mediaholic)-倪再沁特展」という特別展示をやっていたので見る。倪再沁という人は台湾の前衛芸術で有名なのだろう。4匹の猪が重なった「~怪談」シリーズの絵や彫刻、アンディ・ウォーホルや村上隆を意識したような絵とか変な作品がある一方で、正統的な水墨画による風景画もあった。パフォーマンス・アートもやっているようで、芸術館の前には2012年総統選挙立候補という設定による選挙カーが置いてあった。館内のビデオでは、迷彩服の人々を引き連れて町を練り歩くハプニング形式のパフォーマンス・アートの記録も放映されていた。
・宿舎に戻って12時頃にチェックアウト。早めに桃園国際空港へ行く。カウンターへ行ったら、ちょうど北京行きの飛行機に搭乗予定の中国人団体観光客の中に紛れてしまい、何箱ものお土産を抱えた彼らが正規の順番なんてお構いなしに力押しでガンガン割り込んでくるのに圧倒されて呆然としている中、やっとカウンター職員の人に気付いてもらってチェックインできた。職員の人もパニクった様子で息を切らせていた。
・16:50桃園国際空港発のチャイナエアラインCI106便で成田国際空港には20:30頃着。スムーズに帰れた。

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台北旅行メモ2

◆1月2日(日)
【深坑へ】
・小雨が降ってもおかしくない感じの曇り。MRT木柵線に乗って木柵車站まで行き、ここでバスに乗りかえて深坑で下車。
・深坑老街は台北からの日帰り観光で賑わう街と聞いていたが、まだ午前9時前なので歩いている観光客はあまり見かけない。台湾で地元民も集まる観光地というのはどこも買い食いメインの街並みだ。お店はちょうど準備を始めているところでそれなりに活気はある。老街はところどころ工事中で、おそらく観光用に改めて街並みを整備しようということなのだろう。商店街の中で櫛の歯が欠けたように取り壊された箇所を覗きこむと、いわゆる騎楼の建築は隣家と密着した建て方なので、ひさしの跡が隣家の壁にしっかり残っている。路上観察学の分類で言うと「原爆型」というやつだ。台湾ではこのタイプをよく見かける。深坑老街は小ぶりな街並みで、片道15分もあれば反対側まで行き着いてしまう。ゆっくり観て回ってもそれほど時間はかからない。
・朝食を摂ってからまだ時間が経ってないので腹はへっていないのだが、深坑は豆腐料理で有名と聞いているので、何か口に入れないといけないような気分になった。お店の軒先にある大鍋で豆腐料理がグツグツ煮込まれているのを見かけ、注文した。中に入って座って待っていると、麻辣豆腐鍋を小型のコンロに載せて持ってきてくれた。日本の木綿豆腐よりも身がぎっしりつまった感じの豆腐をハフハフとほおばる。寒天のようなものも入っている。色合いはレバーのようにも見えるが舌触りはゼリーみたいだ。おそらく鴨血とはこれのことか。以前に何かの本で血を固めてゼリー状にしたものだと知ったときにはあまり食べる気はしていなかったが、口に入れてみると意外にクセはない。メニューを見ていたら客家料理の項目もあった。この辺りは客家の集落なのだろうか。

【平渓へ】
・次の目的地の平渓まで行くつもりでバス停に戻った。時刻表には木柵発10:45となっており、ここまで15分くらいかかったと思うので、11:00を目途に待つ。バスは結構混んでいた。蛇行する坂道をブンブンとばしていくので、吊り革につかまりながらも体が大きく揺れる。途中、菁桐を通りかかり、観光客が何人か下車。ローカル鉄道・平渓線の終着駅で、以前に下車してこのあたりを歩いたことはあった。この人気のない大通りはどこまで行くのだろうと思った記憶があるが、今回はその木柵・深坑方面からバスで来たわけだ。なお、霍建起監督「台北に降る雪」(台北飄雪)という映画を観たことがあるが、その舞台がこの菁桐を中心とした平渓線沿線だった。平渓線沿線のレトロな街並みにはなかなか風情があり、映画の舞台としてよく使われる。例えば、鄭芬芬監督「午後三時の初恋」(沈睡的青春)は沿線の十份を舞台にしていたが、他の映画でも平渓線沿線だと明示されてはいなくとも風景として使われているのをよく見かける。
・平渓で下車。バスの通る道路から川を隔てた反対側に平渓老街がある。歩いていきぶつかった十字路に観光案内板があり、日拠時期防空洞というのが目に入ったので行ってみた。平渓線の線路下をくぐって坂道をのぼり、十分ほど歩いたろうか、お寺の前を通り過ぎたところ、土が露わになった傾斜面に穴が五つ穿たれていた。そばの案内表示に日拠時期防空洞とある。緊急避難用に穴を掘っただけという感じで、コンクリなどで固められているわけではなく、防空壕だと言われなければ見過ごしてしまう。このあたりには炭坑が密集していたらしいから、それが米軍の爆撃目標になったのだろうか。台湾各地を歩いていると、戦争末期に作られた防空壕は意外とよく見かける。とりわけ駅や役所など公共施設や日本人住宅地跡で見かけ、そういうのはおそらく日本人用だったのだろう、コンクリでしっかり固められたものだったが、この平渓で見かけたような素朴な洞穴状のものはなかなか気付かない。
・平渓線は川の流れる谷間を走る路線で、川岸にへばりつくように街並みが点々としている。お寺の前がちょっとした展望台になっていて平渓の街並みを上から見下ろせる。駅にはちょうど列車が到着したところで、カメラを抱えた鉄道ファンが群がっている。発車する列車を線路間際から撮影しようとする人もいるため、車掌さんが注意の呼子をピーピー鳴らしているのがここまで聞こえてきた。台湾では鉄道ファンに限らず、デジカメではなく本格的な一眼レフカメラを持参している人をよく見かける。カメラ熱は日本以上らしく、街中でも例えばニコンの広告ポスターをよく見かけた。

【基隆へ】
・列車が私の目の前を通過するのを見届けてから、老街へ向けて坂道を降りた。先ほどの十字路まで戻ると、列車から降りた観光客が三々五々歩いているのと行き会う。駅に行き、基隆まで切符を買う。菁桐から戻ってきた先ほどの列車に乗る。ガイドさんに連れられた日本人観光客グループも一緒に乗り込んできて、彼らは十份で降りていった。車窓の風景を眺めるが、外は寒々とした曇天。瑞芳で幹線列車に乗り換え、さらに八堵で基隆行きに乗り換える。それぞれで30分ほど待たなければならず、接続は悪い。基隆到着は13時過ぎ。
・基隆は以前、暗くなってから夜市を歩いたことはあるが、日中は初めてかもしれない。駅前の海関大楼は日本統治期から使われ続けている建物。あたりを歩きながら港へ向かうと、太鼓をドンドコ叩きながら何やらセレモニーをやっている。グリーンピースの船がちょうど接岸するところで、その歓迎式典のようである。
・中正公園へ行った。入口から急な石段をのぼる。のぼった先にある忠烈祠はかつて日本統治期の基隆神社だったところであり、この石段もいかにも神社らしい。台湾各地の忠烈祠はたいていかつての日本の神社をつぶして建てられている。さらにのぼっていくと公園になっており、基隆港が見下ろせる。人はほとんどいない。駅に戻った。平渓線沿線歩きに意外と時間がかからなかったので、その分、基隆歩きをすればよかったかもしれないが、下調べをしてきていないので今回は切り上げた。

【国立歴史博物館】
・台北まで戻り、MRTに乗って中正紀念堂駅で下車、歩いて10分弱で国立歴史博物館に到着。我ながら意外だがここに来るのは初めてだ。
・特別展示は「盛世皇朝祕寶-法門寺地宮與大唐文物特展」。陝西省・西安近くの法門寺で1987年に地下宮殿が発見され、そこからの出土品を中心に唐代の文物を展示。仏舎利容器や唐三彩など。大秦景教流行碑の拓本もあった。仏教文化・西域文化の影響なども見られる。こういうのも私は好き。北京の収蔵庫で唐三彩が改めて見出されたとき、これをどのように名づけようかと議論され、多彩釉→「多」を象徴する数字として「三」という数字が使われたという説明は初めて知った。唐三彩は主に明器(お墓の副葬品)として製造された。文化的には胡風、貴族・官僚階層の厚葬といった特徴があるわけだが、安史の乱以降、商人階層が勃興して厚葬の風習がすたれ、従って副葬品が作られなくなったため唐三彩は衰微したとされる。
・二階では「館蔵華夏文物」の常設展示。土器・石器・青銅器から明清期の青磁までモノという観点から中国史をコンパクトに解説した展示としてよくまとまっている。ここはすいているから穴場かもしれない。窓際の展望席からは庭園がよく見えて気持ちが良い。確かここは、日本統治期の植物園だったところではなかったか。
・三階では中国近現代水墨画名家の特集展示。清朝・民国期以来、中国画らしさを追求してきた画家たちとして齊白石(1864-1957)、黃賓虹(1864-1955)、溥心畬(1887-1963、清朝皇族)、張大千(1899-1983)など、西欧や日本に留学して技法の革新を図った徐悲鴻(1895-1953)、黃君璧(1898-1991)、林風眠(1900-1991)、傅抱石(1904-65、日本へ留学)など、これらを受け継ぐ形で様々に展開していった李可染(1907-1989)、林玉山(1907-2004)、劉延濤(1908-2001)、傅狷夫(1910-2007)、江兆申(1925-1996)、吳冠中(1919-2010)などの作品が展示されていた。
・徐悲鴻の名前は中国美術史でよく見かける。林玉山は日本統治期から画家として活躍していた人で、作風の一つとして膠彩画が紹介されていたが、これはすなわち日本画のことだ。「黄牛」(1941年)、「蒼松白鹿」(1940年)があった。私は日本統治期の台湾人の伝記的事実関係にジャンルを問わず関心があり、彼の口述をまとめた本をミュージアム・ショップで見かけたので購入した。林風眠という人はフランスに留学してフォービズム・キュビズムの影響を受けた上で水墨画を描いていた人で、筆致が独特で興味を持ち、彼に関する本も購入した。水墨画的に繊細な線でさらっと描かれた細面の裸婦像は何となく小島功のエッチな仙人ものにも似ている。それから、侯孝賢などの映画撮影で有名なカメラマン李屏賓の写真集《光影詩人 李屏賓》(田園城市出版、2009年)を書店で見かけて購入したのだが、彼は水墨画が好きで、とくに李可染が好きだという趣旨の発言があった。
・国立歴史博物館の閉館時間は18:00で、ミュージアム・ショップで何冊か本を買い込んでから外に出る。すでに暗い。いったん宿舎に戻って荷物を置いてから、再び外出。
・MRTに乗って剣潭で下車。士林夜市へ。すでに混雑は始まっており、まだ19:00頃だから時間が経つに連れてもっと込み合うことになるだろう。まだ歩いたことのなかった通りもぶらつく。ここの夜市が門前市として始まったという慈諴宮にも入ってみた。行列のできていた夜店で小吃をいくつか買い食いして、夕飯がわりとする。葱油餅は文字通り葱油で揚げたパンみたいなもの、シンプルで食べやすい。揚げたての胡椒餅はおいしいのだが、噛むたびにたっぷりの肉汁がはねて、手がべとべと、服も汚れ、唇が少し火傷気味になってしまった。ドーム式の美食市場もざっと見て回ってから剣潭車站まで戻り、MRTを乗り継いで市政府站で下車、今晩も誠品書店信義旗艦店へ行ってぶらぶらと棚を見て回る。

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台北旅行メモ1

◆1月1日(土)
・9:40成田国際空港発のチャイナエアラインCI107便で、桃園国際空港には現地時間12:30頃到着。ほとんど空に近いスーツケースは機内に持ち込んだので荷物待ちはなく、入国審査も混雑しておらず、スムーズに行動できた。台北車站行きバスもすぐ来たので、MRT忠孝敦化車站近くの宿泊先には14:30頃にチェックイン。台北は小雨が降りそうな曇りで肌寒い。人々はみんなオーバーやコートを着込んで重武装している。
・台北車站でMRTに乗りかえる際、窓口で悠遊卡を購入。MRTと台北市内発着のバスに使えるカードで、小銭を気にせず乗り降りできるから便利だ。購入金額は500元で、うち100元はデポジット。自動券売機横の加値機でチャージできる。
・荷物を置いて、順益台湾原住民博物館へ行くことにする。ホテル前にいたタクシーの運転手さんに行先を告げたところ、ブツブツ言いながら考え込んでしまった。要するに、どのルートを使っても渋滞するぞ、ということらしい。それでMRTを使うことにした。
・MRT士林車站で下車、タクシーを拾って順益台湾原住民博物館まで15分ほど。観光バスが頻繁に発着して観光客がウヨウヨしている故宮博物院の前を通り過ぎてすぐのところ。
・順益台湾原住民博物館は順益関係企業という私企業が1994年に設立した博物館らしい。地下も含めて4フロア、民族学的資料を通して台湾における原住民について理解を深める趣旨の展示で構成されている。地下1階では原住民の神話を題材としたアニメーションも上映されており、日本語字幕付きの回もある。故宮博物院とは違ってこちらには参観者がほとんどおらずガラガラ、非常に快適だ。地上1階玄関ホール脇の売店で原住民に関する本を何冊か購入した。
・道路を挟んで向かい側には原住民をモチーフとした彫像なども並ぶ公園が広がっており、そこを少しぶらついてから、故宮博物院前でバスに乗ってMRT士林車站へ。MRT淡水線、板南線と乗り継いで忠孝敦化車站で下車。宿舎へ戻る前に、鼎泰豊に行って早めの夕飯。すでに混雑し始めていた。
・先ほど購入した本をいったん宿舎に置いてから再び外出。MRTに乗り、龍山寺に行って初詣。再びMRTに乗り、市政府車站で下車、誠品書店信義旗艦店へ。前回来たときにはMRTの駅から直結する地下道が工事中だったが、ショッピングモールが完成してにぎわっていた。誠品書店で夜の時間をしばらくつぶし、色々買い込んでから宿舎へ戻った。
・MRT駅の地下街などを歩いていると、「挪威的森林」(ノルウェイの森)や「借物少女艾莉媞」(借り暮らしのアリエッティ)などのポスターを見かけるが、映画関連はやはりよく売れるのだろうか、書店のベストセラー棚でも外国文学では村上春樹《挪威的森林》がトップ、二番目に湊佳苗(かなえ)《告白》。村上春樹特集が組まれて台湾の作家が村上作品について論じた本も2点ほど新刊棚に積まれていたし、宮崎駿特集もあった。日本の現代小説の翻訳も相変わらず目立つ。たいていは日本語版と装幀が違うのだが、森見登美彦《春宵苦少、少女前進啊》(夜は短し、歩けよ乙女)は中村祐介のイラストをしっかり使っていた。やはりイメージがぴったりだからだろう。『もしドラ』はありそうで意外とない。翻訳権が高いのだろうか。湯浅誠『反貧困』の中文訳も新刊棚に積まれていた。美術書コーナーでは安藤忠雄のほか、『美術手帖 村上隆特集』の中文訳が目立った。日文書コーナーに行くと、坂本龍馬+福山雅治特集の棚があった。そういえば、誠品書店で簡体字コーナーを見かけないが、なくなってしまったのか?
・中華民国在台湾は慶祝建国百周年ということで、テレビをつけるとそういう趣旨の番組が目立った。一方、孫文の孫娘(孫科の娘)孫穗芬女史が来台中に交通事故に遭って入院したことが元旦早々のトップニュースだった。息子さんが見舞いへの感謝を英語でコメントしていたが、中国語しゃべれないのか?

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田中伸尚『大逆事件──死と生の群像』

田中伸尚『大逆事件──死と生の群像』(岩波書店、2010年)

 血気盛んな青年・宮下太吉が信州の山奥で試爆させた一発の爆弾をきっかけに、彼の関係から芋づる式に逮捕された1910年の大逆事件。翌年1月には判決が下され、死刑の確定した12人はただちに処刑された。言葉は悪いが所詮児戯に類した“革命ごっこ”に過ぎず、幸徳秋水や森近運平たちは同調などしていなかった。それでも、無政府主義思想の広がりに神経をとがらせていた司法当局はこの出来事を口実に明治天皇暗殺の共同謀議として事件をフレームアップした。

 無政府主義の思想としての質についてはとりあえず私は問わない。ロジックの組み立てそのものは稚拙ではあっても、それはたいした問題ではなく、むしろ彼らをこうした思想へと駆り立てた情熱は奈辺にあったのか、それだけ何とかしなくてはならないという社会的矛盾を彼らは肌身に感じていたことが重要だからだ。

 本書は事件そのものの解明よりも、事件に関係した場所を訪ね歩いて関係者から話を聞き、残された人々の置かれていた境遇を丁寧に掘り起こしていく記録であるところに特色がある。残された人々が事件後もずっと癒されることなく抱えざるを得なかった様々な思いを描き出し、再審請求・名誉回復に向けて努力する人々の姿からは大逆事件は戦後になっても決して過去の事件とはなっていなかったことが示される。

 予断と推測で冤罪が構成された司法手続の問題は、昨今でも“国策捜査”として話題になっているところと相通ずるところがある。また、遺族に向けられた世間のこわばった視線には社会的な同調圧力の冷たさがうかがわれ、こうしたことは現代でも決してなくなってはいないのではないかという著者の問題意識がうかがわれる。私自身が物心ついた時点では大逆事件は冤罪であることがすでに周知の前提となっており、暗黙のうちにすでにけりのついた問題であるという受け止め方をしていたが、当事者の息吹をヴィヴィッドに伝えてくれる本書の筆致から改めて問題の根深さを考えさせられる。

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2011年1月 5日 (水)

林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》

林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》前衛出版、2010年

 これも台湾の書店で歴史関係の新刊台に積まれているのを見かけて購入した本で、昨晩、帰りの飛行機で読み終えた。タイトルを日本語訳すれば、『私たちには違った血液が流れている:血液型・遺伝子の科学的根拠に基づいて台湾各族群の出自の謎を明らかにする』というところだろうか。ここで言う「私たち」というのはもちろん広い意味での台湾人のことだ。台湾住民の血液型やDNAの分析結果に基づいて「台湾人」には形質人類学的に非常に複雑なルーツが絡まりあっていることを示し、「台湾人」=「中国人」というかつては自明視されていた言説は必ずしも成り立たないことを指摘する。

 著者は馬偕紀念醫院の医師であり、もともと台湾において未整備であった輸血制度の確立に尽力していた。その仕事に取り組む中で台湾住民の血液型分布を研究、とりわけ「米田堡(Miltenberger)血型」という輸血時に注意を要する特殊な血液型が台湾に頻出していることの発見がきっかけだったらしい。「米田堡血型」は原住民のアミ族には95%、ヤミ族に34%、プユマ族に21%見られ、これは世界的に極めて稀な頻出度だという。他方で、同じ原住民でもブヌン族は0%、また外省人のうち長江以北出身者も0%であり(日本人も0%)、このように台湾来住者のルーツの多様性を血液型分布の分析によって明らかする。それから、原住民のSARS罹患率は0%で、大陸渡来の漢族系と際立った対照を成しており、これはなぜなのかという医療現場において実際的な問題提起もしている。

 明清期の海禁政策により大陸から渡来した漢族は男性がほとんどで女性は少なく、従って平埔族(台湾西岸平野部の原住民)との混血が進んでいたことは昔から指摘されており、その点では必ずしも目新しい議論ではないが、医学的な根拠による知見が提示されているところが興味深い。

 本書でもう一つポイントとなるのは、大陸渡来の閩南系・客家系のルーツを北方漢族とは異なった南方漢族=「越」族に求める議論である。彼らは中国の史書に見える「百越」にルーツを持つが、これはもともと「漢」族ではなく、「中原」の北方文化から影響を受けて「漢」族としてのアイデンティティを持つようになった南方系の「越」族である。つまり、言語的・習俗的に「漢」族へと同化した「越」系民族が閩南系・客家系それぞれの自意識を持ちながら台湾へ渡来、この地で平埔族との混血が進んだと捉えられ、いずれにしてもDNA分析上では北方漢族との相違が大きいことが指摘される。なお、昨年末に読んだばかりの矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命』(東方書店、2010年)でも「越」系民族が「漢」化したグループに客家のルーツの一つを求める議論が提示されており、本書の議論とも共鳴して興味深い。

 もちろん、「中華」民族観念は文化的共有性に基づくアイデンティティ意識であるため、こうした形質人類学的相違が明らかになったからといってその観念が崩れるわけではない。また、血統意識をあまり強調しすぎると優生学的人種論に陥る可能性も懸念されるので注意する必要はある。他方で、「一つの中国」意識が政治的に強固な国民国家イデオロギーとして作用している場合には、その虚構性を相対化して民族的ルーツの多元的開放性を示す論拠としてプラスの意味を持ち得るだろう。

 なお、台湾独立派の歴史家である李筱峰が本書に序文を寄せている。著者たちの研究で被験者の一人となった彭明敏の紹介で知り合ったようだ。

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石文誠、陳怡宏、蔡承豪、謝仕淵《簡明臺灣圖史:從區域地理環境的角度看台灣史》

石文誠、陳怡宏、蔡承豪、謝仕淵《簡明臺灣圖史:從區域地理環境的角度看台灣史》如果出版、2010年

 台湾の書店で歴史関係の新刊台に積まれていたので購入した本。帰りの飛行機の中でざっと読了した。国立台湾歴史博物館の監修なので、現在の台湾史研究における基本的なコンセンサスは本書に反映されているのだろう。カラー図版が豊富できれいなつくり、各章ごとに年表も付されていて、100ページほどの分量ながらも台湾史の大きな流れがコンパクトに把握できる。

 第1章〈早期的居民〉は考古学・民族学的な成果から原住民の存在に注目。第2章〈異文化的相遇〉はオランダ人・スペイン人の台湾来航により、ヨーロッパ人・漢人・原住民の三角関係が形成、原住民も含めて世界規模の商品経済との接触が始まったことを指摘。第3章〈唐山過台湾〉は鄭成功など漢人の来台について。第4章〈地域社会與多元発展〉は漢人の定住化、農業・商業の発達について。第5章〈鉅変與新秩序〉は日本による植民地化・近代化によって台湾の社会生活が一変、他方で圧制もあり、苦楽悲喜こもごも、一言では言い尽くせない複雑さ。以上、台湾の地域特性を踏まえながら社会史的変化に着目しているのが本書の特色である。南方系原住民がいて、大陸から漢族が来て、オランダ人・スペイン人の来航で世界経済システムと接触して、日本統治期があって、このような形で見えてくる多元的な重層性として台湾史を捉える視点はすでに定着していると言えるだろうか。

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