山県有朋について6冊
山県有朋について今日一日で6冊にざっと目を通した。
山県有朋は1838年、長州萩城下、足軽以下の軽輩の家に生まれた。上昇志向からであろうか、槍術に打ち込んで師範として身を立てようと考えたが、尊皇攘夷思想の影響も受けて松下村塾に入門、吉田松陰の薫陶を受け、また高杉晋作の奇兵隊に参加。明治維新後、自ら望んで欧州視察に出て中央集権体制の実現と国防のための軍備拡張が必要だと確信。帰国後兵部省に入り、1873年には初代陸軍卿となる。大村益次郎の構想を受け継ぎ、国民皆兵主義から徴兵令を制定、軍人勅諭、またプロイセン式軍事二元主義を範にとって参謀本部を設置、自ら初代本部長に就任する。参謀本部は天皇に直属、太政官・内閣から独立し、これが明治憲法において統帥権の独立として規定され、さらに軍部大臣現役武官制も含め、彼の手によって陸軍の制度が確立された。第一次伊藤博文内閣では内務大臣となって地方制度を制定、また自由民権運動など民衆運動の盛り上がりに危機感を抱いて弾圧(保安条例)。1889年、憲法発布後には内閣総理大臣となり、超然主義をとる。
明治から大正にかけて権勢を振るい、ライバル伊藤博文なき後は文字通り元老の第一人者となった山県有朋。幕末維新の激動を生き抜いた人らしく政治的争いをも軍事的視座から考えて周到に布石を打ち、陸軍・官僚・貴族院・枢密院に張り巡らした派閥網によって隠然たる力を握った。どのような評価を下すかはともかく近代日本における国家制度確立への彼の寄与は大きかった一方で、それは後に軍部暴走を許す種となったこと、民衆基盤を無視する権威主義的態度、さらにはどこか陰険に見える人柄もあって、後世の歴史家の間で山県の評判は甚だ芳しくない。岡義武『山県有朋──明治日本の象徴』(岩波新書、1958年)は烈しい権力意志で一貫した政治的人間として彼の経歴をスケッチする。藤村道生『山県有朋』(吉川弘文館、1961年)は自尊心と劣等感との葛藤に彼の権力志向を見出す。半藤一利『山県有朋』(ちくま文庫、2009年)も山県の生涯をたどりながら、彼の明治国家発展に向けた貢献は認めつつも最後まで親近感は抱けなかった…と記す。それでもこれらの著作が敢えて山県という人物にこだわるのは、彼の政治経歴と軍政上の事績は近代日本の権力構造を考え直す上でどうしても無視できないからである。
伊藤之雄『山県有朋──愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009年)は、先行研究では参照されていなかった一次資料を丹念に渉猟しながら山県の性格にむしろ不器用な生真面目さを見出し、その愚直さはある種の責任感であったろうと考える。一般に権力志向とされる点については、例えば征韓論政変で木戸孝允・西郷隆盛の狭間にあって義理と人情とで身動きがとれなかったことなど様々な葛藤を経ながら見つけた老獪さ、言い換えれば人間的成熟とみる。昭和期陸軍の暴走につながる制度的欠陥をつくったという否定的評価に対しては、彼は陸軍に対する文官の介入=専門家に対する素人の口出しを嫌っており、当時の陸軍は陸相を中心に統制がとれた集団であったと指摘、彼の軍拡志向もあくまでも防衛的なもので、大陸政策ではむしろ消極的であったとする。
川田稔『原敬と山県有朋──国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書、1998年)は元老指導から議会指導への移行期における国家構想の相違という視点から原と山県の二人を取り上げる。藩閥官僚系だけでは国政運営が難しくなりつつあり、政党も交えた挙国一致が望ましいと山県も考えるようになっていたという。山県の外交方針は日露提携によって英米と拮抗しながら大陸への勢力拡大を図るところにあったが、ロシア革命で挫折、新たな外交政策上の方針が必要となった。そこに、政党嫌いの山県も対英米協調的な原敬に国政を委ねざるを得なくなった理由の一つがあると考える(他に、米騒動による大衆の勢い、人材不足などの要因)。原の対英米協調、中国への内政不干渉方針は、言い換えると海外市場への進出は経済競争によることになり、こうした外交政策の転換と連動して国民経済の国際競争力強化を目指した政策が打ち出されたと捉える。
井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス、2010年)は、リアリストとしての山県が認識した当時における二つの危機に注目しながら彼の抱いた政治構想の再検討を目指す。第一に、対外的な国家の独立をめぐる危機感であり、対列国協調外交、とりわけ対米協調を重視したと指摘。第二に、近代国家のモデルとするはずだった十九世紀欧州における大衆民主主義の台頭と君主制の危機であり、日本でも同様の危機がおこるのを防ぐため選出勢力と非選出勢力とのバランスを図ろうと権謀術数をめぐらしたのだという。陸軍建設者たる山県が目指したのは近代国民国家の基礎的条件としての国民軍の創出であり、そのためには民衆の動員が必要であった(国民皆兵主義→徴兵制)。他方で、民衆のイデオロギーが軍隊にまで波及するおそれがあり、このジレンマを解決する工夫として編み出されたのが軍人勅諭、参謀本部、統帥権の独立であった。言い換えると、軍部の政治的中立性の確保を山県は目指していたのだと指摘する。戦後歴史学が強調してきた、昭和期陸軍暴走の歴史的起源を山県に求める議論に対しては上掲伊藤書と同様に批判的で、山県有朋イメージの再検証によって日本近代史像の分裂状態を克服しようという問題意識が示される。
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コメント
最近、森勝蔵の「伊佐野農場圖稿」(草思社)…山縣農場の詳細を記録したものの復刻…をパラパラッと見たのですが、
山縣有朋が、栃木に開いた開いた山縣農場。
この農場、彼にとってどのようなものだったのか、気になります。
投稿: 山猫 | 2011年2月 3日 (木) 00時00分
へえ、そういう農場があったのですか。知りませんでした。
投稿: トゥルバドゥール | 2011年2月 3日 (木) 23時51分