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2010年2月28日 - 2010年3月6日

2010年3月 6日 (土)

「フローズン・リバー」

「フローズン・リバー」

 雪の白さ以外には何もない町、厳寒の身を切るような冷たさは人の気持ちまでかたく閉ざしてしまうのか。アメリカ・カナダ国境を流れるセントローレンス川は凍りついて車でも渡れる。アメリカ事情には疎いのだが、先住民の保留地では一定の治外法権が認められているのは初めて知った。部族警察はアメリカ・カナダの警察と協調しているが、法のすき間を縫って密入国業者が暗躍しているらしい。

 白人とモホーク族の女性二人、それぞれ家庭的な問題を抱えており、生活費を稼ぐためやむを得ず密入国者手引きの仕事に関わり、トラブルに巻き込まれてしまうというストーリー。クライム・サスペンス風の設定だが、むしろ二人の母親が互いに抱いた感情的なわだかまりが事件をきっかけに雪解けしていくというヒューマン・ドラマである。監督も主演二人も女性。監督は、女性が主人公だとアクションドラマとして面白くないと言われて発奮したことがあるらしい。母子家庭の生まれで、生活費のやりくりをする母親にとっては毎日がアドベンチャーだったと語っている。そうした生い立ちがストーリーにも反映されているのか、当事者目線に立った切迫した焦りが描かれている。

【データ】
原題:Frozen River
監督:コートニー・ハント
2008年/アメリカ/97分
(2010年3月5日、渋谷・シネマライズにて)

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2010年3月 5日 (金)

イアン・テイラー『アフリカにおける中国の新しい役割』

Ian Taylor, China’s New Role in Africa, Lynne Rienner, 2009

 中国のアフリカ進出についてジャーナリズムを中心に中国非難の声が高いが、最近、アカデミズムの方では中国の果たしている役割のプラス面・マイナス面の両方を勘案する冷静な研究が増えている。確かに中国の行動には問題も多い。他方で、アフリカ側自身に構造的機能不全があり、欧米の資源獲得活動も中国と同様の構図を示してきたにもかかわらず、その言い訳的なスケープゴートとして中国が俎上に上げられている点も指摘される。

 本書は、アフリカにおける中国の活動、具体的には①石油など資源獲得目的の外交、②「安かろう悪かろう」の中国製品流入がもたらしたインパクト、③中国外交の非干渉主義が独裁国家における人権抑圧を黙認している問題、④アフリカを市場とした武器輸出、⑤近年拡大されつつある中国のPKO参加などのテーマを検討。それぞれ様々に問題含みではあるにしても、中国非難が必ずしもフェアとは言いがたい実情を示そうとする。

 中国政府の権威主義的性格のため、経済活動も政治的に一元化されているようなイメージを抱かれやすい。しかしながら、先日取り上げたDeborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)でも指摘されていたが、改革開放以降の経済自由化の流れの中で、海外進出した中国企業に対する政府のコントロールが実は有効にきいていないことが議論の一番の焦点となる。複数の国有企業が競合しているためそれぞれが自律的に活動を展開。アフリカ進出した中国企業が劣悪な労働待遇、環境問題無視などの軋轢を引き起こしているが、それは他ならぬ中国自身の国内問題でもあり、それが海外に行ってもそのまま露わになっている点ではアフリカ蔑視というのとは次元が異なる。武器輸出は、かつてはイデオロギー的な動機から行なわれていたが、ポスト毛沢東時代に軍需産業は利潤動機で再編され、ニッチな市場を求めてアフリカに進出(それでも欧米やロシアよりシェアは低い)。「安かろう悪かろう」の中国製品は、一方でアフリカの産業競争力を圧迫しているが、他方で低所得層に受け入れられている。アフリカ自身の生産効率性やインフラの悪さ(流通コストがかかる)を再考する必要がある。

 欧米は個人の人権を重視するのに対して中国は国家という集団レベルでの発展を重視するという価値観の相違、また外交上の非干渉主義が結果として独裁国家による人権抑圧を黙認しているという問題はやはり抗弁しがたい。ただし、近年は人権問題による国際的イメージの悪化が自分たちの国益を損ねていることに中国政府自身が気づいており、徐々にではあるが政策方針を修正しつつある。G・J・アイケンベリーは、第一次・第二次世界大戦におけるドイツや革命初期のソ連が既存の国際秩序をひっくり返すことで勢力拡大を狙ったのとは異なり、現在における中国の台頭は既存の国際ルールの枠内にある、したがって必要以上に脅威視すべきではないことを指摘している(G. John Ikenberry“The Rise of China and the Future of the West : Can the Liberal System Survive?” Foreign Affairs, 2008 Jan/Feb)。イデオロギー的な野心をすでに捨てた中国の政治的性格はプラグマティックなもので自分たちに不利だと判断すればルールに適応しようとする柔軟さが想定可能である。いたずらな非難で反発の応酬に陥るよりも、むしろ中国を国際的枠組みへと組み込んでいくよう誘導する必要があるし、アフリカ諸国もこうした実利重視で動く中国相手の交渉でシビアに立ち回ってウィン・ウィン関係に持ち込んでいく賢明さが求められる。

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2010年3月 4日 (木)

「渇き」

「渇き」

 人の役に立ちたいと熱望するが虚しさを抱えているカトリックの神父、サンヒョン(ソン・ガンホ)。気持ちを吹っ切るようにアフリカの伝染病研究所へ行くが、そこで病気に感染、しかし何とか一命はとりとめた。帰国したものの、体の様子がおかしい。知覚が鋭敏になり、日の光が恐ろしく、人の血に激しい欲望を感じる──。ヴァンパイヤとなった彼の前に現われたのが幸薄き女性テジュ(キム・オクビン)、ファム・ファタールとも言うべき彼女の振る舞いはやがてサンヒョンの運命を狂わせていく。

 ところどころシュールな演出があって目を引くが、やはり印象的なのはテジュ役キム・オクビンの存在感。どこかあどけなさも感じさせる顔立ちだが、ストーリーの進行に伴ってその表情が目まぐるしく変化していくのが見所だ。最初は不幸な結婚に打ちひしがれて青白い顔色。この息苦しさから脱け出せるという純情そうな憧れ。性愛の喜びに嗚咽を漏らすなまめかしさ。体を血みどろに絡み合わせて彼女もヴァンパイヤとして生まれ変わってからは、嬉々として人の生血をすすりまくる。今までのジメジメとした人生をかなぐり捨てたような高揚感。インモラルというのを突き抜けたその奔放さは、サンヒョンの心中に疼く良心を対比的に際立たせる。ただし、抑圧された欲望の解放とモラルとの葛藤というこの映画に伏流するテーマにあまり深刻さが感じられないのは、韓国のキリスト教には結構カルト的なものが多いという先入観を私が持っているせいだろうか。

【データ】
原題:Bak-Jwi 英題:Thirst
監督:パク・チャヌク
2009年/韓国・アメリカ/133分
(2010年3月3日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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2010年3月 2日 (火)

トーマス・W・シモンズ・Jr.『ユーラシアの新しいフロンティア:若い国、古い社会、開かれた未来』

Thomas W. Simons, Jr., Eurasia’s New Frontiers, Young States, Old Societies, Open Futures, Cornell University Press, 2008

 旧ソ連崩壊後に現われたCIS12カ国の現状を概観。カラー・レボルーションの評価について本書は慎重だが、本書刊行後にはグルジアの挑発でロシア軍侵攻を招いたり、ウクライナの大統領選でも結局親ロシア派が当選したりと、やはりどれ一つとして安定した国はない。12カ国の内情はそれぞれ異なるので単純化は禁物だが、clan政治、つまり氏族、党派性、仲間うち中心の政治→権力基盤としての人的ネットワーク保持が権力の目的となること、選挙はあっても市民社会が欠如しているのでエリート間の権力闘争という形を取るなどの問題点がおおまかな傾向として本書では指摘される。端的に言うと、ネイション・ステートが成り立っていないところに問題点が見出される(state-nationalismが欠けている一方で、ethno-nationalismによる紛争の懸念はくすぶっている)。旧ソ連時代の国境線自体が不自然だったため、国家へのロイヤリティーが根付いていないとも言える(近代的な市民社会ではこれが暗黙の前提で、日本や西欧などはこの「国家」という基礎的なインフラから計り知れないほどの恩恵を受けている)。ただし、アフリカの崩壊国家とは異なり、少なくとも旧ソ連時代に一定の政治機構は完備、政治エリート層も存在しているわけだから、これが貴重な出発点とはなり得る。ロシアもかつての帝国主義とは異なって政治目標の追求に軍事的手段ではなく経済的手段に移行しており、かつ国際的な評判を気にせねばならないので周辺国に対してあからさまな行動にも出にくい。情報化社会の進展によりかつてのような閉鎖性も崩れている(ただし、「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれたトルクメニスタンのような国もあるが)。西欧型の市民社会を基準にすると困難が大きいが、それぞれの国の内情に合った形で市民社会やナショナル・アイデンティティーの確立へと促していく必要が指摘される。ただし、それは閉鎖的なものではなく、旧ソ連時代からの民族的混住状態をむしろプラスの方向で考えて、相互依存的なものとしていける可能性もある。

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2010年2月28日 (日)

ゲイリー・ウィルス『ボム・パワー:現代の大統領と安全保障国家』

Garry Wills, Bomb Power: The Modern Presidency and the National Security State, The Penguin Press, 2010

 核弾頭の発射ボタンを押す最終的な権限を握るアメリカ大統領。核兵器は、それがもたらす惨禍が破滅的であるだけでなく、その威力をどのように扱うかという思惑そのものが一定の政治システムを生み出した。本書は、核兵器の出現によって駆り立てられた行動パターンがいかにアメリカ政治を変容させてきたのか、第二次世界大戦における核兵器開発のエピソードからブッシュ政権のイラク戦争まで検討していく。タイトルをこなれた日本語にうまく置き換えられないのだが、つまり核弾頭の存在がもたらす影響力(Bomb Power)によって、アメリカが立憲主義に反する形で安全保障体制最優先のシステムに陥ってしまったという問題意識が示されている。

 そもそもの出発点であるマンハッタン計画自体が隠密裏の活動で、副大統領だったトルーマンもF・D・ローズヴェルトの死去によって大統領に昇格するまで知らなかった。核開発知識の漏洩を防ぐため計画参与者以外には情報を完全にシャットアウトして大統領に直結。ソ連に対する対抗意識から計画推進のための膨大な予算を要求するが、議会のチェックは許さない。核の絶対性は、発射ボタンを握る大統領をして「我々の最高司令官」たらしめる(しかし、憲法上、軍隊の最高指揮官ではあっても、一般国民の最高指揮官ではない)。こうした秘密主義、大統領への権限の集中、議会へのアカウンタビリティーの無視といった政治文化が、冷戦から「テロとの戦い」まで一貫して続いているとするのが本書の趣旨である。例えば、ヴェトナム戦争のような宣戦布告なき戦争、CIAやNSAの独走による他国の政権転覆工作(Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraqが参照されている→以前にこちらで取り上げた)、情報公開への拒否(一つの情報は他の情報とモザイク状に絡まりあっているので、それを出してしまうと最高機密まで危ういというロジック)などの具体例を挙げていく。

 すべての始まりが核開発計画だったとするのはあまりに単純化しすぎているような印象も受けるが、一つの視点としては興味深い。

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北博昭『戒厳──その歴史とシステム』

北博昭『戒厳──その歴史とシステム』朝日選書、2010年

 日本近代史における「戒厳」の歴史を法的側面から整理した研究。「戒厳」などと言うとおどろおどろしいイメージも浮かぶが、本書は無味乾燥なまでに抑えた客観的な筆致で安心して読める。

 同じ暴力行使に基づく活動であっても、軍隊は外敵を対象とするのに対し、警察は治安目的で国内の市民を対象とする。軍隊が国内における治安活動を行う場合には非常警察と呼ばれ、①戦時における真正戒厳、②平時において警察の手に負えなくなった事態に対処する行政戒厳(法令上の根拠はないが、緊急勅令によって戒厳令の一部を適用。日比谷焼き打ち事件、関東大震災、二・二六事件の3例がある)、③治安出兵、の3つに大別され、治安出兵に関しては、a.地方長官の請求による出動(米騒動、朝鮮半島における三・一独立運動など7例)、b.軍隊指揮官の自発的裁量(東京砲兵工廠のストライキの例、ただし、軍専横の可能性があるためこのケースは少ない)、c.法律執行目的(訴状の強制執行で抵抗があった場合、密漁対策の漁業警察など)に分けられる。太平洋戦争のときは軍の行政責任回避のため戦時立法が事実上「戒厳」的な性格を帯びた。

 国家緊急権を欠く現行憲法体制下において「戒厳」の位置づけに関してはグレーゾーンである。一部の人々にはこうした議論に忌避感があるようだ。しかし、何らかの事態によって法的空白が生じてしまったら、それこそ何でもありの恣意的な運用を許してしまいかねないわけで、あくまでも人権擁護を第一目的とした軍隊出動・私権制限のあり方について議論を深めておく必要はあるのだろう。

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