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2010年12月26日 - 2011年1月1日

2010年12月31日 (金)

戴國煇の本を何冊か

 しばらく台湾独立派の本ばかり続いたので、バランスをとるため違う見解の人の本を読みたいと思い、戴國煇の本を何冊か手に取った。日本における台湾研究を牽引してきた一人であり、研究者の回顧でも戴國煇にお世話になったという言及がよく見られる(例えば、春山明哲『近代日本と台湾──霧社事件・植民地統治政策の研究』[藤原書店、2008年]所収の回想記など)。また、戴國煇は客家出身であり、昨日読み終えたばかりの矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命』(東方書店、2010年)で、矢吹は若い頃にアジア経済研究所の先輩だった戴國煇と出会って客家に関心を持ったという趣旨のことを述べている。

 戴國煇『台湾──人間・歴史・心性』(岩波新書、1988年)は以前に読んだことがあったので、『境界人の独白──アジアの中から』(龍渓書舎、1976年)、『台湾と台湾人──アイデンティティを求めて』(研文出版、1979年)、『台湾という名のヤヌス──静かなる革命への道』(三省堂、1996年)の三冊に続けて目を通した。いずれも雑誌等既出の論考・随筆を集めた構成で体系的な台湾論となってはいないが、時論を通して自分の見解を直截に述べる辛口から熱血漢ともいうべき人柄はしのばれるし、比較文化論としても面白い。この三冊の中では『台湾と台湾人』が一番まとまった内容になっているように思う。特に「植民地体制と知識人」では台湾出身で日本・中国大陸を行き来した様々な人たちを取り上げ、彼らを通して台湾人としてのアイデンティティの葛藤を浮き彫りにしており、興味を持った。他に霧社事件を取り上げた本も重要だが未読。

 台湾論では政治的にナーバスとならざるを得ない問題が二つある。第一に、植民地遺制をどのように捉えるか。近代化→日本による植民地支配を正当化する論調につながりかねない側面があり、これに対して戴國煇の批判は厳しい。

 第二に、台湾独立論をどのように考えるか。他人の国のことだから支持・不支持を言う筋合いはないので、このテーマはどちらの立場の議論であっても日本人である私としては読んでいてどうにも居心地が悪い。戴國煇は、「台湾民族」なるものは虚妄であるとして独立論に対して明確に反対の論陣を張っている。第一に、独立派は狭義の台湾語=福佬語話者中心の偏狭な立場を取っており、それだと台湾内ではマイノリティーである客家や原住民が抑圧されてしまうという批判。第二に、福佬系と客家系<台湾人<中国人という重層的なアイデンティティ構造による中国人意識を持っており、これを分断する考え方に対しては強い拒否感を示している。客家アイデンティティには中原から南に逃れた子孫という伝説→自分たちこそが中華の正統な後継者であるという思い入れがあると言われるが(その正否はともかく)、戴國煇の議論にもそうしたプライド高さはうかがわれるように感じられた。

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2010年12月30日 (木)

矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命──「多元的国家」への視座』

矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命──「多元的国家」への視座』(東方書店、2010年)

 日本における誤り多い客家イメージを洗い直し、中国における正統的な歴史観の中で欠落した客家の存在感を再検討するという内容。客家を論じながらそこを通して「中国」をいかに捉えるかというさらに大きな問題意識につながっており、興味深く読んだ。

 第Ⅰ部では矢吹晋がこれまでの客家研究をサーベイする。間違いや誇張が多く含まれた日本における従来の客家イメージを解きほぐす一方、最近の学術的研究を紹介しながら客家を考える上で必要な論点を整理してくれる。民族問題では必ず問題となるポイントだが、客家というのが自明なグループとして存在するというよりも、「自分は客家である」という自覚に根拠は求められる。古代の中原から南へと逃れて移住したという伝承が客家のアイデンティティー的基礎をなしており、この正統性意識(文化的正統性の自覚は中華思想の核心とも言える)が近代中国ナショナリズムと共鳴しながら客家アイデンティティーが強調されるようになった。このあたりが大きな論点となるだろうか。

 私が特に興味を覚えたのは言語学者・橋本萬太郎などの仮説を踏まえた言語学的な論点。アルタイ系の言語は修飾語を使うとき、修飾語の前に被修飾語を置くという逆行構造をとるが(例えば、「美しい」→「花」という順番)、対して南アジア系の言語は修飾語の後に被修飾語を積み重ねていく順行構造をとる(「花」→「美しい」という順番)。中国語には両方の構造が含まれており、北方方言では逆行構造の割合が高く、南方方言では順行構造の割合が高いという。つまり、「中国語」という自己完結した言語があるのではなく、逆行構造を特徴とする北方系言語と順行構造を特徴とする南方系言語とが重なり合いながら幅広いグラデーションを成しており、そうした言語群として「中国語」は把握できるのだという。客家語もその中に位置付けられる。「中国」と一言でいってもそこには多元的な言語生活が広がっている。従って、均質的な国民国家として「中国」を把握することの無理を指摘、著者は中華連邦構想へと議論をつなげていく。

 第Ⅱ部では藤野彰が革命故地への訪問記を通して正統的な中国共産党史から欠落していた客家の存在感に注目する。革命根拠地・井岡山での客民に対する粛清をどのように捉えるかという問題には矢吹と共にとりわけ重きが置かれている。冤罪であることが立証されると共産党の正統性にもケチがつくことになるらしい。私は中国共産党史には疎いのでどれほど重要な問題なのかよく分からないのだが。鄧小平もおそらく客家であろうと考えられるが、それを確証する根拠を探し出すのはなかなか難しいという。

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宗像隆幸『台湾独立運動私記──三十五年の夢』『台湾建国──台湾人と共に歩いた四十七年』

宗像隆幸『台湾独立運動私記──三十五年の夢』(文藝春秋、1996年)、『台湾建国──台湾人と共に歩いた四十七年』(まどか出版、2008年)

 著者は日本人だが、学生のとき台湾からの留学生、許世楷(後に陳水扁政権で駐日代表[大使])と下宿先で知り合い、彼の熱気におされたのが台湾独立運動と関わるきっかけだったらしい。彼ら独立運動に携わった留学生たちは、国民党政権下の台湾に戻ると監獄行き、下手すると銃殺刑になりかねない。学位をとり、就職先をみつけないと日本滞在資格を失うため、文字通り必死で勉強していた。従って時間の余裕がとれないので、代わって日本人である著者が台湾独立運動の機関誌『台湾青年』の編集実務を引き受けたのだという。独立運動に関わった人たちの日本語の博士論文が学術系出版社から刊行されており、台湾史に関する本は私も何冊か目を通したが、こうした命がけの背景があったことを知り、改めて身が引き締まる思いがした。

 『台湾独立運動私記』は内部にいた者の視点で捉えた独立運動の回想記である。国民党政権の特務が日本の入管当局にも手を回して日本で活動する運動家たちを強制送還させようと画策しており、強要されてスパイをさせられていた者もいたりして、スパイ映画かと思わせるエピソードが生々しく語られる。共産主義者であるためアメリカにいられなくなって日本に来た台湾人学生・陳玉璽が強制送還されたときには、台湾独立運動家が救援活動を行なうと「独立運動=共産主義の陰謀」という国民党のプロパガンダに言質を与えることになってしまうため彼らは動けず、支援者の川田泰代が日中友好協会に駆け込んだところ「台湾人は中国人ではないから手伝えない」と言われ、結局、彼女や著者など日本人で救援の努力をせざるを得なかった。この事件がきっかけでアムネスティ・インターナショナル日本支部が設立されたそうだ。台湾大学教授(国際法)で「台湾自救宣言」を出したため軟禁状態にあった彭明敏の台湾脱出でも計画を立てたのは著者らしい。なお、彭と面識のあるキッシンジャーが大統領補佐官の地位にあったため、学術的招請という名目で彭の出国に向けて国府に圧力をかけてもらおうと連絡をとろうとしたところ、完全に無視されたという。ちょうどニクソン訪中直前の時期であった。

 『台湾建国』では台湾の民主化にいたる経緯について政論を交えながら回想し、上掲書の後日譚とも言うべき位置付けになる。陳水扁政権が終わり、馬英九が総統に当選する直前の時期の刊行だが、当然ながら李登輝や民進党を支持する論調である。陳水扁政権になり、これまで身近にいた人々が要職に就くのを目の当たりにするのはやはり感慨深いようだ。

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2010年12月29日 (水)

邱永漢『私の金儲け自伝』『わが青春の台湾 わが青春の香港』

 以前、twitterに邱永漢と王育徳の比較は興味深いテーマだという趣旨のことを書いたことがある。二人とも台南の出身の同年代、台北高校→東京帝国大学と進んだエリート、しかし二・二八事件を目の当たりにして台湾独立運動に邁進したという経歴でも共通している。しかしながら、その後、独立運動がままならない中、邱は無国籍者として生きていくためどうしても金を拠り所とせざるを得なくなり、やがて「金儲けの神様」として大成する。他方、王育徳は台湾独立への情熱を台湾語研究へと注ぎ、この分野で第一人者となった学究として記憶されている。

 同様に台湾独立運動に関わった二人のその後の生き様が全く対照的であるところに興味がひかれた。ただし、邱永漢の膨大な金儲け指南的ビジネス書を読み続けるのは不毛としか思えないので、私自身がこのテーマに取り組むつもりはない。それでも、邱永漢という人物の、表面にある金儲け志向は胡散臭くも、内面的には相当に屈折しているであろうところは興味深いと思う。

 そういうわけで、とりあえず彼の自伝的著作二冊に目を通した。『私の金儲け自伝』(邱永漢自選集第8巻、徳間書店、1977年)は主に日本亡命以降の事業経歴をつづっており、『わが青春の台湾 わが青春の香港』(中央公論社、1994年)は日本亡命以前の回想である。後者には実の母が日本人であることなど複雑な家庭事情も記されている。

 邱永漢は台湾の帰属先決定のための住民投票を求める国連への建議書の草案を書いたことがばれて香港に逃れた。王育徳が日本へ亡命するに際しても香港で手助けしている。王は倉石武四郎のツテで東大に復学したが、日本への居住権を明確にするため警察へ出頭したところ、逆に強制退去命令が出そうになってしまった。このとき、王の立場を代弁しようと邱の執筆した作品が「密入国者の手記」である。裁判資料として提出され、この作品のおかげかどうかは分からないが、王の日本永住はかなう。一方、この作品は西川満を介して日本の文壇人に紹介され邱の文才が賞賛されるという副産物もあった。好評に気をよくした邱は、香港での事業が思わしくなかったこともあり、元手なしで資金を稼ぎ出す手段として文筆で身を立てようと考える。1955年に「香港」で直木賞を受賞、日本国籍者以外で受賞したのはこれが初めてだったという。新田次郎と同時受賞で、芥川賞は石原慎太郎だった。

 邱には「検察官」という作品があるが、これは王育徳の兄・王育霖をモデルとした小説である。王育霖は、台湾人に対して威張り散らす警察官を取り締まる側になりたいと考えて法曹を志し、東京帝国大学を卒業して検察官になった。戦後は台湾に戻って勤務したが、外省人政治家の汚職を摘発しようとしたところ妨害されて失敗、それどころか逆恨みされ、二・二八事件のどさくさにまぎれて殺害されてしまった。弟の王育徳はこの事件のショックで亡命を決意することになる。

 邱の論理的な文章は推理小説にぴったりだとも言われたらしい。彼は合理的思考の持ち主で、文学に対する態度も、まず実体験がなければ小説的イマジネーションはふくらまない、ところで自分は他の人に比べれば異常な体験をしてきた、それが文学的貯金になっている、しかし枯渇したらもうおしまいだ、と考えた。その時点で見限って、株式評論を皮切りに事業経営へと転身していく。

 『私の金儲け自伝』には「台湾へ帰るの記」という一文が収録されている。1972年、彼は国民政府側から接触を受けて台湾へ24年ぶりに帰国することになった。ちょうど国連代表権変更によって台湾の国際的孤立化が深まりつつある時期で台湾からの資本逃避が加速化しており、邱が台湾に投資してくれればこうした趨勢に歯止めをかけるアピールになるので来て欲しい、との招請だった。邱が国府に「投降」したという報道が流れたため、それへの反駁というのがこの一文の目的のようだ。彼の言い分は、台湾が共産主義に飲み込まれてしまうのはまずい、外省人といっても若い世代は台湾生まれ・育ちであって反攻大陸なんてもはや意味はない、あくまでも自分の故郷を建て直したいから戻るのであってそのために自分の金儲けの智慧が活用できればいい、ということらしい(資本主義確立の教育が必要で、自分は渋沢栄一と福沢諭吉の二人の役割を果たさねばならない、と気負った発言もしている)。政府高官に会った際にはもっと多くの台湾人を公職につけて欲しいと要求もしている。一方で、日本はすでに安定成長段階に入ったため投資効率が従来通りにはいかない、台湾・韓国は成長株だ、という判断もあったことも正直に記している。

 いずれにせよ、経済的自立が台湾の将来の大前提だという考え方を示しており、孤立無援の台湾の経済発展に、居場所がなかったがゆえに生きいく拠り所としてなりふりかまわず金儲けをせざるを得なかった邱自身の経歴を重ね合わせていると解釈できるだろうか。

 邱は当初、経済学者として身を立てるつもりで東大の大学院まで進んだが、諸般の事情で不安定な生活を送らざるを得ないはめになった(なお、台湾に帰国して一時勤務した銀行で、博士論文として提出するつもりで「生産力均衡の理論」という論文を書いたが、それを李登輝が読んでいたことを後に知って驚いた、というエピソードも披露している。李登輝は台北高校の一級下だったという)。ところが、「東大経済学部は金儲けの仕方を教えてくれなかったから苦労した」と冗談交じりに苦言を呈する。直木賞受賞作「香港」で、自分たち台湾人を「ユダヤ人」になぞらえる発言があったのを思い出す。ひたすら生き抜くために、理屈や理想など何の役にも立たない、という趣旨の発言は邱の著書では随所に見られる。岡崎郁子『台湾文学──異端の系譜』(田畑書店、1996年)に邱永漢へのインタビューがあり、彼は王育徳についてあまり評価していないという趣旨の発言をしているのだが、ここには邱の体感的な「学者不信」の感覚もあるのだろうか。

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福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』

福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年)

 福岡県のある小学校教諭は、いわゆるモンスター・ペアレントの執拗なクレームを受けた。身に覚えはないが、保護者とのいざこざを恐れる校長や教育委員会の示唆でとりあえず謝罪する。ところがクレームはますますエスカレート、騒ぎを聞きつけたマスコミは、“怒れる”保護者の言い分を全面的に信じ、検証もなしに「生徒を差別していじめる史上最悪の殺人教師」と書きたててしまった。社会問題化すると今度は人権派弁護士が大挙して駆けつけて裁判に持ち込まれたのだが、公判が進むにつれてむしろ保護者の言い分の矛盾が次々と明らかになっていく。取材を進めた著者は、過熱報道でバイアスのかかった一方的な情報が独り歩きして人々の思考を停止させ、その結果として冤罪が作り出されてしまったプロセスを見出す。

 著者の新刊『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』(新潮社、2010年)をたまたま読み、深刻なテーマを読みやすい文章に移し変えていく筆致に興味を持って本書も手に取ったのだが、続けて読んでみると、ジャーナリズムが陥りかねない落とし穴が二冊を通して両極的な形で浮かび上がってくる。

 もちろん、政権による言論統制が生命の危険すら招くロシアとは次元が異なる。だが、権力とは暴力のみを意味するわけではない。子供は善、保護者は正しい、こうした考え方が聖域化されて疑問の余地なしとみなされたとき、これもまた事実関係の究明を妨げるタブーとして作用してしまう。言論の自由は、商売のレベルでは新奇でセンセーショナルなニュースの価値を高めるため、誇張した過熱報道へと向かう誘因をはらんでいる。“正義”の高みから他人を断罪する快感に酔いしれたい人々は極悪人の記事を求め、そうした欲望はスケープゴートを作り出すことをいとわない。制度的に言論の自由が保障されてはいても、それを使いこなすのはやはり各自の心がけ次第、ということになってしまうか。

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2010年12月28日 (火)

福田ますみ『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』

福田ますみ『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』(新潮社、2010年)

 ロシアではマスメディアが政権批判を行うのは禁物らしい。一定範囲ならば言論の自由は許されているにしても、政権や有力者自身がある種の犯罪行為に手を染めた場合、それをチェックする者はおらず、主要マスメディアは政府の翼賛宣伝組織になりさがっている。本書は、そうした中でも例外的に孤軍奮闘している「ノーバヤガゼータ」紙の記者たちにインタビュー、彼らの活動を通して言論の自由と政治的統制との極限的な緊張関係を描き出したノンフィクションである。

 とりわけ汚職、治安機関、そしてチェチェン問題はプーチン(+メドヴェージェフ)政権下では絶対のタブーであり、この一線を越えると文字通り命が危険にさらされることになる。同紙ではこれまで6人の記者や顧問弁護士が暗殺されており、その中でもアンナ・ポリトコフスカヤは世界的にも著名であろう。ポリトコフスカヤの活躍にあこがれた若手が入ってくる一方で、反体制的スタンスというよりもクオリティ・ペーパーとしての格調高い文章にひかれたという人がいるのが興味深い。

 記者たちの身の危険を案じて方針転換を検討する編集長の迷いは当然だし、かといって政権の言いなりになって黙ってしまえば、理不尽な思いを抱えてどうにもならない人々を守る者は誰もいなくなり、彼らは泣き寝入りせざるを得なくなる。これはバランスをとってどうのこうのという問題ではない。記者たちは人々の訴えを聞いてしまったし、現場に行って事件の悲惨なあり様をじかに目の当たりにしてしまった。政府は臆面もなく情報操作を行う。誰かが伝えなければ、これらの理不尽な事実はあたかも最初からなかったかのようにかき消されてしまう。記者たち、そして協力する人々の必死な息づかいを本書はヴィヴィッドに伝えてくれる。

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呉濁流『アジアの孤児──日本統治下の台湾』

呉濁流『アジアの孤児──日本統治下の台湾』(新人物往来社、1973年)

 日本の植民地支配下にあった台湾のある知識青年を描いた小説。当初のタイトルは『胡太明』、主人公の名前である。戦争中の1943~45年にかけて執筆されており、中には日本軍による残酷な処刑シーンや皇民化に励む台湾人の悲哀など政府批判にあたる箇所も含まれているため、見つからないよう隠しながら書きついだという。

 祖父から伝統的漢学の手ほどきを受けた少年期、公学校・国語学校を出て教員となり、さらに日本へ留学、植民地支配下の理不尽から逃げるように大陸へ渡るが、祖国と思っていた中国で台湾人は軽蔑され、スパイの容疑で捕まってしまう。脱走して台湾に戻るが、今度は軍属として召集され戦場に駆り出されたり、様々な矛盾に引き裂かれる中で精神に異常をきたしてしまう、という話。

 台湾、日本、中国大陸を行き来しながら、植民地支配によってアイデンティティ分裂を強いられた苦悩を描き出している点では、戦後に著された自伝的小説『無花果』と基本的なプロットは重なる。当時の社会状況における台湾人の心理描写として意義深い。さらに興味がひかれるのは、植民地支配に対する告発というモチーフが全体の主軸を成しつつも、同時に、例えば日本人=支配者=悪という感じに得てして陥りかねないステレオタイプではなく、一人ひとりの人物像がしっかりと描き分けられている。こうした筆致だからこそ文学作品としての説得力も持たせている。

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2010年12月27日 (月)

彭明敏・黄昭堂『台湾の法的地位』

彭明敏・黄昭堂『台湾の法的地位』(東京大学出版会、1976年)

・台湾にはもともと原住民の複数の政治単位があったが、西欧起源の近代国際法の論理に基づくと、明確な国家組織なし→「無主地」→「先占」の論理によって領有可能となる。
・鄭氏政権は台湾における事実上の独立国家→清が併合→1885年に福建台湾省→1895年に日本へ割譲、この間隙を縫って台湾民主国が独立宣言→短期間かつ実効性に問題はあっても法的には日本から、事実上は清国から独立を宣言したとみなせる。
・先占:国家による宣言、実効的な占有により無主の地を他の国家に先駆けて支配する→史書に名前が言及されていることとは次元が異なる。
・澎湖諸島は元が先占、台南一帯はオランダが先占、基隆・淡水一帯はスペインが先占。従って、先占によってそれぞれにとっての「固有の領土」。
・南明の滅亡後、従って国家主体ではあり得ない武装集団としての鄭成功や台湾住民がオランダ政庁を打倒→澎湖諸島と台湾島は建国時の原始領土。また、台湾民主国は台湾島が固有の領土→清、日本にとっての固有の領土ではない。
・領土の承継はどのように?→合法的な移譲。滅亡した国家→領有関係消滅。元→明→清→中華民国→中華人民共和国という承継は成り立つのか?→「中国」の連続性の主張は清末ナショナリズムの所産にすぎない。
・中華民国成立時に清の対外条約の承認を宣言→清の承継国家となる→しかし、この時点で台湾はすでに日本へ割譲されていたのだから、台湾は中華民国にとっての承継の対象にはならない。
・カイロ宣言を転機として台湾の中華民国への返還という流れが出てきた。台湾の帰属問題は、台湾処分の妥当性ではなく、当時における各国の利害関係に従って左右された。
・日清講和条約廃棄→無効、もしくは日清戦争は響伯→無効という議論:日清戦争自体は「いわば帝国主義候補国である日清両国が帝国主義への転質か従属国への転落かをかけて」戦った→朝鮮に対しては侵略であったが、清に対する脅迫→原状回復の論理は成立しない。
・日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したことを再確認できるだけ→すでに権限を放棄しているのだから、改めて中華民国もしくは中華人民共和国へ割譲することはできない。
・国際法的には台湾の帰属先未定→台湾は「無主地」。国際法は強国の「力の論理」による自己正当化として作用、対象とされた地域の住民の意思は無視された。国際間の利害関係が錯綜しており、当時は決定を先送り→「人民自決の原則」が台湾に適用されなかったという事実がある→法的帰属を確定するために人民投票の形式を要する。

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許世楷『日本統治下の台湾──抵抗と弾圧』

許世楷『日本統治下の台湾──抵抗と弾圧』(東京大学出版会、1972年)

・日本の支配に対する抵抗と弾圧が繰り返されながら抵抗が徐々に弱まり、日本による植民地統治が確立していくプロセスをたどる。とりわけ1895~1902年の武力抵抗は激しかったが、これは日本側からは匪賊とみなされ、他方、中国では抵抗集団=中国ナショナリズムの発露とみなされて、いずれにしても台湾住民の主体的動きが無視されてきたという問題意識を示す。

第一部 統治確立過程における抗日運動(1895─1902)
・台湾民主国成立、しかし旧清国軍は潰走、逃亡したのに対して、地元の義勇軍は抵抗継続。
・日本側の無差別報復的討伐→抵抗運動の気力を挫く一方で、政治的無関心層までも抵抗へと傾斜させた。
・抗日軍は当初は軍紀厳正、しかし戦況不利、補給困難→匪賊化傾向、一般住民との関係冷却。日本側は、当初は軍事征伐のみで対応していたが、警察を中心に討伐と招降の硬軟両様の対応へと転換。
・雲林地方で簡義ら鉄国山抗日軍。中西部の抗日軍の指導層に読書人は少なく、土着性強い→北部での抵抗とは違って清国復帰の意図はほとんどなし。
・抗日軍は旧時代性を払拭できず→民衆の革命的エネルギーを吸収・組織できず。日本は抵抗軍と一般住民とを区別して対応、両者の分断に成功。
・1915年4月の西来庵事件を最後に武力抵抗はなくなる。
・抗日軍の存在を理由として「法律第六十三号」→台湾総督の専制的権力。

第二部 統治確立後の政治運動(1913─1937)
・同化会。差別政策撤廃運動→六三法、教育の問題。日本の留学生たちが台湾青年会。啓発会(1918)→新民会(1920)
・六三法撤廃運動→内地延長主義→同化主義を承認するのか、それとも台湾人の特殊性→日本本国とは別枠の民主主義=自治→台湾議会設置請願運動。
・台湾の農民が近代的所有関係を知らないことにつけこんで林野の官有林編入→日本人資本家に払い下げ→竹林問題。バナナ問題。蔗農問題。
・文化協会→左翼勢力の発展、中国国民党の国共合作という動向への関心→文化協会の分裂。蒋渭水、蔡培火、彭華英たちは台湾民衆党を結成→蒋渭水たちは農工階級を中心に全民運動に乗り出し、労働運動へも進出。共産党の進出。民衆党の分裂→林献堂たちは地方自治連盟(1930)。
・こうした政治運動の特徴としては、①民族自決、デモクラシー、共産主義など近代思想を内容とする、②台湾人への思想上の啓蒙活動に努力、③武力闘争ではなく政治結社を手段とした、④台湾以外にも日本人、中国人、朝鮮人など支持者の広がりがあった。
・前半期の抗日闘争が伝統的エリートによる地方的闘争であったのに対し、後半期の政治運動は新しい型の指導者による台湾人トータルの運動であった。

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凃照彦『日本帝国主義下の台湾』

凃照彦『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会、1975年)

・日本資本主義による台湾経済植民地化の過程を当時のデータに基づきながら実証的に分析、とりわけ日本側の資本主義的発展段階が台湾経済の変容に連動していたプロセスに注目する。日本独占資本=資本家的企業の進出・支配と台湾伝統社会における土着資本=地主制が並存、前者が後者を利用しながら経済的収奪を進めていたところに台湾植民地経済の特徴があったと指摘する。

第一章 台湾経済の歴史的特質と商品経済
・日本統治以前→地主的私有制、大陸や外国商人との交易から商品経済がすでに普及していた。地主の存在→日本の土着農民への直接支配困難→地主制を温存・利用しながら資本主義化が展開。
・日本資本進出の基礎工事:土地調査事業→地主の整理。台湾銀行を基軸とした貨幣金融制度。

第二章 台湾経済の植民地化過程、第三章 台湾農業の畸形的再編成
・日本の製糖業は輸入原料加工産業への転換期にあたっており、台湾領有によって原料確保。当時の市場的条件から米、茶、樟脳よりも有利なものとして製糖業を推進、保護政策。
・台湾で蓬莱米の開発、生産力向上。日本では植民地へ工業製品を売り込む反面、国内農産物の価格が相対的に上昇していた。また、台湾では甘蔗栽培によって商業的農業の土台ができていた→日本の米価政策と連動しながら台湾の米穀は日本市場と結びついた。
・当初は砂糖中心の貿易構造→1920年代後半から糖・米二大商品が基軸(両方あわせて全体の70%を占める)。
・「糖・米相剋」関係:日本本土での農業保護=米価維持政策→米価の相対的上昇→台湾での米作への誘引→糖業後退。
・総督府の農業調整政策→台湾米穀移出管理令→農民から米穀を強制的収奪、日本の資本家は本土における買取価格との差額から利益。
・1930年代後半から工業部門の生産額における比率が上昇→40年代には農業生産を上回る(ただし、米価抑制政策などを考慮する必要あり)→工業化では土着人への差別的賃金政策。
・近代糖業の確立→賃労働者層の創出は実はあまり大きくなかった。人口構成は依然として農業主体。
・日本の植民政策は、地主・小作関係の温存・安定化を意図→農民の余剰労働の収奪。
・農家経済構造の不安定性→農民層分解。

第四章 日本資本の支配と膨脹
・台湾銀行の役割。
・台湾製糖(三井系)など日本内地資本の進出→1911年までに欧米資本を駆逐、土着資本の従属化、製糖業の合同・再編成(台湾製糖、明治製糖、日糖興業の三大会社と塩水港製糖)→糖業資本の独占。
・第一次世界大戦以降、台湾銀行は日本内地に金融の重点→鈴木商店の破綻、金融恐慌→台湾は日本資本主義の構造に組み込まれていたので島外の事情で左右されてしまう。
・糖業そのもので拡大再投資には限界あり。また、製糖業は内部留保を増やして(金融恐慌の教訓もある)銀行から相対的自立性を確保→他産業(主に島外)へ投資。
・1930年代から新興産業資本が進出。1936年には国策会社の台湾拓殖会社。地場日経資本の赤司初太郎、後宮新太郎は内地資本とつながりながら発展。

第五章 土着資本の対応と変貌
・旧来型の地主資本としては林本源家、林献堂家、砂糖輸出業の陳中和家、日本資本と結びついて発展した資本としては、辜顯榮家、鉱業請負の顔雲年家の五大家族。ただし、日本人中心で自立性なし。
・林献堂はブルジョワ民族運動派となったのに対し、辜顯榮、林熊徴などは御用士紳として民族運動に反対

・植民地遺制は戦後台湾経済内部におけるゆがみを再生産することになった:①植民地期において土着資本勢力=地主階級の弱体化→戦後における土地改革の前提、②強固な中央集権体制→戦後に受け継がれた、③日本資本の巨大企業と土着生業的零細商工業という二重構造→戦後における公業・民業の二重構造へ、④糖・米モノカルチュア的生産形態→農民たちへの強制的な剰余価値収奪システム、日本・アメリカ貿易への従属性といった形で戦後も継続。

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2010年12月26日 (日)

台湾の実業家を何人か

郭泰(広瀬輝明監訳、謝雅梅訳)『大華僑伝──台湾の松下幸之助・王永慶』(総合法令、1996年)
・台湾プラスチックの王永慶の評伝。裸一貫たたき上げの経営者で、企業経営の卓抜さから台湾では松下幸之助のような存在らしい。
・彼は1917年、新店の貧しい家庭に生まれ育ち、15歳のとき嘉義市の米屋で丁稚奉公。16歳で小さいながらも自分の米屋を開く。人一倍努力して大きくしたが、戦時体制下で閉鎖。信頼関係を軸に顧客を開拓。
・政府はアメリカの支援をもとにプラスチック工業を興そうとしたが、担当者が投げ出した→タイヤ生産の申請をしていた王のところに話が回ってきた。「民営」に任せるつもりだった経済部長・尹仲容の判断も後押し。→1954年、台湾プラスチック(台塑)工業株式会社設立。1980年にアメリカ進出。1990年代には中国大陸進出を目指して政府とせめぎ合い。
・松下との共通点がいくつか並べられる一方で、松下はソフトな態度で部下に任せるのに対し、王は自分の命令が行渡っているかいちいち検証しようとするハードなところがあると指摘。

『張榮發自伝』(中央公論社、1999年)
・台湾の世界的流通会社、エバーグリーン・グループを築き上げた張榮發の自伝。
・父は大阪商船の船員で、張榮發は1927年に蘇澳に生まれ、基隆に育つ。公学校卒業後、南日本汽船の用務員として務め始め、1944年に初航海。父は戦争中、レイテ沖で船が撃沈されて死ぬ。
・張榮發はもともと事務系だったが、戦後は船倉管理の仕事をしながら勉強、三等航海士の免許を取得。
・1961年から知人と共同出資で海運会社を設立したが考え方の相違から袂を分かち、1968年に中古船一隻で長栄海運公司(Evergreen)を単独経営で始める。これまでの仕事で信頼関係のあった丸紅が支援。戒厳令下の台湾では制限があって仕事がやりづらい→パナマ船籍にして海外発展。海外から発展して、その上で国内へという発展方針。国民党には加入せず、党派的には中立。
・1970年代からいち早くコンテナ船に転換。1984年には世界初の東西双方向世界航路を開設。海運と陸運のネットワークで世界をつなげる。1988年に台湾政府も「オープンスカイ」政策→中国人でも質の高い航空会社を作れるんだ!という意地で参入、政府関係部門の妨害をはねのけながらエバーグリーン創業20周年で長栄航空公司を設立。関係部門の経営多角化。

呉火獅『台湾の獅子』(講談社、1992年)
・新光グループをたたき上げで創業した呉火獅の自伝的な遺稿をまとめた本。
・呉火獅は1919年、新竹の貧しい家庭に生まれ育ち、迪化街の布問屋で丁稚奉公。日本人のボス・小川光定に出資してもらって20歳で新会社を設立。戦後、新光商社を設立(故郷・新竹の「新」と恩人・小川光定の「光」に名前は由来)。当初は日本から布地を輸入、それから製茶業。この頃から、知己として繊維業の先輩として台南幇の侯雨利や、呉三連の名前も出てくる。
・当時、紡績業は国営もしくは上海から来た資本家の独占、通貨膨張で企業倒産相次ぐ、政府の輸入代替政策で日本からの布地輸入ができなくなる、などの困難→工夫して人造繊維の紡織工場を設立→新光企業グループの母体となった。
・多角化→保険業(政界の有力者・謝東閔・謝国城を名目上の会長にして)、大台北ガス会社。化繊業界で日本と提携→日本は高付加価値製品台湾は大量生産品という国際分業によって国際競争力を身につけた。また、三越と提携して新光三越デパート。

 以上は、日本の植民地統治期に育ち、努力・勤勉・誠実の美徳、貧しくて学校へは行けなかったが向学心があり、旺盛な独立心で若い頃に自前の会社を設立、裸一貫で台湾の代表的な企業グループへと育て上げた人たち。張榮發と呉火獅は面倒見のいい日本人と出会えたからなのか、日本への親近感がところどころ出てくる。三人とも勤勉・誠実といった美徳を強調するが、その文脈で張榮發は日本植民地統治期の道徳教育を評価。以前、台南でパソコン部品メーカーの奇美実業を創業した許文龍『台湾の歴史』というパンフレットを二二八紀念館で会った日本語世代のおじいさんからいただいたことがあるのだが、これも同様に日本統治期のプラス面の一つとして道徳教育を挙げていた。他方、王永慶にはむしろ差別された記憶の方が強いのか、日本人に負けてなるものか!という感じの気負いが見えてくるのが興味深い。

久末亮一『評伝 王増祥──台湾・日本・香港を生きた、ある華人実業家の近現代史』(勉誠出版、2008年)
・王増祥は1926年、台北郊外の三峡に生まれた。地主の家だったが没落→再興の思いを抱きつつ、民族差別の状況の中にあって、台湾を離れたいという思い→上海へ行きたかったが許可が出ず、日本へ→大阪の薬問屋で丁稚奉公をしたが待遇に怒ってやめ、東京に出たのち、神戸で貿易業につく。実家を再興させたいという思い、差別を乗り越えたいという思いを原動力に金儲けに邁進。
・二二八事件で不安を感じて家族を日本へ呼び寄せるが、1956年に香港へ移住。不動産業→香港は都市が狭いため軽工業の中小工場が入居する工業ビルを経営。
・「富豪好友」と言われる財界に幅広い人脈、日本事情に詳しい→香港実業界で独特な存在感。日本株へ投資→かつて差別を受けた日本人から認められたいという心理を著者は見出す→日本の証券業界では「香港ダラー」と恐れられた→王子製紙株・片倉工業株取引で大蔵省は相場撹乱とみなして行政指導→合法的に株式を取得したのにバッシングを受けるのは心外だという不満→裁判闘争へ(なお、王の手法を後に村上世彰が模倣する)。日本の閉鎖的構造のせいだと主張。
・王増祥は台湾出身の実業家でも、むしろ邱永漢に近いタイプか。

スタン・シー(施振榮)『エイサー電脳の挑戦』(経済界、1998年)
・台湾最初のパソコンメーカーで世界進出を果たしたエイサー(宏碁電脳)の創業者が自らの創業精神や経営管理の考え方を述べた本。
・研究開発と国際化を目指した経営戦略論。シーは1944年生まれで、エイサーを友人たちと共に創業したのは1976年。上述の人たちを第一世代とするならこちらは第二世代で、技術集約型へと台湾産業のトレンドが移り変わったタイミングで登場してきたことがうかがえる。

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謝国興『台南幇──ある台湾土着企業グループの興隆』

謝国興『台南幇──ある台湾土着企業グループの興隆』(交流協会、2005年)

・統一企業グループ、萬通銀行、太子建設をはじめ、台南県北門地区にルーツを持ち郷土意識や広い縁戚関係による一体感をもとにした人的ネットワークがいかに企業活動として展開してきたか。伝統的な商業組織をルーツとしながら現代企業経営を進めたという特色を見出し、物売り段階→資本蓄積をして商業から工業へ、さらに製造業からサービス業へと多角化してきたプロセスを人的要因に注目しながらたどる。
・台南幇の第一世代は日本統治期に育った呉三連、侯雨利、呉修齊、呉尊賢など。なお、呉三連の経歴は、1899年生まれ、公学校→台北国語学校→林熊徴奨学金で東京高等商業予科→大阪毎日新聞記者→台湾に戻って台湾新民報→総督府の圧力で解任され、1940年に天津へ渡ってペンキ顔料店を共同経営→終戦にあたり、天津・北京界隈の台湾人三千人以上の帰還に尽力。この時に得た信望から国民大会代表、台北市長に当選→しかし、無党派なので国民党の目をはばかって任期満了後は再出馬せず。一族に請われて台南紡織董事長。1959年からは自立晩報の経営(台南幇が資金援助)。
・北門一帯では農業・漁業、しかしこれだけでは生活が成り立たず商売へ。侯雨利がチャレンジ精神で商機を開拓→資本蓄積→織布工場を経営。同時に地下銀行で貸付業務。高利貸しではなく合理的な貸付。当時は公的な金融制度がうまく機能していなかった。
・光復~1949年:「新和興」発展。この段階では商業を主体に資本蓄積。一族・同郷人の共同出資。業績がのびると、同郷人の子弟を受け入れ、人材育成をしながら商業グループとしての団体意識→各自が独立創業しても関係継続。統一企業が地縁を超えた業務提携も始める。
・1950年以降:経済環境の変化に応じて工業へ転身。台南紡織、坤慶紡織、環球セメントなど。
・1960年代以降:経営多角化。まず製造業へ進出、1970年代以降はサービス業へ。1987年にカルフールと提携。1992年からは食品業で中国へ投資。
・グループの中心にいた呉三連はあくまでも精神的権威であって経営政策決定上の権限なし。各関係企業メンバーそれぞれが自主的に行動。
・当初は経営と所有の重複→専門経営者の機能重視へと転換。
・国民党政権の政治優先文化の中、政商関係は必然。政権とコネクションのある呉三連を台南紡織・環球セメントの董事長につけ、大卒の外省籍人材を起用。ただし、呉三連は国民党籍を持っていなかったので影響力は限定的で、むしろ彼の社会的声望を重視。また、呉修齊、呉尊賢も入党せずに政治から距離をおく。
・マクロ経済の立場から民間企業の活力に注目していた経済部長・李国鼎が後押し→良い意味での政商協力。
・統一企業(1967年創立)の高清愿は蒋経国からの招請により、悩んだ末に入党。経営管理以外の要因で活動を邪魔されたくないという受身の立場。政商関係には適度な距離をおき、事業開拓は実力でやるしかないのでコネをつかって利権に入り込もうとはしなかった。
・人材の育成→自立創業しても師弟関係、共同経営の間断なき再生、グループの内部で連合もすれば競争もする関係。

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渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済読本』

渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済読本』(勁草書房、2010年)

・「近代化における人的資本の形成:植民地時代の学校教育」:林茂生のコロンビア大学提出博士論文「日本統治下における台湾の学校教育」(1929年)を読み直しながら、日本の植民地支配には不合理な側面が多々あった一方で、学校制度導入→台湾近代化の基礎が築かれたことを指摘。

・「経済発展段階と工業化類型」:1950年代の輸入代替工業化→1960年代の輸出志向工業化→1970年代の第2次輸入代替工業化(重化学工業化)→1980年代のハイテク産業、こうした段階移行のプロセスについて開発経済学の理論を用いて説明。

・「台湾の日系企業」:戦後日本の台湾への直接投資は1952年から始まった。60~70年代は労働集約型産業の家電・電機産業、1980年代は技術集約型産業の精密機械・自動車産業、2000年代から液晶テレビなどハイテク産業。日系10社のケースを分析。台湾拠点で育った人材(中国語)を活かして中国拠点へ派遣する例も目立つ。

・「市場の中の血縁関係」:グループ企業内の縁戚連関を数量的に解析、大きなグループ同士がますます結び付きやすい傾向を指摘。台湾は富の均等化のバランスをとりながら発展に成功したモデルといわれる→一部の階層化傾向を指摘することで反論の根拠として提示。

・「財政金融システム」:産業構造の変化に応じて改革に成功してきた台湾の財政システムの変化をたどる。

・「人口と労働力」:台湾での少子高齢化への人口転換は日本を上回るペース→人口・労働構造変化に応じたセーフティネット構築の必要。

・「技術競争力」:インプット・アウトプットの各指標の分析→インプットとして研究開発投資は先進国水準。アウトプットとしては基礎科学では遅れをとり、応用分野ではトップレベル。

・「対中経済関係と今後の展望」:台湾と中国との経済関係の進展を概観。

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