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2010年1月31日 - 2010年2月6日

2010年2月 6日 (土)

スティーヴン・キンザー『すべてシャーの臣:アメリカによるクーデターと中東テロの起源』

Stephen Kinzer, All the Shah’s Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror, John Wiley & Sons, 2008

 1953年に起こったイランのモサデク政権転覆クーデターは、CIA主導の秘密工作のうち最も有名な事件の一つであり、現在に至るもその悪影響を引きずっている。本書はモサデク(Mossadegh)の人物像を中心に、イラン現代史、とりわけクーデターに至る経緯を描き出した歴史ノンフィクションである。初版は2003年だが、2008年ペーパーバック版には“The Folly of Attacking Iran”(イラン攻撃の愚かさ)という一文が追加されている。タイトルは昔のアメリカ映画「オール・ザ・キングスメン」を思い起こさせる(ショーン・ペン主演のリメイク版は以前にこちらで取り上げた)。すべてはシャーの背後にいたアメリカの思うままに見えたが、しかし…という意味合いでも込められているのだろうか。この映画の原作は『すべて王の臣』(ロバート・ベン・オーウェン、鈴木重吉訳、白水社、1966年)として邦訳されているので掲題訳はそれにならった。なお、Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraq(Henry Holt and Company, 2007)は前回取り上げた(→こちら)。

 まず、古代以来のイランの歴史を簡潔に概観。19世紀以降の帝国主義ゲームでイギリスとロシアの干渉を受け、とりわけ石油の発見はイランの運命を大きく変えた。カージャール(Qajar)朝の弱体化、1905年の立憲革命、政治的混乱の中から軍人のレザー・ハーン(Reza Khan)が台頭→1925年、シャーに即位してパフレヴィー(Pahlavi)朝が成立。レザー・シャーは世俗的近代化を推進(トルコのケマル・アタチュルクに触発された)する一方で、暴力的な専制支配は反発を受け、近代的価値観は一般レベルで共有されることがなかった。外国の影響を排除しようしたが、第二次世界大戦でナチス・ドイツと同盟→英ソの干渉→退位を迫られ、息子のモハンマド・レザー・シャー(Mohammad Reza Shah)が擁立される→イギリスの支配が再び始まった。

 イギリスの手中にある石油会社の国有化を主張して人々の支持を集めたのがモサデクである。彼は名門貴族の出身、ヨーロッパに留学して国際法を専攻、イラン人として初めて博士号を取得した知識人であり、外国の内政干渉からの脱却という民族主義と同時に、民主主義や言論の自由など近代的価値観をも信奉していた。1951年、国会(majles)の圧倒的な支持を集めて首相に就任、シャーは彼を反王政的だとして嫌っていたが、彼の首相就任を阻む権限はない。モサデクは石油会社国有化を宣言、すでに70歳近い高齢であったが、病躯をおしてイギリスと全面対決する。

 イギリスのアトリー政権(当時、労働党政権は産業国有化政策を進めていたので、モサデクは、自分たちが石油会社を国有化することのどこがいけないのか、と反論)は石油収入の分け前で妥協しようと交渉に臨んだが、モサデクにとっては利権以前に民族的尊厳の問題であり、一切の妥協には応じない。交渉は行き詰まり、業を煮やしたモリソン外相は武力によるモサデク政権打倒を検討、準備を始めたが、仲介役に立ったアメリカのトルーマン政権は暴走しかねないイギリスにブレーキをかけていた。ところが、イギリスでは保守党のチャーチルが政権に復帰、アメリカでも共和党のアイゼンハウアー政権が成立、イランに対する態度は一層強硬となる。イギリスは諸外国に圧力をかけて事実上の経済制裁を課し、イラン経済は混乱、そこに乗じて金銭や人脈を使ってイラン国内のモサデク支持勢力の切り崩しを進めた。アイゼンハウアー政権も、モサデクがいる限りイラン崩壊を食い止めることはできないと判断、またイラン問題でイギリスとの大西洋同盟に亀裂が走ることへの懸念もあり、政権転覆工作にゴーサインを出した。

 CIAの工作員カーミット・ローズヴェルト(Kermit Roosvelt、セオドアの孫)が暗躍。モサデクは言論の自由を抑圧してはならないと考えていたのに乗じて新聞の買収による世論工作も進めた。反モサデク勢力を結集して軍事クーデターを画策、一度はモサデク側に先手を打たれて失敗したものの、カーミットの執拗な活動により、1953年、モサデクたちを逮捕。モサデク自身はこうした動きを察知していたものの、もはや打つ手はなく、内戦を避けるため自分の支持者には平静を呼びかけていた。国外逃亡していたシャーは帰国、ザへディ(Zahedi)将軍の新政権はモサデク派の主要人物を処刑、モサデク自身は3年間の刑務所生活の後、秘密警察Savakの監視下で自宅軟禁され、1967年に84歳で逝去。石油会社は新たにアメリカ企業も含めて国際メジャーが勢ぞろいするコンソーシアムの形を取った。

 トルーマン政権、アイゼンハウアー政権ともに反共という点では同じだったが、トルーマン大統領やアチソン国務長官は第三世界におけるナショナリズムを味方につけようと考え、政権転覆工作はかえって悪影響を残すという見通しを持っていた。これに対して次の共和党政権では、アイゼンハウアー自身は交渉による妥協を求めたものの、第三世界への対応はジョン・フォスター・ダレス国務長官に一任、彼と弟のアレン・ダレスCIA長官は反共十字軍の手段として政権転覆工作を積極的に進めたという相違が指摘される。アメリカはシャーの専制政治に肩入れした結果、イラン国民の反米感情を高めてイスラム革命を招き、さらには中東全体を不安定化させてしまったという歴史の連鎖を見出すのも決して的外れなことではない。

 イスラム革命初期段階における暫定政権には、バニサドル(Bani-Sadr)大統領、バザルガン(Bazargan)首相、ヤズディ(Yazdi)外相などかつてモサデクを支持した人々が多数存在したが、急進派聖職者が実権を掌握するにつれて彼らのような世俗的リベラル派はすべて失脚もしくは国外亡命せざるを得なくなった。そもそも、モサデク政権成立時に聖職者たちの多くもその支持に回った中でホメイニ(Khomeini)はモサデクをイスラムへの裏切り者と非難し続けていた。モサデクの名前は民主主義や言論の自由と結びついているため、現行イスラム体制の中ではタブー視されているという。

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2010年2月 4日 (木)

スティーヴン・キンザー『政権転覆:ハワイからイラクまで「体制転換」のアメリカ百年史』

Stephen Kinzer, Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraq, Henry Holt and Company, 2007

 ブッシュ政権がイラク戦争を開始した際、「体制転換」(regime change)という言葉がよく使われた。本書は、この「体制転換」をキーワードに、アメリカが海外における影響力保持のため自らに刃向かう政権をいかに実力行使で倒してきたのかを描き出す。エピソード豊富で読みやすい歴史ノンフィクションである。

 ハワイ王国では、リリウオカラニ(Liliuokalani)女王の政治改革によって利権を失うのを恐れた現地の白人たちがクーデター→ハワイ共和国をでっちあげ→米西戦争でフィリピンを得たときアジア進出の足がかりとしてハワイもアメリカに併合。その米西戦争は、スペインの過酷な植民地支配からの解放という大義名分→しかし、スペインで新たに首相に就任したばかりのリベラル派・サガスタ(Sagasta)首相はキューバやプエルトリコに自治権を与えようと交渉中→うまくいったらアメリカの出番はなくなる→メイン号事件を口実に開戦。背景としては、マニフェスト・デスティニー(フロンティアが消滅し、海外に目を向けた)やマハン提督の海上権力論に影響を受けたマッキンリー、セオドア=ローズヴェルトたちの帝国主義があった。キューバやフィリピンの独立運動に対しては弾圧。アメリカのドル外交(ラテンアメリカ諸国に無理やり金を貸し付けて影響力保持)を受け入れなかったニカラグアのセラヤ(Zelaya)大統領はアメリカが唆したクーデターによる最初の犠牲者である。ニカラグアではその後も反米運動が続き、とりわけサンディーノ(Sandino)がシンボル的存在となった。

 戦後はアメリカの利権を脅かした政治指導者を「反共」の論理で打倒した例が目立つ。石油会社国有化を宣言したイランのモサデク(Mossadegh)首相(パフレヴィー国王による専制政治への肩入れはイランで反米の気運を強めて後にイスラム革命を招いた)、農地改革を進めようとしたグァテマラのアルベンス(Arbenz)大統領(グァテマラにはユナイテッド・フルーツ社の利権があった。アルベンスに対するクーデターを目撃したゲバラやカストロたちはキューバ革命で急進的な反米主義をとる)、そしてチリのアジェンデ(Allende)大統領が、それぞれアメリカの策謀によるクーデターで倒された。南ヴェトナムのゴ=ジン=ジェム(Ngo Dinh Diem)の場合は、その強権的な政治手法がかえって共産主義勢力への人気を高めてしまっているという動機があった点でタイプが異なる。さらに時代をくだって、パナマのノリエガ将軍、グレナダ侵攻(親キューバ政権の内部抗争に介入)、アフガニスタン、そしてイラクへと現代に至る。

 アメリカの動機は、第一に国益(天然資源、アメリカ企業の擁護、パナマ運河のような戦略的拠点の確保)であるが、もちろんそれを表には出さず「正義」を大義名分に立て、むしろそれを自分たちで信じ込んでしまっていた節もある。それは、第二の動機としてのイデオロギー性の問題にもつながる。マッキンリーやセオドア=ローズヴェルトたちの帝国主義の背景にはマニフェスト・デスティニー、さらには後進国を「指導」する責務という考え方があった。ジョン・フォスター・ダレスたちは反共主義を信奉、非西欧世界におけるナショナリズムの動向を理解できなかったため、例えばモサデクやアルベンスは共産主義者ではないにもかかわらず、アメリカに楯突く=ナショナリズムは共産主義の隠れ蓑になっていると単純化された世界観によって彼らを邪魔者と断定した。そして、ブッシュ(息子)政権がネオコンの思い込みで戦争を引き起こしたことは記憶に新しい。こうした思い込みによって、現地の情報部員による分析は無視して政策判断が行なわれた誤りも指摘される。

 「体制転換」においては「自由」や「民主主義」といった価値観の普及も大義名分として掲げられた。ところが、イランのモサデク、グァテマラのアルベンス、チリのアジェンデ、いずれも民主的に選出された政治指導者であったにもかかわらず、彼らをクーデターで倒して抑圧的な政治手法を取る独裁者を後釜に据えた。こうした矛盾がこれらの国々をその後も混乱に陥れ、反米の気運を高め、長期的にはアメリカの「国益」に反する結果となってしまった誤謬も指摘される。

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2010年1月31日 (日)

ジョン・W・リンバート『イランとの交渉:歴史の亡霊に取り組む』

John W. Limbert, Negotiating with Iran: Wrestling the Ghosts of History, United States Institute of Peace Press, 2009

 本書はイラン現代史における4つの事件の分析を踏まえて、膠着状態にある対イラン交渉打開のための提言を行なう。そもそも敵対し合う国同士が「交渉」を進めるに当たってその成否を分ける要因は何か? そうしたケース・スタディとして興味深く読んだ。著者はイラン問題の専門家で、1979年のアメリカ大使館人質事件で拘束された当事者の一人でもある。

 1945年に第二次世界大戦が終わった時点で、イラン北部はソ連軍に、南部はイギリス軍に占領されており、ソ連はイラン領内アゼルバイジャン独立派やトゥーデ党(共産党)を支援していた。当時のカヴァム(Qavam)首相は、ソ連の目的は石油利権にあると正確に把握して交渉を進め、石油利権と引き換えにイラン領アゼルバイジャンから撤退させる。他方で、国会(majles)ではモサデク(Mosaddegh)たちナショナリストの主導で外国の占領中は石油の件で交渉をしてはならないとする法律が制定されており、結果として、まんまとソ連軍を追い払うことに成功した。

 1951年にモサデク首相はイギリス資本の石油会社の国有化を宣言。英米側は利権問題としての妥協を図ろうと交渉を進めるが、モサデク側としては利権問題以前にイギリス支配からの脱却という民族的尊厳の問題であった。何が「公正」なのか、妥協の基準が出発点から異なるため交渉そのものが成り立たない。モサデクの主張の背景を理解できなかった英米側は、パーセプション・ギャップの連鎖から感情的な応酬に陥る中で、彼を「非理性的」であるとみなす(懸案全体を彼個人の問題としてすりかえられた誤りが指摘される)。結局、1953年、CIA主導のクーデターでモサデクは引きずりおろされた。こうした一連の経過は外国の干渉という汚辱としてイランの人々に印象付けられた。とりわけ、英ソと違ってアメリカはイランに好意的だと期待を寄せていただけに裏切られたという思いが強まり、以降、反米感情が定着してしまった。

 反米感情の噴出したクライマックスの1つが1979~81年のアメリカ大使館人質事件である。革命後の暫定政府はすでに実質的な力を失っており、事態を収拾できる人物として交渉すべき相手はホメイニだけであった。しかし、肝心のホメイニ自身は交渉にまったく関心がないという困難があった。この時、ホメイニは一連の混乱を通して世俗派を追い落とし自らの権威を確立しようと図っており、情勢の落着が人質解放の交渉に取り掛かるタイミングであった。また、仲介役に立ったアルジェリアの適切なアドバイスが役に立ち、よい仲介者を見つけることの大切さが指摘される。

 1980年代、レバノンのシーア派民兵によるアメリカ人人質事件をめぐっての交渉において、イラン側はアメリカ製最新兵器の入手が目的であったのに対し、アメリカ側には人質解放だけでなくこの取引をきっかけにイラン体制内の穏健派に働きかけて対米姿勢の軟化を引き出そうという思惑があった。ところが、イラン側の体制内穏健派はこの取引に関与しておらず、むしろイラン側交渉当事者は人質は取引に使えると判断、そうした内情をアメリカ側は把握していなかった。結局、単なる人質と武器との取引にすぎなかったのだが、体制内穏健派に働きかけているつもりのアメリカ側は認識のギャップから泥沼にはまり込んでしまった。これがレーガン政権の一大スキャンダル、イラン・コントラ事件である。当時、アメリカ国内では大使館人質事件の悪印象から世論も大物政治家(シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官)もイランとの交渉に拒否感が強く、レーガン政権の補佐官たち(マクファーレン、オリヴァー・ノースなど)は秘密裏に行動、怪しげなブローカーに頼らざるを得なかったという背景がある(同時に、強硬な空気の中で身動きがとれなかったのはイラン側のラフサンジャニも同様で、対米交渉の話を切り出したら失脚のおそれがあった)。これに対して、次のブッシュ(父)政権、具体的にはスコウクロフト補佐官は賢明にも交渉チャネルを国連にしぼった。デクエヤル事務総長はイラン・イラク戦争終結の仲介によってイラン側から信頼されていたため交渉はうまくいった(ここでも適切な仲介者の大切さが指摘される)。

 イランには、古代文明にルーツを持つという大国意識があると同時に、列強の侵略を受けてきたという被害者意識も複雑に絡み合ったナショナリズム感情が強い。1953年のモサデク政権転覆クーデターは反米感情を強め、他方で1979年のアメリカ大使館人質事件はイランを狂信的とみなす印象をアメリカ側に刻み付けてしまった。双方が相手を「悪」と決め付ける「神話」が形成され、相互不信のスパイラルは現在に至るも交渉を阻む障碍となっている。そうした「神話」形成の歴史的経緯を解きほぐすことが本書の大きなテーマである。交渉相手を「悪」「非理性的」と決め付けると、それはかえって相手側を「予言の自己成就」へと追いやってしまう結果をもたらしかねず、相手側の内在的ロジックを(受け入れないまでも)理解した上で交渉のきっかけをつかむことが必要である。

 なお、イラン情勢に関しては、Ray Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic( Holt Paperbacks, 2007→こちら)、Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs(Oxford University Press, 2009→こちら)も最近読んだ。

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