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2010年10月24日 - 2010年10月30日

2010年10月29日 (金)

森美根子『台湾を描いた画家たち──日本統治時代 画人列伝』

 初めて台湾へ行ったとき、まず定番通りに故宮博物院を見学した。観光客であふれ返って息苦しい喧騒から逃れたいと思っていたとき、人のほとんどいない特別展示室を見かけた。水彩画だった。例えば風景画は、かすみの中へと消えていきそうな淡い輪郭のタッチ、それがどことなく幻想的で美しい。李澤藩という人の特集展示だった。年表パネルを見ると日本統治期に育った人で、彼の師匠にあたる石川欽一郎の名前もこのときに初めて知った。台湾史を考えるときどうしても植民地支配、族群政治、中台対立といった政治史的なテーマに目を向けることが多くなってしまうが、美術的にも興味深いものを持っていること、台湾における西洋的近代絵画導入に日本も関わりがあったことに今さらながら気づき、関心を持った。

 森美根子『台湾を描いた画家たち──日本統治時代 画人列伝』(産経新聞出版、2010年)は、日本統治期に芸術的才能を開花させた台湾人18人(倪蒋懐、黄土水、陳澄波、藍蔭鼎、陳植棋、顔水龍、楊三郎、李石樵、李梅樹、李澤藩、廖繼春、洪瑞麟、蓼徳政、許武勇、林玉山、郭雪湖、陳進、林之助)、それから教育指導に当たったり台湾の風物の魅力にのめり込んだりした日本人3人(石川欽一郎、塩月桃甫、立石鐵臣)、合計21人のプロフィールを紹介してくれる。『アジアレポート』誌の連載をまとめたものだが、以前、立石鐵臣や石川欽一郎に関心を持って文献探しをしていたときにこの連載の存在を知り、図書館でコピーして目を通したことがあった。台湾の近代美術史に関する日本語文献は少ないので、一冊の本としてまとめられたのは喜ばしい。

 なお、立石鐵臣についてはこちら、石川欽一郎と李澤藩についてはこちらで取り上げたことがある。また、台湾近代美術史に関する書籍としては、李欽賢《台灣美術之旅》(雄獅図書、2007年→こちら)、同《追尋台灣的風景圖像》(台灣書房、2009年→こちら)、頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》(藝術家出版社、2009年→こちら)をそれぞれ取り上げた。

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2010年10月28日 (木)

关于喜田貞吉

  我在大学学习历史的时候,对考古学家江上波夫提倡的“日本人骑马民族说”很感兴趣。江上推论了日本天皇家的先祖是从大陆经由朝鲜半岛来的骑马民族。我觉得他的假说有很浪漫的雄图。

  有的学家指出喜田貞吉的“日韩同祖论” 影响了江上的这个学说。喜田貞吉是二十世纪前半期的日本历史学家・考古学家。他写关于“法隆寺再建论争”的论文初次登台以后,提出了一些独特的日本历史假说。

  日本十四世纪有两个天皇并立的时代(南北朝时代)。哪个天皇是正统的,这个问题有很难的政治性。喜田从事国定教科书编撰的时候,两种学说都记述了。他有历史记述要公平的观点。但是把南朝认为正统的右翼人士激怒了,他们的政治压力让喜田辞职了。现代史家把这个事件叫“南北朝正闰问题”。

  喜田有一种热情,历史学要用于解决社会的不公平。他第一次从历史学家的立场致力于“被差别部落问题”(有的人们在日本被歧视的社会问题)。喜田认为日本人是混合民族。他说:远古时代从大陆、南洋来的种种人们到了日本列岛。“天孙民族”让那些人们融合,然后形成日本人。“被差别部落”、“山窩”(在山中住的特别风习的人们) 、阿伊努,喜田认为这些人们是“天孙民族”偶然融合错的,就是本来应该融合的。听说当时有的人认为“被差别部落”的人们是异民族,这是歧视的根据。可是对歧视的态度愤怒的喜田说,“被差别部落”的人们也是跟我们一样的日本人,没有歧视的根据。

  一九一〇年日本合并韩国的时候,喜田向朝鲜半岛适用同样的论法,这是“日韩同祖论”。 现在这个学说被当做日本帝国主义的思想正当化,而臭名远扬。不过当时日本人歧视韩国人的风气让喜田愤怒,主张“日韩同祖论”。 他想日本人跟韩国人一样,所以不可歧视。喜田自己主观地有善意,在那个意思他的动机跟帝国主义不一样。但是韩国人有独立的民族意识。他们的愿望跟“被差别部落问题”不一样,喜田的善意他们不能接受。

  我们在喜田的议论上能看出两个难点。第一,他要在哪儿画民族的界线?他把有的人们当做日本人,这个想法对“被差别部落”的人们意味着有同胞意识,但是对韩国人伤害他们的自尊心。第二,即使喜田自己主观地有很纯粹的善意,那个善意依据时代背景反而可能意味着知识上的暴力。

  以上、中文作文の練習。大意は以前にこちらに書いたのと同じ。

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2010年10月27日 (水)

森聡『ヴェトナム戦争と同盟外交──英仏の外交とアメリカの選択 1964─1968年』、水本義彦『同盟の相剋──戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』

 森聡『ヴェトナム戦争と同盟外交──英仏の外交とアメリカの選択 1964─1968年』(東京大学出版会、2009年)は、アメリカによる北爆開始前の1964年12月からパリ和平交渉の始まる1968年にかけての時期、突出した動きを見せ始めたアメリカに対してイギリス・フランス・ソ連がどのような働きかけを行ったのかを分析、その上でアメリカが各国に対して抱いている戦略的価値・政治的価値・政府機構間の緊密性・信頼感といった要因の有無から働きかけにプラスの効果があったのかどうかを検証する。後者二つのリソースの有無によってイギリスはプラス、フランスは間接的な影響にとどまったと評価。また、ソ連の働きかけもイギリスと同様にプラスだったと評価され、個別具体的なイシューに限定すれば現状維持という共通した政策目標を持っていたことからアメリカはソ連に対して信頼感を持っていたのだと指摘される。同盟国ではあるにしても、フランスは共産化のリスクを冒してでも南ヴェトナム中立化→アメリカも撤退させた上でかつてのフランスの影響圏復活の意図を、イギリスは1966年のポンド危機から財政再建の必要→スエズ以東撤退の意図を持っており、それぞれ自らの国益にそって単独主義的な思惑があった。同盟関係にはあっても当然ながらそれぞれの国益という要因は無視できない。

 水本義彦『同盟の相剋──戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』(千倉書房、2009年)は、イギリスは自らの死活的利益があるわけではないインドシナ問題についてなぜアメリカに対して積極的な働きかけを行ったのか、第一次インドシナ戦争、ラオス内戦、そしてヴェトナム戦争に至るまでのイギリス歴代政権の対米関与を連続した事象として把握、分析する。イギリスとアメリカは緊密な同盟関係にはあったが、インド植民地独立後もイギリスの手に残ったマレー植民地の安定化、さらにはアジア・アフリカの新興独立国を抱えるコモンウェルス内の気運からしても、アメリカの単独行動によってインドシナ情勢をこじらせてしまうのは問題であり、イギリスは軍事協力を拒否し続けた。むしろアメリカにとって好ましくない働きかけを進めながら、長期的な観点に立って事態のソフトランディングを目指していた。イギリスの外交努力が必ずしもうまくいったわけではない。ただし、中立的な仲介者ではなく、緊密な同盟者だからこそ対外政策修正に向けて影響を一定程度まで及ぼすことも可能であった。こうした政治外交史的な分析を通して、一般論としての「同盟」のあり方について建設的な示唆を与えてくれるところが興味深い。

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2010年10月26日 (火)

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)

・ファン・ボイ・チャウの生涯と思想的展開をたどりながらフランス植民地支配下にあったベトナムの民族運動の具体的な動きと思想的特徴を分析、さらに日本・アジアにおける近代化や民族独立をめぐる動向との関わりを検討。
・勤王世代の排仏運動に対し、朝廷はフランスへの協力を命ずるという矛盾→勤王運動の論理は「現在の朝廷は一時的なものであり、やがて本来あるべき姿を回復するはず」。朝廷内の主戦派と主和派との対立も念頭にあった。
・科挙の勉強は不毛だが、その成功は立身出世に必要、解元の肩書きは対世間的に有効、政治的アジテーションには漢学の素養が不可欠。また、漢学の素養は中国・日本の人士と接触する上で役立った。
・紳豪層国家権力と村落「自治」の接点、しかし朝廷は傀儡化。フランス支配下で科挙廃止、官人機構の変質→紳豪層の危機感。
・中国伝来の「新書」→改革の必要性を触発(洋務運動、変法自強運動)、日本の情報、世界情勢や西洋事情を知る。
・フランスによる植民地支配下という亡国の現状→植民地支配体制打破が先か(ファン・ボイ・チャウ)、体制内改革が先か(ファン・チュウ・チン)→チャウの判断では朝廷での体制内改革は不可能→フランスを排除するために武力闘争路線→出洋救援。
・チャウの思考には「国」概念の混乱があって、民族が「国」なのか国王が「国」なのか?阮朝はすでに「虚君」→亡「国」。しかし、「種」は存続しており、これを基盤にして救「国」→「種」=民族が主で、朝廷・国王は末だとも解釈できる。
・チャウは同志を求めてベトナム全国を歩いてカトリック教徒とも接触、彼らやさらには対仏協力者も含めて「ベトナム国民」という意識。それは阮朝官人の「巡礼圏」と重なる。実感的把握、伝統的「共同体」の再解釈によって「国民」「同胞」の意識。
・政治的に覚醒した紳豪層が運動の中核となる。
・社会進化論的視点(蛮種から華種への進化)と伝統的小中華観念との接合→キン族の優位性、少数民族へは無頓着。キン族は仏領インドシナという地域的枠組みの継承者として当然視→キン族中心の「国民国家」+フランスから継承したインドシナという枠組みにおけるベトナム「帝国」。
・「私利」よりも「公徳」を重視、「民権」論は「国権」論に包摂される。
・チャウは孫文などとの対話で民主制の長所は認める。ただし、ベトナムの「国民の程度」はまだそこまでには達していない→人心」に呼びかける「手段」としてクォン・デを擁立、ただし考え方は未整理だった。
・チャウの対日本観:①「同文同種亜洲」→「アジア主義」、②欧米列強と対等な「文明国」「強国」→「脱亜入欧」、両者の矛盾をどのように捉えていったかという問題。
・チャウは日露戦争中に渡日、梁啓超らから武装闘争の前にまず人材育成という助言を受けて、ベトナム人青年の留学を推進→東遊運動→当時、日本へは多くの中国人留学生が来ており、こうした風潮にベトナム人も便乗できた。また、渡日ベトナム青年はみな伝統的知識人階層の出身→漢字文化を媒介として日本人・中国人と交流できた。日本はフランスの眼を気にしているため、ベトナム人留学生は中国人を装う。
・日本で初めてベトナム民族運動の出版活動が可能となった(チャウ『越南亡国史』はベトナム民族運動で初めて印刷された書)→不特定多数に向けたコミュニケーション手段の獲得。
・渡日ベトナム青年にはフランス直轄支配下にあった南圻(ナムキ)出身者が多い→漢学教育が地盤沈下した一方で教育組織が不十分なため海外留学志向、華僑を媒介として華南など海外との接点→政治的意思を持たない留学生も多く、そこにスパイが入り込む余地も。
・日本での自由な活動、ベトナム各地の出身者が一定地域(横浜、東京)に集中して暮らす、年齢構成も近い→留学先の日本で「国民」共同体を体現。
・チャウは日本の特質を讃美、返す刀でベトナムの現状を批判→この美徳は日本人が自助努力で獲得したもの→ベトナム人にだってできるはずだ→先進国、後進国の対比として、一元的な文明進歩史観→社会ダーウィニズムと結びつく。
・チャウは生存競争の現実を直視。弱者のベトナムを強者に転ずるのが「新しいベトナム」。日本は「自強」に成功したから強国として台頭したのだと捉え、ベトナムをその強者としての日本へ同一視したい願望。清を破り、琉球・台湾を併合した事実をチャウは知っていたからこそ日本への憧れ。目指すべきは勝者日本であって、併合された敗者琉球ではない。
・チャウの文明論では、経済的側面(殖産興業)よりも、精神的側面(公徳心、愛国心、同心、大和魂)への関心が強い。
・チャウの『越南国史考』→ナショナリスト的な革命史観で叙述した最初のベトナム史。
・「亜洲和親会」(1907年)とチャウの言う「東亜同盟会」は同じ組織と見てよい。章炳麟を会長として、チャウの他に張継、劉師培、大杉栄、堺利彦、宮崎滔天、インド人D氏、フィリピン人某等々。この1907年には日仏協約など→アジア各地の活動家たちと交流しながら日本の対アジア政策への不信感が醸成されており、これは退去命令以前のこと。
・1909年3月8日、チャウは日本から追放され、東遊運動は終焉を迎える。追放後、香港から小村寿太郎外相宛書簡で、西欧列強と結託する日本に対する激しい抗議。
・フランスによるベトナム支配に反発しつつも、ベトナムがラオス・カンボジア等に対して支配・被支配の関係になる民族問題の重層構造への自己批判の視点はチャウにはなかった。
・ベトナム民族運動において勤王抗仏運動が第一世代、チャウたちが第二世代、近代的学校に学んだ経験を持つグェン・アイクォクたちが第三世代。

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2010年10月24日 (日)

何盛三についてメモ

 何盛三(が・もりぞう)の名前は老荘会等の人脈でよく見かけていたものの、何者か知らなかった。潘佩珠(川本邦衛・長岡新次郎編)『ヴェトナム亡国史・他』(平凡社・東洋文庫、1966年)所収の解説論文である長岡新次郎「日本におけるヴェトナムの人々」を読んでいたら彼のプロフィールが紹介されていたのでここにメモしておく。本書所収の潘佩珠「獄中記」は政教社の雑誌『日本及日本人』掲載の訳文を底本としており、訳者名は南十字星となっているが、これは何盛三のペンネームとされている。また、後年、落魄したクォン・デのもとを訪れる数少ない一人として彼の名前も挙げられている。

 明治18年、東京出身、旧幕臣で海軍伝習のため榎本武揚らと共にオランダ留学経験のある赤松則良の三男。長崎で帰化した中国人の家柄である何家の養子となった。養父は幕府の唐通詞だった。学習院を経て京都帝国大学法学部経済学科に入学、河上肇の授業も受けた。卒業後は住友鉱山、久原鉱業などに勤務、しかし俸給生活にあきたらず、大正5、6年頃に辞職。この頃から中国語、エスペラントに習熟し始め、数回中国大陸にも渡る。善隣書院の教師をしたり、「北京官話文法」を著した。大正8年、老荘会の会員となる。この頃、大川周明ら猶存社のメンバーになったのではないかと推測されている。昭和22年、満洲ハルビンから引揚、昭和26年青森県八戸市で死没。長男の何初彦氏の言として、軍人や権威を笠にきていばる連中が嫌いで、一生「官」に仕えることをしなかった点が彼の人格的、思想的特色でもあろうか、とのこと。

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潘佩珠について

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の生涯を知るには潘佩珠(川本邦衛・長岡新次郎編)『ヴェトナム亡国史・他』(平凡社・東洋文庫、1966年)所収の解説論文である川本邦衛「潘佩珠小史──その生涯と時代」、長岡新次郎「日本におけるヴェトナムの人々」がまず取っ掛かりになる。本書所収の「獄中記」は潘佩珠自身の手になる自伝であり、政教社の雑誌「日本及日本人」掲載(昭和4年)の南十字星(何盛三)による訳文が収録されている。また、内海三八郎(千島英一・櫻井良樹編)『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝──日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯』(芙蓉書房出版、1999年)には、潘佩珠がフランスによって軟禁されていた時に書いた「自判」(いわゆる「潘佩珠年表」)の漢文原文が収録されている。内海による伝記はこの「自判」の解説を意図して書かれたものである(なお、内海は戦前から商社員・外務省嘱託としてヴェトナムとの関わりがあった人で、小松清『ヴェトナム』[新潮社、1954年]での潘佩珠の描き方に不満があって「自判」の復刻出版に情熱を持っていたという。本書は氏の死後に出版された)。ヴェトナム独立運動における潘佩珠の位置付けについては白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巌南堂書店、1993年)が詳細な議論を展開している。なお、後藤均平『日本のなかのヴェトナム』(そしえて、1979年)でも潘佩珠は取り上げられているが、ヴェトナム反戦運動当時の息吹を感じさせる著者の筆致には癖が強すぎて、今では読むに耐えないという印象を持った。

 日本で刊行されている潘佩珠の著作としては、自伝的な上掲「獄中記」「自判」のほか、『ヴェトナム亡国史・他』所収の表題作「ヴェトナム亡国史」(梁啓超の勧めによって執筆・印刷したという経緯があるため、梁のコメントも記されている)、「天か帝か」、「海外血書」がある。また、鄧搏鵬(後藤均平訳)『越南義烈史──抗仏独立運動の死の記録』(刀水書房、1993年)は独立運動で散っていった人々の伝記であり、潘佩珠は修訂者となっているが、彼自身の著作だとも言われている。

 上掲の川本論文、長岡論文、内海書を読みながらとったメモを以下に箇条書き。
・潘佩珠(巣南サオナム、是漢ティハーン)は1867(阮朝嗣徳20)年、北ヴェトナムのゲアン省に生まれた。
・フランスによるコーチシナ(南部)直轄植民地化、アンナン(中部)・トンキン(北部)の保護領化、咸宜(ハムギ)帝のアルジェリア流刑といった時代状況下、青年期の潘佩珠も仲間を集めて武装蜂起を志したが、彼の村も焼き討ちされてしまった。
・1900年、34歳のとき郷試をパスして解元。
・1903年、独立運動の盟主となる皇族を探してクォン・デと出会う。
・1904年、維新会の元となる組織を結成、同年末に独立運動の支援(武器調達)を求めるため潘佩珠は密かに日本を目指してまず香港へ渡った(当時、ヴェトナム人の海外渡航は厳しく制限されていた)。ちょうど日露戦争の最中、バルチック艦隊がヴェトナムのカムラン湾に寄航中という状況で香港から日本へ向かう船がなく、上海へ行く。日本海海戦で日本勝利後、日本語のできる中国人留学生の協力を得て中国人になりすまして1905年6月、神戸港に入港。
・日本事情が分からないので、かねてより傾倒していた梁啓超を訪問、筆談で会談。
・梁の助言:①ヴェトナム自身の実力、②両広の援助、③日本の外交上の声援が必要。あくまで日本の軍事支援を求める潘佩珠に対して、梁はそれは無理だと答える。仮に武力でフランスを追い出せても今度は日本がそのまま居座る恐れがあるぞ。ヴェトナム自身の実力、つまり一般民衆の気概や知力としっかりしたリーダーがいなければ、②・③はかえって災いとなりかねない。人材育成が先決だと勧める。
・梁の勧めで「ヴェトナム亡国史」を執筆。梁の紹介で大隈重信、犬養毅、柏原文太郎と知り合う。
・日本、香港、ヴェトナムを行き来して、広東では劉永福と会う。
・1906年、クォン・デが来日。日本側有力者(細川護成、福島安正、根津一)と連絡をとって留学生受け入れの準備→振武学校(クォン・デも中国人阮中興という偽名で入学)・東亜同文書院など。日本はフランスへの気兼ねがあって官立学校へのヴェトナム人の入学は難しく、中国人として入学。梁啓超の勧めで「勧国民助資遊学文」を執筆してヴェトナム人青年に海外留学を呼びかける→東遊(ドンズー)運動。
・犬養の紹介で孫文と会う。この時は孫文の共和制、潘佩珠の立憲君主制と意見は合わなかったが、協力関係。
・日仏協約(1907年)によるフランスからの圧力→日本政府はヴェトナム人留学生組織「新越南公憲会」の解散を命令、潘佩珠、クォン・デたちにも国外退去を求める。このとき、浅羽佐喜太郎がヴェトナム人留学生たちを支援。
・潘佩珠は香港、タイへ行き、抗仏武力闘争をしている黄花探のため武器調達をするが、失敗。
・辛亥革命・中華民国成立→1912年、潘佩珠も南京へ行き、孫文、黄興、陳其美らと再会。ただし、中国からの援助は期待できず。維新会を解散してヴェトナム光復会→中国の革命派と連携、劉永福も協力。
・袁世凱派の広東督軍・竜済光が仏印総督の要求によって潘佩珠を逮捕。獄中で「獄中記」を執筆。1917年、竜済光の失脚により自由の身となった。
・台湾出身の楊鎮海:日本統治下の台湾総督府医学校卒業後、独立運動→逮捕→獄卒を殺害して上海へ逃亡。さらにヴェトナム人籍に入ってヴェトナム光復会に入党、執行委員の一人となる。
・1917年、サロー総督(弾圧政策の見直し)と和平交渉の話があったが、まとまらず。
・1920年、北京で蔡元培の紹介によりソ連駐華大使館参事官と面会。
・1924年、メルラン総督襲撃事件。同年、蒋介石と会い、黄埔軍官学校にヴェトナム人留学生受け入れを以来。ヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組。
・1925年、上海でフランス警察に逮捕され、ヴェトナムへ移送、終身懲役刑の判決。しかし、ヴェトナム人側の反発が激しく、ヴァランヌ総督(社会党代議士、宥和政策)は潘佩珠を釈放。ただし、フエに移送して軟禁状態。
・1940年10月29日、フエで病没。その一ヶ月前の9月には日本の仏印進駐が始まっていた。なお、上掲『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝』解説に引用された内海三八郎の回想によると、晩年、フエで軟禁されていた潘佩珠宅を内海が訪問したところ居留守を使われたという。同志意外の人間には会いたくないという強い意志を感じた、と記している。自分たちを裏切った日本人には会いたくない、ということかもしれない。

 田中孜『日越ドンズーの華──ヴェトナム独立秘史 潘佩珠の東遊(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』(明成社、2010年)は、ヴェトナム人留学生を支援した浅羽佐喜太郎と潘佩珠との交流に焦点を合わせている。浅羽は東京帝国大学出身だが在野で医院を経営。浅羽が道で行き倒れていたヴェトナム人留学生をたまたま助けたのを縁に、潘佩珠は支援を依頼。自分の願いが厚かましいのではないかと心苦しく感じていたところ、浅羽は快諾、日本政府から国外退去の命令が出ていたが、潘佩珠やヴェトナム人留学生たちは浅羽邸に起居。潘佩珠が密かに日本へ戻ってきたとき、浅羽がすでに亡くなっていることを知って潘佩珠は浅羽を顕彰する碑文を彼の郷里である静岡県浅羽村(現・袋井市)に建立。ただし、ヴェトナム人留学生をかくまったことで警察からにらまれていたので、浅羽の遺族がこうした経緯を公にしたのは戦後になってからだという。

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