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2010年10月17日 - 2010年10月23日

2010年10月23日 (土)

西木正明『さすらいの舞姫──北の闇に消えた伝説のバレリーナ崔承喜』

西木正明『さすらいの舞姫──北の闇に消えた伝説のバレリーナ崔承喜』(光文社、2010年)

 まだ映像技術が今ほど発達していない時期のことだから、崔承喜の踊る姿を私は見たことがない(残された映像素材を使ったドキュメンタリーはあるらしいが、未見)。ただスチール写真を見ると、大柄な身体にエキゾチックな美貌で、これが動き始めたら優雅さ漂うダイナミックなものになるだろうとは想像できた。それ以上に後世の耳目を引き付けるのは、彼女がたどらざるを得なかった波乱万丈な人生の軌跡であろう。

 日本の植民地支配下にあった朝鮮半島。石井漠の下で研鑽を積んだ東京で花開くモダニズム文化。初めて海外公演をした欧米や慰問旅行で訪れた中国大陸。夫となった安漠を通しては朝鮮独立運動をめぐる緊迫した政治情勢も見えてくる。そして彼に従って身を投じた北朝鮮で権力闘争に巻き込まれ、やがて消息は途切れる。主人公の魅力、スリリングな謎をはらんだ時代状況、小説にするにはまさにうってつけの題材だ。

 本書はそうした崔承喜の波乱に満ちた生涯を小説仕立てでたどっていく。彼女を描くことを通して著者は彼女が抱えていた何を見つめようとしているのかが私には読み取れず、小説としては冗長・平板な印象もある。それでも興味深く入り込んでいけるのは、それだけ崔承喜という人が歩んだ道程の醸し出す魅力がドラマティックだということだろう。

 なお、崔承喜については以前にこちらで取り上げたことがある。

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2010年10月22日 (金)

ロバート・A・スカラピーノ『アジアの激動を見つめて』

ロバート・A・スカラピーノ(安野正士・田中アユ子訳)『アジアの激動を見つめて』(岩波書店、2010年)

 東アジア政治論の泰斗ロバート・スカラピーノ。まだご存命だったとは驚いた。最近読んだジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚──日本と暮らして四五年』(日経BP社、2008年)もなかなか面白かったが、このカーティスよりもさらに一世代上である。戦後アメリカにおける日本研究の第一世代が宣教師の息子だったE・ライシャワー、E・H・ノーマン(彼はカナダ人だが)たちとするなら、次の世代は第二次世界大戦での対日要員養成をきっかけとしてジャパノロジーにのめり込んだ。最近、中田整一『トレイシー──日本兵秘密捕虜尋問所』(講談社、2010年)でも取り上げられていたコロラド州ボールダーの海軍語学学校で養成が行われており、スカラピーノもそこで日本語を学んだ。他にもドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカーなどもここの出身である。彼らも回想録を出しているから(ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』[中央公論新社、2007年]、エドワード・サイデンステッカー『流れゆく日々』[時事通信社、2004年])、今度ひまな時にでも読んでみるか。

 日本、中国、朝鮮半島、弟子たちとの共同研究も含めて東アジア地域をテーマに多くの業績を残し、調査や学術交流のため各地を頻繁に訪問。足取りはさらにロシア沿海州やモンゴル、東南アジア、南アジアまで広く及ぶ。自身の生い立ちを語るよりもそうした各地の印象記の方が多く占め、それは戦後東アジア政治史私見といった趣があって興味深い。観察はオーソドックスでバランスが取れている。ただよく考えてみると、現在の私が当たり前のように感じることでも、冷戦の真っ只中では必ずしもそうではなかったわけで、それだけ著者の観察眼はしっかりと地に足の着いたものだったと言えるのだろう。末尾のまとめでは、国際主義の進展、他方でナショナリズムの政治利用、アイデンティティ模索としての共同体主義といった問題点を指摘、取り組むべき課題が「人間の安全保障」というキーワードで括られる。

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立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ──「日仏協力」の研究』

立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ──「日仏協力」の研究』(彩流社、2000年)

・日本軍による仏印進駐以降、第二次世界大戦における日仏関係を国際関係論の枠組みで分析した研究。「進駐」という表現を使うと日本軍の一方的な政治事象のように思われかねないが、進駐されたフランス側にも独自の論理があった。つまり、植民地におけるフランス(ヴィシー政権)の主権維持という国益にはかなっていたところに「日仏協力」という双方の思惑の一致が見出される。
・仏印での援蒋ルートに対する日本の抗議→日本を刺激するのを避けつつ輸送は続けるという二律背反の態度→アメリカの関与を期待していたが、その前に日本の南進を招いてしまった。
・フランス本国の対独休戦:ヒトラー主導のヨーロッパ新秩序の中でもドイツについで二番目のポジションを占めたい→そのためには植民地とフランス艦隊の温存が必要。
・仏印に対する二つの心配:イギリスにとられてしまうのではないか? ド・ゴールの「自由フランス」側に寝返るのではないか? ド・ゴール派のカトルー総督を更迭、ダルラン提督の命令に忠実なドクー極東艦隊司令長官を任命。
・仏印経済のモノカルチュア的脆弱性。厭戦気分。仏印駐留軍と日本軍との圧倒的な戦力差→カトルー総督のときからすでに対日譲歩の姿勢を示していた。
・1940年8月30日「松岡(洋右)・アンリー(駐日大使)協定」→仏印の「静謐保持」→仏印は「大東亜共栄圏」の中に取り込まれたが、フランスの主権維持を約束したため「アジア解放」の大義名分と矛盾→「静謐保持」を望む軍部(兵站確保、不慣れな土地ではフランスの植民地統治機構を利用)と「安南独立」志向の外務省・大東亜省、さらには松岡外交と重光葵(1943年に外相就任)の「大東亜新政策」(戦争目的に「アジア解放」)との対立へつながる。
・1940年9月の北部仏印進駐から太平洋戦争開戦に至るまで日仏は複数の軍事協定を結び、仏印における「共同防衛」体制を形成。ただし、仏側は後方支援のみでそれ以上の積極性はなし。それから、経済協力(ただし、仏側の非協力による停滞もあり)。
・タイと仏印との領土紛争で日本はタイ側に肩入れして調停。それでも立場の弱い仏印は日本の調停案に従わざるを得ず。
・1944年8月のパリ解放、ヴィシー政権消滅後もドクー総督は留任。日本の敗色濃厚→日本側は仏印の寝返りをおそれて軍部が「仏印武力処理」を決意(1945年3月9日)。
・フランスの対独協力と対日協力を比較:前者は敗戦による負担の中で状況改善が目的、軍事・経済のほか政治・行政など全般にわたって協力、労働力の提供、ユダヤ人狩りに協力→フランスにもナチスに積極的に共鳴した人々がいた。対して後者では、現状維持が目的で、軍事・経済のみの協力、日本側に共鳴したフランス人はいない。
・ニュー・カレドニア奪還、マダガスカル防衛→ヴィシー政権のダルラン、ラヴァルは日本との協力を期待。ただし、ミッドウェー海戦敗北でニュー・カレドニア奪還は無理、マダガスカルは遠すぎた。広州湾進駐はフランスの主権を認めるという条件、他方で仏印当局は汪兆銘政権を承認せず。
・日仏協力のバランスシート:日本側にとっては経済面では不十分だったが、軍事面では仏印を十分に活用できた。フランス側にとっては、仏印処理で一時的な空白はあったものの、すぐに日本敗戦→主権を基本的に維持できた点でプラスだった。ドクー総督についても、対独協力した他のヴィシー政権高官に比べたら肯定的評価をする見解もフランスにはある。
・「アジア解放」という大義名分を掲げつつも日仏共同統治という形で例外扱い→現地の親日的な独立運動家たちに対して裏切り。

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森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』

森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)

 畿外侯クォン・デはベトナム阮朝の王族、フランス植民地支配下にあって呻吟するベトナムの独立を志し、師と仰ぐファン・ボイ・チャウの影響の下、支援を求めて来日した。頭山満をはじめとした玄洋社人脈、犬養毅、中村屋の相馬夫妻などの庇護を受けたが、フランスとの関係悪化を恐れた日本政府からは厄介者扱いされ、戦争が始まると「アジア主義」という大義名分のコマとして翻弄されてしまう。結局、ベトナムへ帰国できないまま1950年、東京で客死した。

 クォン・デの生涯をたどりながら、取材過程も併走させるストーリー仕立て。森達也がなぜベトナムの亡命王子に関心を?というのは不思議だったが、ベトナム人留学生から「なぜ日本人はクォン・デを知らないのですか? 日本に殺されたようなものなのに」と強い口調で言われて以来、気にかかっていたらしい。日本に期待してやって来て、日本に裏切られ、その点で日本の「アジア主義」の矛盾した仕打ちの典型例であるのに、彼の存在が忘却されているのは二重の意味でひどい、そうしたうめきを感じ取っている。私自身も似たようなものだ。クォン・デの名前くらいはさすがに知ってはいたが具体的な事跡はよく知らず、久生十蘭の小説『魔都』でフランス警察に付け狙われている安南王子は彼をモデルにしているのかなあ、という程度だった。だが、ベトナム取材で会った人々の様子では、かの地でもすでに忘れられ始めている。社会主義政権独特の「難しさ」も作用しているようだが。

 「アジア解放」という善意と権力政治のロジックによる対外侵略、両方が絡まりあっている矛盾に「アジア主義」理解の難しさがある。現代日本社会批判に絡めたがる著者の筆致には時に違和感を感ずることもある(この人の書くものは、テーマは興味深いのに、筆が走りすぎという印象がいつも残る)が、他方で、例えば頭山満について形式論理では解きがたい「情」の部分を汲み取ろうともしている。変に右翼的な紋切り型と比べたらはるかに良い。

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2010年10月21日 (木)

ファム・カク・ホエ『ベトナムのラスト・エンペラー』

ファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)

 著者はもともと阮朝の宮廷に仕える高級官僚であったが、ベトミンの革命政権に参加したという異色の経歴を持つ。1945年3月、日本軍による仏印処理から日本の敗戦、八月革命によるベトナム民主共和国の成立、フランスとの交渉が決裂して1946年に第一次インドシナ戦争が勃発、そして著者が1947年9月に革命政権側に身を投ずるまでの二年半の回想がつづられている。

 日本軍は仏印進駐後もフランスの植民地統治機構をそのまま温存して日仏共同統治という形をとっていたが、やがて敗色濃厚、フランス側に不穏な動きがあるとして武力クーデターをおこした。このいわゆる仏印処理で騒然とする古都フエの晩から本書は始まる。ベトナム独立という建前をとるために日本側はバオダイを擁立、チャン・チョン・キムに内閣を組織させた。著者は宮廷の官房長官としてバオダイの身近に仕え、独立宣言は彼が起草した。しかし、内閣は足並みがそろっておらず、また一般庶民と宮廷政治との乖離も目の当たりにすることになる。日本の敗戦、八月革命と続いてホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の成立を宣言する成り行きの中で著者はバオダイに自発的な退位を進言、ベトナム民主共和国へと合流する。独立を前提としたフランスとの交渉団にも参加したが、フランス側の強硬姿勢を前にして決裂、1946年12月の武力衝突を機に第一次インドシナ戦争へと展開していく。ハノイにいた著者はフランス軍によって身柄を拘束された。今度はフランスが再びバオダイやチャン・チョン・キムたちを手もとに集めており、著者もサイゴンに移送されてから懐柔工作を受けるが拒絶。傀儡政権であるコーチシナ共和国の乱脈ぶりを目撃。さらにハノイに移送されたところを脱出、ベトミン側に身を投じた。

 ここまでたった二年半はあるが、ベトナム現代史におけるその後の行方の分かれ道となった出来事が凝縮されている。バオダイ政権、フランスとの交渉、ベトミン政権とそれぞれの内情を当事者として一人ですべて目撃した貴重な証言であり、様々な人物群像に彩られたドラマとしても興味深い。なお、邦題からはバオダイが主人公のようにも思われるし、私も読み始める前には、例えばレジナルド・ジョンストン『紫禁城の黄昏』のようなものかとも想像していたのだが、実際にはバオダイに関する記述は多くない。遊び人であった彼に対する評価はからい。

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2010年10月20日 (水)

高田洋子『メコンデルタ──フランス植民地時代の記憶』

高田洋子『メコンデルタ──フランス植民地時代の記憶』(新宿書房、2009年)

 ベトナム史では「北属南進」という表現がよく見られる。現在の地図で見るとベトナム社会主義共和国の最南部に位置するメコンデルタまで狭義のベトナム人(=キン族)が到達したのはそう古いことではない。この辺りはもとから住んでいた人々、新来の人々、様々な来歴を持つ人々が混住している。本書はこうしたメコンデルタの農村での聞き取り調査の記録である。老人たちの語りをできるだけ多く採録して解説は控えめに抑え、写真もふんだんに収録して現地の様子をイメージしやすいように構成が工夫されている。社会主義政権下で監視付きの調査とならざるを得なかったらしく色々と制約も大きくて語られていない肝心なことも多いのかもしれないが、そうした中でも複雑に入り組んだ多民族の状況が窺われて興味深い。

 北から南へと開拓にやって来た祖父母の世代のことをベトナム人老人たちはまだ覚えていた。また、父母のどちらかの系統に華人の血が混じっているベトナム人も多い。それから、フランス人大地主の記憶。建物も残っている。ゴ・ディン・ジェム政権下で土地の分配を受けたキリスト教徒(ゴ政権はカトリック優遇政策をとっていた)。社会主義政権になって土地改革で土地を失った人、もらった人。この地域はクメール人も多く住んでおり、ロン・ノル政権副首相のソン・ゴック・タン、ポル・ポト政権のイエン・サリ、キュー・サム・ファンなどの実家もあるらしい。子供三人がカンボジアへ勉強に行き、ポル・ポト政権になってから音沙汰がなくなったと嘆くおばあさんの語りもあった。第一次インドシナ戦争のとき、ベトナム人は基本的に反フランスだが、クメール人はフランス支持、華人は中立の態度を示したという。植民地期の分断政策の跡が見える。

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2010年10月18日 (月)

田村志津枝『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男──母語を蘇らせる物語』

田村志津枝『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男──母語を蘇らせる物語』(現代書館、2010年)

 台北へと向かう飛行機に乗っていたときのこと。アナウンスに耳をすませていたら、日本語、中国語、英語、ここまでは私にも何となく分かる、だが、四つ目の言葉がさっぱり分からない。これが台湾語か、と思い、飛行機を降りるときに台湾人のスチュワーデスさんに尋ねてみると、やはりそうだった。「台湾語は声調がたくさんあって難しいです。ときどき年配の方から、あなたの台湾語は違う、なんて怒られてしまうこともあります」。若くて物腰の洗練された人だったから、おそらく都会育ちなのだろう。そういう若い世代にとっては国語=中国語が日常語であって、台湾語は後から学んだ言葉なのか、と想像した。

 本書の著者は台湾ニューシネマの日本への紹介者としてよく知られている。国民党政権下、国語=中国語が公的な場で強制されていた台湾社会ではあるが、生活感覚のリアリティーを表現するためには一般庶民が使っている普段の日常語=台湾語を映画中でも語らせる必要が痛感されていた。その作風上の新潮流に、やがて戒厳令解除、政治レベルにおける本土化といった趨勢も重なっていく。

 こうした中、侯孝賢監督「悲情城市」に出てきた「幌馬車の歌」をめぐる疑問について調べているときに著者は本書の主人公であるアーロンに出会ったという。コンピューター・プログラマーである彼は台湾語の辞書、さらには発音まで再現できるソフトの制作に全身全霊を込めて取り組んでいた。それは日本統治期、国民党政権期を通算すると百年にもわたって公的権利を奪われてきた母語の復活を目指す努力であった。本書は彼との交流をつづりながら日常語をめぐる台湾社会での葛藤を浮き彫りにしていく。

 言語的差異に基づく階層性は、日常生活全般にわたって影響する問題であるだけに、深刻な政治性を各人の皮膚感覚の中へと刻み込んでしまう。台湾語復権の運動といえばまず王育徳の名前が思い浮かぶが、それは同時に台湾独立運動とイメージ的に結び付く。長年にわたる戒厳令下の経験から政治を語ることはタブーとなっており、そのことによる恐怖感や屈辱巻はアーロンのもらす述懐にも時折垣間見える。だが、言語の問題を政治的争点として前面に打ち出すと、それは対立という契機をも浮上させてしまうあやうさもはらむ。

 アーロンは、台湾語は美しい言葉だという。もちろん言語の美しさに客観的な基準があるわけではない。ここには、この土地でずっと耳になじんできた言葉によって喚起される思い出、人々とのつながり、そういった諸々の感慨の込められた愛惜の念が見て取れるだろう。皮膚感覚になじんだ自然な言葉を使って暮らすことは自分たちの存在理由の根本に関わっており、それが不自然に疎外されてしまうのはおかしい。そうした暗黙ながらも強い思いは、ひたむきにプログラミング作業に打ち込むアーロンの姿からおのずと物語られている。

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2010年10月17日 (日)

フランス文学者・小松清とヴェトナム独立運動

 小松清(1900~1962)はアンドレ・マルローの紹介などで知られたフランス文学者だが、ホー・チ・ミンの評伝や1945年の日本軍による仏印処理前後の経過などにも名前が出てきて、どんな背景を持った人物なのか気になっていた。日本・フランス・ヴェトナムの三角関係、フランス仕込みの国際主義と日本的な汎アジア主義との絡み合い、これらが一点に凝縮された人物として考えてみると興味深い。

 彼についての評伝として、林俊/クロード・ピショワ共著『小松清──ヒューマニストの肖像』(白亜書房、1999年)という本を見つけたので目を通した。読みながら関心を持ったところだけとったメモを箇条書き。
・神戸出身。神戸高等商業学校に入ったが、文学や社会問題への関心が強く、「商業算術なんて資本家の搾取の手段やないか」と言って先生と喧嘩→退学。北澤新次郎のツテをたどって東京に出て、早稲田の建設者同盟にもぐりこむ。とにかく海外へ出たい!という思い→シカゴ大学への入学手続きをしたが、アメリカは労働運動の温床だと危惧した外務省から旅券がおりず。親族のツテで外務省に頼み込んだところ、フランスならばと許可された。
・1921年7月、パリへ。同じ船には坂本繁二郎、小出楢重、硲伊之助、林倭衛らがいた。
・フランスに到着して間もなく、サッコ・ヴァンゼッティ事件関連の集会に出ていたところ、阮愛国から声をかけられて付き合いが始まる。文学志向の小松は革命家の阮とは肌合いが違ったが、敬意を持つ。他に、アンリ・バルビュス、大杉栄などとも会った。
・アンドレ・マルロー『征服者』を読んで感激、会いに行ってマルローと親交が始まる。『人間の条件』に出てくるKyoには小松の姿も重ねあわされているらしい。また、アンドレ・ジイドの知遇も得た。
・1931年10月に帰国。1937年8月に報知新聞特派員として再びパリへ。ルポルタージュ文学という武器でマルローと共にスペイン戦争に参加したいと思ったが、スペイン共和派側に日本人=ナチスと組んだファシストという偏見があって入国を拒否された。
・1940年、パリ陥落。大使館のトラックに乗って脱出、ボルドー、スペイン、リスボンを経て日本へ帰国。神戸に上陸直後、特高の取調べを受けた。
・1941年5月、改造社特派員としてフランス領インドシナへ到着、7月に帰国。水島治男(『改造』編集長)や小牧近江らと共に東京・ハノイを結ぶ「水曜会」をつくり、在東京越南復国同盟のリーダーであるクォンデと接触。越南独立運動には大南公司社長・松下光弘の支援。また、小松は仏印独立のため松井石根、大川周明とも接触。
・1941年12月9日、かつて人民戦線に関わっていたことから特高に連行された→1942年3月に釈放。それからは翻訳に取り組み、その中にはフランス語からの重訳でヴェトナムの古典『金雲翹』もあった。
・1943年4月、在サイゴン日本大使府全権公使として赴任する田代重徳の私設秘書として同行。反仏植民地闘争のためヴェトナム側の重要人物と接触。その中にはゴ・ジン・ジェム、社会民主主義者のファン・ニョック・タックなどもいた。
・1944年1月に大使府を辞し、ハノイに行って日本文化会館主事・小牧近江の顧問。この頃には、日仏協調→ヴェトナム人を圧迫という構図に不満を抱いていた様子。
・日本人とヴェトナム人との友情をテーマとした小説をフランス語で執筆、それを友人のグエン・ジャンがヴェトナム語訳して雑誌連載。
・日本軍がフランス植民地当局を武力攻撃した仏印処理(1945年3月)の際、小松もヴェトナム人の仲間と一緒にフランス刑務所を襲撃、ヴェトナム人政治犯を釈放。
・仏印処理後の事態収拾に向けてクォンデ擁立などの話もあったが東京が承認せず、ゴ・ジン・ジェムにも声がかかったが彼は固辞。結局、バオダイ帝が独立宣言、チャン・チョン・キム内閣→しかし、外国支配の構図は変わらないので不満、ヴェトミンの抗日ゲリラ活動が活発化。
・小松もバオダイ政権など当てにしていなかった。憲兵隊からにらまれていたが、日本軍司令官と個人的に親しかったので圧迫は受けていなかった。
・1945年11月、ハノイでホー・チ・ミンと会見。かつての阮愛国だが、会った印象は「どうも別人ではないか?」。パリで会った阮愛国の西欧風のたたずまいに対して、この時のホーは東洋的哲人の風貌、それに背丈も違う。ただし、敬意は持った。
・ハノイのフランス代表部主席ジャン・サントニーとヴェトナム民主共和国のホーとの交渉に小牧近江と小松が仲介することになる。フランス刑務所襲撃や日本軍首脳と関わりを持っていたことが戦犯容疑になるのではないかと危惧していたが、おとがめなし。交渉の準備が進んだところで、1946年6月に日本へ帰国(その後、この交渉は決裂→第一次インドシナ戦争へ)。
・フランス植民地主義への批判をしつつ、同時にフランスには自国政府の間違いを指摘するマルローをはじめとした良心的知識人もいることを小松は強調。
・戦後は日仏文化交流に尽力。

 ヴェトナム人の書いた小松清論としてはビン・シン(高杉忠明・松井敬訳)「小松清 ベトナム独立への見果てぬ夢」(上下、『世界』2000年4、5月)がある。筆者はアルバータ大学教授となっているが、『評伝徳富蘇峰──近代日本の光と影』(杉原志啓訳、岩波書店、1994年)をむかし読んだことがあった。日本は「アジア解放」という大義名分を掲げつつも、それは「大東亜共栄圏」の一部としてのヴェトナム「独立」であって日本の支配下に入ることになる。そうした戦時期日本のヴェトナム政策と現地のヴェトナムの人々の思いとの間には大きな乖離があり、小松はその自己矛盾に呻吟しつつも、ヴェトナム側の目には同じ戦争工作協力者として映るわけで、その点で戦後ヴェトナムでの小松への評価は芳しいものではなかったようだ。この論文はそうした日本のアジア主義の矛盾を踏まえつつ、その中で葛藤した国際派知識人としての小松に目を向けようとしている。

 小松自身によるヴェトナム関連の著書としては戦前に『仏印への途』(六興商会出版部、1941年)があり、「南進」というテーマに関心を持つ人々には読まれたようだが、刊行時、本人は特高につかまって臭い飯を食っていた。戦後は『ヴェトナムの血』(河出書房、1954年)という小説もあるらしい。『ヴェトナム』(新潮社、1955年)は手に取って読むことができた。ヴェトナム概論のように思わせるタイトルだが、ファン・ボイ・チャウ、それから小松自身が付き合いのあったクォンデの二人を軸に、ヴェトナム独立運動と日本との関わりが描かれている。戦後、東京で暮らすクォンデの落魄した姿から説き起こされる(彼は慶応大学名誉教授・橋本増吉邸にいた)。北は共産主義の傀儡である一方、南には人望がない、第三の勢力として南北の和解ができるのは自分をおいて他にはないというクォンデの言い分に、小松はその情熱は認めつつも、現実的ではないと冷ややか。クォンデの性格に入り込めないものを感じて、彼との関係はあくまでも政治的情熱を媒介にしたものだ、という趣旨のことを記している。ヴェトナム独立への思いをつづりつつ、そこでの日本の裏切りに対する後悔も記されている。

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【映画】「ローズ・イン・タイドランド」

「ローズ・イン・タイドランド」

 いつも人形相手に「会話」している夢見がちな少女ローズ。母が死に、父に連れられてきた廃屋には、会ったことのない祖母がかつて住んでいたらしい。そこで出会った近所の不気味な兄妹。頭がおかしくなってしまった大人たちの中で、孤独なローズの心象風景がファンタジックな映像で描かれる。現実の耐え難い生きづらさに打ちひしがれて常軌を逸してしまった大人たち。ローズの両親はドラッグのやりすぎで死ぬ。近所の魔女のようなおばさんは、自分の母親の死を受け容れることができず死蝋作りに一生懸命。ロボトミー手術を受けた純真なその弟とは仲良くなる。現実を拒絶した大人たちに対し、ローズのたくましさはこのみじめな現実をファンタジーによって読み替えているところにあると言えるだろう。ファンタジーは単に現実逃避のおとぎ話というのではなく、現実のみじめさ、つらさを読み替え、意味づけすることで、まさにそのいやな現実を生き抜く力ともなり得る。例えば、ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」やガボア・クスポ監督「テラビシアにかける橋」を観たときにもそうした印象を抱いた覚えがあった。テリー・ギリアムのつくる映像は面白くて、独特なカメラ・アングルなど好きだ。ローズ役のジョデル・フェルランドはこの映画当時はまだ十歳前後の子役だが、表情豊かな演技力が素晴らしい。

【データ】
監督:テリー・ギリアム
2005年/カナダ・アメリカ/117分
(DVDにて)

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【映画】「シリアの花嫁」

「シリアの花嫁」

 イスラエル軍占領下のゴラン高原。ドゥルーズ派のある一家は慌しい一日を迎えている。末娘の婚礼の日だが、花婿は軍事境界線の向こう側のシリアにいて、嫁入りはすなわち実家にはもはや戻れないことを意味した。婚礼当日はちょうどハフェズ・アル・アサドの死を受けて息子のバーシャール・アサドが大統領に就任する日で、イスラエル警察は親シリア派の動向に神経を尖らせている。一家の父親は親シリア派の政治活動をして逮捕歴があった。本来ならばめでたい日なのに、ぎくしゃくした家族の関係があらわになり、さらには国境越えのトラブル。赤十字の女性職員は手続き上の問題でイスラエル側、シリア側双方の間を右往左往。

 父と息子の葛藤、自立を求める妻とそれに我慢ならない夫。お互いの頑なさが心の壁を作り上げてしまっているわけだが、いずれ和解へと向かう。こうした家族のいざこざを描きつつ、そこには同時に国境なるものも人為的なイマジナリーなものにすぎないという意図も重ねて込められているのだろう。そのあたりが観ながら自然に受け止められて、なかなかよくできた映画だと思った。

【データ】
監督:エラン・リクリス
2004年/イスラエル・フランス・ドイツ/97分
(DVDにて)

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【映画】「乱暴と待機」

「乱暴と待機」

 人に嫌われるのを極度に恐れる奈々瀬(美波)は、「お前にいつか復讐してやる、ものすごい復讐が思いつくまで待ってろ」と言う山根(浅野忠信)を嬉しそうに「お兄ちゃん」と呼んでいる。ウジウジ、オドオドの受身の態度が、実は男を翻弄する武器。復讐待望で結び付いた二人の倒錯した関係に巻き込まれた夫婦(小池栄子、山田孝之)。

 本谷有希子の原作(メディアファクトリー、2008年)は読んだことがあり、毒気の強いナンセンス密室劇という印象があった。この映画も基本的にはこうした路線ではあるが、郊外のぼろい長屋風の家並み、時折挿入される夕暮れの風景などはどこか寂しげな感じを与える。意図的な演出なのか。この微妙なペーソスのために変態的でブラックなテイストが弱まって、かえってすっきりしない後味の悪さが残ってしまった気がする。

【データ】
監督・脚本:冨樫昌敬
2010年/97分
(2010年10月16日、テアトル新宿にて)

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