« 2010年10月3日 - 2010年10月9日 | トップページ | 2010年10月17日 - 2010年10月23日 »

2010年10月10日 - 2010年10月16日

2010年10月16日 (土)

デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』

デイヴィッド・ハルバースタム(山田耕介・山田侑平訳)『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(上下、文藝春秋、2009年)

 政府・軍司令部から現場で動員された兵士たちまで、資料やインタビューに基づき、朝鮮戦争をめぐる様々な人間模様を主にアメリカ側の視点から立体的に描き出したノンフィクション。一人ひとり癖のある面々を明確に性格づける筆致はときに独断的にも感じられるかもしれないが、描写力にメリハリをつけたアクセントとなって読みやすい。

 当たり前の話だが、戦争というのは単に物量や技術力で算定された軍事力のぶつかり合いというだけでなく、それらを組織・運営する人間の問題、モラールやリーダーシップの問題が決定的な戦局の帰趨を決めてしまう。数学の公式のように戦力計算で結果が予測できるものではなく、人間的要因が思いがけないところから色濃くにじみ出てきてしまう。マッカーサーのパフォーマティヴな自信過剰。中国軍の介入などないと信じるマッカーサーにへつらう取り巻きはそれを前提に情報操作、現場から上げられた情報を無視。政権高官のイデオロギー的フィルター。人種的偏見から相手をみくびる指揮官。様々なレベルでの誤算や失敗が絡まりあって、この戦争という凄惨なドラマが漂流するかのように進行する様が大きく浮き彫りにされる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

田中奈美『中国で儲ける──大陸で稼ぐ日本人起業家たちに学べ』

田中奈美『中国で儲ける──大陸で稼ぐ日本人起業家たちに学べ』(新潮社、2010年)

 中国に行って実際に企業を起こした複数の人々にインタビュー、苦労話や中国社会と付き合うコツを聞き出し、「マーケットを知る」「会社を興す」「人材を掌握する」「マーケットを広げる」「トラブルを回避する」という各章にちりばめながら構成。考えてみると、谷崎光『中国てなもんや商社』(文藝春秋、1996年)を読んで笑い混じりのショックを受けてから14年経つが、ああいう類のトラブルは当たり前という感覚になっているせいか、読んでいて特に驚くようなことはもうない。法的グレーゾーン、物流のトラブル、人事のトラブル、パクリ(山塞ビジネス)など色々と問題はある。文化的背景が違うのだから実際に行って体当たりするしかないわけだが、結局、現地の人と如何に信頼関係を築くかがカギとなりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月15日 (金)

亀山哲三『南洋学院──戦時下ベトナムに作られた外地校』

亀山哲三『南洋学院──戦時下ベトナムに作られた外地校』(芙蓉書房出版、1996年)

・戦争中、サイゴンに開校した南洋学院第一期生の著者によって学院生活、現地応召されて見聞した戦争、戦後の混乱についてつづられた手記。
・南洋学院は昭和17年に仏印総督(フランス)の認可、第一陣は同年12月にサイゴン到着、18年1月に正式開校。戦後の昭和21年2月2日付けで正式に廃校。設立母体は南洋協会、専門学校令に準拠、東亜同文書院にならった運営。農業・経済の総合、修業年限3年(後に短縮)、1学級30名で全寮制の規律生活。到着当初は風土病に難儀。農村調査旅行。事前に小松清『仏印への途』を読んでいる。
・ベトナム語、フランス語を学んだ。サイゴンの中華街ショロンでは北京語ではなく広東語や福建語が必要。
・フランス映画館ではヴィシー政権の標語、ラ・マルセイエーズの演奏。
・昭和19年5月5日、初めてのサイゴン空襲。
・ベトナム語の若い先生に「なぜ小学校がないのか?」と質問。先生に案内されたのはみすぼらしい建物。彼は教育施設の貧弱さを指摘した上で「フランス総督を頂点としたアンシャン・レジームそのものだ」と言ってベトナム独立を熱く語り、その中で越盟や阮愛国の名前も出てきた。
・修業年限が2年余に短縮されて繰り上げ卒業→就職してすぐ現地入隊。昭和20年3月9日の明号作戦(日本軍の仏印進駐後しばらくは日本・フランス共同統治という形をとっていたが、日本が武力クーデターによってフランスを攻撃)にも参加。この時、南洋学院の在校生もフランス民間機関の接収に動員された。
・大隊長の通訳。「皇軍」「御稜威」「八紘一宇」…フランス人相手に何て訳せばいいんだ?→適当に「生命・安全は保障する、今までどおりに仕事しろ、情報があったら教えること」と訳してつじつま合わせしたらみんな納得、その表情を見てフランス語の分からない大隊長も納得。
・少数民族モイ族のフランス軍下士官→フランス軍には愛想がつきたから日本軍に協力したい、と言ってきた。彼と一緒に行動しながらモイ族の風習を知る。「モイ族は…」と言いかけると、「モイ」とはベトナム語で「馬鹿」という意味だからやめてくれ、モンタニャールと呼んでくれ。フランスもいやだが、安南人も嫌いだ、自分たち自身の国は作れないか、と相談してきた。
・日本の敗戦。北部には中国軍(国民党)と大越党、ベトミン、フランス軍が入り乱れ、それぞれから残留日本人は勧誘された。中国国民党の威を借りる日本人、フランス軍に入った日本人、ベトミンに身を投じた日本人と様々。著者も解放同盟から誘われている。
・8月15日直後のハノイで、日本人ではなく(中には「日本軍、ありがとう」と声をかける人もいた)、フランス人がベトナム人によって襲撃されているのを目撃。
・当初、ベトミンは日本軍とは対立せず、イギリス軍との衝突も避けていた。フランス軍が上陸し、日本軍がそれに協力する構図になって攻撃対象に。
・昭和21年1月になって武装解除→捕虜収容所へ。病院で通訳。フランス軍にいたベトナム人にも北のベトナム民主共和国に共感する者がいて相談を受けた。
・戦争中、イギリス軍捕虜を見かけたが衛生状態が極めて悪そうだった。戦後、残虐行為を行った日本兵の戦犯追及。中国軍占領区にいた将校は追及から逃れた。
・最後に、戦後の日越交流について。
・巻頭に南洋学院の時の写真。中の一枚、ベトナムの日本留学生が出発前に南洋学院を訪れたときの写真に、グエン・スアン・オアインも映っている。彼は京都帝国大学に留学、経済学を修め、戦後はアメリカ留学、IMF勤務を経て、南ベトナム政府の中央銀行総裁、ベトナム統一後も残留し、ドイモイの提唱者として知られる。坪井善明『ヴェトナム──「豊かさ」への夜明け』(岩波新書)を参照。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月14日 (木)

坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』

坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』(東京大学出版会、1991年)

・対象とするのはフランスによる植民地化が始まった時期。ヴェトナムをフランス・中国といった外国勢力によって翻弄された客体として描くのではなく、自立的な動向を示した主体として捉える視点の中で対外的危機に対処しきれなかったヴェトナムの社会構成が抱えた内在的問題を分析する。
・アドラン司教(ピニョー)の個人的努力で阮福映(嘉隆[ザロン]帝)が西山党を破って権力掌握。
・次の明命(ミンマン)帝は宣教師迫害。宗教的理由からキリスト教を迫害する理由はヴェトナム側にはなかったが、宣教師の政治行動への疑惑が高まっていた。宣教師集団にはナショナリズム感情が高まっていたこと、ナポレオン三世政府への影響力があったこと→宣教師集団の主導で他国の政治権力に対する軍事介入が可能だった。
・フランスの中国進出、イギリスとの対抗のために拠点を必要としていた。
・フランス本国政府からの明確な指示なし、情報伝達の距離感→現地の代理人が独断行動。
・阮朝の王位継承手順が不明確→後継者争いのなか宮廷革命によって嗣徳(トゥドゥック)帝が即位。文人肌、体質虚弱で国民的な人気なし。
・兄の洪保が政治的陰謀に関わって失敗、自殺。彼はキリスト教徒に接近していた→嗣徳帝の反キリスト教感情、迫害→フランスの軍事介入の口実。
・フランスへのコーチシナ三省割譲→文紳・官人たちの反発、抗議活動→嗣徳帝は中国や黒旗軍(劉永福)に助けを求めた一方、文紳たちの反乱に対してはフランス海軍の協力を得た→外国依存の対応。
・宮廷では改革の必要を感じつつも進まない:①西欧文明の導入は「敵」への屈服と思われた。②財源問題の考慮なし。③どんな社会階層を拠り所として改革を進めるのか展望がない。
・ハノイ、ハイフォン、帰仁の開港→中国商人が急増。
・財政立て直しのために土地税制改革。また、支出削減のため軍隊組織改革→民兵の組織が認められた。
・1874年のサイゴン条約→ヴェトナム宮廷は中国へ朝貢使を派遣する一方、フランス側は中国との関わりは条約違反だと認識。
・村落共同体(ヴェトナム語)と宮廷・国家(中国式統治機構)との連結点となるのが官人・文紳層→この層をつかめなければ国家が直接大衆動員によってフランスへの抵抗運動を組織化することはできなかった。皇帝側も大衆への侮蔑意識、文紳からの意見具申を無視
・皇帝に支持基盤はなく、外交交渉で切り抜けようとしたが、戦争に巻き込まれて行く。
・1885年、退位を迫られた咸宜(ハムギ)帝の檄に応じてようやく「勤王運動」として大衆運動が動き始めるが、皇帝の実質はすでになし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月13日 (水)

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』、伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』(東京大学出版会、1995年)
・①中華世界→ASEANというベトナムの帰属意識の変化、②キン族主体のベトナム人意識と周辺民族や少数民族との関わり方、以上の二点がポイント。
・中華世界の華夷秩序の中にあったが、中国からの自立性強化のために「中国化」→「南国意識という小中華思想(中国=「北国」、ベトナム=「南国」として対等)→周囲の「蛮夷」とは区別された文明的な「京人」意識としてベトナムの国家意識が形成され(京人=キン族)、これは東南アジアの周囲の民族とは違うという自己規定。
・フランスのインドシナ植民地支配:漢文的素養と結びついたベトナムの科挙官僚制度に対して、ベトナム語のローマ字化を通してフランス語による植民地官僚制度へと編成。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」の議論を援用→「巡礼圏」形成、ただし主にベトナム人下級官僚によって担われた→カンボジア人やラオス人との一体感は醸成されず、複合社会として横の連帯意識が欠如。
・ファン・ボイ・チャウ:儒教を学び科挙をパスした伝統的知識人だが、伝統の固守ではフランスに対抗できない→開明派、近代ナショナリズムの創始者。同じ中華文明圏の一員として同文同種の日本へ関心を向ける一方、インドシナの他の諸民族は連携の対象とはみなされず。
・日本の支配→連合軍側が1943年に「東南アジア司令部」設置→「東南アジア」という地域枠組みが登場。
・1940年代の共産主義運動において、ベトナムという枠組みはキン族だけでなくほかの少数民族も包摂→多民族国家志向。
・1945年、日本の仏印処理→当時、日本はソ連を仲介役として終戦を模索中だったが、ソ連はフランスと同盟関係にあり、仏印処理がソ連を刺激するのをおそれた→ソ連は「民族自決」には賛成だから、インドシナの独立という建前にしようという打算→ベトナム、カンボジア、ラオス三国の独立宣言→インドシナ連邦ではなく三国独立という方向性が定着。
・1945年の八月革命→ベトナム民主共和国。対仏抗戦においてベトナム人がカンボジア・ラオスを指導するという図式。
・冷戦の論理で南北分断→「北」を中国依存に追いやった。社会主義国家としての「普遍国家」志向。ベトナム戦争終結→中国離れの加速。
・当初は、少数民族が「平等」を担い得る主体となるよう「自己解放能力」の形成を促すのが方針→ベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降、「団結」を重視→キン族が「主軸民族」。
・中越関係の悪化→華僑政策の変化。
・1976年、ベトナム社会主義共和国成立→対外危機がある程度まで解消→「貧しさを分かち合う社会主義」への不満。カンボジア侵攻→主観的には「国際主義的義務」ではあっても、国民国家システムにおいては内政干渉というルール違反とみなされて国際的孤立。こうした状況下、国内経済の立て直しが必要→かつては排斥した華僑の残留が必要→華僑の残留はASEAN諸国との接点にもなり得た。
・カンボジア問題(ポル・ポトをはじめかつてはベトナムと協力関係にあった共産主義者が次々と離反、インドシナ三国の同盟は難しいことを認識)をきっかけにベトナムはASEAN諸国に接近。ベトナムは「中国大国覇権主義」に対する防波堤として自己規定→ASEANはアメリカ主導の反共軍事同盟という「敵」ではなく、むしろ同じ東南アジアの一員であることを強調。
・ドイモイ:「社会主義ベトナム」→「ベトナム社会主義」への転換という形で「普遍国家」から脱却して民族化→東南アジアの「地域国家」という方向性。また、競争原理の導入→少数民族には不利という側面もある。

伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』(三元社、2008年)
・ベトナムは人口の86%を占めるキン族+その他の53の少数民族=54民族から成る多民族国家という原則を持つ。少数民族は「国定民族」確定作業(中国の「民族識別工作」と同様)を通して分類されており、それは学術的な作業という建前ではあるが、国家主導の政治性も絡んでいる。従って、「民族」なるものには政治的思惑が絡み合う中で後天的に形成された側面があるにもかかわらず、それを原初主義的に捉えてしまう矛盾も生じてしまう。そうした「民族」概念に絡む政治性について実地の聞き取り調査を通して本書は検証。
・「国定民族」の確定→各民族の「平等」を保証するという考え方を通して国民統合が図られた。ベトナム戦争において山岳地帯に住む少数民族からの協力を得る必要性も背景にあった。
・54という数字が公的に確定。その後、自分たちも別個の民族として認めて欲しいという声も登場、それを当初は検討しようとしたが、次々と表れていくと際限がなくなり、従来の政治枠組みが崩れてしまうおそれ。
・民族確定作業を担った民族学者にはソ連留学組が多かった→学問と政治の一体化。他方で、実際の作業は中国の「民族識別工作」に倣う→「区域自治」、分類に際して「民族の自意識」重視。
・非均質的な多様性を持つ社会でもともと父系血縁集団などを軸に「われわれ」と「かれら」を区別してきた人々→「民族確定作業」では近代的「民族」概念を「正しく」(=無理やり)適用しようとしてこうした多様性を把握できず。
・少数民族のサブグループが逆に「民族確定作業」の論理を逆手に取って自己主張。「国定民族」一覧表には国家主導の思惑があり、実際のありさまを把握できていない難しさ。
・わずか300人のオドゥ族→実態としては周囲の民族への同化が進んでおり、登録数上の「絶滅の危機」→54という数字が1つでも減るとベトナムの少数民族政策がうまくいっていないことになってしまって問題だと政府側は考える。このように特別視される少数民族がいれば政府から優先的な予算がつけてもらえる、また少数民族出身者への優遇政策→これを利権に使う動きもある。
・ダム建設等の開発計画で土地を失い、共同体が崩壊してしまった少数民族も少なくない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月12日 (火)

【映画】「ヘヴンズ・ストーリー」

「ヘヴンズ・ストーリー」

 家族を殺されて祖父に引き取られた少女サト(寉岡萌希)。犯人は自殺してしまったが、そのことを知ったのと同じニュース番組で、やはり妻子を殺された男性トモキ(長谷川朝晴)が「犯人を殺してやる」と記者会見で明言するのを見て憧れを抱く。一方、トモキの妻子を殺した少年(忍成修吾)に手紙を送る若年性アルツハイマーの女性(山崎ハコ)。少年は出所後、働きながらその女性の介護を続けている。ある日、少年が社会に出てきていることを知ったサトは、新しい家庭を築きつつあるトモキに会いに行き、殺された家族のことを忘れたのかと迫る。さらに復讐代行の裏仕事をしている警官(村上淳)のエピソードも絡まり、様々な人間模様が重層的に関わり合いながらそれぞれの復讐と再生への葛藤が描き出されていく。

 都市、住宅街、海辺、閉山した炭鉱跡、ヴァラエティーに富んだ風景が、四季の移ろいと共にそれぞれ異なった表情を見せる。とりわけ、登場人物たちが暮らす団地と、炭鉱跡にある廃墟となった建物との対比が非常に印象的だ。廃墟はまるで団地の将来を示すかのようだ。地平線も見えるような大きな視野の中で両方が続けて映し出され、その広がりの中で人が追いかけ、追われている姿を見ているうちに、ふと「諸行無常」などという言葉も脳裡によぎった。

 殺した者の葛藤、殺された側の遺族の無念。復讐したくても相手が自殺してしまったために怒りをぶつける対象のない少女、復讐は新しく築いた家庭を崩すことになってしまう男。人を殺すとはどういうことか、人が死ぬとはどういうことか、素朴だが根源的な問いかけ。答えはもちろん分かるはずもないが、そうした思いをぶちまけたり、問いかけたりという一切も含めて、この移ろい行く世界の中に置いてみると、はかないものにも見えてくる。

 少年の「殺した理由は分からない、ただ何か大きなすごい力に突き動かされて──」という発言が私の耳元にこだましている。人間存在が本来的に抱える「分からなさ」は過去においても現在においても根本的には変わらない。ただ、昔はコンベンショナルなロジックが用意されていて、何かあればそこに押し込めてしまえば「理由が分かった」かのように処理することができた。これに対して、そうした共有ロジックが失われて「理由が分かったつもりになれる」コードにのらない状況、俗に言う「理由なき殺人」というのもそうした類いのものであろう。それは同時に、他人だけでなく他ならぬ自分自身をも納得させる言葉が見つからないというもがきでもあり、それだけ矛盾や葛藤はなお一層のことむきだしとなる。「諸行無常」と上に言ったのも、それは虚無ということを言いたいのではない。殺すことの是非といった価値意識をすべて剥ぎ取ったところにおいて、自分の意志ではどうにもならない宿業的なものに絡め取られてもがき続けざるを得ない人々の姿。いやでも何でもそこに人生の彩りが垣間見えると言うしかないのか、そんな思いをかみしめた。

 群像劇は散漫な印象を与えるかもしれないが、一人ひとりがバラバラにもがいているようでいて、見えないレベルで凄みをはらんだ大きなうねりが浮かび上がってくる。そこがこの映画の持つ迫力である。こうした印象は、無限にも続きそうな人間模様の連鎖、それらを包み込む季節の移ろいを感じさせる映像の中でよりいっそう強められてきた。雪化粧の廃墟のシーン、それから少年との決闘で倒れたトモキの眼前、日の光が強まって夏のセミの声が聞こえてくる瞬間など印象的だ。四時間半の長丁場だが、これでもまだまだ描き足りなかったことだろう。

【データ】
監督:瀬々敬久
脚本:佐藤有記
2010年/278分
(2010年10月11日、渋谷、ユーロスペースにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月11日 (月)

【展覧会】「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

 1900年頃からベルギーのレイエ川沿いにある村ラーテムに住んだ芸術家たちの作品を展示。それぞれに独自の作風を持ち画派として一括りにできるわけではないが、主に象徴主義の第一世代、印象主義の第二世代、第一次世界大戦を挟んで疎開先から戻ってきた第三世代に分けられている。

 目玉となるのは印象派的なタッチで村の風景と人々の姿を描いたエミール・クラウス。この展覧会のポスターになっている「刈草干し」も彼の作品だ。光が強調された描き方で、農村の穏やかな明るさが浮かび上がる。風のそよぎと空気のゆるやかな揺れ、鳥のさえずりなども聞こえてきそうな感じで、気分がほっとするような美しさだ。第一世代のヴァレリウス・ド・サートレールという人の絵もひかれた。こちらはむしろ暗い感じ。黄昏の光景を地平線の見える広がりの中で描いている。緊張感のある静寂。もし感傷的に敏感な気分だったらシンクロしてこのまま取り込まれてしまいそうだ。

 第三世代は疎開先で触れたドイツ表現主義、シュルレアリスム、キュビズムなどの影響の顕著に見られる作品が多い。穏やかな風景画や人物画に慣れた目でいきなり見ると、何か「あっちの世界に行っちゃったのか…」という妙な気分。別に悪いというわけではないが、なにぶん「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」というタイトルの展覧会のつもりで見に来ているので、「あっち」の方を見る心構えができていなかったというか…。
(2010年10月11日、渋谷、Bunkamuraザ・ミュージアムにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

 猟奇的殺人鬼のプロファイリングで心理的にシンクロしたトラウマから仕事を辞めた元警官のもとに、さる大富豪からフィリピン・ミンダナオ島で失踪した息子のシタオを探し出して欲しいという依頼がきた。彼は手掛かりをたどって香港へ行き、旧友とも再会する。一方、冷徹無比なギャングの親分も、拉致されて姿を消した愛人を探しているところだった。彼らの行方が収斂する先には、人々の痛みを我が身に受けて悶え苦しむシタオの姿があった。

 猟奇的なサスペンスかと思っていたら、ストーリーが進むにつれて観念性が強まってくる。キリストの受難を現代において再現したらどうなるかという意図が見えてくる。監督はフランス在住のベトナム人トラン・アン・ユンだが、彼はベトナム戦争の最中に両親と共にフランスへ移住した経歴のひとだから、ひょっとしてカトリック信者なのか。主な舞台は香港だが製作はフランス、主演はジョシュ・ハートネット、木村拓哉、イ・ビョンホン、と多国籍映画。シタオ役は必ずしも日本人である必然性はないのに敢えて木村を起用しているところを見ると市場として日本をあてこんでいるのだろうが、キリスト教のバックボーンのない社会ではあまり理解はされないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月10日 (日)

小島剛一『トルコのもう一つの顔』『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』

 著者は言語学者で、1970年に初めてトルコを旅行で訪れて人々の人情のあつさと諸言語の豊穣な魅力にとりつかれて以来、たびたびトルコを訪れては全土を歩き回り、忘れ去られようとしている様々な言語の研究をライフワークとしている。だが、ケマル・アタチュルクのトルコ革命以来、近代化と国民国家形成を至上命題としてきたトルコ政府は、ケマリズムの柱の一つとなっている国粋主義思想により「トルコ共和国にトルコ語以外の言語は存在しない」という原則を取っている。少数言語はあくまでもトルコ語の「方言」に過ぎないとされて、それがトルコ国内では「常識」として異議申し立ては許されず、従って、少数言語の掘り起こしはタブーであった。公用語としてのトルコ語を話さなければ分離独立主義者とみなされて投獄の理由となり、著者も何度か国外退去処分を受けている。

 著者の関心は純粋に学術的なものであった。しかし、多様な言語が織り成すモザイク状況、そこに国民国家=標準語の枠が無理やりはめられてしまった矛盾から生じた軋轢を否応なく目の当たりにせざるを得なくなってしまう。「民族」概念と同様に「言語」概念もまた政治的・社会的コンテクストによって規定された側面が強く、この「言語」問題は少数言語の話者にとってはアイデンティティを根底から崩される深刻な抑圧と受け止められる。「隠れ民族」、さらには「忘れ民族」という問題。自分の母語はトルコ語ではないようだと薄々気づいていても、政治的にナーバスになっている父母は子供に何も教えないため、調査中にも「私たちの言語は何語なんでしょうか?」と逆に尋ねられるシーンすら珍しくない。

 このように政治的に難しい状況で論文を発表したとしよう。中立的に学術研究をしているつもりではあってもトルコ政府はそうは受け止めず、国外退去処分等でこれ以上の調査はできなくなり、さらには聞き取りをした関係者にまで累が及んでしまう。もちろん、トルコ政府に迎合して嘘八百を書くわけにはいかない。そうした中、「むしろ一般書として出版してしまえば、もしトルコ政府が圧力をかけてもそれ自体が大きな話題となって宣伝効果となってしまうので手が出しにくいのではないか」とアドバイスを受けて書き上げたのが最初の著作『トルコのもう一つの顔』(中公新書、1991年)だったという。その後の経緯をまとめたのが最新刊『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』(旅行人、2010年)である。後者では言語学的話題ばかりでなく、トルコ政府外務省や諜報機関、マスメディアの問題、また著者が在住するフランス・ストラスブールで関わったトルコからの難民たちの問題などについても記されている。

 著者は立場の違う人々とも分け隔てなく向き合う姿勢を持っており、それぞれに人情のあついもてなしを受け、親交を結んでいくところは時に感動的ですらある。言語学研究のフィールドワークの記録として読めばそうした分野の知見も得られるが、それ以上に、「言語」という問題が抱える政治性に身を以て切り結んでいく姿はまるでハラハラさせる冒険譚のようにスリリングだ。トルコに関心がない人でも、広く「言語」や「民族」といったテーマについて考えたい場合には、この二冊は是非読んで欲しい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【映画】「ブロンド少女は過激に美しく」

「ブロンド少女は過激に美しく」

 リスボン発の列車の中、男性がたまたま隣り合わせた老婦人に向けてためらいがちに話しかける。「家族や友人には言えないことでも、見知らぬ人なら話せると思いまして…」。彼は伯父が経営する店の二階で会計士として仕事をしていた。窓を開けると、向かいの建物で暮らす美少女の姿。中国式の丸扇をあおぐ優雅な仕草。一目ぼれした彼は求婚したが、伯父の強い反対で店を追い出された。ガヴォベルデで一財産を築いて帰国、改めて結婚へと一歩踏み出せたはずなのだが…。

 御年100歳となるポルトガルの巨匠マノエル・デ・オリヴェイラの新作。私は他の作品を観たことがないのでよく知らないのだが、前日の新聞夕刊の映画評で絶賛されていたので、ふーんと思って足を運んだ次第。ヒロインが美しいかどうかと言うと、正直、私にはそういう実感がないし、青年の恋の情熱の思いがけない挫折といっても私は冷めた目で見るばかり。ただ、リスボンの石造りの街並に漂うレトロな雰囲気を映し出す映像には、ゆったりと落ち着いた気品が浮かび上がってきて、この点が魅力的に感じた。

【データ】
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
2009年/ポルトガル・フランス・スペイン/64分
(2010年10月9日、日比谷、TOHOシネマズ・シャンテにて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

【映画】「ラスト・ブラッド」

「ラスト・ブラッド」

 舞台はベトナム戦争が行き詰りつつある1970年代、日本にある米軍基地。アメリカン・スクールにやって来た謎の転校生サヤ(チョン・ジヒョン)がヴァンパイヤと戦う、というホラー・アクション映画。押井守のグループがつくったアニメーション映画「BLOOD THE LAST VAMPIRE」はむかし観た覚えがあるが、血まみれのヴァンパイヤと戦争というテーマとが結びついていたような気がする。その実写版で大筋は変わらないが、オニゲン(小雪)なる敵の親玉が登場するところがオリジナル・ストーリーか。舞台は日本だが、米軍基地がメインなのでほとんど英語(これはアニメ版でもそうだった)、日本刀を振るって戦う凛々しいセーラー服の女子高生役は韓国人、殺陣は香港アクションで、監督はフランス人。国籍のよく分からんところが妙に面白い。

【データ】
原題:BLOOD THE LAST VAMPIRE
監督:クリス・ナオン
2009年/香港・フランス/91分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「TOKYO!」

「TOKYO!」

 海外の三人の映画監督が東京を舞台に奇想的なエピソードの短編を撮ったオムニバス映画。「インテリア・デザイン」(監督ミシェル・ゴンドリー)は上京したものの居場所のない若者カップルが主役、自分の存在価値が分からなくなった女性の方が椅子に変身していくところがファンタジック。「メルド(糞)」(監督レオン・カラックス)は、マンホールから現れた謎の怪人が東京を破壊して歩くという話。違和感があって好きじゃないな。「シェイキング東京」(監督ポン・ジュノ)は、引きこもりの男がピザ屋の配達の女性に恋をして会いたいと思って外に出たところ、東京では誰もが引きこもりになっていた、という話。主人公(香川照之)の心象風景を映し出す構成だが、映像の撮り方が抒情詩的で、とりわけ蒼井優のさびしげな表情をよく引き出しているのが良い感じ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

坪井善明『ヴェトナム現代政治』、古田元夫『ドイモイの誕生──ベトナムにおける改革路線の形成過程』、中野亜里『現代ベトナムの政治と外交──国際社会参入への道』

坪井善明『ヴェトナム現代政治』(東京大学出版会、2002年)
・ベトナムでは共産党一党支配を前提として言論統制下にあり、「批判の学問としての政治学」は存在しない。統治エリートに身を置いていない限り、現地のベトナム人の大半でも政治構造の全体像を把握するのは困難であるが、そうした限界を自覚しつつ、公刊資料や自身の見聞等を通して現代ベトナム政治・社会の概略を間接的に描き出そうという試み。
・ベトナム政治社会の三つの顔→①伝統:ベトナムの伝統としての長老支配、強い個人と強い共同体。中国文明の影響→科挙官僚。フランスからは近代的普遍価値を受容→植民地支配者とは別の顔。②発展途上国。③社会主義。
・神格化されたホー・チ・ミンについてBrocheuxとDuikerの評伝を紹介。ナショナリストか共産主義者か?という論争点。
・共産党:政治局員の序列は①書記長、②国家主席、③首相、④国会議長→北・中・南部という出身地域、軍・政治・経済という出身母体のバランスが考慮されている。
・軍:中国と同様に軍事目的だけでなく、生産活動・政治教育活動→近代的装置(学校)としても機能。ドイモイ→市場経済の進展・門戸開放→「和平演変」のおそれから保守派の勢い増大→軍の政治的役割も強化された。
・祖国戦線:共産党その他の団体による大衆的政治連合組織。大衆動員を行なうと同時に、下からの要求や不満を党・国家に吸い上げるチャネル。中国の人民政治協商会議よりも政治的役割は大きい。
・日本など「自由主義政治体制」とは異なり、ベトナムの「社会主義政治体制」の権力観は共産党一党支配が基本原則→武力革命(1945年の八月革命から第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争)という事実に依拠。
・国会→「独立候補」をいかに保障するか。立法機能をいかに向上させるか。
・汚職や政治腐敗の問題、地方行政組織の機能不全。
・司法→党の恣意的裁量ではなく、いかに「法の支配」を確立させるか。
・都市と農村、南部と北部の貧富の格差が拡大。

古田元夫『ドイモイの誕生──ベトナムにおける改革路線の形成過程』(青木書店、2009年)
・「貧しさを分かち合う社会主義」、ソ連型社会主義の「普遍モデル」はベトナム戦争における戦時体制として機能。しかし、「北」で定着したこのモデルを統一後に「南」へも強制したところ反発が大きかった。
・生産請負制の導入など地方の実験からはじまった「下からのイニシアティブ」を皮切りに共産党最高指導部が方針転換(もともと保守派であったチュオン・チンが経済的に停滞した現状に危機感を抱いて改革派へと転身)→ドイモイが政策路線として定着したプロセスを本書は分析。
・ペレストロイカ等の外からの影響というよりも、ベトナム自身の内在的な事情からドイモイは始まったと捉える→「普遍モデル」からの脱却、社会主義の「民族化」。

中野亜里『現代ベトナムの政治と外交──国際社会参入への道』(暁印書館、2006年)
・ベトナム戦争の終結後、現在に至るまでのベトナムの外交政策の変遷を跡付ける。
・ベトナム戦争後、世界人民はベトナム革命を支持してくれているという自信に基づく対外政策、しかし中越紛争、カンボジア侵攻などで国際的孤立を招いていしまったという誤算。ハノイ指導部はアメリカに対しては道義的責任を基準として対応→関係改善のチャンスが遅れた。中ソ対立に巻き込まれるのを回避しようとしていたが、カンボジア・中国との関係悪化→対ソ接近。しかし、ソ連は中越紛争への過剰反応によってアメリカとのデタントをこじらせるつもりはなく、介入は避けた。カンボジア侵攻→北京をバックにしたポル・ポト政権打倒によって経済復興に必要な環境整備をしたいという目的→ASEANは警戒心(現在、ベトナムの識者の間では、ポル・ポト政権打倒は間違っていなかったが、その後もカンボジア駐留を続けたことは誤っていたという認識が一般的らしい)。
・ASEANに対しては、ベトナムは東南アジア革命の旗手と自認する一方で、中国に対する警戒感から現実的な対応。
・ドイモイの進展→経済立て直しのためには国際的孤立から脱却する必要→カンボジア問題でも柔軟な態度をとるようになった。ソ連解体後は中国の改革開放をモデルとする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年10月3日 - 2010年10月9日 | トップページ | 2010年10月17日 - 2010年10月23日 »