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2010年9月26日 - 2010年10月2日

2010年10月 2日 (土)

吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』

吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』(青木書店、1986年)
・1938年、援蒋ルートについて仏印側に抗議→初期段階の交渉では「日本通」フランス人が重要な役割→1940年6月に日本は監視団を送ることで合意(西原機関)。
・1940年9月の日本軍の北部仏印進駐から1941年7月の南部仏印進駐にかけて、日本の戦争遂行指導部における内部対立が国策決定に及ぼしたプロセスを本書は分析。戦争拡大反対派と積極推進派との対立は言わば「同じ穴のムジナ」に過ぎず、戦争抑止に作用するどころか、むしろこのセクショナリズムによる対立抗争が戦争衝動を相乗的に高めていった。平和進駐派の西原一策(現地の西原機関)と強硬派の富永恭次(参謀本部第一部長)の喧嘩両成敗となったが、進駐という結果は残った。(※本書の内容とは関係ないが、富永は後にフィリピン戦線に異動、特攻隊をドンドン送り出しながら自分だけ本国に逃げ帰った卑怯者。西原の後任としてハノイに赴任した澄田【らい】四郎はその後中国戦線に異動となり、降伏時に部下の将兵を山西省に置き去りにして帰った。両方とも評判の悪い奴らだ)

吉沢南『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』(朝日選書、1986年)
・戦争中、仏領インドシナにいた4人からの聞き書き。
【西原機関の電信係】:現地で情報収集や親日団体組織工作などにも従事。
 日本と仏印当局との折衝が行き詰ったとき、邦人総引き揚げ(=武力行使の予兆)という強迫手段。
 対中国人の情報収集活動をした台湾出身者→戦後、ハノイに進駐した中国軍によって「漢奸」として処刑された。
 からゆきさんだった人など以前からベトナムに来ていた日本人の姿が垣間見える。
 日本は仏印進駐後もフランス植民地機構を維持利用→日本とフランスとの共同支配→日本の敗色が濃厚となるにつれてフランス側の対日協力派が後退、ドゴール派が有力に→1945年3月9日、日本軍がフランス側を攻撃(「仏印処理」「明号作戦」)→日本の単独支配。
 日本の敗北が決定的になるとベトミンが一斉蜂起。しかし、無条件降伏した日本軍は戦意喪失しており、むしろこれから進駐してくる仏・英・中国軍に対して警戒感→ベトミンは日本軍との衝突を回避、日本人の安全の保証を条件に武器の引渡しを申し入れてきた。
【台湾生まれの日本人で台南製麻の会計係】
 仏印「開発」に向けて日本は台湾の人的資源(日本人も台湾人も)や経済力を総動員、このときに台湾製麻もベトナム進出。台湾人指導員がベトナムの農村に入っていった。黄麻強制栽培がベトナムで飢餓を発生させたのではないか?という問題。
 ベトナム人女性を妾にするケースは多々あったが、正式に結婚したこの人は憲兵隊に呼び出され「現地の劣等民族と結婚するなどけしからん」と言われた。
 中国軍(中国国民党の盧漢将軍指揮)と共に帰還した越南革命同盟会・越南国民党とベトミンとの対立。ハノイでは、国民党軍は日本軍以上にひどかったと記憶されているらしい。
 ベトミンに参加した日本人(100名前後?)に対して、フランス軍はナーバスになっていた。
【大南公司の農業指導員となった台湾人】
 「日本人」意識を持ち、現地ベトナム人からもそう思われている一方で、日本人からは差別待遇を受けた。台湾人を矢面に立てて現地を支配するからくり→ベトナム人の間には、日本人よりも台湾人の方がひどかったと思われてしまった。
 戦後、ベトナム政府からは「日本人」として扱われたが、日本政府からは「日本人」とは認められなかったため引揚できず、無国籍のままベトナムに残留。中越関係が悪化する中、「難民」として香港経由で日本へ。
【ハイフォンの憲兵】
 日本軍によるベトミンへの掃討作戦に参加。
 戦後、捕虜となったが逃亡→ベトナムのフランスとの戦いが始まっており、逃げ込んだ農村で軍事教練を頼まれ、さらにベトミンに参加。中国の南寧に行ったとき、中国軍の中にも日本人がいるのに出会った。1954年に帰国。

吉沢南『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』(岩波ブックレット、1993年)
・1945年8月4日、日本軍がキムソン村を攻撃した際の状況について、現地を訪ねて当時を知る人々からの聞き取りをもとに事件のあらましを再現。
・1945年3月9日の日本軍による対仏クーデターによって共同支配者であったフランス人が蹴落とされ、ベトナムはバオダイ皇帝、チャン・チョン・キム内閣を傀儡として日本の単独支配下にあり、ベトミンと直接対峙する状況。キムソン村では親日団体「大越」による旧体制が崩れたため、ベトミンに通じる「反日」派とみなされて攻撃を受けた。
・日本軍はベトナム人で組織した「保安隊」を動員。他方で、キムソン村は「保安隊」にいた者から事前に情報を得ており、反撃の用意をしていた。「保安隊」はその後、南ベトナムの地方警備軍に再編成された。
・日本の敗戦後、ベトナム人と一緒にフランス軍と戦った日本兵の墓地もあった。

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【映画】「蛇のひと」

「蛇のひと」

 部長(國村隼)が自殺して会社が大騒ぎしている中、課長の今西(西島秀俊)の姿も見えない。会社上層部は今西が横領して逃げたと疑っている。部下の三辺(永作博美)は彼の行方を捜すよう命じられ、今西の知人を訪ねまわって話を聞いているうちに、みんな彼の人柄の良さをほめるのだが、どこか釈然としないものも感じていることに気づく。結局、今西への疑いは晴れた。しかし、上司としてよく知っているように思っていた彼の人物像はかえって分からなくなってきた。三辺は今西の実家のあった大阪まで行き、彼の過去を知る。

 きっかけは事件の謎解きだが、それが今西という人物が抱えているものは何なのかという人間性そのものへの探求へと結び付くという形のサスペンス・ドラマ。メッセージの送り手と受け手の共振関係によって受け手側の心中に生ずる感情的な何かがカギとなる。心理ドラマは脚本が下手だと、こういう過去の問題があったからこういう事件につながったという安易な因果関係に短絡化されてしまいかねない。しかし、この作品の場合、例えばラストのエピソードを見ると、影響を受けた側自身の能動的なモチベーションのあり方によって結果も変わり得ることがほのめかされる。脚本はWOWOWシナリオ大賞の受賞作らしいが、物語展開のテンポといい、エピソードの重ね方といい、よく出来ていると思う。短期間単館上映ではもったいないくらいだ。

 大阪弁でノリは軽く人当たりは良いが、表面に見える笑顔とは裏腹に本心では何を考えているのか分からないという今西のパーソナリティー、そうした役柄はどす黒さを感じさせる人だといかにもありがちな悪人になってしまうが、西島秀俊のどこか透明感の漂うオーラを通すとミステリアスでうまくはまっている。永作博美の年季の入った童顔も好き。

【データ】
監督:森淳一
脚本:三好晶子
出演:永作博美、西島秀俊、國村隼、石野真子、ふせえり、勝村政信、劇団ひとり、板尾創路、河原崎健三、他
2010年/102分
(2010年10月1日レイトショー、角川シネマ新宿にて)

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2010年10月 1日 (金)

ベトナムに関する新書など

 ベトナム事情について取っ掛かりとなる新書や概説書を何冊かまとめて読んだ。とりあえず、今井昭夫・岩井美佐紀編『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店、2004年)。明石書店の地域研究~章シリーズはその国・地域に関する専門家を総動員して歴史・地理・文化・社会・政治・経済など項目網羅的に概説されているので、まずこれで人名・地名・専門用語などをとにかく見覚えあるなあ、という程度にまで頭慣らし。
 
 坪井善明『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』(岩波新書、1994年)、『ヴェトナム新時代:「豊かさ」への模索』(岩波新書、2008年)、古田元夫『ベトナムの現在』(講談社現代新書、1996年)はいずれもドイモイ(刷新)政策の展開によって変化しつつあるベトナムの姿をどのように捉えるかという問題関心の中で社会事情や歴史が解説される。読みながらとったメモを箇条書きしておくと、
・ドイモイは1980年代から農村で実験が始まっており、1986年に共産党の方針として公式に採択された。同時期のソ連におけるペレストロイカの影響は無視できないものの、それ以前に農村で「もぐり請負制」などの形で始まっていた「下からのイニシアチブ」を契機に上層部の方針転換が促されたことが特筆される→北部出身のチュオン・チンの判断でドイモイに踏み切り、南部の改革派指導者グエン・ヴァン・リンが書記長になる。
・ベトナムはコンセンサス重視の意思決定→独裁者が現われなかった一方で、方針決定が遅れがち、微温的な保守主義的傾向。
・「王の法もムラの垣根まで」→村落共同体自治の伝統。
・ベトナム戦争時からの「貧しさを分かち合う社会主義」への反発→経済発展を求める。
・普遍モデルの社会主義ではなく、ベトナム独自=民族化した政策展開へ。
・ベトナム統一→経済的に豊かな「南」を「北」が政治的に支配したという構図になってしまい、「南」側の不満→北部・中部・南部のバランスをとりながら経済発展を進めなければならないという問題意識(発展できる者から発展せよ、という鄧小平的な方針は取れない)。
・経済以外の分野で上に立つのは共産党員(予算配分、許認可権)のみで、「南」には党員になること自体を潔しとしない風潮もあった。また、都会の若者も、党員になると様々な義務が負わされるので自由が制限されてしまう、将来的には経歴としてマイナスになってしまうかもしれないという懸念→党員になりたがらない風潮。
・ベトナム=越南という名称は中国側からつけられたもの。北属南進:北の中国から押されて南のチャンパ、クメールなどを圧迫しながらベトナム人は南下してきたという歴史的経緯。ベトナムもまた「小中華」的に周辺民族と朝貢関係。
・古田書:漢字文化圏(字喃はさらに難しく、大衆向けではない)→ローマ字表記の受容は大衆を含めたベトナム人としての一体感醸成に役立った→中華世界からの離脱という主張と結びつく。同時に、このベトナムとしての個性模索=ナショナリズムが東南アジア(WWⅡ以降になって初めて成立した概念で、もともと共通点のない曖昧さ)指向と結びつく→かつてキン族(京族、狭義のベトナム人)中心の排他性があったナショナリズムが、共産主義運動の中で少数民族を含めた多民族国家へという方針と結びつき、これが多様性指向の「東南アジア」概念と共鳴。
・他方で坪井書は、先住民政策で国民統合を優先させてきた点では「南」も「北」も同じだったと指摘。
・坪井書でホー・チ・ミン再考→独裁的にならなかったリーダーは東アジアでは稀有。彼を近代的主権国家としての独立を目指した共和主義者として把握、時代状況から共産主義に近づいたが、彼をマルクス・レーニン主義者として理解することにはズレがあると指摘。
・ASEANにとってベトナムは対中国の防波堤となる。
・現在、ベトナムでは韓国・台湾の進出ぶりが目立ち、日本の影は薄い。
・日本側のベトナムへの関心:日中関係リスク回避、かつ人件費が中国より安いので進出したい。米越関係の好転。投資の受け入れ環境が整備されつつある。
・坪井善明『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』で登場するグエン・スアン・オアインに興味を持った。ドイモイという言葉を最初に使った経済学者。1923年生まれ、1940年(日本軍の北部仏印進駐のとき)に日本へ留学。「日本はヴェトナム独立を支援してくれる、日本で勉強して革命家になる」と決意したらしい。京都帝国大学経済学部に入学、卒業は日本の敗戦後。さらに渡米してハーバードで博士号取得。IMF勤務中に南ヴェトナム政府から招かれて中央銀行総裁兼副首相に就任。「祖国に尽くせ」という父の教えを守ってサイゴン陥落後も残留。その後はひっそりと経済学の研究を続けていたが、やがて共産党改革派から非公式に接触を受けてアドバイス。

 ドンソン文化などの考古学的話題から、漢代のチュン姉妹の反乱をはじめとした中国支配への抵抗、ベトナム人の南下とそれによる南部にいたインド系文化を持つチャンパやクメールへの圧迫、元軍撃退、李陳時代という安定王朝におけるべトナムの国としてのかたちの形成、19世紀からのフランスによる植民地支配、さらに日本軍が来てその敗退と共に独立宣言→インドシナ戦争、ベトナム戦争。こうした通史については松本信広『ベトナム民族小史』(岩波新書、1969年)と小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』(中公新書、1997年)がある。松本書は学生のときに読んだ覚えがあった。小倉書の方は人物伝を中心に構成され、かつ情報量も豊富なので一冊読むとしたらこれが一番良いだろう。小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』(朝日選書、2002年)はヴェトナム北部から南部まで歩いたときに見たり感じたりしたことを取っ掛かりに、それぞれの土地にまつわる歴史的エピソードを紹介。これも読みやすい。

 なお、松本信広は戦前世代で、本来の関心は言語学・民族学・古代史といったあたりにあった。これに対して、戦後世代の古田元夫、坪井善明らの関心のきっかけは学生時代のベトナム反戦運動だったらしい。小倉貞男も生まれは戦前だが、やはりジャーナリストとして取材したベトナム戦争がきっかけになっているようだ。ベトナム戦争に関してはそれだけで相当なボリュームになるからだろう、いずれも別の本を参照するようにという形になっている。

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2010年9月30日 (木)

廉思編著『「蟻族」──高学歴ワーキングプアたちの群れ』

廉思編著(関根謙監訳)『「蟻族」──高学歴ワーキングプアたちの群れ』(勉誠出版、2010年)

 中国八〇后世代の「大卒低所得群居集団」について同世代の若手研究者が調査した記録である。知能指数は高くて忍耐強いところから著者たちは「蟻族」と命名した。交通の便がよくて家賃の安い住処を求める彼らが集まった北京郊外の唐家嶺近辺に群居村が形成されており、本書での調査光景を見ると、「保護員」と称する者が水費=ショバ代を巻き上げるなど、ちょっと殺伐とした雰囲気だ。大学教育システムと社会的需要との雇用のミスマッチ、大都市にあこがれた地方出身者が多くいる点では都市と地方との格差、出身階層による格差など様々な現代中国の社会的矛盾がこの「蟻族」をめぐる問題からうかがえる。

 生活の苦しさや将来展望の不透明といった困窮からのプレッシャーにより彼ら「蟻族」の心理的剥奪感は強く、それが社会的憎悪に向かう可能性は容易に推測される。そうした不満は、具体的な要求を掲げた集団行動ではなく、感情的なはけ口としてインターネット上の炎上という形で表れやすいようだ。あるいは「反日」的ネット世論の形成にも彼らは一役買っているのだろうか。本書ではそこまで言及されないが、仮にそうだとすれば、日本のいわゆる「ネット右翼」にも同様に不遇な生活環境の中で不満を募らせている人々の多いことが想起される。彼らは政治主張としての是非ではなく、抱え込んだ不満の感情的はけ口として過激な言論に引き付けられていることを考えると、不満を抱えた社会階層という点では共通の属性を持った人々が国境を越えて互いにいがみ合っている構図が見えてきて、暗澹たる気持ちになってしまう。

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2010年9月27日 (月)

デイヴィッド・P・カレオ『パワーの愚行:アメリカ一極支配の幻想』

David P. Calleo, The Follies of Power: America’s Unipolar Fantasy, Cambridge University Press, 2009

 著者はジョンズ・ホプキンス大学教授で国際政治経済やヨーロッパ政治が専門。冷戦の勝利、さらにはテロとの戦争という形で、たとえ「民主化」という理念であってもハードな軍事力を行使するアメリカの一極支配志向を批判するのが本書の趣旨。多極化した現代の国際社会において、正統性の根拠は同意に求められる。発想はリベラリズムだが方法論としてリアリズムとも言える立憲主義(constitutionalism)の立場をとり(ヨーロッパの立憲主義は、対外的な武力行使をためらわないアメリカのリベラルとは異なると指摘)、妥協と相互の譲歩を可能にする交渉のメカニズムが制度的に確立したヨーロッパ連合の方向性をこれからのモデルとして提示する。軍事、経済、政治哲学など幅広く目配りしながら叙述は簡潔。アメリカのユニラテラリズムをどのように考えるかという問題意識から理論的な整理をしたい場合にはうってつけだろう。

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2010年9月26日 (日)

小林秀明『クーデターとタイ政治──日本大使の1035日』

小林秀明『クーデターとタイ政治──日本大使の1035日』(ゆまに書房、2010年)

 著者は外交官で、2005年11月から2008年9月までタイ大使として着任していた時期の見聞をまとめた手記である。ちょうどタクシン派と反タクシン派との対立が厳しくなり、クーデターや政権崩壊が繰り返された混乱の時期。大使としての中立的立場からタクシンやプレム枢密院議長、スラユット首相、サマック首相、チャムロン氏などタイ政治のキーパーソンたちと面会することができたので、彼らの印象がつづられているのが興味深い。タクシンは追放されたものの、議会の多数をタクシン派が占めているため操り人形的にサマックが首相に就任した。しかし、反タクシン派の動向は激しくなり、軍部や司法は国王に忠誠を誓っているためサマックの言うことをきかないどころかつぶしにかかった。本書の筆致は穏やかなものだが、表舞台とは別な次元でタクシン派、国王支持派(具体的にはプレム枢密院議長が動いていた)それぞれを動かす裏の動きが行間から見え隠れする。

 なお、クーデターをおこしたソンティ陸軍司令官や元外相のスリン・ピツワンASEAN事務局長はイスラム教徒(アユタヤ朝以来のエリート一族らしい)、テート外相はペルシア系(やはりアユタヤ朝以来の家柄らしい)、そしてタクシンは祖父の代に移住してきた中国系である(かつてワチラーウット王やピブーン政権の時代のナショナリズム政策で中国系はタイ風に名前を変えた)。山田長政もそうだが、タイ王朝は有能であれば外国人でも積極的に人材登用した伝統があると別の本で読んだ覚えがあるが、現在の政治的キーパーソンたちを見てもそうした傾向がよくうかがえるのが興味深い。

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黄英哲『台湾文化再構築の光と影1945~1947──魯迅思想受容の行方』、丸川哲史『台湾における脱植民地化と祖国化──二・二八事件前後の文学運動から』

黄英哲『台湾文化再構築の光と影1945~1947──魯迅思想受容の行方』創土社、1999年
・台湾省行政長官公署→政治建設、経済建設と同時に心理建設(=文化再構築工作)。台湾接収工作の一環として、教育や宣伝を通して日本文化の影響を一掃し、中華民族意識を植えつける。
・台湾省編訳館→館長として許寿裳が招かれた。彼は陳儀、魯迅と同郷で日本留学時からの親友。知日派であり、南京の政治風土が肌に合わず、また魯迅の伝記執筆の時間が欲しくて陳儀からの招請を受諾した。編訳館では中国語普及のため教科書等を編修。許の考え方は、日本の侵略的側面を否定する一方で、学術研究は高く評価、その継承は必要。台湾研究組には日本人学者を留用。1947年の二・二八事件後、陳儀は更迭→編訳館も廃止。
・台湾文化協進会→機関誌『台湾文化』。言語的転換の難しさから、台湾人執筆者は相対的に少ない。王白淵、楊雲萍、呉新栄、楊守愚、劉捷、呂赫若、黄得時など。日本人の国分直一、金関丈夫、岩生成一なども見える。しかし、二・二八事件等で台湾文化協進会のメンバーが落命、行方不明、投獄、逃亡。中国人の進歩的な知識人も迫害を受け、黄栄燦は獄死、許寿裳は何者かによって殺害されたほか、大陸へ逃亡した。
⇒台湾人の左翼系活動家たちと中国大陸から来た進歩的文化人との2年にも満たない協力関係が終わってしまう(その中には留用という形で台湾に残っていた日本人文化人も顔をのぞかせていた)。
・許寿裳は魯迅思想の伝播によって台湾で新たな五・四運動を期待、それを通して台湾人の国民性を日本人→中国人へと改造することを意図。他方で、龍瑛宗、楊逵、藍明谷(「光明報」事件で処刑)などの台湾人も魯迅紹介に努めたが、彼らはむしろ国民党支配下にある台湾という現実に目を向けることになり、許とは異なる方向性。
・国民政府は台湾人は中国語ができないことから日本の「奴隷化」とみなした→日文廃止という強行手段で「中国化」を図る。しかし、台湾人側からすれば、人間性までは「奴隷化」などされていないし、「日本化」=近代的文化、高度な資本主義化という側面があり、世界中の文化が日本語に訳されているのだから日本語を通して「世界化」への接近も可能だ、という反発。

丸川哲史『台湾における脱植民地化と祖国化──二・二八事件前後の文学運動から』明石書店、2007年
・日本敗戦から国府遷台までの間、政体として台湾と中国大陸とはつながっていた時期で、それを前提として中華民国という枠組みの中で民主主義体制への期待もあった。この当時において、台湾の脱植民地化=祖国化が課題と考えられていた→基準は中華民国側の対応による、しかし、国民党に批判的な進歩的知識人も台湾に来ており、こうした混乱した時代状況に対してポストコロニアル等の批評理論を援用しながら文学作品や新聞論説等の分析を通して考える。中台対立、台湾内のエスニシティ対立を自明視する視点へは批判的な立場。
・上掲黄英哲書を評価しつつ、同書が1947年の二・二八事件で叙述を終わらせており、この事件の挫折を乗り越えようとしたその後の文学運動への目配りがないことを指摘。
・国民党政権が持ち込んだ「中国」への幻滅によって「祖国化」は挫折。台湾人自身にとっての脱植民地化の願いとはすれ違ってしまっていた問題を指摘。
・楊逵→中国大陸から来た進歩的な外省人系知識人との結びつきに焦点を当てる。とりわけ、歌雷(『台湾新生報』副刊《橋》の朱筆、1949年の四・六事件で大陸へ追放)。
・台湾人作家が、「台湾=女性」という構図で大陸から来た人々との接触を主題化。
・大陸系文化人が導入しようとした抗戦文化→国民党の統治体制正当化のイデオロギーとして機能、日本側にいた台湾人にとっては困惑。

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陳培豊『「同化」の同床異夢──日本統治下台湾の国語教育史再考』

陳培豊『「同化」の同床異夢──日本統治下台湾の国語教育史再考』(三元社、2001年)

・日本の台湾統治としての「同化」政策において中核となった「国語」教育を検討。「同化」政策には、民族として日本人へと包摂していく「民族化」と近代文明摂取のための「文明化」、あるいは平等化と差別化といった二つのベクトルがあった。①日本人化と文明化の両方を全面的に受容するのか? ②儒教文化、中華ナショナリズム等に基づき両方を全面的に拒絶するのか? ③文明化のみを選択的に受容するのか?→台湾人は③の選択的受容を目指していたと本書は捉える。国語教育を経由して近代文明を摂取しながら、さらには台湾人自身による近代化への自律的な模索の動機が芽生えていた。
・伊沢修二→「一視同仁」の具現化として「同化」を目指す一方で、台湾社会の現状に合わせて「混和主義」。
・後藤新平は台湾の民度を低評価→差別統治が基本。持地六三郎→日本人への同化よりも、植民地の経済的利益を優先して科学的智識の教育。
⇒それぞれ力点の置き方は違っても、智識教育による「文明への同化」という点は共通している。
・台湾人の国語教育の受容→社会的地位上昇の機会。近代文明への接近経路として。宣教師や台湾人キリスト教徒も国語教育には協力的(朝鮮半島では日本への反感からキリスト教系ミッションスクールへ行きたがる人が多かったのとは対照的)。
・李春生:クリスチャンで洋務運動の先覚者であると同時に、国語教育に協力→日本はキリスト教を排除しなかった文明国という考え方→近代文明への渇望と同時に、日本側における支配論理としての国体論について認識なし→「同化」の同床異夢の関係が成立→この後、近代文明を選択的に受容したいという台湾人側の反応が浮上してくる。
・辛亥革命など大陸における情勢が台湾にも波及→隈本繁吉の主導で台湾版教育勅語の草案→「文明への同化」が後退し、「民族への同化」に比重が移行。
・林献堂:梁啓超との温度差→梁は日本統治の近代的要素を評価し、林の儒教的文人としての生活態度に対して近代文明への関心を促す。そのための摂取言語として日本語をすすめるが、梁にとっては無色透明の方法論に過ぎなくても、林にとってはアイデンティティへの脅威であった。もちろん、林も頑迷な民族主義者というわけではないので、自身は日本語を使わなくても子弟は日本へ留学させている。
・新世代知識人→「同化」の道具である日本語を使いながら「同化」を非難するという矛盾。かといって、漢文は近代文明摂取には不向き。黄呈聡の白話文運動→大陸の白話文は台湾語話者にとっては大衆性乏しい→蔡培火の台湾語ローマ字運動→日本の国体論と衝突。
・皇民化運動→近代文明選択受容のフィルターが弱まってしまった。周金波は皇民化─日本化─近代化を一直線に捉えていた。

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