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2010年9月19日 - 2010年9月25日

2010年9月25日 (土)

【映画】「ミックマック」

「ミックマック」

 地雷処理時の事故で父を亡くしたバジルは、街中で銃撃戦に巻き込まれて流れ弾が頭の中に入ってしまった。退院したものの仕事を失い、放浪生活をしていたところ、ホームレスの“一家”に迎え入れられた。ある日、二つの大手軍需産業の本社ビル前を通りかかった。それぞれ、父の死の原因となった地雷と自分の頭に撃ち込まれた銃弾を製造した会社である。復讐を思い立ったバジルは、個性的な才能を持つ仲間たちと共に、廃品利用の手作り罠で攻撃開始!

 おふざけテイストの復讐劇。例えば、三木聡や堤幸彦のナンセンスものが好きな人には受けるかな。“アホらしさ”はもっと洗練されている。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画では以前に「アメリ」も観たことがあったが、映像のつくり方がとても面白い。

【データ】
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
2009年/フランス/104分
(2010年9月25日、シネスイッチ銀座にて)

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【映画】「悪人」

「悪人」

 吉田修一の原作は未読。出会い系サイトで出会った二人、実は男の方は前に会った女を殺したばかりだった。男が葛藤する姿に女はほだされて一緒に逃避行に出る、という話。

 女が暮らす田舎の国道沿いのアパートから見える風景は、畑だけが広がる何もない中を車が排気ガスを吐き出しながら通り過ぎ、ほこりっぽい。“孤独”は都会の専売特許のように描かれることもあるが、実際には田舎の方が孤立感は強いと社会学では指摘されている。都市文化が中途半端に浸透している一方で、物理的には人が少ないのだから淋しさがいっそうのこと強められる。出会い系サイトというのもそうした田舎の孤独感の方により適合的なのだろう。

 登場人物のそれぞれが満たされない空虚さを抱えている。補い合える人を求めて出会っても、見栄やエゴが出てしまい、そうしたたまさかのいざこざから事件が発生してしまった。各自の事情を見ていくと、何か意図せざる因果に巻き込まれてしまったかのようにすら見えてくる。殺した側、殺された側、双方の家族の姿も含め、それぞれが一生懸命もがいているのに、そのもがきそのものでどつぼにはまってしまうやるせなさ、みじめさ。誰が悪いという以前に、そうした哀しさが映画としてよく描かれている。

 深津絵里つながりで、森田芳光監督「(ハル)」がふと思い浮かんだ。私が観たのは渋谷のシネ・アミューズが開館して間もなくだったから十数年前になるのか。パソコン通信の草創期、相手の顔は知らないのにチャットで相手の考え方をよく理解しあった二人がラストで出会って「初めまして」というオチ。今から振り返ると無邪気なほどにさわやかな恋愛ドラマだが、時代もずいぶん変わったものだ。

【データ】
監督:李相日
脚本:吉田修一、李相日
音楽:久石譲
出演:妻夫木聡、深津絵里、満島ひかり、柄本明、樹木希林、他
2010年/139分
(2010年9月24日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2010年9月23日 (木)

ポール・M・ハンドレー『王は決して微笑まない:タイ国王プミポン・アドゥンヤデート伝』

 タイ政治について私の脳裡にすぐ思い浮かぶのは、1992年、軍事政権と民主化勢力とが衝突したとき、調停役として現れたプミポン国王の足元に双方の代表がひれ伏しているシーンである。例えば、岡崎久彦他『クーデターの政治学』(中公新書)では、超越的な権威として君臨する国王の下で軍部と議会とが政権交代を行うあり方は、西欧型民主主義の基準からは異質であるにしても、政権交代のダイナミズムが機能している点で独自の政治モデルであると捉えられていた。

 ところが、プミポン国王の生涯を軸にタイの現代政治史を描き出した本書Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand’s Bhumibol Adulyadej(Yale University Press, 2006)を読むと印象がだいぶ違ってくる。

 現在我々が目にしているタイ王室の権威は昔ながらのもののように思われがちだが、エリック・ホブズボームたちの表現を借りるなら、言わば「創られた伝統」としての側面が強い。確かにかつてタイ王室の権威は19世紀におけるチュラロンコーン大王の時代には頂点に達していた。ところが、絶対王政の機能不全から海外留学経験のあるエリートが中心となって1932年に立憲革命が起こり、国王の海外亡命や幼王の擁立などで王室の権威は凋落していた。現在尊崇を受けているタイ王室の存在感はプミポン国王自身の個人的資質によるところが大きい。それだけ制度的に不安定な脆さを抱えているとも言える。

 プミポンは1927年、父親の留学先であったアメリカ・ボストンで生まれた。早くに父をなくしたが、母や兄と一緒にスイスに留学、王位継承者となった兄の帰国に同行するまでタイの地を踏むことはほとんどなかった。帰国後ほどなくして兄王アーナンダが寝室で額を撃ちぬかれて死んでいるのが見つかった。犯人はいまだに分かっていない。この兄王の怪死事件のためプミポンが急遽チャクリ朝第9代の王として即位することになった。1946年、弱冠19歳のときで、在位期間はすでに60年を超えている。

 失墜したチャクリ朝の権威を回復し、その伝統を維持しなければならないという使命を負わされたプミポンの前に次々と立ちはだかる大きな壁──立憲革命で活躍した大物政治家たち、共産主義の脅威、そして現在のグローバル資本主義。これらの困難を切り抜けていく彼の姿は、世俗から超越した権威どころではない、自ら明確な意志を持って判断する政治アクターそのものである。彼は滅多に政治の表舞台には現れないが、政治危機に陥ったときは国王の意向を受けた王族や枢密顧問官たちが政財官界や軍部に張り巡らされた人脈ネットワークを使って政治工作を行っていた。例えば、1992年の調停の際にも、根回しを進めていたプレーム枢密院議長の姿が軍事政権のスチンダ、民主化指導者のチャムロンたちの傍らに見えた。調停者としての国王の存在感が賞賛されるが、そもそも腐敗した軍人たちを政権の座に据えたのは国王ではなかったのか?と著者は疑問を投げかける。成功したクーデターのすべてが国王の内諾済みであった。

 プミポンの基本的な方針は「慈父としての国王」による民本主義的な統治と言えるだろうか。仏教に基づく高潔な倫理観と智慧を持つ者、具体的には国王自身の指導によってタイ国家は統治されるべきで(民族・宗教・国王の三本柱でタイは成り立ち、その要は国王であるという考え方)西欧型民主主義はアジアには根付かない、チャクリ朝は歴代国王の善政によって歴史的に国民から支持されてきたのだから、この事実こそがタイ独自の「民主主義」の根拠だ、という考え方のようだ。アウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞した際、彼女は民主化運動などやめてイギリスに帰り、政治は軍事政権に任せるべきだ、ともプミポンは語っていたらしい。

 プミポンの即位後間もなく、立憲革命の立役者の一人で共和政志向と疑われていたプリーディー首相は兄王アーナンダ怪死事件に絡む噂でマイナス・イメージを負わされて国外に亡命。やはり立憲革命で活躍した大物ピブーンは、第二次世界大戦中に日本と協力したためしばらく謹慎していたが、1950年代に首相として再登板、その強力な存在感は国王をしのぐ勢いだった。しかし、彼もまた失脚して日本へ亡命した。1960~70年代にかけてはインドシナ半島における共産主義勢力の伸張が脅威となった。隣国ラオスで王政が廃止され、ヴェトナムも陥落、タイ王家はパニックに陥る。民主化を要求する勢力は穏健な改革派などではなく、外国から唆された革命派であると国王は誤認していたため、クーデターで政権を掌握したサリット将軍による弾圧を暗黙のうちに支持した。以降、国王と軍事政権は事実上の同盟関係に入る。タイ国内には国王支持の大衆組織が張り巡らされ、メディアを通して国王の権威高揚も図られた。冷戦という時代状況下、反共の砦としてアメリカからのバックアップを受けたことも大きい。

 1990年代はグローバル資本主義がタイをも席巻し、やがてバーツ危機に揺らぐ。もともと仏教的倫理観から「足るを知る経済」を提唱していた国王はこうした趨勢に当然ながら批判的であったが(シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』の影響も受けているらしい)、まさしく国王の批判するグローバル資本主義の趨勢に乗った政治家が登場した。タクシンである。選挙で議会の過半数を得た初めての首相であるが、そうした彼の強力なリーダーシップにはかつてのピブーンを想起させる存在感がタイ社会にはあったらしい。国内各方面からの不満もあって2006年にタクシン追放のクーデターが勃発するが、これにも当然ながら国王の内諾があった。

 プミポン国王自身は聡明かつ教養豊かであり(考え方が時代遅れであるにもかかわらず政治に口出しするため混乱を来たすこともあったようだが)、国民から支持が集まるだけの人格的魅力も備えている。数々の困難を切り抜けて王朝が維持されてきたのも、他ならぬ国王自身のパーソナリティーに依存していたと言ってよい。だが、そうした個人的人格に依存した体制は致命的な弱点をも抱え込んでいる。すでに高齢で国王崩御も時間の問題であり、そして後継者のヴァジラロンコーン皇太子の評判は極めて悪い。タイには不敬罪があるためおおっぴらに語られることはないのだが(なお、本書も王室のタブーに触れているためタイでは発禁処分となっている)。欧州や日本のような立憲君主制の道をとるのか、それともこのままの体制でいくのか、タイ王室自身、行方をいまだに定まめていない問題点が最後に指摘される。

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酒井亨『「親日」台湾の幻想──現地で見聞きした真の日本観』

酒井亨『「親日」台湾の幻想──現地で見聞きした真の日本観』(扶桑社新書、2010年)

 著者の『哈日族』(光文社新書)は現代台湾社会のポップ・カルチャーに目配りされていて興味深く読んだ覚えがあるが、今度は「萌日」なるキーワードを出してきた。台湾の「親日」派というと植民地統治期に日本語教育を受けた老人たちを思い浮かべがちだが、若い世代の場合、マンガやアニメ、Jポップなど、とにかく面白さをきっかけに日本へ関心を寄せている分だけより自然な感じがする。老人世代も含めて台湾の日本に対する好印象の理由は、戦前の植民地支配の是非ではなく、戦後における平和で豊かな社会としての日本にあるという。その意味で日本は十分な「ソフト・パワー」を持っているという指摘が本書の勘所だ。

 日本の保守派は台湾人から戦前の日本をほめる言葉を聞きたがり、同様に左派は日本を批判する言葉を聞きたがる。しかし、いずれも日本側本位の態度を取っている点では同断で、台湾がどのような歴史的経緯の中で日本を見ているのかという相手側の事情は無視されているのではないか、という指摘は傾聴すべきだろう。

 私は初めて台湾へ行ったとき総統府や二・二八紀念館を訪れ、館内では日本語世代の方に解説していただいた。その方々が口々に蒋介石と国民党を罵り(当時は民進党政権)、それに比して日本統治期をほめたたえる言葉には (予期していたとはいえ)驚いた。ただし、「植民地の時代、私たちは差別されて嫌な思いをしました。それでも、国民党はもっとひどかった…」という語りの微妙なニュアンスも聞き逃さなかった。台湾はよく「親日」的と言われるが、それは日本統治期を手放しで礼讃するものではなく、二・二八事件や白色テロをはじめたとした国民党の恐怖政治や失政との比較の中であくまでも相対評価である点に留意しなければならない。同行した友人(渡航歴十数回の自称「台湾通」であるにもかかわらず二・二八事件すら知らなかった体たらく)は、件のご老体の語りに混じっていたそうした微妙な留保条件がまるで耳に入らなかったように「台湾で真の日本人に出会った!」などとアホなはしゃぎぶり。そういう類いの不勉強な自称「台湾通」、自称「保守派」にこそ本書を読んでもらいたい。版元が扶桑社なのは、そうした読者層をねらった戦略的判断か?

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2010年9月21日 (火)

尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』、川村湊『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』、尹東燦『「満洲」文学の研究』、他

 「外地」に向けられた日本人作家のロマンティズム、「民族協和」といううるわしい理想。その一方で、政治経済的・軍事的侵略という厳然たる事実において、支配者としての無自覚な優越意識、そして被支配者側から向けられる面従腹背の眼差し、時には卑屈な追従。旧植民地における文学活動は、島国という地理的に閉塞した空間にあった日本人が文学というジャンルにおいても本格的に異文化・異民族接触に体当たりした体験だったとも言える。そこには様々な人間模様が繰り広げられていた。しかし、その邂逅はもちろん幸福なものではなく、現在において振り返る我々にとっても気まずい後味の悪さに戸惑いを禁じ得ない。被支配者側でも抗日のスタンスを打ち出せた人々はまだいい。解放後、英雄とみなされるのだから。しかし、個々それぞれの事情のなりゆきでやむを得ず大東亜文学者大会に出席するなどの形で対日協力せざるを得なかった人々(面従腹背の人々もいたし、アジア主義に共鳴して自発的に協力した人々もいた)は、日本支配下においては屈辱的な思いを噛み締め、戦後にあっては「漢奸」と指弾されることになった。それは、日本人として「戦争責任」を問われた人々以上に悲惨なものであったろう。「アジア解放」という大義名分は戦争遂行、植民地支配正当化のスローガンとなった時点ですでに日本の周辺諸国に対する裏切りを内包していたが、さらにそのスローガンに共鳴させられることで自分自身の祖国への裏切りを強いられた人々がいたこと、その意味での二重の裏切り、私が感じる後味輪の悪さの一つはそこにある。

 旧植民地における文学活動について初めて体系的な検討を加えた人として尾崎秀樹が挙げられる。尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』(岩波書店・同時代ライブラリー、1991年)には大東亜文学者大会や日本統治下における台湾文学に関する論考のほか、「「満洲国」における文学の種々相」も収録されている。日本の近代化における一つの帰結として、当時の人々の言動をできるだけ忠実に洗いなおそうとしている。

 旧満洲国における文学に関して尾崎の論考は素描的で基礎工事を行なったという位置付けになるだろうか。川村湊はこれをさらに発展させる形で、建国や満蒙開拓に従事した当事者ばかりでなく、一時滞在で見聞した文人や放浪者たち、引揚体験、さらに植民地生まれで戦後になって活躍し始めた作家にもたらされた影響まで含めて、満洲における文学活動の様々な諸相をさらに網羅的に描き出している。『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』(岩波新書、1990年)は序論的、日本人作家の満洲体験をコラージュ風に描く構成で、このテーマについて取っ掛かりとするにはこの本がまず読みやすい。芥川賞と「外地」との関わりの指摘に興味を持った。『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』(吉川弘文館、1998年)は事項並列的な概論という体裁でレファレンス的に参照するにはいいだろう。『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』(文藝春秋、1997年)には文芸批評的な論文が並ぶ。独特なパーソナリティーを持った朝鮮人作家・金文輯についての「花豚正伝」、ニコライ・バイコフを取り上げた「樹海の人」に興味を持った。

 台湾生まれの尾崎の関心が台湾に傾いているのに対して、日本語教師として韓国に滞在した経験を持つ川村の関心では朝鮮半島出身者への比重が大きい。なお、日本統治下の朝鮮文壇に関して川村湊『〈酔いどれ船〉の青春──もう一つの戦中・戦後』(講談社、1986年)は先駆的な作品である。それから、蛇足ながら戦時下の台湾文壇については以前、こちらにメモしておいた(→『文藝台湾』と『台湾文学』と『民俗台湾』)。

 旧満洲国は「五族協和」という建前を取っていた以上、日本語だけでなく中国語、朝鮮語、ロシア語、モンゴル語など様々な言語による文学活動が含まれるはずである。本来ならばそれらすべてを同一平面に並べて論じなければならないところだが、それだけ幅広い言語能力が要求されるわけでなかなか難しい。上掲尾崎、川村の論考にもそうした限界がある。対して、尹東燦『「満洲」文学の研究』(明石書店、2010年)は日本語、中国語、朝鮮語を駆使しているところに長所がある。それぞれの言語的立場によって文学的性質も異なっており、旧満洲国内部における複雑な葛藤が浮き彫りにされて興味深い。
・日本人文学者の間で「満洲文学」は日本文学の延長線上にあるのか否かという論争→満洲国に独自性を認めるのか、日本の植民地とみなすのかという解釈の相違→しかし、「満洲国」自体が虚像なのだからどうしても議論そのものが空論に陥ってしまう。
・中国人(満系)文学者には「満洲」は自分たちの郷土という意識。中国本土の文学とのつながりが意識されるが、それをあからさまに表明すると「満洲国」否定の危険性。異民族支配に対して文学はいかに抵抗できるのかという潜在的問題に行き着く。異民族支配という状況下、純粋に芸術的立場から文学を論ずることができなくなってしまうという困難。
・朝鮮半島では朝鮮語出版物はほとんど禁止→「五族協和」を建前とする「満洲国」ではかろうじて朝鮮語文学が生き残れる可能性。被支配者という立場は中国人(満系)と同じだが、日本人との関係では独特な立場にあった困難。朝鮮人は日本の中国侵略の尖兵として来たと受け止められているため現地では排除される立場であったが、「満洲国」建国によって存在権を得た→「満洲国」を肯定。また、「移民受難記」的な要素→朝鮮人の立場の不安定さがうかがえる。
・日向伸夫についての論考→日本人作家の中でも被支配者側に同情する良心的な人々がいたが、しかし同時に支配民族という立場から離れられないという困難。
・満洲という土地で展開された各言語の文学は、それぞれの民族の政治的立場の相違のため、相互の内的関連性や影響関係が薄かったと指摘される。
・ロシア語、モンゴル語、さらには体制外の反満抗日文学の作品の検討、同様に日本の支配下にあった朝鮮半島・台湾との比較などの問題提起。

 なお、岡田英樹『文学にみる「満洲国」の位相』(研文出版、2000年)は未読。

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2010年9月20日 (月)

村嶋英治『ピブーン──独立タイ王国の立憲革命』

村嶋英治『ピブーン──独立タイ王国の立憲革命』(岩波書店、1996年)

・専制君主制から立憲君主制への移行、第二次世界大戦、そして相次ぐクーデターに翻弄されたタイの現代史についてピブーンを軸にして描き出す。その中でタイと日本との関わりにも触れられる。
・稲垣満次郎(初代シャム公使):通商条約を結ぶ→領事裁判権獲得。日本が西洋と対等であるためには西洋がシャムに対して持つのと同じ特権を求めざるを得ない、他方で同じ東洋人としてシャムの苦境に同情するというジレンマ。
・岩本千綱(『シャム・ラオス・安南三国探検実記』)→英仏と一緒になって利益を得よと主張。
・政尾藤吉→シャムの法律顧問、後にシャム公使。

・ワチラーウット王は絶対王政論者、国王こそが近代化へと向けて指導できるという立場で、自ら新聞に立憲派に対する反駁の論説を執筆。弟のプラチャーティポック王は政治に不慣れ。
・世界大恐慌→官吏の人員整理や新税導入で国内の不満、国王への批判→プラチャーティポック王は欽定憲法を検討。
・タイ国内の身分差別、欧州留学中に受けた人種差別→ピブーン、プラユーン、プリーディーなどタイ人留学生はタイの変革を志す→「民主主義」と「強国」が目標→1927年、パリで人民党を結成、その後、陸軍幹部派とも連携。
・1932年、無血クーデター、王政を批判する人民党宣言→国王は内戦を避けるため人民党の要求を受諾→憲法を発布→立憲革命。
・プリーディーの社会主義的な経済計画→国王の怒り、人民党も急進派と穏健派に分裂、プリーディーの国外追放→人民党が内訌する中、1933年6月、ピブーンが再びクーデター(このとき英仏への恐怖心から日本の協力を要請)
・1933年、満州国問題で日本に対する国連決議の際にシャムが棄権したのは、経済問題で日中双方との関係をこじれさせたくなかったため。
・1935年、国王が人民党を批判して退位、その際に議会制民主主義尊重を求める声明を出した→その後の民主化勢力がこれをスローガンに利用。プリーディーは帰国して再び政権参加。
・1938年、ピブーンが首相就任。ラッタニヨム(国家もしくは国民信条)を制定→シャムからタイに国名変更。タイ語の読み書きを義務化→全国民のタイ人化を意図(具体的には華僑系が標的)、中華学校・中国語新聞を弾圧。
・第二次世界大戦でフランス敗北、日本の仏印進駐→ピブーンはフランスに対して失地回復要求→タイの独立維持のためには英仏に奪われた領土を取り戻して大国化しなければならないという大タイ主義。イギリスと日本のどちらが勝つのか天秤にかけながら判断するのが基本的態度→枢軸国側優勢の情勢に便乗して日本に協力、イギリスからの失地回復を目論み、1942年1月25日に対英米宣戦布告。しかし、日本による事実上の占領に不満→1942年半ばから日本と距離を置き始め、1943年の大東亜会議には代理を派遣して自らは欠席。1944年から連合国側との連絡を模索し始めるが、議会内反ピブーン勢力が強まって首相辞任(戦後は戦犯として逮捕された)。他方で、プリーディーや「自由タイ」が連合国側との連絡に成功。
・1946年、アーナンタマヒドン王怪死事件の混乱でプリーディー首相失脚。
・1948年、ピブーンが首相として再登場。1951年の「銃声なきクーデター」で議会・政党を禁止→1957年、サリット、タノームなど陸軍のクーデターによりピブーンは日本へ亡命。1964年6月11日、神奈川県相模原市の寓居で死去。享年66歳。

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末廣昭『タイ──開発と民主主義』『タイ──中進国の模索』、柿崎一郎『物語 タイの歴史──微笑みの国の真実』『王国の鉄路──タイ鉄道の歴史』

末廣昭『タイ──開発と民主主義』(岩波新書、1993年)
・タイの政治経済をトータルで把握しようという問題意識。国際経済の受動的アクターとして捉えるのではなく、タイ経済自身の自律性を重視。
・「開発」は政治の長期安定性が必要である一方、「民主主義」は分権化や政治変動の激しさをもたらすことがあり、両立の難しさ→「タイ式民主主義」。
・「民族」「宗教」「国王」のトライアングルでタイの政治文化を把握。徳を以て上からの温情主義的政治。
・軍人出身のサリット首相による開発体制→権威主義的温情主義だが、タイ社会の近代化・経済水準の向上を成し遂げた。ただし、その後、軍実力者による政治腐敗→批判→民主化要求。
・プレーム首相は調整型政治、手続き民主主義の尊重。他方で、国王・軍部・テクノクラート等の意向を重視→「半分の民主主義」。

末廣昭『タイ──中進国の模索』(岩波新書、2009年)
・上掲書の続編という位置付けで、1988年以降を叙述。
・「選挙にもとづく政治」「仏法と倫理にもとづく政治」「国民の父(=国王)」という三層構造でタイ政治を把握→従来のタイ政治の特徴は「政権の不安定、政治の安定」、つまり前者「選挙にもとづく政治」が不安定でも後二者「仏法と倫理にもとづく政治」「国民の父(=国王)」が揺らがなければ全体としての政治は安定していた。ところが、前者が後二者へと侵食し始めたとき政治全体が不安定化(具体的には、タックシン政権)。
・グローバル化・経済自由化によるストレスが強まる中、「足るを知る経済」の主張(1997年の国王講話から)。
・ところが、CEO型首相としてタイ社会の現代化・「国の改造」を目指すタックシン政権は市場原理・自由競争重視の政策を打ち出す(言い換えれば、「仏法と倫理にもとづく政治」軽視)→「足るを知る経済」とは対立(これを提唱した国王の意向にも反する)。
・タックシンは国会での議論よりも国民との直接対話を重視→「もう一人の国民の父」。タックシンの強引な政治運営には民主化勢力からの批判、国王の権威を傷つけかねないことに対して王室支持勢力の危機感、人事や予算への介入で軍部の不満、行政改革に振り回された官僚の不満→2006年9月のクーデターでタックシン追放。

柿崎一郎『物語 タイの歴史──微笑みの国の真実』(中公新書、2007年)
・古代から現代に至るまでの通史。タイの「ナショナル・ヒストリー」を第三者の視点から解きほぐしながら叙述する立場。
・東南アジアの王国は「マンダラ型国家」:支配者の権力が中央から周縁に向かうにつれて小さくなる。大マンダラと小マンダラの保護・被保護の関係で成り立つので、国王の権力の大きさに応じて領域も変化、従って、国境は不分明。
・出自を問わず有能な人材を登用する柔軟性→例えば、山田長政。中国系政治家が多いのもそういう事情か。
・イギリスとバーネイ条約(1826年)・バウリング条約(1955年)→開国、王室独占貿易が崩れる→代わりの収入源として徴税請負制度→中国系が活躍。
・チュラローンコーン王のチャクリー改革→中央集権化→領域国家へ。鉄道の敷設→政治経済的統合。
・ワチラーウット王:文筆家として有名で自ら新聞投稿、タイ人意識を昂揚→「上からのナショナリズム」。辛亥革命→中国人を警戒。
・絶対王政に対する不満→1932年、人民党のクーデターで立憲革命。
・ピブーン首相:ナショナリズムの強調。1939年に国家信条を公布→シャムからタイへ国名変更。中国人に対しても同化政策。大タイ主義→英仏に奪われた「失地」回復要求→第二次世界大戦に際して日本軍に協力(英領ビルマのシャン地方へは自発的に進軍)。ただし、「やむをえず」参戦したというポーズ。日本軍による事実上の占領への不満→1943年の大東亜会議には代理を派遣して自らは出席せず、大東亜宣言にも署名せず。他方で、「自由タイ」が連合国側と連絡をとっていた→難局を切り抜ける→タイの「世渡り上手」。
・タイで一番有名な日本人は?→小説・映画「メナムの残照」の小堀。
・サリット政権の「タイ式民主主義」→開発、反共。国王の権威昂揚を図る→現在目にするような国王への崇敬はこの政権時代から。プーミポン国王も積極的に地方巡幸。
・タイの経済発展、「メナム圏」構想→「先進国」としての優越意識により周辺諸国から反発もある。たとえば、同じタイ系言語の東北方言を揶揄したテレビ番組→その東北方言を国語とするラオスの反発。
・“タイ”という国号にはタイ人の文化的優越性を強調する意図、対してかつての“シャム”はタイ人だけでなく、中国人、マレー人、クメール人など様々な民族や文化の多様性を許容していた→“シャム”への再度の国号改称という問題提起。

柿崎一郎『王国の鉄路──タイ鉄道の歴史』(京都大学学術出版会、2010年)
・上掲書の著者の専門領域はタイの鉄道史。鉄道という切り口からタイにおける近代社会の変遷がうかがえる。
・ソフトカバー、「ですます」調、列車の写真も豊富に収録して一般読者層を意識しているのだろうが、内容は完全に学術書。情報量は豊富だが冗長で、その分、全体的なストーリーの勘所が見えづらくなっている。テーマ的には興味深いだけにもったいない。

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2010年9月19日 (日)

ジェイ・テイラー『ジェネラリッシモの息子:蒋経国と中国・台湾における革命』

Jay Taylor, The Generalissimo’s Son: Chiang Ching-kuo and the Revolutions in China and Taiwan, Harvard University Press, 2000

 蒋介石・蒋経国父子を比べてみたとき、私としては息子の方が興味深い。蒋介石はじっと歯を食いしばってまっすぐ突き進むいかにも軍人らしいパーソナリティーだが、その分、いくぶんか面白みに欠ける。対して、蒋経国の屈折した経歴は、その謎めいた複雑さそのものに目が引かれる。

 第一次国共合作のときに蒋経国はソ連へ留学したが、国民党の実権を掌握した蒋介石が共産党に対する苛烈な弾圧を行った際、当時は熱烈なマルクス・レーニン主義者となっていた経国は父親を批判した。ただし、彼のソ連での立場は悪く、ちょうどスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れていた時期でもありシベリア送りも体験したが、彼の才覚と取引材料に使えるポジションから事実上の人質として温存され、第二次国共合作後、中国へ戻る。その後は父親の腹心として重要課題を任され、とりわけ国府遷台後は特務の責任者として共産主義者狩りにも辣腕を振るった。彼は血にまみれた特務の親玉として非難される一方、経済建設、さらには段階的な民主化を進めた側面もあり、この両極端なイメージは彼の評価を難しくしている。ただし、直面した政治課題の核心を正確に認識し、それに応じた対応策を着実に打ち出していけるリアリストと考えれば整合的に理解できるだろうか。

 本書は、第Ⅰ部Revolutionでソ連留学時代から第二次世界大戦、国共内戦に至るまでの波乱に満ちた彼の半生を描き出し、第Ⅱ部Islandで蒋介石・蒋経国父子による政治判断を軸として戦後台湾政治史が叙述される。著者の近著The Generalissimo: Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern China(The Belknap Press of Harvard University Press, 2009)も最近読んだが(→こちらで取り上げた)、蒋介石と蒋経国、父子ともに“中国近代化”を目指していたと捉える視点で一貫している。ただし、父親が「三民主義」とか「反攻大陸」とか怒鳴り散らすだけだった(著者はこういう書き方はしていないが)のに対し、台湾の置かれた現状に合わせて実効ある具体策を打ち出していくのが蒋経国の役割であった。

 米中接近による台湾の国際的孤立化、台湾ネイティブからの外省人支配に対する不満、こうした内外の困難を踏まえて蒋経国は台湾人社会から支持を得るために経済発展による民生向上に努め、さらには段階的な政治参加を通した民主化・台湾化へと徐々に舵取りを切り替えていく。他方で、こうした改革路線に対して国民党や軍部、特務等の保守・強硬派からの危惧も強く、それは暴発的な事件をもたらした。民主化勢力と体制内強硬派、双方を抑えこみながら民主化へ向けた下準備を進めることができたのは他ならぬストロング・マンの圧倒的な手腕である。台湾民主化で李登輝の果たした役割ももちろん非常に大きいが、その種をまいたのは蒋経国だったということになる。台湾の民主化は同時に中華民国の台湾化=脱中国化に進むのではないかという懸念もあった。しかし、台湾が民主化のモデルとなることによって中国大陸における民主化の動きを誘発させ(蒋経国のモスクワ留学時代の同窓生である鄧小平がちょうど改革開放を進めていた時期である)、双方の交流が深まることで中国としての一体性は保障されるという意図が蒋経国にはあったのだと著者は指摘する。

 本書は蒋経国が段階的に民主化を目指した努力に重点を置いているが、同時に、特務の最高責任者として白色テロの指揮を執った負の記憶から台湾社会の一部には蒋経国に対する強い拒否反応があることも付記しておかねばならないだろう。

 なお、蒋経国について日本語文献で読みたい場合には、若林正丈『蒋経国と李登輝──「大陸国家」からの離脱?』(岩波書店、1997年)がおすすめである。

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