« 2010年8月29日 - 2010年9月4日 | トップページ | 2010年9月19日 - 2010年9月25日 »

2010年9月12日 - 2010年9月18日

2010年9月18日 (土)

【映画】「彼女が消えた浜辺」

「彼女が消えた浜辺」

 テヘランからカスピ海沿岸の保養地へバカンスに出かけたロースクールの同窓生グループとその家族、総勢11人。予約時の手違いで部屋がとれず、代わりに案内されたのは浜辺の一軒家。ぼろいが、打ち寄せる波の音がよく聞こえる風情のあるたたずまいにみんな気に入り、キャンプ気分ではしゃぎまわっている。グループの一人、セピデーが誘ったエリは子供の通う保育園の保育士で、やはりグループの一人で離婚したばかりのアーマドに引き合わせようという魂胆だ。エリの穏やかな人柄にみんなは好感を持ち、この“お見合い”を面白がる。そうした中、連れてきていた子供が海で溺れてしまった。何とか救出されたが、今度はエリがいない。彼女も子供を助けようと海に入って溺れてしまったのか、それとも帰ってしまったのか? 残された携帯電話の着信記録をたどって連絡すると兄と称する男が来ることになったが、実はエリの婚約者らしい。思いがけない展開に息をのむ大人たちの表情は不安げにかたい。

 新参者のエリについてみんな口さがなく互いに論評しあうが、事件が起こってエリがいなくなったとき、はじめて彼女の本名を誰も知らないことに思い至る。「こんなことになるなら誘わなければよかった」「いや、子供が溺れているのに帰ってしまうなんてひどい奴だ」、また口々に言い合うが、結局、彼女がどんな人物で、何を考えていて、なぜ婚約者と別れたがっていたのか、誰にも分からないのだ。昨日の和気藹々としたムードは一変し、互いに非難しあう険悪さには心理劇としての緊張感がある。

 最終的にエリの“行方”は判明する。しかし、彼女が心の中で抱えていた苦悩は依然として謎のままだ。人は、相手が本当はどんな思いを抱えているのか分からないくせに表面的な印象だけで相手を判断し、それが繰り返されて当たり前のようになって日常が構成されていく。この映画では、その表面的なレッテル貼りで当たり前のように思い込んでいるイメージの裏で相手が本当に抱えている“分からなさ”そのもの、それが事件をきっかけに今さらのように際立たされていく。心理サスペンスとして描き出していく手並みが実にあざやかだ。

【データ】
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
2009年/イラン/116分
(2010年9月18日、ヒューマントラストシネマ有楽町)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

【映画】「ナイト・トーキョー・デイ」

「ナイト・トーキョー・デイ」

 築地市場の魚解体現場で働くリュウ(菊地凛子)。誰とも口をきかず、何も考えないでいられるのが楽だから、と語る彼女はもう一つの顔を持つ。唯一友達と言える録音技師(田中泯)が時折連れて行かれる墓地、そこで彼女が丁寧に清掃している墓石は、自身が殺し屋として請け負った仕事のターゲットとなった人々のものだ。今度のターゲットはスペイン人男性(セルジ・ロペス)。リュウはターゲットに近づくが、恋に落ちてしまう。

 ストーリーも菊地凛子もどうでもよくて、スペイン人女性監督がどんな視点で東京を撮るのかに興味を持って観に行った。冒頭いきなり女体盛りのシーンが出てきて「これは国辱映画か」とげんなりしたが、むしろ外国人の日本に対するオリエンタリスティックなイメージを揶揄する意図があるようなので一安心。ガード下の居酒屋、浅草花やしき、なぜか新横浜のラーメン博物館、レトロな東京イメージが中心。孤独を抱えるリュウのたたずまいがその中になじむ。映像と音楽の組み合わせで登場人物の心象風景を描くのが映画だと考えれば、こういう東京の描き方があってもいいだろう。昭和の懐メロが時折流れるが、タンゴを意識した曲も多いから、この映画のスペイン的なトーンの音楽にも不思議にしっくりくるのが面白い。

【データ】
原題:Map of the Sounds of Tokyo
監督・脚本:イザベル・コイシェ
2009年/スペイン/98分
(2010年9月17日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年9月16日 (木)

伊福部昭、アレクサンドル・チェレプニン、江文也

  伊福部昭(いふくべ・あきら)是日本作曲家,是由于作《哥吉拉》(ゴジラ)的曲有名的。连不知道他名字的人们也听过这部怪兽电影的主题旋律。

  他讲究日本土著的音感,所以音乐学家把他当做“日本民族乐派”之一。他作的旋律有很独特的低音和节奏,让人们的心胸感受到很激烈的音响。这些特征让怪兽电影有很可怕的气氛。加之他的音乐有很特别的意义。哥吉拉受放射能的影响出生,这个故事表示了核武器的恐怖。伊福部是跟反核题目共鸣,承办了《哥吉拉》的音乐。他想表现古代的土著感性根源的旋律,那个旋律有对近代科学文明批判的意味。

  伊福部昭于北海道出身。他的父亲跟阿伊努(Ainu,北海道的原住民)的人们交往,所以他小时候听过阿伊努的歌舞。这个体验让他知道跟近代社会不同的感性,然后影响了他的音乐活动。

  他毕业北海道帝国大学农学系以后做了林务官。但是从学生的时候起他就继续搞音乐活动,音乐同伴劝他作曲。一九三六年二十一岁的时候,他作的《日本狂诗曲》得了齐尔品奖。亡命俄人贵族的音乐家、亚历山大•齐尔品(Alexander Tcherepnin)是为了在中国和日本发掘很有为的青年音乐家们举行的这个作曲比赛。当时日本乐坛把伊福部的《日本狂诗曲》评价为很土气和不精练,所以不想对齐尔品推荐。但是齐尔品想在东亚找到崭新的音乐,他不喜欢模仿西洋音乐。他劝青年音乐家们以自己民族的感性作乐曲。伊福部的作曲态度正好合乎齐尔品的意图。

  《日本狂诗曲》有很喧哗的音响和很激烈的节奏,这些特征表示出日本祭祀的气氛。我第一次听过《日本狂诗曲》的时候,想起了伊戈尔•斯特拉文斯基(Igor Stravinsky)作曲的《春之祭》。这支乐曲有俄国前基督教时代的异教文化根源的气氛。一九十三年《春之祭》在巴黎上演的时候掀起了激烈辩论,这个争论是现代音乐的开端。伊福部喜欢斯特拉文斯基的音乐。斯特拉文斯基和伊福部都有一样的意图,古代感性的力气一定超过西洋近代音乐面对的墙壁。

  西洋近代文化的扩大让世界各地的人们注意到自己民族文化消灭的危机,有的音乐家开始探求自己民族原有的音感。匈牙利的巴托克•贝拉(Bartók Béla)努力采集民谣,芬兰的西貝流士•让(Sibelius Jean)用《卡勒瓦拉》(Kalevala)神话的主题作曲。伊福部也是在那样的思潮中展开音乐活动的。伊福部被认为是“日本民族乐派”之一,不过这个“民族”的意思不是政治的民族主义,是探求个个民族固有的音乐感性的。所以他不只关心日本传统音乐,还用阿伊努和尼夫赫(Nivkh,千岛列岛的原住民,以前叫吉利亚克[Gilyak])的民谣旋律作曲。

  齐尔品是学生的时候俄罗斯革命爆发,他向比较安静的格鲁吉亚(Georgia)迁移。他在格鲁吉亚住的时候,高加索(Caucasus)音乐的绚烂音响让他受了很深的冲击(比如说在格鲁吉亚出生的亚美尼亚[Armenia]音乐家阿拉姆•哈恰图良[Aram Khachaturian]作曲的《马刀舞曲》表现的气氛)。这个体验让齐尔品关心起种种民族音乐的多样性,他想找跟西洋近代不同的音乐。所以他来东亚努力在日本和中国发掘有为的青年音乐家。

  齐尔品培育了一些青年音乐家,比如说日本的伊福部昭、中国的贺绿汀等等。那些人之一有江文也、在台湾出生的音乐家,我很关心他。我看侯孝贤导演的电影《咖啡时光》的时候,第一次知道了江文也的姓名。这是向小津安二郎致敬描写生活在东京的电影,女主角在这部电影的故事里找寻江文也在东京的脚印。江文也去日本留学以后,在日本音乐界成名。一九三六年他作曲的《台湾舞曲》在柏林奥林匹克音乐部门获得奖牌。

  齐尔品在东京见到江文也、在台湾出生的汉人。是齐尔品让江文也注目中华文明的。江文也受齐尔品的启发,怀抱着关于中国的浪漫情感,开始想去中国大陆。一九三八年江文也去北京当北京师范大学音乐系教授。日军侵略的时期,有的台湾人相信“台湾人是日中桥梁”的宣传去大陆。江文也也是这些人们之一。从一九三〇年后半期到一九四〇年前半期,他常去北京的孔庙查古代音乐史,依据他自己的调查写了《上代支那正楽考:孔子の音楽論》(他用日文写的这本书)、作了交响乐《孔庙大成乐章》。我读过《上代支那正楽考》的翻印本,觉得很有意思。他把孔子当做一个音乐家,以共鸣写这本书的观点很精彩。解放以后,江文也因为汉奸嫌疑被逮捕,但是马上获释。他继续在北京作曲。文化大革命时期他遭受迫害。他挽回名誉以后,在北京去世。

  关于江文也的两篇论文我觉得很好。片山杜秀〈江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に〉(江文也《上代支那正楽考:孔子の音楽論》 [平凡社・東洋文庫,2009年]附录的解说论文)到日本战败的时候描写他的活动履历。我读这篇论文的时候,第一次知道了齐尔品给江文也的影响。周婉窈〈想像的民族風:試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉(《臺大歷史學報》第35期,2005年6月)努力理解江文也的内在感性。他在日本统治时期的台湾出生,去日本留学,然后去中国大陆在北京定居。那么复杂的认同意识容许不同的解释。台湾民族主义者重视他关心台湾土著民谣,中华民族主义者重视他关心中华传统文化。但是周婉窈的论文指出,江文也基本上是浪漫主义者。他很容易感动,回台湾的时候看到美丽的风景感动,到中国大陆的时候看到无边的大地感动。他看的台湾和中国都是浪漫的想象。江文也是为了作曲用这些艺术热情的,没有政治的意图。这篇论文不是依据现在政治的观点解释的他的活动,是在他自己生活的时代解释他的内在感性。

  在俄罗斯出生的齐尔品在高加索发觉了种种民族的多样性。所以他想找跟西洋近代不同的音乐,在东亚发掘了一些音乐家,比如说关心阿伊努的日本人伊福部昭、关心中华文明的台湾人江文也。那样的关系好像是跨越欧亚大陆的音乐旅程,我觉得很有意思。

 伊福部昭については以前にこちらに書いた。江文也『上代支那正楽考』についてはこちら、周婉窈〈想像的民族風:試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉についてはこちらで取り上げた。伊福部昭、江文也、アレクサンドル・チェレプニンの三人の関わりについてはこちらで雑談的に触れた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月15日 (水)

バーバラ・エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』

バーバラ・エーレンライク(中島由華訳)『ポジティブ病の国、アメリカ』(河出書房新社、2010年)

 著者がワーキング・プア生活の体験取材をしたノンフィクション『ニッケル・アンド・ダイムド──アメリカ下流社会の現実』(曽田和子訳、東洋経済新報社、2006年)は以前に読んだことがあった。本書も同様にアメリカ社会の病理をえぐり出す趣旨で、社会時評的な内容。

 ポジティブ・シンキングといった場合、単に漠然と前向きに考えるという程度なら構わない。しかし、“成功”とか“素晴らしい精神状態”なるものを想定してそこへ向けて自分の“心”を操作していくという発想になってくると、目前の問題から唯心的な解釈で目を背けることにもなりかねず、その薄っぺらな自己欺瞞が気持ち悪い。自分の“心”を操作してハッピーになれるという考え方を裏返すと、他人によっても操作され得るという社会工学的発想につながる(その意味で、例えばA・R・ホックシールド(石川准・室伏亜希訳)『管理される心──感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年)の問題意識とも関わってくるだろう)。自己啓発本、ニューエイジ本、スピリチュアリティ本などを読み漁るタイプは自分ではそうしたあたりに気づかないだろうが、主体的に考えているように見えて、実は奴隷の思考法だという逆説すらうかがえる。だから良い悪いというのではなく、現代社会の一側面を考える切り口として興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中田整一『トレイシー──日本兵捕虜秘密尋問所』

中田整一『トレイシー──日本兵捕虜秘密尋問所』(講談社、2010年)

 太平洋戦争においてアメリカ軍の捕虜となった日本軍兵士たち、彼らを収容した秘密尋問所(呼び名は“トレイシー”)の関係者はながらく口を閉ざしていたが、その具体的なあり様を明らかにしようとしたノンフィクションである。

 日本軍による捕虜虐待を考え合わせると、この尋問収容所の手法は紳士的に思えてくる。一つにはジュネーヴ条約遵守という人道的配慮があったが、それ以上に対日戦、さらには戦後の占領を見据えて捕虜から細大漏らさず情報を引き出さねばならなかったことが大きい。捕虜たちが心を閉ざしてしまったら得るものは何もないのだから。「北風と太陽」の逸話で言うと太陽のようなやり方か。この実用的な態度という点でも日米の差は明らかだった。実際、戦陣訓の呪縛にかかっていた彼らは死ぬことが大前提で捕虜になることをそもそも想定しておらず、当初は頑なだったが、予想に反してアメリカ側が丁重な扱いをするのを見て態度を変えていく。本書の話題の一つである盗聴という手法も効果的だった。それから、日本語を使いこなせる人材が少ない中、コロラド大学ボールダーに集められた取調官候補者たち(その中にはドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどもいた。日系人に対しては猜疑心があったので、戦局が押し詰まって人材不足が明らかになるまで日系人を活用するという発想はなかった)。尋問収容所を舞台とした一種の異文化交流史として読んでも興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月14日 (火)

ラスト・スルタン、アブデュル・メジド2世

 オスマン=トルコ帝国のラスト・エンペラーならぬラスト・スルタン、アブデュル・メジド2世(Abdülmecid II,Abdul Mejid, Abd-ul-Mejid, Abdul Medjit, Abdülmecit)。以前から興味があるのだが、彼に関する文献が見当たらない(トルコ語やアラビア語ならあるのだろうが、私は読めない。せめて英語文献くらいあってもよさそうなものだが)。wikipediaでも情報は限定的で、英語版wikiではなぜか結婚問題が半分以上を占めている。

 アブデュル・メジド2世は1868年にアブデュルアジズの息子として生まれた。1922年、トルコ革命によって従兄弟のメフメト6世が廃位されたのに伴ってオスマン帝国最後の皇帝となる。しかし、翌1923年、ムスタファ・ケマルの大統領就任によってスルタンは廃位、形式的な国家元首としてのカリフの地位は保ったが、さらに1924年にはこれも廃位されて(この時点でイスラム世界最高の権威としてのカリフは消滅)、国外追放された。1944年8月に亡命先パリで死去。

 彼はオスマン絵画の画家として高名だが政治には全く関心がなく、その点で北宋の徽宗皇帝と印象が重なる。滅び行く黄昏の大帝国、芸術家肌のラスト・エンペラー、こういうイメージは物語的に興味がひかれるのだが、それでもこれといった文献がないということは、それほど面白いエピソードはないということか?

 アブデュル・メジド2世に関心を抱いたきっかけは、Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Life(Random House, 2005→こちらで取り上げた)という本を読んだときで、主人公レフ・ヌッシムバウムがイスタンブール滞在中の記述にこの芸術家肌のラスト・エンペラーについて言及があった。それから、アルメニア人音楽家コミタスに関心を持ってRita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon(Gomidas Institute, 2001→こちらで取り上げた)を読んでいたところ、第一次世界大戦中のアルメニア人ジェノサイドに巻き込まれたコミタスを助け出すよう当時の青年トルコ党政権に働きかけた人物が二人いて、一人がアメリカのヘンリー・モーゲンソー駐トルコ大使、もう一人がメジド皇子と記されていた。このメジド皇子というのはアブデュル・メジド2世を指すように思われたが、確認できていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フランシー・リン『台北の夜』、他

 フランシー・リン(和泉裕子訳)『台北の夜』(ハヤカワ文庫、2010年)を書店でたまたま見かけ、台北を舞台にしたミステリーというのは珍しいと思って手に取った。

 アメリカ生まれの二世、エマーソン・チャンは母をなくし、その遺言に従って音信不通の弟を探し出すため台北へとやって来た。この初めて訪れた街は、中国語がよく分からない彼にとって戸惑うことばかり。出会った弟の様子はだいぶおかしい。不審に思いながら弟の周辺を探り始めるエマーソンだが、弟が取り込まれてしまった闇社会の犯罪組織に追われる身となる。

 訳者解説によると、著者自信が主人公と同様にアメリカ生まれの二世で、奨学金を得て自らのルーツである台湾へ留学、しかしそこでもアメリカ人とみなされてしまい、自分はいったい何人なのか?というアイデンティティの葛藤を抱き、その体験がこの小説にも反映されているのだという。結構ハードボイルドなタッチで、ストーリー展開のテンポにも勢いがある。台北などの風景描写は的確ではあるが、やはり闇社会絡みの話だからダークな街にも見えてくる。

 台北を舞台にしたミステリーは中国語ではもちろん色々と出版されているのだろうが(読んだことはないけど)、年代的に一番古いのは何だろうと考えたとき、金関丈夫『龍山寺の曹老人』(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)が思い浮かんだ。金関は台北帝国大学の人類学者で多彩な趣味人、この連作探偵小説を書いたときは日本敗戦直後の留用中で、暇つぶしに書いたらしい。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけなのに物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通しており、推理をめぐらすときは眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたらその寡黙さの裏に窺い知れぬ智慧を秘めているのではないか、と思わせるようなたたずまいが着想のきっかけだったのだろう。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じに締め括られるのもセオリー通り。犯人が松山空港発の飛行機に乗って脱出しようとするのを間一髪で制止する、なんてシーンもあった。この小説については以前にこちらに書いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月13日 (月)

適当に小説

この土日はストレス発散のため小説をとにかく濫読していた。

海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(上下、宝島社文庫、2007年)。医療現場を舞台にしたミステリー。内部監査というテーマが軸ではあるが、そういう重さは感じさせず、登場人物それぞれのキャラクターが際立っているので、やりとりそのもので読者をグイグイとストーリーの中へと引っ張り込んでいく。テンポがいいし、面白い。このシリーズは読み始めたらはまりそうだ。

奥田英朗『サウスバウンド』(角川書店、2005年)。揉め事ばかり起こしている元過激派のオヤジが家族を連れて沖縄の離島へ移住、今度はリゾート開発業者とぶつかる。最初、このオヤジの時代錯誤な論理には?な感じだったが、これは戯画化されているんだなと思い至って読み進めると意外と憎めなくなってくる。面白い。

荻原浩『あの日にドライブ』(光文社、2005年)。銀行をリストラされた主人公がタクシーの運転手をしながら思い出の場所を回り、自分の人生をみつめなおすという話。40~50代のサラリーマンに受けそうな感じ。

朱川湊人『本日、サービスデー』(光文社、2009年)。何でも願いがかなう日、片手だけ見える地縛霊など微妙にファンタジックな設定の中編・短編小説集。朱川湊人はストーリーテリングがうまいからなかなか読ませる。『かたみ歌』(新潮文庫)とか好きだな。

北村薫『街の灯』(文春文庫、2006年)、『玻璃の天』(文春文庫、2009年)。舞台は昭和初期、華族のお嬢様とお抱え運転手のスーパーウーマン、ベッキーさんこと別宮さんのコンビが謎解きするシリーズ。三作目の『鷺と雪』(文藝春秋、2009年)は二・二六事件を背景にしており、すでに読んだ。文学的な薀蓄や当時の社会風俗をさり気なく織り込んでいく筆致が良い感じ。北村さんの作品はむかし好きでよく読んでいた。特に円紫師匠と女子大生のコンビのシリーズは、殺人など物騒な出来事はないのに純粋に謎解きだけであれだけ面白く書けていることに驚いた。

三浦しおん『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫、2009年)。便利屋稼業の主人公と、その家に転がり込んできた居候、ワケありな人たちのドタバタを描いた連作小説集。なかなか悪くないと思う。

小路幸也『東京バンドワゴン』(集英社、2006年)。個性的な家族でやっている古本屋が舞台、そこに集まる人々の悲喜劇。のほほんとした雰囲気が好きだな。

中村文則『土の中の子供』(新潮社、2005年)。芥川賞受賞作か。純文学なんてもうオナニーの世界だな。気分が合わなくて入り込めず。とくにコメントなし。

桜庭一樹『私の男』(文藝春秋、2007年)。これは直木賞受賞作。ストーリー的には面白そうだけど、アブノーマルな設定の割には後ろ暗さとか淫靡さとか、そういった感じがいまいち伝わってこなくてもの足りなかった。

西加奈子『さくら』(小学館、2005年)。今風に少年の成長譚を書いたつもりか? ちんけであまい。

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫、2007年)。なんかグダグダした恋愛小説だな。1980年代後半という時代背景に興味ない私にとって面白くはない。

綿矢りさ『勝手にふるえてろ』(文藝春秋、2010年)。かったるい。

お口直しに、小川洋子『夜明けの縁をさ迷う人々』(角川文庫、2010年)。九編の連作短編集。抽象的で明らかに空想の設定だけど、個々の描写からなぜか強烈なリアリティーを感じさせてしまう不思議なところに小川さんの小説の魅力を感じている。物語そのものが純粋に構築されているから、読み手の地域的・年代的な相違は関係ない。その意味で註釈なしで外国語に翻訳できる数少ない作家ではないか。村上春樹とかよしもとばななよりも海外への発信可能性がもっと高い作家のように思っているのだが、単に私個人の好みに過ぎないのかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月12日 (日)

【映画】「トイレット」

「トイレット」

 レイはロボット・プラモデルのオタク、規則正しく変わらない日常を望む性格は周囲から冷たいと言われたりもする。モーリーはピアノの才能があるが、パニック障害で引きこもり。妹のリサは個性的な女子大生、気が強くて口が悪い。そんな三人兄妹の母親が死んだ。残されたのは大きな家、猫の“せんせー”、そして母が死ぬ前に日本から呼び寄せた“ばーちゃん”。三人兄妹とばーちゃんは言葉が通じないが、何だかんだとトラブル続出の中、次第に心を通わせていく。

 観終わってストーリーをたどり返しても、実はそれほど特別な出来事がおこっているわけではない。それなのに映画全体に流れる独特なテンポというか、空気感というか、この中に巻き込まれて自然と見入ってしまうのが荻上映画の不思議な魅力だ。ばーちゃん役もたいまさこの、セリフはほとんどないのに表情だけですべてを語らせてしまう存在感がそこにうまくはまっている。荻上映画では見るからにうまそうな手料理が定番となっているが、今回はギョーザ。日常生活の中のささやかな喜びみたいなことを意図的に描こうとすると陳腐になってしまうのが通例だが、この映画でのギョーザは、いつもむすっとしたばーちゃんの心遣いが三人に伝わる良い道具立てになっている。ばーちゃんがトイレから出るたびにつくため息の謎解きが筋立ての一つの柱となるが、ウォシュレットを切り口になかなか気づきづらい文化的・慣習的相違に触れているのも面白い。

【データ】
監督・脚本:荻上直子
2010年/日本・カナダ/108分
(2010年9月10日、新宿ピカデリーにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年8月29日 - 2010年9月4日 | トップページ | 2010年9月19日 - 2010年9月25日 »