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2010年8月22日 - 2010年8月28日

2010年8月28日 (土)

武田善憲『ロシアの論理──復活した大国は何を目指すか』

武田善憲『ロシアの論理──復活した大国は何を目指すか』中公新書、2010年

 ロシア政治と言えば、国内的にはプーチンの権威主義的独裁、対外的には「新冷戦」や資源外交による恫喝が騒がれて印象はあまりよろしくない。対して本書は、良い悪いの価値判断は別としてプーチンの強力なリーダーシップは必ずしも恣意的な独裁を意味するのではなく、むしろその下で形成されている「ゲームのルール」を読み解くことを趣旨とする。

 国民生活の安定と向上にこそプーチンへの支持の源泉があり、国家の発展という目標がすべてのルールの基準となる。とりわけホドルコフスキーが逮捕されたユコス事件では、「正しく納税せよ」「政治に野心を抱くな」「ビジネスに専念せよ」「国家の発展に寄与せよ」といったルールが明確になった。欧米では自由経済に対する弾圧と受け止める向きもあったが、逆に言えばプーチンのルールに従う限りビジネスの自由はあるとも言える。大国としての地位は目標ではあっても、かつて超大国として世界を二分したソ連時代へと戻るわけにはいかないことは認識されており、旧ソ連諸国への影響力は残しつつ、他方で国際政治では多極主義という枠組みでプラグマティックな対応が選択されている。

 自分たちとは異なるロジックに基づいて行動する相手といかに交渉するかが外交である。その点で、価値判断はいったん保留した上で、表面的な印象論には左右されないように相手側の内在的ロジックを見極めようとする本書のアプローチは説得力を持つ。

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2010年8月27日 (金)

国立台湾史前文化博物館(台東)

 先日、台東にある国立台湾史前文化博物館へ行ったときの雑感。中国語は苦手なので、文章として変なところを添削してくださる善意の方がいらっしゃったらありがたいです。

  今年暑假我去台湾旅行,坐火车绕了台湾一周。我在台东、台湾东岸的城市下车,去了国立台湾史前文化博物馆和博物馆附属的卑南文化公园。这家博物馆由于展示着史前考古学和南岛语族系原住民的研究很有名。具体的遗物和模型在这里可以让我们想象出史前时代的人类生活。

  在这儿发现的遗迹叫卑南文化。台湾考古学的研究是从日本统治时期开始的,一八九六年考古学家鸟居龙藏已经记录过他在这儿发现的巨石柱。从二〇年代后半期到三〇年代是博物学家鹿野忠雄调查的。一九四五年日本就要战败的时候,是人类学家金关丈夫和考古学家国分直一调查的。我看过金关和国分写的《台湾考古志》,他们是在美军的轰炸下继续发掘的。然后台湾大学考古学研究班让发掘调查进展了(领导这个发掘调查的宋文薫是台湾最有名的考古学家,他学生的时候接受过国分的指教)。一九八〇年铁路工程偶然发现了埋在地里的石棺和陪葬品,现在这座遗址部分构成了卑南文化公园。

  用巨石独特的卑南文化从三千年前持续到二千年前,然后卑南文化人的痕迹消失了。卑南文化人跟在近邻住的原住民(阿美Ami族、排湾Paiwan族)的关系不明白。卑南文化人和排湾族都有拔牙的风俗,我想起了日本史前时代的绳文文化人也是同样的。这些人们在南洋有没有共同的祖先?没有确切的证据,谁也不知道。

  史前文化博物馆里有的原住民研究展示很详细。汉族在台湾的人口占据九十八%,原住民只占据二%。但是汉族来到台湾以前,南岛语族先来住。起源不同的族群经过长时间来到台湾,原住民决不是单一集团。现在台湾政府认定十四个族群,别的族群往昔被汉族吸收了。各别的族群互相有不一样的文化、习惯、信仰和社会组织。比如说泰雅Atayal族是平等社会,卑南Puyuma族有很严格的年龄组织,鲁凯Rukai族有贵族制度。有的族群用狩猎生业,有的族群有农耕文化,雅美Yami族的海洋渔劳文化很有名。往昔有的族群做“出草”(猎取人头的仪式),但是阿美族没有那样的习惯。有的族群有文身风俗,有的没有。

  台湾的历史和社会是重层结构。但是日治时期的皇民化政策和国民党执政时期的中国化政策都把原住民的传统文化当做野蛮,鄙视他们传统的独特风格。现在多文化主义思潮在台湾社会扎根了,原住民主张让他们有维持传统文化的权利。听说往昔被汉族吸收的原住民(平埔族)也要求承认自己的族群。近年刊行的台湾史概说书有重视原住民地位、脱离汉族中心史观的视点。比如说我看过的周婉窈(台湾大学历史系教授)写的《台湾历史图说》,“东亚出版人会议选定的一百册”有这本书。

  展示在史前文化博物馆告诉原住民努力让社会认知自己的传统文化很丰沃。这样的认同政治可说是现在台湾社会的特征之一。

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2010年8月25日 (水)

ダンビサ・モヨ『援助じゃアフリカは発展しない』

ダンビサ・モヨ(小浜裕久監訳)『援助じゃアフリカは発展しない』(東洋経済新報社、2010年)

 著者はザンビア出身の若手女性エコノミストで、原題はDead Aid: Why Aid is Not Working and How There is Another Way for Africaとなっている。援助依存がアフリカ諸国の政治腐敗や開発の遅れをもたらした、市場経済の適切な活用によってこそアフリカは困窮状態から抜け出せる、そのために援助依存からの脱却の道筋を提案する、というのが本書のアウトラインである。「本書は劇薬である」というのがオビの謳い文句であるが、ジェフリー・サックスのような援助重視のビッグ・プッシュ派への批判は近年では定着しつつあるから、読んでいて特に驚くほど極端な見解はない。議論の進め方はラフで大まかな感じだが、アフリカの開発問題について論点網羅的に見取り図を一望したい場合には役立つだろう。

 市場経済の前提としてガバナンスが必要であるが、他方で欧米的価値観に基づく一方的な民主化圧力はかえって混乱をもたらしかねない(例えば選挙実施は民族対立や内戦を引き起こす)という論点は、Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places(HarperCollins, 2009→こちら。邦訳は『民主主義がアフリカ経済を殺す』日経BP社、2010年)でも指摘されていた。

 援助ではなく投資をアフリカに呼び込まなければならないが、その点で本書は中国のアフリカ進出について肯定的な評価をしている。一時期、欧米のジャーナリズムを中心に中国のアフリカ進出に対するバッシングが激しかったが、最近、この点でも議論の潮目はアカデミズムを中心に変わりつつあるように見受けられる。私も最近、Ian Taylor, China’s New Role in Africa(Lynne Rienner, 2009→こちら)、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)といった本を読んだが、いずれも過剰な中国バッシングを戒めている。

 グラミン銀行が開発したマイクロファイナンスの活用については誰しも賛成できるだろう。アフリカでの具体的な応用例は、例えばJacqueline Novogratz, The Blue Sweater: Bridging the Gap between Rich and Poor in an Interconnected World(Rodale, 2009→こちら。邦訳は『ブルー・セーター』英治出版、2010年)を読んで欲しい。

 監訳者解説によると本書はウィリアム・イースタリーの立場に近いと指摘されている。『エコノミスト 南の貧困と闘う』や『傲慢な援助』は気になりつつも未読なので今度機会を見つけて読んでみよう。

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小林照幸『毒蛇』

小林照幸『毒蛇』(TBSブリタニカ、1992年)、『続 毒蛇』(同、1993年)

 咬まれると激痛、壊死が発症し、死に至る確率も極めて高いハブの猛毒。その治療用の血清を開発した伝染病研究所の沢井芳男は1957年に初めて奄美大島への調査に同行。自信満々に現地へ初めて赴いた沢井だが、目の当たりにした現実は予想をはるかに裏切るものだった。離島・離村ではそもそも血清を保存する冷蔵庫そのものが足りないなど医療環境が整っておらず、新たに開発した乾燥血清も溶解せずに思った効果は出せなかった。他方で、ハブ対策に地道に取り組んでいる現地の人々と出会ってその謙虚さにも打たれ、沢井は改めて毒蛇咬症の研究に全力で取り組む気持ちを固めた。研究の道のりは奄美から、まだ米軍占領下にあった沖縄、さらには台湾へと続く。

 ハブをはじめ毒蛇咬症をめぐる問題が一つずつ解決されていく過程を沢井という人物を中心に描き出した医学ノンフィクションである。医学的な背景を噛み砕いて説明されている平易な語り口もさることながら、そこに携わる人々のひたむきな熱意が大仰ではなく静かに説得力をもって浮かび上がってくる筆致がとても良い。本書は著者が開高健賞奨励賞を受賞したデビュー作で、その頃はまだ学生だったらしいがこれだけ書けたというのはたいしたものだ。遅まきながら小林照幸という人の筆力に関心を持った次第。

 私の個人的な関心から言うと、1960年代のまだ近代化途上にあった台湾、とりわけ農村・山村部で伝統的な中国医学への過信(というよりも迷信)によって血清などの西洋医学の方法が広まらず、人々が毒蛇咬症に悩まされていた当時の社会状況がうかがえたところが興味深い。台湾にもコブラがいたのは初めて知った(ただし、コブラによる死者はインド方面に比べて格段に少ない)。毒蛇研究の先駆者として杜聡明も登場するが、欲を言えば彼のプロフィールももう少し書き込んで欲しかった。当時、台湾総督府は南洋の風土病対策の一環として毒蛇研究にも力を入れており、杜聡明もその分野では世界的に知られた医学者であった(なお、日本統治期の蛇毒咬症関連調査の資料が戦後なくなってしまったらしいが、「おそらく日本の遺産として内容も分からずに始末されてしまったのでしょう」と杜聡明が語るシーンがあった)。彼は台湾出身者として初めて博士号を取得したことでも有名で、日本統治期の台北帝国大学で唯一の台湾人出身教授でもあった。戦後も台湾大学総長を務めたり高雄医学院を創立するなど活躍。

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2010年8月23日 (月)

小林照幸『ひめゆり──沖縄からのメッセージ』

小林照幸『ひめゆり──沖縄からのメッセージ』(角川文庫、2010年)

 「ひめゆり学徒隊」の一員として生き残り、その体験を「ひめゆり平和祈念資料館」で語り続けている宮城喜久子さん。沖縄戦当時は本土にいたため実体験はないが、後輩をはじめ死んでいった人々の記憶を残していきたいと「沖縄戦記録フィルム1フィート運動」を進めてきた中村文子さん。凄惨な戦いに巻き込まれて、多くの人々が無残に死んでいった地獄絵図を語り続けるのはそれだけでも非常につらいことではあるが、それでも何とか後世に伝えていかねばならないという切迫した思い、それを胸中に秘めながら見つめ続けてきた沖縄の戦後史。

 「ひめゆり学徒隊」(「ひめゆり部隊」ではない)は沖縄戦の一つのシンボルとして小説や映画、テレビドラマの題材として繰り返し取り上げられてきたが、その脚色は戦場の実際からはかけ離れて宮城さんたちからすれば非常な違和感があった。何よりも惨い体験を強いられたのは「ひめゆり学徒隊」だけではない。これが「歴史」として定着してしまって良いものか?という葛藤もあったようだ。平和な社会での無関心というならまだしも、「聖戦」として美化されてしまうことには我慢がならなかった。そして、基地の問題。安全保障の議論は沖縄にとって極めて過酷なロジックをとる。それをどのように考えたらいいのか、私には正直なところ全く見当がつかない。ただ、本書に登場する宮城さんをはじめ戦場の実際を目の当たりにした人々が、そして記憶の中にある死者のそれぞれに切迫した哀しみが、寡黙な眼差しでじっとこちらを、つまり日本という社会と後世の人間たちを見据えていることは決して忘れてはならないだろう。優等生みたいな感想だが、そうとしか言いようがない。

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2010年8月22日 (日)

NHKスペシャル「灼熱アジア 第1回 タイ “脱日入亜”日本企業の試練」

NHKスペシャル「灼熱アジア 第1回 タイ “脱日入亜”日本企業の試練」

・中国、インドなどとFTAを結んだASEAN。とりわけタイは関税がないという条件ばかりでなく、人件費に比して高度な製造技術や品質という利点。ものづくりの優位性を奪われかねない日本の中小企業もタイへ進出。
・大田区の中小企業が集まって進出したオオタ・テクノパーク。その中の一企業・南武の事例。国境を越えたジャスト・イン・タイム→激しい顧客獲得競争の中、納期を気にしながら綱渡りの工場操業。
・タイ企業サミットに買収された群馬県の金型工場・オギワラの事例。自前の技術開発では時間がかかるので、日本人技術者をタイの工場へ呼び、技術指導。日本人技術者はあらかじめシミュレーションをするが、タイ人技術者は試行錯誤で進めるという職場文化の相違→組織改革に時間がかかる。日本人技術者は技術は目で見て盗めという考え方だが、タイ人技術者からはマニュアル的に教えて欲しいという要望。他方で、日本の工場ではリストラが進む。

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王御風《圖解台灣史》

王御風《圖解台灣史》(好讀出版、2010年)

 先日、台北の書店に行ったとき新刊台に積まれていたので購入した本。台湾史の概説書で時代的テーマごとにバランスよく項目を配列、カラー写真や図版も豊富に収録されて読みやすい構成に工夫されている。例えば中国語を勉強中の学生さんが台湾史の概略を知りたい場合にはうってつけだ。

 序章は南島系原住民が広がっていた先史時代。第2章は大航海時代にやって来たオランダ人やスペイン人。第3章は鄭成功政権。第4章では清の版図に入ってから漢族系移住民による開拓。第5章は西洋列強の東アジア進出に対する台湾での動向。第6章は日本統治時代のプラス面とマイナス面。第7章では二・二八事件や国府遷台の混乱期。第8章は白色テロ、海峡情勢緊迫化の一方での経済的急成長。第9章は戒厳令解除と李登輝政権の民主化、国民党一党支配の終焉で政権交代の現代。以上の構成で台湾史のポイントが網羅的にまとめられている。

 こうした叙述構成から窺えるように、様々なエスニック・グループ(族群)が交錯した重層構造を持っているところに台湾の歴史的・社会的特徴が見出される(例えば、日本統治期に関しても肯定/否定という政治的次元ではなく、歴史的重層構造の中のあくまでも一要素として組み込まれていることが見えてくる)。それは、本質主義的に「台湾人」「中国人」といった単一の民族意識へと還元できる性格のものではない。日本語にも翻訳された周婉窈『図説 台湾の歴史』(濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳、平凡社、2007年→こちら)にしてもそうだが、このように多様な民族や文化が互いに入り混じった影響関係に着目する視点が近年の台湾史叙述のスタンダードとなっているように見受けられる。

 覚書的にメモ。大陸からの漢族系渡来民として泉州系、漳州系、客家系それぞれが来た順番に条件の良いところに定着、一番遅かった客家系が条件の悪い山地へと追いやられたという説明を以前に読んだことがあったが、その後の修正説では、泉州系は商人が多いので港の近く、漳州系は農業民なので平野部、客家系はもともと山地に暮らしていたので同様の環境の場所を選んだと考えられているらしい。牛肉麺は戦後にやって来た外省人の眷村文化から生まれたというのは初めて知った。

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ジョン・ルカーチ『第二次世界大戦の遺産』

John Lukacs, The Legacy of the Second World War, Yale University Press, 2010

 著者は名前から分かるようにハンガリー出身の歴史家。マルクス主義文学批評で著名なルカーチ・ジェルジと関係があるのかどうかは知らない。見覚えのある名前だと思っていたら、ジョン・ルカーチ(早稲田みか訳)『ブダペストの世紀末―都市と文化の歴史的肖像』(白水社、1991年)という本が手もとにあった。

 本書は第二次世界大戦を体系的に論じた歴史研究書というよりも、第二次世界大戦の性格付けについてエピソードを絡めながら語った歴史エッセイという感じだ。第二次世界大戦をどのような脈絡の中に位置付けて把握するかというテーマはその後の政治対立とも密接に関わり合って意外と難しいテーマである。民主主義対全体主義の戦いという耳にたこができるほど聞き慣れた位置づけもあるし、反共主義の流れでは1917年のロシア革命以来の共産主義イデオロギーとの対立関係の中で第二次世界大戦と冷戦を一緒に捉える議論もある。本書は、第一次世界大戦の結果としてロシア革命がおこり、第二次世界大戦の結果として冷戦が始まった、という地味な因果関係で考えている。大上段に振りかぶった一本調子の「史観」には懐疑的で、むしろ様々なロジックや猜疑心が敵味方、戦争当事者間に絡まり合っていたことを個々のエピソードから垣間見ていこうとするのが本書の面白さだろう。

 ドイツでは「二つの戦争」という論点があった。つまり、第二次世界大戦は①対アングロ・サクソン戦争、②対ソ連戦争が同時進行しており、前者については早期講和し、後者に集中すべきだったという議論である(本書では触れられていないが、日本では同様に①対アメリカ戦争、②対ソ連戦争、そして③植民地解放戦争という三つのロジックがあり、③を大義名分として中国との講和交渉を主張するグループがいたことも想起した)。戦後に現われた「二つの戦争」の議論はいわゆる「歴史修正主義論争」で話題となったが、戦時中にも例えばルドルフ・ヘスのイギリス行きはこの論理を持っていたほか、本書で一つの章が割かれている理論物理学者ハイゼンベルクも同様の考え方をしていたのが興味深い。ドイツが優勢のときはイギリス側に同様の動機が芽生えており、ドイツの敗色が濃くなってからの時期、スイス・ベルンでの親衛隊幹部ヴォルフによる連合軍との交渉にはヒムラーばかりでなくヒトラーも同意していたと指摘される。冷戦の起源に関しては、ソ連=ロシアとの歴史的なパワー・バランスの中で捉えて冷戦の時期を1947~1989年と明確化し、ロシア革命以来の共産主義イデオロギーとの対立という観点は取らない。Rainbow5というアメリカの戦略戦争プランのコードネームを私は知らなかったが、これは1941年に採択され、あくまでも対ドイツ戦にプライオリティーが置かれており、対日戦は限定戦争が前提だった。ところが対日開戦後、実際には日本本土上陸まで視野にいれなければならない趨勢に巻き込まれてしまったが、これを事前には想定していなかった。軍部策定の戦略プランや原爆が対日戦争終結につながったのではなく、ポツダム宣言で謳われた「無条件降伏」に関して天皇制を廃止しない(国体護持)という形で事実上の有条件降伏として暗黙の読み替えをしたからだと本書では指摘されている。Rainbow5のようなプランは戦略そのものとしてではなく、むしろ国内世論の盛り上がりという形で影響したという。

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2010年8月15日【鹿港、台中】、16日【帰国】

◆8月15日(日)
【鹿港へ】

・高雄8:00発→彰化10:07着の自強号に乗車。本日も快晴なので、車窓に流れる田んぼや木々の緑が目に心地よい。彰化で下車、駅構内の観光案内所で鹿港行き彰化客運のバスの乗り場がどこにあるのかを教えてもらう。鹿港まではバスで30分前後くらい。今日は日曜日だからだろう、観光客が多い。鹿港の町に入りかけたところで降りる人が多いが、私は帰りのバス乗り場を確認するため終点まで行った。
・彰化駅の観光案内所でもらった観光案内パンフレットの略地図を見ながら歩く。まず、天后宮へ。媽祖を祭っているところは台湾各地で見かける。寺廟の前は門前市といったらいいのか、商店街、屋台街。ガイドブックに乗っている有名な肉包(肉まん)のお店がすぐ近くにあるので、そこで1個だけ買ってほおばる。ただし、うだるように暑い中、あまり食欲はなく、おいしいのかどうか味はよく分からなかった。軽食や小物を売る商店街、屋台街は台湾の観光地には必須。人がわいわい行きかっている。ここは昔ながらの街並みを利用、もしくは再現している。
・途中、旧鹿港公会堂。日本統治期の建物で古跡として修築されている。
・老街を南下して、龍山寺へ行った。龍山寺というのは台北の万華をはじめ台湾各地にあるが、どういう由来があるのかは知らない。古市街は割りと人出があったが、ここは観光客がまばらだった。
・旧鹿港火車站跡。鹿港はかつて「一府(台南)、二鹿(鹿港)、三艋舺」と並び称されるほどの賑わいを見せた商業都市であったが、第一に港が土砂で埋まって機能しなくなったこと、第二に台湾縦貫鉄道の敷設に反対して鉄道路線は彰化を通ったため、彰化の繁栄に対して鹿港は凋落してしまったと言われる。で、どうして鉄道駅跡があるのかと不思議に思ったのだが、どうやら日本統治期の台湾製糖株式会社が敷設したさとうきび運搬用(ついでに旅客運行もしていた)の軽便鉄道の駅だったらしい。すでに廃線となった駅跡が公園として整備・公開されているケースは台湾の各地で見かける。
・鹿港民俗文物館へ行く。辜顯榮の邸宅が博物館として一般開放。辜顯榮は日本に協力してのし上がった実業家で、鹿港の出身らしい。豪壮な洋館で、奥の方には台湾在来の形式の大型家屋もある。これらの建物の中で辜家の所蔵品のほか、台湾での庶民生活をうかがわせる民俗資料も展示されている。入口の受付で荷物を預けて入館。玄関入って左脇の部屋では鹿港の昔の写真を展示。鹿港の在来の街並みは細い路地がくねくね入り乱れた複雑なものだったようだが、日本統治期に入ってそれが崩され、整然とした街区に建て直される経過が写真からうかがえたのが興味深い。鹿港に住んでいた薬剤師の昔の薬局を再現した部屋もあった。庭には昔ながらの遊び道具が置いてあり、竹馬で遊んでいる人がいた。洋館内では、結婚記念だろうか、プロのカメラマンに記念撮影してもらっているカップルがいた。
・九曲巷は上述したような鹿港在来の街並みが残った区画。細長く湾曲した路地、狭い城門は、外敵の侵入を防ぐためらしい。分類械闘か。十宜楼は路地の上に橋のように建物がせり出している。
・鹿港鎮公所(町役場)の裏には日本統治期の鹿港街長官舎が記念館として公開されている。中では鹿港の歴史について簡潔な展示。このようにかつての日本式家屋が古跡として修築・保存されているケースは台湾各地で見かける。
・うだるような暑さの中で汗が滝のように流れ、体がだるくて歩き続ける気力がなくなってきた。来る時には気づいていなかったのだが、鹿港街長官舎のすぐ裏手が彰化客運のバスターミナルだった。15時ちょっと前のバスに乗って彰化車站まで戻る。

【台中にて】
・彰化から普通列車に乗って台中まで行く。ロングシートの車輌。台中まで20分ほど。高速鉄道台中駅と連絡している新烏日駅は台中と彰化の真ん中あたり。
・16:00過ぎに台中到着。駅前を歩くと、東南アジア系の顔立ちの人のグループが割合と目立った。雰囲気的に原住民とも違う。海外から来た出稼ぎ労働者か。新竹でも同様の光景を見かけた覚えがある。
・台中市内の中山公園へ行く。かつて日本統治期に整備された台中公園。園内の大きな池が有名。行楽客でにぎわっており、公園の一隅ではパイナップル・ケーキのイベントをやっていた。公園内の旧台中神社跡を見に行く。狛犬と軍馬。社殿があった場所には孔子像が立っている。
・暑さで体がだるく、早く体を休めたいと思い、駅まで戻ってタクシーを拾ってホテルへ直行。台中金典會館。ビジネスホテルと高級ホテルとが一緒になったホテルで、私がチェックインしたところ、何かの手違いで部屋が確保されていなかった様子で、ワンランク上の広い部屋にしてくれた。25階で眺望がよく快適。
・ホテルの斜め向かいにある廣三SOGO百貨へ行く。上のレストラン街へ。台湾のデパートでは屋台風のビュッフェがある。担仔麺と貢丸湯、魯味の豆腐のセットで夕食。順次エスカレーターで降りながらデパートをぶらぶら見る。店舗内の雰囲気は日本とあまり変わらない。最上階にはなぜかゲームセンター。置いてあるゲーム機は日本製で、ディスプレイの字幕は日本語。若い世代はこういう経路で日本語に馴染んでいくのか。
・台中ではファッショナブルと言われる精明路をぶらぶらしてからホテルまで戻る。台中は駅前の繁華街と、そこから車で10分くらいの距離にある新市域の二段構えの街並みとなっており、後者の方に高層ビルなどが並んでいる。

◆8月16日(月)
・台中7:48発の自強号に乗って台北へ。途中、新竹を通過。以前、台北~新竹間及び高雄~台南間は列車で往復したことがあったので、新竹を通過した時点で台湾鉄道在来線の一周を達成。
・台北には9:30頃に到着。MRTに乗り換えて市政府駅まで。市政府駅に直結する形で統一阪急百貨店が建設中で、その地下道が誠品書店信義旗艦店にもつながっていた。10時の開店を待って入店。2時間半ばかりじっくりと棚を眺めた。
・早めに空港へ行こうと思い、台北駅までMRTで戻り(地下街でコーヒーパンの香りに誘われて一つ買い食い)、バスターミナルから桃園国際空港へ。14時前には到着。カウンターでチェックイン。背負ったリュックサック一つなのでそのまま機内に持ち込むつもりだったが、「荷物が大きすぎる、重量オーバーではないか」と指摘された。来る時は問題なかったが、午前中、誠品書店で本を買い込んでしまったせいだ。10冊前後と控えめにしたつもりだったが、それなりの重さにはなる。仕方なく機内で読む本など必要なものを誠品書店でもらった紙袋につめかえて、リュックは預けた。出国管理を通過。空港内でお土産にお茶を買う。
・桃園国際空港16:30発のチャイナエアラインCI106便。機内資材運搬の遅れということで30分の遅延。機内で先ほど書店で買った接接《接接在日本:日本、台湾大不同》(商周出版、2010年)をざっと読み終え、続いて王嵩山《台湾原住民:人族的文化旅程》(遠足文化、2010年)を3分の2くらいまで読んだ。当たり前だけど、機内で中国語の本を読んでいるとスチュワーデスさんから中国語で話しかけられるな。私はあまり聞き取れないのだが。成田には21時頃に到着。荷物がなかなか出てこず、電車に乗ろうとしたらもう21:40過ぎ。JRの成田エクスプレスはもうなくて、京成のスカイアクセスは22:20発。新宿行きのエアポートバスが22:00発なのでこれに乗ったのだが、後悔。首都高のどこかで工事中とのことで途中から一般道に降りたため通常よりも遅く、新宿到着は23:30頃。スカイアクセスだったら日暮里まで30分ほどだし、本も読めたはず。結局、家まで帰りついたのは24:00頃。

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2010年8月14日【卑南文化公園、台東→高雄】

【卑南文化公園】
・卑南文化公園は午前中に行った国立台湾史前文化博物館の付属施設で、広い緑地の中に卑南遺跡の発掘現場や遺跡解説展示室などがある。台湾鉄路南廻線工事の際に大量の石棺や副葬品(玉器)などが出土して、台湾大学考古学研究室の宋文薫・連照美が調査。約5300~2300年前のものと推定されている。遺跡の分布面積は60ヘクタール以上、東縁部分は台東新站の建設に伴って壊され、遺跡の一部が卑南文化公園として整備された。
・観光案内センターが遺跡に関する展示室となっている。ガイドの人が来館者に解説してくれる。私は中国語を聴き取れないので一人で観覧する。受付で荷物を預け、日本語イヤホンがあると教えてくれたが、先ほど博物館本館で展示を見てだいたいの様子は飲み込んでいるし、解説文は読めるからお断りした。
・卑南遺跡では以前から石柱が注目されていた。初めて記録したのは1896年の鳥居龍蔵、1929~1937年にかけて鹿野忠雄がたびたび調査、日本の敗戦直前の1945年初めには金関丈夫と国分直一が調査。
・石柱は何のため?→①建物の柱、②有力者の住居前のレリーフ、という2説あり。石柱の上に空いた穴は運搬のため紐を通すためと解釈されている。
・台湾での考古学的時代区分:長濱文化(先陶文化、つまり土器出現以前の旧石器時代)/約7000年前/大坌坑文化/約4500年前/縄紋陶文化/約3500年前/麒麟文化(石柱)/約3000年前/卑南文化/約2200年前/鉄器時代(阿美文化)/近代。
・卑南文化人は約2200~1700年ほど前に外へ向けて移動し始めた→彼らがどうなったのか分かっていない。出土した土器の形式が似ている点ではアミ族の可能性もあるし、抜歯の風習があった点ではパイワン族の可能性もあるが、現在の民族と関係があるのかどうかも確認できていない。
・卑南遺跡出土の石棺:北北東(足)→南南西(頭)という方向に並んでおり、あたかも起き上がると都蘭山が見えるような姿勢。
・亜熱帯の木々が生い茂ったなだらかな山すそで、スロープ上に芝生が広がる公園の敷地内には、再現されたアミ族の伝統的住居(写真)がある。木で編んだ構造、中に入ると木編みのベッド状の部屋もあり、それなりに快適に生活できそうな感じ。別の場所では大きな屋根で覆われた発掘現場も見学できる。家族連れやグループの観光客が結構来ている。
・博物館でもらったパンフレットの交通案内を見ると、台東新站から卑南文化公園まで徒歩10分となっている。迷った場合に備えて余裕をとり、列車の発車時刻より40分ほど前に公園を出た。案内パンフレットの略地図に従って歩き始めたのだが、どうも様子がおかしい。地図の縮尺と歩行速度を頭の中で計算すると、この調子では30分近くかかってしまいそうだ。そもそも台東新站自体が遺跡の一部を崩して建てられたのだからすぐ隣のはずなのに、略地図通りに行くと明らかに遠回りである。本当にこの道でいいのか? 焦り始める。途中、台湾人観光客の車がとまって道を尋ねられたが、「対不起、我不会説漢語」。私自身、迷子になりかけているわけで、気持ちに余裕がない。しばらくしてようやく台東新站近くまでたどり着いた。卑南文化公園方面に続く裏道があり、そのすぐ向うには先ほど行った発掘現場の大屋根が見える。確かにこの裏道を歩けば駅から徒歩10分だろうな。博物館の交通アクセス案内は来館者はみな車で来るという前提で、略地図は車道で描かれている。駅前の露店で釈迦頭を買いたかったが、時間が迫っているので慌てて改札を通過。月台に出て一息ついたら、電光掲示板に10分遅れの表示。どうも間が悪い。

【台東から高雄へ】
・台東17:32発(実際は17:40過ぎ発)→高雄19:40着予定の自強号に乗車。残念ながら通路側の席。ただ、窓が広いので外はそれなりに見える。南廻線は海沿いの路線で、山が海にすぐ迫って断崖に線路を通すのが困難だった区間である。眺望が素晴らしい。私が通ったのは夕暮れ時、海の上の雲があかね色にそまっているのが、胸がすくように美しい。写真に撮りたかったが、窓越しだと車内の明かりが反射してしまってうまくいかない。やがて暗くなってきてから枋寮を通過。以前、恒春に行ったときバスで枋寮まで出てここから各駅停車に乗って高雄まで行ったことがある。枋寮を通過した時点で台湾鉄道一周達成(ただし、台北~高雄間は高速鉄道)。
・20時ちょっと前に高雄に到着。以前に来たことがあるから高雄駅構内の様子は分かる。宿泊先も以前に泊まったことのある京城大飯店、駅北側出口すぐ目の前なので迷わずに直行。荷物を置き、シャワーを浴びてからすぐ外出。
・高雄からMRTに乗って次の美麗島駅で下車。六合夜市へ。今日は土曜日の夜だからだろう、家族連れが続々と向かっている。相変わらず人出がすごいな。ここで夕食を済ませるつもり。貢丸の串焼き。タレで焼いたつくねのような感じで、唐辛子等をふってもらった。のどが渇いたので、甘蔗汁(さとうきびジュース)。屋台の中でしぼっており新鮮、ちょっと土臭い感じもしたが、ほんのり甘みが飲みやすかった。度小月の屋台があったので、味付き卵入りの担仔麺。

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2010年8月14日【国立台湾史前文化博物館、台東市内】

◆8月14日(土)
・ホテル内で朝食を簡単に済ませ、カウンターでチェックアウト。昨晩頼んであったタクシーをちゃんと呼んでくれていたのでスムーズに花蓮駅まで戻ることができた。幸いなことに快晴。朝から暑いのは確かだが、雨に降られることに比べたらはるかに気分が良い。途中、外の風景を眺めていると、崩れかかったようにぼろい瓦葺木造の日本式家屋をところどころで見かける。
・花蓮7:43発→台東10:17着の自強号に乗車。この路線は電化されておらず、ディーゼルカーが客車を引っ張っていく。単線で発車本数は少ない。日本統治期には花蓮・台東間を軽便鉄道が走っていた。戦後になって線路幅が拡幅され、北廻り線として宜蘭方面と、南廻り線として屏東方面とつながり、台湾鉄道一周が完成することになる。中央山脈と海岸沿いの山脈とに挟まれた細長い平野部の花東縦谷を南下。夏らしい雲の浮かぶ青空の下、山あいには木々が生い茂り、平野部に出ると水田が青々と広がっている。時折、白い水鳥も見かける。車窓の風景をぼんやり眺めているだけで心地よい。
・池上駅では列車が駅に着く間際にドア前まで行き、列車が止まるやいなや半身乗り出し、売り子さん(中高生くらいの女の子だった。夏休みのバイトか)に向かって手を振って呼ぶ。100元札を出したら、弁当とおつりの10元玉3枚が入ったビニール袋を手早く渡してくれた。用意がいい。かの有名な池上便當である(写真、写真)。台鉄便當に比べたらはるかにうまい。台湾の駅弁はごはんを敷き詰めた上におかずがぎっしりと並べられており、タレがしみたごはんもおいしい。この近辺は台湾では米どころとして知られているようだ。
・時間通りに台東新車站に到着。市の中心部から離れているため、この駅前には何もない。タクシーを拾い、国立台湾史前文化博物館へ行く。台東の次の康楽という駅の近くらしいが、この路線では列車本数が少ないのであてにならない。車で10分くらい。

【国立台湾史前文化博物館】
・写真が国立台湾史前文化博物館。先史考古学と原住民族研究をメインテーマとした総合博物館である。展示内容は充実している。2時間くらい見て歩いたが、もう少し時間が欲しかった。以下、見ながらとったメモ書きの写し。
・プレート・テクトニクス→蓬莱運動(Penglai Orogeny)→ユーラシア・プレートとフィリピン海プレートとがぶつかり合ったところに花東縦谷。1932年、鹿野忠雄が雪山で氷河の痕跡を発見。サケを例に取ると、10万年~80万年くらい前から台湾での進化の分化が現れている。
・台湾における生態学的研究の先駆者として、スウィンホー、プライス、鹿野忠雄。
・現代における生態系破壊と回復の問題。
・科学的考古学についての概論的解説展示。
・台湾における考古学的研究は日本統治期から始まっている。
・台湾で一番古い人類は左鎮人で2~3万年前。八仙洞遺跡を宋文薫(※この人は確か台北帝国大学出身、国分直一から個人的に薫陶を受けていた人だ。台湾では考古学の第一人者として知られる)、林朝啓が調査→旧石器時代の長濱文化、3万年以上前~5000年前くらい。
・1980年7月、台湾鉄路の南廻り線工事の際に、現在の台東新站のあたり(以前は卑南駅だった)から大量の石棺や副葬品が発見された→宋文薫、連照美など台湾大学調査団により卑南文化の研究。この遺跡群の一部は史前博物館所属の卑南文化公園として整備されている。卑南文化は石造建築、石棺、玉器、遺骨には抜歯の風習(※日本の縄文時代を想起させる)。最も特徴的なのは巨石文化:1897年に鳥居龍蔵、次いで1930年代に鹿野忠雄が記録、1945年の日本の敗戦間際の時期に金関丈夫と国分直一が調査(※この経緯は金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]で読んだ覚えあり)→1980年代に上記の台湾大学調査団→1990年代に史前文化博物館の設立。
・氷河期が終わって海面が上昇し始めた1万年前くらい(※日本考古学で言う縄文海進)に台北盆地には台北湖があった。1897年に発見された圓山貝塚など。大陸から渡来した人々の痕跡:大坌坑文化(6000~5000年くらい前)→芝山巖文化。
・台湾南部では海洋交易、新石器時代、石材を使った文化。
・各民族の特徴を捉えながら原住民族に関する展示。タイヤル(泰雅)族→文身。パイワン(排湾)族→石板建築。アミ(阿美)族→厳格な年齢組織と両性分業。プユマ(卑南)族→年齢により服装が違う。ルカイ(魯凱)族→豊かな自然資源の使い方、貴族(大土地所有)と平民の区別。ヤミ(雅美、タオ:達悟)族→海洋文化。サイシャット(賽夏)族→小人祭。ツォウ(鄒)族→戦祭。ブヌン(布農)族→精霊の観念、キリスト教受容によって文化的変容。
・台湾原住民運動簡史の展示では、多元續紛的族群現象(brilliant tribal phenomenon)として近年の「族群」としての認知を求める動向を紹介。クバラン族(噶瑪蘭族)が2001年、タロコ族(太魯閣族)が2002年、サキザヤ族(撒奇萊雅族)が2007年、セデック族(賽德克族)が2008年に新たに政府から認知された。マイノリティーの存在が公的に認知され始めると、自分たちのルーツの確認をパブリックな空間で主張していく動きが活発化していくアイデンティティ・ポリティクスとして興味深い。

【旧台東駅、旧台東神社、台東市街地】
・帰ろうと思ったが、交通手段がない…。博物館受付にいた人(制服を着ていたので警備会社の人のようだった)にタクシーを呼んでもらうように頼んだ。旧台東駅前まで直行。博物館からだいたい15分くらい。250元。
・現在の台東新站は台東市の中心街から離れている。台東はかつて花蓮と結ぶ路線の終着駅だったが、南廻り路線は旧卑南站(現在の台東新站)から屏東方面へとつながったのに伴い、台東旧駅への路線は盲腸線となり、その後さらに廃線となった。現在、その旧駅が鉄道芸術村として開放されている。家族連れやカップルでそれなりに人出がある。草が生い茂り始めた線路に車輌が置かれている。この廃線駅の風景は日本でもなじみがある感じだ。機関車庫や給水塔も残され、線路跡は遊歩道として整備されている。日治時期防空壕というのも見かけた。コンクリ造でがっちりしたもの。以前、花蓮でも旧駅近くで、宜蘭では市役所前で防空壕を見かけたから、戦時中、主要施設近くに集中して造営したのか。
・旧台東駅近くにある鯉魚山へ行く。旧台東神社跡は現在、忠烈祠である。石段はいかにも神社らしい。境内で老人たちが集まってカラオケや象棋に興じているのは台湾ではよく見かける光景だ。隣の寺廟には塔があって台東市内を一望できそうだったが、前でお香をたいて鉦太鼓をたたきながら儀式をしていたので、それを遠巻きに見てから山を降りた。
・市内に戻る途中に誠品書店があったのでちょっとのぞく。こぢんまりとしていたが垢抜けた雰囲気は誠品書店らしいな。
・旧駅近くには古くて今にも崩れそうな瓦葺木造建築をちらほら見かける。日本統治期の日本人住宅だろう。花蓮、台東など台湾東岸の町には漢族系がもともと少なく、日本統治期には日本人居住者のパーセンテージがかなり高かったらしい。戦後も東岸部の開発は遅れていたので当時の家屋がそのまま残されてきたということだろう。大半はもう居住者がおらず(おそらく立ち退いたか)、近いうちに再開発のため崩されるのだろう。
・台東観光夜市の表示がある街路。写真の向うに見えるのは日本式家屋で、人が住んでいる様子。持参したガイドブックを見ると、この街路は水果街となっており、その名の通りに果物を売るお店が並んでいる。ただし、あまり人はおらず、3分の1くらいのお店はしまっている。このうだるような暑さ、本番はやはり夜なのだろう。釈迦頭はちょっと食べてみたいと思ったが、新駅前でばら売りしていたのを思い出し、帰りの列車の中で食べようと楽しみは残しておく(ところが、後述するように、列車発車時刻間際に駅にたどり着き、水果売りの屋台の前を通りかかったときに声をかけたら、基本は箱詰め売りで(配送用にクロネコヤマトの宅急便の緑の旗がかかっている)「ばら売り用の釈迦頭はもう良いのがないから他のお店をあたって」と言われ、時間がないので買わずにホームに駆け込み、結局、食わずじまい…)。
・天后宮に行ったら工事中。門前で写真を撮ってすぐ退散。市内をぶらぶら歩きながら旧駅前のバスターミナルへと向かうが、何もない町だな。日本のさびれた地方県庁所在地を思い浮かべる。バスターミナル前でタクシーを拾い、台東新站近くの卑南文化公園へと向かう。

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2010年8月13日【台北→花蓮】

◆8月13日(金)
・成田国際空港9:40発のチャイナエアライン107で出発。京成のスカイアクセスだと日暮里から成田まで30分ほど。だいぶ楽になった。
・現地時間12:30頃に桃園国際空港に到着。今回の荷物は大型リュック一つだけなので機内持ち込み、荷物待ちの時間不要。すぐにエアポートバスに乗って台北車站まで。台鉄の窓口に行って14:30発花蓮行き自強号の切符を買おうとしたら、確保できず。結局、夕方16:52発の莒光号。太魯閣号に比べてとろいから花蓮到着予定は20:30頃(さらに遅れた)。週末は観光で行く人が多いようだ。
・中途半端に時間があまった。とりあえずMRTに乗って忠孝復興駅で下車、太平洋SOGO10階のジュンク堂書店へ行く。フロアの半分が書店エリアで、そのうち4分の3ほどが日文専門のジュンク堂書店、4分の1ほどが中文専門の金石堂書店。中途半端な時間だからか、客入りはそれほどでもなかった。棚の雰囲気といい、店員さんの緑エプロンといい、日本のジュンク堂と全く同じ。微風広場の紀伊国屋書店の日文書の品揃えはたいしたことないから、台湾で日文書が欲しい人には重宝するだろう。
・鼎泰豊でも行こうと思ってMRT忠孝敦化駅で下車。ところが、14:30でいったん休憩時間に入って、再開は16:00との表示。時計を見ると14:40である。仕方ないから歩いて誠品書店忠孝敦化店へ。途中、台南担仔麺の度小月の支店を見かけた。それから、交差点待ちしていたら、時報出版の車が通りかかった。車体には村上春樹『1Q84』の広告。時報出版の売れ筋なのか。誠品書店でぶらぶらとチェック。荷物が重くなるから買わない。
・台北車站まで戻る。まだ時間があるので2階のショッピング街へ初めて上った。屋台式のビュッフェで牛肉麺を食べた。どうでもいいが、日本系の店が多いな。台隆手創館(東急ハンズ)、無印良品、そして大戸屋。
・長距離列車にはやはりお弁当! 台鉄弁当で養生素食燉飯を買った。まだ時間が微妙にあるのでベンチに座って食べ始めたのだが、牛肉麺を食べたばかりなので、あまり味わうような腹加減ではなかった。
・16:52発の莒光号に乗車。17:40頃に瑞芳に停車したら、ホームは台北方面の列車を待つ人たちで混雑していた。瑞芳を過ぎてからは渓谷沿いの路線。ローカル路線の醍醐味が味わえる山あいの風景だ。夕暮れ時の山野にほんのりあかね色が混じる色合いは本当にきれい。雙渓で自強号に追い越された。宜蘭平野に入る頃には暗くなって街の明かりの他には何も見えず。先日DVDで見た「練習曲」という映画に出てきた漢本(Hanben)駅は気づかないうちに通過してしまった。映画では主人公がリトアニア人女性と出会ったシーン。海がすぐそばに迫る風光明媚な駅として鉄道ファンには有名らしい。漢本という名前は日本統治期の「半分」に由来するそうだ。
・花蓮駅には21時頃に到着。明日乗る予定の花蓮発→台東行の自強号の切符を買ってから駅前でタクシーを拾い、予約してあった統帥大飯店へ行く。大きめのホテルで部屋はなかなか良かった。ホテル内では原住民族、おそらくアミ族を意識したデザインが目立つ。タロコ峡谷観光に行く人たちが多く利用するのだろう。私自身は花蓮に来たのは今回で2度目なのだが、いずれもタロコには行かず。前回は花蓮市内を歩き回って日本統治期の古い建物探し、今回は明日の7:48発の列車ですぐ発たなければならない。せめて花蓮の夜市でもぶらぶらしてみたかったが、宿舎に着いた時点ですでに22時近くだったので、外に出る気力がなくなっていた。
・テレビをつけた。映画版「銀河鉄道999」をやっていると思ったらNHK・BSか。つい見てしまった。チャカチャカとチャンネルをかえながら台湾のニュース番組を見ていたら、高雄県長の楊秋興の話題。今年の統一地方選挙の際、近隣と合併して新たに誕生する特別行政区の大高雄市長選挙では民進党の勝利が確実視されていたが、党内予備選で現職の陳菊に敗れた楊が無所属で立候補を表明、場合によっては国民党とも組むような素振りをちらつかせて高雄市政・県政の政局が混乱しているらしい。それから、高雄の観光名所、情人碼頭の話題。経費節減で管理が行き届かず、ゴミは散らかるし、海に落ちて死んだ人も相次いでいるという。

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