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2010年8月1日 - 2010年8月7日

2010年8月 6日 (金)

日本順益台湾原住民研究会編『台湾原住民研究への招待』、山本春樹・黄智慧・パスヤ・ポイツォヌ・下村作次郎編『台湾原住民族の現在』

 日本での台湾原住民族への関心は大きく分けて次の二つがあると言えるだろうか。第一に、霧社事件や高砂義勇隊など日本の帝国主義的権力との葛藤に焦点を合わせた歴史学的な関心。第二に、文化人類学的な関心で、揺籃期にあった日本の民族学・文化人類学的研究にとって台湾は貴重なテストケースになった。日本の領台直後の1896年に来訪した鳥居龍蔵をはじめ、伊能嘉矩、森丑之助、鹿野忠雄、台北帝国大学土俗人種学教室の移川子之蔵、宮本延人、馬淵東一、言語学教室の小川尚義、浅井惠倫、『民俗台湾』の金関丈夫、国分直一などによる研究蓄積は、戦後の台湾における研究に引き継がれた(台北の南天書局から復刻版が色々と出ている)。

 前者の歴史学的研究や聞き取り調査は、日本の戦争責任をどのように捉えるかという議論との関わりで、一般的な読者層にも比較的読まれている。これに対して、後者の民族学的研究については、戦後も引き続き一定の研究蓄積があるものの大半が専門的な学術論文であるため、一般読者層にとって必ずしもなじみやすいものではない。

 そうした中で、日本順益台湾原住民研究会編『台湾原住民研究への招待』(風響社、1998年)は、研究入門という形ではあるが専門外の一般読者にも読みやすい構成で良い本だと思う。この分野の専門家が揃って分担執筆、研究史的背景や各民族の文化的特徴について過不足なくまとめられ、本論ばかりでなく研究者自身のフィールドワーク体験をつづったエッセイが興味深い取っ掛かりとなる。(そう言えば、台北の順益台湾原住民博物館にはまだ足を運んだことがなかった。)

 山本春樹・黄智慧・パスヤ・ポイツォヌ・下村作次郎編『台湾原住民族の現在』(草風館、2004年)は、民族学ばかりでなく様々なジャンルの執筆者が集まり、とりわけ原住民出身研究者も参加した専門的論文集。草風館で翻訳出版された台湾原住民作家の文学選集との関連のようだ。1980年代末からの民主化・言論自由化に伴って原住民族側からの発言も活発となり、憲法上も1994年には「山地同胞」→「原住民」と正式名称変更、1997年には多文化主義が明記され、1996年には政府機関として行政院原住民委員会も発足している。こうした情勢を受けて、多文化主義という枠組みの中で原住民族各自のアイデンティティーをどのように保障していくか、その際にどのような問題があるのかを検討していく論考が前半部のテーマとなっている。後半部には歴史学的・民族学的論考が並ぶが、紙村徹「なぜ牡丹社民は琉球漂流民を殺害したのか?:牡丹社事件序曲の歴史人類学的素描」に興味を持った。パイワン族が琉球漂流民を虐殺したのは、「野蛮」だったからだというのは説明になっておらず、彼らの内在的な動機を探ろうとする問題意識が示されている。

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2010年8月 5日 (木)

【映画】「練習曲」

「練習曲」

 大学卒業を間近に控えて台湾一周の自転車旅行に出かけた青年(東明相:イーストン・ドン)。難聴の障害を抱えた彼だが、重そうに背負った荷物の中にギターがある。いざ弾こうと思ったとき、弦が切れてしまっていた。「壊れてたって、好きなように弾けばいいんだ」と声をかけられるシーンがあった。ハンディがあっても、壁にぶつかっても、自分なりの切り抜け方があるはずだという意味合いが込められているのか。道中に出会った人たちから励まされ、助けられながらペダルをこぎ続けていく中で、自らの人生を見つめなおしていくロード・ムービー。

 通り過ぎる風景の何気ない一瞬、一瞬が丁寧に写し撮られていく映像が実に穏やかで、心なごむように美しい。南国の穏やかさが、道中のたまたまの出会いや人情と静かにうまく溶け込んでいるので、観ながら、青年の胸中にわきおける気持ちに自然と感情移入していける。

 家に泊めてくれた青年の母親への反抗。ローカル駅で出会ったリトアニア人女性。退任間際の小学校の先生から聞いた生徒の障害児の話。工場主が中国進出して失業したため抗議活動中のにぎやかなおばさんたち。一緒に落書きして逃げたアーティスト。お互い様だと言って自転車を直してくれた同様にツーリング中の先達の話。そして、青年の障害を気遣う祖父と共に出席する祭礼(この人は最近観た「トロッコ」にも出てきたおじいさんだ)。何らかの寓意を読み取れそうなエピソードが映画のあちこちに散りばめられているが、それを並べて書き立てても野暮というものだろう。

 一つだけ言うと、台湾アイデンティティーの複合性が、ちょっとしたニュアンス程度のものにしても、映画の背景に込められているのが見えてくるところに関心を持った。日本の植民地統治期における「サヨンの鐘」(莎韻之鐘)の話が紹介されたり、大陸出身の人形作りの老人の話に耳を傾けたり。特に論評を加えることもなく淡々と映画の中に組み込まれている。そういった何やかやも、青年自身の葛藤も、すべてがこの台湾の美しい風土の中に包み込まれている。

 難しいことなど考えず、ただこの穏やかで美しい風景の中に青年と一緒に迷い込み、一つ一つの縁に身を委ねるだけでいいのかもしれない。鑑賞後に余韻の残る、なかなか良い映画だった。監督の陳懐恩は侯孝賢映画で撮影監督をしていた人らしい。

【データ】
原題:練習曲/英題:Island Etude
監督・脚本・撮影:陳懐恩(チェン・ホァイエン)
2007年/台湾/108分
(DVDにて)

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小山三郎編著『台湾映画──台湾の歴史・社会を知る窓口』

小山三郎編著『台湾映画──台湾の歴史・社会を知る窓口』(晃洋書房、2008年)

 映画という切り口を通して台湾社会史を考える主旨の論文集。映画ファン向けではなく、あくまでも台湾研究者向けの生真面目な内容である。例えば、映画ファンが興味を持ちそうな1980年代以降の台湾ニューシネマへの言及はほとんどない。具体的内容としては、日本植民地統治下の映画受容(三澤真美恵論文の、台湾人弁士による翻訳・翻案→映画受容という場における「台湾化」という指摘に興味を持った)、大陸における文革に対する国民党政権下の反応(映画「苦恋」をめぐって)、上海・香港からの影響・交流、台湾語映画、映画制作会社、評論・出版、検閲などのテーマの論文が並ぶ。

 映画というテーマを軸にして台湾と日本との関係を考えていく上では、田村志津枝『はじめに映画があった──植民地台湾と日本』(中央公論新社、2000年)が読みやすい。また、戦後台湾における映画作品とその背景との関わり方を知りたい場合には戸張東夫・寥金鳳・陳儒修『台湾映画のすべて』(丸善ブックス、2006年)が参考になる。

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2010年8月 4日 (水)

村上重良『国家神道』、安丸良夫『神々の明治維新──神仏分離と廃仏毀釈』、島薗進『国家神道と日本人』

 実のところ、神道というのが私にはよく分からない。別に批判的というのではなくて、そもそも神社が身近な存在ではないからだ。初詣に行く習慣もない。伊勢や出雲までわざわざ足を運んだこともあるが、自分の生活世界とは全く異質なものを見に行く感覚、ある種のオリエンタリズムとも言うべき視点で見てしまうよそよそしさが私にはある。土着のものでありながら、その土着性そのものが自分にとって異質だという遊離感。近代日本における国家神道というのも、こうした矛盾がある一面においてはらまれていたのかな、という気がしている。

 国家神道についてまず手に取るべき定番は、村上重良『国家神道』(岩波新書、1970年)だろう。批判意識を全面的に打ち出しながら国家神道の全体像を概説的にまとめている。内面的普遍性を志向する創唱宗教とは異なって、神道はもともと共同体祭祀が中心、従って日本民族以外には通用しない原始的な民族宗教であり、国家神道はこれを素材にして国民支配のためのイデオロギーへと仕立て上げた、という視点である。惟神の道→無思想→政治的な必要に応じて恣意的な内容を盛り込める。個人としての内面的契機を欠いており近代社会には相容れないとする問題意識は、戦後アカデミズムの思潮と足並みをそろえている。

 明治における国家神道の形成は、日本を一つの国家としてまとめ上げるため国民に国体イデオロギーを内面化させるという政治的要請と軌を一にするものであった。そのために在来の宗教生活が再編成を余儀なくされていく過程については、安丸良夫『神々の明治維新──神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、1979年)で描かれている。

 島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)は、村上書を批判的に受け継ぎながら議論を展開していく。私が関心を持ったポイントは、第一に、下からの国家神道という論点。伝統的な皇室祭祀はひっそりとしたものであった。ところが、明治維新後の皇室祭祀は祝祭日の制定、学校行事、マスコミ報道などを通して国民生活のリズムと直接結び付いた。国家儀礼を通した畏敬や愛着によって強い統合力が生み出されるという宗教形態は近代的な新しいものである。村上書が上からの支配のイデオロギーとして作用した面を強調したのに対し、島薗書では、上からばかりでなくこのようにいわば下からの国民運動としての性格も同時に持っていたところに国家神道の特徴を見出している。

 第二に関心を持ったのは、国家神道と他宗教との分業という論点。神道は宗教ではないという戦前の論理は現在の我々にはいまいち分かりづらいが(制度的には、神道は内務省神祇局が、他の宗教は文部省が所管)、国家神道は形式としての祭祀が中心であって、内面的な苦悩を救済するに足るだけの実存的拠り所は持っていない(→公)。そのため、他の宗教にそうした実存的問題を任せる(→私)という二重構造。ところが、そうした分業の一方で、靖国神社(陸海軍が所管)は若い兵士たちの戦死というまさしく実存的苦悩に関わったため、国家神道の中でも独特な位置を占めた。

 村上書ではGHQの神道指令によってこの前近代的宗教形態は解体されたと捉えていたが、国家神道の中心に位置していた天皇には何ら手がつけられていない、その点で国家神道は実は消えていないと島薗書は指摘する。神道は自然宗教だとされる一方で、この国家神道の見えづらさのため議論が混乱しているという問題意識が示されている。

(なお、最近の神道では、例えば鎌田東二のスピリチュアリティとしての神道などもあるが、これは国家神道とは全く別物だ。こういうところでも私には神道の捉えどころがよく分からず、混乱している。)

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2010年8月 3日 (火)

【映画】「Tattoo──刺青」

「Tattoo──刺青」

 ネット上でチャットのぞき部屋のバイトをしている女子高生のジェイド(レイニー・ヤン:楊丞琳)は、刺青をしたいと思い入った店で、幼い頃に憧れていた「初恋」の女性、竹子(イザベラ・リョン:梁洛施)と再会した。ネット上ではしゃぐジェイドの姿は一見、軽佻浮薄にも見えるが、心の中にぽっかりあいた空虚感を満たそうにも軸足が定まらないという感じを受ける。そして、竹子が悔恨を刻み付けるかのように腕に彫った彼岸花の刺青。次第に求め合うようになる二人の同性愛関係を通して見えてくる過去のトラウマは、1999年の台湾大地震までさかのぼる。

 刺青の持つおどろおどろしい形相は、空虚な内面を覆い隠すこけおどしになる。他方で、刺青を彫る痛みは、忘れがたい何かを心の深くまで刻み付ける。思春期の最中にあるジェイドの葛藤は、この両方の間で揺れ動く心情を表していると言えるのか。レイニー・ヤンのあどけない顔立ちに浮かぶ、ガキっぽかったり、時にエロティックだったり、喜怒哀楽様々にうつろう表情の変化が見所かな。レズビアン映画という位置付けらしいが、そっちの方には興味ないな。刺青について日本人の師匠が重々しく語るシーンがあるが、日本では高尚な芸術であるかのような理解なのか。

【データ】
原題:刺青/英題:Spider Lilies
監督・脚本:ゼロ・チョウ(周美玲)
2007年/台湾/97分
(DVDにて)

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2010年8月 2日 (月)

金賛汀『在日、激動の百年』『韓国併合百年と「在日」』

金賛汀『在日、激動の百年』(朝日選書、2004年)、『韓国併合百年と「在日」』(新潮選書、2010年)

 どちらも内容的にほぼ同じだが、後者の方がやや詳しいようだ。在日朝鮮人をテーマとして、日本による韓国併合から現在に至るまでのバランスのとれた通史というのが意外と見当たらないので、両書とも良い手引きとなる。

 戦前、留学生や労働者として日本への移入が始まり、1922年12月には日本渡航の自由化。戦時の強制的動員や貧困の中での苛酷な境遇。日本の敗戦直後、引き揚げ時の混乱、この時に約200万人いた在日朝鮮人は1946年末までにおよそ140万人が帰国したという。在日朝鮮人の法的地位は、「帝国臣民」→1945年に「解放国民」→治安対策として暫定的に「日本国籍保有者」→1952年の対日講和条約の発効と同時に「外国人」と変転。在日朝鮮人組織の変遷も分かりづらいが、一大組織として在日本朝鮮人連盟(朝連)が成立した、そして左右対立、親日派の存在などで紛糾、右派は民団を立ち上げた。朴烈が民族主義的無政府主義から反共の立場をとり、民団の団長になったというのは初めて知った。1955年には朝鮮総連が成立。当初は日本共産党との連携も持っていたが、朝鮮総連の拠って立つ金日成主義は共産主義とは全く異質な宗教的思想だと本書は捉える。総連、民団とも本国志向が強くて在日の問題を軽視、在日の定住志向が強まる中、権利擁護の運動をおこしたのは在日の中でも無党派的な人たちだと指摘。日本社会内での差別が薄まると同時に、民族意識も薄まっており、民族的アイデンティティーを保ちながらいかに日本社会と共生していくかという問題意識が示される。

 些細なことだが、メモ。朝鮮半島では選挙は実施されなかったが、日本本土にいる場合には一応「帝国臣民」として選挙権があった。戦前の衆議院議員当選者の名簿などを見ていて目についたことのある朴春琴。この人については小熊英二が書いていたようにも記憶している。東京深川で朝鮮人居住のバラック強制立ち退きの圧力を受けたとき、朝鮮人代議士としての朴春琴に陳情に行ったところ厄介払いされてしまい(彼は右翼とつるんでいた)、そこで同じ選挙区の浅沼稲次郎に陳情したところ一生懸命に対応してくれた。そのため、次の総選挙では朝鮮人票が浅沼に流れて朴春琴は落選したという。

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2010年8月 1日 (日)

金賛汀『朝鮮総連』『将軍様の錬金術──朝銀破綻と総連ダークマネー』、朴斗鎮『朝鮮総連──その虚像と実像』

 金賛汀『朝鮮総連』(新潮新書、2004年)、朴斗鎮『朝鮮総連──その虚像と実像』(中公新書ラクレ、2008年)は、共に著者自身がかつて朝鮮総連内部にいて感じた疑問をもとにその問題点を指摘する。本来、日本社会におけるマイノリティーとして弱い立場にあった在日朝鮮人の権利擁護のための組織であったにもかかわらず、北朝鮮で金日成独裁体制が確立するのに伴って総連自体も同様に非民主的な政治工作機関へと変質、総連加盟者の権利を守るどころか、逆に彼らの忠誠心を利用、搾取していく矛盾へと転落していく経緯が描かれている。在日の人々の定住志向に対して朝鮮総連は本国政府との結びつきだけで活動方針を決めてしまうズレによって、民族的アイデンティティーを保持しながら日本社会と共生していこうという在日の人々の要望に応えられなくなっている問題が指摘される。

 北朝鮮帰還事業で、出迎えた北朝鮮側と裕福な身なりをした帰国者との双方に大きな驚きにがあったこと、双方の思惑のすれ違いついて今ではよく知られている。このとき、北朝鮮は在日朝鮮人の経済的利用価値を見出し、愛国事業という名分で朝鮮総連を通して帰国者のさらなる掘り起こしや、すでに帰国した人を「人質」にしてまだ日本にいる親族へ献金を強要するなどの圧力を加えてきた。金賛汀『将軍様の錬金術──朝銀破綻と総連ダークマネー』(新潮新書、2009年)は、そうした具体例として朝銀が朝鮮総連を通して圧力のもと北朝鮮への集金マシンへと変貌していく経緯を描いている。もともと、日本の一般銀行から融資を受けられない在日朝鮮人の零細事業者にとって朝銀は不可欠な金融機関であり、生活習慣を熟知しているので柔軟なフォローもしてくれた。ところが、北朝鮮経済の破綻から集金圧力が強まる中、朝鮮総連関連の事業(パチンコ店直営、不動産投機)に不透明な形で膨大な融資を行い、健全経営を目指して拒んだ地方の朝銀理事長などは辞任を余儀なくされた。行き先の不明の金額は、当然ながら北朝鮮に渡ったことが推察される。こうした矛盾がバブル崩壊を契機に顕在化して破綻、公的資金導入によって朝鮮総連との関係は完全に絶たれる。北朝鮮は有力な金づるを失ったわけだが、何よりも困惑したのはこうした動きの埒外にあった一般の在日の事業者である。

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【映画】「遠い道のり」

「遠い道のり」

 ユン(桂錀鎂:グイ・ルンメイ)が引っ越したばかりの新居にたびたび届く封筒。前の住人宛だが、気になって開封してみると、入っていたのはカセットテープ。「Formosa(台湾)の音」というラベルが貼られている。社内不倫に嫌気がさしていたユンは、ふと思い立ってこの音が録音された場所を探しに行く。そして、このテープを送り続けている録音技師の青年。どこか破綻した精神科医。大都会・台北の生活に疲れた男女、それぞれ互いに見知らぬ彼ら三人の旅路は、自然豊かな台湾東岸の町・台東で交錯する。

 台東付近の海や森が美しい。都市生活の疲れや気だるさから逃れるように「癒し」を求める人々が風光明媚な田舎の温もりを求めてさまようという筋立ては、都市化の進んだ先進国(台湾も含めて)ではありふれたもので、この作品もストーリー的にそれほど深みを感じさせるわけではない。ただ、「音」という道具立ては面白い(韓国のホ・ジノ監督「春の日は過ぎゆく」を思い浮かべたが)。言葉はなくても、他人同士でも、音を通してつながり合えるという意味合いか。

 私が関心を持ったのは以下の点。第一に、このように「都市」的感覚を全面に打ち出した映画が台湾では普通になっていること。第二に、その「都市」的感覚の不自然さを対照的に際立たせる道具立てとして原住民族が取り上げられていること。彼らの歌や踊りはフレンドリーな「素朴さ」の演出だ。「都市」目線の原住民族像である。第三に、映画のモチーフとなっている「Formosa(台湾)の音」→台湾の風土をもう一度見直して感じ取ろうという趣旨と受け取れる。郷土としての台湾意識は、20年以上前なら公定史観としての中華意識とぶつかりかねない微妙なものであったらしいが、現在ではこうした「癒し」系映画でも政治的な硬さもなくごく当たり前な前提としてなじんでいることは、時代がだいぶ変わったのだなあと感じさせる。

 主演のグイ・ルンメイは「藍色夏恋」に出ていた娘だったのか。気づかなかった。

【データ】
原題:最遥遠的距離/英題:Most Distant Course
監督:林靖傑
2007年/台湾/113分
(DVDにて)

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