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2010年7月25日 - 2010年7月31日

2010年7月31日 (土)

台湾原住民族の独立論

『現代台湾研究』第35号(台湾史研究会、2009年3月)の「台湾原住民の現在を考える」というシンポジウム記録に目を通していたら、冒頭の基調講演はマサ・トホイ(瑪莎・拓輝、Masa Tohui) アタヤル族民族議会議長による「泰耶爾民族議会と台湾原住民の自治」というテーマ。原住民族独立論としてこういうロジックがあり得るのか、と興味を持ったのでメモ。ちなみに、アタヤルは日本ではタイヤルとも言う。

・アタヤルは清朝期において「化外の民」、すなわち清朝の臣民ではなかった→下関条約による台湾割譲にアタヤルは含まれない→アタヤルの領土は「蕃地」としてアタヤル自身の主権の下にあった。
・日本はアタヤルの領土奪取を目的として理蕃戦争を仕掛け、これはアタヤルにとっては日本から領土を守る戦争→長い攻防戦の末、日本側と講和を結んだ。
・日本は敗戦で植民地放棄→本来、アタヤルの領土(=「蕃地」)の主権はアタヤル自身に返還されるべきだったはずなのに、蒋介石たちが台湾に逃げ込んでアタヤルの領土を無断で領有→この植民地状態がその後も続いた。
・国連憲章で保障された民族自決の主旨に従って土地と主権の返還を求める。オセアニア諸島諸族の前例を参考にする。

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田中修『検証 現代中国の経済政策決定』

田中修『検証 現代中国の経済政策決定』(日本経済新聞出版社、2007年)

・中国の経済的・社会的諸問題(三農問題をはじめ社会的格差、経済のアンバランス、エネルギー・資源不足、等々)を踏まえ、江沢民‐朱鎔基指導部や胡錦濤‐温家宝指導部の経済政策(1996~2006年)について、党中央・政府公表文件の丹念な解読を通して全体的に概観。その上で経済政策の問題点について分析・提言。以下、関心を持った点だけ適当に箇条書きメモ。
・五カ年計画→財政政策の方向性を拘束するので景気安定化に役立たない。
・朱鎔基は中央政府ではリストラを断行したが、地方政府改革までは及ばず。県以下の財政制度未確立。三農問題や社会保障・教育・衛生の問題に取り組むのは行政末端レベル(郷鎮・村)だが、こうした末端部では財政的裏づけが乏しい→末端地方政府レベルでの農民収奪にもつながる。
・社会的公正や経済活動保障のため法治へ向けた努力。中国に民法典はない。2007年、物権法制定→政府による土地収用衝動を抑制し、農民の権利整備。ただし、「公共の利益」という留保→恣意的運用の可能性が大きい。それから、市場経済の正常な運営のためには独占禁止法の制定も必要。
・金融体制の改革。重要な金融政策は国務院で決定→中央銀行の機動的対応が困難。
・累進型の個人所得税→11の所得分類ごとに税率が異なり、中国では副収入も多いため、所得の全貌把握は困難。都市住民には給与所得控除があるので低所得層は税負担軽減、他方で農民の場合、農業税(2006年に廃止)には控除制度がない上に、末端地方政府が様々な名目で費用負担。
・所得再配分のための租税、中央から地方への財政移転、社会保障のいずれにおいても不備→都市・農村、東部・中西部、都市内部の経済格差が拡大した。所得再配分機能強化策として、個人所得税の改革や相続税・贈与税導入の必要。
・中央‐地方政府間の権限調整問題。
・農業税廃止→末端地方政府の財源不足→義務教育は末端政府の責任とされているため、教育が行き渡らず労働力の質が低くなってしまう→巨大な雇用のミスマッチが生ずる可能性。
・1992年、鄧小平の「南巡講話」で「先富論」→江沢民指導部(上海閥)はこの「先富論」優先、農村部への配慮なし。
・漸進主義的改革:経済成長のパイをうまく配分して既得権益層をなだめながら改革を進める→パイの成長が鈍化すると利害調整困難→朱鎔基の改革不徹底。
・胡錦濤指導部には貧富の格差の拡大→社会停滞という危機感。経済成長方式の質をいかに切り換えて、「先富」から「共同富裕」へと向かうか→抜本的な所得再配分政策を実現させない限り無理。調和や持続可能性を謳い上げつつも、同時に経済高成長路線を絶対条件とする二面性の困難。

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2010年7月30日 (金)

高橋五郎『農民も土も水も悲惨な中国農業』、温鉄軍『中国にとって、農業・農村問題とは何か?──〈三農問題〉と中国の経済・社会構造』

高橋五郎『農民も土も水も悲惨な中国農業』(朝日新書、2009年)
・農業竜頭企業(リーディング・カンパニー)が土地を買収し、農民を安く雇用→農民は自分の仕事に愛着を持てない、耕していくモチベーションがない→目先の利益優先、無責任が当たり前。
・肥料や農薬の問題→技術的な知識がなかったり、文字が読めなかったり→教育の問題。
・日本は食料自給がほとんど困難であり、かつ加工品リスクを考えると、輸入元である中国農業の問題は他人事ではない。中国の農業現場の考察は、さらに市場や流通、環境、教育、都市と農村との格差など中国社会の様々な諸相へとつながってくる。

温鉄軍(丸川哲史訳)『中国にとって、農業・農村問題とは何か?──〈三農問題〉と中国の経済・社会構造』(作品社、2010年)
・三農問題とは、農民(低収入、都市/農村の格差、社会保障が実質的になし)、農村(出稼ぎ、社会資本開発の遅れで荒廃)、農業(生産性が低い→低収入)の三つの問題を指し、著者の温鉄軍の提唱により広く普及した概念。
・分厚くて内容的にも必ずしも読みやすい本ではないので、巻末に収録されている著者インタビューから読み始めるのがいいだろう。
・中国農村をめぐる現代経済史を振り返る:朝鮮戦争のため工業化が不可避となった→1950年代からの社会主義建設は実質的に国家資本主義=政府会社主義→中央集権的な動員政策によって原初的蓄積(政府がイデオロギー管理によって労働者から剰余価値を収受)。
・ところが、1970年代以降の改革において政府は経済効率の悪い農業から撤退、言い換えると農民に対する社会的責任を放棄した→都市と農村の二元構造が出現したと捉える。
・近年の「改革」は西側の理論モデルを導入しようとしているが、それは中国社会のリアルな実態に適合しないという問題意識。
・ラテンアメリカ、インドなどの発展途上国との比較考察。

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【映画】「午後3時の初恋」

「午後3時の初恋」

 台湾の青春映画。親しい人への記憶、それが失われていくことの切なさをテーマとしたラブストーリー。飲んだくれの父を尻目に一人で時計店を切り盛りしている青青(郭碧婷)。ある日、水にぬれた時計を修理して欲しいという青年が訪ねてきた。彼は高校の同級生だったという。周囲に関心のなかった青青に覚えはないが、彼は彼女のことをよく知っていた。午後3時きっかりにやって来る無口で生真面目な彼のことが気になり始めるが、少し様子がおかしい。やがて彼が二重人格者であることを知る。その人格分裂は高校生の頃のある出来事がきっかけらしい──。

 舞台となっている古びた街並みは台北郊外の菁桐だろう。商店街のすぐ店先を平渓線のローカルな車輌が通り過ぎていく光景、それを取り巻く瑞々しい緑。行ったことがあるので、すぐに分かった。最近では霍建起監督「台北に舞う雪」もここを舞台にしていた。映画撮影に人気のスポットなのか。それから、病院玄関のシーンは侯孝賢監督「悲情城市」にも出てきた建物ではないか。ヒロイン青青役の郭碧婷は台湾ではモデルとして有名らしい。ストーリーはともかく、ノスタルジー漂う街並みに美少女という取り合わせはすごく好きだなあ。青年役の張孝全(ジョセフ・チャン)は「花蓮の夏」に出ていたのを覚えている。

【データ】
原題:沉睡的青春
監督:鄭芬芬
2007年/台湾/92分
(DVDにて)

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2010年7月29日 (木)

フリードリヒ・マイネッケ『ドイツの悲劇』

フリードリヒ・マイネッケ(矢田俊隆訳)『ドイツの悲劇』(中公文庫、1974年)

・1946年、敗戦後の混乱のただ中にあったドイツ、すでに齢八十を越えた老歴史家マイネッケがドイツ現代史を振り返り、その痛恨の反省を通して次なる時代への指針を示そうとした書。大衆社会批判が基調。
・「近代の文化と文明に浴している人間にとっての重大な問題は、精神生活における合理的な力と非合理的な力のあいだの健全な、自然な、そして調和的な関係である。なぜなら、まさにこの近代の文化と文明こそ、それのもつ特性によって、この均衡を脅かしているからである。」(62ページ)
・知性乏しき専門分化。「…大学でりっぱな専門教育をうけてきた技術家、技師等々は、十年ないし十五年間は自己の職業にまったく献身的に専念し、脇目もふらずにひたすら有能な専門家になろうとする場合が、現在非常に多い。やがてしかし、三十代の中ごろないし終わりころになると、かれらが以前にはけっして知らなかったあるもの、かれらが職業教育をうけたさいにもかれらにはまったく近づかなかったもの──おさえつけられた形而上学的要求と呼んでもよいもの──が、かれらのなかで目をさます。そしていまやかれらは、なにかある特殊な精神的な仕事に、すなわち、国民のあるいは個人の幸福にとってとくに重要であると自分には思われるところの、ちょうど流行しているなにかある事柄に──それは禁酒論でも、土地改革でも、優生学でも、神秘学でもよい──はげしい食欲をもって身を投ずる。そのとき、従来の分別ある専門家は、一種の予言者に、熱狂家に、あるいはそれどころか狂信家や偏執狂に変化する。」「ここにわれわれは、知性の一面的な訓練は、しばしば分業的な技術に導くこと、またかえりみられなかった非合理的な心の衝動にとつぜん反作用をおこさせるおそれがあること、だがしかし、批判的な規律や創造的な内面性をそなえた真の調和をもたらすのではなく、いまや荒々しくかつ際限なく広がるあらたな一面性に導くことを、知るのである。」(65~66ページ)
・ヒトラー的人間性の転位は「合理的な力と非合理的な力のあいだの心的均衡の狂いとしてとらえることもできる。一方では計算する知性が、他方では権力、富、安全等々にたいする形而下的な欲求が、過度に押し出され、行動する意志は、そのために危険な領域に追いやられた。技術的に算出されつくられるものは、それが権力と富をもたらす場合には、正当と認められるように思われた。──いやそれどころか、それが自民族に役立つ場合には、倫理的にも正当であるようにも思われた。」(88ページ)
・旧体制における国家理性やマキャヴェリズムは少数者の貴族的な秘密に守られていた。ところが、現代において政治はもはや少数者のものではない。「ヒトラー的人間性のなかのマキアヴェリ的、無道徳的な要素は、どこまでもヒトラー的人間性だけに限られていたわけではなく、西洋が、没落にせよ変形にせよ、とにかく新しい生活形態に移ってゆく巨大な過程にみられる、一般的な酵素の一つでもあったのである」(91ページ)→大衆マキャヴェリズム。

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【映画】「パコと魔法の絵本」

「パコと魔法の絵本」

 一癖も二癖もある変な患者ばかり集まった病院が舞台。自分一人で事業を成功させたという自負心、その裏返しとしての狷介さで嫌われ者の老人、大貫(役所広司)。そんな彼が、記憶が一日しかもたない少女パコ(アヤカ・ウィルソン)と出会い、彼女に何か思い出を残してやりたいと思って病院のみんなで劇をやろうと提案する。3Dアニメも交えたファンタジーだが、微妙に毒のあるおふざけテイストは子供向きではない。中島哲也監督のこのノリは結構嫌いじゃない。役所広司のメイクはマクベスやってる平幹二郎みたいだな。

【データ】
監督・脚本:中島哲也
2008年/105分
(DVDにて)

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2010年7月28日 (水)

若林正丈編『ポスト民主化期の台湾政治──陳水扁政権の8年』

若林正丈編『ポスト民主化期の台湾政治──陳水扁政権の8年』(アジア経済研究所、2010年)

・国民党からの政権交代を実現させた陳水扁の民進党政権。彼の総統当選そのものが台湾民主化の成果とも言える一方で、立法院では少数派であるため政権運営の困難が予想された。多数派形成・再選戦術として台湾ナショナリズムを煽って藍・緑対立を激化させたことや政権後半期の汚職疑惑などネガティブな印象も強い。今となっては評判よろしからぬ陳水扁政権だが、その失敗について本書は台湾政治の構造的な問題として捉えていく。
・序章「李登輝が残したコンテキスト:ポスト民主化期の「憲政改革」」(若林正丈):民主化への移行は李登輝政権期に終了、ポスト民主化期としての陳水扁政権に残された課題として、「中国憲法」なのか「台湾憲法」なのかという二面性、黒金政治、半大統領制→分割政府(総統・行政院と立法院とのねじれ)の可能性、中台関係の「二国論」などを指摘。
・第1章「陳水扁の政権運営」(小笠原欣幸):陳水扁政権の行き詰まりの背景を分析。①行政と議会とでねじれが生ずる可能性への対処方法がない制度的要因、②党内抗争の激しさや政策立案能力の弱さという民進党の問題、③陳水扁個人のストロングマン志向。これらは事前に予想されていた問題ではあるが、それ以上に地域派閥や人治的要素など台湾土着政治の構造的問題点がある。
・第2章「金権政治の再編と政治腐敗」(松本充豊):台湾の選挙を観察する際に前提となるのは、国民党と民進党との圧倒的な資金格差。財政難の民進党の中にあって、陳水扁は著名な政治スターとして集金力があった→資金を他候補に分配して影響力拡大→他方で金集めのためインフォーマルな手法もとらざるを得なかった。民進党は金融機関との癒着がなかったため金融制度改革に熱心だったが、それは国民党の集金源を絶つという政治目的も動機であった。
・第3章「国民党の政権奪回:馬英九とその選挙戦略」(松本充豊):国民党は野党時代に態勢立て直しに成功→馬英九を総統候補に擁立→中間派選挙民にアピールできた。それは台湾アイデンティティへの接近という形をとった。他方で民進党の謝長廷も穏健路線→中間派取り込みを目指して国民党・民進党共に中道へ。ところが、民進党では陳水扁が強硬路線を打ち出して穏健派の謝長廷の存在感が埋没、中間派も離反して敗因につながった。
・第4章「台湾における多文化主義政治と運動」(張茂桂):民進党政権で原住民、客家の文化的保護政策が進んだ一方で、藍緑対立を煽ったことで外省人との社会的亀裂を生じさせた側面。また、外国人労働者への差別が多文化主義政策の新たな課題として浮上。
・第5章「ポスト民主化期における租税の政治経済学」(佐藤幸人):政界と財界は結びつく傾向があり、それを批判するはずの労働勢力は台湾では弱い。租税政策の形成過程を検討し、財界に対するカウンターパワーとして学者など専門家のプロフェッショナリズムが有効な役割を果したことを指摘。
・第6章「「選挙上手」はどの政党だったのか?:台湾立法院選挙集票構造の分析」(若畑省二):かつての中選挙区制では国民党は候補乱立、スキをぬって民進党候補が当選するケースが目立った。民進党はかつて地域別に得票率にばらつき→近年は全国化の傾向あり。現在の小選挙区制→地域事情よりも、全国的に均質な政党対立構図がこれから中心になるだろう。
・第7章「改善の「機会」は存在したか?:中台対立の構造変化」(松田康博):中国側は民進党政権長期化という見通しを持たず→陳水扁の「融和的政策」に応ずる可能性は最初からなかった。胡錦濤政権の対台湾政策がマキシマリスト・アプローチからミニマリスト・アプローチへと変化→これは陳水扁政権が中道路線から独立路線へと転換したことが誘因となっていた。
・第8章「「最良の関係」から「相互不信」へ:米台関係の激変」(松田康博):陳水扁は選挙戦略として独立志向を強調→米中関係安定を望むアメリカの戦略的利害に反する。他方で、アメリカからの混乱したメッセージを陳水扁政権は利用。アメリカは対中関係を考慮して台湾独立志向を抑え込もうと意図するが、他方で台湾が劣勢に立たされたらテコ入れを図る。アメリカは現状維持を軸として中台間のバランサー的な役割か。
・第9章「国際空間の拡大?:「実体」としての国際参加」(竹内孝之):台湾の国際機関参加の問題を概観。

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2010年7月27日 (火)

ヨハン・ホイジンガ『あしたの蔭りの中で』

ヨハン・ホイジンガ(藤縄千艸訳)『あしたの蔭りの中で』(『ホイジンガ選集2』河出書房新社、1971年)

・1935年にブリュッセルで行われた講演を基にした時論的論考。「あした」はつまりmorgenの文語的訳。訳書としては他に堀越孝一訳『朝の影のなかに』(中央公論社)もある。
・野蛮への歩み、危機を自覚してはいても、歴史の展開は止められないという意識が現代には広まっている。「進歩」の観念の両義性。
・研究の細分化→相互理解の困難。判断力の弱まり、生活の中での知識の消化作用の停滞。思想・芸術における「生の哲学」的発想と社会的思潮との共通性に注目。

・大衆的専制主義と同時に英雄主義的言説の流行。「英雄的なものに対する感嘆は、認識や理解から直接的な体験や経験へのかの大転換──これこそ文化危機の核心ともいうべきものだが──の最も雄弁な徴候である。行為そのものへの讃美、意志への強い刺戟による批判的判断力の麻痺、美しい眩惑による理念の曖昧化、これらすべては、反ノエシス的な生活態度の率直な信奉者にとって、そのまま英雄主義の是認を可能にさせる条件なのである。」(117ページ)
・「宣伝時代は手段の制限を知らない。宣伝は、それぞれの表象に、担うことができるかぎりの暗示をあふれるほどに積み込む。宣伝は、その標語を、独断的な真理として、できるだけ重く、嫌悪と讃美の感情をこめて、公衆に押しつける。合言葉をもつ者、また単に政治的言葉を操る者、たとえば、人種学説、ボルシェヴィズム、あるいはそのようなものを操る者は、犬を打つ棒を所持するのである。今日の政治的ジャーナリズムは、おおかた、犬を打つための棒を商っているのであり、彼らは読者を、至るところで犬の幻影を見る精神錯乱の患者に教育しているのである。」…「反ノエシス的な生の教説には、一つの危険が常に結びついている。理論的理解に対する生の優位は、概念の規範とともに道徳の規範をも放棄することを強制する。もし権威が暴力行為を説くならば、その言葉は暴力的な人たちのものとなる。彼らを阻止するための法律をも、人々は自ら払いのけてしまっている。暴力的な人々は、この原理によって、残酷や非人間性のあらゆる極端さが正当化され公認されているように感じる。英雄的な課題の完遂者として、暴力によって、動物的あるいは生理的な本能を満足させるような連中があまりにも容易に流入してくるのである。」(119~120ページ)
・「判断力の裁定にではなく、むしろ存在や利害の裁定に訴える国家哲学や生の哲学にとっては、スローガンやパレードの無意味なスポーツ競争などを伴う現代の幼稚性の全領域こそが、この哲学を立派に栄えさせ、また、この哲学が奉仕する権力を豊かに成長させる一つの要素なのである。もし、この哲学が念頭においている大衆本能が、純粋な判定の宣告による検査を受けていなくても、何の支障もないのである。しかり、人々は純粋な判断を欲していないのである。なぜなら、それは知的精神の仕事であるはずだから。判断の放棄によって、責任の意識が、献身を促す事柄との感情的癒着へと低下してしまうということは、この哲学の悩みとするところとはならない。」(130ページ)
・「今日の技術的完成と経済的政治的な実行力の砦は、決して私たちの文化を野蛮化から守ってはくれない。なぜならば、これらの手段はすべて、野蛮にもまた奉仕することができるのであるから。これら完全な力に結びついた野蛮は、それだけ強さを増し、それだけ横暴になるのである。」「非常に有益で効果があるが、副作用として文化をそこなおうとしている、特に高い技術的偉業の例は、ラジオである。いかなる人も、この精神的交流の新しい道具のすぐれた価値を少しも疑いはしない。…それにもかかわらず、伝達機関としてのラジオは、日々の機能において多くの点で、思想の伝達という目的には合わない形式への逆行を意味している。このことは、日常的なラジオの使用の周知の災い──つまり無思慮の傾聴、仕事を音と精神の浪費へと低下させるおしゃべりの落ちつきのなさ等──とは関係ない。ラジオは、この避けられぬことはない欠陥は別とすれば、知識受容の遅くて限られた形式である。私たちの時代のテンポにとっては語られる言葉はあまりにも回りくどい。読むことの方が、もっと繊細な文化的機能である。精神は読むことによって、はるかに早く受け入れ、たえず選択し、緊張し、省略し、間をおいて熟慮する。すなわち一分間に一〇〇〇もの精神運動がなされるが、これは聴衆には許されないことである。授業におけるラジオや映画の使用の主張者は、「書かれた言葉の衰微」という標題のもとで、喜びの確信をもって、子供が映像と講演で教育される近い将来を語っている。それは野蛮への強力な歩みになるであろう。青少年から思考を遠ざけ、幼稚のままにとどめ、その上、おそらく急速に根本的に退屈させるのに、これ以上の手段はない。」「野蛮は高度の技術の完成と提携することができ、同様に一般的に普及している学校教育とも提携することができるのである。文化の程度を文盲の減少から推し測ることは、時代遅れの愚直さである。学校で習う知識の量が決して文化の所有量を保証しない。」…「錯覚と誤解が至るところに蔓延している。どの時代よりも人間が言葉の、つまり標語の奴隷であり、それによって人間は相互に殺し合おうとしている。」…「色褪せた中途半端な教養人においては、伝統や形式や文化に対する畏敬の有益な抑制が徐々に失われはじめている。最悪のことは、至るところに見られる「真理に対する無関心」である。これは政治的欺瞞の公然たる称揚という現象において、その頂点に達している。」「古代文化は、何百年もの時代の流れを経て思惟と概念の明解さと純粋さにまで高められたが、そこへ魔術的で幻想的なものが、熱い衝動の濃煙の中に立ち現われ、概念をくもらせた時、野蛮が登場したのである。それは、ミュートスがロゴスを排除した時であった!」(153~155ページ)

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シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』

シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』(原田義人訳、ツヴァイク全集19・20巻、みすず書房、1973年)

 伝記文学で名高いシュテファン・ツヴァイク、彼自らの自伝的回想録である『昨日の世界』が書かれたのは1940年のこと。ユダヤ系ドイツ人として亡命を余儀なくされて各地を転々とする流浪の生活、自らの著書やかつて受け取った手紙など資料とすべきものが何一つとしてない中、ただ記憶のみを手掛かりにつづられている。

 生まれ育ったウィーン、留学したベルリンやパリ、そして知己を求めてヨーロッパ各地を回った旅の生涯の中で、ヨーロッパ中の知識人や芸術家たち、例えばリルケ、ホーフマンスタール、ヘルツル、ラテナウ、フロイト、ヴァレリー、ロマン・ロラン、ジイド、ゴーリキー、ジョイス、ウェルズ、クローチェ等々、文字通り第一級の人々と幅広くかつ親密に交流を深めた。その意味で国籍にとらわれないコスモポリタン的な「ヨーロッパ人」であった。同時に、彼が生れ落ちたハプスブルク帝国は崩壊し、新生オーストリアもナチス・ドイツに併合され、ヨーロッパの黄昏を目の当たりにしていた彼は無国籍者になってしまった悲哀を否が応でも自覚せざるを得なかった。『昨日の世界』執筆の動機は、夜明けの見えない長い暗闇への絶望感か。本書執筆から二年後の1942年、彼はブラジルで自殺してしまう。

 第一次世界大戦の始まりを目撃したとき、戦争に対する嫌悪感がもちろんある一方で、開戦時に人々の間で高揚した興奮状態の中に見出された、ある種の凶暴な陶酔感、暗い無意識の衝動、親交のあったフロイトの表現を借りて「文化に対する不満」があったことを記している。第一次世界大戦の開戦当初にはロマンティックな愛国意識やフランツ・ヨーゼフ帝への畏敬の念などもまだあったが、1939年にはそうした無邪気で素朴な信仰はもはやない。あるのは、機械的な破壊と野蛮。

 時代は変わった。絶望感をかみしめながら、ツヴァイクは両大戦前の青春期から振り返りながら説き起こす。裕福な産業資本家であった父や、出会った知識人・芸術家たち、彼らのつつましい生活態度には内面的な自由を確保するための智慧があったことを思い浮かべる。それは、テンポのゆるやかな安定の時代、お上品な倫理道徳で上辺を取り繕える時代、緊張感のない味気ない時代であった。自我意識に芽生えた思春期の反抗精神からすると引っぺがしたくなる態のものである。しかし、人間の凶暴さが時代を大きく揺るがしている執筆時点から振り返ってみたとき、ツヴァイクの眼差しにはアンビバレントな戸惑いも浮かび上がってくる。

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2010年7月25日 (日)

間宮陽介『増補 ケインズとハイエク──〈自由〉の変容』

間宮陽介『増補 ケインズとハイエク──〈自由〉の変容』(ちくま学芸文庫、2006年)

・自由を基調とする社会的体系は、個人を基本単位とした自由が単なる放恣、アナーキーへと転落しかねない危険を常に内包している点で不安定なものである。個人主義と利己主義、こうしたアンビバレンスを自覚したところから、そもそも自由を可能にする条件は何であるのかを不断に反芻して問い直していくことが社会思想としての自由主義の最大公約数的な特徴であろう。この点で、個人の自由をアプリオリな前提としてそれ以上を問い直そうとはしない自由放任主義は質的に異なる考え方である。問題は、計画か自由かという二者択一に収斂されるような性格ではない。大衆社会化が進展する中における「自由」の理念の変容をどのように受け止めればいいのか。本書はこうした視点から、一面的に単純化されやすいケインズとハイエクについて検討していく。

・「慣習」について。ハイエクは「無知の個人主義」と「理性の個人主義」を大別。前者では、人間は全知万能ではないのだから個人の領域についてはその人自身に任せ、国家といえでも干渉は許されない。全知全能ではないのだから、試行錯誤の中で生き残った知識や方法→慣習・伝統に人間は依拠、これがルールを形成する。対して後者では、人間理性の普遍性を万能とみなして社会構築→慣習・伝統を軽蔑。ハイエクはもちろん前者の立場である。ところで、ケインズも、不確実性に取り巻かれる中で人間はルールを必要とする、それは慣習でもあり得ると指摘していた。

・ケインズは、長期的視野ではなく短期的視野が中心となることで経済活動が投機活動へと変貌してしまったという問題意識。ハイエクは、経済の計画化を、「理性」の濫用というばかりでなく、人民の集合体が国家を通して個人の私的領域へと干渉しようとしているという問題意識→民主主義が自由主義の対立物へと転化してしまう危険を見出した。大衆社会において私的領域の縮小、社会的羈絆から脱したアトム的個人の一人一人が自足的に価値の究極的判定者として自らを思いみなすことで、「自由」の理念が換骨奪胎され、「自由」そのものが内在的に形骸化してしまう危険、こうした観点によって本書はケインズとハイエクの二人の議論から大衆社会批判の論点を導き出していく。

・「新自由主義」モデルは、公と私、国家と市場の二分法、前者による後者への介入を抑圧とみなす。しかし、市場=私的領域とみなすのは単純化し過ぎだと本書は指摘。また、両者の間にはさまる中間団体の必要性を指摘。この論点では、例えばドラッカー『産業人の未来』が、経済的自由の行き詰まりと全体主義の台頭という時代背景の中で、それでも自由をいかに確保するのかという問題意識から中間団体としての企業組織に着目していたのを想起した。

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【映画】「ハーフェズ──ペルシャの詩」

「ハーフェズ──ペルシャの詩」

 ハーフェズとは実在した詩人。この詩の暗誦者に送られる称号を得た若者が師の命により高位聖職者の娘の家庭教師となった。ところが、彼女の声を聞くたびに彼の胸は波立ち、それが罪とされた。彼女への愛を忘れるために「鏡の誓願」の旅へと出る──。

 セリフの大半は詩の引用から構成されている。舞台は現代イランだが、砂漠や岩山の広がる荒涼たる風景、その中にひっそりとたたずむ工業都市も含め、日本人から見ればどこか幻想性すら感じさせる異世界。この中で展開される、成就せざる忍ぶ恋の物語は、この乾いた風景から醸し出される情感と相俟ってストイックな映像叙情詩として印象深い。私のお目当ては麻生久美子。母方の国チベットからやって来たという設定だが、見ようによってはアゼルバイジャン系美人としても通用するのではないか。

【データ】
原題:Hafez
監督・脚本:アボルファズル・ジャリリ
出演:メヒディ・モラディ、麻生久美子
2008年/イラン・日本/98分
(DVDにて)

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【映画】「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

 私は観たことがないのだが、むかし野村芳太郎が「ゼロの焦点」を撮っていた。今回のは松本清張生誕百周年記念として犬童一心によるリメイク版。舞台は昭和32年。当時の風景はかなりリアルに再現されて映像的に面白い。中谷美紀が主役を食ってしまうほどの存在感、脇を固める木村多江、西島秀俊も良い。しかし、主役とされた肝心の広末涼子はダイコンでどうにもならない。映像的に雰囲気がはまらないから、他が良くても台無しだ。

 詳細は省くが、戦後の混乱期の経歴がばれるのを恐れて犯された殺人の話。むかしはこうしたタイプの作品が結構多かった。当時の世相が如実に反映されて興味のある筋立てだ。同じく清張の『砂の器』とか、水上勉の『飢餓海峡』とか。野村芳太郎は監督として今ではあまり話題にならないが、堅実に良い映画を作っていた人で、とりわけ「砂の器」はいつ観ても胸が熱くなる。

【データ】
監督:犬童一心
音楽:上野耕路
出演:広末涼子、中谷美紀、木村多江、西島秀俊、杉本哲太、鹿賀丈史、他
2009年/131分
(DVDにて)

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【映画】「花とアリス」

「花とアリス」

 高校に進学したばかりの花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)は親友同士。花が好きになった落語研究会の先輩(郭智博)に、「先輩は記憶喪失です、私に告白したのを忘れているんです」と言い、これにアリスも巻き込んだため微妙な三角関係になっていく、という話。

 岩井俊二の映画でこれは唯一観ていなかった。少女漫画趣味が濃厚で抵抗感があったからだけど、いざ観てみるとなかなか悪くない。やはり岩井のつくる映像は本当にきれいで、それがお目当て。あまっちょろい青春モノでも、岩井のリリカルな映像で描かれると、これはこれで結構嫌いじゃない。鈴木杏と蒼井優の掛け合いも良い感じだ。

【データ】
監督・脚本・音楽:岩井俊二
2004年/135分
(DVDにて)

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