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2010年1月17日 - 2010年1月23日

2010年1月20日 (水)

周婉窈「想像の民族性──江文也の文章作品における台湾と中国についての試論」

周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉,《臺大歷史學報》第35期(2005年6月)

 今年は江文也生誕百周年だ。私が江文也に関心を持っていることは前回こちらに書いたし、彼の著書『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)も以前に読んだ(→こちら)。

 最近、周婉窈さんの著作をいくつか読んで(→『図説 台湾の歴史』、『「海ゆかば」の時代』、『日本統治期の台湾議会設置請願運動』)、他にどんなものを書いておられるのかと台湾大学のホームページで著作目録を眺めていたら、上掲論文を見つけた。PDFをダウンロードできるので読んでみたら、これがまた私の興味関心のど真ん中。周婉窈さんは、江文也の理解にしても、あるいは『「海ゆかば」の時代』で言及された日本語世代の老人たちについても、彼らの意図とは関係なく妙な具合に絡み付いてしまった政治性を解きほぐし、彼ら自身が生きざるを得なかった時代状況そのもの中で内在的に抱えていたものへ虚心坦懐に迫っていく。そうした眼差しがひたむきで感心している。

 江文也は1910年、日本の植民地支配下にあった台湾で生まれた。父の商売に従って廈門の旭瀛書院に学んだ後、1923年から日本に留学。専門の音楽教育を受けていなかったが、声楽家・作曲家として認められ、1936年のベルリン・オリンピックの音楽部門で「台湾舞曲」が入選、国際的な名声を得た。1938年には日本占領下の北京で師範大学の教授となるが、日本の敗戦後は「漢奸」として拘束される。釈放はされたものの、その後も反右派闘争や文化大革命で迫害を受けた。1978年に名誉回復、1983年に北京で逝去。

 彼は台湾出身で初めて国際的な知名度を得た音楽家という位置付けになるが、戦後も中国大陸に留まり、それは国民党政権下ではタブーであったため、戦後世代の台湾人の間ではほとんど忘れ去られていたという。1980年代から江文也リバイバルが始まった。その際、中国アイデンティティー、もしくは台湾アイデンティティー、いずれにせよ彼を民族主義の観点から捉える風潮が強まった。しかしながら、それは非歴史的な決めつけに過ぎず、江文也自身に内在的な芸術的感性のロジックは無視されていると著者は批判する。彼が生きていた当時の歴史的脈絡の中で捉えなおそうとするのがこの論文の趣旨となる。

 江文也が過ごしていた当時の日本の音楽界では、とりわけアレクサンドル・チェレプニン(齋爾品)の存在が大きい(チェレプニンについても前回こちらで触れた)。チェレプニンは西洋とは異なる伝統的・土着的感性に根ざした音楽を求めて日本・中国で若手の発掘に努め、彼によって見出された清瀬保二、伊福部昭たちはその後、“日本民族楽派”と称されるようになる。そうした雰囲気の中で江文也もチェレプニンによって見出されたわけだが、ただし、彼は“純粋な日本人”ではない。清瀬保二は、江文也の音楽の中国的なものを賞賛、日本的なものがあることを残念がっていたそうだから、江に対して君自身のルーツを音楽にすべきだという意見もあったのかもしれない。いずれにせよ、自分の音楽的インスピレーションをどこに求めるのか? そうした模索の中、故郷台湾へ戻ったとき、あるいは北京に赴いたとき、彼は大きな感動を受ける。

 ただし、東京を捨てて北京へ行った→民族的アイデンティティーの回帰と捉えることに著者は疑問を呈する。北京行きの背景としては、中国に芸術的インスピレーションを求めていたこと、東京で疎外感を味わっていたこと、正規の音楽教育を受けていなかった彼にとって師範大学教授のポストは破格であったことが挙げられる。東京で再び上演したいという意欲も持っており、東京か北京かという二者択一的な選択ではなかった。さらに、旧満州・北京などが日本軍に占領されたことで生じた空白状態へ、少なからぬ台湾人が活動の余地を求めてやって来ていたという背景も指摘される。

 彼の文章で表現されている台湾の原住民、北京の街並み、中国大陸の広大さなどの印象が検討されるが、それらはある意味表面的なもので、むしろ彼自身の内面に潜む感激性の芸術的情熱が台湾・中国といったイメージによって触発されている様が見て取れる。彼の本領はロマン主義にあった。政治的・文化的アイデンティティーとして台湾・中国を選びなおしたというのではなく、チェレプニンの示唆に従って西洋音楽の模倣ではない、東洋の伝統に根ざした音楽を求め(1940年には「西洋文明は行き詰っている」と彼は発言していたそうで、当時の日本の知識人に蔓延していた“近代の超克”の風潮も想起される)、そうした芸術的インスピレーションの源泉として自身とも血縁関係のある台湾・中国に関心を抱いた。それは、ロマンティックに想像された“台湾”“中国”であった(当時の日本の知識人の間には、国力的には日本が上回っていると思いつつも、やはり中国文化への尊敬や憧れがあり、そうした知的風潮の中に江文也もいたことが指摘される)。

 このように、後世の民族主義的視点に偏った江文也イメージをいったん突き崩し、彼個人の芸術的感性を彼の生きていた当時の歴史的コンテクストの中で理解していこうと努めているところにこの論文の建設的な説得力がある。日記等の一次史料の利用がままならないようだが、いずれ一冊の伝記研究に是非ともまとめて欲しい。

 なお、江文也については、『上代支那正楽考──孔子の音楽論』に附された解説論文、片山杜秀「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」も秀逸で、日本語で書かれた江文也研究としてはこれが一番良い。

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2010年1月19日 (火)

音楽で思いつくままに雑談

 気分が滅入っている時にはラフマニノフの交響曲第2番第3楽章を繰り返し聴いている。甘ったるいほどに感傷的でなめらかなメロディーがそっと優しく頭をなでてくれるようで、トゲトゲしい気分が不思議なほどに落ち着いてくる。

 逆に気分が落ち着いている時には刺戟の激しい曲を聴きたくもなる。例えば、ハチャトゥリヤン。組曲「ガイーヌ」の「剣の舞」は有名だし、最近は浅田真央が使った「仮面舞踏会」もよく聴かれているようだ。私は交響曲第3番が好き。特に後半、シンバルが激しく乱打されるリズムにのって金管楽器が狂ったように吼えたける。色彩豊かに感じられる激しさはコーカサスの特徴か。こうした激しさは、例えばイッポリトフ=イワーノフの組曲「コーカサスの風景」の「酋長の行進」でもメロディアスに洗練された形で表現されている。

 目を南に向けると、オスマン=トルコの軍楽曲。「ジェッディン・デデン」は日本でも知られている。さらに西に行って、バルカン半島のブラスバンド。エミール・クストリツァ監督の映画「アンダーグラウンド」、主人公の後ろにくっついて走り回るバンドが、どこかおどけた感じがする一方で、その奏でる響きが印象的だった。

 私は伊福部昭に興味があって、以前にこちらでも取り上げた。ゴジラのテーマ曲が有名だが、私が好きになったきっかけは彼のデビュー作「日本狂詩曲」の第2楽章「祭」。土俗的なリズムの力強さと音響の激しさとが絡み合って耳を引き裂かんばかりにわめきちらす。当時、伊福部はストラヴィンスキー「春の祭典」を意識していたらしい。洗練されてはいるがコンベンショナルに凝り固まった“近代”に対するアンチ、前衛として現われた「春の祭典」は、近代以前、キリスト教以前におけるロシアの土俗的な異教世界にインスピレーションを得ていた。“近代”を超えるために、体感に訴える“前近代”へと目を向ける発想。それは単なるファッションではない。伊福部は北海道出身で、幼少時からアイヌの文化になじみがあり、日本文化とも違う、欧化された近代社会とも違う文化へと目を向ける視点を持っていた。腹の奥底までズシンと響いてくる低音リズムのおどろおどろしさが特徴的な「ゴジラ」のテーマ曲から、核の放射能災害というこの怪獣映画の裏のテーマだけでなく、皮膚感覚に根ざした土俗性からする“近代”へのアンチを聴き取ることだって可能である。

 伊福部が世に出るきっかけを作ったのが、ロシアの亡命音楽家アレクサンドル・チェレプニンである。チェレプニンは日本と中国で若手音楽家を発掘しようとコンクールを企画、応募してきた伊福部の作品「日本狂詩曲」を見た当時の日本の楽壇の権威は、こんな野卑なものをヨーロッパの一流音楽家に見せるわけにはいかないと出し渋ったらしい。しかし、チェレプニンが探していたのはまさにその野卑さであった。彼は青年期、ロシア革命の混乱を避けてグルジアのチフリスで過ごしたことがあり、コーカサスのあの絢爛たるメロディーになじみがあった。そうした彼がわざわざ東アジアまでやって来て探していたのはヨーロッパ音楽のイミテーションなどではない。それぞれの文化的土壌に根ざした音感である。アイヌ文化も熟知して日本やアイヌの土俗性そのものを西洋音楽の語法を用いながら表現し得た伊福部をチェレプニンは見出した。

 そしてチェレプニンがもう一人見出したのが、台湾出身の江文也である。江文也の名前は侯孝賢監督の映画「珈琲時光」で初めて知った。一青窈演じるフリーライターは江文也の東京での足跡を探しているという設定だった。彼の著書『上代支那正楽考』(平凡社・東洋文庫、2008年)も以前にこちらで取り上げた。彼に台湾の、さらには漢族としての伝統文化へ関心を抱かせるきっかけを作ったのもチェレプニンだったという(このあたりのことは片山杜秀さんの論考で知った)。江文也作曲「台湾舞曲」をチェレプニンがピアノで弾いているのをCDで聴いたことがある。江はその後、戦時中に中国大陸へ渡ってそのまま留まり、文化大革命にも巻き込まれた。そうした彼の生涯を主軸にすると、音楽シーンを絡めた東アジア現代史として面白いストーリーが描けそうで興味を持っている。

 話は変わるが、平原綾香の歌声が好き。初めて聴いたのは「Jupiter」、どこのお店だったか有線放送で流れていたのが耳に残り、居合わせた友人に尋ねて平原綾香の名前を初めて知り、その後CDを買い求めた。先日、台湾の作家で日本統治期の世相史を掘り起こしている陳柔縉さんの《人人身上都是一個時代》(時報文化出版、2009年→こちら)という本を読んでいたら、まえがきの謝辞で平原綾香の名前が挙がっていた。面識はないけれど原稿を書くときはいつも「Jupiter」を聴いて気持ちが慰められていると記していた。親近感がわいた。

 エリック・サティのジムノペディ、ノクターン。キム・ギドク監督の映画「サマリア」のシーンが脳裡に浮かぶ。過酷な現実を目の当たりにした少女、まどろむ彼女のまぶたにそっと優しく手をそえるのは、彼女のつらさを我が身に引き受けて庇護しようとする父親。緊張感の冷たく張りつめた美しさが独特なキム・ギドクの映像世界と、そこにかぶさるジムノペディのけだるくゆったりとしたメロディーという取り合わせが印象的で、まどろむ少女の表情をなおさらいとしく感じさせた。

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2010年1月18日 (月)

周婉窈『日本統治期の台湾議会設置請願運動』

周婉窈《日據時代的臺灣議會設置請願運動》自立報系文化出版部、1989年

 植民地として日本の支配を受けた台湾は政治的・経済的に搾取の対象となり、人々は権利を奪われた状態にあった。台湾議会設置請願運動とは、そうした状況下にあって合法的に台湾人の権利を確立すべく台湾議会の設置を求める請願書を1921~1934年までの14年間、計15回にわたって日本の帝国議会に提出し続けた運動である。

 請願運動をリードした林献堂はかつて梁啓超に意見を求めた際、「中国にはしばらくの間、台湾を助ける余裕はない。軽挙妄動は避け、むしろ大英帝国におけるアイルランド人にならって、台湾総督府の非を日本の中央政界に直接訴える方が良い」と助言された。外部からの助けが期待できないならば、台湾人自らが現実的な方法で目標を追求するしかない。そう考えた林献堂は、第一次世界大戦後における民族自決主義の世界的思潮の中、まず六三法(台湾総督に立法権を委ねた法律)撤廃運動、そして台湾議会設置請願運動に乗り出し、1921年に結成された台湾文化協会はその運動母体となった。

 当然ながら、台湾総督府はこれを単なる政治運動ではなくその覆面の下には民族独立思想が潜んでいるとみなしてあらゆる手段を使って弾圧した。1923年には総督府の命令に従わなかったとして請願運動の参加者が逮捕・起訴される治警事件が発生。しかし、公判闘争はむしろ台湾・日本双方の世論に訴える機会となり、請願運動そのものは違憲ではないという考え方が定着、日本における大正デモクラシー、1925年の普通選挙法なども追い風となる。ところが、文化協会内で左派が台頭して分裂、林献堂、蔡培火、蒋渭水らは台湾民衆党を結成、さらに民衆党も分裂、こうした中で急進左派の主張は総督府の猜疑心を招いた。1931年の満州事変以降、軍国主義の高まりを受けて請願運動を独立思想だとする世論が日本人側に再び表われ、請願運動の継続は難しくなった。

 台湾議会設置請願運動は独立運動だったのか? これは台湾を主体とする近代的政治制度を求める民族運動であり、日本人へのアイデンティティ上の同化は拒絶、ただし、個別の参加者には色々と思惑はあっても、請願運動全体の最終的目標が独立にあったかどうかは判断できないと本書では指摘される。運動の進展につれて穏健派・急進派に分裂していったが、台湾議会に基づく自治主義という考え方そのものはおおむね超党派的に支持されていたという。台湾史における請願運動の意義としては、第一に文化協会や民衆党の活動は近代的民主政治の考え方を広く台湾社会に向けて啓蒙する役割を果たした、第二に「台湾人の台湾」という台湾本位の考え方が示された、と本書は総括する。

 請願運動の精神的支柱となっていた林献堂は、その穏健な態度が急進派からは生ぬるく見られたが、他方で改姓名には応じず、日本語は一切使わず、和服も着ず、漢人の伝統的な教養人としての生活を送っていた。日本統治期においては時に「非国民」と呼ばれて殴られたりもしたが、光復後、今度は国民党から「漢奸」呼ばわりされてしまう(丘念台のとりなしでブラックリストからは外された)。二・二八事件では心を痛め、結局、病気療養の名目で1949年に日本へ渡り、1956年に客死するまで故郷へ戻ることはなかった。本書の附篇「思郷何不帰故里──林献堂先生的晩年心境試探」はそうした林献堂の心境について想いをめぐらす。同様の趣旨で邱永漢もかつて「客死」という小説を書いていたから、台湾の人にとって関心をひくテーマのようだ。近年、林献堂の日記が遺族から台湾中央研究院に寄託されて『灌園先生日記』として校訂・刊行が始まっているから、彼の晩年の心境についても研究が進むことだろう。

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2010年1月17日 (日)

周婉窈『「海ゆかば」の時代──日本植民統治末期台湾史論集』

周婉窈《海行兮的年代──日本殖民統治末期臺灣史論集》允晨文化出版、2003年

 日本による台湾の植民地支配、特にいわゆる“皇民化運動”が強行された1930年代後半から1940年代前半を中心とした時期をテーマとする論文8篇が収録されている。とりわけ、言語、エスニシティ(族群)、ナショナル・アイデンティティ(国家認同)の関係に焦点を合わせて日本統治期の特徴を分析、それが日本の敗戦後も含めて台湾社会にもたらした影響について論じられている。

 第1章「日治末期『国歌少年』的統治神話及其時代背景」、第2章「『莎勇之鐘』的故事及其周辺波瀾」では、それぞれ“君が代少年”と“サヨンの鐘”といった植民地教育における“物語”の形成過程が検討される。

 第3章「従比較的観点看台湾與韓国的皇民化運動」は“皇民化運動”について台湾と朝鮮半島を比較。「国語」=日本語教育に関して、台湾では土着言語が体系的に禁止されたわけではなかったのに対し(もちろん抑圧はされたが)、朝鮮半島では韓国語を話すこと=民族主義者として徹底的に弾圧されたという相違が目を引いた。

 第4章「台湾人第一次的『国語』経験」は植民地支配下における「国語」=日本語教育の展開を分析。かつての台湾社会においては閩南語、客家語、原住民の南方系諸語、それぞれの話者はバラバラであったが、共通語としての「国語」=日本語→互いの意思疎通が可能→台湾大の共同意識が形成された。他方で、日本語は統治者が持ち込んだ外来語であった→被統治者としての一体感も同時にもたらされたと指摘する。

 第5章「日本在台軍事動員與台湾人的海外参戦経験」は1937年以降、中国大陸から南洋諸島まで海を渡っていった台湾人日本兵・軍属の広がりを概観する(この問題は、最近では龍應台《大江大海 一九四九》[天下雑誌、2009年]でも取り上げられていた→こちら)。出征にあたっての「血書」文化の研究も必要だと問題提起される。

 第6章「美與死」は戦時期におけるシンボリックな言語表現(「散華」「玉砕」etc.)に注目し、こうした日本文化の美意識に基づく戦時用語が台湾でも日本人に対するのと同じ効果を持ち得たのか?と問題提起。それは、日本文化がどの程度まで台湾人の精神面にまで浸透していたのかという問題で、解答は難しいが、著者は効果があったと判断する。

 第7章「実学教育、郷土愛與国家認同」は主に第三期公学校国語読本を分析。第一に、実学教育は相当の効果があり、それは(戦後も含めて)台湾の近代化や経済発展に一定の役割を果たしたこと、第二に、台湾の郷土重視の課文が多い一方で、台湾の歴史には触れられていない→「愛郷即愛国」というロジックの下、歴史を日本史にすり替え→ナショナル・アイデンティティ形成における歴史認識の問題を指摘する(なお、郷土教育に関して日本統治期と国民党政権期との比較については林初梅『「郷土」としての台湾──郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』[東信堂、2009年]を参照→こちら)。また、台湾人日本兵の研究に触れて、国家としての日本への忠誠心があった=日本人であったが、同時に、民族的には日本人ではないという自覚が並存していた二重性も指摘される。

 第8章「失楽的道徳世界」は修身教科書を取り上げて道徳教育の植民地的性格を検討するが、同時に、台湾の伝統的な価値観念も執拗な影響力を失っていなかったこと、さらに光復後においても日本の公学校教育による道徳観念がただちに消えたわけでもなく、価値観が様々に影響し合うダイナミズムのあったことを指摘する。

 近代国家は内的な均質化を志向し、その際には標準語としての「国語」が不可欠な手段となる。台湾のように外来者によって統治された場合、土着の母語は「国語」によって抑圧される。台湾近現代史は、たかだか百年も経ない間に「国語」の強制を二度体験したところに大きな特徴がある。日本の領台当初は抗日闘争が激しく、日本語への抵抗感が強かった。日本の敗戦後、国民党政権によって新しい「国語」=北京語がもたらされたが、台湾人にとってはそれも改めて学び直さねばならない言語であり、台湾人にとっての母語=閩南語、客家語、原住民の南方系諸語の地位は低くおとしめられたままとなった。作家の張文環は二・二八事件で逃げ回った末に、北京語=抑圧のシンボルとみなして拒絶するようになったという。

 戦時下に青春期を送った日本語世代の老人たち、彼らが日本語を流暢に使いこなすことに私も驚いたことがあるし、それを“親日的”だと無邪気に喜ぶ日本人もいる。しかし、著者は彼らを“ロスト・ジェネレーション”と表現する。日本統治下で懸命に学んで身に着けた「国語」=日本語は、1945年を境に無意味どころか敵性言語としてマイナスの刻印を帯び、新しい「国語」=北京語に適応できなかった彼らは、事実上文盲同然として沈黙を強いられた(国民党による戒厳令下、元日本兵だった台湾人は自分たちの体験や心情を語ることを恐れていたという)。本書は世代経験に注目し、とりわけ基本的な精神形成のなされる青春期が重要な意味を持つ。戦時下、台湾も爆撃にさらされ、海を渡った親戚知己の戦死公報が次々と届く。戦果華々しい時にはラジオは「軍艦マーチ」をがなり立てたが、敗色濃厚、「玉砕」の言葉も飛び交う沈痛な空気の中では信時潔作曲「海ゆかば」が流れた。そうした、“ロスト・ジェネレーション”の台湾人が青春期を過ごした悲愴な時代的気分のシンボルとして「海ゆかば」が本書のタイトルに用いられている。彼らがこのように過酷な青春期を送らざるを得なかったことは、後世の後知恵で良い悪いと判断できるようなものではなく、一つの厳粛な歴史的事実であった。それがたとえ現代の我々の価値観からは了解しがたいものであっても、彼らの置かれた事情を虚心坦懐にみつめていきたいという視点に著者の真摯さがうかがわれる。

 本書は台湾史を理解する上ではもちろんのこと、日本近現代史研究にとっても益するところが大きい本だと思う。日本語訳の刊行予定はないのだろうか?

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