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2010年7月4日 - 2010年7月10日

2010年7月10日 (土)

奥村宏『最新版 法人資本主義の構造』『三菱とは何か──法人資本主義の終焉と「三菱」の行方』『経済学は死んだのか』

奥村宏『最新版 法人資本主義の構造』(岩波現代文庫、2005年)
・株式相互持合いによる企業の相互支配という戦後日本の会社モデルは、経営の自律性を確保したと評価する議論がある一方で、本書はそれは株式会社の基本原則に反しており、株主主権による経営者チェックが働かない無責任体制だと批判する。
・法人資本主義の構造が成立→経営者も従業員も会社に忠誠→会社本位主義
・法人は有限責任。株主は出資分以上の責任を負う必要はない。
・会社に実体はあるのか?→法人擬制説、法人否認説、法人実在説。
・イギリスで株式会社が成立したとき、株主は本来、自然人(=責任主体となり得る)を想定→1888年、アメリカのニュージャージー州法の改正→企業を呼び込むことで税収増を当て込むという打算的理由から持ち株会社を認め、これが他州にも広がった。
・以上の問題意識を踏まえて「法人資本主義」の成立過程を分析。GHQによる財閥解体→放出された株式の受け皿がなく法人所有へ(戦前のピラミッド型支配構造の財閥から横断的な株式相互持合いの企業集団へと変化)。1952年の陽和不動産株買占め事件→三菱グループ各社による株式買取り→買占め対抗策として安定株主工作→これでは経営者が株主を選ぶことになってしまい、株主主権の会社民主主義に反する→経営者をチェックする者がいない、コーポレート・ガバナンス不在。
・近年の「持合い崩壊」→年金基金と外国機関投資家が受け皿→投機的で不安定、有力な受け皿がないという混迷。

 奥村宏『三菱とは何か──法人資本主義の終焉と「三菱」の行方』(太田出版、2005年)は、三菱自動車のリコール問題を糸口に、こうした法人資本主義の具体的な事例として三菱グループの創業以来の歴史を検討する。

 奥村宏『経済学は死んだのか』(平凡社新書、2010年)。最新の金融理論による世界的な経済破綻、新自由主義的原理の直訳的適用による日本経済の混乱、さらにはかつての神学的・訓詁学的なマルクス研究。現実遊離した輸入理論先行の経済学者に反省を促すという意図から、経済の現実について自分自身で調査・研究した上で理論化・政策提言を行った人物としてマルクスとケインズを取り上げ、日本の経済学者を批判。激しい口調は、日本経済の実態について既存の理論枠組みは使わずに自分の眼で調査しながら法人資本主義という理論構築をしてきたという著者自身の自負によるのだろう。

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2010年7月 9日 (金)

岩井克人・佐藤孝弘『M&A国富論──「良い会社買収」とはどういうことか』

岩井克人・佐藤孝弘『M&A国富論──「良い会社買収」とはどういうことか』(プレジデント社、2008年)

・岩井克人を座長とする東京財団の研究グループによるM&Aルールの提言。会社=法人をヒト+モノという二段構えで把握する岩井の理論が前提。この理論の詳細は、岩井克人『会社はこれからどうなるのか』(平凡社ライブラリー、2009年)、『会社はだれのものか』(平凡社、2005年)、さらに基礎理論的なものとしては『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年)や三浦雅士によるインタビュー『資本主義から市民主義へ』(新書館、2006年)を参照のこと。
・株主がモノとしての会社を所有→2階。ヒトとしての会社が会社財産(物的財産+人的組織)を所有→1階。前者の2階を強調するのがアメリカ的な株主主権論、後者の1階を強調したのが日本型経営。会社が付加価値を生み出すのは1階部分であり、その能力をいかに活用するかという問題意識。
・岩井の資本主義分析の基本は、差異が利潤を生み出すという命題にある。これまでの産業資本主義で会社は設備投資や労働者動員(低廉な労働予備軍としての農村余剰人口が前提)によって差異を作り出してきており、買収対象は機械制工場であった。しかし、現在のポスト産業資本主義では差異そのものを意識的に作り出す必要→作り出すのはヒトの頭脳であり、人的チームワークが必要→ヒトはカネだけでは左右できない→この人的組織の経営の良し悪しを判断基準として、会社買収の具体的なルールが検討される。

・本書の内容からは外れるが、岩井の著作を一通り読んだ印象として(『不均衡動学の理論』だけは未読。資本主義を外在的根拠から批判するのではなく、資本主義そのものが持つ内在的ロジックを徹底させたときに見えてくる不安定さを分析しているらしい)、現在はポスト資本主義なのではなく、資本主義の構造的ロジックが一層強まった時代として連続性の中で捉えている視野に関心あり。つまり、差異が利潤を生むという原理によって駆動されたシステムとして資本主義を捉え、商業資本主義(地理的な差異→遠隔地貿易、重商主義)⇒産業資本主義(大量生産方式の効率性における差異)⇒ポスト産業資本主義(差異を意図的に作り出す→頭脳を用いるヒトが主役)という連続性。社会学でも現在はポストモダンなのではなく、モダンがより強化された時代なのだという議論がある。岩井の言う産業資本主義⇒ポスト産業資本主義という区分は、アンソニー・ギデンズの言う前期近代⇒後期近代、ジグムント・バウマンの言うソリッド・モダニティ⇒リキッド・モダニティにそれぞれ相応するだろうか。私自身の思考が整理されていないのであくまでも思いつきだが、このあたりに関心あり。それから、差異が利潤を生み出すという資本主義のロジックが純化された形で表われたポスト産業資本主義として現代を捉える岩井克人の視点は、ジグムント・バウマンが言うところのリキッド・モダニティを想起させる。

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2010年7月 5日 (月)

彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著『空想 皇居美術館』

彦坂尚嘉・五十嵐太郎・新堀学編著『空想 皇居美術館』朝日新聞出版、2010年

 大英博物館、ルーヴル美術館、故宮博物院、こういった世界の大美術館に匹敵するものが日本にはない。敷地はある。東京のど真ん中に。皇居である。そこで、天皇には京都御所へお帰りいただき、からっぽになった皇居をそっくりそのまま世界一の大美術館にしてやろう。そして、日本中の超一流国宝をかき集めて収蔵品にする。現代アートなど入れない。明治維新以前、前近代のものだけで日本をアピール。1,000メートル級の世界一の巨大建築も建ててやれ、そうすりゃ公共事業で景気対策にもなるぜ──。

 皇居を一大美術館にするならどうしたら面白いか?という思考実験。もともとは五十嵐太郎たちのリノベーション・スタディーズで彦坂尚嘉が漏らした皇居再利用というアイデアが発端らしいが、これをもとにしたプランを2007年の第1回リスボン建築トリエンナーレに出展。帰国後のシンポジウム(五十嵐、御厨貴、南泰裕、彦坂、鈴木邦男、原武史、新堀学)や寄稿(辛酸なめ子、藤森照信、萩原剛、鈴木隆史、暮沢剛巳)・座談(高岡健、宮台真司、彦坂)では各自それぞれが奔放に思い付きを語る。

 皇居の敷地は意外に広くて、大英博物館、ルーヴル美術館、メトロポリタン博物館、バチカン美術館、ウフィッツィ美術館、ベルリン・ムゼウムインゼル、ついでにクフ王のピラミッド、これら全部が同時に納まってしまう。東京の中心は空虚であるというロラン・バルトの指摘は東京論で必ずと言っていいほど引用されるが、実は何もないわけではない。語られるのを拒む暗黙のタブー、すなわち皇居があるということだ。美術的・建築論的面白さへの非政治的追求ではあっても、天皇論を軸に日本文化、日本の近代という大問題を避けることはできない。色々な議論の切り口や意味づけのロジックがあり得るのが面白い。なお、皇居を公園にしようというプランをこれまでに提案したのは丹下健三しかいなかったらしい。

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2010年7月 4日 (日)

神野直彦『「分かち合い」の経済学』『「希望の島」への改革──分権型社会をつくる』『人間回復の経済学』『地域再生の経済学──豊かさを問い直す』

 新刊で神野直彦『「分かち合い」の経済学』(岩波新書、2010年)が出ていたので、これを機にむかし読んだ旧著も読み返した。人間を経済活動の道具として位置付ける新自由主義的な「競争原理」は、個々の人間の能力を育成してその自発的な発揮によって各自が存在欲求を充たしていくのに必要な「協力原理」を掘り崩してしまうという問題意識で一貫している。

 旧著では市場社会を経済・政治・社会の三つのサブ・システムに分裂した状態として示された構図をもとに議論が進められている。経済システムは等価物交換=市場経済による関係。政治は強制力に基づく支配・被支配の関係。社会は自発的協力による人的結びつき。人間の行為は強制的か、自発的か?→政治/経済・社会、無償か有償か?→社会/経済・政治、競争原理か協力原理か?→経済/政治・社会、という基準で区別。経済システムの拡大(有償労働領域の拡大)→社会システムの縮小(家族・共同体での無償労働の存在が縮小)→この縮小部分の代替機能を果たすのが政治システム。政府は「市場の失敗」に対応しているのではなく、市場進展によって生じた「共同体の失敗」から生まれた。新自由主義的な競争原理のやみくもな拡大は、この「共同体の失敗」を残したまま、さらには加速させながら、「政治」機能を縮小させることになる。セーフティネットとしての「社会」が機能してはじめて市場経済も有効に機能する。以上のように三つに分裂したサブ・システムの結節点として財政は位置付けられる。

 『「希望の島」への改革──分権型社会をつくる』(NHK出版、2001年)は、生活する場として人々に身近な公共空間をつくるため、中央政府・地方政府・社会保障基金という三本立ての政府体系を構想する。ケインズ的福祉国家は「遠い政府」としての中央政府が現金給付する形での社会保障を基本としており、それは参加なき所得再配分国家であったという問題意識。地方政府→無償労働代替としての現物給付(サービス)を行う、生活の場における「協力の政府」。社会保障基金→賃金代替として生産の場における「協力の政府」。

 『人間回復の経済学』(岩波新書、2002年)は、利己心に基づく合理的人間モデル=「経済人(ホモ・エコノミクス)」への疑問から経済学の失敗について検討する。人間個々の知的能力を育てていくことが知識社会の条件であり、その育成や生活保障のための人間のきずな=社会資本の必要性という問題意識が示される。『地域再生の経済学──豊かさを問い直す』(中公新書、2002年)も動揺の問題意識から、市場原理によって荒廃させられてしまった地域社会を、社会資本としての生活の場としていかに再生させるかを議論する。

 『教育再生の条件──経済学的考察』(岩波書店、2007年)。経済システムは労働が単純化された中で生産効率向上を目指す形で訓練、政治システムによる公教育は社会東郷のための「国民の形成」を意図→そこで、社会システム=協力原理の直接的人間関係の中における「学びの社会」へ向けた改革を提言する。

 『「分かち合い」の経済学』(岩波新書、2010年)のタイトルにある「分かち合い」とはスウェーデン語の「オムソーリ」、すなわち「悲しみの分かち合い」という言葉からヒントを得ている。財政とは本来、共同の困難を共同負担によって共同責任で解決を図る経済であり、これを“「分かち合い」の経済”と表現している。上述の経済・政治・社会という三本立てサブ・システムについて、貨幣経済(経済+政治)、貨幣を使用しない“「分かち合い」の経済”(社会+政治)という形で描きなおされ、両方の結節点に位置する政治=財政が補完的なバランサーとしての役割を果たさねばならないという問題意識が示される。
・19世紀イギリスのようなレッセ・フェール国家では家族・コミュニティなどの「分かち合い」に基礎付けられた自助努力であり、市場経済化の進展によって社会領域が縮小しつつある中、新自由主義が家族・コミュニティの重要性を説くのは矛盾。
・これまでは公共事業のように「分かち合い」ではない財政支出が多かった→日本では増税への抵抗感が強かったと指摘。
・市場では購買力の豊かなものに決定権、対して民主主義ではすべての社会の構成員が同じ決定権を持つ。
・市場原理→協力原理を分断(例えば、正規雇用と非正規雇用)。
・フレキシュリティ戦略→労働市場の弾力性と同時に生活の安全保障を強化、アクティベーション(失業者への再教育・再訓練)、リカレント教育→社会的セーフティネットを社会的トランポリンへ張り替える。

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白波瀬佐和子『生き方の不平等──お互いさまの社会に向けて』

白波瀬佐和子『生き方の不平等──お互いさまの社会に向けて』岩波新書、2010年

・多様な生き方といっても、現実には当人の意図ではどうにもならない「たまたま」の機会によってその後の人生が左右されてしまう問題。出発点が不平等なのに自己責任原則が強調されることをどう考えるか? 本書はライフステージの節目ごとにおける問題点をデータに基づいて検証する。
・生育環境や教育機会という点での出発点での格差→子育て支援、再配分政策が必要。
・過渡期の若者→一度のつまずきが将来にひきずらない制度作り。
・労働市場におけるジェンダー格差。
・これまでの生き方の蓄積で不平等が最も顕在化する高齢期。
・リスク分散としての社会的連帯の必要。出発点での格差を縮小するため「御破算システム」検討も考慮。
・当事者ではない問題に追体験はできないにしても社会的想像力を強調。

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