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2010年6月13日 - 2010年6月19日

2010年6月19日 (土)

玉野井麻利子『記憶の地図:戦後日本における国家と満洲』

Mariko Asano Tamanoi, Memory Maps: The State and Manchuria in Postwar Japan, University of Hawai’i Press, 2009

 満蒙開拓団として大陸に渡った人々、現地での生活は過酷であり、その上、敗戦による引揚は凄惨を極めた。国策に従った開拓移民であった点でいわば日本という“国家”を背負って満洲に入り込んだわけだが、他方で“国家”によって裏切られたという思いをも抱いた。帰国できた人々は、満洲では植民者であったと同時に、帰国後は自分たちは犠牲者だという意識が強く残る。引揚時にレイプされた、子供を殺した、仲間を見捨てたなど、やむを得なかったにしても“不名誉”とされてしまう体験を迫られた人々はそもそも語ることすらできない。残留孤児となった人々はマージナルな立場を否応なく迫られた。日本に帰国しても、日本人として社会的に受け入れられるかどうか、それ以上に、かつて実の親と別れた上に、今度は中国の育ての親とも切れてしまう、二重の別れ。満洲国という形で日本の支配を受けた中国人、とりわけ残留孤児を引き取った親たちの思い。

 記憶というのは、語り手(及び聞き手)の置かれた歴史的、社会的、地理的、文化的コンテクストから離れて語られるものではない。戦争の記憶も、戦後社会というコンテクストの中に置かれる。記念碑、儀礼、物語、詩、音楽、写真、映画等々、様々な媒体を通して共有されたイメージがあり、一人の語りも間主観的な語りとして表われ、集合的記憶を構成すると言えるだろうか。それは“事実”に対するバイアスというのではなく、そうした語りのあり方そのものに、現在と過去とが絡まり合った複雑な機微が見出される。語り手の立場によって心象風景は異なるだろう。しかし、誰かの語りが特権的地位を持つのではない(公定史観に対する異議申し立てとしてサバルタンの語りを偏重するのも、これはこれで一方に代えて他方を上位に置くことになってしまう)。

 本書は、満蒙開拓からの帰国者の回想、悲惨な引揚体験、残留孤児のマージナルな困惑、現地の中国人が抱えた思い、それぞれに立体的な奥行きを持った語りの有様を“記憶の地図”として布置する。マージナルな記憶が交錯するところに、目にはもちろん見えないにもかかわらず戦前・戦後を通して厳然として立ちはだかる“国家”の姿が浮かび上がってくる。日本人の抱く満洲へのノスタルジーは、むかしの生活や風景への愛着という点では脱政治的な思い入れであるかのように見えても、それがかえって現地の人々に対するかつての権力的支配関係を忘却させてしまうという問題も指摘される。

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堀江則雄『ユーラシア胎動──ロシア・中国・中央アジア』

堀江則雄『ユーラシア胎動──ロシア・中国・中央アジア』岩波新書、2010年

 海のシルクロードが開けて以来、世界史の表舞台から遠ざかっていたユーラシア内陸部。清、ロシア、イギリスのグレート・ゲームでは客体として翻弄されるばかりだったこの地域の台頭に注目した現状報告。

 ポイントは、第一に、石油・天然ガスなど潤沢な埋蔵資源。第二に、ソ連邦崩壊によって誕生したチュルク系諸国家。この流れの中でウイグルの問題にも触れられる。国民国家への模索はナショナリズムの負の側面を引き起こしてもいるようなのが気にかかる。中央アジアの大国を目指すウズベキスタン。イラン系のタジク・ナショナリズムは反ウズベク感情をテコにしている。つい先日もキルギスでウズベク系住民との衝突が起こったばかりだ。それから、言語ナショナリズム。ネポティズムも国民国家形成を妨げる。

 資源輸出は外に需要があるから成立するという意味で他律的であるし(中国への輸出構造が経済的支配につながるのではないかという懸念もあるようだ)、国民国家形成も先行きが険しい。そうした点を考えると、本書が示す西欧近代に対する転換点としての「ユーラシア胎動」という問題意識は興味深いにせよ、あまり説得力は感じられなかった。本書の内容と直接には関係ないが、ロシアにおけるネオ・ユーラシア主義の高まりというのは、西欧近代へのアンチとナショナリズム感情が絡まりあっている点で、かつての日本における「近代の超克」論とイメージ的にダブってくる。

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2010年6月16日 (水)

坂部晶子『「満洲」経験の社会学──植民地の記憶のかたち』、玉野井麻利子編『満洲──交錯する歴史』

 坂部晶子『「満洲」経験の社会学──植民地の記憶のかたち』(世界思想社、2008年)は、「満洲」体験そのものよりも、その語られ方の分析を通して、ナショナル・ヒストリーへと包摂されたり、あるいは距離をとろうとしたり、いずれにしても記憶の語りがマスター・ナラティヴと絡まりあって再解釈されるときのメカニズムを描き出す。植民地主義的な旧満洲国の「建国理念」から距離を置くにしても、日本の場合には脱政治的なノスタルジー、対して中国の場合には抗日という形でそれぞれ別個の言説空間が成り立った。それを対立としてしまうのではない。本来、個人の語りとは決して一点には収斂できない多元的なものであって、硬い規範的枠組みをくぐり抜けてふと姿を見せる生の声を何とか聞き取りたいという模索が行間から浮かび上がっていて、とても良い本だと思った。

 玉野井麻利子編(山本武利監訳)『満洲──交錯する歴史』(藤原書店、2008年)は、“満洲”における出身背景の異なる人々に焦点を合わせた論文集。中国東北地方出身のジャーナリスト杜重运の抗日論説は他の地域の中国人にどのように受け止められたのか。白紙と見立てた満洲に実施されたユートピア的都市計画の国際比較。川島芳子の複雑なアイデンティティ。映画の中の“日満親善”ロジック。満洲のポーランド人。森崎湊を通して見た汎アジア主義。ソクジョン・ハン「植民者を模倣する人々:満洲国から韓国への統制国家の遺産」は、儀式、体操、イデオロギーなどの検討により、旧満洲国における様々な体験が戦後の南北朝鮮における国家形成に影響を及ぼしたことが指摘される。最近刊行された姜尚中・玄武岩『興亡の世界史18 大日本・満州帝国の遺産』(講談社、2010年)のテーマもこのあたりにある。

 なお、Mariko Asano Tamanoi, Memory Maps: The State and Manchuria in Postwar Japan, University of Hawai’i Press, 2009を取り寄せて手もとにあるが、未読。

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2010年6月14日 (月)

覚書(日台中トライアングルの人物群像)

 日台中トライアングル関係の中の人物群像に関心がある。思いつくままにメモ。

 ビッグネームから挙げると、林献堂が台湾議会設置請願運動に乗り出したのは、梁啓超のヒントによる。梁は林の招待で台湾訪問。章炳麟は日本への亡命途上、一時期台北に滞在、『台北日日新報』で論説を執筆。孫文も一時期台北に滞在、彼の逗留した旅館は現在、国父史蹟記念館、通称“梅屋敷”。もちろん蒋介石もこういう話題では外せない。

 日本統治下にあって日本語を知っていた台湾出身者の中には、「日中の架橋」という名目の下、日本の勢力圏に入った大陸地域へ渡っていった人々もいた。日本国籍保持→特権があったため、商売に利用したり官吏になったりした一方、現地中国人から嫌われたという話もある。

 旧満洲国初代外交部総長(外務大臣)となった謝介石は台湾出身。彼については許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》第57期、2007年)を参照のこと(→こちらで取り上げた)。それから、許雪姫主編《日治時期在「満洲」的臺灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)も手もとにあるが、まだ読みさしのまま。医学を学ぶため旧満洲国へ留学した人が多い。

 音楽家の江文也は日本軍占領下の北京で師範大学教授となっている。彼についてはこちらで触れたこともあるが、江文也『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年)所収の片山杜秀による解説論文「江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に」と、周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉(《臺大歷史學報》第35期、2005年6月→こちらで取り上げた)に詳しい。江文也を北京師範大学に招聘した同僚の柯政和も台湾出身の音楽家。

 抗日意識を持って大陸に向かった台湾人はたくさんいるが、戦後、国民党と一緒に台湾に戻って要職に就く人も多く、“半山”と呼ばれた。日本軍占領地域にいた人物としては、抗日意識を隠して大陸に渡った張我軍の名前を北京の周作人の周辺で見かけた覚えがある。作家の呉濁流は新聞記者として南京に赴任したことがある。汪兆銘政権と関係を持った人々も当然ながらいて、上海で映画人として活躍したが暗殺された劉吶鴎については田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年→こちらで取り上げた)に詳しい。それから、モダニズムの文学者、穆時英も汪兆銘政権の文化関係部局に勤務。台湾出身ではないが、汪兆銘政権で宣伝局次長を務めた文学者の胡蘭成(一時期、張愛玲と結婚)は戦後、台湾に行き、さらに日本に逃れて客死。侯孝賢映画の脚本で知られる朱天文たち姉妹は胡蘭成と家族ぐるみの付き合いがあって薫陶を受けている。

 戦後、共産主義者や国民党に対する反発から共産党にシンパシーを寄せた台湾人で大陸に渡った人々も多い。そうした自伝の一例としては楊威理『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』(岩波書店・同時代ライブラリー、1994年→こちらで取り上げた)がある。やはり代表的なのは謝雪紅か。なお、江文也は対台湾工作に利用できると判断されたのか戦後も北京に残り、彼女の詩をもとにした交響曲を書いたらしいが、聴いたことはない。中共が対日本工作を進めるにあたり台湾出身者は日本語がよく分かるので重用された。外交の裏舞台で活躍した人々については本田善彦『日・中・台 視えざる絆──中国首脳通訳のみた外交秘録』(日本経済新聞社、2006年)が当事者のインタビューも踏まえて詳しく描き出している。NHK中国語講座で顔なじみだった陳真も台湾出身(→こちらで取り上げた)。やはり台湾出身で日本語雑誌『人民中国』初代編集長となった康大川については水谷尚子『「反日以前」──中国対日工作者たちの回想』(文藝春秋、2006年)に詳しい聞き取りがある。

 軍属として徴用された台湾人が南方ばかりでなく大陸にも渡り、戦後、BC級戦犯として罪に問われたケースもあった。台湾の原住民族が高砂義勇隊として戦争に駆り出されたことはよく知られている。龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)に、戦後、国民党に徴用された原住民族の人が国共内戦に動員されて人民解放軍の捕虜となり、さらに朝鮮戦争にまで行ったという話があったのを思い出した。

 作家では邱永漢、陳舜臣といった人もいる。きりがないし、疲れてきたからこの辺で中止。

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2010年6月13日 (日)

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」

 ビルの解体現場で働くケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は孤児院のときからの幼馴染み。現場の仕切り役からいつもバカと罵られ、賠償金と称して金を巻き上げられていた彼らは会社の事務所を滅茶苦茶にしてトラックを盗んで逃げ出す。ジュンからブスと怒鳴られても離れないカヨ(安藤サクラ)もついてきた。行き先は、兄貴のいる網走。その先に何があるのかは分からない──。

 「この世には自分の人生を選べる奴と選べない奴の二種類の人間がいる。俺たちは選べないんだ。」自分の手ではどうにもならない、目に見えない壁に取り囲まれたような鬱屈した感覚、抜け出せない絶望感。彼らが抱えた、ぶち壊したい!という攻撃的態度は、人生がうまくいかなくて気持ちが荒んでいるというのではないし、「自分の人生を選べる奴ら」に対するルサンチマンというのとも違う。この世に生まれてきても最初から自分の居場所がない、そのやり場のないパセティックな苛立ち。

 こういうタイプのロードムービーとしては岩井俊二監督「PiCNiC」も思い浮かべた。ただし、こちらの場合、ストーリーは寓話的かつ岩井独特の映像美もあってリリカルな感傷を呼び起こすのに対し、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の方は現実にあり得る設定のようにも思えて、観ていてやりきれない苦さが感じられてきた。

【データ】
監督・脚本:大森立嗣
出演:松田翔太、高良健吾、安藤サクラ、新井浩文、宮崎将、柄本明、小林薫、他
2009年/131分
(2010年6月13日、新宿ピカデリーにて)

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「シーサイドモーテル」

「シーサイドモーテル」

 日本のど田舎なのになぜかウェスタン風、あたりは何もない山の中なのになぜか「シーサイドモーテル」。夜は断水し、不潔で蒸し暑い室内はいかにも不快指数が高そうで、舞台設定からしてすべてがうさんくさい。それぞれに思惑を持った宿泊客たち、互いに嘘か真か騙し合いの駆け引きを繰り広げる群像劇。チープなインチキくささは面白そうで嫌いではないのだが、どんでん返しが微妙にゆるくて私はいまいち入り込めなかった。麻生久美子のしたたかなコールガールぶりはなかなか板についているのだけど、ファンであるだけにこれもまた微妙な気分。

【データ】
監督:守屋健太郎
出演:生田斗真、麻生久美子、山田孝之、玉山鉄二、成海璃子、古田新太、温水洋一、小島聖、池田鉄洋、柄本時生、山崎真実
2010年/103分
(2010年6月13日、新宿ピカデリーにて)

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小林英夫『「日本株式会社」を創った男──宮崎正義の生涯』

 「満洲」体験がその後の日本経済システム再編に影響したという議論の中で登場する一人に宮崎正義がいる。小林英夫『「日本株式会社」を創った男──宮崎正義の生涯』(小学館、1995年)は彼の生涯を描き出している。ペテルブルク大学に留学、ロシア革命の混乱期に帰国した宮崎は満鉄に入社、ロシア問題や経済問題の専門家として頭角を現した。石原莞爾から信頼されて経済問題についてのアドバイザーとなったことから政策立案に関わり始める。自由放任経済の問題点を踏まえ、資本主義でも共産主義でもない統制経済、すなわち企業組織における「資本と経営の分離」を促してそれに対して官僚=テクノクラートが主導する経済システム構築というアイディアを出した。これがその後のいわゆる「日本株式会社」につながったと総括される。

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