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2010年6月6日 - 2010年6月12日

2010年6月12日 (土)

山室信一『キメラ──満洲国の肖像』、ルイーズ・ヤング『総動員帝国』、姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』

 「満洲国」論のスタンダードはやはり山室信一『キメラ──満洲国の肖像』(増補版、中公新書、2004年)だろう。制度形成過程及びそこに作用した日本側の意図が描き出され、現地の人々との思惑のズレが浮き彫りにされる。現地の支持者でも、例えば于沖漢の保境安民主義は日本側の「満洲」独立構想と親和性があったが、それはもちろん日本の植民地化を受け入れるものではない。日本軍による安全保障を是認した不養兵主義には、これまでの軍閥割拠の戦乱状態を踏まえて軍事費負担軽減の意図があり、ある意味で戦後日本がアメリカに安全保障を委ねたのと同じロジックになっているのが興味深い(なお、保境安民主義などについては澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』[講談社選書メチエ、2008年]を参照のこと)。当初、満蒙領有論に立っていた石原莞爾たちは軍中央の説得もあって独立構想に転換、しかし間もなく日本本国から行政・経済のテクノクラートが流入、産業開発に乗り出すものの、「五族共和」「王道楽土」の建前とは裏腹に日本による植民地化が実質的に進む。「満洲国」は日本のエリート候補の人事研修室、政策実験場(日本本国のように議会のチェックを受けないで済む)となり、ここで実施された政策が日本本国に還流する関係が成立した。「王道楽土」などの夢想的ユートピアを目指したスローガンが多くの日本人の心をとらえた一方、それがどんなに美しい価値表明ではあっても現実の支配関係への自己欺瞞的正当化となってしまった矛盾、これをどのように捉えたらいいのかという問題は難しい。

 ルイーズ・ヤング(加藤陽子・川島真・高光佳絵・千葉功・古市大輔訳)『総動員帝国──満洲と戦時帝国主義の文化』(岩波書店、2001年)も日本が「満洲国」を作り上げていくプロセスそのものが日本側に与えた影響に注目する。サブタイトルにある「文化」というのは、様々な位相で国民が政治動員される際のロジックを指す。軍事的勝利のユーフォリアと経済危機への不安はマスメディアを通して大衆社会における対外意識の一体感を生み出した。社会的に対立関係にある様々な要因が「満洲」という契機によって奇妙な同盟関係を見せる。例えば、日本本国に居場所のなくて「満洲国」へ渡った左派系知識人は、主観的には日本の帝国主義政策を内部から掣肘しよう意図しつつも、彼らの提供した専門知識は帝国において制度化された暴力の中に取り込まれた。農村問題の危機意識から貧農を意図した農本主義は、牧歌的な反近代ヴィジョンを抱きつつ、満洲開拓移民と連動する中で帝国主義ヴィジョンと融合した。本書は軍事、経済開発、開拓移民、イデオロギー、政治機構、都市計画、観光等々、様々に多角的な諸相を検討しながら、社会的リソースが「総力戦」的システムへと巻き込まれ再編されていくプロセスを描き出す。近代特有のシステムとも言うべき国民国家は、国民動員によって社会領域へ深く浸透している。それぞれに複雑な対立や矛盾をはらみながら網の目のように張り巡らされたシステムが「満洲」というファクターを触媒としてあらゆる側面で相互反応を引き起こしていくダイナミズムが浮き彫りにされる。

 姜尚中・玄武岩『興亡の世界史18 大日本・満州帝国の遺産』(講談社、2010年)は新刊。「満洲国」がいわば「政策実験場」となり、そこでの経験が戦後日本経済の発展に寄与した、そのシンボルとして岸信介を取り上げるのはいまや定番的議論の観さえあるが、同様のことが韓国における朴正熙にも言えるという論点が本書の特色である。「満洲国」論そのものとしては特に目新しい知見はないが、朝鮮半島に視軸を置いているところが興味深い。植民地支配下にあった朝鮮半島でもやはり「満洲」ブームが起こった。日本からのしめつけも厳しくなる中、例えば社会主義系朝鮮知識人たちが公的イデオロギーの内在的読み替えによって自分たちの民族性を戦略的に保持しようと「東亜共同体」論に応答するなどの雰囲気の中、朴正熙は満洲国軍官学校に進む。朴正熙と岸信介、満洲人脈というばかりでなく(「満洲国」時代に二人の身分には開きがあって直接の面識はなかった)、岸は東条内閣の閣僚、朴は親日派、「満洲国の鬼胎」という暗い過去を引きずり、反米意識を抱きつつも現実的判断として対米依存を選択するなどの屈折で二人に共通点があるのも興味深い。

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2010年6月 9日 (水)

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』

劉傑『漢奸裁判──対日協力者を襲った運命』(中公新書、2000年)

 中国や韓国で「親日派」という言葉にはネガティヴ・イメージが込められており、うかつには使えない。もちろん侵略戦争や植民地支配で日本のお先棒を担いだ人々とみなされているからで、それと区別するときは「知日派」という表現が使われる。東アジアにおける歴史認識問題を考える上で、この「親日派」=「漢奸」と指弾された人々の位置付けは下手すると政治的感情論を招き起こしかねないナーバスな難しさをはらんでいるが、避けて通ることはできないだろう。本書はいわゆる汪兆銘政権に参加した人々を具体例としてこのやっかいな問題に切り込んでいく。

 焦点となる漢奸裁判を検討する前提として、日中戦争時に日本側から仕掛けられた和平工作、とりわけ汪兆銘工作について前半で解説される。この箇所は基本的に劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)の要約となっている。日本側と汪兆銘側との認識のズレが致命的だった。重慶政権を脱出した汪兆銘たちとしては日本軍の早期撤退、不平等条約改定等の具体的成果がなければ単なる「漢奸」に成り下がってしまうという焦りがあった。ところが、日本側の主目的は蒋介石の重慶政権との交渉であり、汪兆銘の新政権はそのための手段に過ぎず、将来の重慶政権との交渉を見越して汪兆銘政権に対して厳しい条件を突きつけ続ける。彼我の実力差が歴然としているとき、妥協や和平を求めることは必ずしも裏切りとは言えないだろう。ただし、中国の歴史文化には敵への妥協を売国とみなす考え方があり、具体的成果をあげられなかった汪兆銘たちはこの伝統的考え方を上回るだけの正当性を示すことができなかった。日本の「和平工作」に謀略的色彩が強かったため、汪兆銘たちは自分たちの意図とは違う方向で「漢奸」へと追い込まれてしまった、つまり、和平の意図が日本側に利用された結果として中国内での「漢奸」イメージにつながってしまったことが指摘される。

 漢奸裁判は売国奴か否かを問うものであって、通例の戦争裁判とは性格が異なる。何が売国的なのかの基準は解釈に依存し、最終的には蒋介石の意志に委ねられる。「一面抗戦、一面和平」という考え方で実は汪兆銘の行動を蒋介石は了解していたのではないかという推測が当時も今も絶えない。また、汪兆銘政権の実力者・周仏海は当初から重慶政権側と連絡を取り続けていた。汪兆銘の墓所の不自然な爆破、周仏海の減刑、繆斌の早期処刑などからは、蒋介石自身もまたこうした「漢奸」イメージを取り扱う難しさに苦慮していたであろうことも窺える。汪兆銘死後に主席となり戦後は処刑された陳公博は、国共交渉が膠着して長引いたときは国民党内の幅広い勢力を味方につけるため自分たちは釈放されるだろう、しかし国共分裂が不可避なとき蒋介石は軍事独裁のため他勢力の粛清を進めるだろうから自分は助からない、と分析していたらしい。

 なお、漢奸裁判における個々の具体的な事例を知りたい場合には益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)が便利である。

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覚書(南方戦場体験の戦後精神史)

なぐり書きメモ。第二次世界大戦で南方から生還した人々は、その戦場体験があまりに過酷であったからこそ積極的には語りたがらない。語らなければ世間から注目されることはなく、彼らの抱えたうめきを置き去りにしていく形で戦後日本は経済繁栄を謳歌し、あるいは能天気な平和論がはびこった。朝、時間が合うとき「ゲゲゲの女房」を見ることがあるが、こうした人物の例として水木しげるがまっさきに思い浮かぶ。あのとぼけたような、達観したようなのっぺりとした表情。しかし、戦地で川を船で渡っていたとき、ちょっと身をかがめて起き上がったら戦友がワニに食べられて死んだ。紙一重の偶然で自分はいまここに生きているという感覚。それから、ダイエーの中内功。人肉食の噂も絶えないが、それはさておき、飢餓で戦友がバタバタ倒れ、自分も意識を失いそうになったとき、頭の中でグルグル回ったスキヤキの光景。生き残って開き直ったかのようなハングリー精神、自分たちをこんな不条理へと叩き込んだ国家に対する怨念、それらが絡まり合ったエネルギーが流通革命という形で戦後の高度経済成長を動かす要因の中に入り込んでいた。あるいは、大岡昇平。自分は捕虜になった身だからというのを文化勲章辞退の理由にしていたが、戦友がみんな死んでいった中、自分だけが生き残ったという負い目の意識。さらに、今すぐ論ずることはできないが山本七平にも色々とある。他にも南方での戦地体験で心に負った傷が戦後の人生に大きな影響を及ぼしている人々はいるはずだ。南方の過酷な戦場体験によるトラウマが戦後史の背景にひっそりと、しかし悲痛さを内に込めて伏流している。こういった怨念は、我々の気付かないところで、しかしよく目を凝らしてみれば明らかなところで戦後史に影響を与えている。そうしたあたりを精神史としてすくいとっていく作業に関心がある。そういった本はないものか。書いている人はいないものか。

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2010年6月 8日 (火)

ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』

ポール・ヴァレリー(恒川邦夫訳)『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫、2010年)

・ヴァレリーの文明批評的なエッセイ16篇が一冊に集められている。表題作「精神(esprit)の危機」は「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」という一文から始まる。書かれたのは1919年、すなわち第一次世界大戦が終わった直後である。例えばシュペングラー『西洋の没落』をはじめ、大戦の破滅的な惨禍を目の当たりにして近代文明に対して芽生えた懐疑からペシミスティックな文明論が現われたが、ヴァレリーの警句もそうした危機意識漂う気分の中に位置付けられるだろうか。

・現代文明に対して彼が抱いた危機意識は、社会全体の組織化・平準化によって個人それぞれの精神的自由もが奪われていくところにあると言えるだろう。「方法的制覇」は経済的・軍事的大国として台頭しつつあるドイツに現代社会の一つのプロトタイプを見出している。偶然性を徹底的に排除する方法的合理化→一つの事業に向けて大衆組織化→みんな規律に従い、不服従はない→方法的規律化によって大きな成果を生み出すが、他方でそれは個人の平準化をもたらす。マックス・ヴェーバーが“官僚制”の理念型で近代社会を特徴付けた“鉄の檻”の議論などが想起される。
「機械が支配する。人間の生活は機械に厳しく隷属させられ、さまざまなメカニスムの恐ろしく厳密な意志に従わされている。人間が作り出したものだが、機械は厳しい。現在では機械が自分の生みの親たちに向かって規制を加え、彼らの意のままに支配しようとする。機械には訓練を受けた人間が必要である。機械によって、人間の個人差は消滅させられ、機械の規則正しい機能性と体制の画一性に応えられるように訓練される。機械は、したがって、人間を自分たちの用途に合わせ、ほとんど自分たちの似姿に変革するのである。」「機械が我々にとって有用に思われれば思われるほど、我々自身は不完全な存在となり、機会を手放せなくなる。」「最も恐るべき機械は回ったり、走ったり、物質やエネルギーを輸送したり、変形したりする機械ではない。銅や鋼で作られたのとは別の、厳密に専門化した個人からなる機械が存在する。すなわち諸々の組織、行政機械といったもので、非人格的であることにおいて精神の存在様式に範を取って作られたものである。」(「知性について」90~91ページ)
「結局、近代生活の条件は不可避的に、容赦なく、個人を平準化し、個性を均等化する方向にむかうだろう。平均値がむかうところは、残念ながら、必然的に最低水準の範疇に属するものである。悪貨が良貨を駆逐するのだ。」(「「精神」の政策」152ページ)

・近代社会はこうした合理的大量生産によって多大のエネルギーを活用しようとするが、他方で生み出していくものを消費する。必要があって消費するのではなく、浪費するために新しい何かを発明しようとする。
「我々が生きる現代世界は、自然エネルギーをより有効に、より広範囲に利用することに鎬を削っています。絶えざる生活の必要を満足させるために、自然エネルギーを探索し、消費するばかりでなく、浪費するのです。浪費することに夢中になって、新たな使い道(これまでに夢想だにしなかった用途まで)を創造し、かつて存在しなかった新しい欲求を満足させる手段を考え出すのです。」「したがって、我々は、産業の繁栄のために、我々の内面から沸き起こってくる生理的な欲求とは無関係な、意図的に外側から圧しつけられる心的・感覚的刺激に由来する様々な趣味や欲望を吹き込まれるのです。」「我々の感官は、力学的・物理学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、陰険な中毒症状に対するような反応をします。」(「知性の決算書」188~189ページ)

・社会的意思決定を行う際には、社会全体が前提としている人間観が考慮されねばならない。ところが、現代社会にあって、それぞれが拠って立つ理論的根拠に応じて人間観が全く分裂してしまっている。「どんな政治にも何らかの人間の観念がある。政治目標を限定し、できる限り単純化し、大雑把にしてみても、政治にはすべて人間や精神についての何らかの観念があり、世界観があることに変わりはない。ところで、すでに示唆してきたことだが、現代世界において、科学や哲学が提起する人間の観念と法律や政治・道徳・社会が適用される人間の観念との間には距離があり、その溝は深まりつつある。両者の間にはすでに深淵が口を開いている…。」(「「精神」の政策」138ページ)
「かくして精神活動は、猛然と、なりふりかまわず、強力な物質的手段を創造し、世界中で、とてつもない出来事を次々と将来するようになりました。そうしてもたらされた人間世界の変化が、きちんとしたプランも秩序もないままに、我が物顔にふるまいだし、生物としての本来の姿におかまいなく、適応力や進化の速度など、生来の条件の限界を越えて、一方的にふるまうようになったのです。我々が知っていること、すなわち我々がなし得ることの総体が、最終的に、我々の存在と対立するようになったというふうに言えるでしょう。」(「知性の決算書」183~184ページ)

・「我々は自由でないことを何かによって示されないかぎり、自分たちが自由であるなどと思うことはけしてない。自由という観念は、我々の存在の衝動、感覚の欲望、あるいは、反省意識による意志の行使に対立する何かしらの不如意感、束縛感、抵抗感、ないしはそうした状態を仮想したときに起こる反応である。」「私が自由なのは、私が自由だと感じるときだけである。しかし、私が自由だと感じるのは、私が制約されていると感じているとき、現在の私の状態と対照的な状態を考え始めるときだけである。」「自由とは、したがって、一つの対照効果によってのみ、感じられ、認知され、希求されるものだ。」→「自由の要求や自由の観念は不如意や束縛を感じない人には生まれないので、そうした制約を感じなければ感じないほど、自由という言葉も販社も生じることが少ないのである。」「精神的な事象に対する感受性が鈍化していて、精神的な作品にかけられている圧力に気づかないような人々においては、何の反応もない、少なくとも目に見える形では。」(「精神の自由」251~53ページ)

・「現代人は本を読む時間がない…これは致命的だが、我々にはどうすることもできない。こうしたことが、すべて、結果として、文化の実質的な衰退を招くのだ。そして、副次的に、真の精神の自由の実質的な衰退を招くのだ。なぜなら、精神の自由は、我々が刻々近代生活から受け取る混乱した、強烈な感覚の一切に対して、超然として、拒絶する態度を取ることを要求するからである。」(「精神の自由」245~246ページ)

・「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」「ペタン元帥頌」「独裁という観念」「独裁について」はちょっと異例な文章か。例えば、「要するに、精神が自分を見失い、──自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、──政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。」(「独裁という観念」390~391ページ)→つまり、様々な矛盾に引き裂かれて自分たちが何をしているのか自分自身でも分からない精神的混乱状況に対し、一つの方向性へとまとめ上げる精神的機能のアナロジーとして“独裁”観念を捉えている。しかしながら、それは、一人の人物が高度な精神的機能の一切を引き受けるということで、残りの人々は単なる道具に成り下がってしまうことを意味する。19世紀以来の合理的産業組織化の趨勢と、20世紀前半における政治的独裁体制とが親和性を持っていたことが指摘されていると解釈できるだろうか。

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2010年6月 7日 (月)

戸部良一『ピース・フィーラー──支那事変和平工作の群像』、劉傑『日中戦争下の外交』

 戸部良一『ピース・フィーラー──支那事変和平工作の群像』(論創社、1991年)。1937年の盧溝橋事件以降、戦火が拡大しつつある一方で和平工作も進められており、その大半が非公式・秘密裏の交渉であった。本書は主に日本側の政策決定過程との関連を踏まえながら、こうしたピース・フィーラーたちの動きを検証する。ドイツを仲介役としたトラウトマン工作失敗後、有名な近衛声明「国民政府ヲ相手トセス」→人気頼みで権力基盤が弱い近衛は戦勝気分に乗っかって世論対策→蒋介石政権を否認しても具体的方針は一定せず。重慶の国民政府を和平へと転換させる、具体的には蒋介石の下野を求めて汪兆銘工作に乗り出す(近衛声明と矛盾しないように苦慮→軍部や世論など国内要因による制約)→汪兆銘を中心とした和平派の圧力で蒋介石下野を期待→うまくいかず、成り行きの中で汪兆銘首班の政権樹立へと方針変化→ますます重慶政権側との和平は困難になってしまった。また、宇垣工作(宇垣は近衛声明の修正・撤回を意図したが、軍部の反対にあって外相辞任)をはじめ複数の和平工作が同時進行→混乱。

 劉傑『日中戦争下の外交』(吉川弘文館、1995年)。対象とするテーマは上掲書と同じ。従来、「和平工作」について日本側の研究では事変終結の手段として、中国側の研究では誘降工作として捉えられてきたが、これに対して本書は、戦後の日中関係や世界秩序構想との関わりから把握する視点を示す。当時の日本の対中政策について武力行使派と外交交渉派とに分類するが、欧米依存から脱却し日本を東亜安定勢力として国民政府に認めさせるという方針では一致していたと捉える。ところが、トラウトマン工作や九カ国会議をめぐる応酬の中で、交渉相手として国民政府中心論、新政権中心論(蒋介石政権否認、親日新政権樹立)という対立図式に変化した。後者の流れの中で、親日政権づくりのため第一級の大物+三流の働き手の引き出し工作→北洋軍閥期の大物・呉佩孚擁立工作の失敗→汪兆銘の重慶脱出でこうした構想が再浮上。戸部書では汪兆銘工作は当初は和平工作だったのに途中で新政権樹立構想に変化したと指摘されていたが、本書では最初から新政権樹立構想で一貫していたと考える。ただし、汪兆銘に実力がなく思惑外れ→実力を備えた重慶政権との交渉が必要という認識、むしろこちらの方が「和平工作」と言える。

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金雄白『同生共死の実体──汪兆銘の悲劇』

金雄白(池田篤紀訳)『同生共死の実体──汪兆銘の悲劇』(時事通信社、1960年)

 原著は香港で刊行。著者は周仏海と懇意にしていたためいわゆる汪兆銘政権(1940年3月30日から1945年8月)に参加したジャーナリスト。汪兆銘工作の発端から戦後の漢奸裁判まで自身の見聞を踏まえて内情をまとめており、読み物的ではあっても事実関係に間違いはないと評価されているようだ。汪兆銘に関する本で言及されるエピソードには本書から採録されているものが多い。国民党脱出組の維新政府組への嫌悪感。重慶政権側との血で血を洗う特務同士のテロ合戦。日本側との様々な駆け引き。国旗問題ではだいぶもめたらしく、日本側は北洋政権期の五色旗を要求、対して国民党としての正統性を主張する周仏海たちは青天白日旗を頑として譲らず、結局、青天白日旗に「和平・反共・建国」というスローガンを縫い付けて重慶政権側と区別するということで妥協。著者は汪兆銘に関して主観的には決して売国奴ではなかったが、国際情勢の判断を誤ったと評価。政権発足後、日本側のごり押しで何事も裏目に出てしまう中、普段は温厚文雅な汪兆銘も苛立ちが隠せず周囲に当り散らしていたという。

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2010年6月 6日 (日)

汪精衛(兆銘)について

 汪精衛(兆銘)は、「革命いまだ成らず」で有名な孫文の遺言を書き留めるなど国民党の嫡流革命家というイメージがある一方、日中戦争が泥沼化する中で対日協力を行った「漢奸」というイメージもあり、この両極端な二つのイメージを整合的に理解するのが極めて難しい。「漢奸」イメージによってまとわりつく政治的な敏感さのため研究者からは敬遠され、研究上の空白も大きい。日本人からすれば、「親日」イメージを過度に作り上げてしまうことで歴史認識上のタブーに触れかねない、そうした腫れ物に触るような居心地の悪さも感じてしまう。日中関係を考える上で避けられない人物だと分かっていて興味がありつつも、敢えて触れるには色々とハードルは高い。

 汪兆銘について作家による評伝としては、杉森久英『人われを漢奸と呼ぶ──汪兆銘伝』(文藝春秋、1998年)と上坂冬子『我は苦難の道を行く──汪兆銘の真実』(上下、講談社、1999年)がある。杉森書は著者晩年の遺作。戦前の文献など依拠しているソースが古く、事実関係の誤認等は編集段階で手が入れられているようだ。

 上坂書は遺族へのインタビューを中心に汪兆銘、陳璧君夫妻の生涯を描き、遺族のその後についてもたどられている。タイトルは、汪兆銘が日本との和平工作に乗り出した際に蒋介石へ送った書簡の末尾をしめくくる「君為其易、我任其難」という一文に由来する。蒋介石を抗日の旗頭とする一方で、もし日本が勝利しても中国の生き残りを図る、つまり保険をかけたオルターナティヴとして汪兆銘自身は対日和平に踏み込んだという捉え方は史料的な裏付けが難しいが、本書は基本的にこうしたトーンをにじませている。南京国民政府設置にあたり、あくまでも「遷都」であって新政府樹立ではないという建前を取り、主席には重慶政権の林森の名前を掲げて汪兆銘自身は代理主席とするなど、一つの中国、一つの国民党という前提がうかがえる。いずれにせよ、中国側の強硬な抗日世論と日本側の自分勝手なゴリ押しとの板ばさみの中で「漢奸」とレッテル貼りされ、歴史のエアポケットに落ち込んでしまった彼を再評価しようというスタンスに両書とも立っている。

 杉森、上坂両書ともノンフィクション評伝として個々の描写が詳しく読みやすい一方で、情緒に流れやすいきらいもある。汪兆銘政権を客観的に概観するには小林英夫『日中戦争と汪兆銘』(吉川弘文館、2003年)が便利である。本書はこれまでの研究動向をレビューした上で、例えば清郷工作、法幣問題、民衆動員組織(東亜連盟が入り込んできたが、その理念的主張と実際の日本軍の振る舞いとのギャップから支持は得られず)、外交政策(日本の対米英開戦→租界回収、治外法権撤廃等を見返りに期待して参戦を打診。なお、こうした汪兆銘政権の動きに反応する形で重慶政権側も英米と交渉、香港問題を除き不平等条約改正へとつながる)、教育・文化をはじめ庶民生活など汪兆銘政権をめぐる様々な論点を簡潔に網羅している。

 劉傑「汪兆銘政権論」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争7 支配と暴力』岩波書店、2006年)は、日本側の意図と汪兆銘政権側における対日協力の論理とのズレを浮き彫りにする。蒋介石の重慶政権や共産党は抗日→中国の独立という考え方であったのに対し、抗日戦争の先行きに悲観的であった汪兆銘たち和平派は「アジア解放」というロジックの中で中国の独立の可能性を探った。しかし、日本軍占領地において独立政権を果たしてつくれるのかというジレンマからは逃れられず、①正当性・正統性、②日本軍がつくった各地方政権(北京の臨時政府、南京の維新政府)との関係調整、③日本側の干渉に対する交渉、いずれもうまくいかないまま無力であり、結局、傀儡政権に成り下がってしまった(なお、周仏海は満洲の返還がなければ日中問題の解決はあり得ないと考えていたという)。日本側は重慶政権の切り崩しによる親日的かつ強力な中央政府を期待して汪兆銘を引っ張り出したが、思ったほどに波及効果もなく失望、戦争解決のためにはやはり重慶政権側との直接交渉が必要という認識を持ち、そのため自分たちで引っ張り出しておきながら汪兆銘政権の承認を遅らせるなど単なる一手段とみなして軽視していた。

 劉傑「汪兆銘と「南京国民政府」──協力と抵抗の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006年)は、日中間における歴史認識のズレというテーマの中で汪兆銘を位置付ける。汪兆銘をめぐってはやはり「漢奸」「傀儡政権」の評価という争点に帰着してしまうが、彼の前半生における「孫文後継の情熱的革命家」イメージと後半生における「漢奸」イメージとが結び付きづらいという難しさがある。日本側では「愛国かつ親日」、「アジアの協調」という観点からの再評価が見られる。中国側では大陸・台湾ともに「漢奸」イメージでは一致。ただし、以前ほどのタブーはなくなってきて、台湾では彼が重慶政権を抜けた1938年を、大陸では彼が反共に転じた1927年を分岐点として後半は否定、前半は一定の評価という研究動向が表われている様子である。「協力と衝突」アプローチによる研究も現われ、大陸での最近の研究は台湾での研究成果に触発されているものも多いらしい。しかし、研究そのもののタブーはなくなりつつあっても、日中戦争への根深い問題意識が背景に伏在しているため「漢奸」「傀儡」という基本的評価は今後も変わらないだろうと指摘、汪兆銘をめぐる日中の温度差は、戦時期ばかりでなく現代にも続いているのではないかと問いかける。

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