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2010年1月10日 - 2010年1月16日

2010年1月16日 (土)

Jessica Stern, “Mind Over Martyr: How to Deradicalize Islamist Extremists”

Jessica Stern, “Mind Over Martyr: How to Deradicalize Islamist Extremists,” Foreign Affairs, 89-1, Jan/Feb 2010

・タイトルは「殉教者の処遇に注意を払うべし:イスラム過激派を脱急進化させる方法」
・過激派をいくら殺害・捕縛したところでテロが終わるわけではない。強硬手段はかえって反西洋の気運をイスラム社会に広めてしまう。
・拘束したテロリストへの脱急進化プログラムは有効である。つまり、テロ活動へとリクルートされてしまう動機を解消して、通常の社会生活へと再び組み込んでいくことが必要。
・著者は、オランダの映画作家テオ・ヴァン・ゴッホがアフリカ系イスラム過激派によって殺害された事件をきっかけにロッテルダム市から招かれ、脱急進化プログラムに関わり始めたという。オランダは多元的寛容を特徴とする社会であったが、事件後、きしみが生じている。この事件については以前、Ian Buruma, Murder in Amsterdam: Liberal Europe, Islam, and the Limits of Tolerance(Penguin Books, 2007)を読んだ(→こちら)。
・急進主義者のリハビリテーションのためには、彼らには社会的不公正への反発があること、人それぞれ動機は様々であること、イデオロギー的なものはむしろ稀であることへの理解が前提とされる。吹き込まれたイデオロギーには、イスラムの教義からむしろ逸脱していることも多い。
・若者は、最初はその気がなくても、音楽やファッションなどを通じて群れをなし、グループ行動自体が過激化するきっかけとなりやすい(反米ヒップホップなども利用されたという)→家族やコミュニティーからのサポートが必要。
・貧困・失業→職業訓練が有効。
・心理的な問題、例えば、民兵集団の中で幼少期にレイプされたトラウマ→カウンセリングなどのケアが必要。
・脱急進化プログラムにおいては、彼ら自身が抱えている社会的不公正に対する不満や怒りを平和的な手段で表現させることも社会再統合への不可欠なプロセスとなる。

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2010年1月15日 (金)

陳柔縉《台灣西方文明初體驗》

陳柔縉《台灣西方文明初體驗》麦田出版、2005年

 本書の性格を一言で表わすなら“台湾はじめて物語”といったところだろうか。西洋由来の文物やライフスタイルが当たり前となっている現代、「これは一体いつから台湾にあるんだろう?」という素朴な疑問を発端に一つ一つその来歴を調べ上げていく。台湾の読書界では好評をもって迎えられたようで、続編も次々と刊行されている。《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年→こちら)、《人人身上都是一個時代》(時報文化出版、2009年→こちら)は先日取り上げた。

 語られている項目を並べると、カフェ、チョコレート、牛肉、水道、歯ブラシ・歯磨き粉、セメント、電話、電灯、時計、名刺、トイレ、ホテル、デパート、クリスマス、天気予報、新聞、宝くじ、西暦、銅像、公園、裁判所、監獄、選挙、自動車、大通り、飛行機、汽船、スポーツ事始め、テニス、水泳、ゴルフ、サッカー、ピアノ、西洋画、英語、図書館、幼稚園、卒業式、ヒゲ、洋服、男女関係、自由恋愛、職業婦人。当時の人々の暮らしぶりがうかがわれるエピソードも描かれていて面白い。

 台湾に西洋の文物が流入した時期の大半は日本統治期と重なる。すでに欧化政策を進めて列強の仲間入りを果たしていた日本が植民地台湾にも同様のことを強制したからだ。戦後、国民党政権による中国化政策の中で日本統治期の歴史はタブーとなり、そのあおりで抗日史観とは関わりのない世相史的なものまで忘れ去られてしまった。こうした空白を埋めようという問題意識も本書の背景にあると述べられている。

 ただし、日本人である私が本書を読む場合には、日本統治期の近代化=西洋化にばかり目を向けてしまうのも変な話だ。日本統治以外にも、清朝末期における劉銘伝の時代からすでに鉄道や電灯が設置され始めていたし、マッケイをはじめとした宣教師を通しても西洋の文物には触れられていた(例えば、サッカーはミッション・スクールを通して直接教えられたそうだ)。そうした歴史の重層性に台湾という国の興味深さを感じる。

 そもそも、19世紀半ばから20世紀前半にかけて、東アジア全体が近代化=西洋化を否応なく迫られており、劉銘伝や沈葆楨など清朝の洋務官僚が台湾に派遣されていたのはそうした時代的背景による。日本が台湾を近代化=西洋化したという構図ではなく、日本も台湾も同時進行で近代化=西洋化に邁進していったという視点で捉える方が建設的なのではないかという気がしている。

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2010年1月14日 (木)

Bruce Gilley, “Not So Dire Straits: How the Finlandization of Taiwan Benefits U.S. Security”

Bruce Gilley, “Not So Dire Straits: How the Finlandization of Taiwan Benefits U.S. Security,”Foreign Affairs, 89-1, Jan/Feb 2010

・タイトルは「両岸関係をあまり荒立てるな」。
・国際政治学で「フィンランド化」という表現を使うことがある。冷戦下、超大国ソ連の脅威にさらされていた小国フィンランドが、ソ連側に様々な譲歩をすることで、米ソどちらにも属さない中立国として独立を守ってきたことに由来する。
・この論文は「フィンランド化」に肯定的な意味合いを持たせ、台湾の対中国戦略に活用できると主張する。
・中国にとっての関心事は統一=台湾の占領にあるのではなく、台湾の地政学的位置にアメリカの勢力が居座って中国に対する脅威となることを恐れていると指摘→台湾が中立を守れば中国の国益にかなう。
・台湾が「フィンランド化」によって中立政策を取れば、東アジアにおける米中の緊張関係の仲介役となれるし、中国の軍拡にも抑制への動機付けをすることができる。また、台湾・中国の往来が頻繁になれば中国の民主化へと影響を及ぼすこともできる、とされる。台湾の領土は事実上保全されているし、民主主義もしっかり根付いている。そうした台湾だからこそ、中国の懐へと飛び込んでいけば、アメリカの国益にもかなう、という趣旨。
・外交政策上の着眼点としては面白い発想だと思う。ただ、中国の民主化への影響という論点は取って付けたような印象も受ける。例えば、香港が中国に返還されて、そうした成果があったという話は聞いたことがない。香港に関する話題が比較事例として議論の中へ組み込まれていない点には若干説得力が欠けているように思った。

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2010年1月13日 (水)

エミール・デュルケム『社会学的方法の規準』

エミール・デュルケム(宮島喬訳)『社会学的方法の規準』(岩波文庫、1978年)

・「社会的諸事実を物のように考察する」というのが基本命題。もちろん物理的な意味で言っているわけではなく、社会現象を所与の条件として捉えることで、客観的考察の対象とし得るということ。社会現象とは個々人の振る舞いの集合体であり、人々が何らかの形で振る舞う際に従っている思考的枠組み=規範は各人の頭の中にあるわけだが、だからと言って、個人の主観的な動機によってその規範を動かし得るわけではない。むしろ、頭の中にある観念的な行動規範であるはずなのに、それがむしろ私の意図にはかかわりなく強制的な影響力を及ぼしている。そうしたズレを感じたときに、自分自身をも含めて動かしている社会的規範を対自的に把握していくところに社会学的視点。「社会現象の本質的属性は諸個人の意識のうえに外部からある種の圧力をおよぼすという力に存する以上、社会現象は諸個人の意識から派生するものではない。」「社会現象は強制的にか、あるいは少なくとも多少の重圧をおよぼすことによってしかわれわれの内部に入りこむことができない以上、その拘束力は、社会現象がわれわれ[個人]のそれとは異なる性質を呈するものであることを証明しているからである。」「個人が社会的に行動し、感覚し、思考するとき、かれがしたがう権威は、その点でかれを支配するのであるから、この権威は、すなわち個人を超えた、したがって個人の説明しえない諸力の所産であるということである。」(205ページ)

・「共通の感情の動きにわれわれがたとえ自分なりに自発的に参加した場合でも、そのなかで感じる印象は、われわれがたったひとりでいるときに感じるであろうそれとはまったく別ものである。だから、いったん集会が解散し、その社会的影響がわれわれのうえに作用することをやめ、われわれが自分ひとりに返るや否や、さきほどまで経験していた諸感情は、あたかも、われわれのもはやあずかり知らないよそよそしい何ものかであるような効果をおよぼす。そのような場合、これらの感情を、自分たちがつくりだしたものとしてよりは、はるかに自分たちがその影響をこうむってきたものとして認知するのだ。これらの感情がわれわれの本性に反するときには、どうかすると恐怖をもよおさせることさえある。こうして、そのほとんどがまったく害をなす意志をもたない諸個人でも、群集をなすとき、凶暴な行為に身をゆだねてしまうことが起こりうるわけである。」(57ページ)→ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』を想起させる。

・正常なものと病理的なものとの区別。共同体の集合感情とのズレとして顕在化したものが「犯罪」と規定される。もし「犯罪」がない状態を想定すると、それを抑えこんでしまうほどに集合感情が強力である状態=画一的な社会であることの証拠→社会の変容があり得なくなってしまう。「通念に反して、犯罪者は、もはや根本的に非社会的な存在、社会のなかによび入れられた一種の寄生的な要素、すなわち同化しえない異物などではなく、まさしく社会生活の正常な主体としてあらわれる」(160ページ)。「およそ道徳意識が変化しうるためには、個人の独自性が実現されることが必要である。とすれば、世紀に先んじることを夢みる理想主義者の道徳意識が表明されるためには、その時代の水準にも遅れをとっている犯罪者の道徳意識の存在をもゆるされなければならないことになる。つまり、一方は他方なくしては存在しえないということである」(158ページ)。

・「自由をも決定論をも肯定する必要はない。およそ社会学が要求するものは、因果律の原理を社会諸現象に適用することが承認されること、そのことに尽きるのである。」(262ページ)

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2010年1月12日 (火)

陳柔縉《台灣摩登老廣告》

陳柔縉《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年)

 中国語の「摩登」とはモダン(modern)のこと。本書は戦前の台湾におけるレトロ・モダンな広告を集め、日本統治期に流入した西洋の文物にまつわるエピソードを一つ一つつづっていく。台湾にカフェが初めて現われたのはいつのことだろう? そういった“台湾初”を調べようにも資料が乏しい中、新聞雑誌の広告に注目すればある程度確実な時点まで遡れるはずだという発想による。テーマ的に、著者の前著《台灣西方文明初體驗》(麦田出版、2005年)の延長線上にある。

 取り上げられる広告題目は、チューインガム、コーヒー、レーズン、ヨーグルト、アイスキャンディー、練乳、レモンティー、クーラー、冷蔵庫、ガスコンロ、アメリカ車、オートバイ、スクーター、乳母車、競馬、外国映画、ポーランド・バレエ団、海外旅行、サーカス、レコード、手品、運動靴、帽子、録画機、シャーペン、ブラジャー、毛生え薬、オブラート、脱毛剤、X線。『台湾日日新報』掲載の広告が中心。

 当時を生きた人々の回想録なども手掛かりに、これらの商品や事項にまつわる周辺的話題も丹念に拾われている。そこから当時における台湾の生活史や意識の変化が垣間見えてくるのが面白い。例えば、ブラジャーや脱毛剤が商品として販売されていたことからは、洋装に合う形で容姿を美しく見せようという意識が女性の間に広まり始めていたことがうかがえる。日本統治期の話題となると、どうしても政治的に身構えた緊張感を抱きやすいが、本書のような視点も大切だ。

 植民地という歴史的事情から日本の商品が多いのは不思議ではないが、アメリカ製品も意外と多く、アメリカ人のライフスタイルを意識した広告図案も目立つ。太平洋戦争勃発前まで日米間には経済的にも文化的にも様々な交流があった。従って、日本の経済圏内に組み込まれていた台湾にもアメリカの文物が入り込んできたという国際政治的な構図を念頭に置くと、当時の台湾における広告の背景も理解しやすいと指摘されている。

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2010年1月11日 (月)

陳柔縉《人人身上都是一個時代》

陳柔縉《人人身上都是一個時代》時報文化出版、2009年

 これも先日、台湾の書店で平積みされていたので購入。著者はジャーナリストで、日本統治期台湾の歴史を掘り起こす仕事を続けている。日本語にも翻訳された《宮前町九十番地》(2006年、時報文化出版。日本語訳は『国際広報官 張超英』坂井臣之助訳、まどか出版、2008年)もこの人の筆になる。まだ読んでいないが、他に《台灣西方文明初體驗》(麦田出版、2005年)、《台灣摩登老廣告》(皇冠文化出版、2008年)、《囍事台灣》(開[啓]文化事業、2009年)もとりあえず私の手もとにある。

 タイトルは、人にはみなそれぞれの時代経験がある、という趣旨と解されるだろうか。台湾ではかつての国民党政権による中国化政策の中で、台湾人自身の歴史を学ぶ機会がなかったと言われる。前回取り上げた周婉窈『図説 台湾の歴史』にもそうした問題意識がうかがえた。本書にもやはり、日本統治期にあっても台湾人の生活が連綿としてあったにもかかわらず、その時代的記憶と現代との間に断絶がある、そうしたギャップを埋めようという動機が働いているようだ。

 生活史的なエピソードを一つ一つ取り上げていく歴史エッセイで、肩肘はらずに読み進められる。図版が豊富、当時の光景を再現したイラスト(梁旅珠・画)も挿入されて、時代の雰囲気を読者に感じさせようとする工夫として面白い。

 エレベーター・ガールのまだ珍しかった時代、少年たちが胸をときめかせて見に行ったり、自由恋愛の風潮が現われ始めて心中事件が世相を騒がせたり。台南の運河が自殺の名所として有名だったらしい。タバコ工場で働く女工さんたちのアンケート調査も面白い。板垣退助が来台、自由民権運動の老闘士として台湾人から大歓迎されたが、宿泊した鉄道ホテルの費用が高すぎて払いきれずに訴えられたなんていうエピソードもある。

 食の関係では、味の素は台湾でも売り出されて中華料理にも合うことが分かり、大陸へ売り込むきっかけになったという。弁当(便當)の習慣が台湾でも広まって、温かくない食事への抵抗感がなくなったらしい。カゴメのケチャップ(蕃茄醤)も普及、無実の罪で逮捕されていた頼和が獄中でケチャップ炒めを食べてうまかったと日記に記しているのも、深刻な話題なのに、ちょっとニンマリ。

 中華民国の国慶節の際には台北駐在領事の主宰でパーティーが開かれたが、北洋政権、北伐後の蒋介石政権、王克敏政権、汪精衛政権とその都度掲揚される国旗が変わったらしい。土地の記憶をめぐっては東京にも渡り、林献堂たちの台湾議会請願運動や留学生の生活にも思いを馳せる。

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2010年1月10日 (日)

周婉窈『図説 台湾の歴史』

 先日、台湾の書店に寄った折、周婉窈《台灣歷史圖說 増訂本》(聯經出版、2009年)が平積みされていたので購入。去年、東アジア出版人会議による「東アジアの100冊」のうちの一冊として本書が選ばれたことを受けて刊行された増訂本である。日本語訳は『図説 台湾の歴史』(濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳、平凡社、2007年)としてすでに出ている。

 原著初版(1997年)は1945年の日本敗戦で筆が止められていたが、日本の版元側から戦後史も加筆して欲しいという要望があったそうで、日本語版には二・二八事件や白色テロ、民主化運動などを取り上げた戦後篇がある。今回、中国語版の増訂本にもその戦後篇が収録された。原著初版刊行時は戒厳令が終わって(1987年)からまだあまり時日が経っておらず、色々な政治的論争がかまびすしい中でそうした動きから距離をおきたいという気持ちがあったため、敢えて戦後史には触れなかったという事情があるらしい。他にも第10章〈知識分子的反殖民運動〉、第11章〈台湾人的美学世界〉も追加されている。

 叙述を読みやすくする、図版を豊富に採録するといった工夫がこらされている。内容的な特徴としては、中台関係についてどのような立場を取るにしても、台湾が一つの政治的単位としてまとまっている現実を前提として現在の視点から台湾史を描き出そうとしていること(かつて日本統治期には日本史を、国民党政権期には中国史を押し付けられて、台湾人自身が台湾史を知る機会に乏しかったという問題意識)、漢人中心史観から離れて、とりわけ原住民族の存在を織り込んだ族群(エスニック・グループ)の関係に注意を払っていること(かつてアメリカ史においてネイティヴ・アメリカンの存在が忘却されてきたことへの近年の異議申し立てと同様の問題意識)などが挙げられる。台湾史についてとっかかりになる本を読みたい場合には本書をおすすめできる。

 今回の中国語版増訂本で追加された第10章では台湾議会設置請願運動を取り上げ、台湾を一つの政治単位とする考え方の最初であったと位置付けられる。第11章は日本統治期における近代美術・音楽に関する叙述。原住民ツォウ族出身のUyongu Yatauyongana(漢姓:高一生、日本姓:矢多一生)、パイワン族出身のBaLiwakes(漢姓:陸森寶、日本姓:森寶一郎)という音楽家を取り上げているのが目を引いた。

 中国語版増訂本カバーの表1を飾るのは陳澄波の〈嘉義公園〉、南国らしい緑の鮮やかな作品。表4には日本統治期台湾では珍しかったフォービズムの画家・鹽月桃甫の〈ロボを吹く少女〉、原住民族と思われる少女を題材とした赤い色合いに荒々しいタッチ。陳澄波は二・二八事件で処刑されていること、原住民族の少女を題材とした絵を使っていることから本書の傾向を読み取ろうとしてしまうと、さすがにうがちすぎか。

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台湾南部旅行⑤1月4日 誠品書店、帰国

【高鉄、台北、帰国】
・1月4日(月)。7:30頃にホテルをチェックアウト。高雄車站に行くと7:45発の区間車があったのでMRTではなく台鉄で新左営まで行く(15元)。新左営で高速鉄道の左営に乗り換え、8:30左営発、10:06台北着の直達車の切符を購入(1,450元)。今回はちゃんと窓側を指定。改札を抜け、構内にあるパン屋さんで朝食を買う。豚肉と野菜をナンのようなパンでくるんだサンドイッチ。飲み物がつくのでカフェラテを頼む。
・車窓の風景を眺める。高鉄は基本的に市街地から離れた所をまっすぐ走るので、田園風景が延々と続く。木製の電信柱が点々と並ぶ山あいの田舎道など日本の農村でも見かける情景である。台湾の農村ではため池をよく見かけるが、高鉄沿線南部のあたりでは比較的少ないのは嘉南大圳のおかげか。田んぼが青々と美しい。台中など主要駅に近づくと遠くの方に高層ビル群が見える。
・時間通りに台北着。タクシーを拾い(台北では初乗り70元~)、誠品書店信義旗艦店と書いたメモを運転手さんに見せる。割と年配の運転手さん、走り方がどことなく落ち着かず、気になっていたら、途中、交差点で信号待ちをしているおばさんに道を尋ね始めた。ガイドブックの地図を出して運転手さんに声をかけ、台北101、台北市政府などの目印にペンでマークをつけながら道順を指示。到着時のメーターは205元。100元札を2枚出して、ポケットの小銭を探していたら、200元でいいと言う。道が分からなくて手間をかけたことへのおわびということらしい。まあ、それでも割高なのだが、悪気はないのだからOK。
・台湾へ来たときには誠品書店信義旗艦店に必ず寄る。以前は大陸の簡体字書コーナーだったところが消えて「迷台湾 MEET TAIWAN」という台湾の文化・歴史・風土をテーマとした特集コーナーになっており、じっくり眺めた。書店・出版社などの集まる台湾大学近辺、温州街・羅斯福路・汀州路の頭文字をとっていわゆる「温羅汀」(wing raw den)エリアについても特集されており、「台北人独立思考與批判啓蒙地」というキャッチコピー。書店・出版社・カフェなどの地図があって、見ていると、挪威的森林(ノルウェイの森)、海辺的卡夫卡(海辺のカフカ)といったカフェもあり、台湾での村上春樹人気がよく分かる。ベストセラーコーナーへ行くと海外翻訳ものでは『1Q84』が依然として一位だった。
・時間をかけてフロアを歩き回り、中国語は苦手なくせに台湾史関連の本を中心にがっつり買い込んだ。中には朱天心の新刊『初夏荷花時期的愛情』(印刻出版、2010年)のサイン本もある。パスポート提示で免税となった他、1,000元お買い上げごとにクーポン券をくれて、1枚につき100元割引、2枚セットで1回使えるから200元の割引。これもすぐに使わせてもらった。
・時計を見たらもうすぐ13時。14時までには台北発の桃園国際空港行きバスに乗る算段でいるので、タクシーを拾って台北車站まで。今回はスムーズで180元。地下街に降りて、こうばしい香りのコーヒーパンを買って昼食がわりにパクつく。13:40発の國光客運のバス→14:30過ぎに桃園国際空港第二ターミナルに到着。
・16:50発のチャイナエアライン107便に乗る予定で、用心のため早めに空港へ来たのだが、搭乗口に行くと、遅延のお知らせ。出発予定は18:20となっている。原因は機材搬入の遅れとのこと。チャイナエアラインの他の便もみな遅延の表示が出ている。台北市内でもう少しゆっくりすれば良かったとも思うが、予見できないのだから仕方ない。待ち時間に飲み物と軽食としてハンバーガーを配っていた。結局、離陸したのは18:40過ぎ。成田着は日本時間で22:30頃。入国手続きやトランク受取で時間をくうから、何だかんだ言って空港を出られたのは23:30頃だ。航空会社が都内主要駅までのバスを用意しており、新宿行きに乗って帰る。あとはタクシー。家にたどり着いたのは夜中の1:00頃。

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台湾南部旅行④1月3日 竹田、鳳山、高雄

【竹田】
・佳冬から再び列車にゆられて30分ほど、次は竹田で下車。
・竹田車站のホーム脇に無人駅舎があるが、戦前に建てられた木造の日本式駅舎も残されている。竹田の旧名は頓物。
・駅から外に出ると、左側にも日本式家屋がある。池上一郎博士記念文庫。地元の人がボランティアで運営する図書館で、日本語の書籍がたくさんあるということは知っていたので立ち寄った。
・池上一郎はお医者さんで、第二次世界大戦中に軍医として召集を受け、竹田駐屯部隊の野戦病院長として赴任してきた。竹田にいたのはほんの数年間だが、この地の印象が非常に強かったらしく、戦後も台湾からの留学生を支援、竹田にも書籍や奨学金の寄附を行ったという。池上から寄贈された書籍をもとに図書館として開館し、その後も日本・台湾各地から書籍が寄せられているそうだ。日本語の勉強会も行われているらしい。
・残念ながら4日まで休館となっている。建物の周囲はガラス張りだが、中には誰もいない。とりあえず建物の写真だけ撮って、さて、どうしよう、と思案していたら、スクーターに乗ったおばさんがやって来て、館の前に停め、鍵を開けて中に入って行った。どうやら関係者らしい(帰国後にネットで調べたらこの文庫の館長さんだった)。開いた扉のすき間から顔を出して、「ちょっとおたずねしますが、今日は開館してませんよね?」とタドタドしい中国語で声をかけてみた。おばさんはびっくりしていたが、私が日本人だと分かると、快く中に入れてくれた。さらに奥にある扉を開けて電気をつけてくれた。書庫である。壁際の棚に日本語の本がぎっしりと詰め込まれている。見た感じ、比較的新しい本も多い。
・広間に戻り、壁に張り出されている写真や揮毫などを拝見させてもらう。私が中に入っているからだろうか、近所の人たちも次々と中に入ってきた。古い『文藝春秋』をパラパラめくっている女の子を指して「この子も日本語を勉強しているんだよ」。「中国語はどうなの?」「我不会中文…」「台湾語、わかるか?」「不会、不会!」申し訳ありませんが、台湾語はもっと分かりません…。
・おばさんは、日本語は片言程度なら分かるようだが、込み入った話は難しい。どこかに電話をかけて、私を呼んだ。壁にある集合写真の一人を指さしながら「劉さん。ここの理事長ね」受話器を受け取って耳にあて、「ウェイ? もしもし」と言うと、「明けましておめでとうございます」と丁寧な口調が聞こえてきたので、慌てて「明けましておめでとうございます」と返した。互いに一通り自己紹介。「今日は閉館日なんですよ。いらっしゃるときには是非お電話をください」館内に日の丸の寄せ書きがあり、来館者にサインを求めているというので、私も一筆書かせていただいた。帰り際にはお茶までいただいてしまい、劉理事長にも電話だけできちんとしたごあいさつができなかったので、帰国後にお礼状を書いた。
・館内に入り込んできた近所の人々の中から一人の青年をおばさんは呼んで、文庫と駅の前で写真を撮ってあげなさい、と頼んでくれていた。前に書いたように、私は基本的に自分の写真は撮らないことにしているが、好意をむげにするわけにはいかないからお言葉に甘えた。その青年は日本語は分からないが、ロンドンに留学したことがあるとのことで「日本人なら英語は分かるだろう」と英語で会話、漢字の筆談を交える。私はメモ帳にペン書き、彼は携帯電話にチャカチャカ文字入力。ただし、私は英語の本は読めるが、聞き取りやしゃべりは全くダメで、例えば彼がジョークを言ったのに、「pardon?」「what do you say?」「what do you mean?」を繰り返してようやく、ああ、そういうことね、というさまにならない体たらく。帰国後に感謝とおわびのメールを送った。

【鳳山】
・列車が遅れたせいもあって、高雄に戻ったときにはすでに18:30過ぎ。あたりはすでに暗い。いったん宿舎に戻って軽くシャワーを浴び、再び高雄車站から台鉄列車に乗って一駅隣の鳳山へ行く(15元)。南口から出てまっすぐのびる道を歩く。
・曹公廟。清朝の道光年間、鳳山県知事として赴任してきた曹謹という人物が水路を整備して(曹公圳と呼ばれている)この地の人々の生活を安定させたことから、彼を神様として祀ったお堂である。堂内に掲げられている扁額を見ると水利組合関係者のものが多いが、政治家の揮毫になるものもいくつかあり、新しいものでは国民党の連戦、珍しいものでは第五代台湾総督・佐久間左馬太のものもあった。
・台湾は雨もよく降るので肥沃な土地のように思われるが、意外と水はけが悪くて農業用水にはいつも困っていたらしい。台湾各地で見られるため池は水を確保するための工夫の一つだが、水路網の整備はとりわけ台湾の人々から感謝される大事業であった。曹公はその功績から神様として祀られている。八田與一も日本人だからというのではなく、烏山頭ダムと嘉南大圳という水利網整備事業そのものが感謝されたわけで、台湾でなぜ彼の知名度がこれほど高いのかはこうした台湾の文化的背景を知ってみると得心がいく。
・城隍廟は曹公廟から歩いて2,3分ほどのところにある。夜19:00を過ぎて、参詣者は少ないが、灯りが煌々と灯って、入りやすい。城隍廟とは街の守り神、司法の神様としても崇められているらしい。堂内は奥行きがあって、司法関連の様々な概念が具現化された神像が並んでいる。正面奥にある、老けた顔立ちのチビとノッポの二人組みは一体何と言う神様なのだろう?(帰国後に調べたら、これが七爺八爺のようだ)不思議にちょっとおどろおどろしくて目を引いた。

【夜の高雄】
・鳳山でKRT橘線に乗り、美麗島站でKRT紅線に乗り換え、三多商圏站まで行く。
・大遠百Feというデパートの上にある誠品書店高雄店に再び寄って、ぼんやり書棚を眺める。
・手持ちの観光ガイドを見ると、自強路夜市は地元の人々で賑わうと書かれていたので、歩いていく。確かに屋台は出ていたが、閑散としており、人出が少ないと屋台もあまりおいしそうに見えない。ここで夕食をすまそうと思っていたのだが、当てが外れた。
・市の中心部を縦につっきる中山路を渡って反対側に行き、新堀江商店街。こちらは若者の闊歩する街路で賑わいはある。台北の西門町、日本でいうと渋谷か原宿のような雰囲気か。
・中央公園站からKRT紅線に乗って高雄車站まで戻る。

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台湾南部旅行③1月3日 恒春、枋寮、佳冬

【バスで移動】
・1月3日(日)。朝、テレビの天気予報では台湾全土で曇りときどき雨。
・高雄車站脇のバスターミナルへ行く。墾丁方面へ行く墾丁列車88快速という高速バスは30分間隔で意外と本数は多い(なお、台湾のバスやMRT・KRTなどの時刻表では始発・最終便の時間だけ示し、あとは約何分間隔という表示になっていることが多い)。窓口で乗車券を購入(恒春まで308元)、私は7:35頃に乗車。切符を運転手さんに渡すと、端っこを切り落としてから戻される。この時に停車地を確認しているのだろう。戻された券はなくさず手元にとっておき、降車時に運転手さんに渡す。
・あいにくの曇天で、バスが動き始めた途端に雨が降り始めた。高雄市街地を出て高速道路に入る。椰子や檳榔樹など丈の高い木々が栽培される緑の海の中を通る。棕櫚系の葉が幅広い植物も目立つ。丈の低い栽培植物の実には白い袋がかぶせられていて、何の果物なのか分からない。ため池が多い。高速道路を降りてからは墾丁に向けて海沿いの国道を走る。せっかく南国の海の光景が広がっているのに、雨なので残念。道路脇には檳榔のお店が目立つ。それから、黒珍珠の売店も目立ったが、どんな果物なのだろう?
・前の座席に座っている台湾人女性と白人男性の二人組みは英語で会話していたが、途中で中国語の数字の発音練習。とりわけ、十(shi)と四(si)の違いを繰り返しやっていた。このお二方は恒春の手前の保力で降りる予定だったらしいが、運転手さんがうっかり通り過ぎてしまった様子。恒春市内に入り、降車する人が多い地点でお二方も私も下車。
・バス停の前にあったコンビニで屏東縣の地図を購入。持参した観光ガイドを見てもどうも様子が違うと思っていたら、私が降りたのは目的地に想定していた恒春の一つ手前の恒春電信所前というバス停だった。ここから南へ歩けば、恒春古城の城門を外から中へとくぐる形になるので、むしろ好都合。

【恒春】
・恒春古城と記された観光案内板に従って進むと、西門へ出た。映画「海角七号」の冒頭でここが出てくる。撮影のため台北から来たモデルたちの乗るバスがこの西門を通過しようとしても通れない。田中千絵扮する友子が「無理でもいいから通りなさいよ!」と怒鳴りちらすシーン。実際に、普通の車でも片側通行となるためつまっていた。この西門を通って老街へと進むのが昔のメインストリートだったようだが、路線バスは先ほど私の下車したあたりからそれて、城壁のとぎれている大通りを通る形になっている。
・私がちょうど西門をくぐって恒春古城内に入り込んだ頃、雨があがり、雲間から青空が顔をのぞかせた。城壁の向うの空高く、虹が見える。恒春の街は私を歓迎してくれているようだ。
・1874年の日本によるいわゆる台湾出兵(牡丹社事件)の際、西郷従道率いる部隊がこの近くを通ったはずだ。台湾出兵とは、台湾南部に漂着した宮古島民が原住民族のパイワン族に殺害され、日本政府が抗議→しかし清朝側は原住民のことは関知しないと対応→日本軍が上陸した事件。当時、日清両国間で琉球王国の帰属問題が係争中であったが、この台湾出兵の処理を通じて日本への帰属が固まったことは日本史の教科書にある。日本の台湾出兵で危機感を抱いた清朝は洋務官僚の一人である沈葆楨を派遣、恒春古城の城壁は彼の指示で造られたという。
・観光案内標示板に従って石碑公園へと行く。ちょっとした岩山の上に忠魂碑・○○碑など三つの日本統治期の石碑があった。一つはもぎ取られて現存せず、あとの二つは銘文の部分が削られている。自動車で来た家族連れの観光客。小さな子供二人が歓声をあげながら石碑の基壇によじのぼり、お母さんが記念撮影。私も石碑を撮影しようと思って、脇のところでぼんやり待っていたら、私がデジカメを持っているのを見てそのお母さんが「撮ってあげましょうか?」と声をかけてくれた。私は基本的に自分入りの写真は撮らないことにしているので「No, thank you、謝謝」と笑顔でお断り。そのお母さんは「あらあら、台湾の人かと思っていたわ」という感じに笑いながら子供たちの方へ行った。台湾を歩いていると、「写真撮ってあげるよ」と向うから結構気軽に声をかけてくれる人がいる。
・恒春にとって映画「海角七号」は格好のまちおこしの題材である。「海角七号」のロゴ入り観光標示板に「阿嘉之家」と記されている方向へ行く。きれいにペインティングされた小さな家で、「阿嘉の家」(「の」はひらがな)という看板がかかっている。映画の主人公・阿嘉は台北でミュージシャンとなる夢に挫折してこの実家に戻っているという設定。まだ午前10時ちょっと前だが、周りで屋台がいくつか準備を始めていた。観光客らしいのも数人来ている。50元払って中に入れるようだ。ドア前にいたおじさんに渡して入ると、中は明らかに人が生活している雰囲気である。ドア前にいたのはご主人か。小学生くらいの息子さんが所在なげに立っている。奥の台所では奥さんが食事の支度中。急な階段を上ると、二階は阿嘉の部屋。映画中で使われていた日本語の手紙が机の上に置いてあり、写真に撮った。娘さんが観光客相手に案内していた。出るとき、おじさんが「写真撮ってあげるよ」と声をかけてくれた。例によって「No, thank you、謝謝」とやっていたら、私に意味が通じていないと思われたのか、居合わせた別の観光客の人が「シャシン」と日本語で声をかけてくれた。
・南門(写真)まで行くと、そのすぐ脇に臨時バスターミナルがあるのを確認。工事による暫定的なものらしい。もちろん、ガイドブックにあるのとは違う場所である。場所だけ頭に入れておく。東門は現存しないが、大きな門を復元工事中。城壁に沿って北門へ。ここはきれいに整備されており、観光バスなどの待機する駐車場となっており、観光客向けのお出迎えはここのようである。市の中心部に向けて進み、再び最初に来た西門近くまで戻り、それから中山老街をブラブラ歩く。特に屋台などが出ているわけではなく、人通りはそれほどない。
・写真は南門から東門に、写真は東門から北門に向かって歩いている途中に行きあった猫。写真を撮ろうと私が身構えているのを見ても全く動じない。写真は商店街で見かけた子犬。目が合った人ごとにトコトコついていく姿が何とも愛らしいのだが、台湾は狭苦しい路地でもバイクが平気で通り抜けていくので、心配にもなる。
・私は回り道したので少々時間がかかったが、恒春の街を普通に見ながら一巡するには1時間ほどあれば十分ではないか。城壁や城門に年経りた風情を感じさせる、こぢんまりとしているが静かで穏やかな街だ。街の人々を見ていると、原住民系の目鼻立ちのくっきりした顔立ちの人も割合と見かけた。
・南門脇のバスターミナルへ戻り、チケットを買ってバスを待つ。11:30過ぎにバスが来た。

【枋寮】
・枋寮までバスで移動。今朝は雨降りも覚悟していたが、くもりがちとはいえ時折雲間から晴れ間ものぞき、天気としてはまずまず。車城を過ぎると海岸沿いを走る。海の色は明るいエメラルド・グリーンに見える。さすがに海水浴客はいなかった。海沿いでは養殖用の池垣も見かけた。
・枋寮車站に行くと、タッチの差でちょうど列車が出発してしまったばかりであった。次まで1時間ほど待たねばならない。街を歩く。うらぶれた感じの漁港。商店街があるにはあるが、人通りは少なく、どこかで昼食を摂ろうにも、目ぼしいお店は見当たらない。屋台はあちこちに置いてあるから、夜になればそれなりに活気も出るのだろう。書店が文具屋・玩具屋を兼ねて子供たちが集まっているのは日本の田舎でも見られる光景だ。
・駅前の通りに、枋寮の歴史を記した説明表示板が並んでいた。ざっと見たところでは、下関条約(1895年)後の日本による台湾接収にあたり、乃木希典率いる部隊がここから上陸したこと、民族学者の鳥居龍蔵と森丑之助、移川子之蔵と宮本延人がそれぞれここを通過したという記述が目についた。
・海辺に出る。海の向うに見える島は小琉球か。ぶらぶら歩いていたら、小型漁船の密集する内湾状の船着場に出た。入口あたりではおっさんが椅子の上に足を投げ出して新聞を読みふけっており、私がそばを通り過ぎても見向きもしない。女の子が一人、漁船の甲板の上から船のすき間に釣り糸を垂らしている。コールタールの独特なにおい。近くの家からは、昼食の準備だろうか、鍋をカシャカシャこする音が聞こえてくる。のどかなお昼時。気温は体感的に言って20度を越しているはずだ。
・駅前のセブンイレブンでパンとコーヒーを買い、列車に乗り込んで車中で軽く昼食を済ませた。

【佳冬】
・枋寮から列車に乗り、一つおいて次の佳冬で下車。1940年代の皇民化運動の最中に建てられた神社の鳥居が現存しているらしいので、それを見るのが目的。
・檳榔樹その他の木々が青々と繁る中にひっそりとたたずむ二つの駅舎(写真)。一つは現在使われているものだが、もう一つはおそらく戦前に建てられたものだろう。
・人通りはほとんどない。大通りに出る。台湾の国道。午前中、恒春に向かう高速バスの墾丁列車に乗って通った所だ。道路に沿っていくつかお店が並んでいるが、檳榔の売店、それから客家料理のお店が目立つ。ここは客家系の集落のようだ。
・駅を出て右側の方向へ進む。檳榔や果物の畑が広がる中をまっすぐつっきるようにのびる道路。文字通り郊外に典型的なほこりっぽい風景で、バスや大型ダンプがビュンビュンとばしていく。20分ほどひたすら歩いて、それでも何もないので、そろそろ諦めて引き返そうかと思った頃、ようやく鳥居を見つけた(写真)。左斜めの方向に小道が続いている。かたわらには台湾土着のお堂があり、道路の反対側にはセブンイレブン。
・鳥居をくぐって小道を進む。犬が2匹待ち構えていて、私の姿を認めるやいなや、けたたましく吠え立て始めた。私が進んでいくと道路脇によけて吠え続けている。パタパタ尻尾を振っているし、表情もむしろ嬉しそうで、「珍しいお客さんが来たよ!」と周囲に知らせようとしているように見える。草むしりをしているおじいさんは、私があたかもそこにはいないかのように、平然と作業を続けている。
・道路脇を見ると、両側に一対の丸いくぼみのある石の台座らしきものが規則的に並んでおり、この道に沿って複数の鳥居が並んでいたことが分かる。築山状のところにつけられた小さな階段の上にも鳥居があり、そこをくぐると、社殿跡が目に入った。針金状の鉄芯が飛び出たコンクリートの台座以外には何もなく、それも鬱蒼とした木々の中に埋もれるように隠れている。
・佳冬車站に向けて、畑の中のほこりっぽい一本道を引き返す。両側に広がるのは果樹園らしいのだが、実にはすべて白い袋がかぶせられていて、何の果物なのか分からない。近寄って確かめようと思い、念のため写真を撮っていたら、スクーターに乗ったおばさんが近寄って来て止まった。年の頃は50~60代くらいか。以下、会話を超意訳すると、「ここはオラんちの畑だども、おめさん、何してるだ?」「ワタシ、ニッポンジン、チューゴクゴ、ワカリマセン。コレ、水果(果物)?」「そうそう、水果、水果」「ナンノ水果?」「レモン」(と聞こえた)。私は中国語をしゃべれないから、とっさに思いつく単語と構文を滅茶苦茶に結び付けてタドタドしい。言葉が出てこなくて、もどかしくて苦しそうに手を動かしていると、おばさんも笑っていた。「中さ入って見ていかんかね?」「謝謝、ワタシ、ジカン、アリマセン。車站ニイカネバナリマセン」「どこさ行くだ?」「カオシュン」「ああ、カオシュン。佳冬車站ならこの道をまっすぐ行きんしゃい」「謝謝、謝謝、再見」時間が潤沢にあればご好意にあまえたいところなのだが、仕方ない。心残りのまま歩き始めた。
・駅近くまで戻ったとき、ある家の前で車から降りてきた女の子とお母さん。すれ違ったとき、「わかった?」「わすれたあ」「なに?」という会話が耳に入った。えっ、と驚いて振り向いたら、もう家の中に入ってしまった。私の聞き間違いか?

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台湾南部旅行②1月2日 台南、高雄

【台南】
・1月2日(土)。7:30高雄発の莒光号に乗り、8:15台南着。台南車站の駅舎は日本統治期のもので今でも現役である(写真)。観光マップをもらうため駅舎内の観光案内所に寄る。土日は観光用巡回バスが無料となることを教えてくれた。予定としては、まず一番遠い安平古堡近辺まで行き、そこから徐々に台南車站まで戻ってくるルートを計画。
・8:30過ぎにバスが来た。台南市内の観光名所をくまなく寄る形で路線が組まれているので時間は少しかかるが、市内のおおよその雰囲気、方向感覚、距離感を測る上で大いに役立った。観光に関しては大まかに言って二つの区域、つまり台南車站から歩ける範囲にある赤嵌楼などの区域と、海近くにある安平地区とに分けられる。その間は畑や空地が目立つ典型的に郊外型の風景。大型マンションなどが開発されつつあり、新しくて大きな台南市政府庁舎もある。
・「徳記洋行・安平樹屋」という停留所でバスを降りた。空地が広がって寂しいところで、ここで降りてしまってよかったのか?と一瞬不安になったが、とりあえず歩く。安興洋行(写真)。生い茂る木々の緑の中に埋もれるようにひっそりとたたずむ洋館。かつてドイツ商人の商館だったらしい。洋行とは欧米人の商社を指す。
・すぐ裏手には日本式家屋が復元されており、これも観光スポットとなっている(写真)。門前には赤レンガ積みの防空壕(写真)。
・台湾を歩いていると、時折、雨風にさらされてボロボロの日本式木造家屋の上に大きな屋根をつくって建物そのものを保存しようとしているのを見かけることがある。しかし、木造だとやはり保存にも限界があるわけで、ここ安興洋行の裏手にしても、あるいは以前に行った金瓜石でも見かけたが、日本式家屋を当時の工法に従って再現建築して歴史遺産にしようとする動きが興味深い。それを単純に日本へのノスタルジーと解してしまうのは少し違うだろう。淡水にあるスペイン人の紅毛城、高雄の打狗英國領事館、これから見に行くオランダ人のゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)やプロヴィンシア城(普羅文西城、赤嵌楼)など、ヨーロッパの来航者たちの建築物も台湾では積極的に保存しようとしている。南方系、中国系、欧米人、日本人、様々な外来者がやって来て、その痕跡が重層的に積み上げられた多文化性そのものに台湾人としての歴史的アイデンティティーを求めようとする志向性があると言ったら的外れだろうか? かつては、中国人か日本人か、いずれでもない台湾人か、という排他的なアイデンティティー選択が問題となっていた。次いで、そうした選択を迫られること自体が不自然であることがポストコロニアル的な観点から指摘されるようになり、排他的選択ではなくすべてを包み込む多文化主義の流れの中に歴史的な経緯も組み込んでいこうとしているように思われる。
・安平樹屋(写真)。これも洋館であるが、屋根は落ち、壁は崩れかかり、そうした廃墟然とした建物をガジュマルの樹が覆い尽している。その風情がなかなか素晴らしくて、安平観光の目玉の一つとなっている。同じ敷地内にあるのが、徳記洋行(写真)。イギリス商人の商館だったが、現在は台湾開拓資料館となっており、中では台湾史の各シーンが蝋人形で再現されている。原住民や渡来漢人の生活、オランダ人の鄭成功への降伏場面、オランダ人の生活光景などもあった。
・ここから歩いて10分もかからないところに、安平古堡がある(写真)。かつてオランダ人が占領していた時代に拠点としていたゼーランディア城(熱蘭遮城、台湾城)。言うまでもないだろうが、この名前はオランダのzeeland州に由来し、語源的にはニュージーランドと同じ。鄭成功がオランダ人を追い払った後も彼がここに拠点を定め、19世紀末に清朝が台湾省を設置して台北をその首府とするまでは台南が台湾第一の都市として重きをなしていた。安平古堡は一時期は打ち捨てられて完全に廃墟となっていたようだが、現在は古跡として整備され、観光客もあふれかえるほどに来ている。中国式の城市は街の周囲を城壁に囲むが、対してヨーロッパ式(日本も同様)は市街地と城堡とが分かれている点に違いがある。オランダ時代の城壁(写真)。城壁上に置かれた清代の砲門(写真)。鄭成功の銅像(写真)。「民族英雄」と書かれている。資料館が二つあり、ゼーランディア城の復元模型(写真)、オランダ総督Coyet(コイェット、揆一)の銅像、濱田弥兵衛によるオランダ総督捕縛シーンの絵画など様々な展示。
・そろそろお昼時になろうかという頃合。安平は牡蠣の養殖が名物とされているらしい。陳家蚵捲に行く。レジ横に置いてある注文用紙に記入して会計を先に済ませる方式。時間のかかる料理は番号札を渡され、出来たときに受渡し口へ取りに行く。蚵仔煎、肉燥飯、魚丸湯を注文(写真)。蚵仔煎は牡蠣やモヤシなどの入ったオムレツ。
・バスを待つ時間がもったいないのでタクシーを拾い、億載金城へ行く(写真)。1874年の日本による台湾出兵で危機感を抱いた清朝政府は洋務官僚の一人、沈葆楨を台湾に派遣。彼の指示により台南の防備を固める目的で築かれた洋式の要塞である。近代的戦闘で主となる砲戦を踏まえて、城壁ではなく土塁によって攻城砲の威力を減殺すること、死角を作らないため堡塁を突き出していることなどが特徴。函館の五稜郭とほとんど同じ形式であるが、億載金城の堡塁は四つである。清代の将官の鎧を身に着けて拡声器を持った案内係のコスプレおじさんが、やる気のなさそうないかにもバイトだなという感じの若者兵士二人を引き連れて何やら騒いでいるなあと思っていたら、設置砲の射撃デモンストレーションらしい。安平の歴史から延々と説き起こして前置きが長いので帰ろうとしたら、背後から砲声が聞こえてきた。億載金城脇の水路には軍艦が停泊していた。ここに海軍博物館をつくる予定らしいから、展示のための退役艦であろう。
・タクシーを拾い、台南車站近くまで引き返し、延平郡王祠で降ろしてもらった。ここでは鄭成功が祀られている。彼は台湾の漢族系住民にとってのシンボルであり開山王廟として建てられたが、彼の母親が日本人であることから、日本統治期にここは開山神社とされていた。日本人以外を祭神とした神社は珍しい。戦後、延平郡王祠に戻る。鄭成功は明の皇帝から延平郡王という称号をもらっていたことに由来。写真は入口あたりの門。鳥居のようにも見えるが、横にある説明板によると、二・二八事件の事後処理で来ていた当時の白崇禧・国防部長が台湾の人々をなだめるために献納したのだという。廟堂内の鄭成功像(写真)。母親の田川松の肖像画もあった(写真)。敷地内には沈葆楨の銅像、それから、鄭成功文物館があり、鄭成功についてはもちろんだが、海洋文化に焦点を当てた展示も行なわれている。
・写真は廟堂に掲げられた蒋介石の揮毫による扁額。反清復明を唱えて大陸攻略の機会をうかがっていた鄭成功の姿を、共産党に奪われた大陸への反攻を目指す蒋介石自身になぞらえている。台湾史を読み取るときには、読み手側がどこにポイントを置くかに応じて鄭成功の位置付けが変わってくるのが興味深い。日本統治期は母親が日本人であったことから日中の架け橋として、国民党政権時代は大陸反攻の英雄として、台湾主体意識においては台湾の開発・近代化の基礎を築いた人物として、それぞれ位置付けのコンテクストが異なってくる。
・延平郡王祠から北へ向けて、かつて台南の中心街だったところまで行く。この辺りには古い建物が積極的に保存されているので、デジカメ片手に歩き回る。まず、孔子廟(写真)。以下は日本統治期の建物で、台南高等法院(写真)。旧愛国婦人会、現紅十字会の建物は修築工事中(写真)。小学校の図書館として利用されている昔の神社の社務所も修築工事中(写真)、同じ小学校の講堂は昔の武徳殿を再現している(写真)。嘉南大圳水利組合(写真)。八田與一はここに勤めていたわけだ。旧林百貨店は廃屋のまま残されている(写真)。旧勧業銀行、現在は土地銀行(写真)の亭仔脚は壮麗な列柱式(写真)。台南警察署(写真)。台南合同庁舎(写真)。旧台南公会堂(写真、写真)は現在でもコンサートホールとして使われている様子、清朝時代から呉氏の庭園として有名だったそうで呉園と呼ばれている。敷地内には日本統治期の料亭・柳屋が土産物屋になっている(写真)。この近辺で見かけた古い建物(写真、写真、写真)。
・写真は国立台湾文学館。日本統治期には台南州庁だった建物を利用、博物館・研究機関としての機能を持つ。荷物をクロークに預けて入館、順路に従って進む。この建物の建築様式及び設計者・森山松之助に関する展示から始まる。「多音交語 族群共栄」というキャッチコピーのコーナーでは声を聞かせる工夫に興味。原住民系諸言語、ホーロー語の各方言、客家語、オランダ語、日本語、標準中国語。多言語社会ならではの展示である。台湾の文学史はオランダ人が記録した『熱蘭遮城日誌』(分厚い中国語訳は台湾文学館から刊行されている)から始まるとされ、当時の台湾を知る史料として村上直次郎(台北帝国大学教授)訳注の『バタヴィア城日誌』(平凡社・東洋文庫)も展示されていた。頼和の書斎光景をホログラムで再現した展示も面白い。超現実主義の現代詩には西脇順三郎(台湾人の弟子として林修二という人の名前が挙がっていた)と春山行夫の影響が強いとあった。なお、帰国直前、台北の誠品書店で『台湾文学館の魅力』(国立台湾文学館、2008年)という日本の神奈川近代文学館で行なわれた展覧会の図録(日中両文)を見かけたので購入した。
・近くの度小月というお店で担仔麺を食べる。台南名物として知られる肉みそがけの麺。漁師さんが出漁できない時期に麺を担ぎ売りしたのがはじまりと言われている。たしか楊蓮生『診療秘話五十年 一台湾医の昭和史』(中央公論社、1997年)だったと思うが、日本統治期の学生時代、買い食いは厳禁されていたのに担仔麺を食べに行ったら、担任の先生も食べに来ていたのと出くわし、気まずい思いをしたが、後で何も言われなかったと回想していたのを思い出した。日本人の口にも合う味だったらしい。それから、再発號肉粽というお店で肉入り粽も食す。
・赤嵌楼。オランダ統治時代のプロヴィンシア城。門前には中国共産党による法輪功弾圧を非難するビラを配る人々。赤レンガの基壇壁は洋風だが、建物等は完全に台湾風である。中にはオランダ時代の模型。台南車站から歩いてこられる距離でもあり、観光客でごった返している。台南では一番の観光名所だが、意外と印象が薄かった。
・台湾の人たちは観光地でよく記念撮影をしており、特に若い人だとアイドルのように凝ったポーズを取る人も多い。去年、台湾の書店に行くたびに、ベストセラーのコーナーで美少女ポーズ写真入門の本が積んであるのを見かけ、いったい誰が買うのだろうと思っていたら、熱心に立ち読みしている女の子を結構見かけた。こういう本で勉強して、かわいらしいポーズで写りたい、ということか。
・台南車站まで歩いて戻る。駅の反対側に出ると、国立成功大学のキャンパスが広がっている。日本統治期の台南高等工業学校を前身として、現在は台湾でも有数の名門大学らしい。一般人も気軽に中に入って散歩している。奥の方まで行くと、赤レンガ造のなかなか風格のある校舎があった(写真)。その前にはガジュマルが点々と佇む芝生の広場となっている。ジョギングしたり、ボール遊びしたりする人々。写真は一番大きくて古そうなガジュマルの木。皇太子時代の昭和天皇がここで記念植樹をしたというから、これがそうかな。歴史文物館(写真)に行ったら、ちょうど閉館時間の17:00を過ぎたばかりで、中に入れなかった。

【夜の高雄】
・台南車站で17:21発の区間車に乗り、高雄に着いたのは18:00過ぎ。途中、保安車站で対向列車とすれ違うため一時停車した際、駅舎が古そうな日本式だったので撮影(写真)。
・宿舎で軽くシャワーを浴びてから、高雄車站の反対側(南側)に出て、高雄願景館に行ったら、今日も休みだった。明朝利用する予定のバスターミナルの位置を確認してから、タクシーを拾う。
・高雄市立歴史博物館(写真)。かつて高雄州庁だった建物が博物館として転用されている。平日は夕方18:00までだが、土日は21:00まで開館。常設展示のほか、特集展示として正月にちなんだ紅い小物特集、チベットのお正月特集などをやっていた。常設展示では、大衆芸能の布袋戯の他、1947年の二・二八事件をめぐる展示に力が入っている。高雄を中心に見た事件の経緯がパネルと映像資料でまとめられ、殺害された人々のリストや遺品なども展示。地元の有力者を中心に高雄二・二八事件処理委員会が設立され、国民党政府側との交渉を行なったが、国民党軍はそのメンバーを次々と逮捕・処刑、現在博物館となっているこの建物も砲撃を受けたという。博物館から道路を挟んだ向かい側の仁愛公園には高雄二・二八事件紀念碑が建っている。
・高雄車站方向へ戻りがてら、博物館の横を流れている愛河に沿って北へと向かう。高雄の夜は色とりどりのイルミネーションが美しく、夜の散歩は気持ちがいい。

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台湾南部旅行①1月1日 入国、高雄

【出国、高鉄、投宿】
・1月1日(金)。日本時間9:40成田国際空港発→台湾時間12:40桃園国際空港着のチャイナエアライン107便。ほぼ時間通り。機中で旅程の細部を練り直し、辞書をめくって行先の地名のピンインをメモに書きとめておいた。行先の具体的な場所を調べるにあたっては、片倉佳史『観光コースでない台湾』(高文研、2005年)、『片倉佳史の台湾新幹線で行く台南・高雄の旅』(まどか出版、2007年)、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社新書、2009年)、荻野純一他『高雄と台湾最南端 歴史遺産からリゾートまで』(日経BP企画、2008年)、『台南 台湾史のルーツを訪ねる』(日経BP企画、2008年)などを参照した。
・今回は高雄のホテルに拠点を置いて動く予定なので、まず台湾高速鉄道(新幹線)に乗るつもりで台北に出ようと台北車站行きのバスに飛び乗った。バスが動き始めたとき、高鉄に乗るなら桃園の方が近いかという考えも頭をよぎったが、始発から終点までの長距離列車の旅にしようと考えなおす。
・桃園国際空港から台北車站までバスで所要約1時間。空港から出るまでにも結構時間がかかっていたので、台北車站にたどり着いたのは14時半頃。台北を15:00発、板橋・台中以外は通過する直達車で所要96分、左営には16:36に到着。1,450元。通路側の座席になってしまったので車窓の風景をじっくり眺められなかったのは残念。
・高鉄の改札脇の売店で台鉄便當を買った。60元。ご飯の上に豚の骨付き肉と甘辛く煮た厚揚げのようなのが載り、温野菜と漬物が添えられている(写真、写真)。ご飯にタレのからまるとなかなかうまい。「便當」とは日本語の弁当のこと。日本統治期にこの弁当という言葉は台湾に広まっていた。国民党政権の中国語化政策の下でおおっぴらに日本語を使うわけにはいかなくなったが、日常語はそう簡単に変えられない。そこで、発音はそのままに、字だけ変えて「便當」となったという。
・高鉄の終着駅は左営。将来的に延伸の計画はあるらしいが、現時点で高鉄は高雄まで通じていない。台鉄(台鉄の駅名は新左営となっているので注意)もしくはKRT高雄捷運という地下鉄に乗り換えて高雄中心部まで行く。時間にもよるが台鉄は本数が少なく、一昨年にKRTが開通してだいぶ便利になった。路線図状のタッチパネルがあり、行先駅名を押してから硬貨を投入(初乗り20元~)、出てきたトークンを自動改札機にかざしてホームに入る。高雄車站までは所要10分超程度。
・日本統治時代の高雄旧駅が新駅の隣に移築・保存されている(写真)。帝冠様式(基本は洋風のコンクリート造なのだが、上に和風の瓦葺屋根をのっけた昭和初期独特の建築様式。例えば、上野の東京国立博物館本館などもこれ)。現在は高雄願景館となっており、高雄の観光案内施設らしいのだが、今日はお正月だからだろうか、休館中(中国語圏は春節もあるから、事実上お正月が2度あることになる)。
・高雄車站の南側を正面玄関とすると、北側の裏玄関の方に宿泊先がある。KRTから地上に出ると南口だったので、北口へはどのようなルートをとればいいのか分からず、観光案内所の人に尋ねたら、入場券(6元)を買って駅構内を通過するしかないとのこと。
・宿泊先の京城大飯店は高雄車站から道路を渡ったすぐ向かい側。ビジネスホテルのつもりで予約していたが、なかなかきれいなホテルだ。カウンターへ行くと日本語の流暢な女性がいて、私がたどたどしい中国語で「予約してある」と言おうとしたら、すぐ日本語で返ってきた。3泊で15,600日本円。部屋は15階(ただし、縁起かつぎで3フロア分の番号が省かれていたから、実際には12階か)、高雄車站に面して見晴らしはよく、高雄85大楼もはっきりと遠望できる。部屋は広くて快適。駅まで徒歩1分だから移動にも便利。高雄車站の北口は少々不便だが、ホテルのカウンターに申し出れば駅構内の無料通行パスをくれる。

【夜の高雄】
・荷物を置き、軽くシャワーを浴びてから、ホテル前でタクシーを拾う(高雄では初乗り85元~)。沿岸部の西子湾にある打狗英國領事館へ行く。所要20分ほど。地図で見ると高雄の街の中心部からだいぶはずれているので夜だと寂しいのではないかと少し不安だったが、杞憂であった。すでに18:00を過ぎてあたりは暗くなり始めているが、ここは夜景のきれいなナイトスポットとして知られているらしく、むしろ夜の方が賑やかである。
・タクシーを降り、運転手さんが指さしてくれた方へ行くと緑に囲まれた小高い丘の上の方にライトアップされた洋館が見えた。そこへ向かって急な階段があり、大勢の人々が上り下りと行き交っている。登りきると、古びた風格のある赤レンガの建物。打狗英國領事館。清朝期のイギリス領事館である。すぐ脇に龍をあしらった台湾風のお堂があるのも面白い。ここは高雄港の入口を扼する要衝である。台北にとっての淡水のような位置関係か。打狗とはターカウと発音する。日本統治期にタカオ→高雄と改称され、現在は高雄→カオシュンと呼ばれている。
・赤レンガ建築の内部の一部はカフェでにぎわっているほか、歴史に関する展示室もある。打狗(高雄)はアロー戦争最中に結ばれた天津条約(1858年)による開港地の一つであり、対外交渉史について解説されている。清朝の役人とイギリス人領事が会談している蝋人形があった。
・それから、ロバート・スウィンホー(Robert Swinhoe、史温侯、1836~1877)という人物に関する展示。カルカッタ生まれのイギリス人外交官で、ヨーロッパ人として最初の台湾駐在領事として打狗に赴任。外交官としてよりも博物学(natural history)の方で知られているらしく、台湾の固有種の生物学名の多くは彼が名づけたという。スウィンホーの博物学者としての知名度に絡めてだろう、去年はダーウィン生誕200周年だったことに合わせてナショナル・ジオグラフィック誌との提携でダーウィンと進化論についての特集展示も行なわれていた。
・バルコニーからは夜の海の眺望が開けている。とりわけ市の中心部方面は街の明かりが美しく、記念撮影をする人が多い。若いカップルやお友達グループ、家族連れ、老人会らしき団体さん。老若男女、様々な人々がワイワイ歩き回っている。
・階段を降りて、タクシーで来た道を歩いて戻る。しばらく行くと西子湾に出た。細長く入り込んだ湾に沿って遊歩道が整備されている。潮風の少し濁ったにおいが軽く鼻につく。体感気温は15度前後か。高雄の一月は東京で言うと初秋の涼しさを感じさせる心地よさ。入江状の湾の向うには、高雄85大楼のてっぺんの緑色の明かりをはじめ街の灯がきらめいている。釣り人の釣竿の先端にも緑っぽい光、おそらく魚をおびき寄せる灯りなのだろうが、港を彩る光の一つとして面白い。
・鼓山区の商店街。人通りは多少あるものの、大半のお店の明かりは消えている。南国の家屋は暑いためか開放的だ。歩道として一般人が通行する亭仔脚のスペースも店先の一部として認識されており、仕事が終わって、食事をしたり、テレビをみていたり、子供がパソコンゲームに興じていたり、そういった生活光景が見える。別に覗き見したわけじゃないよ。日本統治期は高雄港駅を中心にこの辺りは繁華街となっていた。当時、この一帯は鉄道路線にちなんで濱線と呼ばれ、現在でも地元の人々は哈碼星=ハマセンという通称を使っているらしい。お店の看板に哈碼星という文字を見かけるし、「哈碼星 HAMA-Star」と表記した学習塾の看板も見かけた。
・警察署など日本統治期の建物もいくつか現存しているが、暗くてうまく写真に撮れなかった。旧高雄港駅は戦後もしばらく使われていたようだが、現在は路線廃止、駅舎は残っているが、線路は空地となっている。旧駅舎の前に高雄の歴史をマンガで解説したパネルがあった。暗くてよく見えなかったが、読めた範囲で言うと、糖業、電力など日本統治期のインフラ整備について詳しく取り上げられていた。それから、中学校教員として赴任してきた土屋恭一という人が学生を連れて考古学的な発掘調査をしたことにも触れられていた。現在、旧駅舎前にはKRT西子湾站がある。
・旧高雄港駅から沿岸に出る。新濱碼頭には海軍の基地があって小銃を抱えた警備兵がものものしいが、人々は関係なく夕涼みをしている。港湾局関連施設の脇の大通りを歩いて漁人碼頭へ。ネオンが明るくポップスが大音量で流れたり、ジャズのライブ演奏があったり、若者向けのお店が並ぶ一角である。
・日本の敗戦後、日本人の引揚者が集められた埠頭はこのあたりだろう。映画「海角七号」(→こちら)で日本人教師が引揚船に乗って去り、台湾の人々が大勢見送りに来ているシーンがあったのを思い出す。日本人と入れ代わりに、国共内戦で敗れた国民党軍の兵士や難民が大陸から台湾へと押し寄せてきたが、やはりこの埠頭のあたりで野ざらしで集まっていた。龍應台『大江大海 一九四九』(天下雑誌、2009年→こちら)にそういうシーンがあった。そういったことをつらつら思い出しながら、このオシャレな店並びとのギャップに、ある種の感慨も催す。
・漁人碼頭から歩いてまっすぐ北上。途中、噴水の出る公園があり、日本語の演歌が聞こえてきて、誰が歌っているのかと見回したら、水が出るのと連動したスピーカーからだった。一体これは何だ? 高雄市立歴史博物館まで出る。日本統治期の高雄州庁だった建物である。愛河(英語名love riverとなっているのは何かいやだなあ…)を渡ったところでタクシーを拾う。
・高雄85大楼。直通エレベーターに乗って75階の展望台へ。道路ぞいの看板の明かりと自動車のヘッドライトが光の直線を四方八方にのばしており、俯瞰すると高雄の夜景はキラキラと明るい。
・この近辺はデパートの集まった商業圏。大遠百FE21というシネコンも入ったデパートの上に誠品書店高雄店があるので足をのばした。誠品書店は本の品揃えだけでなく、どの店舗も内装がシックに凝っていて好き。あんまり買い込んで荷物が重くなるのはいやなので1冊だけ購入。
・三多商圏站でKRTに乗り、次の中央公園站で下車。六合夜市を歩く。担仔麺(肉みそがけの麺)、胡椒餅(基本的に肉まんみたいだが、外側の生地はパリパリとして、肉の餡がスパイシー)、臭豆腐など買い食いしていたら、これでもう夕食は十分。台湾の屋台街を歩くと必ずにおってくる臭豆腐、実は今回が初挑戦で、食べてみると意外とにおいは気にならない。ただし、タレの辛さを中程度にしてもらったが、それでも口の中がヒリヒリする。後でペットボトルのミネラルウォーターをがぶ飲みした。
・中央公園站に戻ってKRTに乗り、高雄車站で下車。宿舎に戻ったのは23時過ぎ。

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