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2010年4月18日 - 2010年4月24日

2010年4月24日 (土)

奥野信太郎『随筆北京』

奥野信太郎『随筆北京』(平凡社・東洋文庫、1990年)

 奥野は昭和11~13年まで外務省派遣の特別研究員として北京に滞在、その折の見聞から触発されるようにつづられた随筆集。街に行き交う人々の光景、小吃の風味、芝居のこと、そういった諸々の話題も、いつの間にか古典から現代文学まで幅広く引きながら一種風格のある文章にまとめ上げてしまうのは、やはり奥野の筆さばきのたくみさである。物売りの呼び声は東京ではもう聞けなくなったな、と言いつつ北京の呼び声を記して、それがちょっとした詩のようであるのも面白い。丁玲について好き嫌いこもごも感想を記しているのは、当時にあっては現代文学を論じていることになるのか。この随筆が中国論としてどこまで通用するのか私には判断しかねるが、むしろ奥野の話芸を堪能するという読み方になるのだろう。

 折しも盧溝橋事件が勃発、東交民巷での避難生活の描写が興味深い。周作人、銭稲孫など北京残留知識人との会見記もある。冀東防共自治政府の殷汝耕とも会っており、彼の日本語はたくみで豊かだと論評しているが、逆に、上から目線のようにも思えて気になった。中国滞在中の中国専門家が中国側要人と中国語で会話したわけではなかったのか。奥野に特別な意図はなかったろうが、日本軍占領下の雰囲気が、逆説的にではあるがうかがわれる。

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2010年4月23日 (金)

周作人のこと

 周作人をめぐっては、漢奸か否かという議論がどうしても避けて通れないようである。ところが、以前に読んだ劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年→こちら)は彼の文学性が話題の中心であり、江戸文化的エスプリへの共感という点で周作人と永井荷風とに共通した感性を見出す指摘がとても興味深かった一方で、対日協力の問題にはほとんど言及がなかった。読んだ当初はいぶかしく思ったが、中国におけるポリティカル・コレクトネスにひっかかると彼の内面的感性は形式的な鋳型に狭められてしまう、それを賢明に避けようとしたのかと今さらながら得心がいった次第である。

 木山英雄『周作人「対日協力」の顛末──補注『北京苦住庵記』ならびに後日編』(岩波書店、2004年)はこの問題に正面から向き合う。淪陥期、すなわち日本軍占領下の北京に残った周作人の動静が丹念にたどられる。彼は本来、政治から距離をおきたい文人気質の人間で、華北政務委員会で役職に就いたのも成り行きの中でという感じ、大東亜文学者会議には関わらないよう腐心しており(それどころか会議で片岡鉄兵は「老大家(=周作人)を打倒せよ」と呼号した)、積極的に対日協力したようには見えない。そもそも彼の動機については諸説とびかってよく分からないところが多く、そうした分からなさや矛盾もひっくるめて、考え考え進められる本書の筆致からは勉強させてもらった。当時の北京における人物群像も描かれる。日本国籍であることを利用して中国大陸にやって来た台湾出身者も少なからずいたが、周作人の身辺にも張深切の名前が出てくることをメモしておく。

 木山書で引用される、共に喜ぶ(共甘)よりも共苦の方が真実かもしれない、という趣旨の一文が目を引いた。圧倒的な西洋文明を前にして、中国も日本もどうにもならない困難を感じ取っている、その共通体験に周作人は「東洋人の悲哀」を見出した。

 『周作人随筆』(松枝茂夫訳、冨山房百科文庫、1996年)、『日本談義集』(木山英雄編訳、平凡社・東洋文庫、2002年)の2冊を読んだが(→こちら)、思想的透明感(こうした感覚をどうしても老荘思想と結ぶつけたくなるのが私の癖だが、周作人はそこまで言っていない)が自然とにじみ出てくる洗練された文人というのが私の周作人に対する印象である。

 さらに言うと、政治や人間関係がゴタゴタした渦中にあっても、そこから離れたところから自身を取り巻くあり様を俯瞰できる視点を持っていた人なのかな、そんな印象を持っている。トラブルに巻き込まれて、もちろん生きていくためにもがきもするだろうが、一方でそうした一切を冷静に見切ってしまっているというか。政治的に生硬なロジックが激しく鍔迫り合いを繰り広げる中で、彼はされるがままに翻弄されているという感じ。「弁解しない」というのが彼の処世態度であったが、それはいわゆる「潔さ」というのとはちょっと違って、弁解してもしなくても結果は変わるまい、どうでもいいし、大した問題でもない、そんな感じの一種の諦念のようにも思えてくる。

 魯迅(周樹人)や周作人たち周一家の家族的不和はよく知られているが、いさかいがあっても周作人は悠然と机に向かって書き物をしていたと魯迅は記しているらしい。許広平や弟の周建人は家族を北京に残して抗日戦に身を投じたわけだが、その彼らが残した家族も養わなければならなかったというのが周作人が北京に残った理由の一つである(許広平は後に周作人を漢奸として厳しく弾劾したが、そこには家族的不和が投影されている節もある)。例えば、同様に郭沫若も家族を日本に残して抗日戦に身を投じたことが美徳として称讃されたが、周作人は彼らのような政治最優先の生活態度とは明らかに対照的である。

 戦後、周作人は漢奸として有罪判決を受けて服役したが、獄中でも泰然と詩作する生活態度が尊敬されたようだ。間もなく釈放され、中華人民共和国成立後は北京・八道湾の自宅に戻り、日本やギリシアの古典翻訳を生業とした(ただし、本名での発表は許されなかったらしい)。文化大革命で自宅が荒らされ、屈辱と失意の中、1967年に82歳で世を去る。

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2010年4月20日 (火)

『周作人随筆』『日本談義集』

 『周作人随筆』(松枝茂夫訳、冨山房百科文庫、1996年)を読んだ。情景的雑感のつづられた文人気質の趣味的短文が集められている。素直に読みやすい、と言っても感想らしい感想になっていないじゃないかと叱られそうなのでもう少し言葉を補うと、近代中国で名のある人物の文章を読んでも、ジャンルや表現の問題という以前に、感性的に何か「硬い」という印象が強くて、なかなか感情移入できない戸惑いがいつもあった。周作人の随筆に見られる、中国、日本、ヨーロッパ、古今東西の典籍を踏まえた博引傍証は一見ペダンチックにも見える。しかし彼は、興を感じたなら素直に面白いと言い、不自然に格好つけた形式へと筆先を落とし込むようなことはしない。その筆先にこちらものっていくと、彼の感じた興趣がさもありなんと得心されてくる。そういう意味で素直に読めるということである。彼も多感な青春期には中国革命を夢見ていたわけで、政治意識がその後も完全消滅したわけではなかろうが、円熟した筆さばきはそうした無粋な「硬さ」を韜晦の中へと紛れ込ませてしまう。

 何よりも私は、ある種の達観めいた感性に共感を覚える。例えば、「風を捕える」という一文が好きだ。旧約聖書の『伝道の書』を引き、パスカルの『パンセ』を引き、「空はあるがままに空であらしめ、空なりと知りつつも、しかもまたひたすらこれを追跡し、見極めようとするならば、それははなはだ有意義なことであって、実際偉大なるかな風を捕うること、と言われるにふさわしい。」こういう感性を私は『荘子』を通して感じているのだが、いずれにしてもこのあたりの勘所が分かっている人の文章というのが私にはとてもしっくりと馴染む。

 周作人は日本文学に造詣が深く、『日本談義集』(木山英雄編訳、平凡社・東洋文庫、2002年)には知日派としての知見を披露した文章が集められている(上掲『周作人随筆』との重複もある)。目を引くのは、他国文化を見るとき、政治の次元と文化芸術の次元とは分けて考えねばならないという指摘だ。時あたかも日本軍が中国大陸へと侵略しつつある時期であった。周作人も日本軍の乱暴には憤りを隠さない。他方で、日本の政治レベルでの醜悪さだけを見て、文化レベルの繊細な美しさまで一括りに断罪してしまうのもおかしいとたしなめる。人生すべからく矛盾が混在しているもので、そこに性急に断案をつけることはできない。しかしながら、親日か抗日かと二者択一を迫られる中で第三の立場の余地はなく、結局、彼は日本に利用され、戦後は“漢奸”として断罪されることになる。

 私が周作人の名前を初めて意識したのは、学生の頃、図書館で益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)を読み、そこに彼の名前があるのを目にしたときだ。魯迅の弟ということは知っていたので、そのギャップが記憶に残った。その後、劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年)を読み(→こちらで取り上げた)、江戸文化的エスプリへの共感という点で周作人と永井荷風に共通したものを見出す指摘にいたく興味がそそられた。荷風については、その放蕩生活からほのめかされた自我の徹底、脱俗性=非政治性そのものが、当時における軍国主義的時代風潮に対する最もラディカルな異議申し立てであったと指摘されることがある。周作人は、彼自身の意向とはかかわりなく政治に巻き込まれてしまったところに一つの悲劇があったと言えるだろうか。

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2010年4月18日 (日)

李暁東『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』

李暁東『近代中国の立憲構想──厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想』(法政大学出版局、2005年)

・国家統一・独立維持に肝要な立憲政治確立のため西洋・日本から近代思想を受容、同時に伝統思想としての儒教をどのように位置付けるか? こうした問題意識に向き合った思想家として厳復、楊度、梁啓超の三人に焦点を合わせ、彼らの構想を加藤弘之、福沢諭吉など明治期日本の啓蒙思想家たちと比較考察。西洋近代を基準とする「民度」ではなく、現実の社会状態としての「民情」という視点。伝統に立脚した上で西洋近代思想を受容、ウェスタン・インパクトはこの伝統をむしろ活性化=再解釈させる触媒として作用したと捉える。儒教の否定ではなく、相対化。
・厳復:法と道徳の分離は中国では成り立たないという問題意識。専制を抑えるため法治主義の導入、同時にそれを「民情」と合わせるため儒教伝統的な民本思想と結び付ける。礼治システムの中で民衆の法意識向上を目指す。
・楊度:ビスマルク的「鉄血主義」ではなく「金鉄主義」(富強のため自由のある人民、強国=対外的には責任のある政府が必要)は、西洋近代思想に触発されながら、伝統的な民本思想を磨き上げた。「仁」の担い手を為政者だけでなく人民すべてに拡大。「国会速開」論→まず国会を開いて、試行錯誤のプロセスそのもので人民を鍛えていく。全国民平等の必要→「満漢平等、蒙回(蔵)同化」→国家統一のため蒙回蔵をつなぎとめておくため清朝皇帝が必要→「虚君」論。
・梁啓超:「自己のもの」=伝統と西洋の「新理新学」とのぶつかり合いの中から普遍的なもの=真理を見出そうとした→「附会」論から質的に変化した上で中国伝統思想の中に可能性を探ろうと努力。
・加藤弘之は「民情」と「民度」を同一視→開化不全→君主専治=啓蒙専制という考え方。梁啓超には社会進化論へ転向した後の加藤弘之からの影響あり。ただし、加藤が「強者の権利」を以て天賦人権説から訣別したのに対し、梁啓超には両方が共存。「闘争のモチーフ」→自ら権利を勝ち取るものとしての「新民」の創出。
・福沢諭吉は独立の手段として西洋文明の摂取が唯一の方法とみなす→厳復や梁啓超らは伝統と西洋との結合の可能性を見出そうと努力した点で異なる。福沢が「私利」に基づく「公」として西洋近代の発想を理解したのに対し、厳復・梁啓超らは団体の利益優先、個人の利益制限という発想。
・「附会」の有無が日中の大きな相違点として挙げられる→日本は西洋思想をより正確に理解したのに対し、中国は儒教の重みから抜け出せず、むしろ伝統思想の活性化・再解釈という方向を取らざるを得なかった。
・袁世凱の帝政→楊度は帝政実行のため籌安会を組織 厳復は袁世凱個人の資質に疑問をつけていたが消極的に容認、梁啓超は袁世凱の帝政に反対して護国戦争の先頭に立った。ただし、梁啓超は一時期袁世凱政権を支持していたことがあり、帝政そのものにも必ずしも反対だったわけでもない(帝政が望ましいが、現状において共和制が成立しているのだから安易な国体変更は混乱のもと→既存事実を踏まえて構想するのが梁啓超の特徴。また、袁世凱即位の正当性に疑問という判断)。それぞれニュアンスが異なるとはいえ清末啓蒙思想家たちが基本的に帝政支持だったのはなぜか?→法や国会の枠組みに基づく立憲帝政ならば情勢安定化のために必要という考え方。

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