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2010年3月14日 - 2010年3月20日

2010年3月20日 (土)

アーヴィング・ゴッフマン『スティグマの社会学──烙印を押されたアイデンティティ』

アーヴィング・ゴッフマン(石黒毅訳)『スティグマの社会学──烙印を押されたアイデンティティ』(改訂版第2刷、せりか書房、2003年)

・他者からの社会的信頼を著しく失わせる属性としてのスティグマ。正常/異常という対立そのものの是非ではなく、こうした社会現象が現実にあることを前提として、これをめぐる人びとの行動パターンを社会学的に分析。本書ではアメリカ社会における身体的ハンディキャップ、病者、同性愛者等々が中心で、人種的・民族的レベルまでは踏み込まず。
・スティグマを隠して越境(自らにまつわる情報の管理・操作)→パッシング(passing)→多様な生活上の準拠枠組みの中で二重生活、いつ露見するかという不安の中での生活→社会的アイデンティティ(社会関係における空間的なアイデンティティの分割)、個人的アイデンティティ(二重生活を管理・操作しなければならない内面的なアイデンティティの分割、一歩進んで社会的統合の工夫)、自我アイデンティティ(社会的にも内面的にも分割状況にあることの認識→アイデンティティとして定着)。
・社会化の段階:まず常人が持つ視角を学習→その視角から見て自分が失格していることを理解→常人が相手をどのように処遇するのかを学習→越境の仕方を会得。
・「常人のなかのもっとも幸運な人びとでも半ば隠れた欠点をもつのが普通であり、しかもどんな小さな欠点もそれが大きな影を投ずるときは、即時的な社会的アイデンティティと対他的アイデンティティの間に世人の目を避けたくなる乖離を生ずるようになる機会が社会には存在するのだ。たまに不安定な人と、常時不安定な人とは一つの連続体の上にある。つまり二つの型の人びとの生の状況は同一の枠組みで分析することが可能なのである。」(214ページ)。
・常人の役割とスティグマのある者の役割は同一部分の複合体。「恥ずべき差異」という概念自体が共通。→スティグマのある人は「逸脱点のある常人」。言い換えれば、その個人に固有の属性というのではなく、相対的な関係性の問題。
・「スティグマとは、スティグマのある者と常人の二つの集合に区別するっことができるような具体的な一組の人間を意味するものではなく、広く行なわれている二つの役割による社会過程を意味していること、あらゆる人が双方の役割をとって、少なくとも人生のいずれかの出会いにおいて、いずれかの局面において、この過程に参加していること」。「常人とか、スティグマのある者とは生ける人間全体ではない。むしろ視角である。それらは、おそらくは出会いを機に具体的に作用することになる未だ現実化していない基準によって、さまざまの社会的場面で、両者が接触する間に産出されるものである。」→常人、スティグマ所有者の区別は役割の相対的な相違→「多くの場合ある面ではスティグマのある個人が他の面でスティグマのある人びとに対して抱く偏見が全部常人のものそっくりそのままであっても、驚くにはあたらない」(231~232ページ)。

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2010年3月19日 (金)

広井良典『定常型社会──新しい「豊かさ」の構想』『持続可能な福祉社会──「もうひとつの日本」の構想』『グローバル定常型社会──地球社会の理論のために』『コミュニティを問いなおす──つながり・都市・日本社会の未来』

広井良典『定常型社会──新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書、2001年)
・高齢化、人口・資源が量的に均衡点に向かいつつある、つまり経済の拡大成長を主要目標とはしない社会。こうした「定常型社会」における持続可能な福祉社会をどのように構想するかを模索。
・伝統的社民主義・ケインズ主義(大きな政府)/伝統的保守主義・市場主義(小さな政府)→方向性が正反対に見えても、経済成長志向という点では両方とも同じ。
・「個人の機会の平等」→原理的に突き詰めればスタートラインを同じ地点に設定しなければ公正とは言えない→相続税の強化(資産格差が出発点における機会の不平等を生み出してしまうのだから、相続税を財源として「人生前半の社会保障」に充当→個人の潜在的自由を保障)。現実問題としては、ハンディを負った人でも潜在的自由を保障する必要である点に社会保障の意義を求める。つまり、個人のライフサイクルを座標軸とした社会保障。事後的な施策ではなく、将来のアクシデントに備えて未然防止としてのセーフティネット。
・資源・環境など地球規模での制約の中にあっても存続できる福祉社会。
・個人単位ではなく、世代間継承を意識。
・高齢者や子供は土着性が強い→地域重視。
・時間の消費(余暇・レクリエーションなど文化活動、ケア、生涯学習など自己実現)→市場経済の枠組みには収まらない。

広井良典『持続可能な福祉社会──「もうひとつの日本」の構想』(ちくま新書、2006年)
・「持続可能な福祉社会」=「定常型社会」:個人の生活保障や分配の公正が十分実現されつつ、それが環境・資源制約とも両立しながら長期にわたって存続できる社会」。
・上掲書で展開された議論を踏まえ、社会保障のあり方と長期的持続性とを結び付ける形でライフサイクル、雇用、教育、年金、再分配、資本主義、環境、医療、コミュニティなど様々な論点を検討。
・かつて日本では「終身雇用」(会社単位)「核家族」による「見えない社会保障」という形を取ったため、社会保障は老後・障害者などこのシステムから外れた人々への手当て(事後的な施策)として捉えられてきた。しかし、雇用流動化、格差拡大などの社会的変化を踏まえ、会社単位ではなく個人のライフサイクル単位で社会保障を考えなおす必要。人生の後々まで影響を及ぼしてしまう人生前半期での社会保障(とりわけ教育機会の平等)という問題意識。
・言い換えれば、自立した個人を前提としつつ、それを支える公共性の確立を理念とする。情緒的共同体が同心円的に広がるつながり、独立した個人としての公共意識に基づくつながり、両方のつながりをバランス。

広井良典『グローバル定常型社会──地球社会の理論のために』(岩波書店、2009年)
・「定常型社会」=「持続可能な福祉社会」を構想して上掲書で展開された議論を、文明史的な次元で大きく捉え返していく。
・ナショナル・ミニマムは、誰を福祉国家内の成員とみなすかを確定しなければならないという意味でナショナリズムと親和的な考え方→グローバル・ミニマム。

広井良典『コミュニティを問いなおす──つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書、2009年)
・国家レベルと個人レベルとの中間団体としてのコミュニティ。→「生産のコミュニティ」/「生活のコミュニティ」、「農村型コミュニティ」/「都市型コミュニティ」、「空間(地域)コミュニティ」/「時間(テーマ)コミュニティ」、それぞれのタイプの重なり合いとしてコミュニティを把握。
・「農村型コミュニティ」は情緒的・非言語的つながり(内部的関係性)、対して「都市型コミュニティ」は規範的・理念的ルールの普遍性に基づく開放的なつながり(外部的関係性)。→後者が重視される一方、人間は感情的次元を持つため、相互補完性が不可欠となる。
・「私」(→市場)中心のシステムが進展するにつれてインフォーマルな「共」的基盤が弱体化。しかし、それに代わる「新しいコミュニティ」(公共性)としての関係性を基礎付ける価値原理が未確立。
・「公」(政府レベル)─「共」(地域社会)─「私」という重層性。
・戦後日本社会では「終身雇用」による「見えない社会保障」という形を取ったため、社会保障の問題は老後に集中。しかし、社会構造の変化(雇用流動化、格差拡大)→「機会の平等」か「結果の平等」かという対立ではなく、前者の保障のためにこそ制度的介入が必要となる。従って、「人生前半の社会保障」が政策的に必要。
・ケアの空間化という問題意識。世代的継承性→「持続可能な」地域社会としてのコミュニティ政策。「都市」的視点と「福祉」的視点とを別個に立てるのではなく、両者を絡ませた形での政策が必要。
・近代科学の基盤としての要素還元主義に沿って従来の社会政策は組み立てられてきた。しかし、個体間のコミュニケーションがケアの本質的意味として重要であり、その場としての「コミュニティ」。

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2010年3月18日 (木)

橋本健二『「格差」の戦後史──階級社会 日本の履歴書』『貧困連鎖──拡大する格差とアンダークラスの出現』

 橋本健二『「格差」の戦後史──階級社会 日本の履歴書』(河出ブックス、2009年)は、社会学的な「階級」もしくは「社会階層」という概念をもとに戦後日本社会における構造変化の動態を読み解く。「階級」と言ってもマルクス主義イデオロギーの不毛さとは距離を置いた学術用語である点に注意。「格差」は量的な差異を示す中立的用語だが、分断状態の質的差異が見失われやすい。「貧困」はイメージしやすい言葉だが、それをめぐる差異が目えづらい。「結果の格差」と「機会の格差」、二つの原理が理念的によく語られるが、現実には両方が絡まりあってカテゴリー間の格差再生産につながっており(例えば、教育機会の格差と経済状態は結び付いており、親の出身階級に左右されていることは近年指摘されている。苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』[有文堂高信社、2001年]を参照)、こうした問題を経済的・社会的資源配分の不均等としての「階級」概念によって可視化。資本家階級・労働者階級という二項対立ではなく、旧中間階級(自営業等)、新中間階級(正規雇用者等)を加えた四階級モデルが本書の分析視角。地位の非対称性と賃金格差が結び付いている点で、現在では正規雇用者と非正規雇用者との間に搾取関係のあることが指摘される。

 橋本健二『貧困連鎖──拡大する格差とアンダークラスの出現』(大和書房、2009年)は現状分析。九割中流という幻想が破綻していることはすでに社会全体で実感されているが、自民党政権時代の政府・財界が「格差はみせかけ」と主張していた一方で、親の経済状態と子供の教育水準とが連動しているという問題意識から実態調査をしようとしても教育現場では「差別につながる」として反対があったらしい。その二重の意味での逆説が目を引いた。生活の不安定な非正規雇用の増大→従来型の階級構造のさらに下に位置するアンダークラスとなり、生活水準の低さから家庭形成困難→子孫を増やすという意味での世代再生産困難(山田昌弘『少子社会日本──もう一つの格差のゆくえ』[岩波新書、2007年]の結婚格差の指摘とパラレルな議論だ)。さらに、健康格差、生命格差の問題。自己決定は選択肢が健全に保証されてはじめて成立するが、機会格差拡大の現状を放置しながらそれを正当化しようとする「自己責任」イデオロギーの欺瞞が指摘される。

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2010年3月17日 (水)

楊海英・新間聡『チンギス・ハーンの末裔──現代中国を生きた王女スチンカンル』、楊海英『モンゴル高原の文人たち──手写本が語る民族誌』

 楊海英・新間聡『チンギス・ハーンの末裔──現代中国を生きた王女スチンカンル』(草思社、1995年)は、オルドス在住のモンゴル貴族出身女性スチンカンルから聞き取ったオーラル・ヒストリーをもとに、中国領内モンゴル人に襲い掛かった苦難を描き出す。彼女は共産党の活動に一所懸命に努力しても、「悪い出身階層」であるがゆえに認められない。そればかりか、難癖をつけられて迫害された。モンゴルの生活文化に対する漢人の無理解(定住化の強制、牧畜集団化の失敗など)はモンゴル人の生活基盤を崩してしまい、漢語教育の押し付けなど大漢族主義の傲慢さは、民族文化消滅の危機をもたらした。中国共産党がかつてモンゴル人を懐柔するためにアヘンを用いたことも指摘されている。文化大革命前後の残酷な迫害については楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下、岩波書店、2009年)に詳しい(→こちらで取り上げた)。

 上掲書はオーラル・ヒストリーだが、楊海英『モンゴル高原の文人たち──手写本が語る民族誌』(平凡社、2005年)は手写本に注目、そこに表現されている様々な語りを通してモンゴル史の再構成を目指す。日本の東洋学研究にも長年の蓄積があるが、かつてそれは主に漢文史料に基づいていたため漢人視点に立った塞外史としてモンゴル史を捉える形になっていた。そうした傾向は中国国内により顕著なことは言うまでもない。遊牧民族も自分たちの歴史を文字に記してきたにもかかわらず、漢人=文明/遊牧民=野蛮という偏見から、モンゴル語史料の価値が無視されてきたという問題意識を本書は示している。手写本の喪失はすなわちモンゴル文化消滅を意味する。反右派闘争・文化大革命をはじめ漢人から受けてきた政治的弾圧の中でも身を挺して守ってきた人々の努力に敬意が払われる。少数民族出身研究者は、場合によっては投獄されかねないようなナーバスな政治状況と隣り合わせである。従って、「自民族中心主義」「分離独立主義」などと言いがかりをつけられるような隙を見せないためにも客観性・政治的中立性に細心の注意を払わねばならないという難しさを、自身モンゴル人である著者は指摘している。

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2010年3月16日 (火)

張承志『殉教の中国イスラム──神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』『紅衛兵の時代』

 張承志(梅村坦・編訳)『殉教の中国イスラム──神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』(亜紀書房、1993年)は、中国イスラムの一つ、ジャフリーヤ派の内面世界に踏み込み、彼らの抵抗と殉教を軸として回族の歴史を再構成する。原著のタイトルは『心霊史』となっているらしい。相次ぐ回民大反乱を、唯物史観的な社会経済の矛盾としてではなく、信仰のあり方から内在的に捉えようとしている。共産党政権下のイデオロギー硬直性がまだ強かった出版時点では稀有な視点と言えるだろうか。

 ジャフリーヤ派はスーフィズム(神との合一を求める内面的志向性)系の新教であり、18世紀に現われた馬明心の教えが、黄土高原の過酷な自然環境にあって貧しく虐げられてきた人々のくじけそうな気持ちをとらえた。清の乾隆帝の時代、馬明心は政府軍によって処刑され、以来、抵抗と殉教が彼らの精神的アイデンティティーとなった。清朝の弾圧による流刑や逃亡によってジャフリーヤ派は新疆・雲南をはじめ中国各地に散らばっていく。

 著者の張承志自身が回族の出身であり、北京生まれのエリート学生ではあったが、文化大革命のとき、理想主義的情熱から底辺の地域や民族に分け入って内モンゴルで牧民として暮らす。その体験を通して精神的彷徨の末、ジャフリーヤ派への関心が芽生えたという。その経緯は自伝的な作品『紅衛兵の時代』(小島晋治・田所竹彦訳、岩波新書、1992年)に記されている。「紅衛兵」という言葉そのものは彼の発案だったらしい。ただし、初期紅衛兵として理想的情熱を抱いていた彼自身からすると、その後の文化大革命の政治的混乱にはだいぶ違和感があったようだ。文革時にエリート紅衛兵に見られた、「良質な」革命家庭出身者>「悪質な」反革命家庭出身者と人間を生まれでカテゴライズする血統主義に対しては強い反感をもらしている。

 紅衛兵体験ものでは、だいぶ昔に陳凱歌(刈間文俊訳)『私の紅衛兵時代──ある映画監督の青春』(講談社現代新書、1990年)を読んだ覚えもある。細かい内容は忘れてしまったが、父親をつるし上げた後悔の念は印象に残っていた。

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2010年3月15日 (月)

中薗英助『何日君再来物語』

中薗英助『何日君再来物語』(河出書房新社、1988年)

 私は、李香蘭はもちろん、テレサ・テンもすでに歴史上の人物という感じでピンと来ない世代である(「アジアの歌姫」という表現を見ると、フェイ・ウォンなどがまず頭に浮かんでしまう。こちらもすでに旬は過ぎているとは思うが)。当然ながら、「何日君再来」(いつのひきみまたかえる/ホー・リー・チュン・ツァイ・ライ)という曲も聴いたことはない。それでも、たった一つの歌をめぐってこんなにミステリーがまとわりついているのかと、背景を知らないだけにかえって新鮮な興味で読んだ。

 周璇、李香蘭、渡辺はま子、テレサ・テン、中国語・日本語それぞれで歌われ、受け止め方もそれぞれ。中国では、日本軍の謀略工作か、それとも抗日歌か? 蒋介石を待ち望む歌? 共産党政権下ではエロで頽廃的だから禁止すべきとされた。時代の政治的思惑も渦巻く中で正反対の解釈がまかり通り、タブー視されたり、日中友好歌とされたり。ペンネームを使った作詞・作曲家の正体も分からず、最終的に劉雪庵の名前が突き止められるが、彼は反革命的と迫害を受けた末、著者の連絡と行き違うようにこの世を去っていた。

 中国で「漢奸」と決め付けられてしまった人々の立場的もしくは内面的葛藤には以前から関心がある。台湾出身で漢奸と名指しされて暗殺された新感覚派の文人・劉吶鴎の名前も本書に出てきたが、彼については田村志津枝『李香蘭の恋人──キネマと戦争』(筑摩書房、2007年)で知ってから興味を持っている。

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2010年3月14日 (日)

「台北に舞う雪」

「台北に舞う雪」

 大陸出身で新人歌手として台北でデビューしたメイ(トン・ヤオ)。精神的ストレスから声が出なくなり行方をくらませた彼女は、山あいの田舎町・菁桐でモウ(チェン・ボーリン)と出会う。孤児として町全体を家族のように思う彼の優しさに接して、メイは徐々に声を取り戻していく。

 ストーリーは可もなく不可もなくという感じ。それよりも、よく計算された美しい映像がこの映画の見所か。フォ・ジェンチイ監督はミュージック・プロモーション・ビデオのように凝った映像を作れる人なんだな。時折、大都会・台北のシーンも挿入され、菁桐の町の穏やかな空気が対照的に際立たせられる。その中にたたずむ、チャン・ツーイー似の清楚な美人トン・ヤオの憂い気な表情が印象的だ。

 菁桐には一度行ったことがある。日本統治期に建てられた駅舎の屋根の苔むした緑色が最初に目にとまり、かつて鉱山で栄えた時代の線路や橋脚なども木々の中に埋もれ、町全体が緑の中に静かに沈んでいるという印象があった。駅の線路脇から丘をのぼる階段が目に入って登ってみようと思ってやめた覚えがあるのだが、その上の集会スペースが映画終盤のコンサート会場になっていた。天燈は手前の平渓で季節はずれだが観光客向けのデモンストレーションとして一つ空に飛ばしていくのを見た。菁桐に到着した時はすでに夕方であまり歩き回らずに引き揚げたのだが、映画を観ると、思っていたよりも大きめな町なんだな。あるいは、平渓でもロケをしたのか。平渓は線路の両脇に商店街が並んでいる風景が印象に残っている。

【データ】
原題:台北飄雪
監督:霍建起(フォ・ジェンチイ)
原案・脚本:田代親世
2009年/中国・日本・香港・台湾/103分
(2010年3月14日、シネスイッチ銀座にて)

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坂野潤治『近代日本の国家構想1871─1936』『日本政治「失敗」の研究』、井上寿一『昭和史の逆説』、他

 19世紀以来、(日本に限らず)新興国家が直面した課題は、国家建設のため上からの権力的リーダーシップを確立する一方で、下からの民主化要求をどのように両立させるかという問題であり、そうした葛藤の中から憲法に基づく議会制度整備としての立憲主義が求められたと言える。

 坂野潤治『近代日本の国家構想1871─1936』(岩波現代文庫、2009年)は、廃藩置県により軍事・租税を手中に収めて中央集権政府として緒についた1871年から二・二六事件で岡田啓介内閣が退陣する1936年までのタイムスパンにわたり、立憲政体構想をめぐって政治史の焦点となった対立軸を浮き彫りにする。左右の二項対立ではなく、実効性あるシステムを模索した中道派に着目しているのが本書の特色である。明治憲法にある天皇大権の規定は大きな障碍ではあったが、穂積八束の天皇主権説はともかく、内務官僚・都築馨六の超然主義で示されていた政党政治家のアマチュアリズムが党利党略に走って国家的事業を妨げかねないという懸念はいつの時代でも一つの議論としてあり得る考え方で、必ずしも当時の時代的制約とは言えないだろう。明治憲法に現在の観点からすれば大きな欠陥があったのは確かにしても、憲法正文と現実の社会的変化とのせめぎ合いで政治過程の変容も進んでおり、事実上の解釈改憲や政治的運用を通して政権交代可能な立憲政治への道は開けていた。本書では、憲法制定に先立って福沢諭吉『民情一新』ですでにイギリス・モデルの議院内閣制が広く知られていたこと、さらに吉野作造の民本主義の実現勢力としてリベラル派の憲政会=民政党や社会民主主義の社会大衆党右派に注目される(二・二六事件直前の総選挙では民政党が第一党、社会大衆党も5→18議席と躍進しており、社会民主主義的政治枠組みへの期待があったことが指摘される)。政友会に対する評価は辛い。

 戦前期日本政治について、侵略戦争への反省の行き過ぎからすべてを国家主義・軍国主義として断罪してしまう傾向がかつての戦後アカデミズムには強かった。しかしながら、紆余曲折があったとはいえ、日本のデモクラシー経験はすでに百歳を超えているという事実は重い。坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(講談社学術文庫、2010年)は、美濃部達吉の「解釈改憲」としての天皇主権説、吉野作造の政治的運用としての「民本主義」(明治憲法の規定には矛盾するが、民意→運用で正当化→現在の自衛隊合憲論にも比較すべき拡大解釈)、民政党の民主的リーダーシップ、社会民主主義政党としての社会大衆党の総選挙における勢力拡大などを検討する。戦前の自由主義、民主主義、社会民主主義も結構いい線まで行っていた。ところが、戦前を否定するあまりそうした良質な部分まで無視されてしまい、明治以来の蓄積があるデモクラシーが思想的伝統として受け継がれなかったという問題意識が本書の動機となっている。

 デモクラシーは明治期には借り物思想だったかもしれないが、昭和・平成に入ってからはもはや借り物ではない。すでに自前の思想的伝統を持っていた。明治、戦前、戦後をそれぞれ線引きして別個に分けて論ずるのではなく、明治から現代に至るまでデモクラシー確立に向けた流れが連綿として続いていることを一つの総体として捉える議論がもっと出てきてもいいのではないか。

 井上寿一『昭和史の逆説』(新潮新書、2008年)は、思惑のすれ違いや誤算の連続で戦争の泥沼へと引きずり込まれてしまった当時の政治状況を描き出す。読み物的なスタイルだが、最近の学術的成果をしっかり取り込んで昭和初期政治史のポイントを簡潔に提示してくれる。オビには「民主主義が戦争を生んだ」とあるが、五・一五事件、二・二六事件とキナ臭いテロが頻発する一方で、総選挙の結果から見ると政友会は凋落、民政党・社会大衆党による社会民主主義的な政治枠組みへの期待があった(二・二六事件直前の1936年及び翌37年の総選挙ではいずれも民政党が第一党、社会大衆党は5→18→37議席と大躍進)。具体的には、国民一般レベルにおける経済問題、とりわけ格差是正への関心である。戦争景気は国民を沸き立たせ、電力国家管理法案・国家総動員法案は軍部主導によるが、国民の意向を汲み取った社大党はこれを社会改革として支持した。

 以下、社会大衆党について蛇足。同時代のイギリス政治を見ると、①保守党・自由党の二大政党制における第三勢力として労働党が議席数を拡大→②自由党・労働党連立政権として政権参加→③戦後は労働党が二大政党制の一翼として単独政権(自由党が第三勢力に転落)という流れがあった。日本の社大党の場合、1936・37年総選挙における躍進は①にあたるし、民政党との協力の可能性があった点では②まで手をのばしていた。その後、近衛文麿の新体制運動に社大党は率先に立って参加、近衛も政友・民政両党に代わる新興勢力として期待を寄せていた。当時、政友・民政二大政党への幻滅感から革新勢力として国民の注目を浴びていたのが軍部と社大党であり、中野正剛の東方会が社大党との合併を目論んだのもこうしたブームに乗ろうという思惑があったからだ。つまり、戦争協力の是非というフィルターを外して考えてみると、社会民主主義勢力の着実な拡大傾向も当時の政治要因として織り込まれていたことが分かる。ただし、新体制運動に走った右派は戦争協力の負い目に縛られ、戦争批判をした左派は戦後になってスターとなった。戦後の日本社会党において、現実柔軟性のある右派が発言権を喪失、イデオロギー硬直的な左派が看板となり、結果として社会党が国民政党に脱皮できない体質へとつながってしまった。

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