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2010年3月7日 - 2010年3月13日

2010年3月13日 (土)

中薗英助『北京飯店旧館にて』『北京の貝殻』

中薗英助『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992年)、『北京の貝殻』(筑摩書房、1995年)

 日本軍占領下の北京、放浪語学生として日本人・中国人の友人たちと文学談義をたたかわせた日々の追憶をつづった小説。40年以上たって再訪、現在の街並の変貌に戸惑いつつも、その中にも所々残るたたずまいから脳裡が刺激されて立ち上る記憶。見覚えのある街路や樹木をきっかけに、もう出会うはずのない友人知己と幻の中で邂逅するかのように往年の青春期を振り返る。憲兵隊に殺害されたと聞く親友だった演劇人、大東亜文学賞を受賞したがため後に漢奸作家として迫害を受けることになる袁犀(戦後は李克異と名乗る)、頽廃的な曲を書いたとしてやはり文革で迫害を受ける作曲家の劉雪庵、気がかりだった人々のことを調べて回るが、納得のいく理解がなかなか得られないもどかしさ。日本軍占領下における北京の文化的シーンが著者自身の生身の出会いや葛藤を通して描かれる。一対一の人間同士として付き合っていたつもりでも、侵略者の一員である自分と、中国人の友人との間によぎっていた影、いつまでも残っていた心のトゲを見つめなおしていく。

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2010年3月12日 (金)

宮本太郎『福祉政治──日本の生活保障とデモクラシー』『生活保障──排除しない社会へ』

 宮本太郎『福祉政治──日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣、2008年)は戦後日本での福祉をめぐる政治の展開を整理する。戦後日本の福祉政策は福祉レジーム(所得再配分)よりも雇用レジーム(雇用の保障)に力点が置かれ、それは業界・会社・家族によって成り立つ「仕切られた生活保障」という形をとった。これを担ったのは幅広い利益を包摂した自民党政権であり(経済成長の前提要件として格差是正が必要という考え方)、対して左派野党の急進性→平和問題など「文化政治」が対立図式の主軸となり、福祉は政治的争点としては傍流に置かれてしまった(左派は建前としては福祉を標榜しつつも、その具体案は示さず)。保守政権は、デモクラシーという制度的しばりがあったからこそ、様々に相反する利害対立に二股かけざるを得なかったとも言える。近年、福祉制度の再編が迫られ、市場主義的な構造改革の進行と共に、「行き過ぎた平等社会」論と「格差社会」論とが奇妙な共存。社会的公正を多くの人々が納得できる原理が確立されていない中、政治の膠着状態。言説政治の変化(かつての調整型言説→小泉ブームに顕著に表われたようにコミュニケーション的言説の肥大化)についての議論に興味を持った。背景として、従来制度の揺らぎ、利益団体経由の組織政治が機能不全、個別利益の多元化、政治の集権的傾向といった要因が指摘される。コミュニティーや家族などがもはや自明視されなくなっている現在、ライフスタイルの再定義も含め、人々の社会参加を通したライフ・ポリティクスという問題意識が示される。

 これまで日本の福祉政策が依拠してきた「仕切られた生活保障」は、その前提条件である持続的雇用がグローバル化・脱工業化の進展により掘り崩されてしまっている。宮本太郎『生活保障──排除しない社会へ』(岩波新書、2009年)はこうした中で新しい生活保障をどのように制度設計すればよいのか、その方向性を模索する。考えねばならない条件として、①社会の流動化・個人化→柔軟性に対応した制度、②人間としての相互承認を可能にする「生きる場」の確保、③ワーキング・プア等の増大→補完的保障、④社会全体の合意可能性を挙げる。比較モデルとしてスウェーデン型生活保障のプラス・マイナス両面を検討(高福祉が必ずしも経済成長とトレードオフの関係にあるわけではない。就労支援としての雇用保障により労働力の流動もスムーズ。ただし、近年の経済環境の変化により雇用減少という現実に直面)。そこから、「殻の保障」(例えば、日本の「仕切られた生活保障」)ではなく、スウェーデン型の「翼の保障」、つまり困難やリスクに直面したときにそれを乗り越えて社会参加し続けられるよう支援という考え方を引き出し、アクティベーションと表現。就労を軸にした社会参加と税負担とが対になったルールの明示化により社会的合意を得て、排除される者のない社会形成へ向けた方策を探る。

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フェルナン・ブローデル『歴史入門』

フェルナン・ブローデル(金塚貞文訳)『歴史入門』(中公文庫、2009年)

 大著『物質文明・経済・資本主義』の内容をブローデル自身が要約的に語った講演が本書のもと。一般論としての歴史学入門というよりも、アナール派の歴史観入門。マルクス主義に顕著に見られるように発展段階として歴史を捉えるのではなく、人間の歴史的体験が織り成された複数の時間的厚みが空間的にも共時的にも様々に並存、それらの大きなダイナミズムとして歴史を捉え返していこうというところにブローデル史観の画期点。本書が眼目を置くのは資本主義の生成というテーマだが、長期持続としての日常的な生活構造である物質文明がまずあり、その上に早くから交換活動としての市場経済が芽生えていた。ブローデルは市場経済と資本主義とを明確に区別し、市場経済が生成した中でも一定の条件が揃った所で資本主義が繁栄、こうした三層構造として社会経済史を把握していく。

 本書やリセの教科書として書かれた『文明の文法』(Ⅰ・Ⅱ、松本雅弘訳、みすず書房、1995・1996年)などを読んでブローデルを読んだ気になっているのだが、『地中海』や『物質文明・経済・資本主義』まではなかなか手が回らない…。

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2010年3月11日 (木)

張承志『回教から見た中国──民族・宗教・国家』、楊海英『モンゴルとイスラーム的中国──民族形成をたどる歴史人類学紀行』

 中国西北部は人口的にはともかく面積的には広大なイスラム圏が広がっており、歴史的にもイラン系、トルコ系、チベット系、モンゴル系、漢系と様々な人々が入り組んで複雑な民族状況を呈していた。漢語を母語とするムスリム系は回族として一つの民族に認定されている。

 張承志『回教から見た中国──民族・宗教・国家』(中公新書、1993年)は、この回族の視点に立って7世紀以降の歴史を通観、そこから国家体制と宗教との緊張関係を見つめていく。唐代に西方から移入してきたムスリムに回族の起源が求められるが、本書は三つの喪失という観点から回族を捉える。第一に、故郷喪失。第二に、母語の喪失→漢語を話す。この点では漢族と同様に見られるようになるが、ただし宗教意識を支えにしながら母語のない民族としての生き方を求めた。ところが、清朝や共産党政権下では迫害を受け、さらに現在進行中の経済至上主義によって民族の根幹としての信仰心も危機にさらされているという。これが第三の喪失である。回族の存在を通して、信仰に重きを置かない中国文明を相対化する視点を示そうとする。著者は北京生まれだが回族の出身で、少年期に学校で侮辱された記憶を記している。1930年代に上海・南京・北京など都市部でイスラムを侮蔑する出版物が出てムスリムは反発、漢人側はそれを言論妨害とみなしてさらに揶揄、大騒動に発展したという事件が目を引いた。近年のオランダにおける諷刺画事件なども想起される。

 中国内イスラム圏の多様さは、回族、ウイグル人の他にも、イスラムの信仰を受け入れたモンゴル人(保安族、東郷族)やチベット人の存在にも表われており、こうした「民族」なるものの多重人格的複雑さは単純な断案を許さない。楊海英『モンゴルとイスラーム的中国──民族形成をたどる歴史人類学紀行』(風響社、2007年)は、モンゴルとイスラム世界との関わりを探るため、寧夏・甘粛・青海を踏査。単なる学術調査というのではなく、旅の風景、現地の人々とどのように打ち解けたのか、そういった旅行記的な要素も合わせ持ったフィールドワークの記録として興味深く読んだ。オルドスのモンゴル人には、19世紀の回民大反乱で略奪・虐殺を受けた記憶が伝承されているらしい。それでは、なぜ回民は反乱へ追い込まれたのか?とも著者は問う。漢人による差別、清朝の役人による圧制、こうした背景の中で彼らが窮していたことをモンゴル人は知らないと言う。モンゴル人は清朝と同盟関係にあり、清朝崩壊後、回民は国民政府と手を組んだという政治力学もあった。

 本書には、イスラムとの関わりを捉え返すことで、著者自身の属するモンゴル自身の多様性を考え直そうという意図がある。そして、他者としてのムスリムを研究対象として向き合うとき、「客観性」の呪縛から脱して彼らの「生き方」の歴史、精神世界にまで踏み込んだ内在的理解を求めようという点で張承志を導き手として強く意識している。同時にそれは、他者視点の「客観的」研究が少数民族の政治的地位にも強い影響を及ぼしてしまう懸念がある点で、中国で従来主流であった漢文史料中心の歴史再構成に対する異議申し立てにもつながっている。モンゴル史研究でもモンゴル語史料の活用が怠られていること、保安族・東郷族など自前の文字史料を持たない民族の研究をどのように進めるのかといった問題意識が示されている。

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2010年3月10日 (水)

楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』

楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下、岩波書店、2009年)

 民族性の超克という麗しく響く理念が、思想としてではなくある民族の物理的消滅を意味するとしたら、これほどおぞましい戯画もないだろう。文化大革命が中国社会に残した傷痕はいまだに引きずられているが、それは中国社会全体の経験として一般化できるものではなく、内モンゴルでは別のコンテクストを伴っていた。多数派たる漢人が階級闘争という大義名分の下でモンゴル人に対して行なった残忍な虐殺──。本書は、その凄惨な嵐を生きのびた人々から聞き取った証言をもとに、殺戮がエスカレートしていった実態を克明に描き出す。著者自身がモンゴル人で、証言者の中には親族も含まれている。

 日本の敗戦直後、内モンゴルの指導者たちはモンゴル人民共和国との統一合併に向けて動いたが、当時の国際情勢はそれを許さない。やむを得ず、中国内部での高度な自治を目指した。内モンゴル東部はかつて旧満州国に編入されていたため、モンゴル人の間には建国大学、興安陸軍軍官学校、医科大学、さらに日本留学などで近代教育を受けた軍人・知識人が育っており、「日本刀をぶら下げた者たち」と呼ばれていたという。彼らの知的に洗練された振る舞いは、人民解放軍の無学で乱暴な漢人軍人たちと際立った対照を見せ、当初は利用価値ありとされていたものの、「対日協力者」として危うい立場は免れなかった。文化大革命では、彼ら「日本刀をぶら下げた」東部出身者と延安派モンゴル人との抗争が共産党上層部によってたくみに仕組まれ、共倒れすることになる。

 遊牧を生業とするモンゴル人にとって大切な牧草地を、後からやって来た漢人入植者が開墾、モンゴル人の生活は打撃を受ける。モンゴル人は広い牧草地を利用=地主階級、対して漢人は土地を持たない=無産階級という構図が強引に引き出され、モンゴル人に対する民族的圧迫が階級闘争のロジックにすり替えられた。中ソ論争の激化によって内モンゴルはソ連及びモンゴル人民共和国に対する最前線と位置付けられ、大漢族主義と少数民族への不信感からモンゴル人に対する粛清が正当化された。文革が終わり、「行き過ぎがあった」と総括はされても、殺戮を重ねた漢人は誰一人として罪に問われることはなかった。高名なモンゴル人作家一人がスケープゴートとして有罪判決を受けただけである。すべてはモンゴル人同士の内輪もめで漢人は関係ない、というわけだ。

 一見もっともらしい革命イデオロギーがそのロジックを恣意的に操作して、裏に潜む民族的偏見を隠蔽、結果として多数者による少数者への抑圧・抹殺が正当化された危うさ。本書では、毛沢東・共産党・漢人に対する憎悪に近い筆致に驚くこともある。ただし、著者自身が冷静になれないところを自分の限界だと認めているし、それだけ激しい口調をせねばならないほどの受難にモンゴル人がさらされてきたことは銘記しておかねばならない。チベットやウイグルの問題については比較的知られている。対して内モンゴルの問題が海外の注目を浴びないのは、平和だからではない、声をあげるべき知識階級がすべて抹殺されてしまったからだという。

 本書は日本語で書かれている。漢人による少数民族圧迫の現実を訴える本を言論統制下にある中国本土で刊行することは難しい。こうした事実は一般の漢人にどれだけ知られているのだろうか。悪意はなくても、知らない=なかったと思い込まれ、場合によっては言われなき中傷だという反発すら招き、議論の前提が共有されていないのでそもそも話が通じないかもしれない。オープンな議論ができない社会では、加害者も被害者も双方が不満や恨みを内にため込んでしまい、和解がどれだけ可能なのか、心もとなく感じてしまう。

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2010年3月 9日 (火)

河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』

河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』(講談社選書メチエ、2010年)

 「象徴」という言葉は実に曖昧で、捉えようによっては相異なる立場からの意味づけも可能となる。本書は、敗戦直後から「象徴天皇制」確立に至るまで様々にかわされた天皇制をめぐる議論を検討、一定のコンセンサスへと収斂していく過程を整理してくれる。そこからは、日本国民統合の支柱としての天皇の伝統的存在感を、戦後民主主義という新しい価値観へどのようにして適応させていくかという葛藤が浮かび上がってくる。例えば、政界保守派に根強かった天皇を統治の中心と位置付ける考え方と、学生運動の反発に見られた「一人の人間」として捉える天皇観との対立は、そうした相克の極端な表出だったとも言えよう。

 天皇退位論には二つの考え方があった。第一に、昭和天皇自身の自発的退位によって国民を納得させようという道義的責任。第二に、戦争という過去のイメージから切り離して新しい国家像にふさわしい天皇を選びなおそうという意図。この二点によって天皇制の存続が含意されていた。後者の新しい天皇像は皇太子(今上天皇)が引き受ける形となり、外遊やミッチー・ブームなどが検討される。こうして象徴天皇制が確立されていくにあたり、マスコミの果たした役割、民衆との関係が強く意識されていたこと、「文化平和国家」という戦後日本のナショナル・アイデンティティーと結び付く中で天皇像が再定義されたことが指摘される。

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2010年3月 8日 (月)

ヴィクター・セベスチェン『東欧革命1989──ソ連帝国の崩壊』

ヴィクター・セベスチェン(三浦元博・山崎博康訳)『東欧革命1989──ソ連帝国の崩壊』(白水社、2009年)

 東欧の共産党政権が連鎖的に崩壊していった1989年の東欧革命。そこに至るまでに各国で様々な人物群像が織り成した政治劇をブレジネフ政権の黄昏から説き起こし時系列に沿って描き出した歴史ドキュメンタリーである。事実関係の描写が中心で特にこれといった洞察があるわけでもないが、ゴシップ・ネタふんだんにナラティブな構成なので、浩瀚なボリュームでも飽きずに読み進められる。

 レーガンの言う「悪の帝国」とはあくまでも国内向けの選挙用レトリックにすぎなかったわけだが、ソ連指導部は意外と本気で受け止めて警戒心を高めており、レーガンは後で知って驚いたらしい。大韓航空機撃墜事件は、ソ連の防空システムの不備を上から叱責されるのを恐れた現場の焦りと、こうした指導部の恐怖心とが相俟ってもたらされたとも言える。相互の誤解をいかにうまくハンドリングするかが大切だが、他方で、このような誤解に基づく意図せざる連鎖が「ソ連帝国」崩壊劇の大きな流れに着実に組み込まれていったのも事実である。ベルリンの壁崩壊は東ドイツ当局者による記者会見発表のミスが引き金になった。そもそもゴルバチョフのペレストロイカはソ連の建て直しが本来の目的であって、ソ連の崩壊など全く想定していなかった。

 現在ならインターネットだろうが、当時はテレビが大きな役割を果たした。東ドイツ国民は西ドイツのテレビを見て当局発表とは違うものの見方に気づいていた。ルーマニアでは、式典でいつものように大衆歓呼を期待していたチャウシェスクに対して図らずも野次がとび、予想していなかった事態にうろたえた彼の表情を生中継のカメラがしっかりとらえてしまい、権力失墜へと直結する。東ドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーでは社会的に根付いた民衆運動が政治を動かしたのに対し、ルーマニア、ブルガリアではむしろ「宮廷クーデター」による政権交代となった。語弊のある言い方かもしれないが、市民社会的感覚が一般に根付いているかどうかという「民度」の違いとして目を引いた。

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2010年3月 7日 (日)

山崎朋子『朝陽門外の虹──崇貞女学校の人びと』

山崎朋子『朝陽門外の虹──崇貞女学校の人びと』(岩波書店、2003年)

 北京の朝陽門外、かつてスラム街だった地域に1920年から45年まで日本人クリスチャンの経営する女学校があった。五四運動、盧溝橋事件と日中関係の難しかった時期に設立・運営にあたった清水安三と彼に協力した人々の姿を描いたノンフィクション。戦後、接収されて陳経綸中学校となっている現在でもこの地で彼の名前は記憶されているという。

 伝道に赴いた北京で見たスラム街の子供たち、特に売春等に身を落とさねばならない少女たちのため、手に職をつけて自立して生きていけるように読み書きと手芸を教える無料の学校を設立。教育事業であると同時に、彼女たちの縫ったハンカチやテーブルクロスなどを販売して収益を上げるという方法は社会起業の先駆のようで興味深い(実際、清水は近江兄弟社とも関係があった)。この工読女学校は後に中等教育機関として崇貞女学校に発展。中国人だけでなく日本人や朝鮮人の子女も入学したらしい。さらに天橋のスラム街でも同様のセツルメントを行なった。敗戦後、日本に帰国した清水は桜美林学園を設立。この大学には中国語学科があるが、このような背景があったというのは初めて知った。工読女学校の最初から協力してきた羅俊英という女性が、何の政治性もないにもかかわらず、戦後、漢奸として投獄され非業の死を遂げたという悲劇には何とも言葉がない。

 細かい話だが個人的な関心としてメモしておくと、崇貞学園の理事の一人に台湾出身の音楽家、当時は北京師範大学で教壇に立っていた柯政和の名前があった。江文也を北京師範大学へ招聘した人である。

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北京について8冊

 もともと中国の政治的・文化的重心は黄河流域のいわゆる中原にあった。対して現在の北京は辺境であり、北方遊牧民族とせめぎ合う最前線であった。いわゆる征服王朝の南下により、遼(契丹)の副都・南京、金(女真)の首都・中都として政治中心機能を担うようになり、そしてフビライが元の首都として整備した大都が現在の北京の基礎を形作る。例えば、胡同(フートン)はモンゴル語に由来すると言われているし、盧溝橋はマルコ・ポーロが絶賛したことから「マルコ・ポーロ・ブリッジ」と呼ばれている。陳高華(佐竹靖彦訳)『元の大都──マルコ・ポーロ時代の北京』(中公新書、1984年)は世界帝国モンゴルの中心として花開いた大都=北京の都市構造や社会史的・文化史的たたずまいを描き出している。

 林田愼之助『北京物語──黄金の甍と朱楼の都』(集英社、1987年/講談社学術文庫、2005年)、竹内実『世界の都市の物語9・北京』(文藝春秋、1992年/文春文庫、1999年)は、北京原人や古代の薊、燕から中華人民共和国の成立まで北京を主軸として中国史を通史的に概観。文学作品の引用や生活風俗の描写もまじえ、エピソード豊かに読ませてくれる。春名徹『北京──都市の記憶』(岩波新書、2008年)は北京オリンピック開催に合わせて刊行されたのだろうか、北京の名所歩きをしながら歴史的背景を手際よくまとめていく構成。北京旅行に携行するならうってつけだ。

 倉沢進・李国慶『北京──皇都の歴史と空間』(中公新書、2007年)は、サブタイトルに「皇都」とあるので王朝時代の話題のような誤解を招きかねないが、実際には社会学的な都市問題として北京を考察するのがメイン・テーマとなっている。戦後中国では食料配給の問題から農村戸籍と都市戸籍の別が制度化され、それによる流動性への縛りは現在の社会的ひずみの一因となっている。都市に流入した農民工が劣悪な労働条件を強いられていることは近年よく指摘されているが、そうした彼らの存在について都市住民は感情的にも拒否感を抱いているらしい。Community=「社区」を中心とした生活形態は、かつては地方出身者ごとに集まった「会館」という形を取ったが、現在でも職場組織の「単位」という形で続いている。四合院はもともと大家族的な生活共同体に適合した住居形態であるが、戦後における国有化方針、さらに文化大革命の時の強制収用で複数世帯の雑居状態になった。このため、文革時には密告等で相互不信、改革開放以降は権利関係でトラブルが頻出。伝統的家屋構造の中で、社会状況の変化に応じて人間関係のあり方も変わってきていることがうかがえて興味深い。

 陣内秀信・朱自煊・高村雅彦編『北京──都市空間を読む』(鹿島出版会、1998年)は、『乾隆京城地図』など古地図も参照しながら都市空間としての北京を成り立たせているコスモロジーを読み解こうとした共同研究。中庭を中心とした住居形態である四合院へのこだわり、この伝統の上に近代化の影響がかぶさっている。皇帝権力のロジックから内城が中心となる一方で、外城ではこうしたロジックを無視して商業空間が展開、両者のせめぎ合いから北京の街並みがトータルとして現出している様子が浮かび上がる。

 藤井省三『現代中国文化探検──四つの都市の物語』(岩波新書、1998年)は中国文化圏における四大都市、北京・上海・香港・台北それぞれの近代社会としての変貌について文学や映画の話題を絡めながら語る。北京の魯迅邸に寄寓していたエロシェンコの鬱屈については藤井省三『エロシェンコの都市物語──1920年代 東京・上海・北京』(みすず書房、1989年)が北京大学の学生たちの軋轢に注目していたが、『現代中国文化探検』の方では、地方出身者ごとに集まる四合院共同体に分割された北京の人的ネットワークとしての偏狭な空気がコスモポリタンたる彼にとって寂寞たる思いを味わわせていたのではないかと指摘されているのが目を引いた。

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田中奈美『北京陳情村』

田中奈美『北京陳情村』(小学館、2009年)

 北京南駅近く、信訪局に陳情すべく地方から上京してきた人々の集う「陳情村」。陳情者の多さは地方政府にとって失点であり、一度陳情するとそれをいやがる地方政府からにらまれ、仕事を失い、経歴書に明記され、もう退路はない。ノンポリ・ライターの描く彼らのアグレッシブな表情には屈託がないが、軽いノリの筆致からも精神的に追いつめられている焦りが浮かんでくる。

 中国社会に法治原則が確立されていないため、その結果として陳情へと駆り立てられていく問題は、例えば陳桂棣・春桃(納村公子・椙田雅美訳)『中国農民調査』(文藝春秋、2005年)、『発禁『中国農民調査』抹殺裁判』(朝日新聞出版、2009年)が具体的に描写している(→こちらで取り上げた)。先日読んだ佐藤千歳『インターネットと中国共産党──「人民網」体験記』(講談社文庫、2009年)でも、新華社に一時勤務していた著者が陳情書を受け取ったことで上層部とのトラブルに発展してしまった顛末が記されていた。

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