福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』
福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年)
福岡県のある小学校教諭は、いわゆるモンスター・ペアレントの執拗なクレームを受けた。身に覚えはないが、保護者とのいざこざを恐れる校長や教育委員会の示唆でとりあえず謝罪する。ところがクレームはますますエスカレート、騒ぎを聞きつけたマスコミは、“怒れる”保護者の言い分を全面的に信じ、検証もなしに「生徒を差別していじめる史上最悪の殺人教師」と書きたててしまった。社会問題化すると今度は人権派弁護士が大挙して駆けつけて裁判に持ち込まれたのだが、公判が進むにつれてむしろ保護者の言い分の矛盾が次々と明らかになっていく。取材を進めた著者は、過熱報道でバイアスのかかった一方的な情報が独り歩きして人々の思考を停止させ、その結果として冤罪が作り出されてしまったプロセスを見出す。
著者の新刊『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』(新潮社、2010年)をたまたま読み、深刻なテーマを読みやすい文章に移し変えていく筆致に興味を持って本書も手に取ったのだが、続けて読んでみると、ジャーナリズムが陥りかねない落とし穴が二冊を通して両極的な形で浮かび上がってくる。
もちろん、政権による言論統制が生命の危険すら招くロシアとは次元が異なる。だが、権力とは暴力のみを意味するわけではない。子供は善、保護者は正しい、こうした考え方が聖域化されて疑問の余地なしとみなされたとき、これもまた事実関係の究明を妨げるタブーとして作用してしまう。言論の自由は、商売のレベルでは新奇でセンセーショナルなニュースの価値を高めるため、誇張した過熱報道へと向かう誘因をはらんでいる。“正義”の高みから他人を断罪する快感に酔いしれたい人々は極悪人の記事を求め、そうした欲望はスケープゴートを作り出すことをいとわない。制度的に言論の自由が保障されてはいても、それを使いこなすのはやはり各自の心がけ次第、ということになってしまうか。
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コメント
本書にも登場する西岡研介氏がJR労組の問題を取り上げた「マングローブ」を読んだのですが、主題とされた革マルの活動家である松崎明氏と西岡氏があまりにも似通っているので慄然とした記憶があります。どちらも非常に有能で周りの信頼も厚く、生命を賭す勇気もある、しかしひとたび「悪」とされた人物に対しては慈悲のかけらも見せないといった点(西岡氏の筆致からそれは強く感じられました)が印象に残りました。後に本書を読んで、その意を強くした次第です。
投稿: nil | 2010年12月29日 (水) 21時02分
本書で週刊文春記者として出てくる人ですね。そういう厳しさ、激しさがあるからトップ屋として切り込みできるのでしょうが、一つボタンを掛け違うととんでもない方向に行きかねない。その手綱さばきが本当に難しそうですね。
投稿: トゥルバドゥール | 2010年12月29日 (水) 21時34分