ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森──ポーランド指導階級の抹殺』
ヴィクトル・ザスラフスキー(根岸隆夫訳)『カチンの森──ポーランド指導階級の抹殺』(みすず書房、2010年)
1939年の独ソ不可侵条約に基づき、ソ連はナチス・ドイツと共にポーランド分割に乗り出し、捕虜として連行したポーランド軍将校約4,400人をカチンの森で銃殺した。そればかりでなく、犠牲者はポーランド社会を指導するはずの知識階層すべてに及び、22,000人以上が殺害されたという。独ソ両大国に翻弄され、戦後になってもソ連の意向を受けた共産党政権によって展開された「カチンの虐殺はナチスの仕業だ」という虚偽のプロパガンダに異議を唱えることができなかった人々の苦悩は、最近公開されたアンジェイ・ワイダ監督「カチン」で描写されている。そうした歴史的記憶の政治化というレベルで、“カチンの森”は冷戦期を通じてずっと現在進行形の事件であったと言ってもいいだろう。
本書は、ロシアで公開された旧ソ連時代の機密文書等も踏まえながらカチン事件の実態を追求するのはもちろんであるが、問題はそこに終わらない。この事件がソ連政府によっていかに隠蔽されたのか、さらにはその隠蔽に西欧の歴史学界もまた意図せざる共犯者になってしまったのはなぜなのか、こうした問題をも問い直していく。著者はロシア出身の政治社会学者でレニングラード大学で教鞭をとったこともあるが、カナダ・イタリアに移住、本書もイタリア語で出版されたらしい。
1941年の独ソ開戦後、ソ連西部を一時占領したドイツ軍はカチンの森で大量の遺体を発見、中立国スイスの医学者を団長に国際調査団を組織した。もちろん、ナチスには対ソ連宣伝工作に利用しようという思惑があったわけだが、参加した医学者たちはそうしたナチスの思惑とは別に、目の当たりにしたおびただしい遺骸に衝撃を受けながら検証作業を行なった。この虐殺はナチスの仕業だと宣伝するソ連は、戦後、調査団に参加した医学者のうち、ハンガリー・ブルガリアなど共産圏に入った国の出身者に対しては圧力をかけて見解を撤回させ、スイス・イタリアの出身者に対してはソ連中央の意向を受けた各国共産党が誹謗中傷のキャンペーンを展開した(なお、調査に参加したドイツの医学者には、シュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺未遂事件に連座して銃殺された人もいたという)。
戦争中からすでにカチン事件に関する情報は米英首脳部にも伝わっていたが、対ドイツ戦で同盟関係にあったソ連に対する気兼ねから情報の公開は抑えこまれた。また、調査団の主催者はナチスであったため、この調査報告をもとにソ連の宣伝工作に異議を唱えることはすなわちナチス支持者であると受け止められかねかった。したがって、反ファシズムというスローガンそのものがソ連による国家犯罪を隠蔽する作用をもたらし、疑問を提起することすら躊躇する風潮が醸成されてしまった。
本書を通して浮かび上がるのは、第一に1939~1941年にかけて協力関係にあったヒトラーのドイツとスターリンのソ連とがポーランド国家消滅を意図した点で同じ性格の政治体制を持っていたことをどのように考えるかという全体主義の比較論への問いかけ。それ以上に重要なのは、第二にパワー・ポリティクスの論理とイデオロギー宣伝とが絡まりあってタブーを作り出し、それが事実関係の客観的究明を妨げる力学として作用してしまった落とし穴。このような政治史・現代史研究が時としてぶつかりかねない見えない壁を考える上で本書は貴重な問題提起となっており、カチン事件そのものに関心がなくとも、広い意味で歴史研究に関心があるならば是非読んでおきたい本である。
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