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2010年12月29日 (水)

邱永漢『私の金儲け自伝』『わが青春の台湾 わが青春の香港』

 以前、twitterに邱永漢と王育徳の比較は興味深いテーマだという趣旨のことを書いたことがある。二人とも台南の出身の同年代、台北高校→東京帝国大学と進んだエリート、しかし二・二八事件を目の当たりにして台湾独立運動に邁進したという経歴でも共通している。しかしながら、その後、独立運動がままならない中、邱は無国籍者として生きていくためどうしても金を拠り所とせざるを得なくなり、やがて「金儲けの神様」として大成する。他方、王育徳は台湾独立への情熱を台湾語研究へと注ぎ、この分野で第一人者となった学究として記憶されている。

 同様に台湾独立運動に関わった二人のその後の生き様が全く対照的であるところに興味がひかれた。ただし、邱永漢の膨大な金儲け指南的ビジネス書を読み続けるのは不毛としか思えないので、私自身がこのテーマに取り組むつもりはない。それでも、邱永漢という人物の、表面にある金儲け志向は胡散臭くも、内面的には相当に屈折しているであろうところは興味深いと思う。

 そういうわけで、とりあえず彼の自伝的著作二冊に目を通した。『私の金儲け自伝』(邱永漢自選集第8巻、徳間書店、1977年)は主に日本亡命以降の事業経歴をつづっており、『わが青春の台湾 わが青春の香港』(中央公論社、1994年)は日本亡命以前の回想である。後者には実の母が日本人であることなど複雑な家庭事情も記されている。

 邱永漢は台湾の帰属先決定のための住民投票を求める国連への建議書の草案を書いたことがばれて香港に逃れた。王育徳が日本へ亡命するに際しても香港で手助けしている。王は倉石武四郎のツテで東大に復学したが、日本への居住権を明確にするため警察へ出頭したところ、逆に強制退去命令が出そうになってしまった。このとき、王の立場を代弁しようと邱の執筆した作品が「密入国者の手記」である。裁判資料として提出され、この作品のおかげかどうかは分からないが、王の日本永住はかなう。一方、この作品は西川満を介して日本の文壇人に紹介され邱の文才が賞賛されるという副産物もあった。好評に気をよくした邱は、香港での事業が思わしくなかったこともあり、元手なしで資金を稼ぎ出す手段として文筆で身を立てようと考える。1955年に「香港」で直木賞を受賞、日本国籍者以外で受賞したのはこれが初めてだったという。新田次郎と同時受賞で、芥川賞は石原慎太郎だった。

 邱には「検察官」という作品があるが、これは王育徳の兄・王育霖をモデルとした小説である。王育霖は、台湾人に対して威張り散らす警察官を取り締まる側になりたいと考えて法曹を志し、東京帝国大学を卒業して検察官になった。戦後は台湾に戻って勤務したが、外省人政治家の汚職を摘発しようとしたところ妨害されて失敗、それどころか逆恨みされ、二・二八事件のどさくさにまぎれて殺害されてしまった。弟の王育徳はこの事件のショックで亡命を決意することになる。

 邱の論理的な文章は推理小説にぴったりだとも言われたらしい。彼は合理的思考の持ち主で、文学に対する態度も、まず実体験がなければ小説的イマジネーションはふくらまない、ところで自分は他の人に比べれば異常な体験をしてきた、それが文学的貯金になっている、しかし枯渇したらもうおしまいだ、と考えた。その時点で見限って、株式評論を皮切りに事業経営へと転身していく。

 『私の金儲け自伝』には「台湾へ帰るの記」という一文が収録されている。1972年、彼は国民政府側から接触を受けて台湾へ24年ぶりに帰国することになった。ちょうど国連代表権変更によって台湾の国際的孤立化が深まりつつある時期で台湾からの資本逃避が加速化しており、邱が台湾に投資してくれればこうした趨勢に歯止めをかけるアピールになるので来て欲しい、との招請だった。邱が国府に「投降」したという報道が流れたため、それへの反駁というのがこの一文の目的のようだ。彼の言い分は、台湾が共産主義に飲み込まれてしまうのはまずい、外省人といっても若い世代は台湾生まれ・育ちであって反攻大陸なんてもはや意味はない、あくまでも自分の故郷を建て直したいから戻るのであってそのために自分の金儲けの智慧が活用できればいい、ということらしい(資本主義確立の教育が必要で、自分は渋沢栄一と福沢諭吉の二人の役割を果たさねばならない、と気負った発言もしている)。政府高官に会った際にはもっと多くの台湾人を公職につけて欲しいと要求もしている。一方で、日本はすでに安定成長段階に入ったため投資効率が従来通りにはいかない、台湾・韓国は成長株だ、という判断もあったことも正直に記している。

 いずれにせよ、経済的自立が台湾の将来の大前提だという考え方を示しており、孤立無援の台湾の経済発展に、居場所がなかったがゆえに生きいく拠り所としてなりふりかまわず金儲けをせざるを得なかった邱自身の経歴を重ね合わせていると解釈できるだろうか。

 邱は当初、経済学者として身を立てるつもりで東大の大学院まで進んだが、諸般の事情で不安定な生活を送らざるを得ないはめになった(なお、台湾に帰国して一時勤務した銀行で、博士論文として提出するつもりで「生産力均衡の理論」という論文を書いたが、それを李登輝が読んでいたことを後に知って驚いた、というエピソードも披露している。李登輝は台北高校の一級下だったという)。ところが、「東大経済学部は金儲けの仕方を教えてくれなかったから苦労した」と冗談交じりに苦言を呈する。直木賞受賞作「香港」で、自分たち台湾人を「ユダヤ人」になぞらえる発言があったのを思い出す。ひたすら生き抜くために、理屈や理想など何の役にも立たない、という趣旨の発言は邱の著書では随所に見られる。岡崎郁子『台湾文学──異端の系譜』(田畑書店、1996年)に邱永漢へのインタビューがあり、彼は王育徳についてあまり評価していないという趣旨の発言をしているのだが、ここには邱の体感的な「学者不信」の感覚もあるのだろうか。

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