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2010年12月26日 (日)

台湾の実業家を何人か

郭泰(広瀬輝明監訳、謝雅梅訳)『大華僑伝──台湾の松下幸之助・王永慶』(総合法令、1996年)
・台湾プラスチックの王永慶の評伝。裸一貫たたき上げの経営者で、企業経営の卓抜さから台湾では松下幸之助のような存在らしい。
・彼は1917年、新店の貧しい家庭に生まれ育ち、15歳のとき嘉義市の米屋で丁稚奉公。16歳で小さいながらも自分の米屋を開く。人一倍努力して大きくしたが、戦時体制下で閉鎖。信頼関係を軸に顧客を開拓。
・政府はアメリカの支援をもとにプラスチック工業を興そうとしたが、担当者が投げ出した→タイヤ生産の申請をしていた王のところに話が回ってきた。「民営」に任せるつもりだった経済部長・尹仲容の判断も後押し。→1954年、台湾プラスチック(台塑)工業株式会社設立。1980年にアメリカ進出。1990年代には中国大陸進出を目指して政府とせめぎ合い。
・松下との共通点がいくつか並べられる一方で、松下はソフトな態度で部下に任せるのに対し、王は自分の命令が行渡っているかいちいち検証しようとするハードなところがあると指摘。

『張榮發自伝』(中央公論社、1999年)
・台湾の世界的流通会社、エバーグリーン・グループを築き上げた張榮發の自伝。
・父は大阪商船の船員で、張榮發は1927年に蘇澳に生まれ、基隆に育つ。公学校卒業後、南日本汽船の用務員として務め始め、1944年に初航海。父は戦争中、レイテ沖で船が撃沈されて死ぬ。
・張榮發はもともと事務系だったが、戦後は船倉管理の仕事をしながら勉強、三等航海士の免許を取得。
・1961年から知人と共同出資で海運会社を設立したが考え方の相違から袂を分かち、1968年に中古船一隻で長栄海運公司(Evergreen)を単独経営で始める。これまでの仕事で信頼関係のあった丸紅が支援。戒厳令下の台湾では制限があって仕事がやりづらい→パナマ船籍にして海外発展。海外から発展して、その上で国内へという発展方針。国民党には加入せず、党派的には中立。
・1970年代からいち早くコンテナ船に転換。1984年には世界初の東西双方向世界航路を開設。海運と陸運のネットワークで世界をつなげる。1988年に台湾政府も「オープンスカイ」政策→中国人でも質の高い航空会社を作れるんだ!という意地で参入、政府関係部門の妨害をはねのけながらエバーグリーン創業20周年で長栄航空公司を設立。関係部門の経営多角化。

呉火獅『台湾の獅子』(講談社、1992年)
・新光グループをたたき上げで創業した呉火獅の自伝的な遺稿をまとめた本。
・呉火獅は1919年、新竹の貧しい家庭に生まれ育ち、迪化街の布問屋で丁稚奉公。日本人のボス・小川光定に出資してもらって20歳で新会社を設立。戦後、新光商社を設立(故郷・新竹の「新」と恩人・小川光定の「光」に名前は由来)。当初は日本から布地を輸入、それから製茶業。この頃から、知己として繊維業の先輩として台南幇の侯雨利や、呉三連の名前も出てくる。
・当時、紡績業は国営もしくは上海から来た資本家の独占、通貨膨張で企業倒産相次ぐ、政府の輸入代替政策で日本からの布地輸入ができなくなる、などの困難→工夫して人造繊維の紡織工場を設立→新光企業グループの母体となった。
・多角化→保険業(政界の有力者・謝東閔・謝国城を名目上の会長にして)、大台北ガス会社。化繊業界で日本と提携→日本は高付加価値製品台湾は大量生産品という国際分業によって国際競争力を身につけた。また、三越と提携して新光三越デパート。

 以上は、日本の植民地統治期に育ち、努力・勤勉・誠実の美徳、貧しくて学校へは行けなかったが向学心があり、旺盛な独立心で若い頃に自前の会社を設立、裸一貫で台湾の代表的な企業グループへと育て上げた人たち。張榮發と呉火獅は面倒見のいい日本人と出会えたからなのか、日本への親近感がところどころ出てくる。三人とも勤勉・誠実といった美徳を強調するが、その文脈で張榮發は日本植民地統治期の道徳教育を評価。以前、台南でパソコン部品メーカーの奇美実業を創業した許文龍『台湾の歴史』というパンフレットを二二八紀念館で会った日本語世代のおじいさんからいただいたことがあるのだが、これも同様に日本統治期のプラス面の一つとして道徳教育を挙げていた。他方、王永慶にはむしろ差別された記憶の方が強いのか、日本人に負けてなるものか!という感じの気負いが見えてくるのが興味深い。

久末亮一『評伝 王増祥──台湾・日本・香港を生きた、ある華人実業家の近現代史』(勉誠出版、2008年)
・王増祥は1926年、台北郊外の三峡に生まれた。地主の家だったが没落→再興の思いを抱きつつ、民族差別の状況の中にあって、台湾を離れたいという思い→上海へ行きたかったが許可が出ず、日本へ→大阪の薬問屋で丁稚奉公をしたが待遇に怒ってやめ、東京に出たのち、神戸で貿易業につく。実家を再興させたいという思い、差別を乗り越えたいという思いを原動力に金儲けに邁進。
・二二八事件で不安を感じて家族を日本へ呼び寄せるが、1956年に香港へ移住。不動産業→香港は都市が狭いため軽工業の中小工場が入居する工業ビルを経営。
・「富豪好友」と言われる財界に幅広い人脈、日本事情に詳しい→香港実業界で独特な存在感。日本株へ投資→かつて差別を受けた日本人から認められたいという心理を著者は見出す→日本の証券業界では「香港ダラー」と恐れられた→王子製紙株・片倉工業株取引で大蔵省は相場撹乱とみなして行政指導→合法的に株式を取得したのにバッシングを受けるのは心外だという不満→裁判闘争へ(なお、王の手法を後に村上世彰が模倣する)。日本の閉鎖的構造のせいだと主張。
・王増祥は台湾出身の実業家でも、むしろ邱永漢に近いタイプか。

スタン・シー(施振榮)『エイサー電脳の挑戦』(経済界、1998年)
・台湾最初のパソコンメーカーで世界進出を果たしたエイサー(宏碁電脳)の創業者が自らの創業精神や経営管理の考え方を述べた本。
・研究開発と国際化を目指した経営戦略論。シーは1944年生まれで、エイサーを友人たちと共に創業したのは1976年。上述の人たちを第一世代とするならこちらは第二世代で、技術集約型へと台湾産業のトレンドが移り変わったタイミングで登場してきたことがうかがえる。

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