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2010年12月

2010年12月31日 (金)

戴國煇の本を何冊か

 しばらく台湾独立派の本ばかり続いたので、バランスをとるため違う見解の人の本を読みたいと思い、戴國煇の本を何冊か手に取った。日本における台湾研究を牽引してきた一人であり、研究者の回顧でも戴國煇にお世話になったという言及がよく見られる(例えば、春山明哲『近代日本と台湾──霧社事件・植民地統治政策の研究』[藤原書店、2008年]所収の回想記など)。また、戴國煇は客家出身であり、昨日読み終えたばかりの矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命』(東方書店、2010年)で、矢吹は若い頃にアジア経済研究所の先輩だった戴國煇と出会って客家に関心を持ったという趣旨のことを述べている。

 戴國煇『台湾──人間・歴史・心性』(岩波新書、1988年)は以前に読んだことがあったので、『境界人の独白──アジアの中から』(龍渓書舎、1976年)、『台湾と台湾人──アイデンティティを求めて』(研文出版、1979年)、『台湾という名のヤヌス──静かなる革命への道』(三省堂、1996年)の三冊に続けて目を通した。いずれも雑誌等既出の論考・随筆を集めた構成で体系的な台湾論となってはいないが、時論を通して自分の見解を直截に述べる辛口から熱血漢ともいうべき人柄はしのばれるし、比較文化論としても面白い。この三冊の中では『台湾と台湾人』が一番まとまった内容になっているように思う。特に「植民地体制と知識人」では台湾出身で日本・中国大陸を行き来した様々な人たちを取り上げ、彼らを通して台湾人としてのアイデンティティの葛藤を浮き彫りにしており、興味を持った。他に霧社事件を取り上げた本も重要だが未読。

 台湾論では政治的にナーバスとならざるを得ない問題が二つある。第一に、植民地遺制をどのように捉えるか。近代化→日本による植民地支配を正当化する論調につながりかねない側面があり、これに対して戴國煇の批判は厳しい。

 第二に、台湾独立論をどのように考えるか。他人の国のことだから支持・不支持を言う筋合いはないので、このテーマはどちらの立場の議論であっても日本人である私としては読んでいてどうにも居心地が悪い。戴國煇は、「台湾民族」なるものは虚妄であるとして独立論に対して明確に反対の論陣を張っている。第一に、独立派は狭義の台湾語=福佬語話者中心の偏狭な立場を取っており、それだと台湾内ではマイノリティーである客家や原住民が抑圧されてしまうという批判。第二に、福佬系と客家系<台湾人<中国人という重層的なアイデンティティ構造による中国人意識を持っており、これを分断する考え方に対しては強い拒否感を示している。客家アイデンティティには中原から南に逃れた子孫という伝説→自分たちこそが中華の正統な後継者であるという思い入れがあると言われるが(その正否はともかく)、戴國煇の議論にもそうしたプライド高さはうかがわれるように感じられた。

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2010年12月30日 (木)

矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命──「多元的国家」への視座』

矢吹晋・藤野彰『客家と中国革命──「多元的国家」への視座』(東方書店、2010年)

 日本における誤り多い客家イメージを洗い直し、中国における正統的な歴史観の中で欠落した客家の存在感を再検討するという内容。客家を論じながらそこを通して「中国」をいかに捉えるかというさらに大きな問題意識につながっており、興味深く読んだ。

 第Ⅰ部では矢吹晋がこれまでの客家研究をサーベイする。間違いや誇張が多く含まれた日本における従来の客家イメージを解きほぐす一方、最近の学術的研究を紹介しながら客家を考える上で必要な論点を整理してくれる。民族問題では必ず問題となるポイントだが、客家というのが自明なグループとして存在するというよりも、「自分は客家である」という自覚に根拠は求められる。古代の中原から南へと逃れて移住したという伝承が客家のアイデンティティー的基礎をなしており、この正統性意識(文化的正統性の自覚は中華思想の核心とも言える)が近代中国ナショナリズムと共鳴しながら客家アイデンティティーが強調されるようになった。このあたりが大きな論点となるだろうか。

 私が特に興味を覚えたのは言語学者・橋本萬太郎などの仮説を踏まえた言語学的な論点。アルタイ系の言語は修飾語を使うとき、修飾語の前に被修飾語を置くという逆行構造をとるが(例えば、「美しい」→「花」という順番)、対して南アジア系の言語は修飾語の後に被修飾語を積み重ねていく順行構造をとる(「花」→「美しい」という順番)。中国語には両方の構造が含まれており、北方方言では逆行構造の割合が高く、南方方言では順行構造の割合が高いという。つまり、「中国語」という自己完結した言語があるのではなく、逆行構造を特徴とする北方系言語と順行構造を特徴とする南方系言語とが重なり合いながら幅広いグラデーションを成しており、そうした言語群として「中国語」は把握できるのだという。客家語もその中に位置付けられる。「中国」と一言でいってもそこには多元的な言語生活が広がっている。従って、均質的な国民国家として「中国」を把握することの無理を指摘、著者は中華連邦構想へと議論をつなげていく。

 第Ⅱ部では藤野彰が革命故地への訪問記を通して正統的な中国共産党史から欠落していた客家の存在感に注目する。革命根拠地・井岡山での客民に対する粛清をどのように捉えるかという問題には矢吹と共にとりわけ重きが置かれている。冤罪であることが立証されると共産党の正統性にもケチがつくことになるらしい。私は中国共産党史には疎いのでどれほど重要な問題なのかよく分からないのだが。鄧小平もおそらく客家であろうと考えられるが、それを確証する根拠を探し出すのはなかなか難しいという。

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宗像隆幸『台湾独立運動私記──三十五年の夢』『台湾建国──台湾人と共に歩いた四十七年』

宗像隆幸『台湾独立運動私記──三十五年の夢』(文藝春秋、1996年)、『台湾建国──台湾人と共に歩いた四十七年』(まどか出版、2008年)

 著者は日本人だが、学生のとき台湾からの留学生、許世楷(後に陳水扁政権で駐日代表[大使])と下宿先で知り合い、彼の熱気におされたのが台湾独立運動と関わるきっかけだったらしい。彼ら独立運動に携わった留学生たちは、国民党政権下の台湾に戻ると監獄行き、下手すると銃殺刑になりかねない。学位をとり、就職先をみつけないと日本滞在資格を失うため、文字通り必死で勉強していた。従って時間の余裕がとれないので、代わって日本人である著者が台湾独立運動の機関誌『台湾青年』の編集実務を引き受けたのだという。独立運動に関わった人たちの日本語の博士論文が学術系出版社から刊行されており、台湾史に関する本は私も何冊か目を通したが、こうした命がけの背景があったことを知り、改めて身が引き締まる思いがした。

 『台湾独立運動私記』は内部にいた者の視点で捉えた独立運動の回想記である。国民党政権の特務が日本の入管当局にも手を回して日本で活動する運動家たちを強制送還させようと画策しており、強要されてスパイをさせられていた者もいたりして、スパイ映画かと思わせるエピソードが生々しく語られる。共産主義者であるためアメリカにいられなくなって日本に来た台湾人学生・陳玉璽が強制送還されたときには、台湾独立運動家が救援活動を行なうと「独立運動=共産主義の陰謀」という国民党のプロパガンダに言質を与えることになってしまうため彼らは動けず、支援者の川田泰代が日中友好協会に駆け込んだところ「台湾人は中国人ではないから手伝えない」と言われ、結局、彼女や著者など日本人で救援の努力をせざるを得なかった。この事件がきっかけでアムネスティ・インターナショナル日本支部が設立されたそうだ。台湾大学教授(国際法)で「台湾自救宣言」を出したため軟禁状態にあった彭明敏の台湾脱出でも計画を立てたのは著者らしい。なお、彭と面識のあるキッシンジャーが大統領補佐官の地位にあったため、学術的招請という名目で彭の出国に向けて国府に圧力をかけてもらおうと連絡をとろうとしたところ、完全に無視されたという。ちょうどニクソン訪中直前の時期であった。

 『台湾建国』では台湾の民主化にいたる経緯について政論を交えながら回想し、上掲書の後日譚とも言うべき位置付けになる。陳水扁政権が終わり、馬英九が総統に当選する直前の時期の刊行だが、当然ながら李登輝や民進党を支持する論調である。陳水扁政権になり、これまで身近にいた人々が要職に就くのを目の当たりにするのはやはり感慨深いようだ。

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2010年12月29日 (水)

邱永漢『私の金儲け自伝』『わが青春の台湾 わが青春の香港』

 以前、twitterに邱永漢と王育徳の比較は興味深いテーマだという趣旨のことを書いたことがある。二人とも台南の出身の同年代、台北高校→東京帝国大学と進んだエリート、しかし二・二八事件を目の当たりにして台湾独立運動に邁進したという経歴でも共通している。しかしながら、その後、独立運動がままならない中、邱は無国籍者として生きていくためどうしても金を拠り所とせざるを得なくなり、やがて「金儲けの神様」として大成する。他方、王育徳は台湾独立への情熱を台湾語研究へと注ぎ、この分野で第一人者となった学究として記憶されている。

 同様に台湾独立運動に関わった二人のその後の生き様が全く対照的であるところに興味がひかれた。ただし、邱永漢の膨大な金儲け指南的ビジネス書を読み続けるのは不毛としか思えないので、私自身がこのテーマに取り組むつもりはない。それでも、邱永漢という人物の、表面にある金儲け志向は胡散臭くも、内面的には相当に屈折しているであろうところは興味深いと思う。

 そういうわけで、とりあえず彼の自伝的著作二冊に目を通した。『私の金儲け自伝』(邱永漢自選集第8巻、徳間書店、1977年)は主に日本亡命以降の事業経歴をつづっており、『わが青春の台湾 わが青春の香港』(中央公論社、1994年)は日本亡命以前の回想である。後者には実の母が日本人であることなど複雑な家庭事情も記されている。

 邱永漢は台湾の帰属先決定のための住民投票を求める国連への建議書の草案を書いたことがばれて香港に逃れた。王育徳が日本へ亡命するに際しても香港で手助けしている。王は倉石武四郎のツテで東大に復学したが、日本への居住権を明確にするため警察へ出頭したところ、逆に強制退去命令が出そうになってしまった。このとき、王の立場を代弁しようと邱の執筆した作品が「密入国者の手記」である。裁判資料として提出され、この作品のおかげかどうかは分からないが、王の日本永住はかなう。一方、この作品は西川満を介して日本の文壇人に紹介され邱の文才が賞賛されるという副産物もあった。好評に気をよくした邱は、香港での事業が思わしくなかったこともあり、元手なしで資金を稼ぎ出す手段として文筆で身を立てようと考える。1955年に「香港」で直木賞を受賞、日本国籍者以外で受賞したのはこれが初めてだったという。新田次郎と同時受賞で、芥川賞は石原慎太郎だった。

 邱には「検察官」という作品があるが、これは王育徳の兄・王育霖をモデルとした小説である。王育霖は、台湾人に対して威張り散らす警察官を取り締まる側になりたいと考えて法曹を志し、東京帝国大学を卒業して検察官になった。戦後は台湾に戻って勤務したが、外省人政治家の汚職を摘発しようとしたところ妨害されて失敗、それどころか逆恨みされ、二・二八事件のどさくさにまぎれて殺害されてしまった。弟の王育徳はこの事件のショックで亡命を決意することになる。

 邱の論理的な文章は推理小説にぴったりだとも言われたらしい。彼は合理的思考の持ち主で、文学に対する態度も、まず実体験がなければ小説的イマジネーションはふくらまない、ところで自分は他の人に比べれば異常な体験をしてきた、それが文学的貯金になっている、しかし枯渇したらもうおしまいだ、と考えた。その時点で見限って、株式評論を皮切りに事業経営へと転身していく。

 『私の金儲け自伝』には「台湾へ帰るの記」という一文が収録されている。1972年、彼は国民政府側から接触を受けて台湾へ24年ぶりに帰国することになった。ちょうど国連代表権変更によって台湾の国際的孤立化が深まりつつある時期で台湾からの資本逃避が加速化しており、邱が台湾に投資してくれればこうした趨勢に歯止めをかけるアピールになるので来て欲しい、との招請だった。邱が国府に「投降」したという報道が流れたため、それへの反駁というのがこの一文の目的のようだ。彼の言い分は、台湾が共産主義に飲み込まれてしまうのはまずい、外省人といっても若い世代は台湾生まれ・育ちであって反攻大陸なんてもはや意味はない、あくまでも自分の故郷を建て直したいから戻るのであってそのために自分の金儲けの智慧が活用できればいい、ということらしい(資本主義確立の教育が必要で、自分は渋沢栄一と福沢諭吉の二人の役割を果たさねばならない、と気負った発言もしている)。政府高官に会った際にはもっと多くの台湾人を公職につけて欲しいと要求もしている。一方で、日本はすでに安定成長段階に入ったため投資効率が従来通りにはいかない、台湾・韓国は成長株だ、という判断もあったことも正直に記している。

 いずれにせよ、経済的自立が台湾の将来の大前提だという考え方を示しており、孤立無援の台湾の経済発展に、居場所がなかったがゆえに生きいく拠り所としてなりふりかまわず金儲けをせざるを得なかった邱自身の経歴を重ね合わせていると解釈できるだろうか。

 邱は当初、経済学者として身を立てるつもりで東大の大学院まで進んだが、諸般の事情で不安定な生活を送らざるを得ないはめになった(なお、台湾に帰国して一時勤務した銀行で、博士論文として提出するつもりで「生産力均衡の理論」という論文を書いたが、それを李登輝が読んでいたことを後に知って驚いた、というエピソードも披露している。李登輝は台北高校の一級下だったという)。ところが、「東大経済学部は金儲けの仕方を教えてくれなかったから苦労した」と冗談交じりに苦言を呈する。直木賞受賞作「香港」で、自分たち台湾人を「ユダヤ人」になぞらえる発言があったのを思い出す。ひたすら生き抜くために、理屈や理想など何の役にも立たない、という趣旨の発言は邱の著書では随所に見られる。岡崎郁子『台湾文学──異端の系譜』(田畑書店、1996年)に邱永漢へのインタビューがあり、彼は王育徳についてあまり評価していないという趣旨の発言をしているのだが、ここには邱の体感的な「学者不信」の感覚もあるのだろうか。

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福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』

福田ますみ『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮社、2007年)

 福岡県のある小学校教諭は、いわゆるモンスター・ペアレントの執拗なクレームを受けた。身に覚えはないが、保護者とのいざこざを恐れる校長や教育委員会の示唆でとりあえず謝罪する。ところがクレームはますますエスカレート、騒ぎを聞きつけたマスコミは、“怒れる”保護者の言い分を全面的に信じ、検証もなしに「生徒を差別していじめる史上最悪の殺人教師」と書きたててしまった。社会問題化すると今度は人権派弁護士が大挙して駆けつけて裁判に持ち込まれたのだが、公判が進むにつれてむしろ保護者の言い分の矛盾が次々と明らかになっていく。取材を進めた著者は、過熱報道でバイアスのかかった一方的な情報が独り歩きして人々の思考を停止させ、その結果として冤罪が作り出されてしまったプロセスを見出す。

 著者の新刊『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』(新潮社、2010年)をたまたま読み、深刻なテーマを読みやすい文章に移し変えていく筆致に興味を持って本書も手に取ったのだが、続けて読んでみると、ジャーナリズムが陥りかねない落とし穴が二冊を通して両極的な形で浮かび上がってくる。

 もちろん、政権による言論統制が生命の危険すら招くロシアとは次元が異なる。だが、権力とは暴力のみを意味するわけではない。子供は善、保護者は正しい、こうした考え方が聖域化されて疑問の余地なしとみなされたとき、これもまた事実関係の究明を妨げるタブーとして作用してしまう。言論の自由は、商売のレベルでは新奇でセンセーショナルなニュースの価値を高めるため、誇張した過熱報道へと向かう誘因をはらんでいる。“正義”の高みから他人を断罪する快感に酔いしれたい人々は極悪人の記事を求め、そうした欲望はスケープゴートを作り出すことをいとわない。制度的に言論の自由が保障されてはいても、それを使いこなすのはやはり各自の心がけ次第、ということになってしまうか。

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2010年12月28日 (火)

福田ますみ『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』

福田ますみ『暗殺国家ロシア──消されたジャーナリストを追う』(新潮社、2010年)

 ロシアではマスメディアが政権批判を行うのは禁物らしい。一定範囲ならば言論の自由は許されているにしても、政権や有力者自身がある種の犯罪行為に手を染めた場合、それをチェックする者はおらず、主要マスメディアは政府の翼賛宣伝組織になりさがっている。本書は、そうした中でも例外的に孤軍奮闘している「ノーバヤガゼータ」紙の記者たちにインタビュー、彼らの活動を通して言論の自由と政治的統制との極限的な緊張関係を描き出したノンフィクションである。

 とりわけ汚職、治安機関、そしてチェチェン問題はプーチン(+メドヴェージェフ)政権下では絶対のタブーであり、この一線を越えると文字通り命が危険にさらされることになる。同紙ではこれまで6人の記者や顧問弁護士が暗殺されており、その中でもアンナ・ポリトコフスカヤは世界的にも著名であろう。ポリトコフスカヤの活躍にあこがれた若手が入ってくる一方で、反体制的スタンスというよりもクオリティ・ペーパーとしての格調高い文章にひかれたという人がいるのが興味深い。

 記者たちの身の危険を案じて方針転換を検討する編集長の迷いは当然だし、かといって政権の言いなりになって黙ってしまえば、理不尽な思いを抱えてどうにもならない人々を守る者は誰もいなくなり、彼らは泣き寝入りせざるを得なくなる。これはバランスをとってどうのこうのという問題ではない。記者たちは人々の訴えを聞いてしまったし、現場に行って事件の悲惨なあり様をじかに目の当たりにしてしまった。政府は臆面もなく情報操作を行う。誰かが伝えなければ、これらの理不尽な事実はあたかも最初からなかったかのようにかき消されてしまう。記者たち、そして協力する人々の必死な息づかいを本書はヴィヴィッドに伝えてくれる。

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呉濁流『アジアの孤児──日本統治下の台湾』

呉濁流『アジアの孤児──日本統治下の台湾』(新人物往来社、1973年)

 日本の植民地支配下にあった台湾のある知識青年を描いた小説。当初のタイトルは『胡太明』、主人公の名前である。戦争中の1943~45年にかけて執筆されており、中には日本軍による残酷な処刑シーンや皇民化に励む台湾人の悲哀など政府批判にあたる箇所も含まれているため、見つからないよう隠しながら書きついだという。

 祖父から伝統的漢学の手ほどきを受けた少年期、公学校・国語学校を出て教員となり、さらに日本へ留学、植民地支配下の理不尽から逃げるように大陸へ渡るが、祖国と思っていた中国で台湾人は軽蔑され、スパイの容疑で捕まってしまう。脱走して台湾に戻るが、今度は軍属として召集され戦場に駆り出されたり、様々な矛盾に引き裂かれる中で精神に異常をきたしてしまう、という話。

 台湾、日本、中国大陸を行き来しながら、植民地支配によってアイデンティティ分裂を強いられた苦悩を描き出している点では、戦後に著された自伝的小説『無花果』と基本的なプロットは重なる。当時の社会状況における台湾人の心理描写として意義深い。さらに興味がひかれるのは、植民地支配に対する告発というモチーフが全体の主軸を成しつつも、同時に、例えば日本人=支配者=悪という感じに得てして陥りかねないステレオタイプではなく、一人ひとりの人物像がしっかりと描き分けられている。こうした筆致だからこそ文学作品としての説得力も持たせている。

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2010年12月27日 (月)

彭明敏・黄昭堂『台湾の法的地位』

彭明敏・黄昭堂『台湾の法的地位』(東京大学出版会、1976年)

・台湾にはもともと原住民の複数の政治単位があったが、西欧起源の近代国際法の論理に基づくと、明確な国家組織なし→「無主地」→「先占」の論理によって領有可能となる。
・鄭氏政権は台湾における事実上の独立国家→清が併合→1885年に福建台湾省→1895年に日本へ割譲、この間隙を縫って台湾民主国が独立宣言→短期間かつ実効性に問題はあっても法的には日本から、事実上は清国から独立を宣言したとみなせる。
・先占:国家による宣言、実効的な占有により無主の地を他の国家に先駆けて支配する→史書に名前が言及されていることとは次元が異なる。
・澎湖諸島は元が先占、台南一帯はオランダが先占、基隆・淡水一帯はスペインが先占。従って、先占によってそれぞれにとっての「固有の領土」。
・南明の滅亡後、従って国家主体ではあり得ない武装集団としての鄭成功や台湾住民がオランダ政庁を打倒→澎湖諸島と台湾島は建国時の原始領土。また、台湾民主国は台湾島が固有の領土→清、日本にとっての固有の領土ではない。
・領土の承継はどのように?→合法的な移譲。滅亡した国家→領有関係消滅。元→明→清→中華民国→中華人民共和国という承継は成り立つのか?→「中国」の連続性の主張は清末ナショナリズムの所産にすぎない。
・中華民国成立時に清の対外条約の承認を宣言→清の承継国家となる→しかし、この時点で台湾はすでに日本へ割譲されていたのだから、台湾は中華民国にとっての承継の対象にはならない。
・カイロ宣言を転機として台湾の中華民国への返還という流れが出てきた。台湾の帰属問題は、台湾処分の妥当性ではなく、当時における各国の利害関係に従って左右された。
・日清講和条約廃棄→無効、もしくは日清戦争は響伯→無効という議論:日清戦争自体は「いわば帝国主義候補国である日清両国が帝国主義への転質か従属国への転落かをかけて」戦った→朝鮮に対しては侵略であったが、清に対する脅迫→原状回復の論理は成立しない。
・日本はサンフランシスコ平和条約で台湾を放棄したことを再確認できるだけ→すでに権限を放棄しているのだから、改めて中華民国もしくは中華人民共和国へ割譲することはできない。
・国際法的には台湾の帰属先未定→台湾は「無主地」。国際法は強国の「力の論理」による自己正当化として作用、対象とされた地域の住民の意思は無視された。国際間の利害関係が錯綜しており、当時は決定を先送り→「人民自決の原則」が台湾に適用されなかったという事実がある→法的帰属を確定するために人民投票の形式を要する。

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許世楷『日本統治下の台湾──抵抗と弾圧』

許世楷『日本統治下の台湾──抵抗と弾圧』(東京大学出版会、1972年)

・日本の支配に対する抵抗と弾圧が繰り返されながら抵抗が徐々に弱まり、日本による植民地統治が確立していくプロセスをたどる。とりわけ1895~1902年の武力抵抗は激しかったが、これは日本側からは匪賊とみなされ、他方、中国では抵抗集団=中国ナショナリズムの発露とみなされて、いずれにしても台湾住民の主体的動きが無視されてきたという問題意識を示す。

第一部 統治確立過程における抗日運動(1895─1902)
・台湾民主国成立、しかし旧清国軍は潰走、逃亡したのに対して、地元の義勇軍は抵抗継続。
・日本側の無差別報復的討伐→抵抗運動の気力を挫く一方で、政治的無関心層までも抵抗へと傾斜させた。
・抗日軍は当初は軍紀厳正、しかし戦況不利、補給困難→匪賊化傾向、一般住民との関係冷却。日本側は、当初は軍事征伐のみで対応していたが、警察を中心に討伐と招降の硬軟両様の対応へと転換。
・雲林地方で簡義ら鉄国山抗日軍。中西部の抗日軍の指導層に読書人は少なく、土着性強い→北部での抵抗とは違って清国復帰の意図はほとんどなし。
・抗日軍は旧時代性を払拭できず→民衆の革命的エネルギーを吸収・組織できず。日本は抵抗軍と一般住民とを区別して対応、両者の分断に成功。
・1915年4月の西来庵事件を最後に武力抵抗はなくなる。
・抗日軍の存在を理由として「法律第六十三号」→台湾総督の専制的権力。

第二部 統治確立後の政治運動(1913─1937)
・同化会。差別政策撤廃運動→六三法、教育の問題。日本の留学生たちが台湾青年会。啓発会(1918)→新民会(1920)
・六三法撤廃運動→内地延長主義→同化主義を承認するのか、それとも台湾人の特殊性→日本本国とは別枠の民主主義=自治→台湾議会設置請願運動。
・台湾の農民が近代的所有関係を知らないことにつけこんで林野の官有林編入→日本人資本家に払い下げ→竹林問題。バナナ問題。蔗農問題。
・文化協会→左翼勢力の発展、中国国民党の国共合作という動向への関心→文化協会の分裂。蒋渭水、蔡培火、彭華英たちは台湾民衆党を結成→蒋渭水たちは農工階級を中心に全民運動に乗り出し、労働運動へも進出。共産党の進出。民衆党の分裂→林献堂たちは地方自治連盟(1930)。
・こうした政治運動の特徴としては、①民族自決、デモクラシー、共産主義など近代思想を内容とする、②台湾人への思想上の啓蒙活動に努力、③武力闘争ではなく政治結社を手段とした、④台湾以外にも日本人、中国人、朝鮮人など支持者の広がりがあった。
・前半期の抗日闘争が伝統的エリートによる地方的闘争であったのに対し、後半期の政治運動は新しい型の指導者による台湾人トータルの運動であった。

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凃照彦『日本帝国主義下の台湾』

凃照彦『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会、1975年)

・日本資本主義による台湾経済植民地化の過程を当時のデータに基づきながら実証的に分析、とりわけ日本側の資本主義的発展段階が台湾経済の変容に連動していたプロセスに注目する。日本独占資本=資本家的企業の進出・支配と台湾伝統社会における土着資本=地主制が並存、前者が後者を利用しながら経済的収奪を進めていたところに台湾植民地経済の特徴があったと指摘する。

第一章 台湾経済の歴史的特質と商品経済
・日本統治以前→地主的私有制、大陸や外国商人との交易から商品経済がすでに普及していた。地主の存在→日本の土着農民への直接支配困難→地主制を温存・利用しながら資本主義化が展開。
・日本資本進出の基礎工事:土地調査事業→地主の整理。台湾銀行を基軸とした貨幣金融制度。

第二章 台湾経済の植民地化過程、第三章 台湾農業の畸形的再編成
・日本の製糖業は輸入原料加工産業への転換期にあたっており、台湾領有によって原料確保。当時の市場的条件から米、茶、樟脳よりも有利なものとして製糖業を推進、保護政策。
・台湾で蓬莱米の開発、生産力向上。日本では植民地へ工業製品を売り込む反面、国内農産物の価格が相対的に上昇していた。また、台湾では甘蔗栽培によって商業的農業の土台ができていた→日本の米価政策と連動しながら台湾の米穀は日本市場と結びついた。
・当初は砂糖中心の貿易構造→1920年代後半から糖・米二大商品が基軸(両方あわせて全体の70%を占める)。
・「糖・米相剋」関係:日本本土での農業保護=米価維持政策→米価の相対的上昇→台湾での米作への誘引→糖業後退。
・総督府の農業調整政策→台湾米穀移出管理令→農民から米穀を強制的収奪、日本の資本家は本土における買取価格との差額から利益。
・1930年代後半から工業部門の生産額における比率が上昇→40年代には農業生産を上回る(ただし、米価抑制政策などを考慮する必要あり)→工業化では土着人への差別的賃金政策。
・近代糖業の確立→賃労働者層の創出は実はあまり大きくなかった。人口構成は依然として農業主体。
・日本の植民政策は、地主・小作関係の温存・安定化を意図→農民の余剰労働の収奪。
・農家経済構造の不安定性→農民層分解。

第四章 日本資本の支配と膨脹
・台湾銀行の役割。
・台湾製糖(三井系)など日本内地資本の進出→1911年までに欧米資本を駆逐、土着資本の従属化、製糖業の合同・再編成(台湾製糖、明治製糖、日糖興業の三大会社と塩水港製糖)→糖業資本の独占。
・第一次世界大戦以降、台湾銀行は日本内地に金融の重点→鈴木商店の破綻、金融恐慌→台湾は日本資本主義の構造に組み込まれていたので島外の事情で左右されてしまう。
・糖業そのもので拡大再投資には限界あり。また、製糖業は内部留保を増やして(金融恐慌の教訓もある)銀行から相対的自立性を確保→他産業(主に島外)へ投資。
・1930年代から新興産業資本が進出。1936年には国策会社の台湾拓殖会社。地場日経資本の赤司初太郎、後宮新太郎は内地資本とつながりながら発展。

第五章 土着資本の対応と変貌
・旧来型の地主資本としては林本源家、林献堂家、砂糖輸出業の陳中和家、日本資本と結びついて発展した資本としては、辜顯榮家、鉱業請負の顔雲年家の五大家族。ただし、日本人中心で自立性なし。
・林献堂はブルジョワ民族運動派となったのに対し、辜顯榮、林熊徴などは御用士紳として民族運動に反対

・植民地遺制は戦後台湾経済内部におけるゆがみを再生産することになった:①植民地期において土着資本勢力=地主階級の弱体化→戦後における土地改革の前提、②強固な中央集権体制→戦後に受け継がれた、③日本資本の巨大企業と土着生業的零細商工業という二重構造→戦後における公業・民業の二重構造へ、④糖・米モノカルチュア的生産形態→農民たちへの強制的な剰余価値収奪システム、日本・アメリカ貿易への従属性といった形で戦後も継続。

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2010年12月26日 (日)

台湾の実業家を何人か

郭泰(広瀬輝明監訳、謝雅梅訳)『大華僑伝──台湾の松下幸之助・王永慶』(総合法令、1996年)
・台湾プラスチックの王永慶の評伝。裸一貫たたき上げの経営者で、企業経営の卓抜さから台湾では松下幸之助のような存在らしい。
・彼は1917年、新店の貧しい家庭に生まれ育ち、15歳のとき嘉義市の米屋で丁稚奉公。16歳で小さいながらも自分の米屋を開く。人一倍努力して大きくしたが、戦時体制下で閉鎖。信頼関係を軸に顧客を開拓。
・政府はアメリカの支援をもとにプラスチック工業を興そうとしたが、担当者が投げ出した→タイヤ生産の申請をしていた王のところに話が回ってきた。「民営」に任せるつもりだった経済部長・尹仲容の判断も後押し。→1954年、台湾プラスチック(台塑)工業株式会社設立。1980年にアメリカ進出。1990年代には中国大陸進出を目指して政府とせめぎ合い。
・松下との共通点がいくつか並べられる一方で、松下はソフトな態度で部下に任せるのに対し、王は自分の命令が行渡っているかいちいち検証しようとするハードなところがあると指摘。

『張榮發自伝』(中央公論社、1999年)
・台湾の世界的流通会社、エバーグリーン・グループを築き上げた張榮發の自伝。
・父は大阪商船の船員で、張榮發は1927年に蘇澳に生まれ、基隆に育つ。公学校卒業後、南日本汽船の用務員として務め始め、1944年に初航海。父は戦争中、レイテ沖で船が撃沈されて死ぬ。
・張榮發はもともと事務系だったが、戦後は船倉管理の仕事をしながら勉強、三等航海士の免許を取得。
・1961年から知人と共同出資で海運会社を設立したが考え方の相違から袂を分かち、1968年に中古船一隻で長栄海運公司(Evergreen)を単独経営で始める。これまでの仕事で信頼関係のあった丸紅が支援。戒厳令下の台湾では制限があって仕事がやりづらい→パナマ船籍にして海外発展。海外から発展して、その上で国内へという発展方針。国民党には加入せず、党派的には中立。
・1970年代からいち早くコンテナ船に転換。1984年には世界初の東西双方向世界航路を開設。海運と陸運のネットワークで世界をつなげる。1988年に台湾政府も「オープンスカイ」政策→中国人でも質の高い航空会社を作れるんだ!という意地で参入、政府関係部門の妨害をはねのけながらエバーグリーン創業20周年で長栄航空公司を設立。関係部門の経営多角化。

呉火獅『台湾の獅子』(講談社、1992年)
・新光グループをたたき上げで創業した呉火獅の自伝的な遺稿をまとめた本。
・呉火獅は1919年、新竹の貧しい家庭に生まれ育ち、迪化街の布問屋で丁稚奉公。日本人のボス・小川光定に出資してもらって20歳で新会社を設立。戦後、新光商社を設立(故郷・新竹の「新」と恩人・小川光定の「光」に名前は由来)。当初は日本から布地を輸入、それから製茶業。この頃から、知己として繊維業の先輩として台南幇の侯雨利や、呉三連の名前も出てくる。
・当時、紡績業は国営もしくは上海から来た資本家の独占、通貨膨張で企業倒産相次ぐ、政府の輸入代替政策で日本からの布地輸入ができなくなる、などの困難→工夫して人造繊維の紡織工場を設立→新光企業グループの母体となった。
・多角化→保険業(政界の有力者・謝東閔・謝国城を名目上の会長にして)、大台北ガス会社。化繊業界で日本と提携→日本は高付加価値製品台湾は大量生産品という国際分業によって国際競争力を身につけた。また、三越と提携して新光三越デパート。

 以上は、日本の植民地統治期に育ち、努力・勤勉・誠実の美徳、貧しくて学校へは行けなかったが向学心があり、旺盛な独立心で若い頃に自前の会社を設立、裸一貫で台湾の代表的な企業グループへと育て上げた人たち。張榮發と呉火獅は面倒見のいい日本人と出会えたからなのか、日本への親近感がところどころ出てくる。三人とも勤勉・誠実といった美徳を強調するが、その文脈で張榮發は日本植民地統治期の道徳教育を評価。以前、台南でパソコン部品メーカーの奇美実業を創業した許文龍『台湾の歴史』というパンフレットを二二八紀念館で会った日本語世代のおじいさんからいただいたことがあるのだが、これも同様に日本統治期のプラス面の一つとして道徳教育を挙げていた。他方、王永慶にはむしろ差別された記憶の方が強いのか、日本人に負けてなるものか!という感じの気負いが見えてくるのが興味深い。

久末亮一『評伝 王増祥──台湾・日本・香港を生きた、ある華人実業家の近現代史』(勉誠出版、2008年)
・王増祥は1926年、台北郊外の三峡に生まれた。地主の家だったが没落→再興の思いを抱きつつ、民族差別の状況の中にあって、台湾を離れたいという思い→上海へ行きたかったが許可が出ず、日本へ→大阪の薬問屋で丁稚奉公をしたが待遇に怒ってやめ、東京に出たのち、神戸で貿易業につく。実家を再興させたいという思い、差別を乗り越えたいという思いを原動力に金儲けに邁進。
・二二八事件で不安を感じて家族を日本へ呼び寄せるが、1956年に香港へ移住。不動産業→香港は都市が狭いため軽工業の中小工場が入居する工業ビルを経営。
・「富豪好友」と言われる財界に幅広い人脈、日本事情に詳しい→香港実業界で独特な存在感。日本株へ投資→かつて差別を受けた日本人から認められたいという心理を著者は見出す→日本の証券業界では「香港ダラー」と恐れられた→王子製紙株・片倉工業株取引で大蔵省は相場撹乱とみなして行政指導→合法的に株式を取得したのにバッシングを受けるのは心外だという不満→裁判闘争へ(なお、王の手法を後に村上世彰が模倣する)。日本の閉鎖的構造のせいだと主張。
・王増祥は台湾出身の実業家でも、むしろ邱永漢に近いタイプか。

スタン・シー(施振榮)『エイサー電脳の挑戦』(経済界、1998年)
・台湾最初のパソコンメーカーで世界進出を果たしたエイサー(宏碁電脳)の創業者が自らの創業精神や経営管理の考え方を述べた本。
・研究開発と国際化を目指した経営戦略論。シーは1944年生まれで、エイサーを友人たちと共に創業したのは1976年。上述の人たちを第一世代とするならこちらは第二世代で、技術集約型へと台湾産業のトレンドが移り変わったタイミングで登場してきたことがうかがえる。

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謝国興『台南幇──ある台湾土着企業グループの興隆』

謝国興『台南幇──ある台湾土着企業グループの興隆』(交流協会、2005年)

・統一企業グループ、萬通銀行、太子建設をはじめ、台南県北門地区にルーツを持ち郷土意識や広い縁戚関係による一体感をもとにした人的ネットワークがいかに企業活動として展開してきたか。伝統的な商業組織をルーツとしながら現代企業経営を進めたという特色を見出し、物売り段階→資本蓄積をして商業から工業へ、さらに製造業からサービス業へと多角化してきたプロセスを人的要因に注目しながらたどる。
・台南幇の第一世代は日本統治期に育った呉三連、侯雨利、呉修齊、呉尊賢など。なお、呉三連の経歴は、1899年生まれ、公学校→台北国語学校→林熊徴奨学金で東京高等商業予科→大阪毎日新聞記者→台湾に戻って台湾新民報→総督府の圧力で解任され、1940年に天津へ渡ってペンキ顔料店を共同経営→終戦にあたり、天津・北京界隈の台湾人三千人以上の帰還に尽力。この時に得た信望から国民大会代表、台北市長に当選→しかし、無党派なので国民党の目をはばかって任期満了後は再出馬せず。一族に請われて台南紡織董事長。1959年からは自立晩報の経営(台南幇が資金援助)。
・北門一帯では農業・漁業、しかしこれだけでは生活が成り立たず商売へ。侯雨利がチャレンジ精神で商機を開拓→資本蓄積→織布工場を経営。同時に地下銀行で貸付業務。高利貸しではなく合理的な貸付。当時は公的な金融制度がうまく機能していなかった。
・光復~1949年:「新和興」発展。この段階では商業を主体に資本蓄積。一族・同郷人の共同出資。業績がのびると、同郷人の子弟を受け入れ、人材育成をしながら商業グループとしての団体意識→各自が独立創業しても関係継続。統一企業が地縁を超えた業務提携も始める。
・1950年以降:経済環境の変化に応じて工業へ転身。台南紡織、坤慶紡織、環球セメントなど。
・1960年代以降:経営多角化。まず製造業へ進出、1970年代以降はサービス業へ。1987年にカルフールと提携。1992年からは食品業で中国へ投資。
・グループの中心にいた呉三連はあくまでも精神的権威であって経営政策決定上の権限なし。各関係企業メンバーそれぞれが自主的に行動。
・当初は経営と所有の重複→専門経営者の機能重視へと転換。
・国民党政権の政治優先文化の中、政商関係は必然。政権とコネクションのある呉三連を台南紡織・環球セメントの董事長につけ、大卒の外省籍人材を起用。ただし、呉三連は国民党籍を持っていなかったので影響力は限定的で、むしろ彼の社会的声望を重視。また、呉修齊、呉尊賢も入党せずに政治から距離をおく。
・マクロ経済の立場から民間企業の活力に注目していた経済部長・李国鼎が後押し→良い意味での政商協力。
・統一企業(1967年創立)の高清愿は蒋経国からの招請により、悩んだ末に入党。経営管理以外の要因で活動を邪魔されたくないという受身の立場。政商関係には適度な距離をおき、事業開拓は実力でやるしかないのでコネをつかって利権に入り込もうとはしなかった。
・人材の育成→自立創業しても師弟関係、共同経営の間断なき再生、グループの内部で連合もすれば競争もする関係。

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渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済読本』

渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済読本』(勁草書房、2010年)

・「近代化における人的資本の形成:植民地時代の学校教育」:林茂生のコロンビア大学提出博士論文「日本統治下における台湾の学校教育」(1929年)を読み直しながら、日本の植民地支配には不合理な側面が多々あった一方で、学校制度導入→台湾近代化の基礎が築かれたことを指摘。

・「経済発展段階と工業化類型」:1950年代の輸入代替工業化→1960年代の輸出志向工業化→1970年代の第2次輸入代替工業化(重化学工業化)→1980年代のハイテク産業、こうした段階移行のプロセスについて開発経済学の理論を用いて説明。

・「台湾の日系企業」:戦後日本の台湾への直接投資は1952年から始まった。60~70年代は労働集約型産業の家電・電機産業、1980年代は技術集約型産業の精密機械・自動車産業、2000年代から液晶テレビなどハイテク産業。日系10社のケースを分析。台湾拠点で育った人材(中国語)を活かして中国拠点へ派遣する例も目立つ。

・「市場の中の血縁関係」:グループ企業内の縁戚連関を数量的に解析、大きなグループ同士がますます結び付きやすい傾向を指摘。台湾は富の均等化のバランスをとりながら発展に成功したモデルといわれる→一部の階層化傾向を指摘することで反論の根拠として提示。

・「財政金融システム」:産業構造の変化に応じて改革に成功してきた台湾の財政システムの変化をたどる。

・「人口と労働力」:台湾での少子高齢化への人口転換は日本を上回るペース→人口・労働構造変化に応じたセーフティネット構築の必要。

・「技術競争力」:インプット・アウトプットの各指標の分析→インプットとして研究開発投資は先進国水準。アウトプットとしては基礎科学では遅れをとり、応用分野ではトップレベル。

・「対中経済関係と今後の展望」:台湾と中国との経済関係の進展を概観。

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2010年12月24日 (金)

黄昭堂『台湾民主国の研究──台湾独立運動史の一断章』

黄昭堂『台湾民主国の研究──台湾独立運動史の一断章』(東京大学出版会、1970年)

・日清講和による台湾割譲について清朝上層部では列強の干渉に期待する気分があったが、三国干渉は各国の利害に基づいていたため遼東半島が優先され、台湾は副次的問題として軽視された。
・台湾割譲の知らせを受けて台湾の人々は驚き(日清戦争では戦場から離れており、対岸の火事のように見ていたので)→士紳たちは台湾省巡撫・唐景崧に迫って離台を禁じた。台湾防衛というだけでなく、台湾内部の治安悪化を懸念したためで、イギリス領事にも保護を懇請。
・1895年5月23日、唐景崧を総統に祭り上げて台湾民主国独立宣言。
・5月29日、北白川宮能久親王率いる近衛師団が澳底から上陸→陸路、瑞芳・基隆を占領→敗走兵が台北に流れ込み、唐総統をはじめ首脳陣は大陸へ逃亡し、台北は大混乱→台北の有力者は協議の上、辜顕栄を派遣、彼は水野遵に面会、治安維持のため日本軍の入城を懇請→無血入城→6月17日、樺山総督が来て始政式。
・中南部では抵抗が継続。しかし、台湾の人々の反応は様々で、無関心の住民も多く、原住民は局外中立→劉永福も戦わずに大陸へ逃亡して、10月20日、台南入城。
・台湾民主国独立の発案者は誰か?→①陳季同(滞仏経験あり)、②陳季同と台湾士紳たちの共同参画、③清朝官僚、④丘逢甲の4説あるが、確定困難。
・士紳たちにとっては日本の領台が自分たちの利害に障りがあるので抵抗。抗日の主力となったのは、地元上層階級が組織した地域的な自衛軍。あくまでも日本の領台を阻止するために台湾士紳が在台清朝官僚を強迫して台湾民主国を樹立させたものの、その指導層に確固たる信念はなく、外国による干渉に期待をかけるばかりで、民衆的基盤も脆かった。
・台湾民主国はアジア最初の共和国。鄭成功、朱一貴(1721年の2ヶ月間)に続いて三度目の台湾の独立国。ただし、民衆的基盤が弱かったため、その後の台湾民族運動で「民主国」回復を目標とする主張は現われなかった。
・抗日運動→日本の残酷な弾圧→さらなる反抗を誘発してしまった悪循環→台湾は各地分立の状態であったが、日本を共同の敵とみなして横の連絡を取り合った→「台湾人」としての共同運命感、台湾人意識形成の起点として「台湾民主国」の意義が把握される。

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張宗漢『光復前台湾の工業化』

張宗漢『光復前台湾の工業化』(交流協会、2001年)

・原著は1950年頃に書かれたものらしい。著者は大陸から来た経済専門家で日本資産接収時の資料を踏まえて日本植民地支配期における台湾経済工業化のプロセスをたどる。
・前期は1895~1931年の日本企業の自由発展段階、後期はそれ以降1945年までの戦時期統制経済の段階と分類。
・清朝の時代、砂糖、茶、樟脳の輸出は請負の買弁商人を使う外国商人によって独占されていたが、日本が植民地支配を始めるにあたって駆逐。
・第一次世界大戦後の好況→台湾は日本企業の投資先、総督府の保護政策→日本人経営事業が独占。例えば、製糖業では三井系が大きい。
・台湾の農産物→より安い南洋産との競争が厳しくなった→工業化への転換。
・台湾の面積は狭いので、日本人の農業移民は少なく、「工業移民」方式で大量移住。
・政治的・軍事的要因→南進政策→「工業台湾、農業南洋」。
・農業の多角化→農産物加工業。日本、南洋、中国が市場。
・台湾の人件費→大陸に比べると高い→安価な労働力の確保ができないので生産力増産、大量生産を目指す。
・日月潭水力発電所が台湾工業発展の契機。
・技術は日本人中心の教育体制→台湾人の技能者があまり育たず。

・日月潭水力発電所の完成と新興工業の勃興(1931~35年):農業改造。食管制度の実施。山地開発。水力発電所の完成。鉄道・一般道路・港湾の整備。工業化を前提とした調査研究。人材育成。
・日本の準戦時体制下における台湾工業の積極的建設(1936~40年):第一次生産力拡充五カ年計画など戦時動員計画による統制配給制度→資金、労働力、原料、器材等を工業へ優先的に供給。不足物資の補充を日本に依存する一方、原料は南洋から入手→有事の供給ストップへの不安。企業結合が進んだ。
・戦時工業動員(1941~45年):日本での余剰設備の移転→日本企業は廃棄損を回避、生産加速に効果的ではあったが、古いので効率は悪かった。日本の植民地として台湾は軽工業の輸出市場→本国は競合する台湾工業を望まず→紡績品、飲食品、肥料などは台湾では一貫して輸入品の中心→従属性→政治的コントロールの手段。労働力不足→女性労働者の増加、また技能労働者があまり育成されず→労働力に見合った生産性の伸びは見られず。日本人と比べた不平等な差別賃金・待遇、農業における賃金よりも工業における賃金の方が低い→台湾人の工業労働転換のインセンティヴ働かず→強制労働的な対応。
・1941年まで工業生産は伸びていたが、それ以降は戦争の影響で年々減少。敗色濃くなると輸送困難→南洋からの原料供給ストップ→工業稼動できず。
・当時の台湾はすでに農業中心経済から離脱していた。輸出品において工業産品は8割近くを占め、その中心は農産物加工品であったが、金属工業・化学工業産品も年々増加していた。
・工業化に伴う国民生活の改善:照明用電灯の増加、鉄道旅客数の増加、水道利用、ラジオ台数の増加、レンガ・セメント生産量増加→住居条件改善、就学児童数増加、郵便集配件数増加、医療・衛生関係者数増加。
・農業社会から工業社会への転換にあたり、工業化に取り組みながらも農業開発も怠らず同時に発展させたこと。台湾の労働力と動力資源、日本の技術と資金、「南洋・南支」各地の原料を有機的に統合させたこと、以上が台湾工業化成功の要因。
・結論部で、日本が植民地統治で残した経済基盤を活用して反攻大陸を実現させようと締め括られるのは当時の紋切り型か。

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林鍾雄『台湾経済発展の歴史的考察1895~1995』

林鍾雄『台湾経済発展の歴史的考察1895~1995』(交流協会、2002年)

第1章 台湾経済発展の基礎
・日本植民統治期→生産力の育成、教育と衛生→台湾の人的資源向上。
・糖米経済→日本人自身の利益のためではあっても結果として半自給自足的な閉鎖経済から輸出指向経済へと誘導。
・アメリカによる経済援助
・多国籍企業の台湾投資(日本企業)
・台湾は貯蓄過多→投資の機会を逸している。

第2章 日本統治下台湾の糖米経済と工業化
・治安維持、インフラ投資(電力→工業化に必須)、貨幣・度量衡の統一と銀行の創設。
・台湾の糖業:資本家の蔗作農家に対する搾取と日本の関税保護下で発展。
・米の増産:水利改善、肥料奨励、蓬莱米奨励→日本へ輸出。その一方で、廉価・低品質の米を南洋から輸入、甘藷の作付面積拡大→台湾人は米に混ぜて食べた。
・工業化:台湾は日本製品の市場。パイナップル缶詰製造→農産品加工輸出。南進政策に応じて自給自足的工業の展開。南洋のボーキサイト→台湾でアルミ生産すれば輸送費節減、安い電力を利用できる。

第3章 1940年代の台湾経済
・日本植民地期にインフラと勤勉な労働力が形成されても、きちんとした政策と技術者がいなければ経済再建困難。
・国民党政権のため資金供出、中国大陸との為替取引→輸入インフレ、人口激増→需要圧力。

第4章 台湾の対外貿易100年の歩み
・日本植民地期の糖業による輸出業は没落→1960年代の輸出指向的経済開発では製造業が中心となった。
・日本植民地期の経済政策や1960年代の多国籍企業進出は台湾にとって受身の経済開発。他方で、多国籍企業の薫陶を受けた進取の精神を持つ企業家が群生→自立的な経済へ。

補論 台湾の輸出主導型経済発展とその中国に対する啓示
・台湾の成功要因:①相対的に整備されたインフラ。②国際市場の拡大。③外貨節約のための輸入代替工業化を選択。④外国企業の投資→民間企業家の創業精神を誘発。⑤産業構造を不断に調整。

第5章 100年来台湾の国際収支と経済発展

第6章 台湾経済発展の活路
・資源乏しい→輸出しかない→しかし、労働集約型産業による発展途上国との価格競争はもはや無理→高所得消費群を相手にする。ハイテク産業。

第7章 糖米経済から科学技術立国へ
・孤立経済→日本と一体化→1940~60年代の経済暗黒時代→台湾・アメリカ・日本の3軸経済関係→APECの一員

第8章 美麗島の再建

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2010年12月23日 (木)

小林英夫『戦後アジアと日本企業』

小林英夫『戦後アジアと日本企業』(岩波新書、2001年)

・戦後における日本企業のアジアへの再進出プロセスをたどる。
・1950年代前半、中国・朝鮮半島情勢の悪化→南アジア貿易の比重が高い。
・1950年代後半、賠償をテコに東南アジア進出。
・1960年代、円借款をテコに韓国、台湾との経済交流深まる。
・1960年代半ばに永野重雄が「アジア太平洋経済圏」構想を提唱。
・この頃、反日暴動の一方で、対日感情改善の努力→関係好転。また、日米繊維摩擦→韓国、台湾、香港の対米繊維輸出が拡大し、工業化進展の足がかりとなる・
・1970年代、日本商社が主導して、合弁相手を探し出し、原料購入、製造したものを販売。
・1980年代、日米貿易摩擦→自動車などアメリカでの現地生産。また、円高→安い労働力を求めて東南アジアへの直接投資、生産拠点移転→日本の金融機関はこの頃からアジア展開を本格させる。日本国内産業の空洞化も同時進行。
・東南アジア域内分業を前提とする日本の企業戦略→高級品は日本国内で生産、中・低級品は現地生産。
・1997年のアジア通貨危機→「ものづくり」中心の分業体制の前提が崩れた。

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エズラ・F・ヴォーゲル『アジア四小龍──いかにして今日を築いたか』

エズラ・F・ヴォーゲル(渡辺利夫訳)『アジア四小龍──いかにして今日を築いたか』(中公新書、1993年)

・ちょっと古い本だが、当時どんな議論をしていたのか確認するために目を通した。
・東アジアNIES、すなわち台湾、韓国、香港、シンガポールの発展:①反共→アメリカの開発支援、②国際貿易の進展により市場拡大、③欧米における消費拡大がその市場拡大を支えた、④情報革命→新情報へのアクセス容易、⑤多国籍企業の進出から便益。
・台湾:中国大陸で工業化に失敗した国民党政権はなぜ台湾で成功? 色々問題はあったにしても一応の政治的安定性。日本植民地支配が残した産業基盤と人的資源。アメリカの援助。大陸出身のテクノクラート(尹仲容、李国鼎など)。蒋父子は大陸で腐敗・汚職のために失敗したことから教訓→企業利益との癒着を防止。
・国内市場狭小な都市国家という点では同様でも、香港は自由放任的であったのに対し、シンガポールは政府主導の経済政策。
・状況的要因:①アメリカの援助。②日本の植民地支配・侵略が伝統的旧秩序を崩し、新たなリーダーシップを可能にした。③政治的・経済的緊張感→権威主義的政権の存立→秩序維持、政策推進。④勤勉で豊富な労働力。⑤日本型成功モデルへの理解。
・儒教的伝統が工業化に資したとは言えないが(近代的教育システムと儒教道徳は関係ない、またかつては儒教道徳こそが近代的発展を阻害という議論があったことを想起すべし)、他方で産業構造上の心性を指摘して“工業的ネオコンフュ-シャニズム”と名づける:能力主義の官僚エリート、入学試験制度、集団重視、自己研鑽。

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2010年12月22日 (水)

隅谷三喜男・劉進慶・凃照彦『台湾の経済──典型NIESの光と影』

隅谷三喜男・劉進慶・凃照彦『台湾の経済──典型NIESの光と影』東京大学出版会、1992年

・日本統治期:当初は米糖経済→1930年代後半から南進基地化を目指して工業化、同時に農業発展の飽和状態から製造工業への進出という背景。この時期、近代的社会経済制度の確立、インフラ整備、米糖経済の開発、工業化の推進といったプラス面の一方で、総督府専制、国家資本支配体制による収奪構造というマイナス面は戦後の国民党政権に受け継がれた。
・戦後:米糖統制による収奪構造→軍事財政負担、また間接的には工業資本の蓄積に有利な条件。
・工業化を特徴付ける二重構造:官営企業=基幹産業=大企業、民営企業=軽工業=中小企業。後者の中小企業が経済成長を主導。さらに両者が相まって輸入代替工業化により発展。
・1957~58年頃に国内市場飽和→①貿易・為替制度の改革、②投資市場を内外に開放→こうした刺激策によって輸出促進→労働集約的な輸出加工産業、対日米貿易、中小企業中心の発展といった特徴。
・輸出先の市場はアメリカに依存、製造部品等の生産は日本に依存→台日米の〈三環構造〉。
・韓国との比較:台湾では日領期以来の米糖経済の展開として農産物加工業(缶詰)→輸出しやすかったのに対し、韓国では工業製品の輸出比率が高く当初は海外市場の拡大困難。また、台湾は官・民分業構造における民間中小企業が主導したのに対し、韓国では民間財閥資本が主導。
・農業分野:農民収奪による工業化支援→行き詰まり→政策転換して、伝統的米糖農業体制から多角化へ。農産品では、対米偏在の輸入(小麦、大豆、トウモロコシ)、対日依存の輸出(エビ、ウナギ、豚肉→養殖業、養豚・養鶏業などで企業家的経営)。しかし、1990年代以降、農業はゼロ成長。台湾農業は軍事財政を支え、余剰資本や労働力など工業化の条件を提供したあげく、工業化の蔭の中に消えていく。
・産業化:労働集約的産業への特化、日米資本・技術・市場への依存→輸出指向的性格→国際分業体制下での工業化、民間主導の経済発展。
・台湾経済発展の主役は中小企業:官営企業とは異なって政府の保護政策が乏しく、ハンディを背負いながら激しい市場競争のもとで成長した。家族経営的性格、商人資本的性格、市場競争的性格、国際的性格。
・農業労働力の工業への移動:小都市・農村部に工業が分散的に展開→農村からの流出労働者に通勤者の比率が高く、労働生活の変化は比較的ゆるやか。また、被雇用→技能習得・資金蓄積→自分で独立開業というパターンもよく見られる。雇用というよりも自由市場での労働力売買という性質。若年女子労働力が低賃金労働を支えた。労使関係の未発達。
・金融・財政制度:政府系資本が独占的。制度金融が社会全体に浸透しておらず、民間では制度外金融(地下金融、高利貸)に頼るケースが多い。
・農地改革により自作農創出、また大量の離農により労働市場の広がり工業化によって全体的に所得水準が上昇→所得水準の格差は比較的小さい。

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2010年12月21日 (火)

劉進慶『戦後台湾経済分析──1945年から1965年まで』

劉進慶『戦後台湾経済分析──1945年から1965年まで』(東京大学出版会、1975年)

・半封建的社会における階級矛盾として戦後台湾の経済関係を分析。国家資本と民間資本との二重構造、対米日資本従属構造を指摘するのが全体的な論点となる。理論枠組みにはマルクス主義色が強い。
・戦後、日本資産の接収→膨大な国家資本形成(すなわち、植民地遺制と国民党権力の結合)による公営経済が戦後台湾経済の起点となる→経済再建の主役であると同時に、巨額な軍事財政の収入源、官僚階級の蓄財手段ともなった。
・戦後直後、大陸の経済的混乱が台湾まで波及しないよう台幣と法幣とを分離、しかし政策的失敗、大陸からの為替投機・資金逃避→インフレが加速的に進行。インフレと米穀徴発によって農民は窮乏化。
・内外情勢の不安に押される形で、農民との階級対立を回避するため国民党は農地改革→“流亡政権”で土着地主と利害関係が共有されていないため断行できた。ただし、国民党政権と地主は妥協的関係→公営企業の一部を債権化により払い下げ。
・国家資本と民間資本との二重構造。蒋介石一族の伝統的家父長制的専制主義と捉え、公業が主導、民業は従属という関係を指摘。また、米穀経済→地主的国民党権力が自作零細農を支配する構造として捉える。
・中央と台湾省との二重財政→後者の大半は中央に吸い上げ。
・政権の軍事的性格→歳出の大部分は国防統治費。
・特権階級の利益を阻むような直接税制よりも、逆進性の高い関節税制を強化→大衆収奪の装置として作用。
・アメリカ帝国主義の二重介入→私業は、公業に対して寄生従属、外国資本に対して買弁従属。
・調整期(1950~53年):国共内戦で大陸紡績資本が大挙して台湾へ流入、これが民営企業の主導部門となり、政権は保護政策→資本蓄積。
・相対的安定期(1954~59年):土着資本が公権力をバックに成長。
・発展期(1960~65年):外資導入→アメリカ資本は低賃金労働を利用した輸出市場指向。日本資本は台湾市場指向。華僑は人的つながりを通して流入、政商的。
・低賃金労働の構造を分析。

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朝元照雄『開発経済学と台湾の経験──アジア経済の発展メカニズム』

朝元照雄『開発経済学と台湾の経験──アジア経済の発展メカニズム』(勁草書房、2004年)

・台湾経済の発展メカニズムについて開発経済学の理論枠組みを用いてデータを分析しながら解明。
・賃金が低い伝統的部門(農業)→賃金が高い近代的部門(工業)への労働力移動により、低廉な労働力を得て工業が発展→賃金上昇→労働移転過程の終わり→ルイスの転換点。また、農業部門での生産性向上に着目→ラニス・フェイの転換点。
・停滞して途上国の所得配分は比較的に平等→経済発展と共に不平等拡大→高度経済段階に入ると再び平等化→クズネッツの逆U字型曲線。
・上記、ルイスの転換点とクズネッツの逆U字型曲線のクライマックスに当たる点が1960年代後半の台湾経済に見出せる。
・産業連関表を基に、総需要=総供給=国内需要+輸出=国内生産+輸入という恒等式によってスカイライン・マップを描き、日本・台湾の比較→日本の場合、産業構造がより“総括的”、製造業は“自己完結的”なのに対し、台湾の場合、“強い産業と弱い産業”の差がより顕著であり、製造業は国際分業に組み込まれている様子がうかがえる。
・プロダクト・サイクル理論により産業の国際競争力分析→安い賃金で労働集約型の輸出→ルイスの転換点を越えて競争力低下→1980年代、海外直接投資によって生産基地が東南アジアや中国にシフト→日本及びアジアNIEsでは資本・技術集約型への移行、この分野で欧米にキャッチアップ。
・経済発展における政府の役割:国民党政権初期、政策の制定者と土地の所有者とに利害関係の重複なし→農地改革が成功(戦後日本のGHQと同様)。インフラ未整備段階では「大きな政府」→発展の障碍がなくなってから「小さな政府」で市場メカニズム。
・日本統治期に「法の遵守」など基礎条件整備。戦後、経済テクノクラートの貢献。
・中小企業の活動:豊富な労働力運用と外貨節約のために実施された輸入代替工業化政策の下で中小企業の芽生え(1945~62年)→輸出志向工業化政策により成長(1963~73年)→石油危機、労働力不足、相対的賃金の高騰などといった環境激変(1974~82年)→中小企業の比較優位性の喪失、競争力低下により産業構造転換に迫られる(1983年以降)。
・中小企業が成長した要因:起業家精神、政治社会的安定、効率的な生産ネットワーク(血縁、地縁、友人などの人脈)、豊富な労働力、人的資源の質の向上、インフラ整備。

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御厨貴『権力の館を歩く』

御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社、2010年)

 政策決定のギリギリのせめぎ合いにおいてはドロドロした人間ドラマが繰り広げられており、ましてや密室で物事が決められていた過去において、その生々しさはいかほどであったろうか、想像するにつれて興味はいよいよ増す。ドラマにはもちろん舞台がある。本書は、歴代総理の邸宅、政府機関、政党本部、そしてマッカーサーのGHQ本部など、“権力”が具現化された場所を見て歩く。図面や写真も豊富に収録されている。館の主たちはここで何を見て、どんな考えにふけったのか。建物のあり方から人物や政党それぞれの性格が読み解かれ、現代政治史の奥行きが立体的に浮かび上がってくる。政治と建築、どちらの観点から読んでも興味深い。立て替えられたり消失したりしてもはや現存せず、写真で見るしかない建物も多いのが残念だ。

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2010年12月20日 (月)

王育徳『台湾海峡』、岡崎郁子『台湾文学──異端の系譜』

王育徳『台湾海峡』(日中出版、1993年)
・台湾語研究の第一人者である著者が、文学評論を通して台湾独立への思いを訴える。
・外省人作家は大陸から放逐された悲哀を表現。しかし、台湾人にとって台湾は唯一無二の故郷であり、中国大陸を知らない→1960年代後半から郷土文学が現われ、外省人作家と論争。当時、台湾人の経済的活動が活発となって国民党政権も無視できなくなっており、そうした社会的風潮の文学的表現と捉える。
・美麗島事件をめぐる作家たちの葛藤。
・陳若曦(アメリカ留学→中国人男性と結婚→祖国“回帰”して中共に投降→しかし、いやな思いをしてアメリカに戻る)、呉濁流、戴国煇の議論を取り上げ、そこに台湾人の“原罪意識”を見出して批判。
・台湾人の“原罪意識”:①華僑として海外に出た者に対する大陸での侮蔑意識。②東夷である日本人に支配されたくせに中国人よりも高い生活水準にある台湾人に対する嫉妬、③台湾人は中国大陸に行っても、日本統治期には日本のスパイ、戦後は国民党のスパイとみなされる→台湾人は中国の政権下に入ると必ず“二等国民”扱いされてしまう宿命→台湾独立しかない。

岡崎郁子『台湾文学──異端の系譜』(田畑書店、1996年)
・戦後台湾の文壇主流からはずれがちな人を中心に、それぞれの作品を紹介するだけでなく、作者に会いに行ってインタビューを行い、その人柄を知り、作品の背景に息づくものを読み取ろうとしているところが興味深い(とりわけ、邱永漢と拓抜斯(トパス)に興味を持った)。本省人、外省人という区別で台湾文学を見るのではなく、作品そのものを見ようという問題意識。なお、著者は台湾大学留学中に黄得時の授業を受けたらしい。
・邱永漢はなぜ台湾文学史で評価されないのか?→①彼は日本語で二二八事件について初めて小説化、しかし国民党支配下の台湾では読めなかった、②彼の作家活動期は短く、すぐに金儲けに行った、③国民党に“投降”→呉濁流たちから文壇への金銭的援助を求められたが拒絶→台湾文壇から反感。
・陳映真:第三世界文学論。共産主義へのシンパシー。台湾文学は中国文学の中に位置づけ→台湾独立論は台湾文学史を捻じ曲げていると批判。
・劉大任:もともと共産主義にシンパシーがあったが、アメリカへ行き、国連勤務、その身分で中国へ行くが、共産主義の実際に幻滅。外国で作品発表。
・鄭清文:童話など純文学路線。
・拓抜斯:ブヌン族の出身。原住民作家という珍しさで注目を浴びてしまうが、彼の表現せざるを得ないものからもっと普遍的なものを読み取りたいという立場で考える。彼自身の生い立ちや家族的背景へのインタビューが興味深い。

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2010年12月18日 (土)

ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森──ポーランド指導階級の抹殺』

ヴィクトル・ザスラフスキー(根岸隆夫訳)『カチンの森──ポーランド指導階級の抹殺』(みすず書房、2010年)

 1939年の独ソ不可侵条約に基づき、ソ連はナチス・ドイツと共にポーランド分割に乗り出し、捕虜として連行したポーランド軍将校約4,400人をカチンの森で銃殺した。そればかりでなく、犠牲者はポーランド社会を指導するはずの知識階層すべてに及び、22,000人以上が殺害されたという。独ソ両大国に翻弄され、戦後になってもソ連の意向を受けた共産党政権によって展開された「カチンの虐殺はナチスの仕業だ」という虚偽のプロパガンダに異議を唱えることができなかった人々の苦悩は、最近公開されたアンジェイ・ワイダ監督「カチン」で描写されている。そうした歴史的記憶の政治化というレベルで、“カチンの森”は冷戦期を通じてずっと現在進行形の事件であったと言ってもいいだろう。

 本書は、ロシアで公開された旧ソ連時代の機密文書等も踏まえながらカチン事件の実態を追求するのはもちろんであるが、問題はそこに終わらない。この事件がソ連政府によっていかに隠蔽されたのか、さらにはその隠蔽に西欧の歴史学界もまた意図せざる共犯者になってしまったのはなぜなのか、こうした問題をも問い直していく。著者はロシア出身の政治社会学者でレニングラード大学で教鞭をとったこともあるが、カナダ・イタリアに移住、本書もイタリア語で出版されたらしい。

 1941年の独ソ開戦後、ソ連西部を一時占領したドイツ軍はカチンの森で大量の遺体を発見、中立国スイスの医学者を団長に国際調査団を組織した。もちろん、ナチスには対ソ連宣伝工作に利用しようという思惑があったわけだが、参加した医学者たちはそうしたナチスの思惑とは別に、目の当たりにしたおびただしい遺骸に衝撃を受けながら検証作業を行なった。この虐殺はナチスの仕業だと宣伝するソ連は、戦後、調査団に参加した医学者のうち、ハンガリー・ブルガリアなど共産圏に入った国の出身者に対しては圧力をかけて見解を撤回させ、スイス・イタリアの出身者に対してはソ連中央の意向を受けた各国共産党が誹謗中傷のキャンペーンを展開した(なお、調査に参加したドイツの医学者には、シュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺未遂事件に連座して銃殺された人もいたという)。

 戦争中からすでにカチン事件に関する情報は米英首脳部にも伝わっていたが、対ドイツ戦で同盟関係にあったソ連に対する気兼ねから情報の公開は抑えこまれた。また、調査団の主催者はナチスであったため、この調査報告をもとにソ連の宣伝工作に異議を唱えることはすなわちナチス支持者であると受け止められかねかった。したがって、反ファシズムというスローガンそのものがソ連による国家犯罪を隠蔽する作用をもたらし、疑問を提起することすら躊躇する風潮が醸成されてしまった。

 本書を通して浮かび上がるのは、第一に1939~1941年にかけて協力関係にあったヒトラーのドイツとスターリンのソ連とがポーランド国家消滅を意図した点で同じ性格の政治体制を持っていたことをどのように考えるかという全体主義の比較論への問いかけ。それ以上に重要なのは、第二にパワー・ポリティクスの論理とイデオロギー宣伝とが絡まりあってタブーを作り出し、それが事実関係の客観的究明を妨げる力学として作用してしまった落とし穴。このような政治史・現代史研究が時としてぶつかりかねない見えない壁を考える上で本書は貴重な問題提起となっており、カチン事件そのものに関心がなくとも、広い意味で歴史研究に関心があるならば是非読んでおきたい本である。

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【映画】「白いリボン」

「白いリボン」

 1913年、第一次世界大戦前夜、ドイツの農村が舞台。モノクロームで映し出され、輪郭がくっきりと浮かび上がる田園風景は一幅の絵を見るように美しい。同時にこの美しさは、現実感覚を捨象して観る側に距離感を作り出し、ストーリーの中で右往左往する人々の姿に対して、あたかも歴史記録を見るかのような客観的な眼ざしを観客に強いる。

 地主である男爵が権力を振るう荘園で立て続けに起こった不可解な事件、その成り行きが外からやって来た学校教師の視点を通して語られる。罠にかかって落馬、入院したドクター。何者かによってひどい目に遭わされた男爵の子供。失明寸前まで大怪我を負わされた知的障害の少年──。

 同時に描かれるのは、キリスト教倫理と封建的道徳でがんじがらめにされた閉鎖的な社会、他方で垣間見えてくる大人たちの身勝手で醜い偽善。村の牧師は自分の子供たちを叱り飛ばしたとき、罰として“白いリボン”を身に付けさせた。それはすなわち“純潔”のしるしである。だが、その“純潔”がある種の凶暴性と結びついたときに表出してきたのは、大人の偽善に対する潔癖な憎悪であり、持てる者が存在する不平等に対する嫉妬であり、社会的弱者に対する排除であった。これらの攻撃性は、形骸化した倫理道徳では抑えきれないどころか、むしろ増幅させていたとすら言える。

 ところが、こうした村の不安を雲散霧消させてしまう大事件が突発した。オーストリア大公フランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺されたという一報が入ったのである。戦争なんて起こるはずがないとみな口をそろえながらも、やがて戦争の影は人々の抱える閉塞感を打ち破る希望へと変化していく。長丁場で最初は眠気を催していたが、辛抱して観ていると、正体不明でざらついた不安感が徐々に形をなしてくプロセスが興味深い。

【データ】
監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア/2009年/145分
(2010年12月17日、銀座テアトルシネマにて)

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2010年12月17日 (金)

劉進慶・朝元照雄編著『台湾の産業政策』

劉進慶・朝元照雄編著『台湾の産業政策』(勁草書房、2003年)

・戦後台湾における産業政策を概観した分担執筆による論文集。新古典派的な市場メカニズム重視のアプローチとは異なり、台湾では政府主導の政策によって有効に民間企業が刺激されていたと捉える視点で一貫している。
・1950年代:輸入代替工業化(一定の保護政策の下、国内産業振興によって工業化を図る)→1960年代:輸出志向工業化(労働集約型工業化)→1970年代:重化学工業化(第二次輸入代替工業化)→1980年代以降、ハイテク産業育成。
・従来の中小企業における労働集約型工業は低賃金によって低価格→アメリカ・日本へ輸出。ところが、実質賃金の上昇→東南アジア、中国大陸へ生産拠点を移転、さらに中国の経済的台頭→台湾国内では技術・資本集約型製品の生産へと生産構造を転換する必要→科学技術重視の政策、ベンチャー・キャピタル(ハイテク重視)。
・重化学工業に続く産業分野として、1980年代以降、電子産業育成政策が成功。
・低賃金の労働集約型から技術・知識重視の産業構造へと転換するにしても人材が必要→民主化の進展、李登輝が在米のノーベル化学賞受賞者・李遠哲を呼び寄せたのを皮切りに、頭脳流出していた海外の技術者が台湾へ戻り始める。反体制的な考えを持つ人々も民主化の進展に好感。
・日産接収→公営企業は実質的に国民党系人脈の経営→経営の非効率性が問題となって民営化が進められたが、民営化後の経営自立性の高いイギリス・日本とは異なり、台湾では従来の人脈関係から政府介入が完全には放棄されなかった。
・外資導入→技術移転(正式な契約、技術指導、スピンアウト)。技術移転では一般的に言語が障害となるが、日本からの技術移転はスムーズ→ラジオ・テレビの組立技術。技術移転そのものよりも、周辺産業の誘発・育成、海外の多国籍企業との関係構築などの貢献。
・知識経済の進展と教育問題。
・石油化学工業、電子産業におけるハイテク産業振興政策(李國鼎のイニシアティヴ)の事例研究→政府主導の政策誘導の有効性を確認。

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渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済入門』

渡辺利夫・朝元照雄編著『台湾経済入門』(勁草書房、2007年)

・分担執筆により台湾経済の概略を解説。以下、メモ書き。
・1940年代:幣制改革→ハイパーインフレ収束。農地改革(三七五減租、公地放領、耕者有其田)→小作人の保護、自作農化。
・1950年代:米糖輸出先だった日本が外貨流出抑制策→台湾では「一次産品輸出による工業化」政策にとって不都合となり、かわって「輸出代替工業化」→保護政策による「内向き型工業化」。
・1960年代:「外向き型工業化」、輸出加工区の設置。
・1970年代:第二次輸出代替工業化、重化学工業化。ちょうど石油ショックに直面したが、十大建設→外需の落ち込みを内需でカバーできた。
・1980年代:産業の高度化と経済の自由化・国際化。台湾版シリコン・バレーを目指して新竹科学工業園区など。
・1990年代:金融持ち株会社成立期。
・2000年代:民進党→「緑のシリコン・アイランド」を提唱。

・日本植民地統治期における製鉄、機械、肥料、製糖、石油化学などの基幹産業および電力、鉄道、銀行などは国民党政権が接収→公営企業として経済体制を支配→1984年以降、非効率性が問題化して民営化政策へ。
・対案では中小企業が輸出の担い手→貧富の格差を拡大させずに経済成長。輸出貢献率は1980年代をピーク(7割)→2005年には17.6%まで落ち込み。データ算定には不明確なところもあるが、少なくとも低下傾向は確実にある。従来の台湾経済は、公営企業と民間大企業は国内市場向けに生産、中小企業は輸出向けに生産という「二重構造市場」→グローバル化の進展は大企業に有利。かつては直接輸出志向だった中小企業→大企業との協力関係を構築、大企業を通した間接的な輸出協力者という位置付けになる。
・1980年代以降、従来型経済政策の行き詰まり、アメリカからの市場開放要求、民主化による特権打破→貿易自由化へ向かう。
・貿易・投資構造の変化→周辺アジア諸国(とりわけ中国)との分業の拡大。
・技術イノベーション→公的研究機関が主導。
・社会政策は当初から外省人優位。省籍矛盾による対立から、外省人が台湾人資本に雇用される見込みはほとんどなし→彼らの面倒をみるために国民党政権は雇用確保、社会保障整備。他方で、本省人は放置→彼らは生活共同体の相互扶助に頼る。

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2010年12月16日 (木)

呉濁流『夜明け前の台湾 植民地からの告発』

呉濁流『夜明け前の台湾 植民地からの告発』(社会思想社、1972年)

 呉濁流の名前は以前から気になっていたのだが、ようやく手に取った。本書には自伝的な小説「無花果」と、二二八事件直後の1947年6月に発表された論説「夜明け前の台湾」が収録されている。日本の植民地支配下において台湾人は法的には日本人でありつつも二流国民扱いされ、光復後は中国を祖国と思いながらもやはり二流国民扱いされてしまう。それでは自分たち台湾人は一体何なのだ? この寄るべないアイデンティティの葛藤は台湾文学史の大きな主題となるが、呉濁流の人生と作品にはそうした苦渋が明瞭に浮かび上がってくる。

 呉濁流は1900年、台湾・新竹の客家の家庭に生まれた。両親は忙しく、かわいがってくれた祖父から領台当初における抗日の話を聞きながら育つ。台北師範学校を卒業、公学校の教員として教壇に立つが、もともと一本気な性格、いばりちらす日本人とあちこちで衝突して左遷が繰り返され、二十年勤め上げたあげくに辞めてしまう。すでに戦争が始まっていた。知人のつてで大陸に渡り、汪兆銘政権下の南京で新聞記者となる。ようやくやって来た憧れの祖国であるが、言葉が通じない。その上、大陸では台湾人は日本人のスパイと疑われるため出身地は隠せと忠告され、他方で日本人からも信用されないという難しい立場であった。東亜同文書院出身で日本、汪政権、重慶政権それぞれと連絡を持ち、それがばれて日本の憲兵によって殺害された彭盛木とも会っている。日本の敗戦でようやく台湾は祖国・中国に復帰できたと喜んだのも束の間、今度は大陸からやって来た外省人の横暴によって将来の希望は摘み取られてしまった。

 作者にとっての問題意識はもちろん切実なものである。ただ、そればかりでなく、時代の変転に翻弄される姿を活写する筆致は大河ドラマを読むように面白い。国籍や民族に関わりなく良い人間もいれば悪い人間もいる。例えば汪兆銘政権に協力して漢奸とされた友人も出てくるが、彼には彼なりの事情がある。日本人も外省人も悪い人間ばかりではない。政治的基準で相手を裁断するのではなく、それぞれの置かれたやむを得ない事情の中で一人ひとりをみつめる視点があるので、それが語り口に奥行きを持たせ、ドラマとしての迫力も生み出している。

 論説「夜明け前の台湾」は台湾の将来的建設のための提言であるが、日本語禁止への反対論も含まれている。かつて中国から日本へ多数の留学生が派遣され、日本語を通して西洋の文物を摂取しようとしていたのだから、今回の台湾返還についても日本語話者=奴隷と考えるのではなく、600万人もの留学生が一度に帰ってきたと考えればいいではないか、と指摘する。日本によって刻印された植民地性と中国アイデンティティとの矛盾をむしろ肯定的に発想を転換させようとする苦肉の努力として興味を持った。

 戦時下、人目を忍んで書き溜めていたという小説『アジアの孤児』も読んでみたいのだが、入手が難しそうだ。なお、彼は台北帝国大学の工藤好美(英文学)と会ったとき、最初はいけ好かない奴だと思っていたが、彼にこの小説のさわりを読ませたところ、是非完成させなさいと勧められたというエピソードが「無花果」に記されていた。

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2010年12月15日 (水)

松永正義『台湾文学のおもしろさ』『台湾を考えるむずかしさ』

松永正義『台湾文学のおもしろさ』(研文出版、2006年)、『台湾を考えるむずかしさ』(同、2008年)

 台湾が日本の植民地支配から解放された後、自分たちの主体性をいかに回復するかという問題意識に対して、それは台湾の取り戻しなのか、中国の取り戻しなのか、という二通りの方向性があり得た。光復当初、この二つは重なり合っていたが、国民党政権による中国意識押し付けがあまりに厳しかったため、こうした言論弾圧への反発から、台湾の反体制的言論空間においては民主化要求と台湾意識とが絡まり合いながら進行していく。中国と日本に挟まれた中で揺れ動いてきたナショナル・アイデンティティー、その複雑な機微を文学や言語の問題から読み解こうとした論考が集められている。

 タイトルに「おもしろさ」とあるが、それは台湾社会の奥深い複雑さが著者にとって研究のしがいがあるという意味で、それには私ももちろん同意するが、台湾についてよく知らない一般読者に向けて文学的「おもしろさ」を伝えるという趣旨ではないので注意されたい。著者がこれまで学術誌や大学紀要に書き溜めてきたものを寄せ集めた本で(主著のない学者が業績作りのためによくやることだ)、全体を通して明確なテーマがあるわけではない。研究動向の資料的紹介が多く、過去の台湾文学研究というのはこんな感じだったんだ、と窺い知る上では参考になる。1980年代から2000年代まで執筆年代はバラバラ。例えば「大陸で選出された議員はいまだに改選されていない」などという一文があって、思わず奥付を確認してしまった。初出掲載時の文章を尊重するという考えはわかるにしても、現在の情勢に合わせた訂正が加えられていないのは明らかに怠慢である。

 弟子筋の丸川哲史と同様に著者は中台統一派に近いスタンスをとる。それはそれで一つの考え方だからいいのだけれども、独立論にちょっとでも論拠を与えかねない議論に対してはナーバスで、例えば、日本統治期における出版市場形成→台湾アイデンティティ形成という藤井省三の議論と小林よしのりの『台湾論』とを、議論としての質の相違は無視していっしょくたにして批判しているのにはさすがに驚いた。

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2010年12月13日 (月)

頴田島一二郎『カール・ユーハイム物語──菓子は神さま』

頴田島一二郎『カール・ユーハイム物語──菓子は神さま』(新泉社、1973年)

 洋菓子メーカーとして有名なユーハイム。その始祖とも言うべき菓子職人で、バウムクーヘンをはじめ様々なドイツ菓子を日本に紹介したカール・ユーハイムの波乱に満ちた生涯を物語形式で語る。今年の一月にNHKで放映された「歴史秘話ヒストリア 焼け跡とバウムクーヘン~あるドイツ人夫妻の苦難と愛~」も物語形式だったが、この本にだいぶ負っている。

 1886年にライン河畔の小さな町で生まれ、菓子職人となったカールは20歳のとき中国・青島へ行って開業する。ところが第一次世界大戦が勃発して青島は日本軍に占領され、カールは日本の捕虜収容所へ入れられた。この時の捕虜収容所では様々な日独交流の逸話があるが、カールもその中の一人である。バウムクーヘンをはじめとしたドイツ菓子を広島の物産展に出品したところ、大好評でたちまち売り切れた。実は青島にいたときに出会った日本人が、チョコレートの苦さやバターのくどさをいやがっているのを見ていたので、日本人の味の好みに合わせて作ってみたらしい。その結果を見て日本でもやっていけると自信がついた。釈放後は明治屋が銀座で経営するカフェ・ユーロップに三年契約で勤め、弟子も育てる。契約終了後は横浜で開業、ところが関東大震災で大打撃を受け、避難先の神戸で再起する。第二次世界大戦では出征した息子も失い、彼自身は1945年8月14日、終戦のまさに前日に息を引き取った。

 戦後、弟子たちが店を再興し、カールの奥さんだったエリーゼも再び来日、彼女が社長となってカールの遺風を受け継ぐことになったらしい。どこか愛嬌のある人柄に宿った職人魂が時代の変転に翻弄される姿にはとても濃厚なドラマが感じられる。こうした人物群像には興味が引かれる。

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2010年12月12日 (日)

フェアトレードについて手当たり次第に読んでみた

 フェアトレードについてよく知らないことに今さらながら気づいて、手当たり次第に読んでみた。おおまかに理解したところでは以下がポイントになるかな。

・市場原理に基づいて国際貿易が行なわれる場合、本来ならば条件の均等が前提となる。しかしながら、実際には情報や流通経路などの非対称性により、仲買人(コヨーテ)や商社が発展途上国の生産者の作物を安く買い叩き、顧客に対して安さをアピールしながら中間マージンの最大化を図る。不利な立場に置かれている生産者は従属化、貧困状態から抜け出せないという悪循環に陥ってしまう。これに対して、(主に先進国の)消費者の側で、良いモノには割高でも適切(フェア)な代価をきちんと支払うという態度をまず示す。良いモノを作るにはそれだけのコストがかかるわけだから、適切な代価を生産者側にきちんと還流させていくことで、経済水準・生活水準の向上、持続的にモノづくりができる環境の整備を図っていく。このように生産と消費の関係を見直して好循環へと転換させることによって、途上国の生産者が置かれた貧困から抜け出す機会を保障するというのがフェアトレードの基本的な考え方。
・援助だとパターナリスティックな依存関係を生み出してしまう。これに対して、個々の生産者が自立できるようにエンパワーメントを進め、生産者自身の尊厳に敬意を払いながら、貿易という経済活動を通して持続可能な形で、先進国と途上国との対等なパートナーシップを築き上げていく。
・その土地に根ざした伝統的な手工業技術の見直し、振興という目的。先進国に売り込む場合にはデザインに注目される。
・流通過程のコストから小売価格はどうしても割高になってしまうが、認証制度による保証を通して消費者に安心を提供する。倫理的な評判が高まれば、フェアトレード産品そのものが一つのブランドとして市場にアピールできるかもしれない。認証に必要な基準としては、生産者が劣悪な労働環境に置かれないようにする、環境問題へ配慮する、持続可能な生産コストをカバーできるように最低価格設定や継続的な長期契約、等々がある。具体的にIFATの基準を並べると、①生産者に仕事の機会を提供、②事業の透明性、③生産者の資質向上を目指す、④フェアトレード推進についての啓発、情報提供、⑤公正な対価、⑥ジェンダーの平等、⑦安全・健康的な労働条件、⑧子どもの権利、⑨環境への配慮、⑩信頼と敬意に基づく貿易。
・認証ラベルを貼って、フェアトレードを推進する小規模事業者のショップばかりでなく、スーパーの店頭にも並ぶ。他方で、顔の見える産直関係という理念から外れるのではないか? 認証ライセンスを取るにはそれなりの金銭的コストがかかるので、排除されてしまう生産者が出てくるのではないか?などの疑問も提起されている。

 フェアトレード関連の本はここ二、三年で随分と刊行されたようだが、取りあえず私が読んだ本を並べると、
三浦史子『フェア・トレードを探しに』(スリーエーネットワーク、2008年)は生産、小売、認証団体など現場への取材を通して実際のシステムがどのように運営されているのか、問題点は何かが具体例を通して見えてくるので、最初に読むならこの本がいいだろう。概論的なテキストとしては、渡辺龍也『フェアトレード学──私たちが創る新経済秩序』(新評論、2010年)、アレックス・ニコルズ、シャーロット・オパル編著(北澤肯訳)『フェアトレード──倫理的な消費が経済を変える』(岩波書店、2009年)が網羅的に整理されている。この二冊は、ある程度具体例を知った上で読んだ方が理解は深まる。
長坂寿久編著『日本のフェアトレード──世界を変える希望の貿易』(明石書店、2008年)、長尾弥生『みんなの「買う」が世界を変える フェアトレードの時代──顔を暮らしの見えるこれからの国際貿易を目指して』(日本生活協同組合連合出版部、2008年)では、フェアトレードの概略紹介だけでなく、日本で実践している取り組みが紹介されている。
・ニコ・ローツェン、フランツ・ヴァン・デル・ホフ(永田千奈訳)『フェアトレードの冒険──草の根グローバリズムが世界を変える』(日経BP社、2007年)は、最初のフェアトレード認証団体「マックスハヴェラー」を創立した二人が、どのような経緯でこの活動に取り組むようになったのかを記している。
・フェアトレードの取っ掛かりはコーヒーから始まったらしい。村田武『コーヒーとフェアトレード』(筑波書房、2005年)は最近、コーヒー輸出国として急成長するベトナムなどへの調査をもとにしている。清田和之『コーヒーを通して見たフェアトレード──スリランカ山岳地帯を行く』(書肆侃侃房、2010年)は、有機無農薬のコーヒーを求めて行ったブラジルでフェアトレードを知り、スリランカでコーヒー栽培の支援をしている人の体験記。
サファイア・ミニー『おしゃれなエコが世界を救う──女社長のフェアトレード奮闘記』(日経BP社、2008年)は、イギリスから日本に来て、衣料品のフェアトレード・ビジネスを起業した女性の体験記。この業界では有名な人らしい。

・なお、ジョセフ・スティグリッツ、アンドリュー・チャールトン(浦田秀次郎・監訳、高遠裕子訳)『フェアトレード──格差を生まない経済システム』(日本経済新聞出版社、2007年)は、発展途上国の経済的成長のためには世界貿易システムへの参加が必要であるが、そのための条件が十分でない問題点についてマクロ経済学的に論じた本で、上掲の議論とは大きな問題意識は共有されているものの、テーマは異なるので要注意。

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2010年12月11日 (土)

ジョン・J・ミアシャイマー『大国政治の悲劇──米中は必ず衝突する!』

ジョン・J・ミアシャイマー(奥山真司訳)『大国政治の悲劇──米中は必ず衝突する!』(五月書房、2007年)

・原著John J. Mearsheimer, The Tragedy of Great Power Politicsも実は手もとにあるのだが、ツン読状態のままほったらかしにしていたら邦訳が出ていたので読んでみた。著者は国際関係論におけるネオ・リアリズムの理論家でシカゴ大学教授。最近はイラク戦争を強行したネオコンや、アメリカの国益に反した外交政策に引きずり込むイスラエル・ロビーを批判したことで知られている。

・ネオ・リアリズム理論の中でも、ハンス・モーゲンソーが国家は本質的に拡大傾向を持つとして「力への意志will to power」に着目した人間性リアリズム、ケネス・ウォルツがバランス・オブ・パワーの維持という側面に着目したディフェンシヴ・リアリズムに対し、ミアシャイマーはオフェンシヴ・リアリズム(攻撃的現実主義、offensive realism)の理論を提唱。

・オフェンシヴ・リアリズムの条件は次の5点にまとめられている。すなわち、①アナーキー(ホッブズ的世界観)な世界に中心的権威はない、②どの国家も一定の攻撃能力を持っている、③他国の考えを完全に読みきることはできない→こうした不確実性に向き合うそれぞれの国家は恐怖心を抱き、④自らの生き残りをかけて自助防衛のためパワーの最大化を図って国際システムにおける覇権国(hegemon)の立場を達成しようとする、従って平和はあり得ない。戦争が起こるのは、侵略的な国、平和的な国といった先天的な性質によるのではなく、こうした不確実性が内包された国際システムの構造そのものに起因するのであって、⑤大国はシステムに適応するため合理的な行動を取る。以上の理論的仮定の是非について主に18~20世紀の外交史・戦史を題材に検証していく。

・大国はバランス・オブ・パワーが自国に有利に変化させるチャンスを常に狙っている。二極構造よりも多極構造の方が誤算の可能性が高いため戦争が発生しやすくなる。潜在的覇権国の台頭(本書では東アジアにおける中国を想定)は、その存在感自体が周辺国に恐怖心を抱かせ危険な政策へ駆り立てやすくなる。大国は例外なく核武装優越状態を目指す。

・兵力投入能力(power projection)の限界から、アメリカは海を越えた遠い地域まで派兵すると失敗する→世界の保安官ではなく、オフショア・バランサーとしての役割がふさわしい→ネオコン、イスラエル・ロビーへの批判(道義的な批判ではなく、失敗することが目に見えていた、すなわち合理性を欠いた政治判断だったから批判)。

・ただし、国際政治のプレイヤーとしての国家の内在的要因はブラックボックスに押し込んで図式が単純化されており、非合理的な要因によって想定できない事態もあり得ることが予め明記されている。以上の議論は、複雑な事象を整理して把握するための概念装置=理論である点を念頭に置いた上で読むべきだろう。

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2010年12月10日 (金)

中学生时看过的电视广告使我想到了的事儿(中文)

 以下、中作文の練習。拙いのは分かっているのであまりネガティヴなクレームはつけないでください。

  我记得中学生时看过的一个电视广告,是三得利(サントリー)威士忌的。当然我当时不可以喝酒。但这个电视广告的影像、音乐、旁白配合得很好,所以我印象很深。

  这个电视广告拍了中国的山林。山峰巍巍峨峨,森林幽幽静静,好像神仙住在那儿,美丽的风景使我觉得很安静。旁白用汉语朗诵有名的唐诗、李白的《山中与幽人对酌》。“一杯一杯复一杯”,这句话的声音特别留在了我的记忆里。这样的风气有一种“东洋”的趣味,可能触发了我独特的情感。

  响在背景的音乐是古斯塔夫•马勒(Gustav Mahler)的交响曲《大地之歌》(Das Lied von der Erde)第三乐章〈青春〉。我看了这个电视广告以后买到了马勒《大地之歌》的光盘,是我第一次买的。这支交响曲由六支歌曲组成。《大地之歌》是马勒作曲的第九号。但是他害怕“第九交响曲的倒霉事”(有名的作曲家,比如说贝多芬[Beethoven]、舒伯特[Schubert]、布鲁克纳[Bruckner]等等,他们一作好第九交响曲,就死了),没有给《大地之歌》编号。第三乐章的旋律有舒舒展展的风趣,我很喜欢。但是第六乐章〈告别〉的旋律阴阴沉沉的。听说马勒说:“如果听这支曲的人自杀了的话,我不可以引咎”。他作的旋律有时候响得悲悲凉凉,跟年轻人的忧郁心情很合适。这可能是我当时关心马勒的理由之一。

  《大地之歌》的歌词是根据德国诗人Hans Bethge写的《中国的笛子》(Die chinesische Flöte)。Bethge的生平我知道得不详细。他在这本诗集中自由地改变唐代诗人,李白、杜甫、孟浩然、王维等等的作品。《大地之歌》第三乐章是根据李白的诗。不过Bethge改了很多,我没看到唐诗的原型。苏联的音乐家、德米特里•肖斯塔科维奇(Dmitri Shostakovich)的作品我也很喜欢。他年轻时作了《根据日本诗人的诗集的六支歌曲》,这支歌曲的一部分也根据Bethge的诗集。听说第六曲〈死〉根据大津皇子(日本古代史上的皇子,他受到谋反的嫌疑,就自杀了)的绝命诗。这支歌曲也阴阴郁郁的。

  欧洲的“世纪末”艺术思潮有很多的忧郁艺术家,有的人特别关心“东洋”的虚无感。但是他们自己的感情投影在异世界的“东洋”,这未必跟原来亚洲的思想一样。我们可以在这个差距上看出所谓“东洋主义”(Orientalism)的一种形态。这可能是奇妙的现象,不过我关心的就是这个差距。

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2010年12月 5日 (日)

山岸俊男『安心社会から信頼社会へ──日本型システムの行方』

山岸俊男『安心社会から信頼社会へ──日本型システムの行方』(中公新書、1999年)

・ソーシャル・キャピタルとしての「信頼」概念を「安心」と「信頼」という二つに区別して整理、その上で社会心理学的な実験や調査から得られた知見をもとに、現代日本社会の変容を分析する。

・「信頼」:社会的不確実性があるにもかかわらず、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと想定すること。対して、「安心」:そもそも初めから社会的不確実性がないと感じている状態。

・従来の日本社会は集団主義社会:コミットメント関係の形成により関係内部から社会的不確実性を除去、不信によって発生し得る非効率問題の解決を図る。→しかし、この「安心」を求める行動原理は、集団の枠をこえて幅広く人々を結び付けるのに必要な一般的信頼を醸成する上で必要な土壌を破壊してしまう(機会費用と表現)。

・高信頼者は他人との協力関係構築に積極的→「信頼」形成にさらにプラス。対して、低信頼者は見知らぬ他者に対して否定的態度(「人を見たら泥棒と思え」)→「信頼」形成はさらにマイナス。

・社会的知性の多様性。関係性検知にたけた社会的知性(地図型知性)は「安心」できる相手を見分けようとする→「集団主義社会」に適応。対して、相手の立場に身を置いて相手の行動を推測するという意味での人間性検知にたけた社会的知性(ヘッドライト型)→地図の範囲を超えて人間関係を模索しながら「信頼」を構築。

・こうした違いは個々人の置かれた社会環境への適応の問題であって、心の性質や状態として文化論の問題にしてしまうのではなく(「心過剰の文化理解」)、社会構造の問題として把握する。他方で、こうした適応行動そのものがさらに社会の仕組みを維持しているという双方向性が指摘される。

・学歴・性差による就職差別→終身雇用を前提とした場合、企業は一回だけの機会で候補者を選別しなければならないため(実際には採用してみないと分からないのだが)、統計的差別に頼る→人々はこれを前提とした社会環境に適応行動をしてしまう。

・集団主義社会における機会費用を避け、一般的「信頼」構築ができる社会に向けて、情報の透明性を高め、機会を多くすることが必要→「信頼の解き放ち理論」。

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山岸俊男、メアリー・C・ブリントン『リスクに背を向ける日本人』

山岸俊男、メアリー・C・ブリントン『リスクに背を向ける日本人』(講談社現代新書、2010年)

・社会心理学の山岸俊男と、ハーバード大学社会学部長で日本社会研究を専門とするメアリー・C・ブリントンの対談により、社会学的見地からリスク回避傾向のある現代日本社会を読み解く。当然ながら、比較の対象としてアメリカが引き合いに出されるが、あくまでも日本社会の問題点を浮き彫りにするためであって、「アメリカはこうなのに、日本はダメ」的な精神論として読んで欲しくないというメッセージが強調されている。

・個人主義的で流動性の高いアメリカの方が日本よりもリスクが大きい、と一般的には考えられやすい。ところが、アメリカは流動性が高い分、セカンドチャンス、サードチャンスが普通にある。対して日本では、一定の身分に就くことさえできれば安定性があるものの、それを失ったらセカンドチャンスは乏しい。従って、逆説的だが、ワンチャンスしかない日本の方が実はリスクがはるかに大きく、それが日本人のリスク回避傾向として現れていると指摘される。セカンドチャンスへの支援が社会構造に組み込まれていないにもかかわらず、終身雇用の終焉、非正規雇用の拡大といった形で労働市場の効率化が進められている矛盾に一つの問題点が見出される。

・ストロングタイズ(身内同士のつながり)では均質的な情報しか得られないのに対して、ウィークタイズ(ゆるやかな人間関係)の方が情報の幅は広く、様々な可能性があるので重要(経営学の組織論でよく指摘される論点だ)。

・欧米ではコミュニティーや職場でアフェクション(情愛関係)を得るのが難しくなっているので家族の重要性が意識されている→意外と出生率が高い。

・集団主義的秩序(司法制度未確立の状態→仲間うちの信頼関係を基盤にするため、背いた者への村八分、身びいきが倫理的)と法制に基づく普遍的秩序の相違。

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門田隆将『この命、義に捧ぐ──台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』

門田隆将『この命、義に捧ぐ──台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社、2010年)

 1949年、中華人民共和国建国の高揚感もあって破竹の勢いにのる共産党軍。対して国民党軍は潰走続きだが、防備の脆弱な厦門からの撤退を早期決断、金門島で防備を固めて共産党軍を撃退、海峡両岸対峙の状況が固定化された。日本敗戦後、密かに台湾へ渡って金門島・古寧頭戦役で作戦指導を行なった根本博を描いたノンフィクション。

 根本の活躍を描く筋立ては読む前からだいたい予想していたのだが、旧台湾総督府関連人脈に焦点を当てているところに本書の新味がある。根本は結果として蒋介石に協力したことになるが、根本の台湾密航を手引きした台湾人たち自身の目的はあくまでも台湾防衛であって、国民党にはむしろ反感を持っていたらしい。このあたりの思惑のギャップが興味深い。

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2010年12月 2日 (木)

NHK食料危機取材班『ランドラッシュ──激化する世界農地争奪戦』

NHK食料危機取材班『ランドラッシュ──激化する世界農地争奪戦』(新潮社、2010年)

 食料の国際価格急騰から生じた2008年の世界同時食料危機。しかし、これは食料の絶対量が足りなかったからではなく、様々な要因や思惑が絡まりあう中で起こったパニックであり、その意味で貿易自由化による食料供給が金融危機と同様の不安定性を抱えていることが浮き彫りにされた。国際市場を握るのはアメリカの穀物メジャーであり、市場原理の下、食料価格の安定化を図るのは難しい。農業は凋落して食糧供給を輸入に頼る状況にある日本をはじめとした国々にとって、これは広い意味で安全保障に関わる問題である。そこで危機感を抱いた国々は食糧生産拠点を確保しようと農業分野の海外進出を急展開し始めた。すなわち、ランド・ラッシュ(農地争奪)である。

 本書では、ロシアの沿海州、ウクライナ、エチオピアなどを舞台に、農業拠点確保を図る日本、韓国、インドそれぞれの取り組みが取り上げられる(中国の姿も見えるが、ガードがかたくて取材できなかったらしい)。なりふり構わず進出を急ぐ危機感(日本は立ち遅れ)、しかし進出される側にとっても、労働習慣の相違、プライドの問題などからトラブルも頻出しており、新たな収奪支配=「新しい植民地主義」という懸念が消えない。また、大規模集約的な農業投資が現地の農村社会を崩壊させ、ひいては農業の基盤となる環境における持続可能性を崩してしまう可能性は深刻であろう。農業生産力の問題ではなく、配分の不均衡の問題と指摘する専門家もいる。食料安保の危機意識と進出受け入れ先で生ずる問題、双方の葛藤が現地取材を通して報告される。

 ウクライナで一人頑張る農家、木村愼一さんの粘り強く朴訥とした姿が印象的だ。壁にぶつかっても、ウクライナの荒廃した農地を蘇らせたいという情熱は消えない。日本国内ではコメあまりが言われる。しかし、ウクライナでのコメ生産を皮切りに日本のコメのおいしさを世界中に知ってもらい、輸出産業へとつなげていこう、といったアイデアも語る。穀物メジャーに対抗する上で、輸送コストを考えるとどうしても大規模化せざるを得ない問題を指摘する向きもある一方で、こうした個人レベルの智恵も何とか生かせる体制づくりができないか、道筋はなかなか見えない。

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2010年12月 1日 (水)

ジグムント・バウマン『グローバリゼーション──人間への影響』

ジグムント・バウマン(澤田眞治・中井愛子訳)『グローバリゼーション──人間への影響』(法政大学出版局、2010年)

・原著は1998年刊行。ここのところ、バウマンの邦訳が立て続けに出ているが、どうしたわけだろう? ひょっとして意外と売れ行きがよくて、本書も過去の刊行物からピックアップされたということなのか?

・バウマンの著作には、社会学的理論分析というよりも、社会学的議論を援用しながら現代社会のあり様について大きな見取り図を描き出す社会批評という性格が強い。色々な論点が含まれていて散漫な印象も若干あるのだが、趣旨のおおまかな方向性をまとめると次のようになるだろうか。

・時間/空間の短縮、移動やコミュニケーション手段の無制約などによって(グローバル化)、全世界が均質化していくイメージも思い浮かぶ。ところが、移動できるだけの条件の備わった人々と欠如した人々との間で大きな断絶が生じ、前者は思いのままに世界を動き回る一方、後者は土地に縛り付けられる(ローカル化)、もしくは難民など不本意な形で追い立てられる。市場化の動きが全世界を席巻する一方、個々の生活世界では自律的な決定権が奪われる(すなわち自分たちの生きる意味やアイデンティティが剥ぎ取られる)。このようにグローバル化の進展が、動ける人/動けない人、自己決定できる人/できない人、といった非対称性を生み出し、世界が二分化・再階層化されていく趨勢を指摘している。

以下、いくつかメモ。
・冷戦は東西二つの陣営が厳しく対峙していたが、この対立そのものが単一の争点、単一の意味的中心を生み出して世界の全体性が了解されていた。ところが、東西分断が終わると、世界には異質な力が散在し、グローバルな合意を実現できる争点がなくなった(81~82ページ)。

・「消費社会のなかで「上層」と「下層」を画する要因は、彼らの可動性の程度、すなわち自分がどこにいるかを決める自由の有無である。」「「上層」と「下層」の人びとの違いは、前者が後者を置き去りにできることである。そして、逆はあり得ない。」「移動できる人びとは、移動できない人びとがつなぎとめられている地域の汚れや不潔さを捨てて去ってゆく。」(120~121ページ)

・「…新しいグローバルなエリートは、秩序の守護者に対して、それだけ莫大な優越性を満喫している。秩序はローカルであるが、エリートと彼らが従う自由市場の法は超ローカルである。ローカルな秩序の管理人があまりに出しゃばりで不愉快な場合には、いつでもグローバルな法に訴えかけて、ローカルな秩序の概念とローカルなゲームの規則を変更させることができる。さらに、もちろん、ある場所で問題があまりにも厄介になって快適でなくなったなら、その場所から立ち去ることもできる。エリートの「グローバル性」とは可動性を意味し、可動性とは、免れ、逃れる能力のことである。衝突が起きたとしても、ローカルな秩序の守護者が進んで見て見ぬふりをしてくれる場所につねに恵まれている。」「これらすべての要因はひとつの共通の結果に収束している。それは犯罪と(つねにローカルな)「最下層階級」の同一化、あるいは、結局同じことだが、貧困の犯罪化である。」(175~176ページ)→社会的底辺の断片化・刑務所化。社会的貧困や暴力の問題を自己責任言説によって正当化。

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