大塚英志『「おたく」の精神史──一九八〇年代論』、東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』、岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』、前島賢『セカイ系とは何か──ポスト・エヴァのオタク史』
「オタク」文化の概略を知りたいと思って、取りあえず以下の本にざっと目を通した。
大塚英志『「おたく」の精神史──一九八〇年代論』(講談社現代新書、2004年)は、「おたく」(「オタク」とは意図的に書き分け)文化生成現場としての業界にいた自身の見聞を軸にして1980年代のサブカルチャーを跡付ける。私自身はすでに生まれていたものの固有名詞を後から知っただけの時代のことなので世相史として興味深い。キャラクター産業のコアとしての「物語消費」の指摘に関心を持った(物語の擬似的創造、情報の断片化→情報への渇望、稀少性を捏造→断片を売り込む)。
東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)は、「大きな物語」の消滅というポストモダン的命題の下でオタク文化を分析。「萌える」という消費行動は、盲目的な没入と同時に、その対象を萌え要素に分解→データベースの中で相対化。作者の発するメッセージとしての物語ではなく、並列的な平面に布置されたデータベース的情報を前にしたオタクは自らの感覚的満足を効率よく達成できるよう組み替えながら次々と消費→大塚の「物語消費」に対して「データベース消費」を指摘する。同『ゲーム的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)は上記の議論をマンガ、アニメ、ゲームばかりでなく現在の文学まで射程に入れながら展開。人工環境に依存した文学として、近代文学とは異なった文体の可能性。
岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書、2008年)。オタキングが近年のオタクに感じた違和感。岡田にとってオタクとは本来、自分自身の趣味に対して求道的に精進する貴族主義というイメージがあり、その上で好きなジャンルや作品は違っても「世間とは違う生き方をするオタク」という漠然とした一体感があった。ところが、「萌えが分からない奴はオタクじゃない」など差異化の排除が強くなって、こうした本来のオタクの共通理解が崩壊したと指摘する。
「セカイ系」とは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)との小さな関係性が中間項としての社会を欠如させたまま「世界」という抽象的大問題に直結する設定を持った作品群を言い、とりわけ自意識の過剰さが顕著に見られる。前島賢『セカイ系とは何か──ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書、2010年)はこの「セカイ系」というキーワードを軸に「新世紀エヴァンゲリオン」以降のアニメ、マンガ、ライトノベルを検証した評論。主に東の議論を援用しているようだ。
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