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2010年11月27日 (土)

互盛央『エスの系譜──沈黙の西洋思想史』

互盛央『エスの系譜──沈黙の西洋思想史』(講談社、2010年)

 Esというと一般的にはフロイトの精神分析学が想起されるだろうか。著者はハイデガーがこだわったEs gibtという表現が気にかかったのを糸口として、このEsというドイツ語の代名詞の背景に伏在する思想史的なコンテクストをたどり返す作業に取り組むことになったらしい。

 Esとは、いかなる名詞の代わりでもない代名詞、というよりも言葉では語りえないものを言い当てるために要請される「主語ならぬ主語」。「私」をして語らしめるもの、「私」を動かしていくもの、しかしそれがどのようなものなのか表現しようとしても、言葉で表現した途端に別物になってしまって把握しがたい何か。理性でもあり、非理性でもあり、両方とも成り立たせてしまう、論理的な矛盾律とは無縁な領野。この曰く言い難きEsをめぐって西洋近代の思想家たちが繰り広げた知的格闘を本書は描き出す。

 個々の思想家たちの発言を丹念に拾い上げて行く博引傍証ぶりはたいしたものだが、そこに本書の価値があるのではない。むしろ、著者自身にある種の表現しがたい確信があって、それをテコにして思想家たちのテクストを読み直してみると見えてきた視野、これをどのように表現したらいいのか戸惑いながら進められる筆致に迫力が感じられる。視点は一貫しており、それを読者も共有しながら読み進むことでこの思想史的格闘の一端が垣間見えてくる。西洋哲学ものを手に取るのは久しぶりだし、この著者のことも知らなかったが興味深く読んだ。

 「私」なるもの自身もこの世界の何かを感じているのだけれど、言葉で表現しようとすると、感じていたものとは別物に転化してリアリティを失ってしまう矛盾だらけの何か、むしろこの表現しきれない限界からほの見えてくる残響というか余韻というか、そこを通して矛盾のあるがままに考え続け、語り続けることが哲学なのだろうと私は考えている。私の場合、こうした感覚を教えてくれたのが『荘子』だった。『荘子』に明晰な論理はない。寓話を通して論理の背後にある曰く言い難き何かをほのめかすという方法をとる。私の場合には物心ついて初めて読んだ哲学書が『荘子』だったので愛着があるというだけのことかもしれない。だが、語り口は様々にあり得る。西洋哲学も含め、個々の思想家の語り口それぞれをいわば寓話に見立ててみる。一つの語り口ではぶつかってしまう限界を、他の語り手はどのように語ろうとしたのか。様々な語り口を見て、彼の語ったことをそのまま真に受けてしまうのではなく、むしろ各自の語り得なかった何かへの眼差しを見ていきたい。そうすると、時代背景が違っても、その人は自分の置かれた条件の中で、この語り得ぬ何かを掴み取ろうと一所懸命に考えようとしていたのだな、と親しみすらわいてくる。それが思想史の醍醐味だと私は思っている。

 蛇足を重ねてしまうが、語るのは「私」だけれども、その語る「私」の意識の奥底に見えてくる、「私」ならざる非人称的な何か、それへの眼差しという点では井筒俊彦に関心があって、機会をみつけて読み直してみたいと思ってはいるのだが、ハードルが高いので躊躇したままだ。

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