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2010年11月 9日 (火)

榎本秋『ライトノベル文学論』、山中智省『ライトノベルよ、どこへいく──一九八〇年代からゼロ年代まで』、一柳廣孝・久米依子編著『ライトノベル研究序説』

 台湾に行ったとき書店の棚をじっくりと眺めるのが楽しみ。向こうでは日本の小説がせっせと翻訳されているのが目立つのだが、時々名前の知らない作家を見かける。日本風のペンネームを使っているのかなと思いきや、調べてみると実は正真正銘日本人のラノベ作家で結構売れっ子だったりする。こっち方面に疎いのもいかんな、と思ってお勉強のつもりで以下の三冊に目を通した。本来ならじかに作品を手に取るべきなのだろうが、何が面白いのかすら分からないから、やはり解説から読む。

 ライトノベルという言葉は2000年代以降に定着したらしい。関連するジャンルとしてSF、ファンタジー、ジュヴナイル小説、RPG、アニメなどがあり、これらを取っ掛かりとしながら何となくイメージはわくにしても、ライトノベルと一括りにされる中に含まれるジャンルが幅広くて明確な線引きが難しい。以下の本を読みながら振り返ってみると、私はかろうじて高畑京一郎『タイム・リープ』(電撃文庫、1995年)、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫、1998年)は読んだ覚えがある。特に後者はライトノベルの歴史で一つの画期点をなすほど評価されていたのは知らなかった。

 榎本秋『ライトノベル文学論』(NTT出版、2008年)はライトノベルをめぐる概況がすっきりと整理されて読みやすく、取っ掛かりとしてはありがたかった。本書ではとりあえず中高生向きの娯楽小説として定義の出発点が立てられるが、中高生をメインターゲットとして幅広い読者を獲得するため表現のどぎつさを抑えて好感度アップに配慮した普及品と、他方でアニメ・コミック専門店やネット書店の普及により作家性を強調した専門品との二極化の流れもあるようだ。山中智省『ライトノベルよ、どこへいく──一九八〇年代からゼロ年代まで』(青弓社、2010年)はライトノベルがどのような経緯をたどって社会的に受容されていったのか(例えば、オタク的なコアな部分がある一方で、桜庭一樹、乙一、有川浩のように一般文芸との境界がなくなっている)、その変遷が出版動向や評論に現れた言説などを通して分析される。一柳廣孝・久米依子編著『ライトノベル研究序説』(青弓社、2009年)は研究会の報告成果をまとめた形式で、様々な論者の視点からまじめに考察が加えられている。

 いくつかメモしておくと、イラストやキャラクター性の重視。オタク文化とのつながり→一種の敷居の高さ。「セカイ系」という指摘(笠井潔)→「キミとボク」性(例えば、戦闘美少女と無力な少年)→日常と異常(戦争)との間に本来あるはずの社会領域の欠如という特徴。メディア・ミックスなど出版側の戦略。かつては高校卒業程度でライトノベルも卒業→別の文芸作品を読む、さもなくば本を読まなくなる、というパターンがあったが、ライトノベルを読み続ける大学生や社会人が増えた→装丁などそれに合わせた変化。

 華語圏のいわゆる網路作家のある部分は日本でいうライトノベルと親近性を持つのかどうか気になっているのだが、どうなのだろう。

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