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2010年11月

2010年11月29日 (月)

植村和秀『昭和の思想』

植村和秀『昭和の思想』(講談社選書メチエ、2010年)

 「昭和」と一言でいっても様々な思想潮流が絡まりあってとりとめないし、ましてや150ページ前後という選書メチエのシリーズでも少ないページ数で描ききれるものでもない。そこを本書はあっさり割り切って定点観測の方法をとる。

 議論の前提としては、第一に、二十世紀における社会全体の政治化という趨勢(カール・シュミットを援用)を踏まえて昭和思想史は政治思想史にならざるを得ないこと、第二に、江戸時代生まれの世代が退場して伝統社会との断絶感が自覚された時代であることが指摘される。こうした事情を背景としながら「理の軸」と「気の軸」という座標軸によって思想史的見取り図を提示する(朱子学的な感じもする用語法だが、そうした趣旨の話題はない)。ある理念をもとに論理的に政治観を主体的に再構築するのが「理の軸」で、右に平泉澄、左に丸山眞男が配置される。対して、論理ではなく感覚的な勢いで物事を捉えていこうとする発想が「気の軸」で、ポジティヴな創造性に向かったものとして西田幾多郎、ネガティヴな糾弾行動に向かったものとして蓑田胸喜が位置付けられる。この座標軸を組み合わせながら、靖国神社問題、安保闘争、終戦、戦時期京都学派の世界新秩序構想、蓑田の言論妨害といった思想史的シーンが点描される。

 テーマが大きければ大きいほど、何らかのモノサシがなければ対象を把握するとっかかりがつかめない。どんな視点を設定するかが思想史家の腕の見せ所である。個々のエピソードに関しては著者のこれまでの研究を読んだことのある人には見慣れたものだろうが、その限られた材料を使うだけで大きな見取り図を描いてしまった工夫が興味深い。語り口はやさしいので初学者にもいいだろう。

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2010年11月28日 (日)

保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952─1966』

保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952─1966』(木鐸社、2008年)

・1950~60年代にかけて日本政府はアジアにおける地域枠組み形成の働きかけを行なっていたが、そのほとんどは失敗した。このとき、日本政府の意図は何だったのか、なぜうまくいかなかったのかという問題意識をもとに、本書は一次資料に基づいて吉田政権末期から佐藤政権までに立てられた地域主義構想について実証分析を進める。かつての「大東亜共栄圏」、昨今の「東アジア共同体」をめぐる議論、この両者の間は必ずしも空白だったわけではなく、政策形成当事者の思惑をたどり返すことでこの時期にも連続していた「アジア主義」的志向が浮き彫りにされ、論点として提示される。

・アメリカ反共政策の軍事偏重が独立したばかりのアジア諸国のナショナリズムを刺激していることを日本は憂慮、西欧とアジア諸国との間に対立的な緊張関係があるという認識→アメリカから大量の資金投入を前提としつつも、日本が橋渡し役となって「アジアによるアジアのための経済開発」という方針を示した。すなわち、日本は「アジアの一員」+「西側先進国の一員」=「戦後アジア主義」と定義した構図で捉えられる。

・「大東亜共栄圏」における「アジア主義」は、欧米という他者との対決→アジアの一体性という言説を組み立てていた。対して、「戦後アジア主義」には、他者としての欧米への攻撃性は消えた一方、アジア連帯意識は継続。ここにアメリカとの協力枠組みが加わって成立。

・「アジアによるアジアのための経済開発」というスローガンは、日本を含むアジア諸国が主にアメリカの資金提供の下で経済的な地域協力を行なうという枠組み→「アジア地域主義外交」と定義。アメリカの存在感が強まることへのアジア諸国の反発を懸念して、日本が介入→アメリカからの資金導入の政治性を薄める→結果として(岸政権における)日本の自主外交のようにも見えた。しかし、言い換えると、資金提供者としてのアメリカのアジア政策と連動→アメリカの協力がない局面では挫折。また、アジア諸国の反応も一様ではなく、独立後間もないため地域協力構想よりも自国建設が優先された、多国間枠組みよりも二国間援助の方針が確立されていた、諸国内の対立抗争、日本主導への警戒感→日本の構想はうまくいかず(中国・朝鮮半島とは1960年代の時点で外交関係がなく、反日感情の問題もあって構想には最初から含まれておらず)。日本の政策当事者が「アジアの気持ちは欧米人よりも日本人の方がよく分かる」と言う一方で、アジア諸国自身の意見を尊重する姿勢がなかったこともうかがえる。

・歴代政権指導者の思想的背景からそれぞれの外交志向にも断絶があると捉えられがちだが、日本の「アジア地域主義外交」に関して基本的に変化はなかったと指摘。

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岡村道雄『旧石器遺跡「捏造事件」』

岡村道雄『旧石器遺跡「捏造事件」』(山川出版社、2010年)

 例の“ゴッドハンド”藤村新一による捏造の発覚からはや十年経つのか。一人のアマチュアによって学界もマスコミも振り回され続けた点で世界的に言ってもピルトダウン以来の一大椿事だろう。著者は藤村と一緒に調査をしたこともあり、当事者として事件を振り返る。たしか著者自身が執筆した講談社の『日本の歴史』シリーズ第一巻が発覚の直前に刊行されたばかりで、当然、捏造資料に基づく記述もあるため回収騒ぎになっていたのも覚えている。本当はグルだったのでは?と疑われ、著者自身もだいぶしんどい思いをしていたらしい。

 旧石器時代の出土物は類例がほとんどないからこそ発見が待望されていたわけで、比較対照できる別の資料に乏しいという事情はある。それでも、発覚後になって振り返ってみると、不審だった点は色々と思い出される。ということは、少なくとも技術的にはある程度までチェック可能だったはずだということだ。実際、矛盾点は色々と指摘されていたし、著者自身も不自然な箇所に疑問点を投げかけたりもしていた。しかしながら、考古学的発掘は営利ではなく善意の人間の集まりであり、さらに藤村自身の純朴なパーソナリティーもあって、捏造の可能性には思い至らなかった。そもそも藤村には捏造できるほど高度に学術的な背景も技術も欠けているため疑いようがなかった。ところが答えは簡単、現場で研究者たちが見立てを披露、それを聞いていた藤村は、研究者の望み通りに捏造をしてみせたわけである。出てきて欲しいものが出てきた。不自然な箇所があっても辻褄を合わせて解釈してしまった。ある種の共同幻想の中で捏造が繰り返されていく。

 本書はあくまでも騙された考古学者の立場からの反省であって、騙したアマチュアの側の肝心な動機にまで立ち入ることはできない。著者は藤村に会いに行くが、彼は事件後のプレッシャーによるのだろう、心身のバランスを崩し、極度の悔恨から鉈で手の指を切り落としてしまっていた。事件前後の記憶もすっかり欠落してしまっているらしい。こうした精神状態をみると彼自身から話を聞き取るのはもはや難しそうだ。彼の話の作り方からは、どうも自身を相沢忠弘になぞらえようとしている素振りも窺える。動機は仲間から認められたい、もっと目立ちたいという功名心なのだろうか?

 私は捏造発覚のニュースを聞いたとき、学生のとき受けた考古学の授業の先生が是非読んで欲しい本の一冊として松本清張『ある「小倉日記」伝』を挙げていたことを何となく思い出していた。報われないかもしれない、無駄になるかもしれない、だが捨て石になってでも努力し続けることができるかどうか、そこが学問には大切だというメッセージだった。しかし、その孤独さに耐えていくのはなかなかしんどいことだ。目立つ、という味を知ってしまったらもう引き返すことはできないだろう。彼は点数稼ぎのように発掘していただけで学問の何たるかを知らなったから抑制がきかなかったのだ、と言ってしまうのは簡単だ。しかし、彼がアマチュアとしてコンプレックスを抱いていたであろうことを想像すると、功名心にはやるのはありうることだ。このあたりの機微が分からないだけにもどかしい。

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2010年11月27日 (土)

互盛央『エスの系譜──沈黙の西洋思想史』

互盛央『エスの系譜──沈黙の西洋思想史』(講談社、2010年)

 Esというと一般的にはフロイトの精神分析学が想起されるだろうか。著者はハイデガーがこだわったEs gibtという表現が気にかかったのを糸口として、このEsというドイツ語の代名詞の背景に伏在する思想史的なコンテクストをたどり返す作業に取り組むことになったらしい。

 Esとは、いかなる名詞の代わりでもない代名詞、というよりも言葉では語りえないものを言い当てるために要請される「主語ならぬ主語」。「私」をして語らしめるもの、「私」を動かしていくもの、しかしそれがどのようなものなのか表現しようとしても、言葉で表現した途端に別物になってしまって把握しがたい何か。理性でもあり、非理性でもあり、両方とも成り立たせてしまう、論理的な矛盾律とは無縁な領野。この曰く言い難きEsをめぐって西洋近代の思想家たちが繰り広げた知的格闘を本書は描き出す。

 個々の思想家たちの発言を丹念に拾い上げて行く博引傍証ぶりはたいしたものだが、そこに本書の価値があるのではない。むしろ、著者自身にある種の表現しがたい確信があって、それをテコにして思想家たちのテクストを読み直してみると見えてきた視野、これをどのように表現したらいいのか戸惑いながら進められる筆致に迫力が感じられる。視点は一貫しており、それを読者も共有しながら読み進むことでこの思想史的格闘の一端が垣間見えてくる。西洋哲学ものを手に取るのは久しぶりだし、この著者のことも知らなかったが興味深く読んだ。

 「私」なるもの自身もこの世界の何かを感じているのだけれど、言葉で表現しようとすると、感じていたものとは別物に転化してリアリティを失ってしまう矛盾だらけの何か、むしろこの表現しきれない限界からほの見えてくる残響というか余韻というか、そこを通して矛盾のあるがままに考え続け、語り続けることが哲学なのだろうと私は考えている。私の場合、こうした感覚を教えてくれたのが『荘子』だった。『荘子』に明晰な論理はない。寓話を通して論理の背後にある曰く言い難き何かをほのめかすという方法をとる。私の場合には物心ついて初めて読んだ哲学書が『荘子』だったので愛着があるというだけのことかもしれない。だが、語り口は様々にあり得る。西洋哲学も含め、個々の思想家の語り口それぞれをいわば寓話に見立ててみる。一つの語り口ではぶつかってしまう限界を、他の語り手はどのように語ろうとしたのか。様々な語り口を見て、彼の語ったことをそのまま真に受けてしまうのではなく、むしろ各自の語り得なかった何かへの眼差しを見ていきたい。そうすると、時代背景が違っても、その人は自分の置かれた条件の中で、この語り得ぬ何かを掴み取ろうと一所懸命に考えようとしていたのだな、と親しみすらわいてくる。それが思想史の醍醐味だと私は思っている。

 蛇足を重ねてしまうが、語るのは「私」だけれども、その語る「私」の意識の奥底に見えてくる、「私」ならざる非人称的な何か、それへの眼差しという点では井筒俊彦に関心があって、機会をみつけて読み直してみたいと思ってはいるのだが、ハードルが高いので躊躇したままだ。

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2010年11月24日 (水)

NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会──“無縁死”三万二千人の衝撃』

NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会──“無縁死”三万二千人の衝撃』(文藝春秋、2010年)

 以前、NHKの番組で放送された内容を取材した記者たちが改めて文章化している。「無縁社会」というキーワードはこの取材班の会話の中から生まれたという。孤独な中で人知れず死んでいった人それぞれの思いをたどる取材は、それこそ弔いの気持ちをかみしめながらのものだったらしい。読みながら、身につまされてくる。

 故郷とは縁がなくなって東京での一人暮らし。仕事の失敗や会社からの退職などのきっかけで横のつながりを失った人々。自力でやっていければそれでもいいかもしれない。しかし、何らかの失敗を受け止める横の人間関係がないとき、それはそのまま生活難へと転落してしま、生活難は家族離散をも招き、悪循環に陥ってしまう(湯浅誠の表現を使うなら“すべり台”)。

 いずれにせよ難しいと思うのは、家族のつながりや近所の顔見知りといった人間関係はいわばスポンテイニアスなもの、従来なら社会制度の所与の前提とされていたものであって、人為的な努力で再構築できるのかどうか見通しがなかなか立たないことだ。一人ひとりそれぞれに抱えている事情が異なるので一般化はできないが、生活の利便性向上によって他人にわずらわされることのない一人暮らしへの選好が強まる一方で、わずらわしさと引き換えに得られていた相互承認や相互扶助も薄れていく、そうした問題も垣間見える。しかしながら、社会生活を送っていく上で横の人間関係が重要なのは当然のことで、このつながりの希薄化が社会に及ぼす影響の懸念からアメリカの政治学者ロバート・パットナムはソーシャル・キャピタルという社会科学上の概念を通して問題提起している。あるいは、湯浅誠の表現で言う“溜め”の問題にもつながってくるかもしれない。最近再びもてはやされているピーター・ドラッカーにしても、資本主義のロジックを踏まえつつ、一人ひとりの個性活用という形で協同の人間関係が成立する場として企業組織を捉えており、その成功例として戦後の日本型企業システムを考えるなら、企業業績向上が人間関係維持の前提条件であり、その条件が消えるとリストラという形で社縁の解体につながっている、つまり経済成長の終わりが人間関係を崩したという問題も見ることができる。

 最初、NHKスペシャルでこの番組を観たとき、若き日の沢木耕太郎のノンフィクション『人の砂漠』所収の「おばあちゃんが死んだ」を思い浮かべていた。孤独死は今に始まった問題ではない。ただ、高度経済成長の前向き志向の雰囲気の中で覆い隠されていたに過ぎない。こうした類いの隠蔽については、例えば貧困等の問題を通して岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書)で指摘されている。“無縁社会”を他人事ではないと感じる人が増えていることは、経済成長が終わってそれだけ社会全体の雰囲気が決定的に変わっていると見ることができるのだろう。

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2010年11月23日 (火)

北河大次郎『近代都市パリの誕生──鉄道・メトロ時代の熱狂』

北河大次郎『近代都市パリの誕生──鉄道・メトロ時代の熱狂』(河出ブックス、2010年)

 今年度サントリー学芸賞受賞作。19世紀、産業革命は技術を高度に発達させ、空想的社会主義者たちは自らの夢を語る、そうした進歩への熱狂が人々を駆り立てていた時代。サン=シモン主義者のシュヴァリエはパリを中心に置く「地中海システム」という鉄道網を構想、中央集権志向のエリート・エンジニアであったルグランも同様に「ルグランの星」を思い描いていた。しかしながら、こうした鉄道網の集結点となるはずのパリでは都市公共交通網としてのメトロ建設が遅れ、各地方から集まる路線の終着駅は分散配置の形を取ることになってしまう。ここには、国家主導の計画に対する地元セーヌ県・パリ市の頑強な抵抗があった。すなわち、国土計画=鉄道網の論理と自治を求める都市の論理、そして双方の間で揺れる土木技師団という構図が見て取れる。計画は遅れ、妥協されていく。しかし、見方を変えれば、過去の伝統を次々と放棄する進歩の時代にあっても、こうした両者のせめぎ合いがあったからこそ、時間をかけて都市の価値を再確認、共有されていったのだと本書は指摘する。合理性と情緒、近代と伝統、一見相反するようでいながらも時間をかけて両者の帰結点を模索したプロセスとして、パリにおける都市計画史を捉え返していく観点は興味深い。

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2010年11月22日 (月)

川田稔『満州事変と政党政治──軍部と政党の激闘』

川田稔『満州事変と政党政治──軍部と政党の激闘』(講談社選書メチエ、2010年)

 昭和初期、民政党・政友会を軸とした政党政治は1931年の満州事変を契機として崩壊し始める。ただし、従来は現地関東軍の独走になす術もなく引きずられてしまったと捉えられてきたが、突発的な出来事で吹き飛んでしまうほど戦前期日本の政党政治はやわなものでもなかった。当時の政党政治体制は内政・外交ともに一定の安定性を持っており、それを突き崩すにはやはり明確な構想と準備があったはずだという。本書はこうした観点から、当時の民政党政権と対抗勢力としての陸軍中堅幕僚たち一夕会、二つの国家構想を持つ勢力の対立抗争として政党政治崩壊に至る過程を描き出す。

 具体的には対外認識を取り上げると、民政党の浜口雄幸、若槻礼次郎、幣原喜重郎のラインは、国際連盟・不戦条約などの多重多層的条約網によって戦争抑止は可能であるという立場を取っていた。対して陸軍一夕会の中心人物・永田鉄山は、国際連盟の理念は認めるものの実行手段が欠如していることを問題視、いずれ戦争は不可避であり、国家総動員、資源確保のための大陸進出の必要を想定していた。なお、両者の対比については、川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ、2009年)も参照のこと(→こちらで取り上げた)。

 両者が繰り広げた政治的駆け引きの描写が本書の読みどころであるが、民政党側が必ずしも負け続けていたわけではない。林銑十郎朝鮮軍司令官による独断越境を若槻首相は容認はしたが、もしこれを拒否したら陸相辞任、ひいては生じるであろう政治混乱の回避を意図しており、陸軍上層部の協力を取り付けた上で関東軍を押さえ込む腹づもりがあったらしい。実際、関東軍が強行しようとした錦州への派兵は阻止できた。ところが、協力内閣運動を大義名分とした党内の安達謙蔵内相の倒閣によって総辞職、かろうじて保たれていた両者の危ういバランスが崩れた。続く政友会犬養毅首相も暗殺されて、政党政治は終焉を迎えることになる。

 昭和初期政治史において永田鉄山はキーパーソンの一人であるが、彼を中心に据えたアカデミックな研究は意外と見当たらない。その点でも著者による上掲二書は興味深い。

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2010年11月21日 (日)

堤未果『ルポ貧困大国アメリカⅡ』

堤未果『ルポ貧困大国アメリカⅡ』(岩波新書、2010年)

 ベストセラーの続編。民営化された学資ローンのため借金漬けにされてしまった学生たち、富裕層が中心を占める名門校との大学間格差、教育機会が将来の就業機会につながらない問題。GMなど大企業の破綻で社会保障を受けられなくなった人々。市場効率重視の医療保険業界、医療格差。発展途上国よりも人件費等コストの低い刑務所へのアウトソーシング、軽犯罪は貧困層が中心だが厳罰化・刑務所内での借金漬けによる社会復帰困難。こうした過剰な市場主義による効率性優先によって蝕まれた現代アメリカ社会を取材したノンフィクション。努力すれば誰にも将来の可能性はあると信じられるのがアメリカン・ドリームだったはずだが、それが自由=市場効率性と読み替え→一度不利な立場に立つとそのまま転落し続けてしまう、こうした形で敗者復活の機会が奪われていることが読み取れる。政治的自由と市場の自由とではその基準を置く位相が異なる、と言えるだろうか。

 どうでもいい蛇足だが、著者は最近、川田龍平参院議員と結婚して、川田議員は最近、みんなの党に入って、みんなの党は市場効率重視の政策を掲げている、ということは、夫婦で政治的見解が異なっている、ということか。他人事なのにお節介だけど。

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三井美奈『イスラエル──ユダヤパワーの源泉』、立山良司『揺れるユダヤ人国家──ポスト・シオニズム』、臼杵陽『イスラエル』、高橋正夫『物語イスラエルの歴史──アブラハムから中東戦争まで』ほか

 三井美奈『イスラエル──ユダヤパワーの源泉』(新潮新書、2010年)。国際社会をあてにせず自分たちの国は自分たちの力で守る──強硬な国防意識が常に過剰反応にすら見えてくるイスラエルの強烈な危機意識。これをいったいどのように捉えればいいのかという問題意識から、アメリカにおけるイスラエル・ロビー及びイスラエル本国における情報機関・国防関係者に行なったインタビューをもとに現代イスラエル事情を垣間見る。

 なお、本書でも言及されているジョン・J・ミアシャイマー(シカゴ大学)とスティーヴン・M・ウォルト(ハーバード大学)はネオリアリズムの国際政治学者で、『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(Ⅰ・Ⅱ、副島隆彦訳、講談社、2007年)では、イスラエル・ロビーの活動によってアメリカの対中東政策が国益から逸脱した不合理な方向にゆがめられていると批判したことで議論を巻き起こした。副島隆彦の名前が出ると胡散臭く思われるかもしれないが、内容はまっとうである(→こちらで取り上げた)。

 立山良司『揺れるユダヤ人国家──ポスト・シオニズム』(文春新書、2000年)。シオニズム運動はもともと非宗教的なナショナリズムとして始まった一方で、国家形成にあたってはユダヤ教的シンボルも動員された→宗教戒律と世俗主義の葛藤。世界中から「ユダヤ人」が移住して成立した多様性→ヨーロッパ系とオリエント系の摩擦。中東和平をめぐるイデオロギー対立。ホロコーストをめぐる歴史論争。アメリカ在住ユダヤ人のデュアル・ロイヤリティーなど、アイデンティティの葛藤に着目してイスラエル政治を考察する。

 臼杵陽『イスラエル』(岩波新書、2009年)は、様々な地域からの移民、さらには領域内マイノリティーとしてのアラブ人等をも抱え込んで多文化主義化する一方、その矛盾を糊塗するかのように高揚するナショナリズム、こうした葛藤における内在的政治力学に着目しながらイスラエル建国以来の現代史を描き出す。読みながらとったメモをいくつか箇条書きすると、
・イスラエルの宗教行政を所管する首席ラビ庁には、アシュケナジー系(ヨーロッパ系)首席ラビとスファラディー(本来はイベリア系だが、アジア・アフリカ系も統括)系首席ラビの二つの公職がある。
・イギリス委任統治期のユダヤ人社会では、社会主義シオニズム(→労働党)が主流となるのに対して、その対抗勢力として修正シオニズム(→リクード)が現れる(なお、修正シオニズムの指導者ジャボティンスキーについては以前に森まり子『シオニズムとアラブ──ジャボティンスキーとイスラエル右派 一八八○~二○○五年』[講談社選書メチエ、2008年]を読んだことがある→こちら)。
・ベングリオンは議会多数派形成のため宗教政党と妥協→宗教的現状維持協定→社会生活に宗教性が入り込むなど現在でも足かせに。
・建国第一世代シオニストは、無抵抗・受動的だったとしてホロコーストの犠牲者に冷淡、むしろゲットー蜂起を賞賛。一方で、非シオニスト的ユダヤ人(モロッコ系など)の流入に伴い、国民統合の材料としてアイヒマン裁判をきっかけにホロコーストを政治的シンボルとして利用。
・アジア・アフリカ出身ユダヤ人(ミスラヒーム=東洋系)に対しアシュケナジー系優位の社会的序列化、貧困→この不満が右派リクードの台頭、モロッコ系移民のブラックパンサーなどの暴発。なお、臼杵陽『見えざるユダヤ人──イスラエルの〈東洋〉』(平凡社、1998年)はこのユダヤ人社会の中で劣位に置かれたアジア・アフリカ系ユダヤ人ミスラヒームに注目して「オリエント」イメージを検討する論考を集めている。

 高橋正夫『物語イスラエルの歴史──アブラハムから中東戦争まで』(中公新書、2008年)は、古代史から現代までのユダヤ人の歴史を時系列に沿って概説。どの年代に力点を置くわけでもなくフラットな叙述で必ずしも読みやすいわけではないが、情報量は豊富なので歴史背景の知識を補強する上では使える。

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2010年11月20日 (土)

中村綾乃『東京のハーケンクロイツ──東アジアに生きたドイツ人の軌跡』

中村綾乃『東京のハーケンクロイツ──東アジアに生きたドイツ人の軌跡』(白水社、2010年)

 1945年5月、ドイツ第三帝国はすでに崩壊したにもかかわらず、東京のドイツ大使館では自殺したヒトラーの追悼式が行なわれていた。これにはいったいどのような背景があるのかという疑問を出発点として、本書は主に日本と中国におけるドイツ人社会の歴史をたどり直していく。

 1850年代にハンザ同盟のドイツ人が東アジアにやって来て以降、不平等条約によってドイツ人の居留地や租界といった現地社会から隔絶した空間が設定され、文化活動の共有により「ドイツ人らしさ」の維持が追求された。これが後に人種主義を掲げるナチズム浸透の前提となる。ただし、東アジア在住のドイツ人では商人、学者、外交官といった一定の社会的身分を持つ人々が中心で、社会的・経済的不満を原動力の一つとしたナチズムへの共鳴が必ずしも強かったわけではない。また、ワルシャワでユダヤ人虐殺に辣腕を振るったヨーゼフ・マイジンガーがゾルゲ監視を目的として1941年に着任(ただし、マイジンガーは日本の特高に先を越されて面目丸つぶれだったらしい)、反ナチ的言動の取り締まりを強めたが、こればかりが理由とも言えない。むしろ、仕事関係の打算、近所付き合い、学校行事などの日常生活を通してナチズムが浸透していったこと側面の方が大きかったのだという。ドイツ本国におけるような熱狂に巻き込まれたわけではないにもかかわらず成立した「異郷のナチズム」がはらむある種の冷静さを浮き彫りにすることによって、かえってその問題の根深さが指摘される。

 「異郷のナチズム」という論点は意外と盲点だったので興味深く読んだ。東京のヒトラー追悼式でドイツ大使シュターマーがヒトラー礼讃をしていたのと同時期、天津ではフリッツ・ヴィーデマン総領事が逆にナチス批判の演説をしていたエピソードが比較されており関心を持ったのだが、両者の対照が全体的論旨にうまく活かされていないという印象がある。私の読解力不足かな。

 なお、中国にいたナチの残党は、戦後、小者はすぐ本国へ送還された一方で、大物はコネを使って国民党系高官のもとに顧問としてもぐりこみ匿われたらしい。例えば、閻錫山など。

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2010年11月19日 (金)

大塚英志『「おたく」の精神史──一九八〇年代論』、東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』、岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』、前島賢『セカイ系とは何か──ポスト・エヴァのオタク史』

 「オタク」文化の概略を知りたいと思って、取りあえず以下の本にざっと目を通した。

 大塚英志『「おたく」の精神史──一九八〇年代論』(講談社現代新書、2004年)は、「おたく」(「オタク」とは意図的に書き分け)文化生成現場としての業界にいた自身の見聞を軸にして1980年代のサブカルチャーを跡付ける。私自身はすでに生まれていたものの固有名詞を後から知っただけの時代のことなので世相史として興味深い。キャラクター産業のコアとしての「物語消費」の指摘に関心を持った(物語の擬似的創造、情報の断片化→情報への渇望、稀少性を捏造→断片を売り込む)。

 東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001年)は、「大きな物語」の消滅というポストモダン的命題の下でオタク文化を分析。「萌える」という消費行動は、盲目的な没入と同時に、その対象を萌え要素に分解→データベースの中で相対化。作者の発するメッセージとしての物語ではなく、並列的な平面に布置されたデータベース的情報を前にしたオタクは自らの感覚的満足を効率よく達成できるよう組み替えながら次々と消費→大塚の「物語消費」に対して「データベース消費」を指摘する。同『ゲーム的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)は上記の議論をマンガ、アニメ、ゲームばかりでなく現在の文学まで射程に入れながら展開。人工環境に依存した文学として、近代文学とは異なった文体の可能性。

 岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書、2008年)。オタキングが近年のオタクに感じた違和感。岡田にとってオタクとは本来、自分自身の趣味に対して求道的に精進する貴族主義というイメージがあり、その上で好きなジャンルや作品は違っても「世間とは違う生き方をするオタク」という漠然とした一体感があった。ところが、「萌えが分からない奴はオタクじゃない」など差異化の排除が強くなって、こうした本来のオタクの共通理解が崩壊したと指摘する。

 「セカイ系」とは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)との小さな関係性が中間項としての社会を欠如させたまま「世界」という抽象的大問題に直結する設定を持った作品群を言い、とりわけ自意識の過剰さが顕著に見られる。前島賢『セカイ系とは何か──ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書、2010年)はこの「セカイ系」というキーワードを軸に「新世紀エヴァンゲリオン」以降のアニメ、マンガ、ライトノベルを検証した評論。主に東の議論を援用しているようだ。

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2010年11月17日 (水)

Niko Pirosmani(中文)

  以前我去过俄罗斯前卫艺术的展览会。这个展览会有种种的抽象艺术,比如说野兽派、立体主义、未来主义、至上主义、超现实主义等等。很难理解的作品使我混混乱乱。

  但是我看见了一些作品有很朴素的意趣。原始的笔致使我觉得暖暖和和的。这些作品是Niko Pirosmani画的。那个时候我第一次知道了这个画家。笔致很粗野,不过好像圣像画的人物画有很虔敬的气氛(但不是宗教画),这使我想起了乔治•鲁奥(Georges Rouault)。画人物和动物在高加索(Caucasus)山林的笔致是像亨利•盧梭(Henri Rousseau)的,不过Pirosmani的笔致没有盧梭的明亮。特意涂的深蓝色的背景使我觉得有很独特的印象。

  Niko Pirosmani(1862~1918)在格鲁吉亚东部的农村Kakheti出生。小时候他父母就去世,所以在格鲁吉亚首都提弗利司(Tiflis,现在叫第比利斯T'bilisi)的亲戚收养了他。他转了种种的职业,印刷工、铁路员工等等以后,跟朋友一起开始做买卖。但是他热情的性格让他们的事业失败。然后他天天过流浪的生活,画酒馆的牌画谋生。他的报酬是喝酒、吃面包、住一天。有时候他得到一些金钱买了颜料。

  当时俄罗斯革命要爆发的时候,年轻的艺术家在摸索创作的可能性。从圣彼得堡(Sankt-Peterburg)来的一些前卫艺术家们在提弗利司的酒馆喝酒的时候,他们看见了Pirosmani的画儿。他们想驱散压制他们热情的现成羁绊。他们可以看出在Pirosmani画得很素朴的笔致里自由和纯粹的感性,这使他们非常高兴。他们向俄罗斯画坛介绍了Pirosmani。

  但是俄罗斯画坛的权威对Pirosmani严厉批评,说他的笔致很幼稚。因为他没有学历,他们劝他再学习画法。最近我关心俄人音乐家亚历山大•齐尔品(Alexander Tcherepnin),是在中国和日本发掘很有为的青年音乐家的人。当时他在格鲁吉亚首都提弗利司住,看过Pirosmani的画儿。他也有了同样的感想,当时一般的知识分子都会感到这样。这些反应使Pirosmani灰了心,他回国再天天过流浪的生活。他的生活很贫穷,1918年人们看到他一个人死去。

  听说俄罗斯歌曲有“一百万个蔷薇”,是日本有名歌手加藤登纪子的上演节目之一(但我没听过)。这支歌儿的原型是Pirosmani的逸事。他爱法国女演员玛格丽塔(Margarita),尽全财产买了花儿,把很多的蔷薇满满地摆布她住的宾馆的周围。这个逸事是不是真的我不知道。但是Pirosmani的名字让很多的人们联想到这样的一心热情。我们可以在他的画儿看出他的纯粹感性。他画的技术可能很拙劣,但是这些感性会使很多的人们高兴得多。

  我看过格鲁吉亚的电影导演Giorgi Shengelaya拍的电影《Pirosmani》。这部电影一边描述Pirosmani的生平,一边再现他画的风景,我觉得很有意思。宴会的场面使我想喝葡萄酒了。格鲁吉亚人对葡萄酒有很强的自尊心。他们说格鲁吉亚是最古的葡萄酒产地,别国的葡萄酒没有格鲁吉亚的这么好喝。

  我去过在东京五反田的格鲁吉亚餐厅。我期望喝格鲁吉亚人自夸的葡萄酒。但是那个时候因俄罗斯军侵犯格鲁吉亚的影响使葡萄酒不能输出,所以我不能喝到格鲁吉亚葡萄酒。我对格鲁吉亚人的店员说,“我想去格鲁吉亚,不过担心战后的治安不好。”他说,“没问题。我们格鲁吉亚人都习惯了这样的状况。”他们习惯什么情况呢?就是说战后很混乱的情况还没有结束呢?我不知道再说什么。

  以上、中作文の練習。なお、ピロスマニについては以前にこちらで触れたことがある。

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2010年11月16日 (火)

朴贊雄『日本統治時代を肯定的に理解する──韓国の一知識人の回想』

朴贊雄『日本統治時代を肯定的に理解する──韓国の一知識人の回想』(草思社、2010年)

 私自身としては肯定、否定といった二分法的な価値判断を前提として歴史事象を考えることに馴染みがないことをまずお断りしておく。

 本書は日本植民地下の朝鮮半島で過ごした青春期を回想した手記を中心としており、原文自体が日本語で記されている。だいぶ恵まれた家庭環境に育った人のようで、日本人に対する敵愾心はない。母方の親戚には呂運亨もいたという。ある時代経験を振り返るにしても、その人がどのような立場にいたのか、どのような人々と付き合っていたのかによっても世の中の見え方はかなり違ってくる。様々な立場の人にどのように見えていたのかをつき合わせることにより、後知恵で意味づけをせざるを得ない後世の歴史認識をできるだけ相対化していくという点で、本書に回想される上流階層の生活や学校のエピソードは興味深い。

 著者は、北朝鮮の共産主義政権、韓国のかつての軍事政権、双方に対して批判的な立場を取っている人で、1970年代以降はカナダに移住していたらしい。ちょっと深読みにはなるが、韓国社会の現実に対する批判がその反措定として日本に対する親近感を芽生えさせているようにも思われる。こうした形の心情は台湾の懐旧老人によく見られる。繰り返しになるが、そのことの是非を問題にするつもりはない。本書を読んだ日本人が、日本の植民地支配は良かったんだ、と無邪気に喜ぶのは不毛な読み方で、むしろ著者のような心理的契機が生まれる政治空間をどのように捉えるのか、そこを汲み取りながら読む方がより一層歴史の理解に資するのかなという気がする。

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斎藤環『戦闘美少女の精神分析』、ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史──「萌え」とキャラクター』、本田透『萌える男』

 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫、2006年)は、マンガ・アニメの中の戦闘美少女の系譜をたどりながら(海外ものとの比較では強いアマゾネス型が中心で、日本のようなかわいいヒロインはいないことを指摘)、多重見当識という精神分析上のタームをもとに分析。「現実」という担保を必要としない虚構を作り出す→自律的な欲望のエコノミーが成立。その中で、多形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させたイコンとして戦闘美少女を捉える。本論よりも、自律的な虚構世界の中に生きた実例として引き合いに出されるヘンリー・ダーガーという人が興味深い。

 ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史──「萌え」とキャラクター』(講談社現代新書、2004年)は1970年代以降、主にマンガ・アニメにおいて美少女キャラクターが担った意味合いの変遷を概観。キャラクターとは「見られる存在」→視点の物象化として把握。それは同時に、「見る」自分自身を確認する作用を持つ。スポコンものでも恋愛ものでも「~のため」という根拠が失われつつある中で、特権的な「私」の立場を強める→「彼女の内面」をいくらでもフィクションとして作り上げられる、こうした形で美少女キャラクターが生成していることを指摘。

 本田透『萌える男』(ちくま新書、2005年)は、目的・動機→充足という功利的な循環関係で成り立つ消費活動の中に「恋愛」もまた組み込まれた恋愛資本主義に対して、「萌え」はいまだに生き残っている純愛観念であると指摘。従って、「萌え」の世界は単なる現実逃避ではなく、「救い」を求める共同幻想であるという。こうした観点からオタク文化を分析する。

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2010年11月14日 (日)

森川嘉一郎『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ 増補版』

森川嘉一郎『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ 増補版』(幻冬舎文庫、2008年)

 アキバを舞台にしたオタク文化史かという軽い気持ちで本書を手に取ったのだが、実は都市文化論として充実した内容を持っており興味深い。著者は建築畑の人で、オタクの心性分析から現代日本社会の一側面への考察を横軸としながら、同時に都市や建築をめぐる問題意識が縦軸に据えられ、二つの軸が交わる位相に秋葉原という都市が持つ意味合いが析出される。

 科学技術の進歩という〈未来〉志向の幻想が喪失したことによってアニメやゲームの世界に退行していった少年たち=オタク、家電製品のシェアが郊外型大規模店によって奪われて変化を余儀なくされていた秋葉原電気街、双方のマッチングから趣都アキバは生まれた。1960年代の高度成長期、国家や大資本主導で海外の有名建築家作品のエピゴーネンとして展開された高層建築を第一フェーズ、1980年代のバブル期、ライフスタイルそのものをコンテンツとして主に女性を市場開拓の対象に想定したマーケティング戦略によって舞台装置として設定された都市空間を第二フェーズとするなら、「趣味」という「個」のロジックに基づいて生成したアキバが第三フェーズであると位置づけた見取り図が示される。「趣味が、都市を変える力を持ち始めた」という命題のもとオタク文化の分析が進められている。

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【映画】「ソフィアの夜明け」

「ソフィアの夜明け」

 ベランダから一望されたブルガリアの首都ソフィアの風景。社会主義時代に建設された高層団地はすでに古びたたたずまいを見せている一方で、開発計画で更地にされた一帯はそのまま取り残されており、寂しげな印象をいっそう強めてくる。

 自宅に居心地の悪さを感じてストリートをうろつき、極右のスキンヘッド集団に引きずり込まれて行く少年ゲオルギ。兄のイツォは麻薬中毒のリハビリ中、本来は芸術家志向だが、不本意な仕事に気持ちがすさんでおり、恋人にも邪険にあたりちらしている。ある晩、トルコ人一家がスキンヘッド集団に襲撃された現場にたまたま居合わせたイツォは止めようと割って入り、彼も殴り倒されてしまった。この縁でトルコ人一家の娘ウシュルと親しくなったが、人種差別的暴力におびえた一家の父親は二人の交際を認めない。精神的な安住の地が見つからずさまようそれぞれの姿が描かれる。

 スキンヘッド集団に吸引される若者たちの姿、ネオナチの台頭、暴動…。廃墟とまでは言わないにしてもくすんだ色合いの街並みで繰り広げられるこうした光景は現代ブルガリア社会のある一面を映し出しているのだろうか。同時に、登場人物の行き詰った焦燥感、居場所の見えない精神的彷徨、民族という見えない壁で隔てられてしまった関係、こうしたやりきれない心象風景を象徴的に具現化しているようにも見える。それでもなおかつ何かを求めようとする彼らのパセティックな心情が時にこの風景と感応し、それが美しくも感じられてくる。

 説明的なくどさがない分、観客それぞれが深読みしていく余地のありそうな構成となっている。主役のイツォを演じた人は実際に麻薬中毒の経験のある芸術家で、この人の生き様を描こうという意図からこの映画の製作が始まったらしいが、撮影終了間際に事故死してしまったという。

【データ】
英題:Eastern Plays
監督・脚本:カメン・カレフ
2009年/ブルガリア/89分
(2010年11月14日、渋谷、シアター・イメージ・フォーラムにて)

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矢野暢『東南アジア世界の論理』『東南アジア世界の構図──政治的生態史観の立場から』『冷戦と東南アジア』他

矢野暢『東南アジア世界の論理』(中公叢書、1980年)
・1973~79年にかけて執筆された論文をまとめたもの。欧米発の普遍主義志向の視座では東南アジアの生の姿を捉えきれない、社会科学理論そのものがはらむ存在拘束性への反省という問題意識が中心を占める。
・東南アジア社会を理解するために「小型家産制国家」という概念を提起:「河川の支配を権力の基盤とし、領域支配の観念と実践に乏しく、分節的でルースな社会の上に成立する、ヒンズーの王権思想に拠る小規模な家産制的権力」→進歩や発展の内発的契機に乏しい。首都だけ肥大発達。発展の恩恵は首都の権力者だけ→伝統的特性は改革されず、制度化の非土着性。
・欧米の発展理論に対して、近代化の「逆シナリオ」を指摘。近代的制度の不適応→先祖がえりしてしまう。東南アジア社会は風土に根ざした独自の政治的・社会的内在ロジックを持っており、ここに近代化という外発的ロジックを無理に導入しようとすると様々な混乱が起こり得る、これをどのように考えるのかという問題提起。国民国家形成のナショナリズム→首都在住の権力者の近代主義的願望にすぎず、かえって抑圧政治になり得る。
・「文化的共鳴」の理論:外から導入された観念に対して、それぞれの文化的風土の中で自立的な解釈。共鳴し得ない価値は何か?→「近代」。
・ジャカルタの反日暴動(1974年)をじかに目撃→日本人の海外における「行動の自由」の条件という論考。
・南洋に出た日本人の「篤民」の具体例として堤林数衛。生真面目なパーソナリティー、日本人の「使命」としての「南進」。
・近代日本における外務省外交は欧米主導の国際関係を前提→ここからこぼれおちた局面で民間外交(アジア主義者など)が先行、外務省外交は引きずられてしまった。

矢野暢『東南アジア世界の構図──政治的生態史観の立場から』(NHKブックス、1984年)
・自然環境への適応として形成されてきた社会集団→それぞれに個性的な組織原理を持った社会生態空間→これがまとまって政治的意味を持った政治的生態空間が形成される、こうした空間の重層的関係への視座を軸として東南アジアをトータルに把握する試み。
・社会科学的分析では当然視されている「家族」「村落」「国家」「民族」などの単位概念すら十分に吟味されていないにもかかわらず、外からの概念的モノサシで分析はできないという問題意識が背景にある。
・双系制度(父系・母系ともに対等)→系譜中心ではなく、エゴ(文化人類学的な親族構造分析における自己)を中心とした親族構造イメージ、二人間関係。
・「国家」概念の難しさ→六つの類型を提起:①「タッタデサ」型国家(大陸平原部、水利灌漑→権力強大)、②「海域支配拠点」型国家(島嶼部)、③「クラジャアン」型国家(島嶼部の河川域)、④「受認知」型国家(大国家から称号等付与)、⑤「ムアン」型国家(大陸山間部、用水管理→タイトな共同体)、⑥「クルン」型国家(大陸河川部)。「近代国家」の人工性の指摘(ex.ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。
・「意味空間」の把握→残欠補修、文化的共鳴→外からの文化は、類似の文化を正当化し、活性させながら、それもどきのものと作りあげる、「掘り起こし」現象。
・東南アジア史の構造。

矢野暢『冷戦と東南アジア』(中公叢書、1986年)
・「東南アジア」という概念の定着は、日本軍の占領という統一的体験、米英軍の東南アジア司令部の設置を契機としており、こうした共通項のあり方そのものに当初からの軍事的・政治的性格がうかがえる。さらに冷戦過程と国際体系としての「東南アジア」という秩序概念の形成過程が合致。この冷戦の〈場〉となった東南アジアの特質や内在的論理を把握する必要があり、その考察上の視座については上掲二書の議論が踏まえられている。
・東南アジアの共産主義をめぐる政治力学→民族主義運動を通じての独立主権国家の確立と国家発展、国家の一元的支配体制の確立、世界秩序の中での座標軸、これらの現実的課題にどのように向き合ったかに応じて発展の方向性が決まった。東南アジア側の複雑な政治力学の読み違え、認識枠組みの問題→アメリカの過剰介入へとつながる。「異人関係の政治学」。
・冷戦の「従属体系」として見るのではなく、地域主義の台頭に目を向ける必要。
・タイにおける「親米」の論理:ピブーンは大国密着主義(かつては日本、その後はアメリカ)→サリットは国家の政治的伝統に基づいて外交的判断。
・冷戦の知識社会学:東南アジアは多様な世界で内在的統合原理に乏しい→「地域」概念の非現実性。学問の政治化。認識枠組みは没価値的ではあり得ない問題。

 東南アジアについて考える上では、その前提としてそもそも日本人自身が歴史的にどのような関わり方をしてきたのかを抑えておく必要がある。矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)、『日本の南洋史観』(中公新書、1979年)は明治・大正期から第二次世界大戦に至るまで唱えられた「南進論」を思想史的に検討、近代日本の対外認識の一端を浮き彫りにする。同時に、国家という次元とは異なる形で南洋各地に散らばり、歴史の中に埋もれてしまった「無告の民」の姿を何とか掘り起こそうとする生き生きとした筆致はいま読んでも興味深い。最近、この二冊を合わせて矢野暢『「南進」の系譜 日本の南洋史観』(千倉書房、2009年)として復刻された。

 なお、よく知られているとは思うが、矢野暢はアウン・サン・スーチーさんが京大に留学していたときの恩師。

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2010年11月12日 (金)

ASEANについて5冊斜め読み

 私が生まれたときにはすでにASEAN(Association of South-East Asian Nations)は存在していたのでその活動はもう自明のように思っていたのだが、実際には色々と波乱含みの中で生成してきたようだ。山影進『ASEAN シンボルからシステムへ』(東京大学出版会、1991年)はASEANの形成過程を分析する(本書刊行の時点での加盟国は6カ国)。ASEANの前史としてはマラヤ・フィリピン・タイのASA(東南アジア連合、1961年)、マラヤ・フィリピン・インドネシアのマフィリンド(1963年)があるが、これらがそのままASEAN形成につながったわけではない。マレーシア連邦成立時の国家形態や領土要求をめぐって紛争が生じており(対インドネシア、フィリピン)、むしろその緊張緩和プロセス(1966~67年)の中からASEANは生まれた。インドネシアではスカルノの「マレーシア粉砕」政策→スハルトは善隣外交のサイン、フィリピンではマカバカルの強硬姿勢→マルコスはサバ領有権主張の棚上げ、マレーシアではラーマンの強硬姿勢に対してラザク副首相たちのイニシアティヴ、タイによる紛争仲介の労、シンガポール独立→都市国家としての脆弱性を意識して友好国を増やし、敵対国を減らす外交方針、こうしたそれぞれの要因も働く中で1967年8月に各国外相が集まってバンコク宣言(ASEAN設立宣言)が出され、具体的な問題は曖昧にしたまま相互信頼醸成を目的として停戦→和解→協力の大転回が行われた。当初は成立の法的基盤も曖昧な同床異夢の関係ではあったが、対話や合意の蓄積を通して協力関係の範囲は拡大・具体化、不文律としてのASEAN的慣行(内政不干渉、相互批判は抑える、各論における異議は総論の中にゆるやかに包み込む)を互いに尊重しあいながら徐々にルールが明文化されていった。

 山影進編『転換期のASEAN──新たな課題への挑戦』(日本国際問題研究所、2001年)はベトナム(1991年)、ラオス・ミャンマー(1997年)、カンボジア(1999年)のASEAN加盟を踏まえてASEANの性格的変化に関わる論点がそれぞれ検証される。ベトナム→カンボジア情勢安定化の枠組みとしてASEAN重視。ASEANの内政不干渉原則→民主化・人権などの問題を抱えるミャンマー・カンボジアに対してどのような態度をとるか? 域外大国との関係→対米、対中、非核地帯構想について。南シナ海の領土紛争→加盟国の利害不一致や対中関係もあって複雑、中国を会議外交の中に引き込むことができた点では成功、ただし、その後の展望は見えていない。

 黒柳米司編著『アジア地域秩序とASEANの挑戦──「東アジア共同体」をめざして』(明石書店、2005年)は、東アジアにおける協力関係の可能性に力点を置きながらASEANについて考察した論文集。ASEAN Way(内政不干渉主義、漸進主義、非公式主義、コンセンサス形式)の検討。中国の対ASEAN政策→相互依存下の戦略。ASEAN域内・域外の経済協力。「大メコン圏」開発計画→中国(雲南)も取り込む。インドネシア選挙監視を例に国際NGOの活動について→政府間は内政不干渉主義であるのに対して、NGOのトランスナショナルなネットワークを通して民主化への社会的基盤作りに努力。海賊、イスラム・テロを例に非伝統的安全保障について→個別の安全保障能力や国際協力がついていかず。権威主義的開発体制→マハティール政権を検証。「東アジア共同体」構想の条件を考察。開発、民主化、安全保障の相互連関について援助体制との関わりで検証。ARF(ASEAN地域フォーラム)の広域安全保障協力→大国のパワー・ポリティクスに対してASEAN Wayで運営の主導権をにぎろうとしているがなかなか難しい。

 木村福成・石川幸一編著『南進する中国とASEANへの影響』(日本貿易振興機構、2007年)は中国のASEANに対する経済活動を各国別に分析。中国は2003年に東南アジア友好協力条約に域外国として初めて署名して戦略的パートナーとなり、2004年にFTA調印、2005年7月から関税引き下げ開始(中国脅威論を払拭したいという意図)、具体的な経済活動でも2002年以降、中国の対ASEAN貿易、投資、経済協力は急激に増加している(背景には中国の走出去政策)。ただし、国や産業品目ごとに中国からの影響のあり方は違ってくるようだ。日系企業進出先では、少なくとも現時点では例えば自動車や機械製品では品質やアフターサービス、購買層の相違などで棲み分け(むしろ日系のライバル韓国)、ただしそれでも分野によっては中国からのキャッチアップに危機感があるらしい。

 石川幸一・清水一史・助川成也編著『ASEAN経済共同体──東アジア統合の核となりうるか』(日本貿易振興機構、2009年)。2003年の第二次ASEAN協和宣言では将来的な単一市場・共同市場を目標として掲げ、2007年11月に各国が署名、2008年12月に発効したASEAN憲章(従来、ASEANの存立根拠はバンコク宣言にあったが、憲章の制定により規範的明文化)では2015年にASEAN共同体の実現を期することになった。ASEAN共同体はASEAN安全保障共同体(ASC)・ASEAN経済共同体(AEC)・ASEAN社会文化共同体(ASCC)の三本柱から成るが、本書はAEC実現に向けた現在の取り組みを考察する。具体的には、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の活用(水平分業の強化と地場産業の競争力育成、市場規模拡大、世界的な自由貿易体制への準備を目的として関税削減)、非関税障壁への対処、サービス・投資・熟練労働者の自由な動きと相互承認協定(MRA)、知的財産制度(問題の多くは中国製のニセモノ)、新規加盟4カ国と先行加盟6カ国との経済交流、物流の円滑化、地球環境協力、日本の関与のあり方(中国リスク回避などの利点)などの論点が検証される。色々と問題はあっても具体的な議論を徐々に積み重ねながらAEC実現に向けた歩みは着実に進められている様子である。

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2010年11月11日 (木)

【映画】「小さな中国のお針子」

「小さな中国のお針子」

 文化大革命で四川省の山奥へと下放された二人の大学生と土地の少女(周迅)との関係を、ノスタルジックに淡い想いを込めながら描く。木々に覆われた隆々たる高原の風景の雄大さ、楽しげに笑いさざめく少女たちの美しさ、その一方で識字率が極端に低い迷信深い社会。彼らは少女にバルザックの小説を読み聞かせてやり、彼女は物語の魅力にのめり込み、そして外なる世界への憧れをつのらせていく。自我に目覚め、決心して故郷を捨てた彼女の行方は沿岸部か。その後のことははっきりとは分からない。素朴で余計なことは何も知らなかったからこそ純粋化された夢とあこがれ、しかし農民工として働く先でひょっとして挫折をかみしめているのではあるまいか、そうした想像をめぐらせていくと、四川の山奥で夢見ていた彼女の姿になおさらはかない美しさが感じられてくる。

【データ】
原題:Balzac et la petite tailleuse chinoise
原作・監督:ダイ・シージエ
2002年/フランス・中国/110分
(DVDにて)

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2010年11月10日 (水)

永積洋子『平戸オランダ商館日記──近世外交の確立』

永積洋子『平戸オランダ商館日記──近世外交の確立』(講談社学術文庫、2000年)

 1609年に開かれ1641年に長崎出島へ移転するまで平戸にあったオランダ商館。本書は、ここで商館長によってつけられていた日誌を読み解きながら、当時における貿易活動の具体的な様子やとりわけオランダ人と日本人とのやりとりが生々しく描かれていく。商館長のパーソナリティーによって日蘭関係が左右されてしまうこともあるし、日本側の機嫌を損ねないよう幕閣重臣に付け届けをしたり、日本の慣習に合わせようと苦心しているのも興味深い。

 カトリックの宣教師を帯同したポルトガル人とは異なり、オランダ人は商業目的と割り切っていた。しかし、キリシタン取締を厳しくしつつあった幕府の眼には同類に映っており、島原の乱でオランダ人の支援を依頼したのも、単に西洋式大砲を使いたかっただけでなく、日本人キリシタンへの弾圧にオランダ人が協力するかどうか踏み絵を踏ませる意図もあったようだ。ポルトガル人追放の決定と同時にオランダ人も平戸を退去して長崎出島へ移るように求められた。幕府側の要求にオランダ人は反対せず素直に従ったため、日本人はオランダ人に好意を持ち、信頼感を基に欧米人の中でも特別扱いするようになっていく。こうした信頼関係の中から、例えばタイオワン事件(交易上のトラブルから日本人の浜田弥兵衛がタイオワン[現在の台南安平]のゼーランディア城でオランダ人長官ノイエを捕らえ、オランダ人捕虜を連れて日本へ帰国した事件)のオランダ人捕虜釈放も進んだ。以後、「鎖国」下にある日本は出島のオランダ人を通して西洋世界と関わりを持つという外交関係が成立することになる。

 なお、著者は三木清の娘さんらしい。

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2010年11月 9日 (火)

榎本秋『ライトノベル文学論』、山中智省『ライトノベルよ、どこへいく──一九八〇年代からゼロ年代まで』、一柳廣孝・久米依子編著『ライトノベル研究序説』

 台湾に行ったとき書店の棚をじっくりと眺めるのが楽しみ。向こうでは日本の小説がせっせと翻訳されているのが目立つのだが、時々名前の知らない作家を見かける。日本風のペンネームを使っているのかなと思いきや、調べてみると実は正真正銘日本人のラノベ作家で結構売れっ子だったりする。こっち方面に疎いのもいかんな、と思ってお勉強のつもりで以下の三冊に目を通した。本来ならじかに作品を手に取るべきなのだろうが、何が面白いのかすら分からないから、やはり解説から読む。

 ライトノベルという言葉は2000年代以降に定着したらしい。関連するジャンルとしてSF、ファンタジー、ジュヴナイル小説、RPG、アニメなどがあり、これらを取っ掛かりとしながら何となくイメージはわくにしても、ライトノベルと一括りにされる中に含まれるジャンルが幅広くて明確な線引きが難しい。以下の本を読みながら振り返ってみると、私はかろうじて高畑京一郎『タイム・リープ』(電撃文庫、1995年)、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫、1998年)は読んだ覚えがある。特に後者はライトノベルの歴史で一つの画期点をなすほど評価されていたのは知らなかった。

 榎本秋『ライトノベル文学論』(NTT出版、2008年)はライトノベルをめぐる概況がすっきりと整理されて読みやすく、取っ掛かりとしてはありがたかった。本書ではとりあえず中高生向きの娯楽小説として定義の出発点が立てられるが、中高生をメインターゲットとして幅広い読者を獲得するため表現のどぎつさを抑えて好感度アップに配慮した普及品と、他方でアニメ・コミック専門店やネット書店の普及により作家性を強調した専門品との二極化の流れもあるようだ。山中智省『ライトノベルよ、どこへいく──一九八〇年代からゼロ年代まで』(青弓社、2010年)はライトノベルがどのような経緯をたどって社会的に受容されていったのか(例えば、オタク的なコアな部分がある一方で、桜庭一樹、乙一、有川浩のように一般文芸との境界がなくなっている)、その変遷が出版動向や評論に現れた言説などを通して分析される。一柳廣孝・久米依子編著『ライトノベル研究序説』(青弓社、2009年)は研究会の報告成果をまとめた形式で、様々な論者の視点からまじめに考察が加えられている。

 いくつかメモしておくと、イラストやキャラクター性の重視。オタク文化とのつながり→一種の敷居の高さ。「セカイ系」という指摘(笠井潔)→「キミとボク」性(例えば、戦闘美少女と無力な少年)→日常と異常(戦争)との間に本来あるはずの社会領域の欠如という特徴。メディア・ミックスなど出版側の戦略。かつては高校卒業程度でライトノベルも卒業→別の文芸作品を読む、さもなくば本を読まなくなる、というパターンがあったが、ライトノベルを読み続ける大学生や社会人が増えた→装丁などそれに合わせた変化。

 華語圏のいわゆる網路作家のある部分は日本でいうライトノベルと親近性を持つのかどうか気になっているのだが、どうなのだろう。

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2010年11月 8日 (月)

渡辺靖『アフター・アメリカ──ボストニアンの軌跡と〈文化の政治学〉』『アメリカン・コミュニティ──国家と個人が交差する場所』『アメリカン・センター──アメリカの国際文化戦略』

 渡辺靖『アフター・アメリカ──ボストニアンの軌跡と〈文化の政治学〉』(慶應義塾大学出版会、2004年)は、アメリカ・ボストンにおける二つの社会階層、具体的にはアングロ・サクソン、プロテスタントで構成される中上流階層のいわゆるボストン・ブラーミン(カースト最上層のバラモン)と、カトリック中心の中下流階層のボストン・アイリッシュ、それぞれの人々にインタビュー、彼らの人間関係やセルフ・イメージを聞き取りながら、現代アメリカ社会の一側面を垣間見ていく文化人類学的な民族誌である。彼らは歴史・伝統・慣習などを意識している一方で、現代社会の複雑な変化をいかに内面化しながら日々の社会的現実を構成しているのかが描き出される。調査を進めながら、人間は社会構造に規定された存在である一方、それぞれの個人によって多様な日々の生活実践の中で構造的要因も能動的に変容され得る様子を汲み取ることで、客体主義・主体主義のいずれにも陥らない「ひざまずかない解釈主義」という研究方法上の含意も引き出される。

 同『アメリカン・コミュニティ──国家と個人が交差する場所』(新潮社、2007年)は、アメリカの九つの都市(中にはゲーティド・コミュニティ、メガチャーチ、刑務所の町、東サモアなども含まれる)を訪れながらアメリカ社会の多面的な姿をうかがう。アメリカ社会にけるコミュニティの維持・生成・再生という側面をどのように見ていくかという問題意識が示される。多様な価値観がアメリカの特徴ではあるが、そこに通底する資本主義・市場主義の論理と何らかの形で向き合っているという点では共通するようだ。

 同『アメリカン・センター──アメリカの国際文化戦略』(岩波書店、2008年)は、アメリカのパブリック・ディプロマシーを検討、具体例として対日関係が多くを占めるため、パブリック・ディプロマシーという観点から見た日米関係史としても興味深い。パブリック・ディプロマシーとは、広報活動、文化活動、心理作戦、思想戦、世論外交、開かれた外交等々、場面に応じて様々な意味を持ち得る幅広い概念であるが、国家間の伝統的外交や市民同士の民間交流とは異なり、政府が相手国の民間レベルへ働きかけることを通して何らかの政策目標の実現を図る活動と言えるだろうか。単なるプロパガンダではかえって相手国との距離を広げて結果として外交が失敗しかねないわけで、相互理解を通して政策の説得力を強めるところに重点が置かれる。

 なお、上掲書のいずれもロバート・パットナムのソーシャル・キャピタルとジョゼフ・ナイのソフト・パワーに言及、社会科学で数理モデル中心の合理的選択理論が隆盛するなか、こういった計量化の難しい概念を言語化して社会科学的議論のプラットフォームにのせた点で共通していると指摘されていたことをメモしておく。

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2010年11月 7日 (日)

青木健『ゾロアスター教』『アーリア人』

青木健『ゾロアスター教』(講談社選書メチエ、2008年)

 ゾロアスターという名前を見ると、私などはまずニーチェのツァラトゥストラやモーツァルト「魔笛」のザラストロなどヨーロッパでの脚色を経た神秘的イメージを思い浮かべたり、もしくは西域伝来の祆教にエキゾチックな興味をかき立てられたりしていた。対して本書は、古代アーリア人の信仰観念の中から現れた土俗性の強い宗教としてのゾロアスター教の興亡を描き出し、あわせて後世に伝説化されたゾロアスター像の虚実も検討される。また、古代アーリア人の宗教としての原始ゾロアスター教の置かれた歴史的脈絡を相対化するため、同様の派生形としてイラン高原におけるミスラ教、太陽崇拝、アルメニア人の宗教(エチミアジンのキリスト教教会の地下にはキリスト教によって抹殺された「異教の女神」の神殿が埋まっているらしい)、クルド人のヤズィード教なども取り上げられる。

 多神教信仰と階級制度を特徴とする古代アーリア人社会に生まれた神官ザラスシュトラ・スピターマは独創的な宗教改革を行い、従来の神々とは全く異なるアフラ・マズダーという神格を創案、「この世は善と悪の闘争の舞台であり、人間存在は善の戦士である。世界の終末には救世主が現れて、必ずや善が勝利するであろう」という二元論的な宗教観念を提示した。何が「善」であるのかについては土俗的な先験性に基づくため現代の我々には了解しがたいところも多いが、少なくとも善悪の弁別=理性的な倫理宗教がこの時点で世界史上初めて成立、終末論思想や救世主思想など後代に及ぼした影響も大きい。

 イランもイスラーム化した後、ヘルメス思想やプラトン哲学の影響も受けたイスラーム神秘思想家たちが「光の叡智を唱える神秘的なザラスシュトラ」像を作り上げて敬意を払い、これを当のゾロアスター教徒自身も信じ込んで教祖像に神秘的なオーラがかかってしまった。これがルネサンス以降のヨーロッパに流布したという経緯があるらしい。古代アーリア宗教のイスラームに対する影響としては、聖典朗誦への愛着(古代アーリア人にとって聖典は聖呪から発展したものなので、不断に朗誦することで効果を期待)、歯磨きが好き、緑色が好きといった点があげられている。

青木健『アーリア人』(講談社選書メチエ、2010年)

 アーリア人という言葉を耳にすると、ナチズムをはじめ二十世紀における人種主義イデオロギーとの結びつきを連想してしまうし、著者自身もそれを危惧したらしいが、もちろんそういう趣旨の本ではない。十八世紀以降、インド・ヨーロッパ語族の共通性を明らかにした比較言語学の進展は学術的には正当なものであるが、それは政治的意味づけとは次元の異なる問題である。本書は、古代オリエント文明からイスラーム時代時代の間にあってユーラシア大陸を舞台に壮大な民族移動を繰り広げたイラン系アーリア人の動向をトータルに俯瞰、整理してくれる。

 文字資料を遺さなかった遊牧民については主要文明の文献に散見されるわずかな記述や考古学的知見から間接的に推測するしかないし、また文字資料を遺した定住民についても様々な困難がある。同一系統の言語のバリエーションで表記されてはいるが、それぞれの方言ごとに異なった文字を用い、しかもそれらはアーリア系言語にフィットしていないため解読作業自体に難渋する(例えば、古代ペルシア人は楔形文字、パルティア人はアラム系文字、バクトリア人はギリシア文字、中世ペルシア人・ソグド人・ホラズム人はそれぞれアラム語起源のパフラヴィー文字、ソグド文字、ホラズム文字、ホータン・サカ人はインド系のブラーフミー文字を用いた)。それだけ様々な語学知識や各分野の方法論を知悉していなければ研究は進まない。史料的制約といい、民族移動の複雑さといい、彼らの足跡をたどる作業はピースのかけたパズルのように困難極まりないが、それだけ研究者の知的好奇心をかき立てるのだろう。

 上掲『ゾロアスター教』にしてもそうだが、両著とも高度に専門的な内容でありつつも叙述はよくかみくだかれている。著者はかなりできる人のようだ。

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2010年11月 6日 (土)

春日孝之『イランはこれからどうなるのか──「イスラム大国」の真実』、宮田律『アメリカ・イラン開戦前夜』

春日孝之『イランはこれからどうなるのか──「イスラム大国」の真実』(新潮新書、2010年)
 著者は毎日新聞のテヘラン支局長を務めた経験があり、特派員としてイランの人々と話をした感触を基にイランの政治社会の内在的な考え方を見つめようという姿勢を持っているので興味深く読んだ。関心を持ったポイントを箇条書きしておくと
・イランではイスラムだけでなく、古代ペルシア帝国に思いを馳せるナショナリズムも国民統合のロジックとして活用し始めている(イスラム革命初期にはナショナリズムは否定されていた)→アラブ人に対する優越意識。アメリカ映画「300」「アレクサンダー大王」で描かれたペルシア人イメージに不快感。
・「シオニスト」と「ユダヤ人」の区別。前者はイスラエルという侵略者なので否定する一方で、イラン国内に住むユダヤ人への配慮。イラン在住ユダヤ人は、キュロス大王がバビロン捕囚からユダヤ人を解放したという歴史を語る。
・イラン人は本当はアメリカ文化が好き。
・ウソも平気で使う生活感覚→極端な言動も額面どおりには受け止められない。アフマディネジャドの放言癖はイラン国内でも不評。「ホロコーストはなかった」等の発言→単に思いつきで口走ったものが、予想外に海外から大反響があったので味をしめただけではないか?

宮田律『アメリカ・イラン開戦前夜』(PHP新書、2010年)
 タイトルは挑発的だが、アメリカとイランとがすれ違ってしまうそれぞれの内在的要因、具体的にはアメリカにおけるネオコンやユダヤ・ロビーの活動、イランにおける反イスラエル・イデオロギー、核開発問題、革命防衛隊、他方で改革派の動向などについて整理してくれる。アメリカの同盟国であると同時に中東諸国から受けの悪くない日本の積極的な中東関与の必要が指摘される。

なお、イランをめぐる情勢に関して最近読んだ本を以下に箇条書き。
・レイ・タケイ『隠されたイラン──イスラーム共和国のパラドックスと権力』Ray Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic, Holt Paperbacks, 2007→こちら
・レイ・タキー『革命の守護者:アヤトラたちの時代のイランと世界』Ray Takeyh, Guardians of the Revolution: Iran and the World in the Age of the Ayatollahs, Oxford University Press, 2009→こちら
・ヴァーリ・ナスル『ザ・シーア・リヴァイバル:イスラム内部の衝突がいかに未来を決めるか』Vali Nasr, The Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future, Norton, 2007→こちら
・ジョン・W・リンバート『イランとの交渉:歴史の亡霊に取り組む』John W. Limbert, Negotiating with Iran: Wrestling the Ghosts of History, United States Institute of Peace Press, 2009→こちら
・スティーヴン・キンザー『すべてシャーの臣:アメリカによるクーデターと中東テロの起源』(Stephen Kinzer, All the Shah’s Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror, John Wiley & Sons, 2008→こちら
・スティーヴン・キンザー『リセット:イラン・トルコ・アメリカの将来』Stephen Kinzer, Reset: Iran, Turkey, and America’s Future, Times Books, 2010→こちら

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伊勢﨑賢治『国際貢献のウソ』

伊勢﨑賢治『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書、2010年)

 現場経験豊富な著者がNGOのマネジメント、国際協力ボランティアのあり方、硬直化した国連のジレンマ、ODAのあり方や自衛隊の使い方についての提言といったテーマで語る。タイトルは「暴露もの」風でやや挑戦的。もちろん、著者が何者か知っていれば誤解することはないだろうが、「国際貢献」「ボランティア」といった言葉で一般に流布された精神論的な聖なるイメージではかえって問題のありかが誤解されかねないという問題意識が込められている。現場ではミッションの目標をとにかく効率的かつ着実に実現させる必要があるわけで、割り切ったマネジメントの感覚が求められるという指摘は建設的だ。

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2010年11月 5日 (金)

【映画】「マザー・ウォーター」

「マザー・ウォーター」

 そろそろ桜の花もひらこうとする季節、古びた家もまじる京都の商店街で何とはなしにつながりを持つ人々。ストーリーをたどっても、取り立てて何かが起こるわけではない。ただ、静かに穏やかな空気の中でやわらいだ落ち着き、その純粋型を取り出して映像に仕立て上げたという感じだ。この人たちはどうやって生計を立てているのだろう?なんて突っ込みは野暮。しょせん虚構に過ぎないとは思いつつも、映像から流れ出てくるゆったりとした空気に身を任せていればそれでいい。

 職場を出る間際に朝日夕刊をパラパラめくっていたら、ナイーブなゆるさにイラつくという趣旨の辛口な映画評を見かけたので、映画館に入るまで少々不安だった。実際に観てみると、思っていたほど悪くはない。少なくとも私は嫌いではない。ただ、観る人の性格やその時の気分によって反応は大きく分かれそうだ。まったりとした空気そのものに馴染めない人には退屈だろう。気分が滅入っていて心を落ち着けたい場合なら良いと思うが、攻撃的に内向した苛立ちを抱えている場合にはかえって癇に障って逆効果かもしれない。

 ロハス志向の人には受けるのか、観客の大半は若い女性で占められていた。キャスティングの顔触れといい、さり気なく出てくる食べ物や飲み物をいかにもうまそうに見せる演出といい、荻上直子映画のコピーに過ぎないのではないかという印象も受けた。

【データ】
監督:松本佳奈
出演:小林聡美、小泉今日子、加瀬亮、市川実日子、永山絢斗、光石研、もたいまさこ
2010年/105分
(2010年10月5日、シネスイッチ銀座にて)

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2010年11月 4日 (木)

边境的甘地,穆斯林的非暴力主义

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  我看过一张照片,像大树一样高的人跟莫罕达斯•甘地(Mohandas Gandhi)一起在谈话。他有很大的身体和很凛然的胡须,但是目光很温和,这个对照很有魅力。我以前在李察•艾登堡禄(Richard Attenborough)拍的奥斯卡最佳影片奖(Academy Award for Best Picture)电影《甘地传》里看过他的姿态。

  他叫Khan Abdul Ghaffar Khan(1890~1988),是普什图人(Pashtun,在阿富汗和巴基斯坦住的民族),很虔敬的穆斯林。他在英领印度殖民地的西北边境省(现在巴基斯坦领)跟甘地呼应开展非暴力主义运动,所以人们叫他“边境的甘地”。很多人们思慕他很清贫的生活态度和很诚实的人品。

  Khan在白沙瓦(Peshawar)近郊的富裕地主家庭出生。他毕业英国人经营的基督教学校以后,入了英国殖民地的军队。普什图人由于尚武的风尚很有名,他盼望跟英国人在对等的立场活跃。但是歧视的情况把他的愿望打破了。英国人的恩师劝他去英国留学,不过他的母亲反对得可激烈了,所以他死了心。Khan的哥哥Saheb先去英国学习医学,跟英国人结婚。母亲说:“他已经不是穆斯林了”。

  很年轻的Khan苦恼很深。他一边学习伊斯兰的教义,一边思量普什图人的将来。普什图人受英国的压迫,有的普什图特权阶级跟英国协作。另一方面,守旧的宗教领导(mullah)搁置人们的贫困、无知、暴力和没有独立精神的情况。我要做什么?他想首先开始教育。但是Khan的进步思想导致了殖民地当局、守旧的宗教领导、双方的敌意,所以他不能招集到学生。

  甘地是那个时候从南非回国的。Khan听到甘地的传说,他关心甘地的清贫生活态度。Khan苦恼自己的思想模糊,但是他一跟甘地主张的非暴力主义共鸣,他的思想就明确了。Khan主动向很多的人们讲非暴力主义。他的心情是宗教的,但是他也主张近代改革的必要。为了恢复普什图民族的自尊心,他发行了自己言语的报纸。

  普什图人由于尚武的风尚很有名,但是因为他们很粗野的习惯(比如说血腥复仇)被轻蔑。Khan认为这么风俗的根源是人们的无知。另一方面,他想在尚武的风尚中看出来一些美德,比如说牺牲自己,有耐心,有勇气。我们要给这些美德怎么意义?Khan的答案是非暴力主义。他招致年轻人组织Khudai Khidmatgar(上帝的奴仆),是非暴力主义的战士、没有武器的义勇军。

  那个时候英国殖民政府在印度实施食盐专卖制度。印度的人们要付很贵的钱买生活必需品,觉得非常不满。英国政府的法律不讲理,印度人都不想服从。一九三十年甘地一开始食盐进军, Khan就在西北边境省率领Khudai Khidmatgar呼应甘地的食盐进军。英国军队攻击Khudai Khidmatgar,很多的队员死伤了,但是他们不反击。英国人被他们的沉着态度震惊了,印度人鼓起勇气了。英国殖民政府逮捕Khan,不过Khudai Khidmatgar坚持非暴力主义。英国当局施加压力,支持Khan的人们增多了。

  印度国民大会党跟英国政府妥协的时候,很多的政治犯获释了。Khan也是这些人们之一。但是英国殖民政府不许他回西北边境省,所以他在甘地的家住。Khan跟甘地在那儿一起工作常常谈话,他们互相收获很大。一九三七年实施地方选举的时候,Khan的哥哥Saheb当选为西北边境省长(他从英国回国跟弟弟协作),然后Khan可以回西北边境省了。

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  一九四七年英国殖民统治结束,印度和巴基斯坦、两个国家一起独立了。但是甘地和Khan反对两个国家的分离。英国统治在印度留下了于“分而治之”根源的对立感情。印度教徒和穆斯林的关系非常险恶,就发生暴动了。Khan跟甘地一起去各地努力劝说非常兴奋的人们安静。在西北边境省穆斯林是多数派、印度教徒是少数派。两个集团的对立也很险恶了,那Saheb号召Khudai Khidmatgar保护印度教徒。不过分离独立的路线不变。一九四八年甘地被暗杀。

  Khan的故乡、西北边境省归属巴基斯坦,不过普什图人住的范围根据巴基斯坦和阿富汗的国界分离。Khan主张普什图人都在一个国家一起住,实施民主的自治。因为这些主张对两国政权不好,那他根据背叛罪被逮捕好几次,有关Khudai Khidmatgar的人员都被镇压了。

  一九八八年Khan在白沙瓦(巴基斯坦的城市)的医院去世。他的遗言是,他想把他的遗体埋葬在贾拉拉巴德(Jalalabad,阿富汗的城市)。一九七八年苏联侵入阿富汗以后国内情况很混乱。但是送葬Khan的那天各个势力都停火了。

  苏联侵入阿富汗以后内战发生了,这些情况让很多的难民离开故乡逃去巴基斯坦的西北边境省。没有父母的孩子们是在那儿的难民营成长的,非常恶劣的生活环境让有的孩子们加入了塔利班(Taliban)。塔利班的活动有很过激的行为,所以最近有的论者对伊斯兰在原教旨主义和恐怖主义的脉络理解。但是普什图人不只有塔利班,还有Khan和Khudai Khidmatgar。伊斯兰也有宽容和非暴力主义的思想,但知道的人们很少,我觉得很遗憾。

  以上、中作文の練習。大意は以前に日本語でこちらに書いたのと同じなので参照のこと。

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2010年11月 3日 (水)

田代和生『書き替えられた国書──徳川・朝鮮外交の舞台裏』

田代和生『書き替えられた国書──徳川・朝鮮外交の舞台裏』(中公新書、1983年)

 文禄・慶長の役の後、関係修復が図られても日本・朝鮮双方の主張が食い違う中、仲介をした対馬の宗氏が国書の問題となりそうな箇所を改竄して交渉を継続、以後、この方式が定着したことはよく知られている。

 ところが、宗氏の当主義成と不和であった家臣柳川調興が国書改竄・偽造の事実を幕閣に暴露、宗氏内部の御家騒動が外交問題にまで発展してしまった。柳川氏は宗氏の家臣であると同時に、対朝鮮外交で示した手腕が評価されて幕府からも領地を拝領するという特殊な立場にあり、直参旗本になるため宗氏に対してたびたび領地返還を願い出ていた。ここには、幕府直参として対朝鮮外交を一手に行ないたいという柳川調興の野心があったのだが、幕府は柳川ではなく宗氏の方を選んで事件を落着させる。当時、朝鮮は宗氏を「朝貢国」になぞらえた外交儀礼を行なっており、宗氏もこれを受け入れることで特権的な立場を保持していた。言い換えると、小中華意識を持つ朝鮮と日本、双方の間でワンクッションおく結節点に対馬の宗氏が立つことで日朝間の外交が成立しているという事情を幕府は重視したのである。御家騒動をめぐる人物群像のやり取りを活写、そこから当時における東アジア国際秩序の一端が垣間見えてくる。27年前に出た本だが、いま読んでも面白い名著である。

 松方冬子『オランダ風説書』を読み、長崎通詞が情報の取捨選択という形で幕府と外国との異なるロジックのトランスレーターをしていたことから、そういえば日本と朝鮮との間でも対馬の宗氏が似たようなことをしていたなと思い返し、手に取った次第。

 田代和生『倭館──鎖国時代の日本人町』(文春新書、2002年)は江戸期日本の対朝鮮外交の最前線となっていた釜山の倭館の日常を詳細に描写している。例えば、食文化交流史などの点でも面白い。本草学に関心を持った徳川吉宗の命令で朝鮮半島の動植物を調べに行ったことなどは初めて知った。

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松方冬子『オランダ風説書──「鎖国」日本に語られた「世界」』

松方冬子『オランダ風説書──「鎖国」日本に語られた「世界」』(中公新書、2010年)

 「鎖国」政策をとっていた江戸時代の日本にとって東アジアよりもさらに広い世界情勢をうかがう覗き穴の役割を果たしていたオランダ風説書。1641年以降、200年以上にわたって国際情勢を定期的に報じ続けたメディアという点では世界史的にも珍しいものだろう。

 本書ではオランダ風説書が三段階に分けて検討される。「通常の」風説書は、まず長崎の通詞とオランダ商館長とがまとめるべき内容を相談し、下書き、加除修正、清書した上で幕府へと送付された。相談しながら情報を取捨選択していたのでこの際には原本などはなかった。ところが、アヘン戦争など東アジア情勢の激変を受けてバラフィアのオランダ政庁は対日貿易方針を見直し、商館長の裁量には任せず正確な情報を日本側に伝えようと考えた。政庁側で作成された時事ニュース的な書類が長崎に送付され、これを通詞が翻訳(別段風説書)。見慣れぬ用語がたくさん出てきたので翻訳は難航したらしい。1858年の和親条約締結を機に別段風説書の送付は中止されたが、それでも情報を欲しがる幕府のため、最後の風説書は長崎商館が新聞などを基に独自に作成、これが第三類型とされる。

 オランダ側には貿易独占のためポルトガル、イギリスなど競争相手の動向を「告げ口」しようという思惑があり、他方で幕府側には当初はカトリック宣教師の密入国阻止、さらには国際情勢の知識入手自体にオランダとの交易の利点を見出し、双方の思惑の一致したところで風説書は継続されていた。第一に、幕府の「鎖国」政策における「仮想敵」がカトリックから次第に「西洋近代」へと移行したことで日本の防備の弱さを幕府自身が認識するようになっていたこと、第二に、長崎という都市と通詞の存在が幕府と外の世界とを結ぶ緩衝材的な役割を果たしていたこと、以上の様子がうかがえるのが興味深い。

 なお、江戸幕府の対外政策については最近、ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史第9巻、小学館、2008年)、大石学『江戸の外交戦略』(角川選書、2009年)を読み、いずれも興味深かった(→こちら)。

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平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか──金正日 破局へ向かう「先軍体制」』、アンドレイ・ランコフ『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』、綾野『中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”』

 平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか──金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書、2010年)は金正日の権力掌握過程の描写を通して北朝鮮の問題点を浮き彫りにする。彼は金日成から徐々に権限を受け継ぐ一方で、「主体思想」と並ぶ指導理念として「先軍思想」を掲げ、自らの権威付けも図っていく。ただし、「先軍政治」による軍の肥大化は、彼がもう一つ掲げる「強盛大国」に必要な民生部門を掘り崩しており、両立は不可能である。誰が後継者になるにしても、ポスト金正日体制で改革を断行すると大きな混乱が生ずるだろうという。金正日自身も世襲ではあるが、彼は身内のライバルを蹴落としながら奪権したという自負があり、それだけの「政治的」実績を持つ者は後継者候補の中にはいない。金正日は目的のためには手段を選ばないという意味ではプラグマティストである。絶対的な権力を掌握している彼が存命中のうちに改革や対外関係改善の流れをつくっておかねばどうにもならないと指摘される。訪朝時に目撃したという「年齢破壊現象」はショッキングだ。「苦難の行軍」の時期に生まれた子供たちは栄養不良の中で成長したため、知能・体力等の低下が著しいという。仮に体制崩壊、南北統一となっても、金正日体制による負の遺産は当分の間引きずらざるを得ないのは間違いない。

 同盟国であったはずの中国やソ連でも北朝鮮の極端なまでのスターリニズム体制には異様なものを感じ、軽侮の対象にすらなっていたらしい。下掲ランコフ書によれば、ソ連で売り出されていた北朝鮮の自国宣伝の雑誌はロシア市民に好んで読まれていたという──共産主義のカリカチュアとして笑うために。北朝鮮からソ連に来た人はたとえモスクワでも自由を感じ、北朝鮮当局はソ連・中国ですら亡命者を誘発するとして監視に怠りなかった。

 アンドレイ・ランコフ(鳥居英晴訳)『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』(花伝社、2009年)の著者は1984年にソ連から交換留学生として金日成総合大学に留学、その後はレニングラード大学、オーストラリア国立大学、現在は韓国の国民大学で教鞭をとっており、北朝鮮・韓国双方の事情を知悉した上で北朝鮮事情を分析、本書も留学時の見聞も踏まえながら日常生活から政治・経済システムまで網羅した現代北朝鮮概論となっている。抑圧的な体制下でも何とか生活をやりくりする人々の姿を紹介する一方で、やはり成分による差別、「ビッグ・ブラザー」の監視など暗い影は否めない。拉致、日本人妻、脱北者などの話題にも触れている。一つ気にかかったのは脱北者について。1970~80年代は脱北者が少なかく宣伝価値があったので厚遇され、また脱北の機会のあった人たちはみなエリート階層の出身だった(海外勤務、軍人、パイロットなど)のに対し、1990年代からは中国経由の脱北者が多数韓国へ流れ込み、宣伝価値は低下。エリート出身者はもともと技能を持っているので韓国社会でも成功は可能であったが、一般庶民層は韓国の競争社会に適応できず、一つの社会問題になっている。このことを踏まえ、仮に北朝鮮の体制移行があったとしても、指導的地位に就くのは現体制を支えるエリート階層出身者となる、「偉大なる首領様万歳」がそのまま「民主主義万歳」となり、秘密警察出身者が企業経営者になったりという事態が考えられる(ソ連・東欧圏の崩壊も考慮)。現体制が自由化を進めたらその時点で体制崩壊が起こるだろう、従ってそのことに気づいている現体制は一般庶民の苦しみを無視するからこそ支配体制は安定しているという逆説も指摘される。

 綾野(富坂聡編訳)『中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”』(文春新書、2008年)は、中国の現役軍人による北朝鮮情勢分析レポート。金正日の瀬戸際外交に中国も振り回されていることを指摘しているので、中国では公刊されなかったらしい。北朝鮮の「先軍政治」は民生部門に大きな打撃を与えており、資本主義的な改革開放を進めるにしても、肥大化した軍の既得権益とぶつかるので軍の反発が予想され、改革を強引に進めたら政権崩壊を招くだろう。もちろん、現状で立ち行くはずもない。日本外交については、日本は北朝鮮を脅威視する一方で、北朝鮮は日本を恫喝すれば済むと考えているという非対称性が指摘されている。

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趙甲済『朝鮮総督府・封印された証言』

趙甲済(姜昌萬訳)『朝鮮総督府・封印された証言』(洋泉社、2010年)

 タイトルを見て朝鮮総督府の機構内部に関する内容なのかと思ったらそうではなくて、日本による植民地支配の時代につながりができた日韓の人脈関係を取材したレポート。戦後の韓国政府に入った朝鮮総督府の官吏や警察、軍人の軌跡、伊藤博文の孫へのインタビュー、一進会で日韓合邦運動を進めた李容九の息子・大東国夫の晩年、瀬島龍三のことなど。日本の植民地支配に対する批判の一方で、むしろ「親日派」疑惑を政治利用する韓国内の進歩派に対する異議申し立てという問題意識の方が強い。そう言えば、この著者の書いた朴正熙の評伝をむかし読んだ覚えがあるが、進歩派批判という点では一貫しているのか。学生のとき、林鍾国『親日派』という本を図書館でたまたま見つけて好奇心で手に取ったが、徹頭徹尾糾弾口調なのにおそれをなした覚えがある。このあたりにテーマを日本人の立場で論評するのは難しそうというか、面倒くさそう。

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2010年11月 1日 (月)

【映画】「クロッシング」

「クロッシング」

 ニューヨーク、ブルックリンの犯罪多発地域では、白人警官が黒人青年を射殺した事件に住民が反発して騒然としている。この地域を管轄するニューヨーク市警の警察官三人。定年退職を間近に控えたエディ(リチャード・ギア)は、役立たずの自分に対して自己嫌悪を感じているが、ある日、拉致されて行方不明となっている女性を見かけ、連れ込まれた先へとつけて行った。家族のために大きな家に引っ越したいのだが資金繰りに悩んでいるサル(イーサン・ホーク)は、マフィアのアジトの強制捜査のどさくさにまぎれて金を盗もうと思っていたが、ある日、作戦が中止、やけになって一人で強奪に行った。マフィアの大物キャズ(ウェズリー・スナイプス)の下におとり捜査で潜り込んでいるタンゴ(ドン・チードル)は、信頼していたキャズが殺され、その報復を心に決めた。同じ市警に勤務しながら接点がなかったが、奇しくも同じ日、同じ場所に向かった三人、それぞれの運命が交錯する。

 アントワーン・フークワ監督の映画では以前にデンゼル・ワシントン、イーサン・ホーク主演の「トレーニング・デイ」を観たことがあるが、悪徳ベテラン刑事と新米刑事との立場が逆転して様がスリリングに描かれてとても面白かった覚えがある。この「クロッシング」も単なるクライム・サスペンスというよりは、三人それぞれの心の軌跡を描くヒューマン・ドラマとしてよく出来ている。社会派的背景を持った群像劇という点では、例えばある事故をきっかけに人種の坩堝としてのアメリカの姿を浮き彫りにしたポール・ハギス監督「クラッシュ」に興味を持った人ならこの映画も面白く感じるかもしれない。

【データ】
監督:アントワーン・フークワ
2008年/アメリカ/132分
(2010年10月30日、新宿・武蔵野館にて)

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菊池俊彦『オホーツクの古代史』

菊池俊彦『オホーツクの古代史』(平凡社新書、2009年)

 唐の長安に流鬼国なるところから朝貢使節が来たという記述が中国の史書にあり、この流鬼国のさらに北には夜叉国なるものがあったという。流鬼国とは何か、カムチャツカ半島にあったのか、それともサハリンにあったのか? 本書は、文献史学や考古学の成果を踏まえて従来の学説に一つ一つ検討を加える作業を通して、環オホーツク海古代文明の輪郭を浮き彫りにしていく。オホーツクの古代文化にはいまだに謎が多いようだが、この海域にも様々な文化の交流があったこと、北東アジアの民族興亡からの影響もあったことが少なくともうかがえる。北方文化については日本史のスタンダードから外れるからだろうが、興味は感じていても手頃な類書がなくて、ちょっと勉強してみようという気持ちはおこらないままだった。地味ではあるがこういう本はありがたい。

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【映画】「1978年、冬。」

「1978年、冬。」

 1978年、文化大革命の混乱もそろそろ終息しようかという時期。舞台は中国北部の工業都市。ほこりっぽい工場の煙突からは濛々と煙が立ち上り、風景の寒々とした印象を一層強めてくる。父が反革命分子として下放されて知人に預けられる形で北京から来た少女と、彼女の垢抜けた美しさに憧れを抱く兄弟。

兄は工場勤務をいつもさぼって不良と罵られている。ラジオをいじっているのは狭い街から抜け出して外の世界を見たいという鬱屈した気分の表れであり、北京から来た彼女への憧れにもそうした気持ちが関わっているのだろう。工場街の光景は無機的で冷たく、しかも季節は冬である。しかし、少年・少女それぞれが抱える、息苦しさの中でのもがきと淡い恋心との絡まった心象風景として重ね合わせてみると、そこからはパセティックな感傷が静かに浮かび上がってきて、この冷たい風景も実に美しく感じられてくる。ヒロインの沈佳妮が醸し出す清潔感あるかわいらしさも目を引いた。

【データ】
原題:西幹道
監督:李継賢
2007年/中国・日本/101分
(DVDにて)

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【映画】「幸せはシャンソニア劇場から」

「幸せはシャンソニア劇場から」

 1930年代のパリ、人民戦線のレオン・ブルムが首相に就任する一方、ファシストが集会を開くなど落ち着かない不景気な世情、そうした中でシャンソニア劇場も財政難から閉鎖を迫られていた。行き場のない失業者たちが集まって劇場再出発に乗り出し、ある日やって来て出演することになった少女の歌声が評判を呼ぶ。劇場再建に人生を賭けた人々の人間模様を描いたヒューマン・ドラマ。ところどころ挿入されるミュージカルが彩りを添える。ストーリーの盛り上げ方のテンポが良くて、なかなかよく出来ていると思う。

【データ】
原題:Faubourg 36
監督:クリストフ・バラティエ
2008年/フランス/120分
(DVDにて)

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【映画】「ジャスミンの花ひらく」

「ジャスミンの花ひらく」

 1930年代、映画女優を夢見た少女・茉、映画会社社長の愛人になったが、戦火拡大の混乱の中、捨てられてしまう。その娘の莉は中華人民共和国建国後に優良党員と結婚するが、生活境遇の違いや不妊の悩みから不和となり、夫婦ともに自殺してしまう。残された養女の花は祖母の茉によって育てられるが、花もまた日本に留学した夫から離婚を求められる。ジャスミン=茉莉花から名前をとった祖母=茉、母=莉、娘=花をチャン・ツーイーが一人三役、茉の母と年取った茉はジョアン・チェンが一人二役。要するに、女三代、男運が悪かったね、という程度の話。ストーリー的に大した深みはない。メガネっ娘チャン・ツーイーに萌え。それだけ。

【データ】
原題:茉莉花開
監督:侯咏
2004年/中国/129分
(DVDにて)

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