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2010年11月28日 (日)

保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952─1966』

保城広至『アジア地域主義外交の行方:1952─1966』(木鐸社、2008年)

・1950~60年代にかけて日本政府はアジアにおける地域枠組み形成の働きかけを行なっていたが、そのほとんどは失敗した。このとき、日本政府の意図は何だったのか、なぜうまくいかなかったのかという問題意識をもとに、本書は一次資料に基づいて吉田政権末期から佐藤政権までに立てられた地域主義構想について実証分析を進める。かつての「大東亜共栄圏」、昨今の「東アジア共同体」をめぐる議論、この両者の間は必ずしも空白だったわけではなく、政策形成当事者の思惑をたどり返すことでこの時期にも連続していた「アジア主義」的志向が浮き彫りにされ、論点として提示される。

・アメリカ反共政策の軍事偏重が独立したばかりのアジア諸国のナショナリズムを刺激していることを日本は憂慮、西欧とアジア諸国との間に対立的な緊張関係があるという認識→アメリカから大量の資金投入を前提としつつも、日本が橋渡し役となって「アジアによるアジアのための経済開発」という方針を示した。すなわち、日本は「アジアの一員」+「西側先進国の一員」=「戦後アジア主義」と定義した構図で捉えられる。

・「大東亜共栄圏」における「アジア主義」は、欧米という他者との対決→アジアの一体性という言説を組み立てていた。対して、「戦後アジア主義」には、他者としての欧米への攻撃性は消えた一方、アジア連帯意識は継続。ここにアメリカとの協力枠組みが加わって成立。

・「アジアによるアジアのための経済開発」というスローガンは、日本を含むアジア諸国が主にアメリカの資金提供の下で経済的な地域協力を行なうという枠組み→「アジア地域主義外交」と定義。アメリカの存在感が強まることへのアジア諸国の反発を懸念して、日本が介入→アメリカからの資金導入の政治性を薄める→結果として(岸政権における)日本の自主外交のようにも見えた。しかし、言い換えると、資金提供者としてのアメリカのアジア政策と連動→アメリカの協力がない局面では挫折。また、アジア諸国の反応も一様ではなく、独立後間もないため地域協力構想よりも自国建設が優先された、多国間枠組みよりも二国間援助の方針が確立されていた、諸国内の対立抗争、日本主導への警戒感→日本の構想はうまくいかず(中国・朝鮮半島とは1960年代の時点で外交関係がなく、反日感情の問題もあって構想には最初から含まれておらず)。日本の政策当事者が「アジアの気持ちは欧米人よりも日本人の方がよく分かる」と言う一方で、アジア諸国自身の意見を尊重する姿勢がなかったこともうかがえる。

・歴代政権指導者の思想的背景からそれぞれの外交志向にも断絶があると捉えられがちだが、日本の「アジア地域主義外交」に関して基本的に変化はなかったと指摘。

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