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2010年10月26日 (火)

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)

・ファン・ボイ・チャウの生涯と思想的展開をたどりながらフランス植民地支配下にあったベトナムの民族運動の具体的な動きと思想的特徴を分析、さらに日本・アジアにおける近代化や民族独立をめぐる動向との関わりを検討。
・勤王世代の排仏運動に対し、朝廷はフランスへの協力を命ずるという矛盾→勤王運動の論理は「現在の朝廷は一時的なものであり、やがて本来あるべき姿を回復するはず」。朝廷内の主戦派と主和派との対立も念頭にあった。
・科挙の勉強は不毛だが、その成功は立身出世に必要、解元の肩書きは対世間的に有効、政治的アジテーションには漢学の素養が不可欠。また、漢学の素養は中国・日本の人士と接触する上で役立った。
・紳豪層国家権力と村落「自治」の接点、しかし朝廷は傀儡化。フランス支配下で科挙廃止、官人機構の変質→紳豪層の危機感。
・中国伝来の「新書」→改革の必要性を触発(洋務運動、変法自強運動)、日本の情報、世界情勢や西洋事情を知る。
・フランスによる植民地支配下という亡国の現状→植民地支配体制打破が先か(ファン・ボイ・チャウ)、体制内改革が先か(ファン・チュウ・チン)→チャウの判断では朝廷での体制内改革は不可能→フランスを排除するために武力闘争路線→出洋救援。
・チャウの思考には「国」概念の混乱があって、民族が「国」なのか国王が「国」なのか?阮朝はすでに「虚君」→亡「国」。しかし、「種」は存続しており、これを基盤にして救「国」→「種」=民族が主で、朝廷・国王は末だとも解釈できる。
・チャウは同志を求めてベトナム全国を歩いてカトリック教徒とも接触、彼らやさらには対仏協力者も含めて「ベトナム国民」という意識。それは阮朝官人の「巡礼圏」と重なる。実感的把握、伝統的「共同体」の再解釈によって「国民」「同胞」の意識。
・政治的に覚醒した紳豪層が運動の中核となる。
・社会進化論的視点(蛮種から華種への進化)と伝統的小中華観念との接合→キン族の優位性、少数民族へは無頓着。キン族は仏領インドシナという地域的枠組みの継承者として当然視→キン族中心の「国民国家」+フランスから継承したインドシナという枠組みにおけるベトナム「帝国」。
・「私利」よりも「公徳」を重視、「民権」論は「国権」論に包摂される。
・チャウは孫文などとの対話で民主制の長所は認める。ただし、ベトナムの「国民の程度」はまだそこまでには達していない→人心」に呼びかける「手段」としてクォン・デを擁立、ただし考え方は未整理だった。
・チャウの対日本観:①「同文同種亜洲」→「アジア主義」、②欧米列強と対等な「文明国」「強国」→「脱亜入欧」、両者の矛盾をどのように捉えていったかという問題。
・チャウは日露戦争中に渡日、梁啓超らから武装闘争の前にまず人材育成という助言を受けて、ベトナム人青年の留学を推進→東遊運動→当時、日本へは多くの中国人留学生が来ており、こうした風潮にベトナム人も便乗できた。また、渡日ベトナム青年はみな伝統的知識人階層の出身→漢字文化を媒介として日本人・中国人と交流できた。日本はフランスの眼を気にしているため、ベトナム人留学生は中国人を装う。
・日本で初めてベトナム民族運動の出版活動が可能となった(チャウ『越南亡国史』はベトナム民族運動で初めて印刷された書)→不特定多数に向けたコミュニケーション手段の獲得。
・渡日ベトナム青年にはフランス直轄支配下にあった南圻(ナムキ)出身者が多い→漢学教育が地盤沈下した一方で教育組織が不十分なため海外留学志向、華僑を媒介として華南など海外との接点→政治的意思を持たない留学生も多く、そこにスパイが入り込む余地も。
・日本での自由な活動、ベトナム各地の出身者が一定地域(横浜、東京)に集中して暮らす、年齢構成も近い→留学先の日本で「国民」共同体を体現。
・チャウは日本の特質を讃美、返す刀でベトナムの現状を批判→この美徳は日本人が自助努力で獲得したもの→ベトナム人にだってできるはずだ→先進国、後進国の対比として、一元的な文明進歩史観→社会ダーウィニズムと結びつく。
・チャウは生存競争の現実を直視。弱者のベトナムを強者に転ずるのが「新しいベトナム」。日本は「自強」に成功したから強国として台頭したのだと捉え、ベトナムをその強者としての日本へ同一視したい願望。清を破り、琉球・台湾を併合した事実をチャウは知っていたからこそ日本への憧れ。目指すべきは勝者日本であって、併合された敗者琉球ではない。
・チャウの文明論では、経済的側面(殖産興業)よりも、精神的側面(公徳心、愛国心、同心、大和魂)への関心が強い。
・チャウの『越南国史考』→ナショナリスト的な革命史観で叙述した最初のベトナム史。
・「亜洲和親会」(1907年)とチャウの言う「東亜同盟会」は同じ組織と見てよい。章炳麟を会長として、チャウの他に張継、劉師培、大杉栄、堺利彦、宮崎滔天、インド人D氏、フィリピン人某等々。この1907年には日仏協約など→アジア各地の活動家たちと交流しながら日本の対アジア政策への不信感が醸成されており、これは退去命令以前のこと。
・1909年3月8日、チャウは日本から追放され、東遊運動は終焉を迎える。追放後、香港から小村寿太郎外相宛書簡で、西欧列強と結託する日本に対する激しい抗議。
・フランスによるベトナム支配に反発しつつも、ベトナムがラオス・カンボジア等に対して支配・被支配の関係になる民族問題の重層構造への自己批判の視点はチャウにはなかった。
・ベトナム民族運動において勤王抗仏運動が第一世代、チャウたちが第二世代、近代的学校に学んだ経験を持つグェン・アイクォクたちが第三世代。

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