吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』
吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』(青木書店、1986年)
・1938年、援蒋ルートについて仏印側に抗議→初期段階の交渉では「日本通」フランス人が重要な役割→1940年6月に日本は監視団を送ることで合意(西原機関)。
・1940年9月の日本軍の北部仏印進駐から1941年7月の南部仏印進駐にかけて、日本の戦争遂行指導部における内部対立が国策決定に及ぼしたプロセスを本書は分析。戦争拡大反対派と積極推進派との対立は言わば「同じ穴のムジナ」に過ぎず、戦争抑止に作用するどころか、むしろこのセクショナリズムによる対立抗争が戦争衝動を相乗的に高めていった。平和進駐派の西原一策(現地の西原機関)と強硬派の富永恭次(参謀本部第一部長)の喧嘩両成敗となったが、進駐という結果は残った。(※本書の内容とは関係ないが、富永は後にフィリピン戦線に異動、特攻隊をドンドン送り出しながら自分だけ本国に逃げ帰った卑怯者。西原の後任としてハノイに赴任した澄田【らい】四郎はその後中国戦線に異動となり、降伏時に部下の将兵を山西省に置き去りにして帰った。両方とも評判の悪い奴らだ)
吉沢南『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』(朝日選書、1986年)
・戦争中、仏領インドシナにいた4人からの聞き書き。
【西原機関の電信係】:現地で情報収集や親日団体組織工作などにも従事。
日本と仏印当局との折衝が行き詰ったとき、邦人総引き揚げ(=武力行使の予兆)という強迫手段。
対中国人の情報収集活動をした台湾出身者→戦後、ハノイに進駐した中国軍によって「漢奸」として処刑された。
からゆきさんだった人など以前からベトナムに来ていた日本人の姿が垣間見える。
日本は仏印進駐後もフランス植民地機構を維持利用→日本とフランスとの共同支配→日本の敗色が濃厚となるにつれてフランス側の対日協力派が後退、ドゴール派が有力に→1945年3月9日、日本軍がフランス側を攻撃(「仏印処理」「明号作戦」)→日本の単独支配。
日本の敗北が決定的になるとベトミンが一斉蜂起。しかし、無条件降伏した日本軍は戦意喪失しており、むしろこれから進駐してくる仏・英・中国軍に対して警戒感→ベトミンは日本軍との衝突を回避、日本人の安全の保証を条件に武器の引渡しを申し入れてきた。
【台湾生まれの日本人で台南製麻の会計係】
仏印「開発」に向けて日本は台湾の人的資源(日本人も台湾人も)や経済力を総動員、このときに台湾製麻もベトナム進出。台湾人指導員がベトナムの農村に入っていった。黄麻強制栽培がベトナムで飢餓を発生させたのではないか?という問題。
ベトナム人女性を妾にするケースは多々あったが、正式に結婚したこの人は憲兵隊に呼び出され「現地の劣等民族と結婚するなどけしからん」と言われた。
中国軍(中国国民党の盧漢将軍指揮)と共に帰還した越南革命同盟会・越南国民党とベトミンとの対立。ハノイでは、国民党軍は日本軍以上にひどかったと記憶されているらしい。
ベトミンに参加した日本人(100名前後?)に対して、フランス軍はナーバスになっていた。
【大南公司の農業指導員となった台湾人】
「日本人」意識を持ち、現地ベトナム人からもそう思われている一方で、日本人からは差別待遇を受けた。台湾人を矢面に立てて現地を支配するからくり→ベトナム人の間には、日本人よりも台湾人の方がひどかったと思われてしまった。
戦後、ベトナム政府からは「日本人」として扱われたが、日本政府からは「日本人」とは認められなかったため引揚できず、無国籍のままベトナムに残留。中越関係が悪化する中、「難民」として香港経由で日本へ。
【ハイフォンの憲兵】
日本軍によるベトミンへの掃討作戦に参加。
戦後、捕虜となったが逃亡→ベトナムのフランスとの戦いが始まっており、逃げ込んだ農村で軍事教練を頼まれ、さらにベトミンに参加。中国の南寧に行ったとき、中国軍の中にも日本人がいるのに出会った。1954年に帰国。
吉沢南『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』(岩波ブックレット、1993年)
・1945年8月4日、日本軍がキムソン村を攻撃した際の状況について、現地を訪ねて当時を知る人々からの聞き取りをもとに事件のあらましを再現。
・1945年3月9日の日本軍による対仏クーデターによって共同支配者であったフランス人が蹴落とされ、ベトナムはバオダイ皇帝、チャン・チョン・キム内閣を傀儡として日本の単独支配下にあり、ベトミンと直接対峙する状況。キムソン村では親日団体「大越」による旧体制が崩れたため、ベトミンに通じる「反日」派とみなされて攻撃を受けた。
・日本軍はベトナム人で組織した「保安隊」を動員。他方で、キムソン村は「保安隊」にいた者から事前に情報を得ており、反撃の用意をしていた。「保安隊」はその後、南ベトナムの地方警備軍に再編成された。
・日本の敗戦後、ベトナム人と一緒にフランス軍と戦った日本兵の墓地もあった。
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