潘佩珠について
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の生涯を知るには潘佩珠(川本邦衛・長岡新次郎編)『ヴェトナム亡国史・他』(平凡社・東洋文庫、1966年)所収の解説論文である川本邦衛「潘佩珠小史──その生涯と時代」、長岡新次郎「日本におけるヴェトナムの人々」がまず取っ掛かりになる。本書所収の「獄中記」は潘佩珠自身の手になる自伝であり、政教社の雑誌「日本及日本人」掲載(昭和4年)の南十字星(何盛三)による訳文が収録されている。また、内海三八郎(千島英一・櫻井良樹編)『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝──日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯』(芙蓉書房出版、1999年)には、潘佩珠がフランスによって軟禁されていた時に書いた「自判」(いわゆる「潘佩珠年表」)の漢文原文が収録されている。内海による伝記はこの「自判」の解説を意図して書かれたものである(なお、内海は戦前から商社員・外務省嘱託としてヴェトナムとの関わりがあった人で、小松清『ヴェトナム』[新潮社、1954年]での潘佩珠の描き方に不満があって「自判」の復刻出版に情熱を持っていたという。本書は氏の死後に出版された)。ヴェトナム独立運動における潘佩珠の位置付けについては白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巌南堂書店、1993年)が詳細な議論を展開している。なお、後藤均平『日本のなかのヴェトナム』(そしえて、1979年)でも潘佩珠は取り上げられているが、ヴェトナム反戦運動当時の息吹を感じさせる著者の筆致には癖が強すぎて、今では読むに耐えないという印象を持った。
日本で刊行されている潘佩珠の著作としては、自伝的な上掲「獄中記」「自判」のほか、『ヴェトナム亡国史・他』所収の表題作「ヴェトナム亡国史」(梁啓超の勧めによって執筆・印刷したという経緯があるため、梁のコメントも記されている)、「天か帝か」、「海外血書」がある。また、鄧搏鵬(後藤均平訳)『越南義烈史──抗仏独立運動の死の記録』(刀水書房、1993年)は独立運動で散っていった人々の伝記であり、潘佩珠は修訂者となっているが、彼自身の著作だとも言われている。
上掲の川本論文、長岡論文、内海書を読みながらとったメモを以下に箇条書き。
・潘佩珠(巣南サオナム、是漢ティハーン)は1867(阮朝嗣徳20)年、北ヴェトナムのゲアン省に生まれた。
・フランスによるコーチシナ(南部)直轄植民地化、アンナン(中部)・トンキン(北部)の保護領化、咸宜(ハムギ)帝のアルジェリア流刑といった時代状況下、青年期の潘佩珠も仲間を集めて武装蜂起を志したが、彼の村も焼き討ちされてしまった。
・1900年、34歳のとき郷試をパスして解元。
・1903年、独立運動の盟主となる皇族を探してクォン・デと出会う。
・1904年、維新会の元となる組織を結成、同年末に独立運動の支援(武器調達)を求めるため潘佩珠は密かに日本を目指してまず香港へ渡った(当時、ヴェトナム人の海外渡航は厳しく制限されていた)。ちょうど日露戦争の最中、バルチック艦隊がヴェトナムのカムラン湾に寄航中という状況で香港から日本へ向かう船がなく、上海へ行く。日本海海戦で日本勝利後、日本語のできる中国人留学生の協力を得て中国人になりすまして1905年6月、神戸港に入港。
・日本事情が分からないので、かねてより傾倒していた梁啓超を訪問、筆談で会談。
・梁の助言:①ヴェトナム自身の実力、②両広の援助、③日本の外交上の声援が必要。あくまで日本の軍事支援を求める潘佩珠に対して、梁はそれは無理だと答える。仮に武力でフランスを追い出せても今度は日本がそのまま居座る恐れがあるぞ。ヴェトナム自身の実力、つまり一般民衆の気概や知力としっかりしたリーダーがいなければ、②・③はかえって災いとなりかねない。人材育成が先決だと勧める。
・梁の勧めで「ヴェトナム亡国史」を執筆。梁の紹介で大隈重信、犬養毅、柏原文太郎と知り合う。
・日本、香港、ヴェトナムを行き来して、広東では劉永福と会う。
・1906年、クォン・デが来日。日本側有力者(細川護成、福島安正、根津一)と連絡をとって留学生受け入れの準備→振武学校(クォン・デも中国人阮中興という偽名で入学)・東亜同文書院など。日本はフランスへの気兼ねがあって官立学校へのヴェトナム人の入学は難しく、中国人として入学。梁啓超の勧めで「勧国民助資遊学文」を執筆してヴェトナム人青年に海外留学を呼びかける→東遊(ドンズー)運動。
・犬養の紹介で孫文と会う。この時は孫文の共和制、潘佩珠の立憲君主制と意見は合わなかったが、協力関係。
・日仏協約(1907年)によるフランスからの圧力→日本政府はヴェトナム人留学生組織「新越南公憲会」の解散を命令、潘佩珠、クォン・デたちにも国外退去を求める。このとき、浅羽佐喜太郎がヴェトナム人留学生たちを支援。
・潘佩珠は香港、タイへ行き、抗仏武力闘争をしている黄花探のため武器調達をするが、失敗。
・辛亥革命・中華民国成立→1912年、潘佩珠も南京へ行き、孫文、黄興、陳其美らと再会。ただし、中国からの援助は期待できず。維新会を解散してヴェトナム光復会→中国の革命派と連携、劉永福も協力。
・袁世凱派の広東督軍・竜済光が仏印総督の要求によって潘佩珠を逮捕。獄中で「獄中記」を執筆。1917年、竜済光の失脚により自由の身となった。
・台湾出身の楊鎮海:日本統治下の台湾総督府医学校卒業後、独立運動→逮捕→獄卒を殺害して上海へ逃亡。さらにヴェトナム人籍に入ってヴェトナム光復会に入党、執行委員の一人となる。
・1917年、サロー総督(弾圧政策の見直し)と和平交渉の話があったが、まとまらず。
・1920年、北京で蔡元培の紹介によりソ連駐華大使館参事官と面会。
・1924年、メルラン総督襲撃事件。同年、蒋介石と会い、黄埔軍官学校にヴェトナム人留学生受け入れを以来。ヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組。
・1925年、上海でフランス警察に逮捕され、ヴェトナムへ移送、終身懲役刑の判決。しかし、ヴェトナム人側の反発が激しく、ヴァランヌ総督(社会党代議士、宥和政策)は潘佩珠を釈放。ただし、フエに移送して軟禁状態。
・1940年10月29日、フエで病没。その一ヶ月前の9月には日本の仏印進駐が始まっていた。なお、上掲『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝』解説に引用された内海三八郎の回想によると、晩年、フエで軟禁されていた潘佩珠宅を内海が訪問したところ居留守を使われたという。同志意外の人間には会いたくないという強い意志を感じた、と記している。自分たちを裏切った日本人には会いたくない、ということかもしれない。
田中孜『日越ドンズーの華──ヴェトナム独立秘史 潘佩珠の東遊(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』(明成社、2010年)は、ヴェトナム人留学生を支援した浅羽佐喜太郎と潘佩珠との交流に焦点を合わせている。浅羽は東京帝国大学出身だが在野で医院を経営。浅羽が道で行き倒れていたヴェトナム人留学生をたまたま助けたのを縁に、潘佩珠は支援を依頼。自分の願いが厚かましいのではないかと心苦しく感じていたところ、浅羽は快諾、日本政府から国外退去の命令が出ていたが、潘佩珠やヴェトナム人留学生たちは浅羽邸に起居。潘佩珠が密かに日本へ戻ってきたとき、浅羽がすでに亡くなっていることを知って潘佩珠は浅羽を顕彰する碑文を彼の郷里である静岡県浅羽村(現・袋井市)に建立。ただし、ヴェトナム人留学生をかくまったことで警察からにらまれていたので、浅羽の遺族がこうした経緯を公にしたのは戦後になってからだという。
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