小島剛一『トルコのもう一つの顔』『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』
著者は言語学者で、1970年に初めてトルコを旅行で訪れて人々の人情のあつさと諸言語の豊穣な魅力にとりつかれて以来、たびたびトルコを訪れては全土を歩き回り、忘れ去られようとしている様々な言語の研究をライフワークとしている。だが、ケマル・アタチュルクのトルコ革命以来、近代化と国民国家形成を至上命題としてきたトルコ政府は、ケマリズムの柱の一つとなっている国粋主義思想により「トルコ共和国にトルコ語以外の言語は存在しない」という原則を取っている。少数言語はあくまでもトルコ語の「方言」に過ぎないとされて、それがトルコ国内では「常識」として異議申し立ては許されず、従って、少数言語の掘り起こしはタブーであった。公用語としてのトルコ語を話さなければ分離独立主義者とみなされて投獄の理由となり、著者も何度か国外退去処分を受けている。
著者の関心は純粋に学術的なものであった。しかし、多様な言語が織り成すモザイク状況、そこに国民国家=標準語の枠が無理やりはめられてしまった矛盾から生じた軋轢を否応なく目の当たりにせざるを得なくなってしまう。「民族」概念と同様に「言語」概念もまた政治的・社会的コンテクストによって規定された側面が強く、この「言語」問題は少数言語の話者にとってはアイデンティティを根底から崩される深刻な抑圧と受け止められる。「隠れ民族」、さらには「忘れ民族」という問題。自分の母語はトルコ語ではないようだと薄々気づいていても、政治的にナーバスになっている父母は子供に何も教えないため、調査中にも「私たちの言語は何語なんでしょうか?」と逆に尋ねられるシーンすら珍しくない。
このように政治的に難しい状況で論文を発表したとしよう。中立的に学術研究をしているつもりではあってもトルコ政府はそうは受け止めず、国外退去処分等でこれ以上の調査はできなくなり、さらには聞き取りをした関係者にまで累が及んでしまう。もちろん、トルコ政府に迎合して嘘八百を書くわけにはいかない。そうした中、「むしろ一般書として出版してしまえば、もしトルコ政府が圧力をかけてもそれ自体が大きな話題となって宣伝効果となってしまうので手が出しにくいのではないか」とアドバイスを受けて書き上げたのが最初の著作『トルコのもう一つの顔』(中公新書、1991年)だったという。その後の経緯をまとめたのが最新刊『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』(旅行人、2010年)である。後者では言語学的話題ばかりでなく、トルコ政府外務省や諜報機関、マスメディアの問題、また著者が在住するフランス・ストラスブールで関わったトルコからの難民たちの問題などについても記されている。
著者は立場の違う人々とも分け隔てなく向き合う姿勢を持っており、それぞれに人情のあついもてなしを受け、親交を結んでいくところは時に感動的ですらある。言語学研究のフィールドワークの記録として読めばそうした分野の知見も得られるが、それ以上に、「言語」という問題が抱える政治性に身を以て切り結んでいく姿はまるでハラハラさせる冒険譚のようにスリリングだ。トルコに関心がない人でも、広く「言語」や「民族」といったテーマについて考えたい場合には、この二冊は是非読んで欲しい。
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コメント
こんにちは。「トルコのもう一つの顔」は多からずも熱狂的なファンが存在するみたいで、私もその一人として普段書籍は図書館で借りる事がほとんどなのですが、この続編は発売直後に本屋で購入してしまいました。
「折り鶴の少年」との邂逅とか、とにかく読ませどころがたくさんあって非常に満足したのですが、一方で著者の頑迷さみたいなのに興味を惹かれました。
亡命クルド人やラズ語の共同作業者とのトラブル、そして経済難民からのお願いなど、本筋に影響せず著者に対する評価に決してプラスにならないエピソードをどうして取り上げたのだろうかと?
私みたいなのが「聖人」扱いしたり、前著のように品が良すぎるとかえって嫌みになるのを避けたのかな?などと勘ぐってしまいましたが、とかく傑出した変人であるのは間違いなさそうですね。
散文として非常に読みやすいながらも、安易なわかりやすさに堕さないのは凡百の書き手と一線を画すところでしょう。国家や制度を具体例を交えて語る一方、市井の無名人を描写する圧倒的解像度みたいなのは、この本ならではの読書体験だと思います。
投稿: nil | 2010年10月17日 (日) 14時02分
コメントをありがとうございました。
前著刊行時の不満なども今回の新刊には記されていましたが、かなり「クセ」の強そうな人ではありそうです。
逆に、自己主張の強そうな「変人」ぶりは、見方を変えれば率直な人柄として、現地の人々の懐に自然に入っていける魅力なのかもしれません。
文章にも血の通った力がみなぎっているところは本当に良いですよね。これも「変人」ならではなのでしょう。学者に「変人」は珍しくありませんが、この人にはありがちな「変人学者」とはちょっとタイプの違った魅力を感じます。
投稿: トゥルバドゥール | 2010年10月17日 (日) 16時59分