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2010年10月17日 (日)

フランス文学者・小松清とヴェトナム独立運動

 小松清(1900~1962)はアンドレ・マルローの紹介などで知られたフランス文学者だが、ホー・チ・ミンの評伝や1945年の日本軍による仏印処理前後の経過などにも名前が出てきて、どんな背景を持った人物なのか気になっていた。日本・フランス・ヴェトナムの三角関係、フランス仕込みの国際主義と日本的な汎アジア主義との絡み合い、これらが一点に凝縮された人物として考えてみると興味深い。

 彼についての評伝として、林俊/クロード・ピショワ共著『小松清──ヒューマニストの肖像』(白亜書房、1999年)という本を見つけたので目を通した。読みながら関心を持ったところだけとったメモを箇条書き。
・神戸出身。神戸高等商業学校に入ったが、文学や社会問題への関心が強く、「商業算術なんて資本家の搾取の手段やないか」と言って先生と喧嘩→退学。北澤新次郎のツテをたどって東京に出て、早稲田の建設者同盟にもぐりこむ。とにかく海外へ出たい!という思い→シカゴ大学への入学手続きをしたが、アメリカは労働運動の温床だと危惧した外務省から旅券がおりず。親族のツテで外務省に頼み込んだところ、フランスならばと許可された。
・1921年7月、パリへ。同じ船には坂本繁二郎、小出楢重、硲伊之助、林倭衛らがいた。
・フランスに到着して間もなく、サッコ・ヴァンゼッティ事件関連の集会に出ていたところ、阮愛国から声をかけられて付き合いが始まる。文学志向の小松は革命家の阮とは肌合いが違ったが、敬意を持つ。他に、アンリ・バルビュス、大杉栄などとも会った。
・アンドレ・マルロー『征服者』を読んで感激、会いに行ってマルローと親交が始まる。『人間の条件』に出てくるKyoには小松の姿も重ねあわされているらしい。また、アンドレ・ジイドの知遇も得た。
・1931年10月に帰国。1937年8月に報知新聞特派員として再びパリへ。ルポルタージュ文学という武器でマルローと共にスペイン戦争に参加したいと思ったが、スペイン共和派側に日本人=ナチスと組んだファシストという偏見があって入国を拒否された。
・1940年、パリ陥落。大使館のトラックに乗って脱出、ボルドー、スペイン、リスボンを経て日本へ帰国。神戸に上陸直後、特高の取調べを受けた。
・1941年5月、改造社特派員としてフランス領インドシナへ到着、7月に帰国。水島治男(『改造』編集長)や小牧近江らと共に東京・ハノイを結ぶ「水曜会」をつくり、在東京越南復国同盟のリーダーであるクォンデと接触。越南独立運動には大南公司社長・松下光弘の支援。また、小松は仏印独立のため松井石根、大川周明とも接触。
・1941年12月9日、かつて人民戦線に関わっていたことから特高に連行された→1942年3月に釈放。それからは翻訳に取り組み、その中にはフランス語からの重訳でヴェトナムの古典『金雲翹』もあった。
・1943年4月、在サイゴン日本大使府全権公使として赴任する田代重徳の私設秘書として同行。反仏植民地闘争のためヴェトナム側の重要人物と接触。その中にはゴ・ジン・ジェム、社会民主主義者のファン・ニョック・タックなどもいた。
・1944年1月に大使府を辞し、ハノイに行って日本文化会館主事・小牧近江の顧問。この頃には、日仏協調→ヴェトナム人を圧迫という構図に不満を抱いていた様子。
・日本人とヴェトナム人との友情をテーマとした小説をフランス語で執筆、それを友人のグエン・ジャンがヴェトナム語訳して雑誌連載。
・日本軍がフランス植民地当局を武力攻撃した仏印処理(1945年3月)の際、小松もヴェトナム人の仲間と一緒にフランス刑務所を襲撃、ヴェトナム人政治犯を釈放。
・仏印処理後の事態収拾に向けてクォンデ擁立などの話もあったが東京が承認せず、ゴ・ジン・ジェムにも声がかかったが彼は固辞。結局、バオダイ帝が独立宣言、チャン・チョン・キム内閣→しかし、外国支配の構図は変わらないので不満、ヴェトミンの抗日ゲリラ活動が活発化。
・小松もバオダイ政権など当てにしていなかった。憲兵隊からにらまれていたが、日本軍司令官と個人的に親しかったので圧迫は受けていなかった。
・1945年11月、ハノイでホー・チ・ミンと会見。かつての阮愛国だが、会った印象は「どうも別人ではないか?」。パリで会った阮愛国の西欧風のたたずまいに対して、この時のホーは東洋的哲人の風貌、それに背丈も違う。ただし、敬意は持った。
・ハノイのフランス代表部主席ジャン・サントニーとヴェトナム民主共和国のホーとの交渉に小牧近江と小松が仲介することになる。フランス刑務所襲撃や日本軍首脳と関わりを持っていたことが戦犯容疑になるのではないかと危惧していたが、おとがめなし。交渉の準備が進んだところで、1946年6月に日本へ帰国(その後、この交渉は決裂→第一次インドシナ戦争へ)。
・フランス植民地主義への批判をしつつ、同時にフランスには自国政府の間違いを指摘するマルローをはじめとした良心的知識人もいることを小松は強調。
・戦後は日仏文化交流に尽力。

 ヴェトナム人の書いた小松清論としてはビン・シン(高杉忠明・松井敬訳)「小松清 ベトナム独立への見果てぬ夢」(上下、『世界』2000年4、5月)がある。筆者はアルバータ大学教授となっているが、『評伝徳富蘇峰──近代日本の光と影』(杉原志啓訳、岩波書店、1994年)をむかし読んだことがあった。日本は「アジア解放」という大義名分を掲げつつも、それは「大東亜共栄圏」の一部としてのヴェトナム「独立」であって日本の支配下に入ることになる。そうした戦時期日本のヴェトナム政策と現地のヴェトナムの人々の思いとの間には大きな乖離があり、小松はその自己矛盾に呻吟しつつも、ヴェトナム側の目には同じ戦争工作協力者として映るわけで、その点で戦後ヴェトナムでの小松への評価は芳しいものではなかったようだ。この論文はそうした日本のアジア主義の矛盾を踏まえつつ、その中で葛藤した国際派知識人としての小松に目を向けようとしている。

 小松自身によるヴェトナム関連の著書としては戦前に『仏印への途』(六興商会出版部、1941年)があり、「南進」というテーマに関心を持つ人々には読まれたようだが、刊行時、本人は特高につかまって臭い飯を食っていた。戦後は『ヴェトナムの血』(河出書房、1954年)という小説もあるらしい。『ヴェトナム』(新潮社、1955年)は手に取って読むことができた。ヴェトナム概論のように思わせるタイトルだが、ファン・ボイ・チャウ、それから小松自身が付き合いのあったクォンデの二人を軸に、ヴェトナム独立運動と日本との関わりが描かれている。戦後、東京で暮らすクォンデの落魄した姿から説き起こされる(彼は慶応大学名誉教授・橋本増吉邸にいた)。北は共産主義の傀儡である一方、南には人望がない、第三の勢力として南北の和解ができるのは自分をおいて他にはないというクォンデの言い分に、小松はその情熱は認めつつも、現実的ではないと冷ややか。クォンデの性格に入り込めないものを感じて、彼との関係はあくまでも政治的情熱を媒介にしたものだ、という趣旨のことを記している。ヴェトナム独立への思いをつづりつつ、そこでの日本の裏切りに対する後悔も記されている。

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コメント

ヤバイ!
自分のドツボというか、自分が作りたかったブログがここにある!
結局自分のブログは三日坊主グセで遠く放置していますが
国際関係、中東、映画、取り上げられているものの殆んどが自分の興味のあることです!
一番大きな違いは、この圧倒的な知識の差ですが・・・
今自分は大学1年ですが、とてもいいブログを見つけたと思います。
あまりに感動したもので衝動で書き込んでしまいましたが
これからの自分に強く影響を与えてく、そんなブログなのだと感じています。
以後、興味深く拝読させていただくことにします。

投稿: Asnome | 2010年10月20日 (水) 03時03分

過分なお言葉、ありがとうござます。お気に召したのでしたら幸いです。ただ、適当に思いつきで書いているところも多いので、あまり真に受けられてもまずいかもしれませんよ(笑)

投稿: トゥルバドゥール | 2010年10月20日 (水) 11時54分

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