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2010年10月13日 (水)

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』、伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』(東京大学出版会、1995年)
・①中華世界→ASEANというベトナムの帰属意識の変化、②キン族主体のベトナム人意識と周辺民族や少数民族との関わり方、以上の二点がポイント。
・中華世界の華夷秩序の中にあったが、中国からの自立性強化のために「中国化」→「南国意識という小中華思想(中国=「北国」、ベトナム=「南国」として対等)→周囲の「蛮夷」とは区別された文明的な「京人」意識としてベトナムの国家意識が形成され(京人=キン族)、これは東南アジアの周囲の民族とは違うという自己規定。
・フランスのインドシナ植民地支配:漢文的素養と結びついたベトナムの科挙官僚制度に対して、ベトナム語のローマ字化を通してフランス語による植民地官僚制度へと編成。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」の議論を援用→「巡礼圏」形成、ただし主にベトナム人下級官僚によって担われた→カンボジア人やラオス人との一体感は醸成されず、複合社会として横の連帯意識が欠如。
・ファン・ボイ・チャウ:儒教を学び科挙をパスした伝統的知識人だが、伝統の固守ではフランスに対抗できない→開明派、近代ナショナリズムの創始者。同じ中華文明圏の一員として同文同種の日本へ関心を向ける一方、インドシナの他の諸民族は連携の対象とはみなされず。
・日本の支配→連合軍側が1943年に「東南アジア司令部」設置→「東南アジア」という地域枠組みが登場。
・1940年代の共産主義運動において、ベトナムという枠組みはキン族だけでなくほかの少数民族も包摂→多民族国家志向。
・1945年、日本の仏印処理→当時、日本はソ連を仲介役として終戦を模索中だったが、ソ連はフランスと同盟関係にあり、仏印処理がソ連を刺激するのをおそれた→ソ連は「民族自決」には賛成だから、インドシナの独立という建前にしようという打算→ベトナム、カンボジア、ラオス三国の独立宣言→インドシナ連邦ではなく三国独立という方向性が定着。
・1945年の八月革命→ベトナム民主共和国。対仏抗戦においてベトナム人がカンボジア・ラオスを指導するという図式。
・冷戦の論理で南北分断→「北」を中国依存に追いやった。社会主義国家としての「普遍国家」志向。ベトナム戦争終結→中国離れの加速。
・当初は、少数民族が「平等」を担い得る主体となるよう「自己解放能力」の形成を促すのが方針→ベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降、「団結」を重視→キン族が「主軸民族」。
・中越関係の悪化→華僑政策の変化。
・1976年、ベトナム社会主義共和国成立→対外危機がある程度まで解消→「貧しさを分かち合う社会主義」への不満。カンボジア侵攻→主観的には「国際主義的義務」ではあっても、国民国家システムにおいては内政干渉というルール違反とみなされて国際的孤立。こうした状況下、国内経済の立て直しが必要→かつては排斥した華僑の残留が必要→華僑の残留はASEAN諸国との接点にもなり得た。
・カンボジア問題(ポル・ポトをはじめかつてはベトナムと協力関係にあった共産主義者が次々と離反、インドシナ三国の同盟は難しいことを認識)をきっかけにベトナムはASEAN諸国に接近。ベトナムは「中国大国覇権主義」に対する防波堤として自己規定→ASEANはアメリカ主導の反共軍事同盟という「敵」ではなく、むしろ同じ東南アジアの一員であることを強調。
・ドイモイ:「社会主義ベトナム」→「ベトナム社会主義」への転換という形で「普遍国家」から脱却して民族化→東南アジアの「地域国家」という方向性。また、競争原理の導入→少数民族には不利という側面もある。

伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』(三元社、2008年)
・ベトナムは人口の86%を占めるキン族+その他の53の少数民族=54民族から成る多民族国家という原則を持つ。少数民族は「国定民族」確定作業(中国の「民族識別工作」と同様)を通して分類されており、それは学術的な作業という建前ではあるが、国家主導の政治性も絡んでいる。従って、「民族」なるものには政治的思惑が絡み合う中で後天的に形成された側面があるにもかかわらず、それを原初主義的に捉えてしまう矛盾も生じてしまう。そうした「民族」概念に絡む政治性について実地の聞き取り調査を通して本書は検証。
・「国定民族」の確定→各民族の「平等」を保証するという考え方を通して国民統合が図られた。ベトナム戦争において山岳地帯に住む少数民族からの協力を得る必要性も背景にあった。
・54という数字が公的に確定。その後、自分たちも別個の民族として認めて欲しいという声も登場、それを当初は検討しようとしたが、次々と表れていくと際限がなくなり、従来の政治枠組みが崩れてしまうおそれ。
・民族確定作業を担った民族学者にはソ連留学組が多かった→学問と政治の一体化。他方で、実際の作業は中国の「民族識別工作」に倣う→「区域自治」、分類に際して「民族の自意識」重視。
・非均質的な多様性を持つ社会でもともと父系血縁集団などを軸に「われわれ」と「かれら」を区別してきた人々→「民族確定作業」では近代的「民族」概念を「正しく」(=無理やり)適用しようとしてこうした多様性を把握できず。
・少数民族のサブグループが逆に「民族確定作業」の論理を逆手に取って自己主張。「国定民族」一覧表には国家主導の思惑があり、実際のありさまを把握できていない難しさ。
・わずか300人のオドゥ族→実態としては周囲の民族への同化が進んでおり、登録数上の「絶滅の危機」→54という数字が1つでも減るとベトナムの少数民族政策がうまくいっていないことになってしまって問題だと政府側は考える。このように特別視される少数民族がいれば政府から優先的な予算がつけてもらえる、また少数民族出身者への優遇政策→これを利権に使う動きもある。
・ダム建設等の開発計画で土地を失い、共同体が崩壊してしまった少数民族も少なくない。

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