« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月

2010年10月31日 (日)

渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』、堀内一史『アメリカと宗教──保守化と政治化のゆくえ』

 アメリカは建国の理念に普遍主義的志向がうたわれていたこと、さらには現代世界における存在感の大きさから、アメリカの政治や社会がはらむ理念と現実との落差はダブルスタンダードだという批判を世界中から招きやすい。しかし、むしろその落差にこそアメリカ社会が抱える生身の葛藤がうかがえるのだろう。

 渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』(岩波新書、2010年)はそうしたアメリカ社会の矛盾や逆説を幅広いテーマから内在的に描き出す。保守派が示す、連邦政府に対する懐疑とアメリカ第一主義の両立、新自由主義と「家族の価値」重視の結び付き。孤独な個人主義の不安。アメリカは「近代」の先進的モデルである一方で、保守派教会も増加しつつある二面性(「再魔術化」?)。人種問題、貧困、宗教的原理主義の台頭などによって多様性が損なわれかねない一方で、同時に多文化主義そのものが「普遍主義」「原理主義」化したらこれもまた抑圧の言説ともなり得る逆説。そして、アメリカの行き過ぎを批判する「反米」的な議論枠組みは他ならぬアメリカから現れている。プラスか、マイナスか、どちらかの固定的イメージに収斂させてしまうのではなく、矛盾と葛藤の真っ只中にある姿を出来るだけありのままに描こうとする視点を著者が持っているのは、それだけアメリカ社会に備わったバランス感覚に信頼を置いているからであろう。

 アメリカで大型選挙が行われるたびに宗教票の行方が報道でも話題となる。アメリカ事情に不案内な私などはそのたびに近代的リベラリズム対保守的宗教原理主義という二元対立的な構図を暗黙のうちに思い浮かべやすいのだが、堀内一史『アメリカと宗教──保守化と政治化のゆくえ』(中公新書、2010年)を読むと、そんなに単純ではないことが分かる。本書は19世紀の進化論裁判から現代に至るまでのアメリカにおける政治とキリスト教との関わりについて政治学的・社会学的議論を参照しながら整理してくれる。教義上の問題だけでなく、人口動態、メディア、社会的イシューの変化に教会がどのように対応したのか、様々なダイナミズムが働いていたことがうかがえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「攻殻機動隊 Ghost in the Shell 2.0」

「攻殻機動隊 Ghost in the Shell 2.0」

 言わずと知れた押井守によるサイバーパンク・アニメの名作。むかし観た覚えがあったが、TSUTAYAの棚を物色していたら準新作となっていたので借り出した。2008年の「スカイ・クロラ」公開に合わせてリマスターされたバージョンで、ストーリー上の変更はない。映像や音響のどこがどのように変わったのか私には分からないのだが。

 この映画には、第一にバーチャルな電脳社会における存在論・認識論という点で現代思想系の人たちが、第二に近未来都市論という点で建築畑の人たち(例えば、五十嵐太郎)がよく言及する。私は後者の視点で興味を引く。半ば水没した東京、中国系住民が多数来住しているという設定で、ゴチャゴチャした街並のすぐ真上を飛行機が飛ぶところなどは香港をモデルにしているのか。

【データ】
監督:押井守
1995・2008年/85分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「ロスト・メモリーズ」

「ロスト・メモリーズ」

 舞台はソウル、ただし、街中の看板やネオンは日本語ばかり、人々も日本語を話し、事件がおこって駆けつけたパトカーの車体には「京城府警察」とある。「不令鮮人」(不逞鮮人?)の武装闘争を取り締まる警察内部で朝鮮系日本人の葛藤──。安重根の伊藤博文暗殺は失敗、第二次世界大戦で日本は連合国側に立って勝利、現在も日本による朝鮮半島支配が続いているという設定の“歴史のイフ”的パラレル・ワールド。日本語氾濫の街並は新宿ロケだな。なぜか今村昌平がゲスト出演していた。一つの歴史シミュレーションを映像化したものとして面白いが、こんなの日本で作ったら大問題だろう。しっかり抗日の味付けはされているから韓国内右派の反発も抑えられたということか。どうせ歴史シュミレーションするなら伊藤博文ばかり悪者にしないで、近代化に失敗した李朝体制の機能不全立て直しというところまでさかのぼれ、と言ったら怒られちゃうかな。

【データ】
監督:イ・シミョン
出演:チャン・ドンゴン、仲村トオル、他
2002年/韓国/136分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「ブレス」

「ブレス」

 自殺未遂を繰り返す死刑囚と、元恋人だと偽って彼のもとにたびたび訪れる女性の話。実際にはあり得ない設定だが、キム・ギドク監督の映画は寓話性が強く、ストーリーの背後にどんな解釈が可能かと深読みの余地があるところに魅力を感じている。ただ、この作品の場合、私があまり気合を入れないで観たせいか、いまいちよく分からなかった。主役は台湾のチャン・チェンで、韓国語はおそらくできないからであろう、無口な死刑囚という設定だ。そういえば、キム・ギドクは「悲夢」でもオダギリ・ジョーを主演に起用、他の出演者はみな韓国語だが彼だけセリフは一貫して日本語、二つの言語を平行させることで『荘子』にある「胡蝶の夢」にヒントを得た二重世界のモチーフをたくみに表現していた。それぞれ台湾、日本を市場として見込んでの起用だと思うが、~人として登場させるのではなく、属性を捨象して物語に取り込んでいけるのはキム・ギドク作品で展開される寓話の完成度がそれだけ高いからだ。

【データ】
監督:キム・ギドク
2004年/韓国/86分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「ほえる犬は噛まない」

「ほえる犬は噛まない」

 ポン・ジュノの長編初監督作品らしい。舞台は高層団地、飼い犬が次々といなくなってしまう事件が発生、管理事務所に勤める女の子が事件解決に奔走する、という話。退屈な日常の中でちょっとした事件から垣間見える悲喜劇という感じか。ストーリー的にはあまり面白いとは思わなかったが、気取らず一生懸命な女の子を演ずるペ・ドゥナが良い。ソウル・オリンピックを機に表通りから犬鍋屋が消えたと聞くが、警備員やホームレスが犬を捕まえてこっそり犬鍋を食べようとする設定はそのパロディーか。

【データ】
監督:ポン・ジュノ
2001年/韓国/110分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バートン・ゲルマン『策謀家チェイニー──副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」』

バートン・ゲルマン(加藤祐子訳)『策謀家チェイニー──副大統領が創った「ブッシュのアメリカ」』(朝日選書、2010年)

 著者はジャーナリスト、本書のもととなった連載でピュリッツァー賞を受賞。原題のAnglerは「釣り人」という意味。チェイニーの趣味が釣りだったのでシークレット・サービスがつけたコードネームらしいが、あちこちに餌や罠を仕掛けて人を動かそうとする彼の強引な政治工作のイメージを重ねて「策謀家」と意訳されている。ブッシュ政権に巣食ったネオコンを中心とする勢力の元締めとしていまや悪名高いチェイニーだが、ブッシュの大統領選出馬からイラク戦争失敗に至るまで政権内部における彼の動きを逐一たどったノンフィクションである。副大統領には本来それほど活躍の場があるわけではない。しかし、直観で動くブッシュに代わって、緻密で計算高くしかもアグレッシブに精力的なチェイニーが各省庁に配置した人脈を通じて政権の具体的な采配を進めていく。とりわけ政府におけるホワイトハウスの一貫した優越性、安全保障体制強化に彼はこだわり、邪魔する者は容赦なくつぶしていく。彼の強引な行動力は、見ようによっては痛快にすら感じられてしまうほどだが、その行き過ぎが誤った情報に基づくイラク開戦、アブグレイブやグアンタナモの「捕虜」問題につながり、ブッシュ政権の失墜、アメリカ政治への不信を招いてしまう。例えば、ボブ・ウッドワードのブッシュ政権ものやジェームズ・マン『ウルカヌスの群像』といったタイプの政権内幕ものノンフィクションが好きな人には興味深く読めるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月29日 (金)

森美根子『台湾を描いた画家たち──日本統治時代 画人列伝』

 初めて台湾へ行ったとき、まず定番通りに故宮博物院を見学した。観光客であふれ返って息苦しい喧騒から逃れたいと思っていたとき、人のほとんどいない特別展示室を見かけた。水彩画だった。例えば風景画は、かすみの中へと消えていきそうな淡い輪郭のタッチ、それがどことなく幻想的で美しい。李澤藩という人の特集展示だった。年表パネルを見ると日本統治期に育った人で、彼の師匠にあたる石川欽一郎の名前もこのときに初めて知った。台湾史を考えるときどうしても植民地支配、族群政治、中台対立といった政治史的なテーマに目を向けることが多くなってしまうが、美術的にも興味深いものを持っていること、台湾における西洋的近代絵画導入に日本も関わりがあったことに今さらながら気づき、関心を持った。

 森美根子『台湾を描いた画家たち──日本統治時代 画人列伝』(産経新聞出版、2010年)は、日本統治期に芸術的才能を開花させた台湾人18人(倪蒋懐、黄土水、陳澄波、藍蔭鼎、陳植棋、顔水龍、楊三郎、李石樵、李梅樹、李澤藩、廖繼春、洪瑞麟、蓼徳政、許武勇、林玉山、郭雪湖、陳進、林之助)、それから教育指導に当たったり台湾の風物の魅力にのめり込んだりした日本人3人(石川欽一郎、塩月桃甫、立石鐵臣)、合計21人のプロフィールを紹介してくれる。『アジアレポート』誌の連載をまとめたものだが、以前、立石鐵臣や石川欽一郎に関心を持って文献探しをしていたときにこの連載の存在を知り、図書館でコピーして目を通したことがあった。台湾の近代美術史に関する日本語文献は少ないので、一冊の本としてまとめられたのは喜ばしい。

 なお、立石鐵臣についてはこちら、石川欽一郎と李澤藩についてはこちらで取り上げたことがある。また、台湾近代美術史に関する書籍としては、李欽賢《台灣美術之旅》(雄獅図書、2007年→こちら)、同《追尋台灣的風景圖像》(台灣書房、2009年→こちら)、頼明珠《流轉的符號女性:戰前台灣女性圖像藝術》(藝術家出版社、2009年→こちら)をそれぞれ取り上げた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月28日 (木)

关于喜田貞吉

  我在大学学习历史的时候,对考古学家江上波夫提倡的“日本人骑马民族说”很感兴趣。江上推论了日本天皇家的先祖是从大陆经由朝鲜半岛来的骑马民族。我觉得他的假说有很浪漫的雄图。

  有的学家指出喜田貞吉的“日韩同祖论” 影响了江上的这个学说。喜田貞吉是二十世纪前半期的日本历史学家・考古学家。他写关于“法隆寺再建论争”的论文初次登台以后,提出了一些独特的日本历史假说。

  日本十四世纪有两个天皇并立的时代(南北朝时代)。哪个天皇是正统的,这个问题有很难的政治性。喜田从事国定教科书编撰的时候,两种学说都记述了。他有历史记述要公平的观点。但是把南朝认为正统的右翼人士激怒了,他们的政治压力让喜田辞职了。现代史家把这个事件叫“南北朝正闰问题”。

  喜田有一种热情,历史学要用于解决社会的不公平。他第一次从历史学家的立场致力于“被差别部落问题”(有的人们在日本被歧视的社会问题)。喜田认为日本人是混合民族。他说:远古时代从大陆、南洋来的种种人们到了日本列岛。“天孙民族”让那些人们融合,然后形成日本人。“被差别部落”、“山窩”(在山中住的特别风习的人们) 、阿伊努,喜田认为这些人们是“天孙民族”偶然融合错的,就是本来应该融合的。听说当时有的人认为“被差别部落”的人们是异民族,这是歧视的根据。可是对歧视的态度愤怒的喜田说,“被差别部落”的人们也是跟我们一样的日本人,没有歧视的根据。

  一九一〇年日本合并韩国的时候,喜田向朝鲜半岛适用同样的论法,这是“日韩同祖论”。 现在这个学说被当做日本帝国主义的思想正当化,而臭名远扬。不过当时日本人歧视韩国人的风气让喜田愤怒,主张“日韩同祖论”。 他想日本人跟韩国人一样,所以不可歧视。喜田自己主观地有善意,在那个意思他的动机跟帝国主义不一样。但是韩国人有独立的民族意识。他们的愿望跟“被差别部落问题”不一样,喜田的善意他们不能接受。

  我们在喜田的议论上能看出两个难点。第一,他要在哪儿画民族的界线?他把有的人们当做日本人,这个想法对“被差别部落”的人们意味着有同胞意识,但是对韩国人伤害他们的自尊心。第二,即使喜田自己主观地有很纯粹的善意,那个善意依据时代背景反而可能意味着知识上的暴力。

  以上、中文作文の練習。大意は以前にこちらに書いたのと同じ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月27日 (水)

森聡『ヴェトナム戦争と同盟外交──英仏の外交とアメリカの選択 1964─1968年』、水本義彦『同盟の相剋──戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』

 森聡『ヴェトナム戦争と同盟外交──英仏の外交とアメリカの選択 1964─1968年』(東京大学出版会、2009年)は、アメリカによる北爆開始前の1964年12月からパリ和平交渉の始まる1968年にかけての時期、突出した動きを見せ始めたアメリカに対してイギリス・フランス・ソ連がどのような働きかけを行ったのかを分析、その上でアメリカが各国に対して抱いている戦略的価値・政治的価値・政府機構間の緊密性・信頼感といった要因の有無から働きかけにプラスの効果があったのかどうかを検証する。後者二つのリソースの有無によってイギリスはプラス、フランスは間接的な影響にとどまったと評価。また、ソ連の働きかけもイギリスと同様にプラスだったと評価され、個別具体的なイシューに限定すれば現状維持という共通した政策目標を持っていたことからアメリカはソ連に対して信頼感を持っていたのだと指摘される。同盟国ではあるにしても、フランスは共産化のリスクを冒してでも南ヴェトナム中立化→アメリカも撤退させた上でかつてのフランスの影響圏復活の意図を、イギリスは1966年のポンド危機から財政再建の必要→スエズ以東撤退の意図を持っており、それぞれ自らの国益にそって単独主義的な思惑があった。同盟関係にはあっても当然ながらそれぞれの国益という要因は無視できない。

 水本義彦『同盟の相剋──戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』(千倉書房、2009年)は、イギリスは自らの死活的利益があるわけではないインドシナ問題についてなぜアメリカに対して積極的な働きかけを行ったのか、第一次インドシナ戦争、ラオス内戦、そしてヴェトナム戦争に至るまでのイギリス歴代政権の対米関与を連続した事象として把握、分析する。イギリスとアメリカは緊密な同盟関係にはあったが、インド植民地独立後もイギリスの手に残ったマレー植民地の安定化、さらにはアジア・アフリカの新興独立国を抱えるコモンウェルス内の気運からしても、アメリカの単独行動によってインドシナ情勢をこじらせてしまうのは問題であり、イギリスは軍事協力を拒否し続けた。むしろアメリカにとって好ましくない働きかけを進めながら、長期的な観点に立って事態のソフトランディングを目指していた。イギリスの外交努力が必ずしもうまくいったわけではない。ただし、中立的な仲介者ではなく、緊密な同盟者だからこそ対外政策修正に向けて影響を一定程度まで及ぼすことも可能であった。こうした政治外交史的な分析を通して、一般論としての「同盟」のあり方について建設的な示唆を与えてくれるところが興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月26日 (火)

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』

白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)

・ファン・ボイ・チャウの生涯と思想的展開をたどりながらフランス植民地支配下にあったベトナムの民族運動の具体的な動きと思想的特徴を分析、さらに日本・アジアにおける近代化や民族独立をめぐる動向との関わりを検討。
・勤王世代の排仏運動に対し、朝廷はフランスへの協力を命ずるという矛盾→勤王運動の論理は「現在の朝廷は一時的なものであり、やがて本来あるべき姿を回復するはず」。朝廷内の主戦派と主和派との対立も念頭にあった。
・科挙の勉強は不毛だが、その成功は立身出世に必要、解元の肩書きは対世間的に有効、政治的アジテーションには漢学の素養が不可欠。また、漢学の素養は中国・日本の人士と接触する上で役立った。
・紳豪層国家権力と村落「自治」の接点、しかし朝廷は傀儡化。フランス支配下で科挙廃止、官人機構の変質→紳豪層の危機感。
・中国伝来の「新書」→改革の必要性を触発(洋務運動、変法自強運動)、日本の情報、世界情勢や西洋事情を知る。
・フランスによる植民地支配下という亡国の現状→植民地支配体制打破が先か(ファン・ボイ・チャウ)、体制内改革が先か(ファン・チュウ・チン)→チャウの判断では朝廷での体制内改革は不可能→フランスを排除するために武力闘争路線→出洋救援。
・チャウの思考には「国」概念の混乱があって、民族が「国」なのか国王が「国」なのか?阮朝はすでに「虚君」→亡「国」。しかし、「種」は存続しており、これを基盤にして救「国」→「種」=民族が主で、朝廷・国王は末だとも解釈できる。
・チャウは同志を求めてベトナム全国を歩いてカトリック教徒とも接触、彼らやさらには対仏協力者も含めて「ベトナム国民」という意識。それは阮朝官人の「巡礼圏」と重なる。実感的把握、伝統的「共同体」の再解釈によって「国民」「同胞」の意識。
・政治的に覚醒した紳豪層が運動の中核となる。
・社会進化論的視点(蛮種から華種への進化)と伝統的小中華観念との接合→キン族の優位性、少数民族へは無頓着。キン族は仏領インドシナという地域的枠組みの継承者として当然視→キン族中心の「国民国家」+フランスから継承したインドシナという枠組みにおけるベトナム「帝国」。
・「私利」よりも「公徳」を重視、「民権」論は「国権」論に包摂される。
・チャウは孫文などとの対話で民主制の長所は認める。ただし、ベトナムの「国民の程度」はまだそこまでには達していない→人心」に呼びかける「手段」としてクォン・デを擁立、ただし考え方は未整理だった。
・チャウの対日本観:①「同文同種亜洲」→「アジア主義」、②欧米列強と対等な「文明国」「強国」→「脱亜入欧」、両者の矛盾をどのように捉えていったかという問題。
・チャウは日露戦争中に渡日、梁啓超らから武装闘争の前にまず人材育成という助言を受けて、ベトナム人青年の留学を推進→東遊運動→当時、日本へは多くの中国人留学生が来ており、こうした風潮にベトナム人も便乗できた。また、渡日ベトナム青年はみな伝統的知識人階層の出身→漢字文化を媒介として日本人・中国人と交流できた。日本はフランスの眼を気にしているため、ベトナム人留学生は中国人を装う。
・日本で初めてベトナム民族運動の出版活動が可能となった(チャウ『越南亡国史』はベトナム民族運動で初めて印刷された書)→不特定多数に向けたコミュニケーション手段の獲得。
・渡日ベトナム青年にはフランス直轄支配下にあった南圻(ナムキ)出身者が多い→漢学教育が地盤沈下した一方で教育組織が不十分なため海外留学志向、華僑を媒介として華南など海外との接点→政治的意思を持たない留学生も多く、そこにスパイが入り込む余地も。
・日本での自由な活動、ベトナム各地の出身者が一定地域(横浜、東京)に集中して暮らす、年齢構成も近い→留学先の日本で「国民」共同体を体現。
・チャウは日本の特質を讃美、返す刀でベトナムの現状を批判→この美徳は日本人が自助努力で獲得したもの→ベトナム人にだってできるはずだ→先進国、後進国の対比として、一元的な文明進歩史観→社会ダーウィニズムと結びつく。
・チャウは生存競争の現実を直視。弱者のベトナムを強者に転ずるのが「新しいベトナム」。日本は「自強」に成功したから強国として台頭したのだと捉え、ベトナムをその強者としての日本へ同一視したい願望。清を破り、琉球・台湾を併合した事実をチャウは知っていたからこそ日本への憧れ。目指すべきは勝者日本であって、併合された敗者琉球ではない。
・チャウの文明論では、経済的側面(殖産興業)よりも、精神的側面(公徳心、愛国心、同心、大和魂)への関心が強い。
・チャウの『越南国史考』→ナショナリスト的な革命史観で叙述した最初のベトナム史。
・「亜洲和親会」(1907年)とチャウの言う「東亜同盟会」は同じ組織と見てよい。章炳麟を会長として、チャウの他に張継、劉師培、大杉栄、堺利彦、宮崎滔天、インド人D氏、フィリピン人某等々。この1907年には日仏協約など→アジア各地の活動家たちと交流しながら日本の対アジア政策への不信感が醸成されており、これは退去命令以前のこと。
・1909年3月8日、チャウは日本から追放され、東遊運動は終焉を迎える。追放後、香港から小村寿太郎外相宛書簡で、西欧列強と結託する日本に対する激しい抗議。
・フランスによるベトナム支配に反発しつつも、ベトナムがラオス・カンボジア等に対して支配・被支配の関係になる民族問題の重層構造への自己批判の視点はチャウにはなかった。
・ベトナム民族運動において勤王抗仏運動が第一世代、チャウたちが第二世代、近代的学校に学んだ経験を持つグェン・アイクォクたちが第三世代。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月24日 (日)

何盛三についてメモ

 何盛三(が・もりぞう)の名前は老荘会等の人脈でよく見かけていたものの、何者か知らなかった。潘佩珠(川本邦衛・長岡新次郎編)『ヴェトナム亡国史・他』(平凡社・東洋文庫、1966年)所収の解説論文である長岡新次郎「日本におけるヴェトナムの人々」を読んでいたら彼のプロフィールが紹介されていたのでここにメモしておく。本書所収の潘佩珠「獄中記」は政教社の雑誌『日本及日本人』掲載の訳文を底本としており、訳者名は南十字星となっているが、これは何盛三のペンネームとされている。また、後年、落魄したクォン・デのもとを訪れる数少ない一人として彼の名前も挙げられている。

 明治18年、東京出身、旧幕臣で海軍伝習のため榎本武揚らと共にオランダ留学経験のある赤松則良の三男。長崎で帰化した中国人の家柄である何家の養子となった。養父は幕府の唐通詞だった。学習院を経て京都帝国大学法学部経済学科に入学、河上肇の授業も受けた。卒業後は住友鉱山、久原鉱業などに勤務、しかし俸給生活にあきたらず、大正5、6年頃に辞職。この頃から中国語、エスペラントに習熟し始め、数回中国大陸にも渡る。善隣書院の教師をしたり、「北京官話文法」を著した。大正8年、老荘会の会員となる。この頃、大川周明ら猶存社のメンバーになったのではないかと推測されている。昭和22年、満洲ハルビンから引揚、昭和26年青森県八戸市で死没。長男の何初彦氏の言として、軍人や権威を笠にきていばる連中が嫌いで、一生「官」に仕えることをしなかった点が彼の人格的、思想的特色でもあろうか、とのこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

潘佩珠について

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の生涯を知るには潘佩珠(川本邦衛・長岡新次郎編)『ヴェトナム亡国史・他』(平凡社・東洋文庫、1966年)所収の解説論文である川本邦衛「潘佩珠小史──その生涯と時代」、長岡新次郎「日本におけるヴェトナムの人々」がまず取っ掛かりになる。本書所収の「獄中記」は潘佩珠自身の手になる自伝であり、政教社の雑誌「日本及日本人」掲載(昭和4年)の南十字星(何盛三)による訳文が収録されている。また、内海三八郎(千島英一・櫻井良樹編)『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝──日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯』(芙蓉書房出版、1999年)には、潘佩珠がフランスによって軟禁されていた時に書いた「自判」(いわゆる「潘佩珠年表」)の漢文原文が収録されている。内海による伝記はこの「自判」の解説を意図して書かれたものである(なお、内海は戦前から商社員・外務省嘱託としてヴェトナムとの関わりがあった人で、小松清『ヴェトナム』[新潮社、1954年]での潘佩珠の描き方に不満があって「自判」の復刻出版に情熱を持っていたという。本書は氏の死後に出版された)。ヴェトナム独立運動における潘佩珠の位置付けについては白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巌南堂書店、1993年)が詳細な議論を展開している。なお、後藤均平『日本のなかのヴェトナム』(そしえて、1979年)でも潘佩珠は取り上げられているが、ヴェトナム反戦運動当時の息吹を感じさせる著者の筆致には癖が強すぎて、今では読むに耐えないという印象を持った。

 日本で刊行されている潘佩珠の著作としては、自伝的な上掲「獄中記」「自判」のほか、『ヴェトナム亡国史・他』所収の表題作「ヴェトナム亡国史」(梁啓超の勧めによって執筆・印刷したという経緯があるため、梁のコメントも記されている)、「天か帝か」、「海外血書」がある。また、鄧搏鵬(後藤均平訳)『越南義烈史──抗仏独立運動の死の記録』(刀水書房、1993年)は独立運動で散っていった人々の伝記であり、潘佩珠は修訂者となっているが、彼自身の著作だとも言われている。

 上掲の川本論文、長岡論文、内海書を読みながらとったメモを以下に箇条書き。
・潘佩珠(巣南サオナム、是漢ティハーン)は1867(阮朝嗣徳20)年、北ヴェトナムのゲアン省に生まれた。
・フランスによるコーチシナ(南部)直轄植民地化、アンナン(中部)・トンキン(北部)の保護領化、咸宜(ハムギ)帝のアルジェリア流刑といった時代状況下、青年期の潘佩珠も仲間を集めて武装蜂起を志したが、彼の村も焼き討ちされてしまった。
・1900年、34歳のとき郷試をパスして解元。
・1903年、独立運動の盟主となる皇族を探してクォン・デと出会う。
・1904年、維新会の元となる組織を結成、同年末に独立運動の支援(武器調達)を求めるため潘佩珠は密かに日本を目指してまず香港へ渡った(当時、ヴェトナム人の海外渡航は厳しく制限されていた)。ちょうど日露戦争の最中、バルチック艦隊がヴェトナムのカムラン湾に寄航中という状況で香港から日本へ向かう船がなく、上海へ行く。日本海海戦で日本勝利後、日本語のできる中国人留学生の協力を得て中国人になりすまして1905年6月、神戸港に入港。
・日本事情が分からないので、かねてより傾倒していた梁啓超を訪問、筆談で会談。
・梁の助言:①ヴェトナム自身の実力、②両広の援助、③日本の外交上の声援が必要。あくまで日本の軍事支援を求める潘佩珠に対して、梁はそれは無理だと答える。仮に武力でフランスを追い出せても今度は日本がそのまま居座る恐れがあるぞ。ヴェトナム自身の実力、つまり一般民衆の気概や知力としっかりしたリーダーがいなければ、②・③はかえって災いとなりかねない。人材育成が先決だと勧める。
・梁の勧めで「ヴェトナム亡国史」を執筆。梁の紹介で大隈重信、犬養毅、柏原文太郎と知り合う。
・日本、香港、ヴェトナムを行き来して、広東では劉永福と会う。
・1906年、クォン・デが来日。日本側有力者(細川護成、福島安正、根津一)と連絡をとって留学生受け入れの準備→振武学校(クォン・デも中国人阮中興という偽名で入学)・東亜同文書院など。日本はフランスへの気兼ねがあって官立学校へのヴェトナム人の入学は難しく、中国人として入学。梁啓超の勧めで「勧国民助資遊学文」を執筆してヴェトナム人青年に海外留学を呼びかける→東遊(ドンズー)運動。
・犬養の紹介で孫文と会う。この時は孫文の共和制、潘佩珠の立憲君主制と意見は合わなかったが、協力関係。
・日仏協約(1907年)によるフランスからの圧力→日本政府はヴェトナム人留学生組織「新越南公憲会」の解散を命令、潘佩珠、クォン・デたちにも国外退去を求める。このとき、浅羽佐喜太郎がヴェトナム人留学生たちを支援。
・潘佩珠は香港、タイへ行き、抗仏武力闘争をしている黄花探のため武器調達をするが、失敗。
・辛亥革命・中華民国成立→1912年、潘佩珠も南京へ行き、孫文、黄興、陳其美らと再会。ただし、中国からの援助は期待できず。維新会を解散してヴェトナム光復会→中国の革命派と連携、劉永福も協力。
・袁世凱派の広東督軍・竜済光が仏印総督の要求によって潘佩珠を逮捕。獄中で「獄中記」を執筆。1917年、竜済光の失脚により自由の身となった。
・台湾出身の楊鎮海:日本統治下の台湾総督府医学校卒業後、独立運動→逮捕→獄卒を殺害して上海へ逃亡。さらにヴェトナム人籍に入ってヴェトナム光復会に入党、執行委員の一人となる。
・1917年、サロー総督(弾圧政策の見直し)と和平交渉の話があったが、まとまらず。
・1920年、北京で蔡元培の紹介によりソ連駐華大使館参事官と面会。
・1924年、メルラン総督襲撃事件。同年、蒋介石と会い、黄埔軍官学校にヴェトナム人留学生受け入れを以来。ヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組。
・1925年、上海でフランス警察に逮捕され、ヴェトナムへ移送、終身懲役刑の判決。しかし、ヴェトナム人側の反発が激しく、ヴァランヌ総督(社会党代議士、宥和政策)は潘佩珠を釈放。ただし、フエに移送して軟禁状態。
・1940年10月29日、フエで病没。その一ヶ月前の9月には日本の仏印進駐が始まっていた。なお、上掲『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝』解説に引用された内海三八郎の回想によると、晩年、フエで軟禁されていた潘佩珠宅を内海が訪問したところ居留守を使われたという。同志意外の人間には会いたくないという強い意志を感じた、と記している。自分たちを裏切った日本人には会いたくない、ということかもしれない。

 田中孜『日越ドンズーの華──ヴェトナム独立秘史 潘佩珠の東遊(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』(明成社、2010年)は、ヴェトナム人留学生を支援した浅羽佐喜太郎と潘佩珠との交流に焦点を合わせている。浅羽は東京帝国大学出身だが在野で医院を経営。浅羽が道で行き倒れていたヴェトナム人留学生をたまたま助けたのを縁に、潘佩珠は支援を依頼。自分の願いが厚かましいのではないかと心苦しく感じていたところ、浅羽は快諾、日本政府から国外退去の命令が出ていたが、潘佩珠やヴェトナム人留学生たちは浅羽邸に起居。潘佩珠が密かに日本へ戻ってきたとき、浅羽がすでに亡くなっていることを知って潘佩珠は浅羽を顕彰する碑文を彼の郷里である静岡県浅羽村(現・袋井市)に建立。ただし、ヴェトナム人留学生をかくまったことで警察からにらまれていたので、浅羽の遺族がこうした経緯を公にしたのは戦後になってからだという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月23日 (土)

西木正明『さすらいの舞姫──北の闇に消えた伝説のバレリーナ崔承喜』

西木正明『さすらいの舞姫──北の闇に消えた伝説のバレリーナ崔承喜』(光文社、2010年)

 まだ映像技術が今ほど発達していない時期のことだから、崔承喜の踊る姿を私は見たことがない(残された映像素材を使ったドキュメンタリーはあるらしいが、未見)。ただスチール写真を見ると、大柄な身体にエキゾチックな美貌で、これが動き始めたら優雅さ漂うダイナミックなものになるだろうとは想像できた。それ以上に後世の耳目を引き付けるのは、彼女がたどらざるを得なかった波乱万丈な人生の軌跡であろう。

 日本の植民地支配下にあった朝鮮半島。石井漠の下で研鑽を積んだ東京で花開くモダニズム文化。初めて海外公演をした欧米や慰問旅行で訪れた中国大陸。夫となった安漠を通しては朝鮮独立運動をめぐる緊迫した政治情勢も見えてくる。そして彼に従って身を投じた北朝鮮で権力闘争に巻き込まれ、やがて消息は途切れる。主人公の魅力、スリリングな謎をはらんだ時代状況、小説にするにはまさにうってつけの題材だ。

 本書はそうした崔承喜の波乱に満ちた生涯を小説仕立てでたどっていく。彼女を描くことを通して著者は彼女が抱えていた何を見つめようとしているのかが私には読み取れず、小説としては冗長・平板な印象もある。それでも興味深く入り込んでいけるのは、それだけ崔承喜という人が歩んだ道程の醸し出す魅力がドラマティックだということだろう。

 なお、崔承喜については以前にこちらで取り上げたことがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月22日 (金)

ロバート・A・スカラピーノ『アジアの激動を見つめて』

ロバート・A・スカラピーノ(安野正士・田中アユ子訳)『アジアの激動を見つめて』(岩波書店、2010年)

 東アジア政治論の泰斗ロバート・スカラピーノ。まだご存命だったとは驚いた。最近読んだジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚──日本と暮らして四五年』(日経BP社、2008年)もなかなか面白かったが、このカーティスよりもさらに一世代上である。戦後アメリカにおける日本研究の第一世代が宣教師の息子だったE・ライシャワー、E・H・ノーマン(彼はカナダ人だが)たちとするなら、次の世代は第二次世界大戦での対日要員養成をきっかけとしてジャパノロジーにのめり込んだ。最近、中田整一『トレイシー──日本兵秘密捕虜尋問所』(講談社、2010年)でも取り上げられていたコロラド州ボールダーの海軍語学学校で養成が行われており、スカラピーノもそこで日本語を学んだ。他にもドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカーなどもここの出身である。彼らも回想録を出しているから(ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』[中央公論新社、2007年]、エドワード・サイデンステッカー『流れゆく日々』[時事通信社、2004年])、今度ひまな時にでも読んでみるか。

 日本、中国、朝鮮半島、弟子たちとの共同研究も含めて東アジア地域をテーマに多くの業績を残し、調査や学術交流のため各地を頻繁に訪問。足取りはさらにロシア沿海州やモンゴル、東南アジア、南アジアまで広く及ぶ。自身の生い立ちを語るよりもそうした各地の印象記の方が多く占め、それは戦後東アジア政治史私見といった趣があって興味深い。観察はオーソドックスでバランスが取れている。ただよく考えてみると、現在の私が当たり前のように感じることでも、冷戦の真っ只中では必ずしもそうではなかったわけで、それだけ著者の観察眼はしっかりと地に足の着いたものだったと言えるのだろう。末尾のまとめでは、国際主義の進展、他方でナショナリズムの政治利用、アイデンティティ模索としての共同体主義といった問題点を指摘、取り組むべき課題が「人間の安全保障」というキーワードで括られる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ──「日仏協力」の研究』

立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ──「日仏協力」の研究』(彩流社、2000年)

・日本軍による仏印進駐以降、第二次世界大戦における日仏関係を国際関係論の枠組みで分析した研究。「進駐」という表現を使うと日本軍の一方的な政治事象のように思われかねないが、進駐されたフランス側にも独自の論理があった。つまり、植民地におけるフランス(ヴィシー政権)の主権維持という国益にはかなっていたところに「日仏協力」という双方の思惑の一致が見出される。
・仏印での援蒋ルートに対する日本の抗議→日本を刺激するのを避けつつ輸送は続けるという二律背反の態度→アメリカの関与を期待していたが、その前に日本の南進を招いてしまった。
・フランス本国の対独休戦:ヒトラー主導のヨーロッパ新秩序の中でもドイツについで二番目のポジションを占めたい→そのためには植民地とフランス艦隊の温存が必要。
・仏印に対する二つの心配:イギリスにとられてしまうのではないか? ド・ゴールの「自由フランス」側に寝返るのではないか? ド・ゴール派のカトルー総督を更迭、ダルラン提督の命令に忠実なドクー極東艦隊司令長官を任命。
・仏印経済のモノカルチュア的脆弱性。厭戦気分。仏印駐留軍と日本軍との圧倒的な戦力差→カトルー総督のときからすでに対日譲歩の姿勢を示していた。
・1940年8月30日「松岡(洋右)・アンリー(駐日大使)協定」→仏印の「静謐保持」→仏印は「大東亜共栄圏」の中に取り込まれたが、フランスの主権維持を約束したため「アジア解放」の大義名分と矛盾→「静謐保持」を望む軍部(兵站確保、不慣れな土地ではフランスの植民地統治機構を利用)と「安南独立」志向の外務省・大東亜省、さらには松岡外交と重光葵(1943年に外相就任)の「大東亜新政策」(戦争目的に「アジア解放」)との対立へつながる。
・1940年9月の北部仏印進駐から太平洋戦争開戦に至るまで日仏は複数の軍事協定を結び、仏印における「共同防衛」体制を形成。ただし、仏側は後方支援のみでそれ以上の積極性はなし。それから、経済協力(ただし、仏側の非協力による停滞もあり)。
・タイと仏印との領土紛争で日本はタイ側に肩入れして調停。それでも立場の弱い仏印は日本の調停案に従わざるを得ず。
・1944年8月のパリ解放、ヴィシー政権消滅後もドクー総督は留任。日本の敗色濃厚→日本側は仏印の寝返りをおそれて軍部が「仏印武力処理」を決意(1945年3月9日)。
・フランスの対独協力と対日協力を比較:前者は敗戦による負担の中で状況改善が目的、軍事・経済のほか政治・行政など全般にわたって協力、労働力の提供、ユダヤ人狩りに協力→フランスにもナチスに積極的に共鳴した人々がいた。対して後者では、現状維持が目的で、軍事・経済のみの協力、日本側に共鳴したフランス人はいない。
・ニュー・カレドニア奪還、マダガスカル防衛→ヴィシー政権のダルラン、ラヴァルは日本との協力を期待。ただし、ミッドウェー海戦敗北でニュー・カレドニア奪還は無理、マダガスカルは遠すぎた。広州湾進駐はフランスの主権を認めるという条件、他方で仏印当局は汪兆銘政権を承認せず。
・日仏協力のバランスシート:日本側にとっては経済面では不十分だったが、軍事面では仏印を十分に活用できた。フランス側にとっては、仏印処理で一時的な空白はあったものの、すぐに日本敗戦→主権を基本的に維持できた点でプラスだった。ドクー総督についても、対独協力した他のヴィシー政権高官に比べたら肯定的評価をする見解もフランスにはある。
・「アジア解放」という大義名分を掲げつつも日仏共同統治という形で例外扱い→現地の親日的な独立運動家たちに対して裏切り。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』

森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)

 畿外侯クォン・デはベトナム阮朝の王族、フランス植民地支配下にあって呻吟するベトナムの独立を志し、師と仰ぐファン・ボイ・チャウの影響の下、支援を求めて来日した。頭山満をはじめとした玄洋社人脈、犬養毅、中村屋の相馬夫妻などの庇護を受けたが、フランスとの関係悪化を恐れた日本政府からは厄介者扱いされ、戦争が始まると「アジア主義」という大義名分のコマとして翻弄されてしまう。結局、ベトナムへ帰国できないまま1950年、東京で客死した。

 クォン・デの生涯をたどりながら、取材過程も併走させるストーリー仕立て。森達也がなぜベトナムの亡命王子に関心を?というのは不思議だったが、ベトナム人留学生から「なぜ日本人はクォン・デを知らないのですか? 日本に殺されたようなものなのに」と強い口調で言われて以来、気にかかっていたらしい。日本に期待してやって来て、日本に裏切られ、その点で日本の「アジア主義」の矛盾した仕打ちの典型例であるのに、彼の存在が忘却されているのは二重の意味でひどい、そうしたうめきを感じ取っている。私自身も似たようなものだ。クォン・デの名前くらいはさすがに知ってはいたが具体的な事跡はよく知らず、久生十蘭の小説『魔都』でフランス警察に付け狙われている安南王子は彼をモデルにしているのかなあ、という程度だった。だが、ベトナム取材で会った人々の様子では、かの地でもすでに忘れられ始めている。社会主義政権独特の「難しさ」も作用しているようだが。

 「アジア解放」という善意と権力政治のロジックによる対外侵略、両方が絡まりあっている矛盾に「アジア主義」理解の難しさがある。現代日本社会批判に絡めたがる著者の筆致には時に違和感を感ずることもある(この人の書くものは、テーマは興味深いのに、筆が走りすぎという印象がいつも残る)が、他方で、例えば頭山満について形式論理では解きがたい「情」の部分を汲み取ろうともしている。変に右翼的な紋切り型と比べたらはるかに良い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月21日 (木)

ファム・カク・ホエ『ベトナムのラスト・エンペラー』

ファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)

 著者はもともと阮朝の宮廷に仕える高級官僚であったが、ベトミンの革命政権に参加したという異色の経歴を持つ。1945年3月、日本軍による仏印処理から日本の敗戦、八月革命によるベトナム民主共和国の成立、フランスとの交渉が決裂して1946年に第一次インドシナ戦争が勃発、そして著者が1947年9月に革命政権側に身を投ずるまでの二年半の回想がつづられている。

 日本軍は仏印進駐後もフランスの植民地統治機構をそのまま温存して日仏共同統治という形をとっていたが、やがて敗色濃厚、フランス側に不穏な動きがあるとして武力クーデターをおこした。このいわゆる仏印処理で騒然とする古都フエの晩から本書は始まる。ベトナム独立という建前をとるために日本側はバオダイを擁立、チャン・チョン・キムに内閣を組織させた。著者は宮廷の官房長官としてバオダイの身近に仕え、独立宣言は彼が起草した。しかし、内閣は足並みがそろっておらず、また一般庶民と宮廷政治との乖離も目の当たりにすることになる。日本の敗戦、八月革命と続いてホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の成立を宣言する成り行きの中で著者はバオダイに自発的な退位を進言、ベトナム民主共和国へと合流する。独立を前提としたフランスとの交渉団にも参加したが、フランス側の強硬姿勢を前にして決裂、1946年12月の武力衝突を機に第一次インドシナ戦争へと展開していく。ハノイにいた著者はフランス軍によって身柄を拘束された。今度はフランスが再びバオダイやチャン・チョン・キムたちを手もとに集めており、著者もサイゴンに移送されてから懐柔工作を受けるが拒絶。傀儡政権であるコーチシナ共和国の乱脈ぶりを目撃。さらにハノイに移送されたところを脱出、ベトミン側に身を投じた。

 ここまでたった二年半はあるが、ベトナム現代史におけるその後の行方の分かれ道となった出来事が凝縮されている。バオダイ政権、フランスとの交渉、ベトミン政権とそれぞれの内情を当事者として一人ですべて目撃した貴重な証言であり、様々な人物群像に彩られたドラマとしても興味深い。なお、邦題からはバオダイが主人公のようにも思われるし、私も読み始める前には、例えばレジナルド・ジョンストン『紫禁城の黄昏』のようなものかとも想像していたのだが、実際にはバオダイに関する記述は多くない。遊び人であった彼に対する評価はからい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月20日 (水)

高田洋子『メコンデルタ──フランス植民地時代の記憶』

高田洋子『メコンデルタ──フランス植民地時代の記憶』(新宿書房、2009年)

 ベトナム史では「北属南進」という表現がよく見られる。現在の地図で見るとベトナム社会主義共和国の最南部に位置するメコンデルタまで狭義のベトナム人(=キン族)が到達したのはそう古いことではない。この辺りはもとから住んでいた人々、新来の人々、様々な来歴を持つ人々が混住している。本書はこうしたメコンデルタの農村での聞き取り調査の記録である。老人たちの語りをできるだけ多く採録して解説は控えめに抑え、写真もふんだんに収録して現地の様子をイメージしやすいように構成が工夫されている。社会主義政権下で監視付きの調査とならざるを得なかったらしく色々と制約も大きくて語られていない肝心なことも多いのかもしれないが、そうした中でも複雑に入り組んだ多民族の状況が窺われて興味深い。

 北から南へと開拓にやって来た祖父母の世代のことをベトナム人老人たちはまだ覚えていた。また、父母のどちらかの系統に華人の血が混じっているベトナム人も多い。それから、フランス人大地主の記憶。建物も残っている。ゴ・ディン・ジェム政権下で土地の分配を受けたキリスト教徒(ゴ政権はカトリック優遇政策をとっていた)。社会主義政権になって土地改革で土地を失った人、もらった人。この地域はクメール人も多く住んでおり、ロン・ノル政権副首相のソン・ゴック・タン、ポル・ポト政権のイエン・サリ、キュー・サム・ファンなどの実家もあるらしい。子供三人がカンボジアへ勉強に行き、ポル・ポト政権になってから音沙汰がなくなったと嘆くおばあさんの語りもあった。第一次インドシナ戦争のとき、ベトナム人は基本的に反フランスだが、クメール人はフランス支持、華人は中立の態度を示したという。植民地期の分断政策の跡が見える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月18日 (月)

田村志津枝『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男──母語を蘇らせる物語』

田村志津枝『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男──母語を蘇らせる物語』(現代書館、2010年)

 台北へと向かう飛行機に乗っていたときのこと。アナウンスに耳をすませていたら、日本語、中国語、英語、ここまでは私にも何となく分かる、だが、四つ目の言葉がさっぱり分からない。これが台湾語か、と思い、飛行機を降りるときに台湾人のスチュワーデスさんに尋ねてみると、やはりそうだった。「台湾語は声調がたくさんあって難しいです。ときどき年配の方から、あなたの台湾語は違う、なんて怒られてしまうこともあります」。若くて物腰の洗練された人だったから、おそらく都会育ちなのだろう。そういう若い世代にとっては国語=中国語が日常語であって、台湾語は後から学んだ言葉なのか、と想像した。

 本書の著者は台湾ニューシネマの日本への紹介者としてよく知られている。国民党政権下、国語=中国語が公的な場で強制されていた台湾社会ではあるが、生活感覚のリアリティーを表現するためには一般庶民が使っている普段の日常語=台湾語を映画中でも語らせる必要が痛感されていた。その作風上の新潮流に、やがて戒厳令解除、政治レベルにおける本土化といった趨勢も重なっていく。

 こうした中、侯孝賢監督「悲情城市」に出てきた「幌馬車の歌」をめぐる疑問について調べているときに著者は本書の主人公であるアーロンに出会ったという。コンピューター・プログラマーである彼は台湾語の辞書、さらには発音まで再現できるソフトの制作に全身全霊を込めて取り組んでいた。それは日本統治期、国民党政権期を通算すると百年にもわたって公的権利を奪われてきた母語の復活を目指す努力であった。本書は彼との交流をつづりながら日常語をめぐる台湾社会での葛藤を浮き彫りにしていく。

 言語的差異に基づく階層性は、日常生活全般にわたって影響する問題であるだけに、深刻な政治性を各人の皮膚感覚の中へと刻み込んでしまう。台湾語復権の運動といえばまず王育徳の名前が思い浮かぶが、それは同時に台湾独立運動とイメージ的に結び付く。長年にわたる戒厳令下の経験から政治を語ることはタブーとなっており、そのことによる恐怖感や屈辱巻はアーロンのもらす述懐にも時折垣間見える。だが、言語の問題を政治的争点として前面に打ち出すと、それは対立という契機をも浮上させてしまうあやうさもはらむ。

 アーロンは、台湾語は美しい言葉だという。もちろん言語の美しさに客観的な基準があるわけではない。ここには、この土地でずっと耳になじんできた言葉によって喚起される思い出、人々とのつながり、そういった諸々の感慨の込められた愛惜の念が見て取れるだろう。皮膚感覚になじんだ自然な言葉を使って暮らすことは自分たちの存在理由の根本に関わっており、それが不自然に疎外されてしまうのはおかしい。そうした暗黙ながらも強い思いは、ひたむきにプログラミング作業に打ち込むアーロンの姿からおのずと物語られている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月17日 (日)

フランス文学者・小松清とヴェトナム独立運動

 小松清(1900~1962)はアンドレ・マルローの紹介などで知られたフランス文学者だが、ホー・チ・ミンの評伝や1945年の日本軍による仏印処理前後の経過などにも名前が出てきて、どんな背景を持った人物なのか気になっていた。日本・フランス・ヴェトナムの三角関係、フランス仕込みの国際主義と日本的な汎アジア主義との絡み合い、これらが一点に凝縮された人物として考えてみると興味深い。

 彼についての評伝として、林俊/クロード・ピショワ共著『小松清──ヒューマニストの肖像』(白亜書房、1999年)という本を見つけたので目を通した。読みながら関心を持ったところだけとったメモを箇条書き。
・神戸出身。神戸高等商業学校に入ったが、文学や社会問題への関心が強く、「商業算術なんて資本家の搾取の手段やないか」と言って先生と喧嘩→退学。北澤新次郎のツテをたどって東京に出て、早稲田の建設者同盟にもぐりこむ。とにかく海外へ出たい!という思い→シカゴ大学への入学手続きをしたが、アメリカは労働運動の温床だと危惧した外務省から旅券がおりず。親族のツテで外務省に頼み込んだところ、フランスならばと許可された。
・1921年7月、パリへ。同じ船には坂本繁二郎、小出楢重、硲伊之助、林倭衛らがいた。
・フランスに到着して間もなく、サッコ・ヴァンゼッティ事件関連の集会に出ていたところ、阮愛国から声をかけられて付き合いが始まる。文学志向の小松は革命家の阮とは肌合いが違ったが、敬意を持つ。他に、アンリ・バルビュス、大杉栄などとも会った。
・アンドレ・マルロー『征服者』を読んで感激、会いに行ってマルローと親交が始まる。『人間の条件』に出てくるKyoには小松の姿も重ねあわされているらしい。また、アンドレ・ジイドの知遇も得た。
・1931年10月に帰国。1937年8月に報知新聞特派員として再びパリへ。ルポルタージュ文学という武器でマルローと共にスペイン戦争に参加したいと思ったが、スペイン共和派側に日本人=ナチスと組んだファシストという偏見があって入国を拒否された。
・1940年、パリ陥落。大使館のトラックに乗って脱出、ボルドー、スペイン、リスボンを経て日本へ帰国。神戸に上陸直後、特高の取調べを受けた。
・1941年5月、改造社特派員としてフランス領インドシナへ到着、7月に帰国。水島治男(『改造』編集長)や小牧近江らと共に東京・ハノイを結ぶ「水曜会」をつくり、在東京越南復国同盟のリーダーであるクォンデと接触。越南独立運動には大南公司社長・松下光弘の支援。また、小松は仏印独立のため松井石根、大川周明とも接触。
・1941年12月9日、かつて人民戦線に関わっていたことから特高に連行された→1942年3月に釈放。それからは翻訳に取り組み、その中にはフランス語からの重訳でヴェトナムの古典『金雲翹』もあった。
・1943年4月、在サイゴン日本大使府全権公使として赴任する田代重徳の私設秘書として同行。反仏植民地闘争のためヴェトナム側の重要人物と接触。その中にはゴ・ジン・ジェム、社会民主主義者のファン・ニョック・タックなどもいた。
・1944年1月に大使府を辞し、ハノイに行って日本文化会館主事・小牧近江の顧問。この頃には、日仏協調→ヴェトナム人を圧迫という構図に不満を抱いていた様子。
・日本人とヴェトナム人との友情をテーマとした小説をフランス語で執筆、それを友人のグエン・ジャンがヴェトナム語訳して雑誌連載。
・日本軍がフランス植民地当局を武力攻撃した仏印処理(1945年3月)の際、小松もヴェトナム人の仲間と一緒にフランス刑務所を襲撃、ヴェトナム人政治犯を釈放。
・仏印処理後の事態収拾に向けてクォンデ擁立などの話もあったが東京が承認せず、ゴ・ジン・ジェムにも声がかかったが彼は固辞。結局、バオダイ帝が独立宣言、チャン・チョン・キム内閣→しかし、外国支配の構図は変わらないので不満、ヴェトミンの抗日ゲリラ活動が活発化。
・小松もバオダイ政権など当てにしていなかった。憲兵隊からにらまれていたが、日本軍司令官と個人的に親しかったので圧迫は受けていなかった。
・1945年11月、ハノイでホー・チ・ミンと会見。かつての阮愛国だが、会った印象は「どうも別人ではないか?」。パリで会った阮愛国の西欧風のたたずまいに対して、この時のホーは東洋的哲人の風貌、それに背丈も違う。ただし、敬意は持った。
・ハノイのフランス代表部主席ジャン・サントニーとヴェトナム民主共和国のホーとの交渉に小牧近江と小松が仲介することになる。フランス刑務所襲撃や日本軍首脳と関わりを持っていたことが戦犯容疑になるのではないかと危惧していたが、おとがめなし。交渉の準備が進んだところで、1946年6月に日本へ帰国(その後、この交渉は決裂→第一次インドシナ戦争へ)。
・フランス植民地主義への批判をしつつ、同時にフランスには自国政府の間違いを指摘するマルローをはじめとした良心的知識人もいることを小松は強調。
・戦後は日仏文化交流に尽力。

 ヴェトナム人の書いた小松清論としてはビン・シン(高杉忠明・松井敬訳)「小松清 ベトナム独立への見果てぬ夢」(上下、『世界』2000年4、5月)がある。筆者はアルバータ大学教授となっているが、『評伝徳富蘇峰──近代日本の光と影』(杉原志啓訳、岩波書店、1994年)をむかし読んだことがあった。日本は「アジア解放」という大義名分を掲げつつも、それは「大東亜共栄圏」の一部としてのヴェトナム「独立」であって日本の支配下に入ることになる。そうした戦時期日本のヴェトナム政策と現地のヴェトナムの人々の思いとの間には大きな乖離があり、小松はその自己矛盾に呻吟しつつも、ヴェトナム側の目には同じ戦争工作協力者として映るわけで、その点で戦後ヴェトナムでの小松への評価は芳しいものではなかったようだ。この論文はそうした日本のアジア主義の矛盾を踏まえつつ、その中で葛藤した国際派知識人としての小松に目を向けようとしている。

 小松自身によるヴェトナム関連の著書としては戦前に『仏印への途』(六興商会出版部、1941年)があり、「南進」というテーマに関心を持つ人々には読まれたようだが、刊行時、本人は特高につかまって臭い飯を食っていた。戦後は『ヴェトナムの血』(河出書房、1954年)という小説もあるらしい。『ヴェトナム』(新潮社、1955年)は手に取って読むことができた。ヴェトナム概論のように思わせるタイトルだが、ファン・ボイ・チャウ、それから小松自身が付き合いのあったクォンデの二人を軸に、ヴェトナム独立運動と日本との関わりが描かれている。戦後、東京で暮らすクォンデの落魄した姿から説き起こされる(彼は慶応大学名誉教授・橋本増吉邸にいた)。北は共産主義の傀儡である一方、南には人望がない、第三の勢力として南北の和解ができるのは自分をおいて他にはないというクォンデの言い分に、小松はその情熱は認めつつも、現実的ではないと冷ややか。クォンデの性格に入り込めないものを感じて、彼との関係はあくまでも政治的情熱を媒介にしたものだ、という趣旨のことを記している。ヴェトナム独立への思いをつづりつつ、そこでの日本の裏切りに対する後悔も記されている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【映画】「ローズ・イン・タイドランド」

「ローズ・イン・タイドランド」

 いつも人形相手に「会話」している夢見がちな少女ローズ。母が死に、父に連れられてきた廃屋には、会ったことのない祖母がかつて住んでいたらしい。そこで出会った近所の不気味な兄妹。頭がおかしくなってしまった大人たちの中で、孤独なローズの心象風景がファンタジックな映像で描かれる。現実の耐え難い生きづらさに打ちひしがれて常軌を逸してしまった大人たち。ローズの両親はドラッグのやりすぎで死ぬ。近所の魔女のようなおばさんは、自分の母親の死を受け容れることができず死蝋作りに一生懸命。ロボトミー手術を受けた純真なその弟とは仲良くなる。現実を拒絶した大人たちに対し、ローズのたくましさはこのみじめな現実をファンタジーによって読み替えているところにあると言えるだろう。ファンタジーは単に現実逃避のおとぎ話というのではなく、現実のみじめさ、つらさを読み替え、意味づけすることで、まさにそのいやな現実を生き抜く力ともなり得る。例えば、ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」やガボア・クスポ監督「テラビシアにかける橋」を観たときにもそうした印象を抱いた覚えがあった。テリー・ギリアムのつくる映像は面白くて、独特なカメラ・アングルなど好きだ。ローズ役のジョデル・フェルランドはこの映画当時はまだ十歳前後の子役だが、表情豊かな演技力が素晴らしい。

【データ】
監督:テリー・ギリアム
2005年/カナダ・アメリカ/117分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「シリアの花嫁」

「シリアの花嫁」

 イスラエル軍占領下のゴラン高原。ドゥルーズ派のある一家は慌しい一日を迎えている。末娘の婚礼の日だが、花婿は軍事境界線の向こう側のシリアにいて、嫁入りはすなわち実家にはもはや戻れないことを意味した。婚礼当日はちょうどハフェズ・アル・アサドの死を受けて息子のバーシャール・アサドが大統領に就任する日で、イスラエル警察は親シリア派の動向に神経を尖らせている。一家の父親は親シリア派の政治活動をして逮捕歴があった。本来ならばめでたい日なのに、ぎくしゃくした家族の関係があらわになり、さらには国境越えのトラブル。赤十字の女性職員は手続き上の問題でイスラエル側、シリア側双方の間を右往左往。

 父と息子の葛藤、自立を求める妻とそれに我慢ならない夫。お互いの頑なさが心の壁を作り上げてしまっているわけだが、いずれ和解へと向かう。こうした家族のいざこざを描きつつ、そこには同時に国境なるものも人為的なイマジナリーなものにすぎないという意図も重ねて込められているのだろう。そのあたりが観ながら自然に受け止められて、なかなかよくできた映画だと思った。

【データ】
監督:エラン・リクリス
2004年/イスラエル・フランス・ドイツ/97分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

【映画】「乱暴と待機」

「乱暴と待機」

 人に嫌われるのを極度に恐れる奈々瀬(美波)は、「お前にいつか復讐してやる、ものすごい復讐が思いつくまで待ってろ」と言う山根(浅野忠信)を嬉しそうに「お兄ちゃん」と呼んでいる。ウジウジ、オドオドの受身の態度が、実は男を翻弄する武器。復讐待望で結び付いた二人の倒錯した関係に巻き込まれた夫婦(小池栄子、山田孝之)。

 本谷有希子の原作(メディアファクトリー、2008年)は読んだことがあり、毒気の強いナンセンス密室劇という印象があった。この映画も基本的にはこうした路線ではあるが、郊外のぼろい長屋風の家並み、時折挿入される夕暮れの風景などはどこか寂しげな感じを与える。意図的な演出なのか。この微妙なペーソスのために変態的でブラックなテイストが弱まって、かえってすっきりしない後味の悪さが残ってしまった気がする。

【データ】
監督・脚本:冨樫昌敬
2010年/97分
(2010年10月16日、テアトル新宿にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月16日 (土)

デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』

デイヴィッド・ハルバースタム(山田耕介・山田侑平訳)『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』(上下、文藝春秋、2009年)

 政府・軍司令部から現場で動員された兵士たちまで、資料やインタビューに基づき、朝鮮戦争をめぐる様々な人間模様を主にアメリカ側の視点から立体的に描き出したノンフィクション。一人ひとり癖のある面々を明確に性格づける筆致はときに独断的にも感じられるかもしれないが、描写力にメリハリをつけたアクセントとなって読みやすい。

 当たり前の話だが、戦争というのは単に物量や技術力で算定された軍事力のぶつかり合いというだけでなく、それらを組織・運営する人間の問題、モラールやリーダーシップの問題が決定的な戦局の帰趨を決めてしまう。数学の公式のように戦力計算で結果が予測できるものではなく、人間的要因が思いがけないところから色濃くにじみ出てきてしまう。マッカーサーのパフォーマティヴな自信過剰。中国軍の介入などないと信じるマッカーサーにへつらう取り巻きはそれを前提に情報操作、現場から上げられた情報を無視。政権高官のイデオロギー的フィルター。人種的偏見から相手をみくびる指揮官。様々なレベルでの誤算や失敗が絡まりあって、この戦争という凄惨なドラマが漂流するかのように進行する様が大きく浮き彫りにされる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

田中奈美『中国で儲ける──大陸で稼ぐ日本人起業家たちに学べ』

田中奈美『中国で儲ける──大陸で稼ぐ日本人起業家たちに学べ』(新潮社、2010年)

 中国に行って実際に企業を起こした複数の人々にインタビュー、苦労話や中国社会と付き合うコツを聞き出し、「マーケットを知る」「会社を興す」「人材を掌握する」「マーケットを広げる」「トラブルを回避する」という各章にちりばめながら構成。考えてみると、谷崎光『中国てなもんや商社』(文藝春秋、1996年)を読んで笑い混じりのショックを受けてから14年経つが、ああいう類のトラブルは当たり前という感覚になっているせいか、読んでいて特に驚くようなことはもうない。法的グレーゾーン、物流のトラブル、人事のトラブル、パクリ(山塞ビジネス)など色々と問題はある。文化的背景が違うのだから実際に行って体当たりするしかないわけだが、結局、現地の人と如何に信頼関係を築くかがカギとなりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月15日 (金)

亀山哲三『南洋学院──戦時下ベトナムに作られた外地校』

亀山哲三『南洋学院──戦時下ベトナムに作られた外地校』(芙蓉書房出版、1996年)

・戦争中、サイゴンに開校した南洋学院第一期生の著者によって学院生活、現地応召されて見聞した戦争、戦後の混乱についてつづられた手記。
・南洋学院は昭和17年に仏印総督(フランス)の認可、第一陣は同年12月にサイゴン到着、18年1月に正式開校。戦後の昭和21年2月2日付けで正式に廃校。設立母体は南洋協会、専門学校令に準拠、東亜同文書院にならった運営。農業・経済の総合、修業年限3年(後に短縮)、1学級30名で全寮制の規律生活。到着当初は風土病に難儀。農村調査旅行。事前に小松清『仏印への途』を読んでいる。
・ベトナム語、フランス語を学んだ。サイゴンの中華街ショロンでは北京語ではなく広東語や福建語が必要。
・フランス映画館ではヴィシー政権の標語、ラ・マルセイエーズの演奏。
・昭和19年5月5日、初めてのサイゴン空襲。
・ベトナム語の若い先生に「なぜ小学校がないのか?」と質問。先生に案内されたのはみすぼらしい建物。彼は教育施設の貧弱さを指摘した上で「フランス総督を頂点としたアンシャン・レジームそのものだ」と言ってベトナム独立を熱く語り、その中で越盟や阮愛国の名前も出てきた。
・修業年限が2年余に短縮されて繰り上げ卒業→就職してすぐ現地入隊。昭和20年3月9日の明号作戦(日本軍の仏印進駐後しばらくは日本・フランス共同統治という形をとっていたが、日本が武力クーデターによってフランスを攻撃)にも参加。この時、南洋学院の在校生もフランス民間機関の接収に動員された。
・大隊長の通訳。「皇軍」「御稜威」「八紘一宇」…フランス人相手に何て訳せばいいんだ?→適当に「生命・安全は保障する、今までどおりに仕事しろ、情報があったら教えること」と訳してつじつま合わせしたらみんな納得、その表情を見てフランス語の分からない大隊長も納得。
・少数民族モイ族のフランス軍下士官→フランス軍には愛想がつきたから日本軍に協力したい、と言ってきた。彼と一緒に行動しながらモイ族の風習を知る。「モイ族は…」と言いかけると、「モイ」とはベトナム語で「馬鹿」という意味だからやめてくれ、モンタニャールと呼んでくれ。フランスもいやだが、安南人も嫌いだ、自分たち自身の国は作れないか、と相談してきた。
・日本の敗戦。北部には中国軍(国民党)と大越党、ベトミン、フランス軍が入り乱れ、それぞれから残留日本人は勧誘された。中国国民党の威を借りる日本人、フランス軍に入った日本人、ベトミンに身を投じた日本人と様々。著者も解放同盟から誘われている。
・8月15日直後のハノイで、日本人ではなく(中には「日本軍、ありがとう」と声をかける人もいた)、フランス人がベトナム人によって襲撃されているのを目撃。
・当初、ベトミンは日本軍とは対立せず、イギリス軍との衝突も避けていた。フランス軍が上陸し、日本軍がそれに協力する構図になって攻撃対象に。
・昭和21年1月になって武装解除→捕虜収容所へ。病院で通訳。フランス軍にいたベトナム人にも北のベトナム民主共和国に共感する者がいて相談を受けた。
・戦争中、イギリス軍捕虜を見かけたが衛生状態が極めて悪そうだった。戦後、残虐行為を行った日本兵の戦犯追及。中国軍占領区にいた将校は追及から逃れた。
・最後に、戦後の日越交流について。
・巻頭に南洋学院の時の写真。中の一枚、ベトナムの日本留学生が出発前に南洋学院を訪れたときの写真に、グエン・スアン・オアインも映っている。彼は京都帝国大学に留学、経済学を修め、戦後はアメリカ留学、IMF勤務を経て、南ベトナム政府の中央銀行総裁、ベトナム統一後も残留し、ドイモイの提唱者として知られる。坪井善明『ヴェトナム──「豊かさ」への夜明け』(岩波新書)を参照。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月14日 (木)

坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』

坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』(東京大学出版会、1991年)

・対象とするのはフランスによる植民地化が始まった時期。ヴェトナムをフランス・中国といった外国勢力によって翻弄された客体として描くのではなく、自立的な動向を示した主体として捉える視点の中で対外的危機に対処しきれなかったヴェトナムの社会構成が抱えた内在的問題を分析する。
・アドラン司教(ピニョー)の個人的努力で阮福映(嘉隆[ザロン]帝)が西山党を破って権力掌握。
・次の明命(ミンマン)帝は宣教師迫害。宗教的理由からキリスト教を迫害する理由はヴェトナム側にはなかったが、宣教師の政治行動への疑惑が高まっていた。宣教師集団にはナショナリズム感情が高まっていたこと、ナポレオン三世政府への影響力があったこと→宣教師集団の主導で他国の政治権力に対する軍事介入が可能だった。
・フランスの中国進出、イギリスとの対抗のために拠点を必要としていた。
・フランス本国政府からの明確な指示なし、情報伝達の距離感→現地の代理人が独断行動。
・阮朝の王位継承手順が不明確→後継者争いのなか宮廷革命によって嗣徳(トゥドゥック)帝が即位。文人肌、体質虚弱で国民的な人気なし。
・兄の洪保が政治的陰謀に関わって失敗、自殺。彼はキリスト教徒に接近していた→嗣徳帝の反キリスト教感情、迫害→フランスの軍事介入の口実。
・フランスへのコーチシナ三省割譲→文紳・官人たちの反発、抗議活動→嗣徳帝は中国や黒旗軍(劉永福)に助けを求めた一方、文紳たちの反乱に対してはフランス海軍の協力を得た→外国依存の対応。
・宮廷では改革の必要を感じつつも進まない:①西欧文明の導入は「敵」への屈服と思われた。②財源問題の考慮なし。③どんな社会階層を拠り所として改革を進めるのか展望がない。
・ハノイ、ハイフォン、帰仁の開港→中国商人が急増。
・財政立て直しのために土地税制改革。また、支出削減のため軍隊組織改革→民兵の組織が認められた。
・1874年のサイゴン条約→ヴェトナム宮廷は中国へ朝貢使を派遣する一方、フランス側は中国との関わりは条約違反だと認識。
・村落共同体(ヴェトナム語)と宮廷・国家(中国式統治機構)との連結点となるのが官人・文紳層→この層をつかめなければ国家が直接大衆動員によってフランスへの抵抗運動を組織化することはできなかった。皇帝側も大衆への侮蔑意識、文紳からの意見具申を無視
・皇帝に支持基盤はなく、外交交渉で切り抜けようとしたが、戦争に巻き込まれて行く。
・1885年、退位を迫られた咸宜(ハムギ)帝の檄に応じてようやく「勤王運動」として大衆運動が動き始めるが、皇帝の実質はすでになし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月13日 (水)

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』、伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』

古田元夫『ベトナムの世界史──中華世界から東南アジア世界へ』(東京大学出版会、1995年)
・①中華世界→ASEANというベトナムの帰属意識の変化、②キン族主体のベトナム人意識と周辺民族や少数民族との関わり方、以上の二点がポイント。
・中華世界の華夷秩序の中にあったが、中国からの自立性強化のために「中国化」→「南国意識という小中華思想(中国=「北国」、ベトナム=「南国」として対等)→周囲の「蛮夷」とは区別された文明的な「京人」意識としてベトナムの国家意識が形成され(京人=キン族)、これは東南アジアの周囲の民族とは違うという自己規定。
・フランスのインドシナ植民地支配:漢文的素養と結びついたベトナムの科挙官僚制度に対して、ベトナム語のローマ字化を通してフランス語による植民地官僚制度へと編成。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」の議論を援用→「巡礼圏」形成、ただし主にベトナム人下級官僚によって担われた→カンボジア人やラオス人との一体感は醸成されず、複合社会として横の連帯意識が欠如。
・ファン・ボイ・チャウ:儒教を学び科挙をパスした伝統的知識人だが、伝統の固守ではフランスに対抗できない→開明派、近代ナショナリズムの創始者。同じ中華文明圏の一員として同文同種の日本へ関心を向ける一方、インドシナの他の諸民族は連携の対象とはみなされず。
・日本の支配→連合軍側が1943年に「東南アジア司令部」設置→「東南アジア」という地域枠組みが登場。
・1940年代の共産主義運動において、ベトナムという枠組みはキン族だけでなくほかの少数民族も包摂→多民族国家志向。
・1945年、日本の仏印処理→当時、日本はソ連を仲介役として終戦を模索中だったが、ソ連はフランスと同盟関係にあり、仏印処理がソ連を刺激するのをおそれた→ソ連は「民族自決」には賛成だから、インドシナの独立という建前にしようという打算→ベトナム、カンボジア、ラオス三国の独立宣言→インドシナ連邦ではなく三国独立という方向性が定着。
・1945年の八月革命→ベトナム民主共和国。対仏抗戦においてベトナム人がカンボジア・ラオスを指導するという図式。
・冷戦の論理で南北分断→「北」を中国依存に追いやった。社会主義国家としての「普遍国家」志向。ベトナム戦争終結→中国離れの加速。
・当初は、少数民族が「平等」を担い得る主体となるよう「自己解放能力」の形成を促すのが方針→ベトナム戦争が激化した1960年代半ば以降、「団結」を重視→キン族が「主軸民族」。
・中越関係の悪化→華僑政策の変化。
・1976年、ベトナム社会主義共和国成立→対外危機がある程度まで解消→「貧しさを分かち合う社会主義」への不満。カンボジア侵攻→主観的には「国際主義的義務」ではあっても、国民国家システムにおいては内政干渉というルール違反とみなされて国際的孤立。こうした状況下、国内経済の立て直しが必要→かつては排斥した華僑の残留が必要→華僑の残留はASEAN諸国との接点にもなり得た。
・カンボジア問題(ポル・ポトをはじめかつてはベトナムと協力関係にあった共産主義者が次々と離反、インドシナ三国の同盟は難しいことを認識)をきっかけにベトナムはASEAN諸国に接近。ベトナムは「中国大国覇権主義」に対する防波堤として自己規定→ASEANはアメリカ主導の反共軍事同盟という「敵」ではなく、むしろ同じ東南アジアの一員であることを強調。
・ドイモイ:「社会主義ベトナム」→「ベトナム社会主義」への転換という形で「普遍国家」から脱却して民族化→東南アジアの「地域国家」という方向性。また、競争原理の導入→少数民族には不利という側面もある。

伊藤正子『民族という政治──ベトナム民族分類の歴史と現在』(三元社、2008年)
・ベトナムは人口の86%を占めるキン族+その他の53の少数民族=54民族から成る多民族国家という原則を持つ。少数民族は「国定民族」確定作業(中国の「民族識別工作」と同様)を通して分類されており、それは学術的な作業という建前ではあるが、国家主導の政治性も絡んでいる。従って、「民族」なるものには政治的思惑が絡み合う中で後天的に形成された側面があるにもかかわらず、それを原初主義的に捉えてしまう矛盾も生じてしまう。そうした「民族」概念に絡む政治性について実地の聞き取り調査を通して本書は検証。
・「国定民族」の確定→各民族の「平等」を保証するという考え方を通して国民統合が図られた。ベトナム戦争において山岳地帯に住む少数民族からの協力を得る必要性も背景にあった。
・54という数字が公的に確定。その後、自分たちも別個の民族として認めて欲しいという声も登場、それを当初は検討しようとしたが、次々と表れていくと際限がなくなり、従来の政治枠組みが崩れてしまうおそれ。
・民族確定作業を担った民族学者にはソ連留学組が多かった→学問と政治の一体化。他方で、実際の作業は中国の「民族識別工作」に倣う→「区域自治」、分類に際して「民族の自意識」重視。
・非均質的な多様性を持つ社会でもともと父系血縁集団などを軸に「われわれ」と「かれら」を区別してきた人々→「民族確定作業」では近代的「民族」概念を「正しく」(=無理やり)適用しようとしてこうした多様性を把握できず。
・少数民族のサブグループが逆に「民族確定作業」の論理を逆手に取って自己主張。「国定民族」一覧表には国家主導の思惑があり、実際のありさまを把握できていない難しさ。
・わずか300人のオドゥ族→実態としては周囲の民族への同化が進んでおり、登録数上の「絶滅の危機」→54という数字が1つでも減るとベトナムの少数民族政策がうまくいっていないことになってしまって問題だと政府側は考える。このように特別視される少数民族がいれば政府から優先的な予算がつけてもらえる、また少数民族出身者への優遇政策→これを利権に使う動きもある。
・ダム建設等の開発計画で土地を失い、共同体が崩壊してしまった少数民族も少なくない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月12日 (火)

【映画】「ヘヴンズ・ストーリー」

「ヘヴンズ・ストーリー」

 家族を殺されて祖父に引き取られた少女サト(寉岡萌希)。犯人は自殺してしまったが、そのことを知ったのと同じニュース番組で、やはり妻子を殺された男性トモキ(長谷川朝晴)が「犯人を殺してやる」と記者会見で明言するのを見て憧れを抱く。一方、トモキの妻子を殺した少年(忍成修吾)に手紙を送る若年性アルツハイマーの女性(山崎ハコ)。少年は出所後、働きながらその女性の介護を続けている。ある日、少年が社会に出てきていることを知ったサトは、新しい家庭を築きつつあるトモキに会いに行き、殺された家族のことを忘れたのかと迫る。さらに復讐代行の裏仕事をしている警官(村上淳)のエピソードも絡まり、様々な人間模様が重層的に関わり合いながらそれぞれの復讐と再生への葛藤が描き出されていく。

 都市、住宅街、海辺、閉山した炭鉱跡、ヴァラエティーに富んだ風景が、四季の移ろいと共にそれぞれ異なった表情を見せる。とりわけ、登場人物たちが暮らす団地と、炭鉱跡にある廃墟となった建物との対比が非常に印象的だ。廃墟はまるで団地の将来を示すかのようだ。地平線も見えるような大きな視野の中で両方が続けて映し出され、その広がりの中で人が追いかけ、追われている姿を見ているうちに、ふと「諸行無常」などという言葉も脳裡によぎった。

 殺した者の葛藤、殺された側の遺族の無念。復讐したくても相手が自殺してしまったために怒りをぶつける対象のない少女、復讐は新しく築いた家庭を崩すことになってしまう男。人を殺すとはどういうことか、人が死ぬとはどういうことか、素朴だが根源的な問いかけ。答えはもちろん分かるはずもないが、そうした思いをぶちまけたり、問いかけたりという一切も含めて、この移ろい行く世界の中に置いてみると、はかないものにも見えてくる。

 少年の「殺した理由は分からない、ただ何か大きなすごい力に突き動かされて──」という発言が私の耳元にこだましている。人間存在が本来的に抱える「分からなさ」は過去においても現在においても根本的には変わらない。ただ、昔はコンベンショナルなロジックが用意されていて、何かあればそこに押し込めてしまえば「理由が分かった」かのように処理することができた。これに対して、そうした共有ロジックが失われて「理由が分かったつもりになれる」コードにのらない状況、俗に言う「理由なき殺人」というのもそうした類いのものであろう。それは同時に、他人だけでなく他ならぬ自分自身をも納得させる言葉が見つからないというもがきでもあり、それだけ矛盾や葛藤はなお一層のことむきだしとなる。「諸行無常」と上に言ったのも、それは虚無ということを言いたいのではない。殺すことの是非といった価値意識をすべて剥ぎ取ったところにおいて、自分の意志ではどうにもならない宿業的なものに絡め取られてもがき続けざるを得ない人々の姿。いやでも何でもそこに人生の彩りが垣間見えると言うしかないのか、そんな思いをかみしめた。

 群像劇は散漫な印象を与えるかもしれないが、一人ひとりがバラバラにもがいているようでいて、見えないレベルで凄みをはらんだ大きなうねりが浮かび上がってくる。そこがこの映画の持つ迫力である。こうした印象は、無限にも続きそうな人間模様の連鎖、それらを包み込む季節の移ろいを感じさせる映像の中でよりいっそう強められてきた。雪化粧の廃墟のシーン、それから少年との決闘で倒れたトモキの眼前、日の光が強まって夏のセミの声が聞こえてくる瞬間など印象的だ。四時間半の長丁場だが、これでもまだまだ描き足りなかったことだろう。

【データ】
監督:瀬々敬久
脚本:佐藤有記
2010年/278分
(2010年10月11日、渋谷、ユーロスペースにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月11日 (月)

【展覧会】「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」

 1900年頃からベルギーのレイエ川沿いにある村ラーテムに住んだ芸術家たちの作品を展示。それぞれに独自の作風を持ち画派として一括りにできるわけではないが、主に象徴主義の第一世代、印象主義の第二世代、第一次世界大戦を挟んで疎開先から戻ってきた第三世代に分けられている。

 目玉となるのは印象派的なタッチで村の風景と人々の姿を描いたエミール・クラウス。この展覧会のポスターになっている「刈草干し」も彼の作品だ。光が強調された描き方で、農村の穏やかな明るさが浮かび上がる。風のそよぎと空気のゆるやかな揺れ、鳥のさえずりなども聞こえてきそうな感じで、気分がほっとするような美しさだ。第一世代のヴァレリウス・ド・サートレールという人の絵もひかれた。こちらはむしろ暗い感じ。黄昏の光景を地平線の見える広がりの中で描いている。緊張感のある静寂。もし感傷的に敏感な気分だったらシンクロしてこのまま取り込まれてしまいそうだ。

 第三世代は疎開先で触れたドイツ表現主義、シュルレアリスム、キュビズムなどの影響の顕著に見られる作品が多い。穏やかな風景画や人物画に慣れた目でいきなり見ると、何か「あっちの世界に行っちゃったのか…」という妙な気分。別に悪いというわけではないが、なにぶん「フランダースの光──ベルギーの美しき村を描いて」というタイトルの展覧会のつもりで見に来ているので、「あっち」の方を見る心構えができていなかったというか…。
(2010年10月11日、渋谷、Bunkamuraザ・ミュージアムにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」

 猟奇的殺人鬼のプロファイリングで心理的にシンクロしたトラウマから仕事を辞めた元警官のもとに、さる大富豪からフィリピン・ミンダナオ島で失踪した息子のシタオを探し出して欲しいという依頼がきた。彼は手掛かりをたどって香港へ行き、旧友とも再会する。一方、冷徹無比なギャングの親分も、拉致されて姿を消した愛人を探しているところだった。彼らの行方が収斂する先には、人々の痛みを我が身に受けて悶え苦しむシタオの姿があった。

 猟奇的なサスペンスかと思っていたら、ストーリーが進むにつれて観念性が強まってくる。キリストの受難を現代において再現したらどうなるかという意図が見えてくる。監督はフランス在住のベトナム人トラン・アン・ユンだが、彼はベトナム戦争の最中に両親と共にフランスへ移住した経歴のひとだから、ひょっとしてカトリック信者なのか。主な舞台は香港だが製作はフランス、主演はジョシュ・ハートネット、木村拓哉、イ・ビョンホン、と多国籍映画。シタオ役は必ずしも日本人である必然性はないのに敢えて木村を起用しているところを見ると市場として日本をあてこんでいるのだろうが、キリスト教のバックボーンのない社会ではあまり理解はされないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月10日 (日)

小島剛一『トルコのもう一つの顔』『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』

 著者は言語学者で、1970年に初めてトルコを旅行で訪れて人々の人情のあつさと諸言語の豊穣な魅力にとりつかれて以来、たびたびトルコを訪れては全土を歩き回り、忘れ去られようとしている様々な言語の研究をライフワークとしている。だが、ケマル・アタチュルクのトルコ革命以来、近代化と国民国家形成を至上命題としてきたトルコ政府は、ケマリズムの柱の一つとなっている国粋主義思想により「トルコ共和国にトルコ語以外の言語は存在しない」という原則を取っている。少数言語はあくまでもトルコ語の「方言」に過ぎないとされて、それがトルコ国内では「常識」として異議申し立ては許されず、従って、少数言語の掘り起こしはタブーであった。公用語としてのトルコ語を話さなければ分離独立主義者とみなされて投獄の理由となり、著者も何度か国外退去処分を受けている。

 著者の関心は純粋に学術的なものであった。しかし、多様な言語が織り成すモザイク状況、そこに国民国家=標準語の枠が無理やりはめられてしまった矛盾から生じた軋轢を否応なく目の当たりにせざるを得なくなってしまう。「民族」概念と同様に「言語」概念もまた政治的・社会的コンテクストによって規定された側面が強く、この「言語」問題は少数言語の話者にとってはアイデンティティを根底から崩される深刻な抑圧と受け止められる。「隠れ民族」、さらには「忘れ民族」という問題。自分の母語はトルコ語ではないようだと薄々気づいていても、政治的にナーバスになっている父母は子供に何も教えないため、調査中にも「私たちの言語は何語なんでしょうか?」と逆に尋ねられるシーンすら珍しくない。

 このように政治的に難しい状況で論文を発表したとしよう。中立的に学術研究をしているつもりではあってもトルコ政府はそうは受け止めず、国外退去処分等でこれ以上の調査はできなくなり、さらには聞き取りをした関係者にまで累が及んでしまう。もちろん、トルコ政府に迎合して嘘八百を書くわけにはいかない。そうした中、「むしろ一般書として出版してしまえば、もしトルコ政府が圧力をかけてもそれ自体が大きな話題となって宣伝効果となってしまうので手が出しにくいのではないか」とアドバイスを受けて書き上げたのが最初の著作『トルコのもう一つの顔』(中公新書、1991年)だったという。その後の経緯をまとめたのが最新刊『漂流するトルコ──続「トルコのもう一つの顔」』(旅行人、2010年)である。後者では言語学的話題ばかりでなく、トルコ政府外務省や諜報機関、マスメディアの問題、また著者が在住するフランス・ストラスブールで関わったトルコからの難民たちの問題などについても記されている。

 著者は立場の違う人々とも分け隔てなく向き合う姿勢を持っており、それぞれに人情のあついもてなしを受け、親交を結んでいくところは時に感動的ですらある。言語学研究のフィールドワークの記録として読めばそうした分野の知見も得られるが、それ以上に、「言語」という問題が抱える政治性に身を以て切り結んでいく姿はまるでハラハラさせる冒険譚のようにスリリングだ。トルコに関心がない人でも、広く「言語」や「民族」といったテーマについて考えたい場合には、この二冊は是非読んで欲しい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【映画】「ブロンド少女は過激に美しく」

「ブロンド少女は過激に美しく」

 リスボン発の列車の中、男性がたまたま隣り合わせた老婦人に向けてためらいがちに話しかける。「家族や友人には言えないことでも、見知らぬ人なら話せると思いまして…」。彼は伯父が経営する店の二階で会計士として仕事をしていた。窓を開けると、向かいの建物で暮らす美少女の姿。中国式の丸扇をあおぐ優雅な仕草。一目ぼれした彼は求婚したが、伯父の強い反対で店を追い出された。ガヴォベルデで一財産を築いて帰国、改めて結婚へと一歩踏み出せたはずなのだが…。

 御年100歳となるポルトガルの巨匠マノエル・デ・オリヴェイラの新作。私は他の作品を観たことがないのでよく知らないのだが、前日の新聞夕刊の映画評で絶賛されていたので、ふーんと思って足を運んだ次第。ヒロインが美しいかどうかと言うと、正直、私にはそういう実感がないし、青年の恋の情熱の思いがけない挫折といっても私は冷めた目で見るばかり。ただ、リスボンの石造りの街並に漂うレトロな雰囲気を映し出す映像には、ゆったりと落ち着いた気品が浮かび上がってきて、この点が魅力的に感じた。

【データ】
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
2009年/ポルトガル・フランス・スペイン/64分
(2010年10月9日、日比谷、TOHOシネマズ・シャンテにて)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

【映画】「ラスト・ブラッド」

「ラスト・ブラッド」

 舞台はベトナム戦争が行き詰りつつある1970年代、日本にある米軍基地。アメリカン・スクールにやって来た謎の転校生サヤ(チョン・ジヒョン)がヴァンパイヤと戦う、というホラー・アクション映画。押井守のグループがつくったアニメーション映画「BLOOD THE LAST VAMPIRE」はむかし観た覚えがあるが、血まみれのヴァンパイヤと戦争というテーマとが結びついていたような気がする。その実写版で大筋は変わらないが、オニゲン(小雪)なる敵の親玉が登場するところがオリジナル・ストーリーか。舞台は日本だが、米軍基地がメインなのでほとんど英語(これはアニメ版でもそうだった)、日本刀を振るって戦う凛々しいセーラー服の女子高生役は韓国人、殺陣は香港アクションで、監督はフランス人。国籍のよく分からんところが妙に面白い。

【データ】
原題:BLOOD THE LAST VAMPIRE
監督:クリス・ナオン
2009年/香港・フランス/91分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「TOKYO!」

「TOKYO!」

 海外の三人の映画監督が東京を舞台に奇想的なエピソードの短編を撮ったオムニバス映画。「インテリア・デザイン」(監督ミシェル・ゴンドリー)は上京したものの居場所のない若者カップルが主役、自分の存在価値が分からなくなった女性の方が椅子に変身していくところがファンタジック。「メルド(糞)」(監督レオン・カラックス)は、マンホールから現れた謎の怪人が東京を破壊して歩くという話。違和感があって好きじゃないな。「シェイキング東京」(監督ポン・ジュノ)は、引きこもりの男がピザ屋の配達の女性に恋をして会いたいと思って外に出たところ、東京では誰もが引きこもりになっていた、という話。主人公(香川照之)の心象風景を映し出す構成だが、映像の撮り方が抒情詩的で、とりわけ蒼井優のさびしげな表情をよく引き出しているのが良い感じ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

坪井善明『ヴェトナム現代政治』、古田元夫『ドイモイの誕生──ベトナムにおける改革路線の形成過程』、中野亜里『現代ベトナムの政治と外交──国際社会参入への道』

坪井善明『ヴェトナム現代政治』(東京大学出版会、2002年)
・ベトナムでは共産党一党支配を前提として言論統制下にあり、「批判の学問としての政治学」は存在しない。統治エリートに身を置いていない限り、現地のベトナム人の大半でも政治構造の全体像を把握するのは困難であるが、そうした限界を自覚しつつ、公刊資料や自身の見聞等を通して現代ベトナム政治・社会の概略を間接的に描き出そうという試み。
・ベトナム政治社会の三つの顔→①伝統:ベトナムの伝統としての長老支配、強い個人と強い共同体。中国文明の影響→科挙官僚。フランスからは近代的普遍価値を受容→植民地支配者とは別の顔。②発展途上国。③社会主義。
・神格化されたホー・チ・ミンについてBrocheuxとDuikerの評伝を紹介。ナショナリストか共産主義者か?という論争点。
・共産党:政治局員の序列は①書記長、②国家主席、③首相、④国会議長→北・中・南部という出身地域、軍・政治・経済という出身母体のバランスが考慮されている。
・軍:中国と同様に軍事目的だけでなく、生産活動・政治教育活動→近代的装置(学校)としても機能。ドイモイ→市場経済の進展・門戸開放→「和平演変」のおそれから保守派の勢い増大→軍の政治的役割も強化された。
・祖国戦線:共産党その他の団体による大衆的政治連合組織。大衆動員を行なうと同時に、下からの要求や不満を党・国家に吸い上げるチャネル。中国の人民政治協商会議よりも政治的役割は大きい。
・日本など「自由主義政治体制」とは異なり、ベトナムの「社会主義政治体制」の権力観は共産党一党支配が基本原則→武力革命(1945年の八月革命から第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争)という事実に依拠。
・国会→「独立候補」をいかに保障するか。立法機能をいかに向上させるか。
・汚職や政治腐敗の問題、地方行政組織の機能不全。
・司法→党の恣意的裁量ではなく、いかに「法の支配」を確立させるか。
・都市と農村、南部と北部の貧富の格差が拡大。

古田元夫『ドイモイの誕生──ベトナムにおける改革路線の形成過程』(青木書店、2009年)
・「貧しさを分かち合う社会主義」、ソ連型社会主義の「普遍モデル」はベトナム戦争における戦時体制として機能。しかし、「北」で定着したこのモデルを統一後に「南」へも強制したところ反発が大きかった。
・生産請負制の導入など地方の実験からはじまった「下からのイニシアティブ」を皮切りに共産党最高指導部が方針転換(もともと保守派であったチュオン・チンが経済的に停滞した現状に危機感を抱いて改革派へと転身)→ドイモイが政策路線として定着したプロセスを本書は分析。
・ペレストロイカ等の外からの影響というよりも、ベトナム自身の内在的な事情からドイモイは始まったと捉える→「普遍モデル」からの脱却、社会主義の「民族化」。

中野亜里『現代ベトナムの政治と外交──国際社会参入への道』(暁印書館、2006年)
・ベトナム戦争の終結後、現在に至るまでのベトナムの外交政策の変遷を跡付ける。
・ベトナム戦争後、世界人民はベトナム革命を支持してくれているという自信に基づく対外政策、しかし中越紛争、カンボジア侵攻などで国際的孤立を招いていしまったという誤算。ハノイ指導部はアメリカに対しては道義的責任を基準として対応→関係改善のチャンスが遅れた。中ソ対立に巻き込まれるのを回避しようとしていたが、カンボジア・中国との関係悪化→対ソ接近。しかし、ソ連は中越紛争への過剰反応によってアメリカとのデタントをこじらせるつもりはなく、介入は避けた。カンボジア侵攻→北京をバックにしたポル・ポト政権打倒によって経済復興に必要な環境整備をしたいという目的→ASEANは警戒心(現在、ベトナムの識者の間では、ポル・ポト政権打倒は間違っていなかったが、その後もカンボジア駐留を続けたことは誤っていたという認識が一般的らしい)。
・ASEANに対しては、ベトナムは東南アジア革命の旗手と自認する一方で、中国に対する警戒感から現実的な対応。
・ドイモイの進展→経済立て直しのためには国際的孤立から脱却する必要→カンボジア問題でも柔軟な態度をとるようになった。ソ連解体後は中国の改革開放をモデルとする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 8日 (金)

スティーヴン・キンザー『リセット:イラン・トルコ・アメリカの将来』

Stephen Kinzer, Reset: Iran, Turkey, and America’s Future, Times Books, 2010

 著者のスティーヴン・キンザーは中東・中米での取材経験豊富なジャーナリストである。冷戦期にアメリカが仕掛けた政権転覆工作によってかえって横暴な独裁者を出現させてしまった矛盾を描き出したノンフィクション作品もいくつか発表している。例えば、Overthrow: America’s Century of Regime Change from Hawaii to Iraq(Henry Holt and Company, 2007→こちら)、All the Shah’s Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror(John Wiley & Sons, 2008→こちら)を以前に取り上げたことがある。

 アメリカの中東との関わり方を模索するのが本書の趣旨であるが、ここで示される論点は大きく分けて次の二点にまとめられるだろう。

 第一に、トルコとイランの現代史を振り返りながら両国ともに民主化・近代化へと向けた内発的な動きがあったことを示し、その点で欧米とある程度まで価値観の共有される素地があることに注目を促す。もちろん万全ではない。トルコのケマル・アタチュルクによる近代化政策は一定の制度化を通してイスラム世界ではまれな世俗的国家を作り上げたものの、それは同時に軍事的色彩の濃厚な権威主義体制という形を取り、「世俗主義」という国是を守るために言論統制、イスラム派や少数民族への弾圧をもたらした。ただし、イスラム政党にルーツを持つ現エルドアン政権はEU加盟を目指して民主化を進め、それは近代化とイスラムとの両立の可能性もうかがわせる。イランの場合にはもっと条件が悪い。ケマルと同時期に近代化を押し進めたレザー・シャーは自ら王位に就いて属人的な専制体制を始めてしまったこと、そのパフレヴィー朝への批判から国民の支持を得たモサデクが英米の画策したクーデターで倒されてしまい、それをきっかけとした反米感情の高まりがイスラム主義と結び付いてホメイニ体制をもたらしたことなどが挙げられる。それでも、アフマディネジャド大統領再選時の不正に対する国民的な抗議の動きに著者はイランに歴史的に根付いてきた民主化への要求を見出す。こうした経過の中でアメリカが演じた負の関与はそれこそ「リセット」したい歴史だろう。二十世紀初頭、イラン立憲革命に身を投じた二人のアメリカ人、ハワード・バスカーヴィル(Howard Baskerville)とモーガン・シュスター(Morgan Shuster)を取り上げているところには、イランとアメリカには本来良好な関係を持つ可能性もあったはずだという著者の思いがにじみ出る。

 中東には冷戦期の戦略的目的からアメリカが強力な同盟関係を築いたやっかいな国が二つある。すなわち、イスラエルとサウジ・アラビアである。前者については言うまでもない。後者では、王家がアメリカと結び付く一方で、その免罪符のような形で王家は国教ワッハーブ派の聖職者組織に資金を供給、そこから反米的なイスラム過激派が生み出されるという二面性がある。冷戦が終わってこの両国の存在はアメリカの対中東関係をこじらせる一因となっており、こうした関係のあり方についても仕切りなおしを図らねばならない。そこで、不安定な中東世界において仲介役が果たせる国として、近代的な価値観とイスラムとの両方の要素を合わせ持つトルコの存在に注目するのが第二の論点である。またEUもトルコの加盟を受け入れるなら、イスラム世界に対して開かれた関係を築こうというメッセージを発することができると指摘する。さらにイランとの関係改善によってアメリカ・トルコ・イランのトライアングルを中東の諸国間関係に埋め込み、その協力関係を通してこの地域の安定化を図るべきことが提唱される。イランとの和解は難しいかもしれないが、ニクソンの米中和解が参照例として挙げられる(この考え方は、例えばRay Takeyh, Hidden Iran: Paradox and Power in the Islamic Republic[ Holt Paperbacks, 2007]でも示されていた)。

 トルコとイランは本来欧米と価値観を共有できたはずなのに、歴史的な経緯の中でうまくいかず、アメリカ外交政策の判断ミスによってさらにそのねじれが増幅されてしまった、その仕切り直しを図りたいというのが本書の趣旨である。見方を変えると、こうした議論は民主化・近代化を指標とする点で西欧文明至上主義の一変種に過ぎないのではないかという批判もあり得るだろうが、むしろギクシャクしがちな欧米とイスラム世界との間に開かれた関係を築く接点をどこに求めたらいいのかという問題意識は重要だろう。

 なお、Foreign Affairs(Vol.89, No.5, Sep./Oct.2010)所収の本書に対する書評論文Mustafa Akyol“An Unlikely Trio: Can Iran, Turkey, and the United States Become Allies?”では、アメリカ・イランの関係構築は近い将来には難しいが、近代化の葛藤の中でイスラム・民主主義・資本主義を総合してきたトルコの寄与できるところは大きいと指摘されている。他方で、トルコとブラジルが核開発問題でイランとの橋渡しをしようとしたところオバマ政権が拒絶した不可解も例示されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 7日 (木)

小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争全史』、吉澤南『ベトナム戦争──民衆にとっての戦場』、古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』、松岡完『ベトナム戦争──誤算と誤解の戦場』

 日本軍の仏印進駐(1940年)、さらに仏印処理(1945年3月)によってフランスの力が消え、後から来た日本軍も敗北。この権力の空白状態を衝く形でベトナム民主共和国が独立宣言(1945年9月)を出したが、再びフランスが舞い戻ろうとしていた。独立へ向けた気運はすでに加速しており、アメリカはフランスの時代錯誤な植民地再構築の試みには反対だったものの、緊迫化する欧州情勢をにらんでフランスと協調を図らねばならず、バオダイを擁立して実質的にフランスの傀儡であるベトナム国を黙認。ホー・チ・ミンが読み上げた独立宣言はフランス人権宣言とアメリカ独立宣言を踏まえた内容であっただけにこの皮肉が際立つ。ディエンビエンフーの戦い(1953年)でフランスは壊滅的な敗北を喫し、ジュネーヴ会議(1954年)でフランスは撤退、ベトナムを北緯17度線で南北に分断することが決まった。ここに冷戦の論理がかぶさり、フランスに代わって今度はアメリカが入り込んでくる。冷戦のフィルターを通して見たためアメリカはベトナム側の民族独立運動としての側面を見誤った。バオダイを追放したゴ・ジン・ジェム政権の腐敗・強権体質は非共産主義者からも反感をかい、以後、クーデターが繰り返される中で政権は空洞化、アメリカが支えなければすぐにも自壊しかねない状況となり、ラオス・カンボジアにも戦火は拡大、誤算の連鎖の中でアメリカはズルズルと泥沼へと引きずり込まれていく。とりわけテト攻勢(1968年)で衝撃を受けたアメリカはベトナム撤退を模索する中で、北隣の中国の了解を取り付ける必要から米中和解に動き、これは北ベトナム側にとっては中国の裏切りと映り、その後の中越紛争の一因となる。パリ和平協定(1973年)でアメリカ軍は撤退、北側の攻勢で南の政権はたちまち崩壊し、サイゴン陥落(1975年)。ところが、同時期にカンボジアで政権を取ったポル・ポト派とベトナムとの関係が悪化し、ベトナム軍がカンボジアへ侵攻、今度はベトナムが国際的に孤立する結果となった。南ベトナムにはバオダイ、ゴ・ジン・ジェム等の政権の腐敗に対する反感がある一方で必ずしも共産主義に賛成ではない人々も多数いたにもかかわらず、北ベトナムは統一後、南の社会主義化を強引に押し進めたため、南側の人々の不満も残った。

 ベトナム戦争について概説的な本を4冊。小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争全史』(岩波書店、1992年)。著者はジャーナリストで、当事者の証言(北側の人が多い。中にはベトミンに参加した元日本兵も含まれる)を中心にベトナム戦争の戦況の推移をたどる。語りを踏まえた具体的な描写が続くので光景がヴィヴィッドに浮かび上がって読みやすい。

 吉澤南『ベトナム戦争──民衆にとっての戦場』(新版、吉川弘文館、2009年。初版は1999年)。ベトナム戦争史研究の第一人者による渾身の一冊。ベトナムの民衆がアメリカ軍によって痛めつけられたありさまを描き出すという構図。ベトナム反戦世代の強い思い入れがみなぎっている。

 古田元夫『歴史としてのベトナム戦争』(大月書店、1991年)の著者もやはりベトナム反戦運動がベトナムへ関心を持つきっかけだったらしい。ベトナム戦争の概略を述べた上で、この戦争がベトナムにとって、アメリカにとって、日本をはじめ世界の国々にとってそれぞれどのような意義を持ったのかという問題意識を示す。

 松岡完『ベトナム戦争──誤算と誤解の戦場』(中公新書、2001年)は、縦軸としてベトナムの歴史、横軸として国際関係史、両方の接点としてベトナム戦争を捉える構図になっている。フランス、アメリカ、ソ連、中国と外の大国の思惑によって振り回される中でベトナムが自立的にどのように対応しようとしたのか、とりわけベトナム、アメリカ双方の誤算が連鎖反応を起こしていく様子を描く。大国の論理ではなく、地域の自主的な展開の試みとしてASEANまで視野に収められている。国際関係論の視点から客観的に捉えた通史なので、この松岡書が私には一番読みやすかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 5日 (火)

【映画】「夏至」

「夏至」

 ハノイでカフェを営む一家。母の命日にみんな集まってきた。食事の支度をしながらふざけ合う三人姉妹。それぞれに秘密や葛藤を抱えているが、笑い声には屈託がない。兄妹の関係、夫婦の猜疑心、愛人の存在、それぞれに抱える微妙な感情的機微の浮かぶ表情を静かにこまやかに写し撮っていく。人物の表情や仕草を捉えるカメラのやわらかな目線、そして街を彩るみずみずしい緑をはじめ色彩感覚豊かな映像の美しさが実に素晴らしい。観ていると、この穏やかな空気感の中でまどろみたい気分になってくる。

 トラン・アン・ユン監督作品では、むかし学生のとき池袋の旧文芸座で「青いパパイヤの香り」(たしかイム・グォンテク監督「西便制 風の丘を越えて」と二本立てだった)を観た覚えがある。ベトナム版「マイ・フェア・レディ」という感じだった。次回作は村上春樹原作「ノルウェーの森」らしい。こういう映像の撮り方をする人なら村上作品の雰囲気にもうまく馴染みそうで期待がふくらむ。

【データ】
監督:トラン・アン・ユン
撮影監督:李屏賓
2000年/112分/ベトナム・フランス
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 4日 (月)

モニカ・ナレパ『スケルトンズ・イン・ザ・クローゼット:ヨーロッパ・ポスト共産主義体制における移行期の正義』

Monika Nalepa, Skeletons in the Closet: Transitional Justice in Post-Communist Europe, Cambridge University Press, 2010

 Skeletons in the Closetとは、後ろめたくて誰にも知られたくない秘密、という意味になるだろうか。本書で具体的に言うと、東欧の共産主義体制において反体制派として活動していながらも実は情報提供など何らかの形で体制側と関わりを持っていた過去が記された秘密警察の文書を指す。実際、反体制活動家として高名な人物の相当数にそうした過去があったと言われている。タイトルを意訳するなら「秘密のファイル」としたいところだ。ジャーナリズムならばそれを暴露してセンセーショナルに書き立てたいところだろう。対して本書の意図は、この「秘密のファイル」の存在が体制移行にもたらした影響を政治学的に分析するところにある。

 一連の東欧革命ではルーマニアを除いて基本的には流血の事態を回避することが出来た。その際、なぜ共産主義政権は過去の清算(lustration)という移行期の正義(transitional justice)を恐れなかったのか? そして新たに政権の座につくことになる反体制派は移行期の正義に関わる立法をなぜ遅らせたのか?という問いを本書はまず示す。ここで、「誘拐犯のジレンマ」というモデルが示される。誘拐犯は身代金を受け取って人質を解放しても、人質に面が割れているのだから逮捕されてしまうリスクが残るので、解放後も人質に口を割らせない何らかの手段が必要となる。答えのカギがSkeletons in the Closetにあった。反体制派指導者に関する「秘密のファイル」の存在、つまり「お前の弱みを握っているぞ」というメッセージをちらつかせることにより、円卓会議の協議で体制派・反体制派双方の妥協が可能になった。従って、内戦リスクを抑え、対立状況におけるパワー・シェアリングという形で平和的な体制移行が可能になったのだと本書は捉える。また、ポスト共産主義体制でさらに世代交代が進む際、この「秘密のファイル」の存在は、新しい世代(つまり、共産主義体制下の時代にはまだ若くて情報提供等を迫られるほどの地位にはなかった世代)がかつての反体制派の中でも旧世代に属する政治家を排除する政治的手段としても作用したという(例えば、ポーランドで大統領・首相となったカチンスキ兄弟)。

 本書の最後でも触れられているが、ワレサの体制側への情報提供者であった過去が暴かれたことはポーランド社会では大きな衝撃であった。あるいは、例えばドイツ映画「善き人のためのソナタ」で描かれたような人間不信状況は印象に強い。共産主義体制において秘密警察が張り巡らせた監視の網の目は、誰が情報提供者なのか分からないという疑心暗鬼によっても様々な悲劇を生み出していた。他方で、そのことの善悪是非は別として、あくまでも結果論ではあるが、こうした「秘密のファイル」の存在が皮肉にも体制の平和的移行に役立ったという逆説が興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 3日 (日)

【映画】「愛のむきだし」

「愛のむきだし」

 園子温監督の映画はそれなりに観ているものの(例えば、「桂子ですけど」「うつしみ」「自殺サークル」「気球クラブ、その後」)、何と言うか“濃すぎる”ところが私には肌が合わないなあ、という感じがあってしばらく敬遠していた。この「愛のむきだし」にしても評判が高いことは知っていたが、上映時間約四時間という長丁場に耐える自信もなくて観ていなかった。ところが、ふと気が向いてDVDで借りて観たところ、いや、これはすごいじゃないか。正直、はまった。

 家庭の崩壊とか新興宗教団体とか、現代社会にありがちな題材を使いながら、それらを換骨奪胎して一つの神話的叙事詩とでも言いたくなるくらいに独特な世界が展開されていく。物語の軸をなす三人のキャラクター、ユウ(西島隆弘)、ヨーコ(満島ひかり)、コイケ(安藤サクラ)のそれぞれがディオニュソス的でバランスを欠く、しかしその不調和そのものが園監督の相変わらず“濃い”テイストと絡み合うと圧倒的な力で迫ってくる。盗撮、パンチラ、勃起といったキーワードは下品ではある。しかし、人間の理屈ではどうにもならない下劣さ=“原罪”と捉え、この神話世界のカオスにおいて、下劣であろうと何であろうとやむを得ない衝動性そのものを人間存在の本来とみなし、葛藤しながらも肯定していく。ユウは“妹”であるヨーコを観ると勃起する。これも、エロス=ギリシア語の原義における、表面的な理屈では媒介され得ない無条件の直接的感覚と捉え返してみたとき、それはうざったいものにも、時には“変態”的ですらあるけれども、こうした直接性そのものが人と人の絆を結び付ける力ともなり得る。“妹”を新興宗教団体から奪回しようとするユウのパッションはまさしくそこにあった。つまり、「愛のむきだし」である。

 最近、満島ひかりファンになりつつあるが、彼女はこの映画でブレイクしたのか。制服姿で戦うシーンの表情など凛々しかった。なぜか古屋兎丸や宮台真司などもゲスト出演していた。

【データ】
監督・脚本:園子温
2008年/237分
(DVDにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古田元夫『ホー・チ・ミン──民族解放とドイモイ』、ジョン・ラクチュール『ベトナムの星──ホー・チ・ミンと指導者たち』

古田元夫『ホー・チ・ミン──民族解放とドイモイ』(岩波書店、1996年)
・「ホー・チ・ミン思想」なるものは本来なかったのに、ドイモイ政策が進展して1991年を転機に共産党綱領に明記されたのはなぜ?→ホーの本来の立場は民族解放にあったが、時代的に国際共産主義運動と重なっていたという事情→改めて「ホー・チ・ミン思想」なるものが提唱された背景には、これまで正統とされてきた国際共産主義運動からの脱却、ベトナムの伝統文化の見直しを意味した→ドイモイ下で知識人からの支持。
・他方で、ホーの意図とは別に、共産主義体制のシンボルとして反発する人々もいる。
・ホーは1911年、フランス船の見習いコックとしてフランスへ。さらにアフリカ、アメリカ、イギリスと回ってからパリに移住→早くから国際的な視野の中でベトナムを考える視点。
・1919年にフランス社会党に加入。ヴェルサイユ会議に「アンナン人民の要求」を提出:ファン・チャウ・チン(フランス支配の枠内での改革を主張)との合作。
・レーニンの民族解放論に触れて1920年のフランス共産党結成に参加。1923年にモスクワへ。そのとき、当時国共合作の蒋介石とも面会。
・1924年、コミンテルンにより広州へ派遣された。
・フランスからの圧力で日本はファン・ボイ・チャウなど東游運動のベトナム人を国外追放→中国・タイへ渡っていた人々の中で、ファンの考え方にあきたらなかった青年たちがタムタムサー(心心社)を結成していた→ホーはこれと接触し、共産主義組織形成の基盤とする。→1925年、広州でベトナム青年革命会。
・1929年、ホー不在のハノイでインドシナ共産党。合計3つの共産主義組織が分立したため、1939年、ホーはこれらの代表を香港に集めてベトナム共産党を組織(後にチャン・フーの指導でインドシナ共産党と改称)。
・1930年代のコミンテルン内部の権力闘争の時期にはソ連で「学習」に専念。
・1941年、インドシナ共産党がコミンテルンから自立性を強める中、コミンテルンとの結び付きのある指導者としてホーが帰国。
・1942年8月、支援を求めて中国へ向かったとき、これまで共産主義革命家としてのイメージが定着していた「阮愛国」から「胡志明」へと名前を変えた→連合国からの国際的支援を念頭に置いていた(しかし、中国国民党に逮捕されて一年間拘束)。
・1945年の八月革命→バオダイ帝は退位してベトナム民主共和国臨時政府成立。バオダイを最高顧問にしたほか、ベトナム独立への希望から日本の仏印処理を歓迎した「親日的傾向」の人々も含まれた。このとき、民族への裏切りとしての「親日分子」と、独立を希求したがゆえの「親日的傾向」とを区別→後者の経歴はあまり問題視されないという「東南アジア的特徴」。
・1946年12月から第一次インドシナ戦争。一般のフランス人からも共感を集めるため、敵はフランス一般ではなく「侵略的フランス植民地主義」と規定、フランス連合内の独立も考慮していた。
・冷戦構造の中に組み込まれてしまったため、ベトナム独自の発想による政治指導の余地が狭まった→ソ連・中国モデルに従う。
・ベトナム戦争では、共産主義対自由主義的ナショナリズムという枠組みではなく、アメリカに対する民族独立・統一の戦いに世界中に認識させた。ホーの戦略性:「敵を減らして味方を増やす」「時機をとらえる」。
・1969年にホーは死去。1975年にベトナム戦争終わる→指導部の勝利の驕り。「北」の「貧しさを分かち合う社会主義」を「南」にも適用→戦時経済としては有効だったが、もともと豊かだった「南」側の反発。

ジョン・ラクチュール(吉田康彦・伴野文夫訳)『ベトナムの星──ホー・チ・ミンと指導者たち』(サイマル出版会、1968年)
・著者はジャーナリストで、インドシナ進駐軍に勤務経験があり、フランス当局とベトナム側との「接点」になって1945~1947年に至るまでの一連の出来事を現地で体験。その時期の交渉の経緯が詳しく描かれている。ホー・チ・ミンは和解と協力によって平和的に独立を果たすことができず、フランス側の強硬姿勢、ベトミン側の強硬派との板ばさみにあっていたようにも見える。
・1920年、パリで日本人のフランス文学者小松清と出会ったことが記されていた。ホーの方から「あなたは中国人ですか、ベトナム人ですか?」と話しかけてきたらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「遠くの空」

「遠くの空」

 証券会社に勤める主人公(内山理名)の部署に韓国支社からやり手の韓国人の部長(キム・ウンス)が転任してきた。父親ほど年齢の離れた彼にファザコンの彼女はアプローチ、デートを重ねるうちに過去の話を聞くことになった。彼が学生運動のリーダーとして関わった光州事件の苦い思い出、それは在日韓国人の母を持つ彼女にも実は関わりのあることだった、というストーリー。

 考えてみたら今年は光州事件から三十周年なのか。この事件について知らない世代に向けて語るシチュエーションを設定したかった意図は分かる。しかし、それにしてもストーリー展開にはこじつけが強すぎて無理がある。全体的にきれいに作られてはいるが、その分、学生運動挫折の葛藤に説得力がない。残念ながら、映画としての見ごたえはいまいちだ。日本で韓国ものをつくると黒田福美の起用はマストなのか。

【データ】
監督:井上春生
2010年/85分
(2010年10月2日、新宿・K’s cinemaにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 2日 (土)

吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』

吉沢南『戦争拡大の構図──日本軍の「仏印進駐」』(青木書店、1986年)
・1938年、援蒋ルートについて仏印側に抗議→初期段階の交渉では「日本通」フランス人が重要な役割→1940年6月に日本は監視団を送ることで合意(西原機関)。
・1940年9月の日本軍の北部仏印進駐から1941年7月の南部仏印進駐にかけて、日本の戦争遂行指導部における内部対立が国策決定に及ぼしたプロセスを本書は分析。戦争拡大反対派と積極推進派との対立は言わば「同じ穴のムジナ」に過ぎず、戦争抑止に作用するどころか、むしろこのセクショナリズムによる対立抗争が戦争衝動を相乗的に高めていった。平和進駐派の西原一策(現地の西原機関)と強硬派の富永恭次(参謀本部第一部長)の喧嘩両成敗となったが、進駐という結果は残った。(※本書の内容とは関係ないが、富永は後にフィリピン戦線に異動、特攻隊をドンドン送り出しながら自分だけ本国に逃げ帰った卑怯者。西原の後任としてハノイに赴任した澄田【らい】四郎はその後中国戦線に異動となり、降伏時に部下の将兵を山西省に置き去りにして帰った。両方とも評判の悪い奴らだ)

吉沢南『私たちの中のアジアの戦争──仏領インドシナの「日本人」』(朝日選書、1986年)
・戦争中、仏領インドシナにいた4人からの聞き書き。
【西原機関の電信係】:現地で情報収集や親日団体組織工作などにも従事。
 日本と仏印当局との折衝が行き詰ったとき、邦人総引き揚げ(=武力行使の予兆)という強迫手段。
 対中国人の情報収集活動をした台湾出身者→戦後、ハノイに進駐した中国軍によって「漢奸」として処刑された。
 からゆきさんだった人など以前からベトナムに来ていた日本人の姿が垣間見える。
 日本は仏印進駐後もフランス植民地機構を維持利用→日本とフランスとの共同支配→日本の敗色が濃厚となるにつれてフランス側の対日協力派が後退、ドゴール派が有力に→1945年3月9日、日本軍がフランス側を攻撃(「仏印処理」「明号作戦」)→日本の単独支配。
 日本の敗北が決定的になるとベトミンが一斉蜂起。しかし、無条件降伏した日本軍は戦意喪失しており、むしろこれから進駐してくる仏・英・中国軍に対して警戒感→ベトミンは日本軍との衝突を回避、日本人の安全の保証を条件に武器の引渡しを申し入れてきた。
【台湾生まれの日本人で台南製麻の会計係】
 仏印「開発」に向けて日本は台湾の人的資源(日本人も台湾人も)や経済力を総動員、このときに台湾製麻もベトナム進出。台湾人指導員がベトナムの農村に入っていった。黄麻強制栽培がベトナムで飢餓を発生させたのではないか?という問題。
 ベトナム人女性を妾にするケースは多々あったが、正式に結婚したこの人は憲兵隊に呼び出され「現地の劣等民族と結婚するなどけしからん」と言われた。
 中国軍(中国国民党の盧漢将軍指揮)と共に帰還した越南革命同盟会・越南国民党とベトミンとの対立。ハノイでは、国民党軍は日本軍以上にひどかったと記憶されているらしい。
 ベトミンに参加した日本人(100名前後?)に対して、フランス軍はナーバスになっていた。
【大南公司の農業指導員となった台湾人】
 「日本人」意識を持ち、現地ベトナム人からもそう思われている一方で、日本人からは差別待遇を受けた。台湾人を矢面に立てて現地を支配するからくり→ベトナム人の間には、日本人よりも台湾人の方がひどかったと思われてしまった。
 戦後、ベトナム政府からは「日本人」として扱われたが、日本政府からは「日本人」とは認められなかったため引揚できず、無国籍のままベトナムに残留。中越関係が悪化する中、「難民」として香港経由で日本へ。
【ハイフォンの憲兵】
 日本軍によるベトミンへの掃討作戦に参加。
 戦後、捕虜となったが逃亡→ベトナムのフランスとの戦いが始まっており、逃げ込んだ農村で軍事教練を頼まれ、さらにベトミンに参加。中国の南寧に行ったとき、中国軍の中にも日本人がいるのに出会った。1954年に帰国。

吉沢南『ベトナムの日本軍──キムソン村襲撃事件』(岩波ブックレット、1993年)
・1945年8月4日、日本軍がキムソン村を攻撃した際の状況について、現地を訪ねて当時を知る人々からの聞き取りをもとに事件のあらましを再現。
・1945年3月9日の日本軍による対仏クーデターによって共同支配者であったフランス人が蹴落とされ、ベトナムはバオダイ皇帝、チャン・チョン・キム内閣を傀儡として日本の単独支配下にあり、ベトミンと直接対峙する状況。キムソン村では親日団体「大越」による旧体制が崩れたため、ベトミンに通じる「反日」派とみなされて攻撃を受けた。
・日本軍はベトナム人で組織した「保安隊」を動員。他方で、キムソン村は「保安隊」にいた者から事前に情報を得ており、反撃の用意をしていた。「保安隊」はその後、南ベトナムの地方警備軍に再編成された。
・日本の敗戦後、ベトナム人と一緒にフランス軍と戦った日本兵の墓地もあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】「蛇のひと」

「蛇のひと」

 部長(國村隼)が自殺して会社が大騒ぎしている中、課長の今西(西島秀俊)の姿も見えない。会社上層部は今西が横領して逃げたと疑っている。部下の三辺(永作博美)は彼の行方を捜すよう命じられ、今西の知人を訪ねまわって話を聞いているうちに、みんな彼の人柄の良さをほめるのだが、どこか釈然としないものも感じていることに気づく。結局、今西への疑いは晴れた。しかし、上司としてよく知っているように思っていた彼の人物像はかえって分からなくなってきた。三辺は今西の実家のあった大阪まで行き、彼の過去を知る。

 きっかけは事件の謎解きだが、それが今西という人物が抱えているものは何なのかという人間性そのものへの探求へと結び付くという形のサスペンス・ドラマ。メッセージの送り手と受け手の共振関係によって受け手側の心中に生ずる感情的な何かがカギとなる。心理ドラマは脚本が下手だと、こういう過去の問題があったからこういう事件につながったという安易な因果関係に短絡化されてしまいかねない。しかし、この作品の場合、例えばラストのエピソードを見ると、影響を受けた側自身の能動的なモチベーションのあり方によって結果も変わり得ることがほのめかされる。脚本はWOWOWシナリオ大賞の受賞作らしいが、物語展開のテンポといい、エピソードの重ね方といい、よく出来ていると思う。短期間単館上映ではもったいないくらいだ。

 大阪弁でノリは軽く人当たりは良いが、表面に見える笑顔とは裏腹に本心では何を考えているのか分からないという今西のパーソナリティー、そうした役柄はどす黒さを感じさせる人だといかにもありがちな悪人になってしまうが、西島秀俊のどこか透明感の漂うオーラを通すとミステリアスでうまくはまっている。永作博美の年季の入った童顔も好き。

【データ】
監督:森淳一
脚本:三好晶子
出演:永作博美、西島秀俊、國村隼、石野真子、ふせえり、勝村政信、劇団ひとり、板尾創路、河原崎健三、他
2010年/102分
(2010年10月1日レイトショー、角川シネマ新宿にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 1日 (金)

ベトナムに関する新書など

 ベトナム事情について取っ掛かりとなる新書や概説書を何冊かまとめて読んだ。とりあえず、今井昭夫・岩井美佐紀編『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店、2004年)。明石書店の地域研究~章シリーズはその国・地域に関する専門家を総動員して歴史・地理・文化・社会・政治・経済など項目網羅的に概説されているので、まずこれで人名・地名・専門用語などをとにかく見覚えあるなあ、という程度にまで頭慣らし。
 
 坪井善明『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』(岩波新書、1994年)、『ヴェトナム新時代:「豊かさ」への模索』(岩波新書、2008年)、古田元夫『ベトナムの現在』(講談社現代新書、1996年)はいずれもドイモイ(刷新)政策の展開によって変化しつつあるベトナムの姿をどのように捉えるかという問題関心の中で社会事情や歴史が解説される。読みながらとったメモを箇条書きしておくと、
・ドイモイは1980年代から農村で実験が始まっており、1986年に共産党の方針として公式に採択された。同時期のソ連におけるペレストロイカの影響は無視できないものの、それ以前に農村で「もぐり請負制」などの形で始まっていた「下からのイニシアチブ」を契機に上層部の方針転換が促されたことが特筆される→北部出身のチュオン・チンの判断でドイモイに踏み切り、南部の改革派指導者グエン・ヴァン・リンが書記長になる。
・ベトナムはコンセンサス重視の意思決定→独裁者が現われなかった一方で、方針決定が遅れがち、微温的な保守主義的傾向。
・「王の法もムラの垣根まで」→村落共同体自治の伝統。
・ベトナム戦争時からの「貧しさを分かち合う社会主義」への反発→経済発展を求める。
・普遍モデルの社会主義ではなく、ベトナム独自=民族化した政策展開へ。
・ベトナム統一→経済的に豊かな「南」を「北」が政治的に支配したという構図になってしまい、「南」側の不満→北部・中部・南部のバランスをとりながら経済発展を進めなければならないという問題意識(発展できる者から発展せよ、という鄧小平的な方針は取れない)。
・経済以外の分野で上に立つのは共産党員(予算配分、許認可権)のみで、「南」には党員になること自体を潔しとしない風潮もあった。また、都会の若者も、党員になると様々な義務が負わされるので自由が制限されてしまう、将来的には経歴としてマイナスになってしまうかもしれないという懸念→党員になりたがらない風潮。
・ベトナム=越南という名称は中国側からつけられたもの。北属南進:北の中国から押されて南のチャンパ、クメールなどを圧迫しながらベトナム人は南下してきたという歴史的経緯。ベトナムもまた「小中華」的に周辺民族と朝貢関係。
・古田書:漢字文化圏(字喃はさらに難しく、大衆向けではない)→ローマ字表記の受容は大衆を含めたベトナム人としての一体感醸成に役立った→中華世界からの離脱という主張と結びつく。同時に、このベトナムとしての個性模索=ナショナリズムが東南アジア(WWⅡ以降になって初めて成立した概念で、もともと共通点のない曖昧さ)指向と結びつく→かつてキン族(京族、狭義のベトナム人)中心の排他性があったナショナリズムが、共産主義運動の中で少数民族を含めた多民族国家へという方針と結びつき、これが多様性指向の「東南アジア」概念と共鳴。
・他方で坪井書は、先住民政策で国民統合を優先させてきた点では「南」も「北」も同じだったと指摘。
・坪井書でホー・チ・ミン再考→独裁的にならなかったリーダーは東アジアでは稀有。彼を近代的主権国家としての独立を目指した共和主義者として把握、時代状況から共産主義に近づいたが、彼をマルクス・レーニン主義者として理解することにはズレがあると指摘。
・ASEANにとってベトナムは対中国の防波堤となる。
・現在、ベトナムでは韓国・台湾の進出ぶりが目立ち、日本の影は薄い。
・日本側のベトナムへの関心:日中関係リスク回避、かつ人件費が中国より安いので進出したい。米越関係の好転。投資の受け入れ環境が整備されつつある。
・坪井善明『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』で登場するグエン・スアン・オアインに興味を持った。ドイモイという言葉を最初に使った経済学者。1923年生まれ、1940年(日本軍の北部仏印進駐のとき)に日本へ留学。「日本はヴェトナム独立を支援してくれる、日本で勉強して革命家になる」と決意したらしい。京都帝国大学経済学部に入学、卒業は日本の敗戦後。さらに渡米してハーバードで博士号取得。IMF勤務中に南ヴェトナム政府から招かれて中央銀行総裁兼副首相に就任。「祖国に尽くせ」という父の教えを守ってサイゴン陥落後も残留。その後はひっそりと経済学の研究を続けていたが、やがて共産党改革派から非公式に接触を受けてアドバイス。

 ドンソン文化などの考古学的話題から、漢代のチュン姉妹の反乱をはじめとした中国支配への抵抗、ベトナム人の南下とそれによる南部にいたインド系文化を持つチャンパやクメールへの圧迫、元軍撃退、李陳時代という安定王朝におけるべトナムの国としてのかたちの形成、19世紀からのフランスによる植民地支配、さらに日本軍が来てその敗退と共に独立宣言→インドシナ戦争、ベトナム戦争。こうした通史については松本信広『ベトナム民族小史』(岩波新書、1969年)と小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』(中公新書、1997年)がある。松本書は学生のときに読んだ覚えがあった。小倉書の方は人物伝を中心に構成され、かつ情報量も豊富なので一冊読むとしたらこれが一番良いだろう。小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』(朝日選書、2002年)はヴェトナム北部から南部まで歩いたときに見たり感じたりしたことを取っ掛かりに、それぞれの土地にまつわる歴史的エピソードを紹介。これも読みやすい。

 なお、松本信広は戦前世代で、本来の関心は言語学・民族学・古代史といったあたりにあった。これに対して、戦後世代の古田元夫、坪井善明らの関心のきっかけは学生時代のベトナム反戦運動だったらしい。小倉貞男も生まれは戦前だが、やはりジャーナリストとして取材したベトナム戦争がきっかけになっているようだ。ベトナム戦争に関してはそれだけで相当なボリュームになるからだろう、いずれも別の本を参照するようにという形になっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »