坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史──阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847─1883』(東京大学出版会、1991年)
・対象とするのはフランスによる植民地化が始まった時期。ヴェトナムをフランス・中国といった外国勢力によって翻弄された客体として描くのではなく、自立的な動向を示した主体として捉える視点の中で対外的危機に対処しきれなかったヴェトナムの社会構成が抱えた内在的問題を分析する。
・アドラン司教(ピニョー)の個人的努力で阮福映(嘉隆[ザロン]帝)が西山党を破って権力掌握。
・次の明命(ミンマン)帝は宣教師迫害。宗教的理由からキリスト教を迫害する理由はヴェトナム側にはなかったが、宣教師の政治行動への疑惑が高まっていた。宣教師集団にはナショナリズム感情が高まっていたこと、ナポレオン三世政府への影響力があったこと→宣教師集団の主導で他国の政治権力に対する軍事介入が可能だった。
・フランスの中国進出、イギリスとの対抗のために拠点を必要としていた。
・フランス本国政府からの明確な指示なし、情報伝達の距離感→現地の代理人が独断行動。
・阮朝の王位継承手順が不明確→後継者争いのなか宮廷革命によって嗣徳(トゥドゥック)帝が即位。文人肌、体質虚弱で国民的な人気なし。
・兄の洪保が政治的陰謀に関わって失敗、自殺。彼はキリスト教徒に接近していた→嗣徳帝の反キリスト教感情、迫害→フランスの軍事介入の口実。
・フランスへのコーチシナ三省割譲→文紳・官人たちの反発、抗議活動→嗣徳帝は中国や黒旗軍(劉永福)に助けを求めた一方、文紳たちの反乱に対してはフランス海軍の協力を得た→外国依存の対応。
・宮廷では改革の必要を感じつつも進まない:①西欧文明の導入は「敵」への屈服と思われた。②財源問題の考慮なし。③どんな社会階層を拠り所として改革を進めるのか展望がない。
・ハノイ、ハイフォン、帰仁の開港→中国商人が急増。
・財政立て直しのために土地税制改革。また、支出削減のため軍隊組織改革→民兵の組織が認められた。
・1874年のサイゴン条約→ヴェトナム宮廷は中国へ朝貢使を派遣する一方、フランス側は中国との関わりは条約違反だと認識。
・村落共同体(ヴェトナム語)と宮廷・国家(中国式統治機構)との連結点となるのが官人・文紳層→この層をつかめなければ国家が直接大衆動員によってフランスへの抵抗運動を組織化することはできなかった。皇帝側も大衆への侮蔑意識、文紳からの意見具申を無視
・皇帝に支持基盤はなく、外交交渉で切り抜けようとしたが、戦争に巻き込まれて行く。
・1885年、退位を迫られた咸宜(ハムギ)帝の檄に応じてようやく「勤王運動」として大衆運動が動き始めるが、皇帝の実質はすでになし。
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