【映画】「彼女が消えた浜辺」
「彼女が消えた浜辺」
テヘランからカスピ海沿岸の保養地へバカンスに出かけたロースクールの同窓生グループとその家族、総勢11人。予約時の手違いで部屋がとれず、代わりに案内されたのは浜辺の一軒家。ぼろいが、打ち寄せる波の音がよく聞こえる風情のあるたたずまいにみんな気に入り、キャンプ気分ではしゃぎまわっている。グループの一人、セピデーが誘ったエリは子供の通う保育園の保育士で、やはりグループの一人で離婚したばかりのアーマドに引き合わせようという魂胆だ。エリの穏やかな人柄にみんなは好感を持ち、この“お見合い”を面白がる。そうした中、連れてきていた子供が海で溺れてしまった。何とか救出されたが、今度はエリがいない。彼女も子供を助けようと海に入って溺れてしまったのか、それとも帰ってしまったのか? 残された携帯電話の着信記録をたどって連絡すると兄と称する男が来ることになったが、実はエリの婚約者らしい。思いがけない展開に息をのむ大人たちの表情は不安げにかたい。
新参者のエリについてみんな口さがなく互いに論評しあうが、事件が起こってエリがいなくなったとき、はじめて彼女の本名を誰も知らないことに思い至る。「こんなことになるなら誘わなければよかった」「いや、子供が溺れているのに帰ってしまうなんてひどい奴だ」、また口々に言い合うが、結局、彼女がどんな人物で、何を考えていて、なぜ婚約者と別れたがっていたのか、誰にも分からないのだ。昨日の和気藹々としたムードは一変し、互いに非難しあう険悪さには心理劇としての緊張感がある。
最終的にエリの“行方”は判明する。しかし、彼女が心の中で抱えていた苦悩は依然として謎のままだ。人は、相手が本当はどんな思いを抱えているのか分からないくせに表面的な印象だけで相手を判断し、それが繰り返されて当たり前のようになって日常が構成されていく。この映画では、その表面的なレッテル貼りで当たり前のように思い込んでいるイメージの裏で相手が本当に抱えている“分からなさ”そのもの、それが事件をきっかけに今さらのように際立たされていく。心理サスペンスとして描き出していく手並みが実にあざやかだ。
【データ】
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
2009年/イラン/116分
(2010年9月18日、ヒューマントラストシネマ有楽町)
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 【映画】「新解釈・三国志」(2020.12.16)
- 【映画】「夕霧花園」(2019.12.24)
- 【映画】「ナチス第三の男」(2019.01.31)
- 【映画】「リバーズ・エッジ」(2018.02.20)
- 【映画】「花咲くころ」(2018.02.15)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント