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2010年9月21日 (火)

尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』、川村湊『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』、尹東燦『「満洲」文学の研究』、他

 「外地」に向けられた日本人作家のロマンティズム、「民族協和」といううるわしい理想。その一方で、政治経済的・軍事的侵略という厳然たる事実において、支配者としての無自覚な優越意識、そして被支配者側から向けられる面従腹背の眼差し、時には卑屈な追従。旧植民地における文学活動は、島国という地理的に閉塞した空間にあった日本人が文学というジャンルにおいても本格的に異文化・異民族接触に体当たりした体験だったとも言える。そこには様々な人間模様が繰り広げられていた。しかし、その邂逅はもちろん幸福なものではなく、現在において振り返る我々にとっても気まずい後味の悪さに戸惑いを禁じ得ない。被支配者側でも抗日のスタンスを打ち出せた人々はまだいい。解放後、英雄とみなされるのだから。しかし、個々それぞれの事情のなりゆきでやむを得ず大東亜文学者大会に出席するなどの形で対日協力せざるを得なかった人々(面従腹背の人々もいたし、アジア主義に共鳴して自発的に協力した人々もいた)は、日本支配下においては屈辱的な思いを噛み締め、戦後にあっては「漢奸」と指弾されることになった。それは、日本人として「戦争責任」を問われた人々以上に悲惨なものであったろう。「アジア解放」という大義名分は戦争遂行、植民地支配正当化のスローガンとなった時点ですでに日本の周辺諸国に対する裏切りを内包していたが、さらにそのスローガンに共鳴させられることで自分自身の祖国への裏切りを強いられた人々がいたこと、その意味での二重の裏切り、私が感じる後味輪の悪さの一つはそこにある。

 旧植民地における文学活動について初めて体系的な検討を加えた人として尾崎秀樹が挙げられる。尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』(岩波書店・同時代ライブラリー、1991年)には大東亜文学者大会や日本統治下における台湾文学に関する論考のほか、「「満洲国」における文学の種々相」も収録されている。日本の近代化における一つの帰結として、当時の人々の言動をできるだけ忠実に洗いなおそうとしている。

 旧満洲国における文学に関して尾崎の論考は素描的で基礎工事を行なったという位置付けになるだろうか。川村湊はこれをさらに発展させる形で、建国や満蒙開拓に従事した当事者ばかりでなく、一時滞在で見聞した文人や放浪者たち、引揚体験、さらに植民地生まれで戦後になって活躍し始めた作家にもたらされた影響まで含めて、満洲における文学活動の様々な諸相をさらに網羅的に描き出している。『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』(岩波新書、1990年)は序論的、日本人作家の満洲体験をコラージュ風に描く構成で、このテーマについて取っ掛かりとするにはこの本がまず読みやすい。芥川賞と「外地」との関わりの指摘に興味を持った。『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』(吉川弘文館、1998年)は事項並列的な概論という体裁でレファレンス的に参照するにはいいだろう。『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』(文藝春秋、1997年)には文芸批評的な論文が並ぶ。独特なパーソナリティーを持った朝鮮人作家・金文輯についての「花豚正伝」、ニコライ・バイコフを取り上げた「樹海の人」に興味を持った。

 台湾生まれの尾崎の関心が台湾に傾いているのに対して、日本語教師として韓国に滞在した経験を持つ川村の関心では朝鮮半島出身者への比重が大きい。なお、日本統治下の朝鮮文壇に関して川村湊『〈酔いどれ船〉の青春──もう一つの戦中・戦後』(講談社、1986年)は先駆的な作品である。それから、蛇足ながら戦時下の台湾文壇については以前、こちらにメモしておいた(→『文藝台湾』と『台湾文学』と『民俗台湾』)。

 旧満洲国は「五族協和」という建前を取っていた以上、日本語だけでなく中国語、朝鮮語、ロシア語、モンゴル語など様々な言語による文学活動が含まれるはずである。本来ならばそれらすべてを同一平面に並べて論じなければならないところだが、それだけ幅広い言語能力が要求されるわけでなかなか難しい。上掲尾崎、川村の論考にもそうした限界がある。対して、尹東燦『「満洲」文学の研究』(明石書店、2010年)は日本語、中国語、朝鮮語を駆使しているところに長所がある。それぞれの言語的立場によって文学的性質も異なっており、旧満洲国内部における複雑な葛藤が浮き彫りにされて興味深い。
・日本人文学者の間で「満洲文学」は日本文学の延長線上にあるのか否かという論争→満洲国に独自性を認めるのか、日本の植民地とみなすのかという解釈の相違→しかし、「満洲国」自体が虚像なのだからどうしても議論そのものが空論に陥ってしまう。
・中国人(満系)文学者には「満洲」は自分たちの郷土という意識。中国本土の文学とのつながりが意識されるが、それをあからさまに表明すると「満洲国」否定の危険性。異民族支配に対して文学はいかに抵抗できるのかという潜在的問題に行き着く。異民族支配という状況下、純粋に芸術的立場から文学を論ずることができなくなってしまうという困難。
・朝鮮半島では朝鮮語出版物はほとんど禁止→「五族協和」を建前とする「満洲国」ではかろうじて朝鮮語文学が生き残れる可能性。被支配者という立場は中国人(満系)と同じだが、日本人との関係では独特な立場にあった困難。朝鮮人は日本の中国侵略の尖兵として来たと受け止められているため現地では排除される立場であったが、「満洲国」建国によって存在権を得た→「満洲国」を肯定。また、「移民受難記」的な要素→朝鮮人の立場の不安定さがうかがえる。
・日向伸夫についての論考→日本人作家の中でも被支配者側に同情する良心的な人々がいたが、しかし同時に支配民族という立場から離れられないという困難。
・満洲という土地で展開された各言語の文学は、それぞれの民族の政治的立場の相違のため、相互の内的関連性や影響関係が薄かったと指摘される。
・ロシア語、モンゴル語、さらには体制外の反満抗日文学の作品の検討、同様に日本の支配下にあった朝鮮半島・台湾との比較などの問題提起。

 なお、岡田英樹『文学にみる「満洲国」の位相』(研文出版、2000年)は未読。

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