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2010年9月23日 (木)

ポール・M・ハンドレー『王は決して微笑まない:タイ国王プミポン・アドゥンヤデート伝』

 タイ政治について私の脳裡にすぐ思い浮かぶのは、1992年、軍事政権と民主化勢力とが衝突したとき、調停役として現れたプミポン国王の足元に双方の代表がひれ伏しているシーンである。例えば、岡崎久彦他『クーデターの政治学』(中公新書)では、超越的な権威として君臨する国王の下で軍部と議会とが政権交代を行うあり方は、西欧型民主主義の基準からは異質であるにしても、政権交代のダイナミズムが機能している点で独自の政治モデルであると捉えられていた。

 ところが、プミポン国王の生涯を軸にタイの現代政治史を描き出した本書Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand’s Bhumibol Adulyadej(Yale University Press, 2006)を読むと印象がだいぶ違ってくる。

 現在我々が目にしているタイ王室の権威は昔ながらのもののように思われがちだが、エリック・ホブズボームたちの表現を借りるなら、言わば「創られた伝統」としての側面が強い。確かにかつてタイ王室の権威は19世紀におけるチュラロンコーン大王の時代には頂点に達していた。ところが、絶対王政の機能不全から海外留学経験のあるエリートが中心となって1932年に立憲革命が起こり、国王の海外亡命や幼王の擁立などで王室の権威は凋落していた。現在尊崇を受けているタイ王室の存在感はプミポン国王自身の個人的資質によるところが大きい。それだけ制度的に不安定な脆さを抱えているとも言える。

 プミポンは1927年、父親の留学先であったアメリカ・ボストンで生まれた。早くに父をなくしたが、母や兄と一緒にスイスに留学、王位継承者となった兄の帰国に同行するまでタイの地を踏むことはほとんどなかった。帰国後ほどなくして兄王アーナンダが寝室で額を撃ちぬかれて死んでいるのが見つかった。犯人はいまだに分かっていない。この兄王の怪死事件のためプミポンが急遽チャクリ朝第9代の王として即位することになった。1946年、弱冠19歳のときで、在位期間はすでに60年を超えている。

 失墜したチャクリ朝の権威を回復し、その伝統を維持しなければならないという使命を負わされたプミポンの前に次々と立ちはだかる大きな壁──立憲革命で活躍した大物政治家たち、共産主義の脅威、そして現在のグローバル資本主義。これらの困難を切り抜けていく彼の姿は、世俗から超越した権威どころではない、自ら明確な意志を持って判断する政治アクターそのものである。彼は滅多に政治の表舞台には現れないが、政治危機に陥ったときは国王の意向を受けた王族や枢密顧問官たちが政財官界や軍部に張り巡らされた人脈ネットワークを使って政治工作を行っていた。例えば、1992年の調停の際にも、根回しを進めていたプレーム枢密院議長の姿が軍事政権のスチンダ、民主化指導者のチャムロンたちの傍らに見えた。調停者としての国王の存在感が賞賛されるが、そもそも腐敗した軍人たちを政権の座に据えたのは国王ではなかったのか?と著者は疑問を投げかける。成功したクーデターのすべてが国王の内諾済みであった。

 プミポンの基本的な方針は「慈父としての国王」による民本主義的な統治と言えるだろうか。仏教に基づく高潔な倫理観と智慧を持つ者、具体的には国王自身の指導によってタイ国家は統治されるべきで(民族・宗教・国王の三本柱でタイは成り立ち、その要は国王であるという考え方)西欧型民主主義はアジアには根付かない、チャクリ朝は歴代国王の善政によって歴史的に国民から支持されてきたのだから、この事実こそがタイ独自の「民主主義」の根拠だ、という考え方のようだ。アウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞した際、彼女は民主化運動などやめてイギリスに帰り、政治は軍事政権に任せるべきだ、ともプミポンは語っていたらしい。

 プミポンの即位後間もなく、立憲革命の立役者の一人で共和政志向と疑われていたプリーディー首相は兄王アーナンダ怪死事件に絡む噂でマイナス・イメージを負わされて国外に亡命。やはり立憲革命で活躍した大物ピブーンは、第二次世界大戦中に日本と協力したためしばらく謹慎していたが、1950年代に首相として再登板、その強力な存在感は国王をしのぐ勢いだった。しかし、彼もまた失脚して日本へ亡命した。1960~70年代にかけてはインドシナ半島における共産主義勢力の伸張が脅威となった。隣国ラオスで王政が廃止され、ヴェトナムも陥落、タイ王家はパニックに陥る。民主化を要求する勢力は穏健な改革派などではなく、外国から唆された革命派であると国王は誤認していたため、クーデターで政権を掌握したサリット将軍による弾圧を暗黙のうちに支持した。以降、国王と軍事政権は事実上の同盟関係に入る。タイ国内には国王支持の大衆組織が張り巡らされ、メディアを通して国王の権威高揚も図られた。冷戦という時代状況下、反共の砦としてアメリカからのバックアップを受けたことも大きい。

 1990年代はグローバル資本主義がタイをも席巻し、やがてバーツ危機に揺らぐ。もともと仏教的倫理観から「足るを知る経済」を提唱していた国王はこうした趨勢に当然ながら批判的であったが(シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』の影響も受けているらしい)、まさしく国王の批判するグローバル資本主義の趨勢に乗った政治家が登場した。タクシンである。選挙で議会の過半数を得た初めての首相であるが、そうした彼の強力なリーダーシップにはかつてのピブーンを想起させる存在感がタイ社会にはあったらしい。国内各方面からの不満もあって2006年にタクシン追放のクーデターが勃発するが、これにも当然ながら国王の内諾があった。

 プミポン国王自身は聡明かつ教養豊かであり(考え方が時代遅れであるにもかかわらず政治に口出しするため混乱を来たすこともあったようだが)、国民から支持が集まるだけの人格的魅力も備えている。数々の困難を切り抜けて王朝が維持されてきたのも、他ならぬ国王自身のパーソナリティーに依存していたと言ってよい。だが、そうした個人的人格に依存した体制は致命的な弱点をも抱え込んでいる。すでに高齢で国王崩御も時間の問題であり、そして後継者のヴァジラロンコーン皇太子の評判は極めて悪い。タイには不敬罪があるためおおっぴらに語られることはないのだが(なお、本書も王室のタブーに触れているためタイでは発禁処分となっている)。欧州や日本のような立憲君主制の道をとるのか、それともこのままの体制でいくのか、タイ王室自身、行方をいまだに定まめていない問題点が最後に指摘される。

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