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2010年9月

2010年9月30日 (木)

廉思編著『「蟻族」──高学歴ワーキングプアたちの群れ』

廉思編著(関根謙監訳)『「蟻族」──高学歴ワーキングプアたちの群れ』(勉誠出版、2010年)

 中国八〇后世代の「大卒低所得群居集団」について同世代の若手研究者が調査した記録である。知能指数は高くて忍耐強いところから著者たちは「蟻族」と命名した。交通の便がよくて家賃の安い住処を求める彼らが集まった北京郊外の唐家嶺近辺に群居村が形成されており、本書での調査光景を見ると、「保護員」と称する者が水費=ショバ代を巻き上げるなど、ちょっと殺伐とした雰囲気だ。大学教育システムと社会的需要との雇用のミスマッチ、大都市にあこがれた地方出身者が多くいる点では都市と地方との格差、出身階層による格差など様々な現代中国の社会的矛盾がこの「蟻族」をめぐる問題からうかがえる。

 生活の苦しさや将来展望の不透明といった困窮からのプレッシャーにより彼ら「蟻族」の心理的剥奪感は強く、それが社会的憎悪に向かう可能性は容易に推測される。そうした不満は、具体的な要求を掲げた集団行動ではなく、感情的なはけ口としてインターネット上の炎上という形で表れやすいようだ。あるいは「反日」的ネット世論の形成にも彼らは一役買っているのだろうか。本書ではそこまで言及されないが、仮にそうだとすれば、日本のいわゆる「ネット右翼」にも同様に不遇な生活環境の中で不満を募らせている人々の多いことが想起される。彼らは政治主張としての是非ではなく、抱え込んだ不満の感情的はけ口として過激な言論に引き付けられていることを考えると、不満を抱えた社会階層という点では共通の属性を持った人々が国境を越えて互いにいがみ合っている構図が見えてきて、暗澹たる気持ちになってしまう。

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2010年9月27日 (月)

デイヴィッド・P・カレオ『パワーの愚行:アメリカ一極支配の幻想』

David P. Calleo, The Follies of Power: America’s Unipolar Fantasy, Cambridge University Press, 2009

 著者はジョンズ・ホプキンス大学教授で国際政治経済やヨーロッパ政治が専門。冷戦の勝利、さらにはテロとの戦争という形で、たとえ「民主化」という理念であってもハードな軍事力を行使するアメリカの一極支配志向を批判するのが本書の趣旨。多極化した現代の国際社会において、正統性の根拠は同意に求められる。発想はリベラリズムだが方法論としてリアリズムとも言える立憲主義(constitutionalism)の立場をとり(ヨーロッパの立憲主義は、対外的な武力行使をためらわないアメリカのリベラルとは異なると指摘)、妥協と相互の譲歩を可能にする交渉のメカニズムが制度的に確立したヨーロッパ連合の方向性をこれからのモデルとして提示する。軍事、経済、政治哲学など幅広く目配りしながら叙述は簡潔。アメリカのユニラテラリズムをどのように考えるかという問題意識から理論的な整理をしたい場合にはうってつけだろう。

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2010年9月26日 (日)

小林秀明『クーデターとタイ政治──日本大使の1035日』

小林秀明『クーデターとタイ政治──日本大使の1035日』(ゆまに書房、2010年)

 著者は外交官で、2005年11月から2008年9月までタイ大使として着任していた時期の見聞をまとめた手記である。ちょうどタクシン派と反タクシン派との対立が厳しくなり、クーデターや政権崩壊が繰り返された混乱の時期。大使としての中立的立場からタクシンやプレム枢密院議長、スラユット首相、サマック首相、チャムロン氏などタイ政治のキーパーソンたちと面会することができたので、彼らの印象がつづられているのが興味深い。タクシンは追放されたものの、議会の多数をタクシン派が占めているため操り人形的にサマックが首相に就任した。しかし、反タクシン派の動向は激しくなり、軍部や司法は国王に忠誠を誓っているためサマックの言うことをきかないどころかつぶしにかかった。本書の筆致は穏やかなものだが、表舞台とは別な次元でタクシン派、国王支持派(具体的にはプレム枢密院議長が動いていた)それぞれを動かす裏の動きが行間から見え隠れする。

 なお、クーデターをおこしたソンティ陸軍司令官や元外相のスリン・ピツワンASEAN事務局長はイスラム教徒(アユタヤ朝以来のエリート一族らしい)、テート外相はペルシア系(やはりアユタヤ朝以来の家柄らしい)、そしてタクシンは祖父の代に移住してきた中国系である(かつてワチラーウット王やピブーン政権の時代のナショナリズム政策で中国系はタイ風に名前を変えた)。山田長政もそうだが、タイ王朝は有能であれば外国人でも積極的に人材登用した伝統があると別の本で読んだ覚えがあるが、現在の政治的キーパーソンたちを見てもそうした傾向がよくうかがえるのが興味深い。

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黄英哲『台湾文化再構築の光と影1945~1947──魯迅思想受容の行方』、丸川哲史『台湾における脱植民地化と祖国化──二・二八事件前後の文学運動から』

黄英哲『台湾文化再構築の光と影1945~1947──魯迅思想受容の行方』創土社、1999年
・台湾省行政長官公署→政治建設、経済建設と同時に心理建設(=文化再構築工作)。台湾接収工作の一環として、教育や宣伝を通して日本文化の影響を一掃し、中華民族意識を植えつける。
・台湾省編訳館→館長として許寿裳が招かれた。彼は陳儀、魯迅と同郷で日本留学時からの親友。知日派であり、南京の政治風土が肌に合わず、また魯迅の伝記執筆の時間が欲しくて陳儀からの招請を受諾した。編訳館では中国語普及のため教科書等を編修。許の考え方は、日本の侵略的側面を否定する一方で、学術研究は高く評価、その継承は必要。台湾研究組には日本人学者を留用。1947年の二・二八事件後、陳儀は更迭→編訳館も廃止。
・台湾文化協進会→機関誌『台湾文化』。言語的転換の難しさから、台湾人執筆者は相対的に少ない。王白淵、楊雲萍、呉新栄、楊守愚、劉捷、呂赫若、黄得時など。日本人の国分直一、金関丈夫、岩生成一なども見える。しかし、二・二八事件等で台湾文化協進会のメンバーが落命、行方不明、投獄、逃亡。中国人の進歩的な知識人も迫害を受け、黄栄燦は獄死、許寿裳は何者かによって殺害されたほか、大陸へ逃亡した。
⇒台湾人の左翼系活動家たちと中国大陸から来た進歩的文化人との2年にも満たない協力関係が終わってしまう(その中には留用という形で台湾に残っていた日本人文化人も顔をのぞかせていた)。
・許寿裳は魯迅思想の伝播によって台湾で新たな五・四運動を期待、それを通して台湾人の国民性を日本人→中国人へと改造することを意図。他方で、龍瑛宗、楊逵、藍明谷(「光明報」事件で処刑)などの台湾人も魯迅紹介に努めたが、彼らはむしろ国民党支配下にある台湾という現実に目を向けることになり、許とは異なる方向性。
・国民政府は台湾人は中国語ができないことから日本の「奴隷化」とみなした→日文廃止という強行手段で「中国化」を図る。しかし、台湾人側からすれば、人間性までは「奴隷化」などされていないし、「日本化」=近代的文化、高度な資本主義化という側面があり、世界中の文化が日本語に訳されているのだから日本語を通して「世界化」への接近も可能だ、という反発。

丸川哲史『台湾における脱植民地化と祖国化──二・二八事件前後の文学運動から』明石書店、2007年
・日本敗戦から国府遷台までの間、政体として台湾と中国大陸とはつながっていた時期で、それを前提として中華民国という枠組みの中で民主主義体制への期待もあった。この当時において、台湾の脱植民地化=祖国化が課題と考えられていた→基準は中華民国側の対応による、しかし、国民党に批判的な進歩的知識人も台湾に来ており、こうした混乱した時代状況に対してポストコロニアル等の批評理論を援用しながら文学作品や新聞論説等の分析を通して考える。中台対立、台湾内のエスニシティ対立を自明視する視点へは批判的な立場。
・上掲黄英哲書を評価しつつ、同書が1947年の二・二八事件で叙述を終わらせており、この事件の挫折を乗り越えようとしたその後の文学運動への目配りがないことを指摘。
・国民党政権が持ち込んだ「中国」への幻滅によって「祖国化」は挫折。台湾人自身にとっての脱植民地化の願いとはすれ違ってしまっていた問題を指摘。
・楊逵→中国大陸から来た進歩的な外省人系知識人との結びつきに焦点を当てる。とりわけ、歌雷(『台湾新生報』副刊《橋》の朱筆、1949年の四・六事件で大陸へ追放)。
・台湾人作家が、「台湾=女性」という構図で大陸から来た人々との接触を主題化。
・大陸系文化人が導入しようとした抗戦文化→国民党の統治体制正当化のイデオロギーとして機能、日本側にいた台湾人にとっては困惑。

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陳培豊『「同化」の同床異夢──日本統治下台湾の国語教育史再考』

陳培豊『「同化」の同床異夢──日本統治下台湾の国語教育史再考』(三元社、2001年)

・日本の台湾統治としての「同化」政策において中核となった「国語」教育を検討。「同化」政策には、民族として日本人へと包摂していく「民族化」と近代文明摂取のための「文明化」、あるいは平等化と差別化といった二つのベクトルがあった。①日本人化と文明化の両方を全面的に受容するのか? ②儒教文化、中華ナショナリズム等に基づき両方を全面的に拒絶するのか? ③文明化のみを選択的に受容するのか?→台湾人は③の選択的受容を目指していたと本書は捉える。国語教育を経由して近代文明を摂取しながら、さらには台湾人自身による近代化への自律的な模索の動機が芽生えていた。
・伊沢修二→「一視同仁」の具現化として「同化」を目指す一方で、台湾社会の現状に合わせて「混和主義」。
・後藤新平は台湾の民度を低評価→差別統治が基本。持地六三郎→日本人への同化よりも、植民地の経済的利益を優先して科学的智識の教育。
⇒それぞれ力点の置き方は違っても、智識教育による「文明への同化」という点は共通している。
・台湾人の国語教育の受容→社会的地位上昇の機会。近代文明への接近経路として。宣教師や台湾人キリスト教徒も国語教育には協力的(朝鮮半島では日本への反感からキリスト教系ミッションスクールへ行きたがる人が多かったのとは対照的)。
・李春生:クリスチャンで洋務運動の先覚者であると同時に、国語教育に協力→日本はキリスト教を排除しなかった文明国という考え方→近代文明への渇望と同時に、日本側における支配論理としての国体論について認識なし→「同化」の同床異夢の関係が成立→この後、近代文明を選択的に受容したいという台湾人側の反応が浮上してくる。
・辛亥革命など大陸における情勢が台湾にも波及→隈本繁吉の主導で台湾版教育勅語の草案→「文明への同化」が後退し、「民族への同化」に比重が移行。
・林献堂:梁啓超との温度差→梁は日本統治の近代的要素を評価し、林の儒教的文人としての生活態度に対して近代文明への関心を促す。そのための摂取言語として日本語をすすめるが、梁にとっては無色透明の方法論に過ぎなくても、林にとってはアイデンティティへの脅威であった。もちろん、林も頑迷な民族主義者というわけではないので、自身は日本語を使わなくても子弟は日本へ留学させている。
・新世代知識人→「同化」の道具である日本語を使いながら「同化」を非難するという矛盾。かといって、漢文は近代文明摂取には不向き。黄呈聡の白話文運動→大陸の白話文は台湾語話者にとっては大衆性乏しい→蔡培火の台湾語ローマ字運動→日本の国体論と衝突。
・皇民化運動→近代文明選択受容のフィルターが弱まってしまった。周金波は皇民化─日本化─近代化を一直線に捉えていた。

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2010年9月25日 (土)

【映画】「ミックマック」

「ミックマック」

 地雷処理時の事故で父を亡くしたバジルは、街中で銃撃戦に巻き込まれて流れ弾が頭の中に入ってしまった。退院したものの仕事を失い、放浪生活をしていたところ、ホームレスの“一家”に迎え入れられた。ある日、二つの大手軍需産業の本社ビル前を通りかかった。それぞれ、父の死の原因となった地雷と自分の頭に撃ち込まれた銃弾を製造した会社である。復讐を思い立ったバジルは、個性的な才能を持つ仲間たちと共に、廃品利用の手作り罠で攻撃開始!

 おふざけテイストの復讐劇。例えば、三木聡や堤幸彦のナンセンスものが好きな人には受けるかな。“アホらしさ”はもっと洗練されている。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画では以前に「アメリ」も観たことがあったが、映像のつくり方がとても面白い。

【データ】
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
2009年/フランス/104分
(2010年9月25日、シネスイッチ銀座にて)

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【映画】「悪人」

「悪人」

 吉田修一の原作は未読。出会い系サイトで出会った二人、実は男の方は前に会った女を殺したばかりだった。男が葛藤する姿に女はほだされて一緒に逃避行に出る、という話。

 女が暮らす田舎の国道沿いのアパートから見える風景は、畑だけが広がる何もない中を車が排気ガスを吐き出しながら通り過ぎ、ほこりっぽい。“孤独”は都会の専売特許のように描かれることもあるが、実際には田舎の方が孤立感は強いと社会学では指摘されている。都市文化が中途半端に浸透している一方で、物理的には人が少ないのだから淋しさがいっそうのこと強められる。出会い系サイトというのもそうした田舎の孤独感の方により適合的なのだろう。

 登場人物のそれぞれが満たされない空虚さを抱えている。補い合える人を求めて出会っても、見栄やエゴが出てしまい、そうしたたまさかのいざこざから事件が発生してしまった。各自の事情を見ていくと、何か意図せざる因果に巻き込まれてしまったかのようにすら見えてくる。殺した側、殺された側、双方の家族の姿も含め、それぞれが一生懸命もがいているのに、そのもがきそのものでどつぼにはまってしまうやるせなさ、みじめさ。誰が悪いという以前に、そうした哀しさが映画としてよく描かれている。

 深津絵里つながりで、森田芳光監督「(ハル)」がふと思い浮かんだ。私が観たのは渋谷のシネ・アミューズが開館して間もなくだったから十数年前になるのか。パソコン通信の草創期、相手の顔は知らないのにチャットで相手の考え方をよく理解しあった二人がラストで出会って「初めまして」というオチ。今から振り返ると無邪気なほどにさわやかな恋愛ドラマだが、時代もずいぶん変わったものだ。

【データ】
監督:李相日
脚本:吉田修一、李相日
音楽:久石譲
出演:妻夫木聡、深津絵里、満島ひかり、柄本明、樹木希林、他
2010年/139分
(2010年9月24日レイトショー、新宿バルト9にて)

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2010年9月23日 (木)

ポール・M・ハンドレー『王は決して微笑まない:タイ国王プミポン・アドゥンヤデート伝』

 タイ政治について私の脳裡にすぐ思い浮かぶのは、1992年、軍事政権と民主化勢力とが衝突したとき、調停役として現れたプミポン国王の足元に双方の代表がひれ伏しているシーンである。例えば、岡崎久彦他『クーデターの政治学』(中公新書)では、超越的な権威として君臨する国王の下で軍部と議会とが政権交代を行うあり方は、西欧型民主主義の基準からは異質であるにしても、政権交代のダイナミズムが機能している点で独自の政治モデルであると捉えられていた。

 ところが、プミポン国王の生涯を軸にタイの現代政治史を描き出した本書Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand’s Bhumibol Adulyadej(Yale University Press, 2006)を読むと印象がだいぶ違ってくる。

 現在我々が目にしているタイ王室の権威は昔ながらのもののように思われがちだが、エリック・ホブズボームたちの表現を借りるなら、言わば「創られた伝統」としての側面が強い。確かにかつてタイ王室の権威は19世紀におけるチュラロンコーン大王の時代には頂点に達していた。ところが、絶対王政の機能不全から海外留学経験のあるエリートが中心となって1932年に立憲革命が起こり、国王の海外亡命や幼王の擁立などで王室の権威は凋落していた。現在尊崇を受けているタイ王室の存在感はプミポン国王自身の個人的資質によるところが大きい。それだけ制度的に不安定な脆さを抱えているとも言える。

 プミポンは1927年、父親の留学先であったアメリカ・ボストンで生まれた。早くに父をなくしたが、母や兄と一緒にスイスに留学、王位継承者となった兄の帰国に同行するまでタイの地を踏むことはほとんどなかった。帰国後ほどなくして兄王アーナンダが寝室で額を撃ちぬかれて死んでいるのが見つかった。犯人はいまだに分かっていない。この兄王の怪死事件のためプミポンが急遽チャクリ朝第9代の王として即位することになった。1946年、弱冠19歳のときで、在位期間はすでに60年を超えている。

 失墜したチャクリ朝の権威を回復し、その伝統を維持しなければならないという使命を負わされたプミポンの前に次々と立ちはだかる大きな壁──立憲革命で活躍した大物政治家たち、共産主義の脅威、そして現在のグローバル資本主義。これらの困難を切り抜けていく彼の姿は、世俗から超越した権威どころではない、自ら明確な意志を持って判断する政治アクターそのものである。彼は滅多に政治の表舞台には現れないが、政治危機に陥ったときは国王の意向を受けた王族や枢密顧問官たちが政財官界や軍部に張り巡らされた人脈ネットワークを使って政治工作を行っていた。例えば、1992年の調停の際にも、根回しを進めていたプレーム枢密院議長の姿が軍事政権のスチンダ、民主化指導者のチャムロンたちの傍らに見えた。調停者としての国王の存在感が賞賛されるが、そもそも腐敗した軍人たちを政権の座に据えたのは国王ではなかったのか?と著者は疑問を投げかける。成功したクーデターのすべてが国王の内諾済みであった。

 プミポンの基本的な方針は「慈父としての国王」による民本主義的な統治と言えるだろうか。仏教に基づく高潔な倫理観と智慧を持つ者、具体的には国王自身の指導によってタイ国家は統治されるべきで(民族・宗教・国王の三本柱でタイは成り立ち、その要は国王であるという考え方)西欧型民主主義はアジアには根付かない、チャクリ朝は歴代国王の善政によって歴史的に国民から支持されてきたのだから、この事実こそがタイ独自の「民主主義」の根拠だ、という考え方のようだ。アウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞した際、彼女は民主化運動などやめてイギリスに帰り、政治は軍事政権に任せるべきだ、ともプミポンは語っていたらしい。

 プミポンの即位後間もなく、立憲革命の立役者の一人で共和政志向と疑われていたプリーディー首相は兄王アーナンダ怪死事件に絡む噂でマイナス・イメージを負わされて国外に亡命。やはり立憲革命で活躍した大物ピブーンは、第二次世界大戦中に日本と協力したためしばらく謹慎していたが、1950年代に首相として再登板、その強力な存在感は国王をしのぐ勢いだった。しかし、彼もまた失脚して日本へ亡命した。1960~70年代にかけてはインドシナ半島における共産主義勢力の伸張が脅威となった。隣国ラオスで王政が廃止され、ヴェトナムも陥落、タイ王家はパニックに陥る。民主化を要求する勢力は穏健な改革派などではなく、外国から唆された革命派であると国王は誤認していたため、クーデターで政権を掌握したサリット将軍による弾圧を暗黙のうちに支持した。以降、国王と軍事政権は事実上の同盟関係に入る。タイ国内には国王支持の大衆組織が張り巡らされ、メディアを通して国王の権威高揚も図られた。冷戦という時代状況下、反共の砦としてアメリカからのバックアップを受けたことも大きい。

 1990年代はグローバル資本主義がタイをも席巻し、やがてバーツ危機に揺らぐ。もともと仏教的倫理観から「足るを知る経済」を提唱していた国王はこうした趨勢に当然ながら批判的であったが(シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』の影響も受けているらしい)、まさしく国王の批判するグローバル資本主義の趨勢に乗った政治家が登場した。タクシンである。選挙で議会の過半数を得た初めての首相であるが、そうした彼の強力なリーダーシップにはかつてのピブーンを想起させる存在感がタイ社会にはあったらしい。国内各方面からの不満もあって2006年にタクシン追放のクーデターが勃発するが、これにも当然ながら国王の内諾があった。

 プミポン国王自身は聡明かつ教養豊かであり(考え方が時代遅れであるにもかかわらず政治に口出しするため混乱を来たすこともあったようだが)、国民から支持が集まるだけの人格的魅力も備えている。数々の困難を切り抜けて王朝が維持されてきたのも、他ならぬ国王自身のパーソナリティーに依存していたと言ってよい。だが、そうした個人的人格に依存した体制は致命的な弱点をも抱え込んでいる。すでに高齢で国王崩御も時間の問題であり、そして後継者のヴァジラロンコーン皇太子の評判は極めて悪い。タイには不敬罪があるためおおっぴらに語られることはないのだが(なお、本書も王室のタブーに触れているためタイでは発禁処分となっている)。欧州や日本のような立憲君主制の道をとるのか、それともこのままの体制でいくのか、タイ王室自身、行方をいまだに定まめていない問題点が最後に指摘される。

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酒井亨『「親日」台湾の幻想──現地で見聞きした真の日本観』

酒井亨『「親日」台湾の幻想──現地で見聞きした真の日本観』(扶桑社新書、2010年)

 著者の『哈日族』(光文社新書)は現代台湾社会のポップ・カルチャーに目配りされていて興味深く読んだ覚えがあるが、今度は「萌日」なるキーワードを出してきた。台湾の「親日」派というと植民地統治期に日本語教育を受けた老人たちを思い浮かべがちだが、若い世代の場合、マンガやアニメ、Jポップなど、とにかく面白さをきっかけに日本へ関心を寄せている分だけより自然な感じがする。老人世代も含めて台湾の日本に対する好印象の理由は、戦前の植民地支配の是非ではなく、戦後における平和で豊かな社会としての日本にあるという。その意味で日本は十分な「ソフト・パワー」を持っているという指摘が本書の勘所だ。

 日本の保守派は台湾人から戦前の日本をほめる言葉を聞きたがり、同様に左派は日本を批判する言葉を聞きたがる。しかし、いずれも日本側本位の態度を取っている点では同断で、台湾がどのような歴史的経緯の中で日本を見ているのかという相手側の事情は無視されているのではないか、という指摘は傾聴すべきだろう。

 私は初めて台湾へ行ったとき総統府や二・二八紀念館を訪れ、館内では日本語世代の方に解説していただいた。その方々が口々に蒋介石と国民党を罵り(当時は民進党政権)、それに比して日本統治期をほめたたえる言葉には (予期していたとはいえ)驚いた。ただし、「植民地の時代、私たちは差別されて嫌な思いをしました。それでも、国民党はもっとひどかった…」という語りの微妙なニュアンスも聞き逃さなかった。台湾はよく「親日」的と言われるが、それは日本統治期を手放しで礼讃するものではなく、二・二八事件や白色テロをはじめたとした国民党の恐怖政治や失政との比較の中であくまでも相対評価である点に留意しなければならない。同行した友人(渡航歴十数回の自称「台湾通」であるにもかかわらず二・二八事件すら知らなかった体たらく)は、件のご老体の語りに混じっていたそうした微妙な留保条件がまるで耳に入らなかったように「台湾で真の日本人に出会った!」などとアホなはしゃぎぶり。そういう類いの不勉強な自称「台湾通」、自称「保守派」にこそ本書を読んでもらいたい。版元が扶桑社なのは、そうした読者層をねらった戦略的判断か?

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2010年9月21日 (火)

尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』、川村湊『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』、尹東燦『「満洲」文学の研究』、他

 「外地」に向けられた日本人作家のロマンティズム、「民族協和」といううるわしい理想。その一方で、政治経済的・軍事的侵略という厳然たる事実において、支配者としての無自覚な優越意識、そして被支配者側から向けられる面従腹背の眼差し、時には卑屈な追従。旧植民地における文学活動は、島国という地理的に閉塞した空間にあった日本人が文学というジャンルにおいても本格的に異文化・異民族接触に体当たりした体験だったとも言える。そこには様々な人間模様が繰り広げられていた。しかし、その邂逅はもちろん幸福なものではなく、現在において振り返る我々にとっても気まずい後味の悪さに戸惑いを禁じ得ない。被支配者側でも抗日のスタンスを打ち出せた人々はまだいい。解放後、英雄とみなされるのだから。しかし、個々それぞれの事情のなりゆきでやむを得ず大東亜文学者大会に出席するなどの形で対日協力せざるを得なかった人々(面従腹背の人々もいたし、アジア主義に共鳴して自発的に協力した人々もいた)は、日本支配下においては屈辱的な思いを噛み締め、戦後にあっては「漢奸」と指弾されることになった。それは、日本人として「戦争責任」を問われた人々以上に悲惨なものであったろう。「アジア解放」という大義名分は戦争遂行、植民地支配正当化のスローガンとなった時点ですでに日本の周辺諸国に対する裏切りを内包していたが、さらにそのスローガンに共鳴させられることで自分自身の祖国への裏切りを強いられた人々がいたこと、その意味での二重の裏切り、私が感じる後味輪の悪さの一つはそこにある。

 旧植民地における文学活動について初めて体系的な検討を加えた人として尾崎秀樹が挙げられる。尾崎秀樹『近代文学の傷痕──旧植民地文学論』(岩波書店・同時代ライブラリー、1991年)には大東亜文学者大会や日本統治下における台湾文学に関する論考のほか、「「満洲国」における文学の種々相」も収録されている。日本の近代化における一つの帰結として、当時の人々の言動をできるだけ忠実に洗いなおそうとしている。

 旧満洲国における文学に関して尾崎の論考は素描的で基礎工事を行なったという位置付けになるだろうか。川村湊はこれをさらに発展させる形で、建国や満蒙開拓に従事した当事者ばかりでなく、一時滞在で見聞した文人や放浪者たち、引揚体験、さらに植民地生まれで戦後になって活躍し始めた作家にもたらされた影響まで含めて、満洲における文学活動の様々な諸相をさらに網羅的に描き出している。『異郷の昭和文学──「満州」と近代日本』(岩波新書、1990年)は序論的、日本人作家の満洲体験をコラージュ風に描く構成で、このテーマについて取っ掛かりとするにはこの本がまず読みやすい。芥川賞と「外地」との関わりの指摘に興味を持った。『文学から見る「満洲」──「五族協和」の夢と現実』(吉川弘文館、1998年)は事項並列的な概論という体裁でレファレンス的に参照するにはいいだろう。『満洲崩壊──「大東亜文学」と作家たち』(文藝春秋、1997年)には文芸批評的な論文が並ぶ。独特なパーソナリティーを持った朝鮮人作家・金文輯についての「花豚正伝」、ニコライ・バイコフを取り上げた「樹海の人」に興味を持った。

 台湾生まれの尾崎の関心が台湾に傾いているのに対して、日本語教師として韓国に滞在した経験を持つ川村の関心では朝鮮半島出身者への比重が大きい。なお、日本統治下の朝鮮文壇に関して川村湊『〈酔いどれ船〉の青春──もう一つの戦中・戦後』(講談社、1986年)は先駆的な作品である。それから、蛇足ながら戦時下の台湾文壇については以前、こちらにメモしておいた(→『文藝台湾』と『台湾文学』と『民俗台湾』)。

 旧満洲国は「五族協和」という建前を取っていた以上、日本語だけでなく中国語、朝鮮語、ロシア語、モンゴル語など様々な言語による文学活動が含まれるはずである。本来ならばそれらすべてを同一平面に並べて論じなければならないところだが、それだけ幅広い言語能力が要求されるわけでなかなか難しい。上掲尾崎、川村の論考にもそうした限界がある。対して、尹東燦『「満洲」文学の研究』(明石書店、2010年)は日本語、中国語、朝鮮語を駆使しているところに長所がある。それぞれの言語的立場によって文学的性質も異なっており、旧満洲国内部における複雑な葛藤が浮き彫りにされて興味深い。
・日本人文学者の間で「満洲文学」は日本文学の延長線上にあるのか否かという論争→満洲国に独自性を認めるのか、日本の植民地とみなすのかという解釈の相違→しかし、「満洲国」自体が虚像なのだからどうしても議論そのものが空論に陥ってしまう。
・中国人(満系)文学者には「満洲」は自分たちの郷土という意識。中国本土の文学とのつながりが意識されるが、それをあからさまに表明すると「満洲国」否定の危険性。異民族支配に対して文学はいかに抵抗できるのかという潜在的問題に行き着く。異民族支配という状況下、純粋に芸術的立場から文学を論ずることができなくなってしまうという困難。
・朝鮮半島では朝鮮語出版物はほとんど禁止→「五族協和」を建前とする「満洲国」ではかろうじて朝鮮語文学が生き残れる可能性。被支配者という立場は中国人(満系)と同じだが、日本人との関係では独特な立場にあった困難。朝鮮人は日本の中国侵略の尖兵として来たと受け止められているため現地では排除される立場であったが、「満洲国」建国によって存在権を得た→「満洲国」を肯定。また、「移民受難記」的な要素→朝鮮人の立場の不安定さがうかがえる。
・日向伸夫についての論考→日本人作家の中でも被支配者側に同情する良心的な人々がいたが、しかし同時に支配民族という立場から離れられないという困難。
・満洲という土地で展開された各言語の文学は、それぞれの民族の政治的立場の相違のため、相互の内的関連性や影響関係が薄かったと指摘される。
・ロシア語、モンゴル語、さらには体制外の反満抗日文学の作品の検討、同様に日本の支配下にあった朝鮮半島・台湾との比較などの問題提起。

 なお、岡田英樹『文学にみる「満洲国」の位相』(研文出版、2000年)は未読。

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2010年9月20日 (月)

村嶋英治『ピブーン──独立タイ王国の立憲革命』

村嶋英治『ピブーン──独立タイ王国の立憲革命』(岩波書店、1996年)

・専制君主制から立憲君主制への移行、第二次世界大戦、そして相次ぐクーデターに翻弄されたタイの現代史についてピブーンを軸にして描き出す。その中でタイと日本との関わりにも触れられる。
・稲垣満次郎(初代シャム公使):通商条約を結ぶ→領事裁判権獲得。日本が西洋と対等であるためには西洋がシャムに対して持つのと同じ特権を求めざるを得ない、他方で同じ東洋人としてシャムの苦境に同情するというジレンマ。
・岩本千綱(『シャム・ラオス・安南三国探検実記』)→英仏と一緒になって利益を得よと主張。
・政尾藤吉→シャムの法律顧問、後にシャム公使。

・ワチラーウット王は絶対王政論者、国王こそが近代化へと向けて指導できるという立場で、自ら新聞に立憲派に対する反駁の論説を執筆。弟のプラチャーティポック王は政治に不慣れ。
・世界大恐慌→官吏の人員整理や新税導入で国内の不満、国王への批判→プラチャーティポック王は欽定憲法を検討。
・タイ国内の身分差別、欧州留学中に受けた人種差別→ピブーン、プラユーン、プリーディーなどタイ人留学生はタイの変革を志す→「民主主義」と「強国」が目標→1927年、パリで人民党を結成、その後、陸軍幹部派とも連携。
・1932年、無血クーデター、王政を批判する人民党宣言→国王は内戦を避けるため人民党の要求を受諾→憲法を発布→立憲革命。
・プリーディーの社会主義的な経済計画→国王の怒り、人民党も急進派と穏健派に分裂、プリーディーの国外追放→人民党が内訌する中、1933年6月、ピブーンが再びクーデター(このとき英仏への恐怖心から日本の協力を要請)
・1933年、満州国問題で日本に対する国連決議の際にシャムが棄権したのは、経済問題で日中双方との関係をこじれさせたくなかったため。
・1935年、国王が人民党を批判して退位、その際に議会制民主主義尊重を求める声明を出した→その後の民主化勢力がこれをスローガンに利用。プリーディーは帰国して再び政権参加。
・1938年、ピブーンが首相就任。ラッタニヨム(国家もしくは国民信条)を制定→シャムからタイに国名変更。タイ語の読み書きを義務化→全国民のタイ人化を意図(具体的には華僑系が標的)、中華学校・中国語新聞を弾圧。
・第二次世界大戦でフランス敗北、日本の仏印進駐→ピブーンはフランスに対して失地回復要求→タイの独立維持のためには英仏に奪われた領土を取り戻して大国化しなければならないという大タイ主義。イギリスと日本のどちらが勝つのか天秤にかけながら判断するのが基本的態度→枢軸国側優勢の情勢に便乗して日本に協力、イギリスからの失地回復を目論み、1942年1月25日に対英米宣戦布告。しかし、日本による事実上の占領に不満→1942年半ばから日本と距離を置き始め、1943年の大東亜会議には代理を派遣して自らは欠席。1944年から連合国側との連絡を模索し始めるが、議会内反ピブーン勢力が強まって首相辞任(戦後は戦犯として逮捕された)。他方で、プリーディーや「自由タイ」が連合国側との連絡に成功。
・1946年、アーナンタマヒドン王怪死事件の混乱でプリーディー首相失脚。
・1948年、ピブーンが首相として再登場。1951年の「銃声なきクーデター」で議会・政党を禁止→1957年、サリット、タノームなど陸軍のクーデターによりピブーンは日本へ亡命。1964年6月11日、神奈川県相模原市の寓居で死去。享年66歳。

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末廣昭『タイ──開発と民主主義』『タイ──中進国の模索』、柿崎一郎『物語 タイの歴史──微笑みの国の真実』『王国の鉄路──タイ鉄道の歴史』

末廣昭『タイ──開発と民主主義』(岩波新書、1993年)
・タイの政治経済をトータルで把握しようという問題意識。国際経済の受動的アクターとして捉えるのではなく、タイ経済自身の自律性を重視。
・「開発」は政治の長期安定性が必要である一方、「民主主義」は分権化や政治変動の激しさをもたらすことがあり、両立の難しさ→「タイ式民主主義」。
・「民族」「宗教」「国王」のトライアングルでタイの政治文化を把握。徳を以て上からの温情主義的政治。
・軍人出身のサリット首相による開発体制→権威主義的温情主義だが、タイ社会の近代化・経済水準の向上を成し遂げた。ただし、その後、軍実力者による政治腐敗→批判→民主化要求。
・プレーム首相は調整型政治、手続き民主主義の尊重。他方で、国王・軍部・テクノクラート等の意向を重視→「半分の民主主義」。

末廣昭『タイ──中進国の模索』(岩波新書、2009年)
・上掲書の続編という位置付けで、1988年以降を叙述。
・「選挙にもとづく政治」「仏法と倫理にもとづく政治」「国民の父(=国王)」という三層構造でタイ政治を把握→従来のタイ政治の特徴は「政権の不安定、政治の安定」、つまり前者「選挙にもとづく政治」が不安定でも後二者「仏法と倫理にもとづく政治」「国民の父(=国王)」が揺らがなければ全体としての政治は安定していた。ところが、前者が後二者へと侵食し始めたとき政治全体が不安定化(具体的には、タックシン政権)。
・グローバル化・経済自由化によるストレスが強まる中、「足るを知る経済」の主張(1997年の国王講話から)。
・ところが、CEO型首相としてタイ社会の現代化・「国の改造」を目指すタックシン政権は市場原理・自由競争重視の政策を打ち出す(言い換えれば、「仏法と倫理にもとづく政治」軽視)→「足るを知る経済」とは対立(これを提唱した国王の意向にも反する)。
・タックシンは国会での議論よりも国民との直接対話を重視→「もう一人の国民の父」。タックシンの強引な政治運営には民主化勢力からの批判、国王の権威を傷つけかねないことに対して王室支持勢力の危機感、人事や予算への介入で軍部の不満、行政改革に振り回された官僚の不満→2006年9月のクーデターでタックシン追放。

柿崎一郎『物語 タイの歴史──微笑みの国の真実』(中公新書、2007年)
・古代から現代に至るまでの通史。タイの「ナショナル・ヒストリー」を第三者の視点から解きほぐしながら叙述する立場。
・東南アジアの王国は「マンダラ型国家」:支配者の権力が中央から周縁に向かうにつれて小さくなる。大マンダラと小マンダラの保護・被保護の関係で成り立つので、国王の権力の大きさに応じて領域も変化、従って、国境は不分明。
・出自を問わず有能な人材を登用する柔軟性→例えば、山田長政。中国系政治家が多いのもそういう事情か。
・イギリスとバーネイ条約(1826年)・バウリング条約(1955年)→開国、王室独占貿易が崩れる→代わりの収入源として徴税請負制度→中国系が活躍。
・チュラローンコーン王のチャクリー改革→中央集権化→領域国家へ。鉄道の敷設→政治経済的統合。
・ワチラーウット王:文筆家として有名で自ら新聞投稿、タイ人意識を昂揚→「上からのナショナリズム」。辛亥革命→中国人を警戒。
・絶対王政に対する不満→1932年、人民党のクーデターで立憲革命。
・ピブーン首相:ナショナリズムの強調。1939年に国家信条を公布→シャムからタイへ国名変更。中国人に対しても同化政策。大タイ主義→英仏に奪われた「失地」回復要求→第二次世界大戦に際して日本軍に協力(英領ビルマのシャン地方へは自発的に進軍)。ただし、「やむをえず」参戦したというポーズ。日本軍による事実上の占領への不満→1943年の大東亜会議には代理を派遣して自らは出席せず、大東亜宣言にも署名せず。他方で、「自由タイ」が連合国側と連絡をとっていた→難局を切り抜ける→タイの「世渡り上手」。
・タイで一番有名な日本人は?→小説・映画「メナムの残照」の小堀。
・サリット政権の「タイ式民主主義」→開発、反共。国王の権威昂揚を図る→現在目にするような国王への崇敬はこの政権時代から。プーミポン国王も積極的に地方巡幸。
・タイの経済発展、「メナム圏」構想→「先進国」としての優越意識により周辺諸国から反発もある。たとえば、同じタイ系言語の東北方言を揶揄したテレビ番組→その東北方言を国語とするラオスの反発。
・“タイ”という国号にはタイ人の文化的優越性を強調する意図、対してかつての“シャム”はタイ人だけでなく、中国人、マレー人、クメール人など様々な民族や文化の多様性を許容していた→“シャム”への再度の国号改称という問題提起。

柿崎一郎『王国の鉄路──タイ鉄道の歴史』(京都大学学術出版会、2010年)
・上掲書の著者の専門領域はタイの鉄道史。鉄道という切り口からタイにおける近代社会の変遷がうかがえる。
・ソフトカバー、「ですます」調、列車の写真も豊富に収録して一般読者層を意識しているのだろうが、内容は完全に学術書。情報量は豊富だが冗長で、その分、全体的なストーリーの勘所が見えづらくなっている。テーマ的には興味深いだけにもったいない。

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2010年9月19日 (日)

ジェイ・テイラー『ジェネラリッシモの息子:蒋経国と中国・台湾における革命』

Jay Taylor, The Generalissimo’s Son: Chiang Ching-kuo and the Revolutions in China and Taiwan, Harvard University Press, 2000

 蒋介石・蒋経国父子を比べてみたとき、私としては息子の方が興味深い。蒋介石はじっと歯を食いしばってまっすぐ突き進むいかにも軍人らしいパーソナリティーだが、その分、いくぶんか面白みに欠ける。対して、蒋経国の屈折した経歴は、その謎めいた複雑さそのものに目が引かれる。

 第一次国共合作のときに蒋経国はソ連へ留学したが、国民党の実権を掌握した蒋介石が共産党に対する苛烈な弾圧を行った際、当時は熱烈なマルクス・レーニン主義者となっていた経国は父親を批判した。ただし、彼のソ連での立場は悪く、ちょうどスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れていた時期でもありシベリア送りも体験したが、彼の才覚と取引材料に使えるポジションから事実上の人質として温存され、第二次国共合作後、中国へ戻る。その後は父親の腹心として重要課題を任され、とりわけ国府遷台後は特務の責任者として共産主義者狩りにも辣腕を振るった。彼は血にまみれた特務の親玉として非難される一方、経済建設、さらには段階的な民主化を進めた側面もあり、この両極端なイメージは彼の評価を難しくしている。ただし、直面した政治課題の核心を正確に認識し、それに応じた対応策を着実に打ち出していけるリアリストと考えれば整合的に理解できるだろうか。

 本書は、第Ⅰ部Revolutionでソ連留学時代から第二次世界大戦、国共内戦に至るまでの波乱に満ちた彼の半生を描き出し、第Ⅱ部Islandで蒋介石・蒋経国父子による政治判断を軸として戦後台湾政治史が叙述される。著者の近著The Generalissimo: Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern China(The Belknap Press of Harvard University Press, 2009)も最近読んだが(→こちらで取り上げた)、蒋介石と蒋経国、父子ともに“中国近代化”を目指していたと捉える視点で一貫している。ただし、父親が「三民主義」とか「反攻大陸」とか怒鳴り散らすだけだった(著者はこういう書き方はしていないが)のに対し、台湾の置かれた現状に合わせて実効ある具体策を打ち出していくのが蒋経国の役割であった。

 米中接近による台湾の国際的孤立化、台湾ネイティブからの外省人支配に対する不満、こうした内外の困難を踏まえて蒋経国は台湾人社会から支持を得るために経済発展による民生向上に努め、さらには段階的な政治参加を通した民主化・台湾化へと徐々に舵取りを切り替えていく。他方で、こうした改革路線に対して国民党や軍部、特務等の保守・強硬派からの危惧も強く、それは暴発的な事件をもたらした。民主化勢力と体制内強硬派、双方を抑えこみながら民主化へ向けた下準備を進めることができたのは他ならぬストロング・マンの圧倒的な手腕である。台湾民主化で李登輝の果たした役割ももちろん非常に大きいが、その種をまいたのは蒋経国だったということになる。台湾の民主化は同時に中華民国の台湾化=脱中国化に進むのではないかという懸念もあった。しかし、台湾が民主化のモデルとなることによって中国大陸における民主化の動きを誘発させ(蒋経国のモスクワ留学時代の同窓生である鄧小平がちょうど改革開放を進めていた時期である)、双方の交流が深まることで中国としての一体性は保障されるという意図が蒋経国にはあったのだと著者は指摘する。

 本書は蒋経国が段階的に民主化を目指した努力に重点を置いているが、同時に、特務の最高責任者として白色テロの指揮を執った負の記憶から台湾社会の一部には蒋経国に対する強い拒否反応があることも付記しておかねばならないだろう。

 なお、蒋経国について日本語文献で読みたい場合には、若林正丈『蒋経国と李登輝──「大陸国家」からの離脱?』(岩波書店、1997年)がおすすめである。

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2010年9月18日 (土)

【映画】「彼女が消えた浜辺」

「彼女が消えた浜辺」

 テヘランからカスピ海沿岸の保養地へバカンスに出かけたロースクールの同窓生グループとその家族、総勢11人。予約時の手違いで部屋がとれず、代わりに案内されたのは浜辺の一軒家。ぼろいが、打ち寄せる波の音がよく聞こえる風情のあるたたずまいにみんな気に入り、キャンプ気分ではしゃぎまわっている。グループの一人、セピデーが誘ったエリは子供の通う保育園の保育士で、やはりグループの一人で離婚したばかりのアーマドに引き合わせようという魂胆だ。エリの穏やかな人柄にみんなは好感を持ち、この“お見合い”を面白がる。そうした中、連れてきていた子供が海で溺れてしまった。何とか救出されたが、今度はエリがいない。彼女も子供を助けようと海に入って溺れてしまったのか、それとも帰ってしまったのか? 残された携帯電話の着信記録をたどって連絡すると兄と称する男が来ることになったが、実はエリの婚約者らしい。思いがけない展開に息をのむ大人たちの表情は不安げにかたい。

 新参者のエリについてみんな口さがなく互いに論評しあうが、事件が起こってエリがいなくなったとき、はじめて彼女の本名を誰も知らないことに思い至る。「こんなことになるなら誘わなければよかった」「いや、子供が溺れているのに帰ってしまうなんてひどい奴だ」、また口々に言い合うが、結局、彼女がどんな人物で、何を考えていて、なぜ婚約者と別れたがっていたのか、誰にも分からないのだ。昨日の和気藹々としたムードは一変し、互いに非難しあう険悪さには心理劇としての緊張感がある。

 最終的にエリの“行方”は判明する。しかし、彼女が心の中で抱えていた苦悩は依然として謎のままだ。人は、相手が本当はどんな思いを抱えているのか分からないくせに表面的な印象だけで相手を判断し、それが繰り返されて当たり前のようになって日常が構成されていく。この映画では、その表面的なレッテル貼りで当たり前のように思い込んでいるイメージの裏で相手が本当に抱えている“分からなさ”そのもの、それが事件をきっかけに今さらのように際立たされていく。心理サスペンスとして描き出していく手並みが実にあざやかだ。

【データ】
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
2009年/イラン/116分
(2010年9月18日、ヒューマントラストシネマ有楽町)

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【映画】「ナイト・トーキョー・デイ」

「ナイト・トーキョー・デイ」

 築地市場の魚解体現場で働くリュウ(菊地凛子)。誰とも口をきかず、何も考えないでいられるのが楽だから、と語る彼女はもう一つの顔を持つ。唯一友達と言える録音技師(田中泯)が時折連れて行かれる墓地、そこで彼女が丁寧に清掃している墓石は、自身が殺し屋として請け負った仕事のターゲットとなった人々のものだ。今度のターゲットはスペイン人男性(セルジ・ロペス)。リュウはターゲットに近づくが、恋に落ちてしまう。

 ストーリーも菊地凛子もどうでもよくて、スペイン人女性監督がどんな視点で東京を撮るのかに興味を持って観に行った。冒頭いきなり女体盛りのシーンが出てきて「これは国辱映画か」とげんなりしたが、むしろ外国人の日本に対するオリエンタリスティックなイメージを揶揄する意図があるようなので一安心。ガード下の居酒屋、浅草花やしき、なぜか新横浜のラーメン博物館、レトロな東京イメージが中心。孤独を抱えるリュウのたたずまいがその中になじむ。映像と音楽の組み合わせで登場人物の心象風景を描くのが映画だと考えれば、こういう東京の描き方があってもいいだろう。昭和の懐メロが時折流れるが、タンゴを意識した曲も多いから、この映画のスペイン的なトーンの音楽にも不思議にしっくりくるのが面白い。

【データ】
原題:Map of the Sounds of Tokyo
監督・脚本:イザベル・コイシェ
2009年/スペイン/98分
(2010年9月17日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2010年9月16日 (木)

伊福部昭、アレクサンドル・チェレプニン、江文也

  伊福部昭(いふくべ・あきら)是日本作曲家,是由于作《哥吉拉》(ゴジラ)的曲有名的。连不知道他名字的人们也听过这部怪兽电影的主题旋律。

  他讲究日本土著的音感,所以音乐学家把他当做“日本民族乐派”之一。他作的旋律有很独特的低音和节奏,让人们的心胸感受到很激烈的音响。这些特征让怪兽电影有很可怕的气氛。加之他的音乐有很特别的意义。哥吉拉受放射能的影响出生,这个故事表示了核武器的恐怖。伊福部是跟反核题目共鸣,承办了《哥吉拉》的音乐。他想表现古代的土著感性根源的旋律,那个旋律有对近代科学文明批判的意味。

  伊福部昭于北海道出身。他的父亲跟阿伊努(Ainu,北海道的原住民)的人们交往,所以他小时候听过阿伊努的歌舞。这个体验让他知道跟近代社会不同的感性,然后影响了他的音乐活动。

  他毕业北海道帝国大学农学系以后做了林务官。但是从学生的时候起他就继续搞音乐活动,音乐同伴劝他作曲。一九三六年二十一岁的时候,他作的《日本狂诗曲》得了齐尔品奖。亡命俄人贵族的音乐家、亚历山大•齐尔品(Alexander Tcherepnin)是为了在中国和日本发掘很有为的青年音乐家们举行的这个作曲比赛。当时日本乐坛把伊福部的《日本狂诗曲》评价为很土气和不精练,所以不想对齐尔品推荐。但是齐尔品想在东亚找到崭新的音乐,他不喜欢模仿西洋音乐。他劝青年音乐家们以自己民族的感性作乐曲。伊福部的作曲态度正好合乎齐尔品的意图。

  《日本狂诗曲》有很喧哗的音响和很激烈的节奏,这些特征表示出日本祭祀的气氛。我第一次听过《日本狂诗曲》的时候,想起了伊戈尔•斯特拉文斯基(Igor Stravinsky)作曲的《春之祭》。这支乐曲有俄国前基督教时代的异教文化根源的气氛。一九十三年《春之祭》在巴黎上演的时候掀起了激烈辩论,这个争论是现代音乐的开端。伊福部喜欢斯特拉文斯基的音乐。斯特拉文斯基和伊福部都有一样的意图,古代感性的力气一定超过西洋近代音乐面对的墙壁。

  西洋近代文化的扩大让世界各地的人们注意到自己民族文化消灭的危机,有的音乐家开始探求自己民族原有的音感。匈牙利的巴托克•贝拉(Bartók Béla)努力采集民谣,芬兰的西貝流士•让(Sibelius Jean)用《卡勒瓦拉》(Kalevala)神话的主题作曲。伊福部也是在那样的思潮中展开音乐活动的。伊福部被认为是“日本民族乐派”之一,不过这个“民族”的意思不是政治的民族主义,是探求个个民族固有的音乐感性的。所以他不只关心日本传统音乐,还用阿伊努和尼夫赫(Nivkh,千岛列岛的原住民,以前叫吉利亚克[Gilyak])的民谣旋律作曲。

  齐尔品是学生的时候俄罗斯革命爆发,他向比较安静的格鲁吉亚(Georgia)迁移。他在格鲁吉亚住的时候,高加索(Caucasus)音乐的绚烂音响让他受了很深的冲击(比如说在格鲁吉亚出生的亚美尼亚[Armenia]音乐家阿拉姆•哈恰图良[Aram Khachaturian]作曲的《马刀舞曲》表现的气氛)。这个体验让齐尔品关心起种种民族音乐的多样性,他想找跟西洋近代不同的音乐。所以他来东亚努力在日本和中国发掘有为的青年音乐家。

  齐尔品培育了一些青年音乐家,比如说日本的伊福部昭、中国的贺绿汀等等。那些人之一有江文也、在台湾出生的音乐家,我很关心他。我看侯孝贤导演的电影《咖啡时光》的时候,第一次知道了江文也的姓名。这是向小津安二郎致敬描写生活在东京的电影,女主角在这部电影的故事里找寻江文也在东京的脚印。江文也去日本留学以后,在日本音乐界成名。一九三六年他作曲的《台湾舞曲》在柏林奥林匹克音乐部门获得奖牌。

  齐尔品在东京见到江文也、在台湾出生的汉人。是齐尔品让江文也注目中华文明的。江文也受齐尔品的启发,怀抱着关于中国的浪漫情感,开始想去中国大陆。一九三八年江文也去北京当北京师范大学音乐系教授。日军侵略的时期,有的台湾人相信“台湾人是日中桥梁”的宣传去大陆。江文也也是这些人们之一。从一九三〇年后半期到一九四〇年前半期,他常去北京的孔庙查古代音乐史,依据他自己的调查写了《上代支那正楽考:孔子の音楽論》(他用日文写的这本书)、作了交响乐《孔庙大成乐章》。我读过《上代支那正楽考》的翻印本,觉得很有意思。他把孔子当做一个音乐家,以共鸣写这本书的观点很精彩。解放以后,江文也因为汉奸嫌疑被逮捕,但是马上获释。他继续在北京作曲。文化大革命时期他遭受迫害。他挽回名誉以后,在北京去世。

  关于江文也的两篇论文我觉得很好。片山杜秀〈江文也とその新たな文脈──1945年までを中心に〉(江文也《上代支那正楽考:孔子の音楽論》 [平凡社・東洋文庫,2009年]附录的解说论文)到日本战败的时候描写他的活动履历。我读这篇论文的时候,第一次知道了齐尔品给江文也的影响。周婉窈〈想像的民族風:試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉(《臺大歷史學報》第35期,2005年6月)努力理解江文也的内在感性。他在日本统治时期的台湾出生,去日本留学,然后去中国大陆在北京定居。那么复杂的认同意识容许不同的解释。台湾民族主义者重视他关心台湾土著民谣,中华民族主义者重视他关心中华传统文化。但是周婉窈的论文指出,江文也基本上是浪漫主义者。他很容易感动,回台湾的时候看到美丽的风景感动,到中国大陆的时候看到无边的大地感动。他看的台湾和中国都是浪漫的想象。江文也是为了作曲用这些艺术热情的,没有政治的意图。这篇论文不是依据现在政治的观点解释的他的活动,是在他自己生活的时代解释他的内在感性。

  在俄罗斯出生的齐尔品在高加索发觉了种种民族的多样性。所以他想找跟西洋近代不同的音乐,在东亚发掘了一些音乐家,比如说关心阿伊努的日本人伊福部昭、关心中华文明的台湾人江文也。那样的关系好像是跨越欧亚大陆的音乐旅程,我觉得很有意思。

 伊福部昭については以前にこちらに書いた。江文也『上代支那正楽考』についてはこちら、周婉窈〈想像的民族風:試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉についてはこちらで取り上げた。伊福部昭、江文也、アレクサンドル・チェレプニンの三人の関わりについてはこちらで雑談的に触れた。

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2010年9月15日 (水)

バーバラ・エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』

バーバラ・エーレンライク(中島由華訳)『ポジティブ病の国、アメリカ』(河出書房新社、2010年)

 著者がワーキング・プア生活の体験取材をしたノンフィクション『ニッケル・アンド・ダイムド──アメリカ下流社会の現実』(曽田和子訳、東洋経済新報社、2006年)は以前に読んだことがあった。本書も同様にアメリカ社会の病理をえぐり出す趣旨で、社会時評的な内容。

 ポジティブ・シンキングといった場合、単に漠然と前向きに考えるという程度なら構わない。しかし、“成功”とか“素晴らしい精神状態”なるものを想定してそこへ向けて自分の“心”を操作していくという発想になってくると、目前の問題から唯心的な解釈で目を背けることにもなりかねず、その薄っぺらな自己欺瞞が気持ち悪い。自分の“心”を操作してハッピーになれるという考え方を裏返すと、他人によっても操作され得るという社会工学的発想につながる(その意味で、例えばA・R・ホックシールド(石川准・室伏亜希訳)『管理される心──感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年)の問題意識とも関わってくるだろう)。自己啓発本、ニューエイジ本、スピリチュアリティ本などを読み漁るタイプは自分ではそうしたあたりに気づかないだろうが、主体的に考えているように見えて、実は奴隷の思考法だという逆説すらうかがえる。だから良い悪いというのではなく、現代社会の一側面を考える切り口として興味深い。

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中田整一『トレイシー──日本兵捕虜秘密尋問所』

中田整一『トレイシー──日本兵捕虜秘密尋問所』(講談社、2010年)

 太平洋戦争においてアメリカ軍の捕虜となった日本軍兵士たち、彼らを収容した秘密尋問所(呼び名は“トレイシー”)の関係者はながらく口を閉ざしていたが、その具体的なあり様を明らかにしようとしたノンフィクションである。

 日本軍による捕虜虐待を考え合わせると、この尋問収容所の手法は紳士的に思えてくる。一つにはジュネーヴ条約遵守という人道的配慮があったが、それ以上に対日戦、さらには戦後の占領を見据えて捕虜から細大漏らさず情報を引き出さねばならなかったことが大きい。捕虜たちが心を閉ざしてしまったら得るものは何もないのだから。「北風と太陽」の逸話で言うと太陽のようなやり方か。この実用的な態度という点でも日米の差は明らかだった。実際、戦陣訓の呪縛にかかっていた彼らは死ぬことが大前提で捕虜になることをそもそも想定しておらず、当初は頑なだったが、予想に反してアメリカ側が丁重な扱いをするのを見て態度を変えていく。本書の話題の一つである盗聴という手法も効果的だった。それから、日本語を使いこなせる人材が少ない中、コロラド大学ボールダーに集められた取調官候補者たち(その中にはドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどもいた。日系人に対しては猜疑心があったので、戦局が押し詰まって人材不足が明らかになるまで日系人を活用するという発想はなかった)。尋問収容所を舞台とした一種の異文化交流史として読んでも興味深い。

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2010年9月14日 (火)

ラスト・スルタン、アブデュル・メジド2世

 オスマン=トルコ帝国のラスト・エンペラーならぬラスト・スルタン、アブデュル・メジド2世(Abdülmecid II,Abdul Mejid, Abd-ul-Mejid, Abdul Medjit, Abdülmecit)。以前から興味があるのだが、彼に関する文献が見当たらない(トルコ語やアラビア語ならあるのだろうが、私は読めない。せめて英語文献くらいあってもよさそうなものだが)。wikipediaでも情報は限定的で、英語版wikiではなぜか結婚問題が半分以上を占めている。

 アブデュル・メジド2世は1868年にアブデュルアジズの息子として生まれた。1922年、トルコ革命によって従兄弟のメフメト6世が廃位されたのに伴ってオスマン帝国最後の皇帝となる。しかし、翌1923年、ムスタファ・ケマルの大統領就任によってスルタンは廃位、形式的な国家元首としてのカリフの地位は保ったが、さらに1924年にはこれも廃位されて(この時点でイスラム世界最高の権威としてのカリフは消滅)、国外追放された。1944年8月に亡命先パリで死去。

 彼はオスマン絵画の画家として高名だが政治には全く関心がなく、その点で北宋の徽宗皇帝と印象が重なる。滅び行く黄昏の大帝国、芸術家肌のラスト・エンペラー、こういうイメージは物語的に興味がひかれるのだが、それでもこれといった文献がないということは、それほど面白いエピソードはないということか?

 アブデュル・メジド2世に関心を抱いたきっかけは、Tom Reiss, The Orientalist: Solving the Mystery of a Strange and Dangerous Life(Random House, 2005→こちらで取り上げた)という本を読んだときで、主人公レフ・ヌッシムバウムがイスタンブール滞在中の記述にこの芸術家肌のラスト・エンペラーについて言及があった。それから、アルメニア人音楽家コミタスに関心を持ってRita Soulahian Kuyumjian, Archeology of Madness: Komitas, Portrait of an Armenian Icon(Gomidas Institute, 2001→こちらで取り上げた)を読んでいたところ、第一次世界大戦中のアルメニア人ジェノサイドに巻き込まれたコミタスを助け出すよう当時の青年トルコ党政権に働きかけた人物が二人いて、一人がアメリカのヘンリー・モーゲンソー駐トルコ大使、もう一人がメジド皇子と記されていた。このメジド皇子というのはアブデュル・メジド2世を指すように思われたが、確認できていない。

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フランシー・リン『台北の夜』、他

 フランシー・リン(和泉裕子訳)『台北の夜』(ハヤカワ文庫、2010年)を書店でたまたま見かけ、台北を舞台にしたミステリーというのは珍しいと思って手に取った。

 アメリカ生まれの二世、エマーソン・チャンは母をなくし、その遺言に従って音信不通の弟を探し出すため台北へとやって来た。この初めて訪れた街は、中国語がよく分からない彼にとって戸惑うことばかり。出会った弟の様子はだいぶおかしい。不審に思いながら弟の周辺を探り始めるエマーソンだが、弟が取り込まれてしまった闇社会の犯罪組織に追われる身となる。

 訳者解説によると、著者自信が主人公と同様にアメリカ生まれの二世で、奨学金を得て自らのルーツである台湾へ留学、しかしそこでもアメリカ人とみなされてしまい、自分はいったい何人なのか?というアイデンティティの葛藤を抱き、その体験がこの小説にも反映されているのだという。結構ハードボイルドなタッチで、ストーリー展開のテンポにも勢いがある。台北などの風景描写は的確ではあるが、やはり闇社会絡みの話だからダークな街にも見えてくる。

 台北を舞台にしたミステリーは中国語ではもちろん色々と出版されているのだろうが(読んだことはないけど)、年代的に一番古いのは何だろうと考えたとき、金関丈夫『龍山寺の曹老人』(金関丈夫『南の風』[法政大学出版局、1980年]所収)が思い浮かんだ。金関は台北帝国大学の人類学者で多彩な趣味人、この連作探偵小説を書いたときは日本敗戦直後の留用中で、暇つぶしに書いたらしい。

 龍山寺は台北・萬華の古刹。曹老人は日がな一日龍山寺の境内に座っているだけなのに物事はすべてお見通し。ある意味、ミス・マープルのような感じか。口コミ・ネットワークで街の情報にも精通しており、推理をめぐらすときは眼光鋭く、終わるとまたぼんやりした表情に戻る。台湾の寺廟に行くと、何するともなくボーっと座っている老人を見かけることがあるが、ひょっとしたらその寡黙さの裏に窺い知れぬ智慧を秘めているのではないか、と思わせるようなたたずまいが着想のきっかけだったのだろう。堂守の范老人はワトソン、いつも事件を持ってくる陳警官はレストレード警部といった役回り。最後に関係者一同を集めて謎明かし、「犯人はお前だ!」(とは言わないが)という感じに締め括られるのもセオリー通り。犯人が松山空港発の飛行機に乗って脱出しようとするのを間一髪で制止する、なんてシーンもあった。この小説については以前にこちらに書いた。

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2010年9月13日 (月)

適当に小説

この土日はストレス発散のため小説をとにかく濫読していた。

海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(上下、宝島社文庫、2007年)。医療現場を舞台にしたミステリー。内部監査というテーマが軸ではあるが、そういう重さは感じさせず、登場人物それぞれのキャラクターが際立っているので、やりとりそのもので読者をグイグイとストーリーの中へと引っ張り込んでいく。テンポがいいし、面白い。このシリーズは読み始めたらはまりそうだ。

奥田英朗『サウスバウンド』(角川書店、2005年)。揉め事ばかり起こしている元過激派のオヤジが家族を連れて沖縄の離島へ移住、今度はリゾート開発業者とぶつかる。最初、このオヤジの時代錯誤な論理には?な感じだったが、これは戯画化されているんだなと思い至って読み進めると意外と憎めなくなってくる。面白い。

荻原浩『あの日にドライブ』(光文社、2005年)。銀行をリストラされた主人公がタクシーの運転手をしながら思い出の場所を回り、自分の人生をみつめなおすという話。40~50代のサラリーマンに受けそうな感じ。

朱川湊人『本日、サービスデー』(光文社、2009年)。何でも願いがかなう日、片手だけ見える地縛霊など微妙にファンタジックな設定の中編・短編小説集。朱川湊人はストーリーテリングがうまいからなかなか読ませる。『かたみ歌』(新潮文庫)とか好きだな。

北村薫『街の灯』(文春文庫、2006年)、『玻璃の天』(文春文庫、2009年)。舞台は昭和初期、華族のお嬢様とお抱え運転手のスーパーウーマン、ベッキーさんこと別宮さんのコンビが謎解きするシリーズ。三作目の『鷺と雪』(文藝春秋、2009年)は二・二六事件を背景にしており、すでに読んだ。文学的な薀蓄や当時の社会風俗をさり気なく織り込んでいく筆致が良い感じ。北村さんの作品はむかし好きでよく読んでいた。特に円紫師匠と女子大生のコンビのシリーズは、殺人など物騒な出来事はないのに純粋に謎解きだけであれだけ面白く書けていることに驚いた。

三浦しおん『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫、2009年)。便利屋稼業の主人公と、その家に転がり込んできた居候、ワケありな人たちのドタバタを描いた連作小説集。なかなか悪くないと思う。

小路幸也『東京バンドワゴン』(集英社、2006年)。個性的な家族でやっている古本屋が舞台、そこに集まる人々の悲喜劇。のほほんとした雰囲気が好きだな。

中村文則『土の中の子供』(新潮社、2005年)。芥川賞受賞作か。純文学なんてもうオナニーの世界だな。気分が合わなくて入り込めず。とくにコメントなし。

桜庭一樹『私の男』(文藝春秋、2007年)。これは直木賞受賞作。ストーリー的には面白そうだけど、アブノーマルな設定の割には後ろ暗さとか淫靡さとか、そういった感じがいまいち伝わってこなくてもの足りなかった。

西加奈子『さくら』(小学館、2005年)。今風に少年の成長譚を書いたつもりか? ちんけであまい。

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫、2007年)。なんかグダグダした恋愛小説だな。1980年代後半という時代背景に興味ない私にとって面白くはない。

綿矢りさ『勝手にふるえてろ』(文藝春秋、2010年)。かったるい。

お口直しに、小川洋子『夜明けの縁をさ迷う人々』(角川文庫、2010年)。九編の連作短編集。抽象的で明らかに空想の設定だけど、個々の描写からなぜか強烈なリアリティーを感じさせてしまう不思議なところに小川さんの小説の魅力を感じている。物語そのものが純粋に構築されているから、読み手の地域的・年代的な相違は関係ない。その意味で註釈なしで外国語に翻訳できる数少ない作家ではないか。村上春樹とかよしもとばななよりも海外への発信可能性がもっと高い作家のように思っているのだが、単に私個人の好みに過ぎないのかな。

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2010年9月12日 (日)

【映画】「トイレット」

「トイレット」

 レイはロボット・プラモデルのオタク、規則正しく変わらない日常を望む性格は周囲から冷たいと言われたりもする。モーリーはピアノの才能があるが、パニック障害で引きこもり。妹のリサは個性的な女子大生、気が強くて口が悪い。そんな三人兄妹の母親が死んだ。残されたのは大きな家、猫の“せんせー”、そして母が死ぬ前に日本から呼び寄せた“ばーちゃん”。三人兄妹とばーちゃんは言葉が通じないが、何だかんだとトラブル続出の中、次第に心を通わせていく。

 観終わってストーリーをたどり返しても、実はそれほど特別な出来事がおこっているわけではない。それなのに映画全体に流れる独特なテンポというか、空気感というか、この中に巻き込まれて自然と見入ってしまうのが荻上映画の不思議な魅力だ。ばーちゃん役もたいまさこの、セリフはほとんどないのに表情だけですべてを語らせてしまう存在感がそこにうまくはまっている。荻上映画では見るからにうまそうな手料理が定番となっているが、今回はギョーザ。日常生活の中のささやかな喜びみたいなことを意図的に描こうとすると陳腐になってしまうのが通例だが、この映画でのギョーザは、いつもむすっとしたばーちゃんの心遣いが三人に伝わる良い道具立てになっている。ばーちゃんがトイレから出るたびにつくため息の謎解きが筋立ての一つの柱となるが、ウォシュレットを切り口になかなか気づきづらい文化的・慣習的相違に触れているのも面白い。

【データ】
監督・脚本:荻上直子
2010年/日本・カナダ/108分
(2010年9月10日、新宿ピカデリーにて)

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2010年9月 2日 (木)

台南雑感

  以前我去过一次台南、是台湾很有名的古都。荷兰人和郑成功在这儿设置过据点,清代的台湾府(台南府)是台湾的行政中心。十九世纪末年行政中心迁移到台北以后,台南的地位落后了。台南的名胜古迹是在两个地域分布的,台南车站附近的赤崁地区和海边的安平地区。两个地区之间往昔有很大的湾,现在被泥沙埋没了。我在台南车站下车,首先去了安平地区。从车站到安平地区的距离很远,所以我不是徒步去的那儿,是坐巡回巴士去的。

  大航海时代的十七世纪来航台湾的荷兰人在海边建造了很坚固的要塞,叫热兰遮城(Fort Zeelandia)。在这座要塞附近成立的老街是台南城市的开端,也就是现在的安平地区。郑成功驱逐荷兰人占领了这座要塞。他给热兰遮城起了安平城的名字以后,郑氏政权在这儿设置了据点。现在这座遗址构成安平古堡公园。我们在这儿能看见荷兰时期的墙壁,可是没有当时的建筑。

  台南原来是由于海外贸易热闹起来的。安平古堡附近有西洋商人的老洋馆,比如说英国商人的德记洋行(Tait & Co. Merchant House)。现在德记洋行里有台南历史的展示。邻接的旧仓库现在是安平树屋、榕树缠绕的建筑。建筑在台湾一被放弃,亚热带的湿润气候就让树木在这里繁茂了。很漂亮的绿叶装饰着红砖的墙壁。我看见那个样子,觉得树木好像想让废墟复苏。郁郁葱葱的南国风景让我们心境很温暖。

  安平古堡附近有老街。我在这儿的食堂第一次吃了蛎阿煎、台南有名的小吃。这是牡蛎的蛋饼,好像是加牡蛎的日式杂样煎菜饼(お好み焼き)。牡蛎养殖在台南一带很兴旺。根据有的传说,跟荷兰人战争的时候郑成功军队的兵士吃牡蛎的办法是蛎阿煎的开端。

  然后我坐出租汽车去了亿载金城。十九世纪欧美列强进出东亚,加之一八七四年日本向台湾出兵。清朝警戒日本的对外侵略,李鸿章向台湾派遣了沈葆祯、洋务官僚之一。沈葆祯一上了任,他就在台湾加固防备。他是那时候建立亿载金城的。他不是用中国传来的方法建造的这座要塞,是用西式筑城技术建造的。亿载金城建的形式跟日本北海道的五棱角一样(但是亿载金城是“四”个棱角),我觉得很有意思。五棱角是江户幕府建造的。亿载金城和五棱角都有当时最新的西式筑城技术。清朝和江户幕府都向近代化努力,但是只引进西式技术,政治改革不好。两个政权都有一样的缺点。

  然后我离开安平地区去了台南车站附近的地区。赤崁楼是这儿最有名的名胜古迹。赤崁楼原来是荷兰人建造的普罗民遮城(Fort Provintia)。现在赤崁楼的建筑形式有中式风格,我们看不见荷兰时期的气氛。但是红砖的色调给游客留下了很鲜明的印象。这儿的气氛让有的文学家感到有异国情调,比如说佐藤春夫写的一篇小说。

  赤崁楼附近有一家有名的老字号、度小月。听说度小月第一个想出了担仔面的做法。我在这儿吃了担仔面。以前我在台湾各地的夜市吃过几次担仔面,但是我在这儿吃是第一次。

  我访问了国立台湾文学馆。台湾文学研究的展示在这个馆里很充实。台湾是很小的岛国,但却是一个多文化、多言语的社会。展示的内容是关于这项主题的,我觉得很有意思。我们在这个馆里用音响装置能听到台湾社会有的种种言语。原住民的族群有个别的语言。汉语有几个方音,在台湾土著的汉族说闽南话、客家话,一九四五年以后从大陆来的人们说普通话和其他出身地的方音。往昔只短期有荷兰人和西班牙人。还有说日语的一些老人。是这些语言的复音响声构成台湾社会的。最近认识到那样的复数性让有的学者用多文化主义理论解释台湾历史的重层结构。

  延平郡王祠祭祀郑成功。日本统治时期这座庙叫“开山神社”。因为郑成功的母亲是日本人,日本政府是为了殖民统治利用郑成功的名声的,叫他列入了日本神道。我在延平郡王祠看见了蒋介石写的扁额。蒋介石是对自己持论的“反攻大陆”联接的郑成功,主张“反清复明”。中国共产党跟中国国民党同意郑成功是驱逐外国侵略者(荷兰人)的中华民族英雄。有的台湾人把郑成功评价为开拓台湾的始祖,但是有的台湾人认为郑成功也是侵略者之一。延平郡王祠里有郑成功文物馆。这家文物馆展示着他的生平和时代背景,还有当时的船的模型。这些展示把郑成功当做开拓海洋文明的先驱。时代一变迁,人物评价就有变化了。立场不同,解释也不同。我觉得理解历史可难了。

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2010年9月 1日 (水)

【映画】「子猫をお願い」

「子猫をお願い」

 ソウル郊外のインチョンに育った女の子仲良し五人組。高校卒業後、それぞれの道を歩んでいたが、20歳になって久しぶりに集まった。ジヨンはテキスタイルの才能があるのに両親をなくし、病弱の祖父母を抱えて生活が思うようにならず、大手証券会社のOLとなったヘジュの当てつけるような高慢な態度に我慢がならない。物事を大らかに受け止めるテヒが二人の間に立つが、彼女も家族の中で疎外感を抱いていた。ある事件をきっかけにジヨンが逮捕されてしまった。釈放されたが身寄りをすべて失い、たった一人となった彼女を迎えに行ったテヒは胸にある決意を秘めている。──一緒に新しい世界へ行こう。

 自分にとってかけがえのないものは何か?という問いはもちろん青くさいが、その青くささが許されるのは少女時代の特権である。しかしながら、生活環境の異なる友人との落差、家族の束縛、経済的な問題、そういった現実社会の厳しさに直面して夢見る将来が許されなくなり、青くささがそのまま重苦しさへと変質していったとき、「青春」は終わった。それでも、漠然としてはいてもひたむきな何かへとぶつかっていきたいというパセティックな心情、テヒやジヨンが抱えているのはそうした焦りだろう。仲間内で子猫を受け渡すのは、それぞれが遠いところに行ってしまっても友達だという気持ちの表現か。テヒ役のペ・ドゥナは、屈託のなさそうなパーソナリティーの中でも時折浮かぶ憂い顔がとても印象的で、この映画の青くささと切なさとが流れる情感にぴったりだ。

【データ】
監督・脚本:チョン・ジェウン
2001年/韓国/112分
(DVDにて)

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【映画】「好男好女」

「好男好女」

 侯孝賢監督による台湾現代史三部作は、ある家族の物語を通して二・二八事件の時代背景を描き出した「悲情城市」(1989年)、布袋戯の名優で侯孝賢映画にもたびたび出演した李天禄の日本統治期における半生を描いた「戯夢人生」(1993年)と続き、この「好男好女」(1995年)がラストとなる。

 テーマは国民党政権下、1950年代の白色テロ。藍博洲『幌馬車の歌』を原案として、この粛清の嵐が吹き荒れた時代に処刑された鍾浩東とその恋人の蒋碧玉に焦点が合わされる。前二作が時代を真正面から描写しようとしていたのに対し、こちらでは現代の女優(伊能静)が映画で蒋碧玉を演じるという設定で、彼女のプライベートと過去の事件とが交錯する二重進行のストーリー構成となる。女優自身が恋人を失い、拠り所ない感覚を引きずった悲しみと、蒋碧玉が恋人であると同時に革命の同志でもあった鍾浩東を失い、そうした事態を冷静に受け止めようとする悲しみ、時代を超えて二つの悲しみのあり方が浮き彫りにされる。

 今の時点から観てみると、侯孝賢もすでに古典になりつつある、つまりもう昔の映画になりつつあるという感じもするな。蛇足ながら、ネット上の感想を見ていたら、蒋碧玉たちが抗日戦に参加するため大陸に渡った際、中国軍の将校がねちっこく質問するシーンについて脚本が下手だ云々というコメントを見かけた。あれは①言葉がうまく通じない、②台湾出身者は常に日本のスパイと疑われていたという二つの背景をたくみに凝縮させたシーンだが、台湾史を知らないとピンと来ないかもしれない。中国語と一言で言っても方言的な差異が極めて大きく、戦後、台湾で大陸出身者と衝突した要因の一つだと言っても過言ではないくらいだ。例えば「悲情城市」も注意深く観ていれば同様のシーンがある。伊能静は日本ではあまり知られていないが、台湾の書店では彼女のエッセイ本なども見かける。「海角七号」でブレイクした田中千絵のはしりのようなものか。

【データ】
監督:侯孝賢
脚本:朱天文
1995年/台湾・日本/108分
(DVDにて)

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【映画】「亀は意外と速く泳ぐ」「図鑑に載ってない虫」

「亀は意外と速く泳ぐ」「図鑑に載ってない虫」

 三木聡の脚本・監督によるナンセンス映画を2本。「亀は意外と速く泳ぐ」(2005年/90分)。何事も「平凡」「そこそこ」の主婦(上野樹里)が、ある日、スパイ募集の貼紙を見つけて応募した。合格したところ、とにかく目立たず平凡にしているように言われるが、結局、やっていることはいつもと同じ、ではあるけど「平凡」とは何かを意識すればするほど意外と難しい、というコメディ。「図鑑に載ってない虫」(2007年/104分)。編集長から「死にもどき」とは何かを記事にまとめて来いといわれたフリーライター(伊勢谷友介)が出くわす不条理な取材日誌。バカバカしい小ネタもこれだけ連打されるとそれなりにリズムができて結構はまる。フィーリングの合わない人にはシラけるだけだろうが。三木聡の映画では麻生久美子のキャラクターを生かした「インスタント沼」が結構好きだった。(DVDにて)

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西川潤・蕭新煌編『東アジア新時代の日本と台湾』

西川潤・蕭新煌編『東アジア新時代の日本と台湾』明石書店、2010年

日台関係を軸に様々なジャンルの論考を集めた論文集。取りあえず目次だけ書き写しておくと、
第Ⅰ部 グローバル化時代の東アジアと日台関係
・西川潤「東アジアの平和と台中、日台関係」
・天児慧「東アジアをめぐる国際構造と中国・台湾」
・蕭新煌・蕭良其「馬英九政権と台湾・日本の関係」
・赤羽淳「台湾経済は空洞化するか?」
・佐藤幸人「高度化し、水平化する日台企業間関係」
第Ⅱ部 台湾人のアイデンティティーと日本
・黄智慧「ポストコロニアル台湾における重層構造─日本と中華」
・丸川哲史「台湾史と国共史の間─日本語世代から新台湾人世代へ」
・李明璁「台北西門町に見る東京的消費風景─脱領域から再領域化へ」
・陳培豊「演歌の在地化─重層的な植民地文化からの自助再生の道」
第Ⅲ部 植民地時代の台湾と日本
・西川潤「日本の台湾統治思想─後藤新平、田健治郎、矢内原忠雄」
・春山明哲「台湾旧慣調査の歴史的意義」
・陳艶紅「台湾文学史上における『民俗臺灣』」

 私が興味を持ったのは、日本と国民党による二重のポストコロニアル状況として台湾を捉える中で原住民、和佬人、客家人、(日本)内地人、外省人の5グループが交錯した複雑なエスニック関係に着目した黄智慧論文。脱領域的な消費文化として台北に東京が再現された西門町に注目(『Taipei Walker』などを分析)する李明璁論文。演歌を手掛かりに二重のコロニアル状況を分析した陳培豊論文。それから私個人の関心から陳艶紅論文。陳艶紅『『民俗臺灣』と日本人』(台北:致良出版社、2006年)は『民俗臺灣』に集った池田敏雄、金関丈夫、中村哲、立石鉄臣、国分直一などの具体的な人物像がまとめられておりとても参考になった(刊行地は台北だが、日本語で書かれている)。

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