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2010年8月

2010年8月31日 (火)

ジェイ・テイラー『ジェネラリッシモ:蒋介石と近代中国へ向けての闘争』

Jay Taylor, The Generalissimo: Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern China, The Belknap Press of Harvard University Press, 2009

 現代史のキーパーソンであればあるほど、その人物評価には当人よりも論評者自身の価値観が色濃く滲み出て、時代の政治的対立関係が浮き彫りにされやすい。蒋介石もまたそうした例に漏れない。残忍な軍事独裁者とみなされればファシストと呼ばれるが、彼の質実剛健な生活態度から潔癖な人格だと持ち上げられることもあった。反共という論点はもはや時代遅れとなったが、今度は中華ナショナリズムと台湾ナショナリズムとがぶつかり合う中、陳水扁政権が進めた正名運動では蒋介石が標的にされ(この頃に総統府を見学した際、解説ボランティアの人が蒋介石の遺品の前で「このハゲが台湾人をたくさん殺した!」と激しく罵るのを目の当たりにして驚いたことがある)、それと連動するかのようにむしろ大陸の方では蒋介石再評価の動きも表われていると聞く。蒋介石評価をめぐる議論は今後も続くことだろう。

 本書の著者はアメリカの外交官出身の研究者で、蒋介石の生涯を浩瀚なボリュームの中で描き出していく。サブタイトルからうかがえるように、蒋介石の生涯は中国社会の近代化を目指す奮闘で一貫していたとするのが基本的な視点である。一次史料として日記を活用し、一つ一つの事件に対して彼がどのような感想を抱き、判断を示したのかが細かく描写されているところが本書の面白いところだ。

 生い立ちから日本留学時代、孫文への傾倒、軍閥割拠の中国で権力基盤確立への模索、対日戦争下での共産党との葛藤(周恩来との関係は黄埔軍官学校から西安事件、さらには戦後も秘密のやり取りが続く)。アメリカが派遣した軍事ミッションのスティルウェル将軍との不和はよく知られているが、戦後になって冷戦という時代環境下にあってもアメリカとの関係は複雑であった。大陸の共産党という敵は一目瞭然分かりやすいが、他方でアメリカともかなり微妙な神経戦をしていたことも見て取れる。アメリカの歴代政権は民主党も共和党も、反共のため台湾へてこ入れしつつ、中共との将来的な和解も視野に入れるという二面戦略を常に考慮していた。そして、アメリカの歴代大統領の中では副大統領時代から知っていて最も好意を寄せていたニクソンによって蒋介石は煮え湯を飲まされることになる。しかしながら、対日戦争での日本に対しても、戦後のアメリカに対しても、体面を傷つけられたときには激昂したジェスチャーを示す一方、内心ではじっと辛抱して屈辱を受け入れ、将来を期すというプラグマティズムが蒋介石にはあったとも著者は指摘する。

 本書のタイトルはThe Generalissimo、日本語では「大元帥」と訳されるだろうか。軍人としてのパーソナリティーが蒋介石の特徴ではあるが、それを本書では暴力的な軍事独裁者と捉えるのではなく、むしろ厳しい規律意識の方に結び付けられていると言える。例えば、儒教とキリスト教に共通して見出される規律と献身という徳目、日本の武士道への評価、共産党には反感を抱きつつも彼らが示した鉄の規律への関心、彼はこれらのような規律意識を確立することが中国の近代化に向けて必要不可欠だという考えから新生活運動を展開する(日本語文献では段瑞聡『蒋介石と新生活運動』[慶應義塾大学出版会、2006年]を参照のこと)。政権基盤の確立は大陸にいた頃にはなかなかうまくいかなかったが、台湾撤退後、国民党組織のレーニン主義的な民主集中制とも言える機構改革を通してようやく中央集権体制を確立させた(日本語文献では松田康博『台湾における一党独裁体制の成立』[慶應義塾大学出版会、2006年]がこの過程を詳細に分析している)。

 権力基盤確立の努力を通して蒋介石が終局的に目指していたのは一体何だったのか? それは、法の支配、教育程度が高く豊かで開かれた社会、多元的かつ秩序だった社会、そういった意味での近代的な中国社会であったと本書では指摘される。大陸が文化大革命という非理性的な混乱状況を呈しているのを横目で睨みながら、この撤退先の台湾において近代的な国民国家を実現させることによってこそ、自分たちの方針の正しさが世界にも大陸にもアピールできると考えていた。そのようにして近代的な中国社会の実現を目指して奮闘してきたのが蒋介石の生涯であった。台湾に市民社会が定着し、大陸でも資本主義を原理とした社会へと進みつつあるこの現代の趨勢をもし蒋介石が見たならば、毛沢東よりも自分の方がやはり正しかったと確信するだろう、とまで著者は言う。

 しかしながら、蒋介石の呼号した「反攻大陸」が現実には極めて困難な国際環境下、何らかの方針転換が必要であったのも事実である。蒋介石は大方針を示すが具体的な政権運営は部下に任せるというやり方を取っており、とりわけ晩年にその役割を任された蒋経国は台湾人社会からの支持を得なければ現体制の維持は不可能だという現実的な認識を示し、民生向上のための経済政策、さらには台湾出身者の政治登用を提言、具現化していく。そして蒋介石の死後、中華民国の“本土化”“台湾化”へとつながるわけだが、それは著者のThe Generalissimo’s Son: Chiang Ching-kuo and the Revolutions in China and Taiwan(Harvard University Press, 2000)でのテーマである。こちらの本も入手してはいるのだがやはり浩瀚なボリュームで、読み通すのに骨が折れそうだ。

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2010年8月29日 (日)

【映画】「瞳の奥の秘密」

「瞳の奥の秘密」

 裁判所書記官の仕事を定年退職したエスポシトは小説を書こうと筆を執った。想起されるのは25年前、ブエノスアイレスで新婚の若妻が惨殺された事件。残された夫の犯人逮捕への熱意に心を打たれた彼はトラブル続きでも捜査を再開した。そうした中で目にとまった被害者の若い頃の写真、そこに映っていたある男の情欲のこもった眼差しがどうしてもひっかかる。これを見て得た確信をきっかけに犯人逮捕へと結び付けた。ところが、ある日、ニュースを見て驚く。終身刑になったはずの犯人が、あろうことが大統領(おそらく、エヴァ・ペロン)の傍らに警護役として立っているではないか。そして、信頼していた部下のパブロは自分の身代わりに何者かによって殺害されてしまった。司法をめぐる政治の暗い闇──。事件に関連してもう一つ思い出されるのは、美貌の上司イレーネの存在。エスポシトは自らの想いを胸に秘めているつもりでも、その気持ちを雄弁に語ってしまう彼の眼差しにイレーネも気付いていた。しかし、大卒エリートのイレーネと高卒ノンキャリの彼との間には高い壁が立ちはだかっていた。時を経て再会した二人、エスポシトは追憶を込めた原稿をイレーネに見せる。

 基本はサスペンス映画ではあるが、むしろそれを換骨奪胎して、時を経ても人の気持ちの中にいつまでも引きずられ続けている追憶というテーマが前面に出てきている。過去の思い出が現在でも生き続けているのか、過去の呪縛から離れられないのか、どのように捉えるかは人それぞれだろうが、そこに一つの決着をつけようというのがエスポシトが小説を書く動機である。飲んだくれだが信頼できるパブロの憎めないキャラクターがストーリー展開の潤滑油として良い味を出している。1970年代のレトロスペクティヴな光景を再現、そこにかぶさる叙情的なメロディー、そうした中から抑え気味だが感傷的な情感が静かに浮かび上がってくる。見ごたえ十分な映画だ。

【データ】
原題:El SECRERO DESUS OJOS
監督:ファン・ホセ・カンパネラ
2009年/スペイン・アルゼンチン/129分
(2010年8月29日、TOHOシネマズ・シャンテ)

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2010年8月28日 (土)

武田善憲『ロシアの論理──復活した大国は何を目指すか』

武田善憲『ロシアの論理──復活した大国は何を目指すか』中公新書、2010年

 ロシア政治と言えば、国内的にはプーチンの権威主義的独裁、対外的には「新冷戦」や資源外交による恫喝が騒がれて印象はあまりよろしくない。対して本書は、良い悪いの価値判断は別としてプーチンの強力なリーダーシップは必ずしも恣意的な独裁を意味するのではなく、むしろその下で形成されている「ゲームのルール」を読み解くことを趣旨とする。

 国民生活の安定と向上にこそプーチンへの支持の源泉があり、国家の発展という目標がすべてのルールの基準となる。とりわけホドルコフスキーが逮捕されたユコス事件では、「正しく納税せよ」「政治に野心を抱くな」「ビジネスに専念せよ」「国家の発展に寄与せよ」といったルールが明確になった。欧米では自由経済に対する弾圧と受け止める向きもあったが、逆に言えばプーチンのルールに従う限りビジネスの自由はあるとも言える。大国としての地位は目標ではあっても、かつて超大国として世界を二分したソ連時代へと戻るわけにはいかないことは認識されており、旧ソ連諸国への影響力は残しつつ、他方で国際政治では多極主義という枠組みでプラグマティックな対応が選択されている。

 自分たちとは異なるロジックに基づいて行動する相手といかに交渉するかが外交である。その点で、価値判断はいったん保留した上で、表面的な印象論には左右されないように相手側の内在的ロジックを見極めようとする本書のアプローチは説得力を持つ。

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2010年8月27日 (金)

国立台湾史前文化博物館(台東)

 先日、台東にある国立台湾史前文化博物館へ行ったときの雑感。中国語は苦手なので、文章として変なところを添削してくださる善意の方がいらっしゃったらありがたいです。

  今年暑假我去台湾旅行,坐火车绕了台湾一周。我在台东、台湾东岸的城市下车,去了国立台湾史前文化博物馆和博物馆附属的卑南文化公园。这家博物馆由于展示着史前考古学和南岛语族系原住民的研究很有名。具体的遗物和模型在这里可以让我们想象出史前时代的人类生活。

  在这儿发现的遗迹叫卑南文化。台湾考古学的研究是从日本统治时期开始的,一八九六年考古学家鸟居龙藏已经记录过他在这儿发现的巨石柱。从二〇年代后半期到三〇年代是博物学家鹿野忠雄调查的。一九四五年日本就要战败的时候,是人类学家金关丈夫和考古学家国分直一调查的。我看过金关和国分写的《台湾考古志》,他们是在美军的轰炸下继续发掘的。然后台湾大学考古学研究班让发掘调查进展了(领导这个发掘调查的宋文薫是台湾最有名的考古学家,他学生的时候接受过国分的指教)。一九八〇年铁路工程偶然发现了埋在地里的石棺和陪葬品,现在这座遗址部分构成了卑南文化公园。

  用巨石独特的卑南文化从三千年前持续到二千年前,然后卑南文化人的痕迹消失了。卑南文化人跟在近邻住的原住民(阿美Ami族、排湾Paiwan族)的关系不明白。卑南文化人和排湾族都有拔牙的风俗,我想起了日本史前时代的绳文文化人也是同样的。这些人们在南洋有没有共同的祖先?没有确切的证据,谁也不知道。

  史前文化博物馆里有的原住民研究展示很详细。汉族在台湾的人口占据九十八%,原住民只占据二%。但是汉族来到台湾以前,南岛语族先来住。起源不同的族群经过长时间来到台湾,原住民决不是单一集团。现在台湾政府认定十四个族群,别的族群往昔被汉族吸收了。各别的族群互相有不一样的文化、习惯、信仰和社会组织。比如说泰雅Atayal族是平等社会,卑南Puyuma族有很严格的年龄组织,鲁凯Rukai族有贵族制度。有的族群用狩猎生业,有的族群有农耕文化,雅美Yami族的海洋渔劳文化很有名。往昔有的族群做“出草”(猎取人头的仪式),但是阿美族没有那样的习惯。有的族群有文身风俗,有的没有。

  台湾的历史和社会是重层结构。但是日治时期的皇民化政策和国民党执政时期的中国化政策都把原住民的传统文化当做野蛮,鄙视他们传统的独特风格。现在多文化主义思潮在台湾社会扎根了,原住民主张让他们有维持传统文化的权利。听说往昔被汉族吸收的原住民(平埔族)也要求承认自己的族群。近年刊行的台湾史概说书有重视原住民地位、脱离汉族中心史观的视点。比如说我看过的周婉窈(台湾大学历史系教授)写的《台湾历史图说》,“东亚出版人会议选定的一百册”有这本书。

  展示在史前文化博物馆告诉原住民努力让社会认知自己的传统文化很丰沃。这样的认同政治可说是现在台湾社会的特征之一。

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2010年8月25日 (水)

ダンビサ・モヨ『援助じゃアフリカは発展しない』

ダンビサ・モヨ(小浜裕久監訳)『援助じゃアフリカは発展しない』(東洋経済新報社、2010年)

 著者はザンビア出身の若手女性エコノミストで、原題はDead Aid: Why Aid is Not Working and How There is Another Way for Africaとなっている。援助依存がアフリカ諸国の政治腐敗や開発の遅れをもたらした、市場経済の適切な活用によってこそアフリカは困窮状態から抜け出せる、そのために援助依存からの脱却の道筋を提案する、というのが本書のアウトラインである。「本書は劇薬である」というのがオビの謳い文句であるが、ジェフリー・サックスのような援助重視のビッグ・プッシュ派への批判は近年では定着しつつあるから、読んでいて特に驚くほど極端な見解はない。議論の進め方はラフで大まかな感じだが、アフリカの開発問題について論点網羅的に見取り図を一望したい場合には役立つだろう。

 市場経済の前提としてガバナンスが必要であるが、他方で欧米的価値観に基づく一方的な民主化圧力はかえって混乱をもたらしかねない(例えば選挙実施は民族対立や内戦を引き起こす)という論点は、Paul Collier, Wars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places(HarperCollins, 2009→こちら。邦訳は『民主主義がアフリカ経済を殺す』日経BP社、2010年)でも指摘されていた。

 援助ではなく投資をアフリカに呼び込まなければならないが、その点で本書は中国のアフリカ進出について肯定的な評価をしている。一時期、欧米のジャーナリズムを中心に中国のアフリカ進出に対するバッシングが激しかったが、最近、この点でも議論の潮目はアカデミズムを中心に変わりつつあるように見受けられる。私も最近、Ian Taylor, China’s New Role in Africa(Lynne Rienner, 2009→こちら)、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)といった本を読んだが、いずれも過剰な中国バッシングを戒めている。

 グラミン銀行が開発したマイクロファイナンスの活用については誰しも賛成できるだろう。アフリカでの具体的な応用例は、例えばJacqueline Novogratz, The Blue Sweater: Bridging the Gap between Rich and Poor in an Interconnected World(Rodale, 2009→こちら。邦訳は『ブルー・セーター』英治出版、2010年)を読んで欲しい。

 監訳者解説によると本書はウィリアム・イースタリーの立場に近いと指摘されている。『エコノミスト 南の貧困と闘う』や『傲慢な援助』は気になりつつも未読なので今度機会を見つけて読んでみよう。

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小林照幸『毒蛇』

小林照幸『毒蛇』(TBSブリタニカ、1992年)、『続 毒蛇』(同、1993年)

 咬まれると激痛、壊死が発症し、死に至る確率も極めて高いハブの猛毒。その治療用の血清を開発した伝染病研究所の沢井芳男は1957年に初めて奄美大島への調査に同行。自信満々に現地へ初めて赴いた沢井だが、目の当たりにした現実は予想をはるかに裏切るものだった。離島・離村ではそもそも血清を保存する冷蔵庫そのものが足りないなど医療環境が整っておらず、新たに開発した乾燥血清も溶解せずに思った効果は出せなかった。他方で、ハブ対策に地道に取り組んでいる現地の人々と出会ってその謙虚さにも打たれ、沢井は改めて毒蛇咬症の研究に全力で取り組む気持ちを固めた。研究の道のりは奄美から、まだ米軍占領下にあった沖縄、さらには台湾へと続く。

 ハブをはじめ毒蛇咬症をめぐる問題が一つずつ解決されていく過程を沢井という人物を中心に描き出した医学ノンフィクションである。医学的な背景を噛み砕いて説明されている平易な語り口もさることながら、そこに携わる人々のひたむきな熱意が大仰ではなく静かに説得力をもって浮かび上がってくる筆致がとても良い。本書は著者が開高健賞奨励賞を受賞したデビュー作で、その頃はまだ学生だったらしいがこれだけ書けたというのはたいしたものだ。遅まきながら小林照幸という人の筆力に関心を持った次第。

 私の個人的な関心から言うと、1960年代のまだ近代化途上にあった台湾、とりわけ農村・山村部で伝統的な中国医学への過信(というよりも迷信)によって血清などの西洋医学の方法が広まらず、人々が毒蛇咬症に悩まされていた当時の社会状況がうかがえたところが興味深い。台湾にもコブラがいたのは初めて知った(ただし、コブラによる死者はインド方面に比べて格段に少ない)。毒蛇研究の先駆者として杜聡明も登場するが、欲を言えば彼のプロフィールももう少し書き込んで欲しかった。当時、台湾総督府は南洋の風土病対策の一環として毒蛇研究にも力を入れており、杜聡明もその分野では世界的に知られた医学者であった(なお、日本統治期の蛇毒咬症関連調査の資料が戦後なくなってしまったらしいが、「おそらく日本の遺産として内容も分からずに始末されてしまったのでしょう」と杜聡明が語るシーンがあった)。彼は台湾出身者として初めて博士号を取得したことでも有名で、日本統治期の台北帝国大学で唯一の台湾人出身教授でもあった。戦後も台湾大学総長を務めたり高雄医学院を創立するなど活躍。

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2010年8月23日 (月)

小林照幸『ひめゆり──沖縄からのメッセージ』

小林照幸『ひめゆり──沖縄からのメッセージ』(角川文庫、2010年)

 「ひめゆり学徒隊」の一員として生き残り、その体験を「ひめゆり平和祈念資料館」で語り続けている宮城喜久子さん。沖縄戦当時は本土にいたため実体験はないが、後輩をはじめ死んでいった人々の記憶を残していきたいと「沖縄戦記録フィルム1フィート運動」を進めてきた中村文子さん。凄惨な戦いに巻き込まれて、多くの人々が無残に死んでいった地獄絵図を語り続けるのはそれだけでも非常につらいことではあるが、それでも何とか後世に伝えていかねばならないという切迫した思い、それを胸中に秘めながら見つめ続けてきた沖縄の戦後史。

 「ひめゆり学徒隊」(「ひめゆり部隊」ではない)は沖縄戦の一つのシンボルとして小説や映画、テレビドラマの題材として繰り返し取り上げられてきたが、その脚色は戦場の実際からはかけ離れて宮城さんたちからすれば非常な違和感があった。何よりも惨い体験を強いられたのは「ひめゆり学徒隊」だけではない。これが「歴史」として定着してしまって良いものか?という葛藤もあったようだ。平和な社会での無関心というならまだしも、「聖戦」として美化されてしまうことには我慢がならなかった。そして、基地の問題。安全保障の議論は沖縄にとって極めて過酷なロジックをとる。それをどのように考えたらいいのか、私には正直なところ全く見当がつかない。ただ、本書に登場する宮城さんをはじめ戦場の実際を目の当たりにした人々が、そして記憶の中にある死者のそれぞれに切迫した哀しみが、寡黙な眼差しでじっとこちらを、つまり日本という社会と後世の人間たちを見据えていることは決して忘れてはならないだろう。優等生みたいな感想だが、そうとしか言いようがない。

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2010年8月22日 (日)

NHKスペシャル「灼熱アジア 第1回 タイ “脱日入亜”日本企業の試練」

NHKスペシャル「灼熱アジア 第1回 タイ “脱日入亜”日本企業の試練」

・中国、インドなどとFTAを結んだASEAN。とりわけタイは関税がないという条件ばかりでなく、人件費に比して高度な製造技術や品質という利点。ものづくりの優位性を奪われかねない日本の中小企業もタイへ進出。
・大田区の中小企業が集まって進出したオオタ・テクノパーク。その中の一企業・南武の事例。国境を越えたジャスト・イン・タイム→激しい顧客獲得競争の中、納期を気にしながら綱渡りの工場操業。
・タイ企業サミットに買収された群馬県の金型工場・オギワラの事例。自前の技術開発では時間がかかるので、日本人技術者をタイの工場へ呼び、技術指導。日本人技術者はあらかじめシミュレーションをするが、タイ人技術者は試行錯誤で進めるという職場文化の相違→組織改革に時間がかかる。日本人技術者は技術は目で見て盗めという考え方だが、タイ人技術者からはマニュアル的に教えて欲しいという要望。他方で、日本の工場ではリストラが進む。

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王御風《圖解台灣史》

王御風《圖解台灣史》(好讀出版、2010年)

 先日、台北の書店に行ったとき新刊台に積まれていたので購入した本。台湾史の概説書で時代的テーマごとにバランスよく項目を配列、カラー写真や図版も豊富に収録されて読みやすい構成に工夫されている。例えば中国語を勉強中の学生さんが台湾史の概略を知りたい場合にはうってつけだ。

 序章は南島系原住民が広がっていた先史時代。第2章は大航海時代にやって来たオランダ人やスペイン人。第3章は鄭成功政権。第4章では清の版図に入ってから漢族系移住民による開拓。第5章は西洋列強の東アジア進出に対する台湾での動向。第6章は日本統治時代のプラス面とマイナス面。第7章では二・二八事件や国府遷台の混乱期。第8章は白色テロ、海峡情勢緊迫化の一方での経済的急成長。第9章は戒厳令解除と李登輝政権の民主化、国民党一党支配の終焉で政権交代の現代。以上の構成で台湾史のポイントが網羅的にまとめられている。

 こうした叙述構成から窺えるように、様々なエスニック・グループ(族群)が交錯した重層構造を持っているところに台湾の歴史的・社会的特徴が見出される(例えば、日本統治期に関しても肯定/否定という政治的次元ではなく、歴史的重層構造の中のあくまでも一要素として組み込まれていることが見えてくる)。それは、本質主義的に「台湾人」「中国人」といった単一の民族意識へと還元できる性格のものではない。日本語にも翻訳された周婉窈『図説 台湾の歴史』(濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳、平凡社、2007年→こちら)にしてもそうだが、このように多様な民族や文化が互いに入り混じった影響関係に着目する視点が近年の台湾史叙述のスタンダードとなっているように見受けられる。

 覚書的にメモ。大陸からの漢族系渡来民として泉州系、漳州系、客家系それぞれが来た順番に条件の良いところに定着、一番遅かった客家系が条件の悪い山地へと追いやられたという説明を以前に読んだことがあったが、その後の修正説では、泉州系は商人が多いので港の近く、漳州系は農業民なので平野部、客家系はもともと山地に暮らしていたので同様の環境の場所を選んだと考えられているらしい。牛肉麺は戦後にやって来た外省人の眷村文化から生まれたというのは初めて知った。

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ジョン・ルカーチ『第二次世界大戦の遺産』

John Lukacs, The Legacy of the Second World War, Yale University Press, 2010

 著者は名前から分かるようにハンガリー出身の歴史家。マルクス主義文学批評で著名なルカーチ・ジェルジと関係があるのかどうかは知らない。見覚えのある名前だと思っていたら、ジョン・ルカーチ(早稲田みか訳)『ブダペストの世紀末―都市と文化の歴史的肖像』(白水社、1991年)という本が手もとにあった。

 本書は第二次世界大戦を体系的に論じた歴史研究書というよりも、第二次世界大戦の性格付けについてエピソードを絡めながら語った歴史エッセイという感じだ。第二次世界大戦をどのような脈絡の中に位置付けて把握するかというテーマはその後の政治対立とも密接に関わり合って意外と難しいテーマである。民主主義対全体主義の戦いという耳にたこができるほど聞き慣れた位置づけもあるし、反共主義の流れでは1917年のロシア革命以来の共産主義イデオロギーとの対立関係の中で第二次世界大戦と冷戦を一緒に捉える議論もある。本書は、第一次世界大戦の結果としてロシア革命がおこり、第二次世界大戦の結果として冷戦が始まった、という地味な因果関係で考えている。大上段に振りかぶった一本調子の「史観」には懐疑的で、むしろ様々なロジックや猜疑心が敵味方、戦争当事者間に絡まり合っていたことを個々のエピソードから垣間見ていこうとするのが本書の面白さだろう。

 ドイツでは「二つの戦争」という論点があった。つまり、第二次世界大戦は①対アングロ・サクソン戦争、②対ソ連戦争が同時進行しており、前者については早期講和し、後者に集中すべきだったという議論である(本書では触れられていないが、日本では同様に①対アメリカ戦争、②対ソ連戦争、そして③植民地解放戦争という三つのロジックがあり、③を大義名分として中国との講和交渉を主張するグループがいたことも想起した)。戦後に現われた「二つの戦争」の議論はいわゆる「歴史修正主義論争」で話題となったが、戦時中にも例えばルドルフ・ヘスのイギリス行きはこの論理を持っていたほか、本書で一つの章が割かれている理論物理学者ハイゼンベルクも同様の考え方をしていたのが興味深い。ドイツが優勢のときはイギリス側に同様の動機が芽生えており、ドイツの敗色が濃くなってからの時期、スイス・ベルンでの親衛隊幹部ヴォルフによる連合軍との交渉にはヒムラーばかりでなくヒトラーも同意していたと指摘される。冷戦の起源に関しては、ソ連=ロシアとの歴史的なパワー・バランスの中で捉えて冷戦の時期を1947~1989年と明確化し、ロシア革命以来の共産主義イデオロギーとの対立という観点は取らない。Rainbow5というアメリカの戦略戦争プランのコードネームを私は知らなかったが、これは1941年に採択され、あくまでも対ドイツ戦にプライオリティーが置かれており、対日戦は限定戦争が前提だった。ところが対日開戦後、実際には日本本土上陸まで視野にいれなければならない趨勢に巻き込まれてしまったが、これを事前には想定していなかった。軍部策定の戦略プランや原爆が対日戦争終結につながったのではなく、ポツダム宣言で謳われた「無条件降伏」に関して天皇制を廃止しない(国体護持)という形で事実上の有条件降伏として暗黙の読み替えをしたからだと本書では指摘されている。Rainbow5のようなプランは戦略そのものとしてではなく、むしろ国内世論の盛り上がりという形で影響したという。

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2010年8月15日【鹿港、台中】、16日【帰国】

◆8月15日(日)
【鹿港へ】

・高雄8:00発→彰化10:07着の自強号に乗車。本日も快晴なので、車窓に流れる田んぼや木々の緑が目に心地よい。彰化で下車、駅構内の観光案内所で鹿港行き彰化客運のバスの乗り場がどこにあるのかを教えてもらう。鹿港まではバスで30分前後くらい。今日は日曜日だからだろう、観光客が多い。鹿港の町に入りかけたところで降りる人が多いが、私は帰りのバス乗り場を確認するため終点まで行った。
・彰化駅の観光案内所でもらった観光案内パンフレットの略地図を見ながら歩く。まず、天后宮へ。媽祖を祭っているところは台湾各地で見かける。寺廟の前は門前市といったらいいのか、商店街、屋台街。ガイドブックに乗っている有名な肉包(肉まん)のお店がすぐ近くにあるので、そこで1個だけ買ってほおばる。ただし、うだるように暑い中、あまり食欲はなく、おいしいのかどうか味はよく分からなかった。軽食や小物を売る商店街、屋台街は台湾の観光地には必須。人がわいわい行きかっている。ここは昔ながらの街並みを利用、もしくは再現している。
・途中、旧鹿港公会堂。日本統治期の建物で古跡として修築されている。
・老街を南下して、龍山寺へ行った。龍山寺というのは台北の万華をはじめ台湾各地にあるが、どういう由来があるのかは知らない。古市街は割りと人出があったが、ここは観光客がまばらだった。
・旧鹿港火車站跡。鹿港はかつて「一府(台南)、二鹿(鹿港)、三艋舺」と並び称されるほどの賑わいを見せた商業都市であったが、第一に港が土砂で埋まって機能しなくなったこと、第二に台湾縦貫鉄道の敷設に反対して鉄道路線は彰化を通ったため、彰化の繁栄に対して鹿港は凋落してしまったと言われる。で、どうして鉄道駅跡があるのかと不思議に思ったのだが、どうやら日本統治期の台湾製糖株式会社が敷設したさとうきび運搬用(ついでに旅客運行もしていた)の軽便鉄道の駅だったらしい。すでに廃線となった駅跡が公園として整備・公開されているケースは台湾の各地で見かける。
・鹿港民俗文物館へ行く。辜顯榮の邸宅が博物館として一般開放。辜顯榮は日本に協力してのし上がった実業家で、鹿港の出身らしい。豪壮な洋館で、奥の方には台湾在来の形式の大型家屋もある。これらの建物の中で辜家の所蔵品のほか、台湾での庶民生活をうかがわせる民俗資料も展示されている。入口の受付で荷物を預けて入館。玄関入って左脇の部屋では鹿港の昔の写真を展示。鹿港の在来の街並みは細い路地がくねくね入り乱れた複雑なものだったようだが、日本統治期に入ってそれが崩され、整然とした街区に建て直される経過が写真からうかがえたのが興味深い。鹿港に住んでいた薬剤師の昔の薬局を再現した部屋もあった。庭には昔ながらの遊び道具が置いてあり、竹馬で遊んでいる人がいた。洋館内では、結婚記念だろうか、プロのカメラマンに記念撮影してもらっているカップルがいた。
・九曲巷は上述したような鹿港在来の街並みが残った区画。細長く湾曲した路地、狭い城門は、外敵の侵入を防ぐためらしい。分類械闘か。十宜楼は路地の上に橋のように建物がせり出している。
・鹿港鎮公所(町役場)の裏には日本統治期の鹿港街長官舎が記念館として公開されている。中では鹿港の歴史について簡潔な展示。このようにかつての日本式家屋が古跡として修築・保存されているケースは台湾各地で見かける。
・うだるような暑さの中で汗が滝のように流れ、体がだるくて歩き続ける気力がなくなってきた。来る時には気づいていなかったのだが、鹿港街長官舎のすぐ裏手が彰化客運のバスターミナルだった。15時ちょっと前のバスに乗って彰化車站まで戻る。

【台中にて】
・彰化から普通列車に乗って台中まで行く。ロングシートの車輌。台中まで20分ほど。高速鉄道台中駅と連絡している新烏日駅は台中と彰化の真ん中あたり。
・16:00過ぎに台中到着。駅前を歩くと、東南アジア系の顔立ちの人のグループが割合と目立った。雰囲気的に原住民とも違う。海外から来た出稼ぎ労働者か。新竹でも同様の光景を見かけた覚えがある。
・台中市内の中山公園へ行く。かつて日本統治期に整備された台中公園。園内の大きな池が有名。行楽客でにぎわっており、公園の一隅ではパイナップル・ケーキのイベントをやっていた。公園内の旧台中神社跡を見に行く。狛犬と軍馬。社殿があった場所には孔子像が立っている。
・暑さで体がだるく、早く体を休めたいと思い、駅まで戻ってタクシーを拾ってホテルへ直行。台中金典會館。ビジネスホテルと高級ホテルとが一緒になったホテルで、私がチェックインしたところ、何かの手違いで部屋が確保されていなかった様子で、ワンランク上の広い部屋にしてくれた。25階で眺望がよく快適。
・ホテルの斜め向かいにある廣三SOGO百貨へ行く。上のレストラン街へ。台湾のデパートでは屋台風のビュッフェがある。担仔麺と貢丸湯、魯味の豆腐のセットで夕食。順次エスカレーターで降りながらデパートをぶらぶら見る。店舗内の雰囲気は日本とあまり変わらない。最上階にはなぜかゲームセンター。置いてあるゲーム機は日本製で、ディスプレイの字幕は日本語。若い世代はこういう経路で日本語に馴染んでいくのか。
・台中ではファッショナブルと言われる精明路をぶらぶらしてからホテルまで戻る。台中は駅前の繁華街と、そこから車で10分くらいの距離にある新市域の二段構えの街並みとなっており、後者の方に高層ビルなどが並んでいる。

◆8月16日(月)
・台中7:48発の自強号に乗って台北へ。途中、新竹を通過。以前、台北~新竹間及び高雄~台南間は列車で往復したことがあったので、新竹を通過した時点で台湾鉄道在来線の一周を達成。
・台北には9:30頃に到着。MRTに乗り換えて市政府駅まで。市政府駅に直結する形で統一阪急百貨店が建設中で、その地下道が誠品書店信義旗艦店にもつながっていた。10時の開店を待って入店。2時間半ばかりじっくりと棚を眺めた。
・早めに空港へ行こうと思い、台北駅までMRTで戻り(地下街でコーヒーパンの香りに誘われて一つ買い食い)、バスターミナルから桃園国際空港へ。14時前には到着。カウンターでチェックイン。背負ったリュックサック一つなのでそのまま機内に持ち込むつもりだったが、「荷物が大きすぎる、重量オーバーではないか」と指摘された。来る時は問題なかったが、午前中、誠品書店で本を買い込んでしまったせいだ。10冊前後と控えめにしたつもりだったが、それなりの重さにはなる。仕方なく機内で読む本など必要なものを誠品書店でもらった紙袋につめかえて、リュックは預けた。出国管理を通過。空港内でお土産にお茶を買う。
・桃園国際空港16:30発のチャイナエアラインCI106便。機内資材運搬の遅れということで30分の遅延。機内で先ほど書店で買った接接《接接在日本:日本、台湾大不同》(商周出版、2010年)をざっと読み終え、続いて王嵩山《台湾原住民:人族的文化旅程》(遠足文化、2010年)を3分の2くらいまで読んだ。当たり前だけど、機内で中国語の本を読んでいるとスチュワーデスさんから中国語で話しかけられるな。私はあまり聞き取れないのだが。成田には21時頃に到着。荷物がなかなか出てこず、電車に乗ろうとしたらもう21:40過ぎ。JRの成田エクスプレスはもうなくて、京成のスカイアクセスは22:20発。新宿行きのエアポートバスが22:00発なのでこれに乗ったのだが、後悔。首都高のどこかで工事中とのことで途中から一般道に降りたため通常よりも遅く、新宿到着は23:30頃。スカイアクセスだったら日暮里まで30分ほどだし、本も読めたはず。結局、家まで帰りついたのは24:00頃。

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2010年8月14日【卑南文化公園、台東→高雄】

【卑南文化公園】
・卑南文化公園は午前中に行った国立台湾史前文化博物館の付属施設で、広い緑地の中に卑南遺跡の発掘現場や遺跡解説展示室などがある。台湾鉄路南廻線工事の際に大量の石棺や副葬品(玉器)などが出土して、台湾大学考古学研究室の宋文薫・連照美が調査。約5300~2300年前のものと推定されている。遺跡の分布面積は60ヘクタール以上、東縁部分は台東新站の建設に伴って壊され、遺跡の一部が卑南文化公園として整備された。
・観光案内センターが遺跡に関する展示室となっている。ガイドの人が来館者に解説してくれる。私は中国語を聴き取れないので一人で観覧する。受付で荷物を預け、日本語イヤホンがあると教えてくれたが、先ほど博物館本館で展示を見てだいたいの様子は飲み込んでいるし、解説文は読めるからお断りした。
・卑南遺跡では以前から石柱が注目されていた。初めて記録したのは1896年の鳥居龍蔵、1929~1937年にかけて鹿野忠雄がたびたび調査、日本の敗戦直前の1945年初めには金関丈夫と国分直一が調査。
・石柱は何のため?→①建物の柱、②有力者の住居前のレリーフ、という2説あり。石柱の上に空いた穴は運搬のため紐を通すためと解釈されている。
・台湾での考古学的時代区分:長濱文化(先陶文化、つまり土器出現以前の旧石器時代)/約7000年前/大坌坑文化/約4500年前/縄紋陶文化/約3500年前/麒麟文化(石柱)/約3000年前/卑南文化/約2200年前/鉄器時代(阿美文化)/近代。
・卑南文化人は約2200~1700年ほど前に外へ向けて移動し始めた→彼らがどうなったのか分かっていない。出土した土器の形式が似ている点ではアミ族の可能性もあるし、抜歯の風習があった点ではパイワン族の可能性もあるが、現在の民族と関係があるのかどうかも確認できていない。
・卑南遺跡出土の石棺:北北東(足)→南南西(頭)という方向に並んでおり、あたかも起き上がると都蘭山が見えるような姿勢。
・亜熱帯の木々が生い茂ったなだらかな山すそで、スロープ上に芝生が広がる公園の敷地内には、再現されたアミ族の伝統的住居(写真)がある。木で編んだ構造、中に入ると木編みのベッド状の部屋もあり、それなりに快適に生活できそうな感じ。別の場所では大きな屋根で覆われた発掘現場も見学できる。家族連れやグループの観光客が結構来ている。
・博物館でもらったパンフレットの交通案内を見ると、台東新站から卑南文化公園まで徒歩10分となっている。迷った場合に備えて余裕をとり、列車の発車時刻より40分ほど前に公園を出た。案内パンフレットの略地図に従って歩き始めたのだが、どうも様子がおかしい。地図の縮尺と歩行速度を頭の中で計算すると、この調子では30分近くかかってしまいそうだ。そもそも台東新站自体が遺跡の一部を崩して建てられたのだからすぐ隣のはずなのに、略地図通りに行くと明らかに遠回りである。本当にこの道でいいのか? 焦り始める。途中、台湾人観光客の車がとまって道を尋ねられたが、「対不起、我不会説漢語」。私自身、迷子になりかけているわけで、気持ちに余裕がない。しばらくしてようやく台東新站近くまでたどり着いた。卑南文化公園方面に続く裏道があり、そのすぐ向うには先ほど行った発掘現場の大屋根が見える。確かにこの裏道を歩けば駅から徒歩10分だろうな。博物館の交通アクセス案内は来館者はみな車で来るという前提で、略地図は車道で描かれている。駅前の露店で釈迦頭を買いたかったが、時間が迫っているので慌てて改札を通過。月台に出て一息ついたら、電光掲示板に10分遅れの表示。どうも間が悪い。

【台東から高雄へ】
・台東17:32発(実際は17:40過ぎ発)→高雄19:40着予定の自強号に乗車。残念ながら通路側の席。ただ、窓が広いので外はそれなりに見える。南廻線は海沿いの路線で、山が海にすぐ迫って断崖に線路を通すのが困難だった区間である。眺望が素晴らしい。私が通ったのは夕暮れ時、海の上の雲があかね色にそまっているのが、胸がすくように美しい。写真に撮りたかったが、窓越しだと車内の明かりが反射してしまってうまくいかない。やがて暗くなってきてから枋寮を通過。以前、恒春に行ったときバスで枋寮まで出てここから各駅停車に乗って高雄まで行ったことがある。枋寮を通過した時点で台湾鉄道一周達成(ただし、台北~高雄間は高速鉄道)。
・20時ちょっと前に高雄に到着。以前に来たことがあるから高雄駅構内の様子は分かる。宿泊先も以前に泊まったことのある京城大飯店、駅北側出口すぐ目の前なので迷わずに直行。荷物を置き、シャワーを浴びてからすぐ外出。
・高雄からMRTに乗って次の美麗島駅で下車。六合夜市へ。今日は土曜日の夜だからだろう、家族連れが続々と向かっている。相変わらず人出がすごいな。ここで夕食を済ませるつもり。貢丸の串焼き。タレで焼いたつくねのような感じで、唐辛子等をふってもらった。のどが渇いたので、甘蔗汁(さとうきびジュース)。屋台の中でしぼっており新鮮、ちょっと土臭い感じもしたが、ほんのり甘みが飲みやすかった。度小月の屋台があったので、味付き卵入りの担仔麺。

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2010年8月14日【国立台湾史前文化博物館、台東市内】

◆8月14日(土)
・ホテル内で朝食を簡単に済ませ、カウンターでチェックアウト。昨晩頼んであったタクシーをちゃんと呼んでくれていたのでスムーズに花蓮駅まで戻ることができた。幸いなことに快晴。朝から暑いのは確かだが、雨に降られることに比べたらはるかに気分が良い。途中、外の風景を眺めていると、崩れかかったようにぼろい瓦葺木造の日本式家屋をところどころで見かける。
・花蓮7:43発→台東10:17着の自強号に乗車。この路線は電化されておらず、ディーゼルカーが客車を引っ張っていく。単線で発車本数は少ない。日本統治期には花蓮・台東間を軽便鉄道が走っていた。戦後になって線路幅が拡幅され、北廻り線として宜蘭方面と、南廻り線として屏東方面とつながり、台湾鉄道一周が完成することになる。中央山脈と海岸沿いの山脈とに挟まれた細長い平野部の花東縦谷を南下。夏らしい雲の浮かぶ青空の下、山あいには木々が生い茂り、平野部に出ると水田が青々と広がっている。時折、白い水鳥も見かける。車窓の風景をぼんやり眺めているだけで心地よい。
・池上駅では列車が駅に着く間際にドア前まで行き、列車が止まるやいなや半身乗り出し、売り子さん(中高生くらいの女の子だった。夏休みのバイトか)に向かって手を振って呼ぶ。100元札を出したら、弁当とおつりの10元玉3枚が入ったビニール袋を手早く渡してくれた。用意がいい。かの有名な池上便當である(写真、写真)。台鉄便當に比べたらはるかにうまい。台湾の駅弁はごはんを敷き詰めた上におかずがぎっしりと並べられており、タレがしみたごはんもおいしい。この近辺は台湾では米どころとして知られているようだ。
・時間通りに台東新車站に到着。市の中心部から離れているため、この駅前には何もない。タクシーを拾い、国立台湾史前文化博物館へ行く。台東の次の康楽という駅の近くらしいが、この路線では列車本数が少ないのであてにならない。車で10分くらい。

【国立台湾史前文化博物館】
・写真が国立台湾史前文化博物館。先史考古学と原住民族研究をメインテーマとした総合博物館である。展示内容は充実している。2時間くらい見て歩いたが、もう少し時間が欲しかった。以下、見ながらとったメモ書きの写し。
・プレート・テクトニクス→蓬莱運動(Penglai Orogeny)→ユーラシア・プレートとフィリピン海プレートとがぶつかり合ったところに花東縦谷。1932年、鹿野忠雄が雪山で氷河の痕跡を発見。サケを例に取ると、10万年~80万年くらい前から台湾での進化の分化が現れている。
・台湾における生態学的研究の先駆者として、スウィンホー、プライス、鹿野忠雄。
・現代における生態系破壊と回復の問題。
・科学的考古学についての概論的解説展示。
・台湾における考古学的研究は日本統治期から始まっている。
・台湾で一番古い人類は左鎮人で2~3万年前。八仙洞遺跡を宋文薫(※この人は確か台北帝国大学出身、国分直一から個人的に薫陶を受けていた人だ。台湾では考古学の第一人者として知られる)、林朝啓が調査→旧石器時代の長濱文化、3万年以上前~5000年前くらい。
・1980年7月、台湾鉄路の南廻り線工事の際に、現在の台東新站のあたり(以前は卑南駅だった)から大量の石棺や副葬品が発見された→宋文薫、連照美など台湾大学調査団により卑南文化の研究。この遺跡群の一部は史前博物館所属の卑南文化公園として整備されている。卑南文化は石造建築、石棺、玉器、遺骨には抜歯の風習(※日本の縄文時代を想起させる)。最も特徴的なのは巨石文化:1897年に鳥居龍蔵、次いで1930年代に鹿野忠雄が記録、1945年の日本の敗戦間際の時期に金関丈夫と国分直一が調査(※この経緯は金関丈夫・国分直一『台湾考古誌』[法政大学出版局、1979年]で読んだ覚えあり)→1980年代に上記の台湾大学調査団→1990年代に史前文化博物館の設立。
・氷河期が終わって海面が上昇し始めた1万年前くらい(※日本考古学で言う縄文海進)に台北盆地には台北湖があった。1897年に発見された圓山貝塚など。大陸から渡来した人々の痕跡:大坌坑文化(6000~5000年くらい前)→芝山巖文化。
・台湾南部では海洋交易、新石器時代、石材を使った文化。
・各民族の特徴を捉えながら原住民族に関する展示。タイヤル(泰雅)族→文身。パイワン(排湾)族→石板建築。アミ(阿美)族→厳格な年齢組織と両性分業。プユマ(卑南)族→年齢により服装が違う。ルカイ(魯凱)族→豊かな自然資源の使い方、貴族(大土地所有)と平民の区別。ヤミ(雅美、タオ:達悟)族→海洋文化。サイシャット(賽夏)族→小人祭。ツォウ(鄒)族→戦祭。ブヌン(布農)族→精霊の観念、キリスト教受容によって文化的変容。
・台湾原住民運動簡史の展示では、多元續紛的族群現象(brilliant tribal phenomenon)として近年の「族群」としての認知を求める動向を紹介。クバラン族(噶瑪蘭族)が2001年、タロコ族(太魯閣族)が2002年、サキザヤ族(撒奇萊雅族)が2007年、セデック族(賽德克族)が2008年に新たに政府から認知された。マイノリティーの存在が公的に認知され始めると、自分たちのルーツの確認をパブリックな空間で主張していく動きが活発化していくアイデンティティ・ポリティクスとして興味深い。

【旧台東駅、旧台東神社、台東市街地】
・帰ろうと思ったが、交通手段がない…。博物館受付にいた人(制服を着ていたので警備会社の人のようだった)にタクシーを呼んでもらうように頼んだ。旧台東駅前まで直行。博物館からだいたい15分くらい。250元。
・現在の台東新站は台東市の中心街から離れている。台東はかつて花蓮と結ぶ路線の終着駅だったが、南廻り路線は旧卑南站(現在の台東新站)から屏東方面へとつながったのに伴い、台東旧駅への路線は盲腸線となり、その後さらに廃線となった。現在、その旧駅が鉄道芸術村として開放されている。家族連れやカップルでそれなりに人出がある。草が生い茂り始めた線路に車輌が置かれている。この廃線駅の風景は日本でもなじみがある感じだ。機関車庫や給水塔も残され、線路跡は遊歩道として整備されている。日治時期防空壕というのも見かけた。コンクリ造でがっちりしたもの。以前、花蓮でも旧駅近くで、宜蘭では市役所前で防空壕を見かけたから、戦時中、主要施設近くに集中して造営したのか。
・旧台東駅近くにある鯉魚山へ行く。旧台東神社跡は現在、忠烈祠である。石段はいかにも神社らしい。境内で老人たちが集まってカラオケや象棋に興じているのは台湾ではよく見かける光景だ。隣の寺廟には塔があって台東市内を一望できそうだったが、前でお香をたいて鉦太鼓をたたきながら儀式をしていたので、それを遠巻きに見てから山を降りた。
・市内に戻る途中に誠品書店があったのでちょっとのぞく。こぢんまりとしていたが垢抜けた雰囲気は誠品書店らしいな。
・旧駅近くには古くて今にも崩れそうな瓦葺木造建築をちらほら見かける。日本統治期の日本人住宅だろう。花蓮、台東など台湾東岸の町には漢族系がもともと少なく、日本統治期には日本人居住者のパーセンテージがかなり高かったらしい。戦後も東岸部の開発は遅れていたので当時の家屋がそのまま残されてきたということだろう。大半はもう居住者がおらず(おそらく立ち退いたか)、近いうちに再開発のため崩されるのだろう。
・台東観光夜市の表示がある街路。写真の向うに見えるのは日本式家屋で、人が住んでいる様子。持参したガイドブックを見ると、この街路は水果街となっており、その名の通りに果物を売るお店が並んでいる。ただし、あまり人はおらず、3分の1くらいのお店はしまっている。このうだるような暑さ、本番はやはり夜なのだろう。釈迦頭はちょっと食べてみたいと思ったが、新駅前でばら売りしていたのを思い出し、帰りの列車の中で食べようと楽しみは残しておく(ところが、後述するように、列車発車時刻間際に駅にたどり着き、水果売りの屋台の前を通りかかったときに声をかけたら、基本は箱詰め売りで(配送用にクロネコヤマトの宅急便の緑の旗がかかっている)「ばら売り用の釈迦頭はもう良いのがないから他のお店をあたって」と言われ、時間がないので買わずにホームに駆け込み、結局、食わずじまい…)。
・天后宮に行ったら工事中。門前で写真を撮ってすぐ退散。市内をぶらぶら歩きながら旧駅前のバスターミナルへと向かうが、何もない町だな。日本のさびれた地方県庁所在地を思い浮かべる。バスターミナル前でタクシーを拾い、台東新站近くの卑南文化公園へと向かう。

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2010年8月13日【台北→花蓮】

◆8月13日(金)
・成田国際空港9:40発のチャイナエアライン107で出発。京成のスカイアクセスだと日暮里から成田まで30分ほど。だいぶ楽になった。
・現地時間12:30頃に桃園国際空港に到着。今回の荷物は大型リュック一つだけなので機内持ち込み、荷物待ちの時間不要。すぐにエアポートバスに乗って台北車站まで。台鉄の窓口に行って14:30発花蓮行き自強号の切符を買おうとしたら、確保できず。結局、夕方16:52発の莒光号。太魯閣号に比べてとろいから花蓮到着予定は20:30頃(さらに遅れた)。週末は観光で行く人が多いようだ。
・中途半端に時間があまった。とりあえずMRTに乗って忠孝復興駅で下車、太平洋SOGO10階のジュンク堂書店へ行く。フロアの半分が書店エリアで、そのうち4分の3ほどが日文専門のジュンク堂書店、4分の1ほどが中文専門の金石堂書店。中途半端な時間だからか、客入りはそれほどでもなかった。棚の雰囲気といい、店員さんの緑エプロンといい、日本のジュンク堂と全く同じ。微風広場の紀伊国屋書店の日文書の品揃えはたいしたことないから、台湾で日文書が欲しい人には重宝するだろう。
・鼎泰豊でも行こうと思ってMRT忠孝敦化駅で下車。ところが、14:30でいったん休憩時間に入って、再開は16:00との表示。時計を見ると14:40である。仕方ないから歩いて誠品書店忠孝敦化店へ。途中、台南担仔麺の度小月の支店を見かけた。それから、交差点待ちしていたら、時報出版の車が通りかかった。車体には村上春樹『1Q84』の広告。時報出版の売れ筋なのか。誠品書店でぶらぶらとチェック。荷物が重くなるから買わない。
・台北車站まで戻る。まだ時間があるので2階のショッピング街へ初めて上った。屋台式のビュッフェで牛肉麺を食べた。どうでもいいが、日本系の店が多いな。台隆手創館(東急ハンズ)、無印良品、そして大戸屋。
・長距離列車にはやはりお弁当! 台鉄弁当で養生素食燉飯を買った。まだ時間が微妙にあるのでベンチに座って食べ始めたのだが、牛肉麺を食べたばかりなので、あまり味わうような腹加減ではなかった。
・16:52発の莒光号に乗車。17:40頃に瑞芳に停車したら、ホームは台北方面の列車を待つ人たちで混雑していた。瑞芳を過ぎてからは渓谷沿いの路線。ローカル路線の醍醐味が味わえる山あいの風景だ。夕暮れ時の山野にほんのりあかね色が混じる色合いは本当にきれい。雙渓で自強号に追い越された。宜蘭平野に入る頃には暗くなって街の明かりの他には何も見えず。先日DVDで見た「練習曲」という映画に出てきた漢本(Hanben)駅は気づかないうちに通過してしまった。映画では主人公がリトアニア人女性と出会ったシーン。海がすぐそばに迫る風光明媚な駅として鉄道ファンには有名らしい。漢本という名前は日本統治期の「半分」に由来するそうだ。
・花蓮駅には21時頃に到着。明日乗る予定の花蓮発→台東行の自強号の切符を買ってから駅前でタクシーを拾い、予約してあった統帥大飯店へ行く。大きめのホテルで部屋はなかなか良かった。ホテル内では原住民族、おそらくアミ族を意識したデザインが目立つ。タロコ峡谷観光に行く人たちが多く利用するのだろう。私自身は花蓮に来たのは今回で2度目なのだが、いずれもタロコには行かず。前回は花蓮市内を歩き回って日本統治期の古い建物探し、今回は明日の7:48発の列車ですぐ発たなければならない。せめて花蓮の夜市でもぶらぶらしてみたかったが、宿舎に着いた時点ですでに22時近くだったので、外に出る気力がなくなっていた。
・テレビをつけた。映画版「銀河鉄道999」をやっていると思ったらNHK・BSか。つい見てしまった。チャカチャカとチャンネルをかえながら台湾のニュース番組を見ていたら、高雄県長の楊秋興の話題。今年の統一地方選挙の際、近隣と合併して新たに誕生する特別行政区の大高雄市長選挙では民進党の勝利が確実視されていたが、党内予備選で現職の陳菊に敗れた楊が無所属で立候補を表明、場合によっては国民党とも組むような素振りをちらつかせて高雄市政・県政の政局が混乱しているらしい。それから、高雄の観光名所、情人碼頭の話題。経費節減で管理が行き届かず、ゴミは散らかるし、海に落ちて死んだ人も相次いでいるという。

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2010年8月21日 (土)

江文也について中国語でちょっと作文

  江文也については以前、『上代支那正楽考──孔子の音楽論』(平凡社・東洋文庫、2008年→こちら)を取り上げたことがある。孔子を題材としながらも、そこを通して他ならぬ彼自身の音楽論を展開しているところが面白かった。また、周婉窈〈想像的民族風──試論江文也文字作品中的臺灣與中國〉《臺大歷史學報》第35期(2005年6月→こちら)という論文も興味深く読んだ。
 私自身、江文也に関心がある。彼を主人公にして東アジア現代史を眺め渡してみたら、音楽シーンばかりでなく、日本の海外侵略や中国の文化大革命など当時の政治的背景を絡めながら面白い見取り図が見えてくるのではないかと考え、少しずつ調べてはいるのだが、なかなかはかどらない。
 以下は、北京の孔子廟を訪れた際に江文也について簡単に中国語で書いた雑文。私は中国語の本をたまに読んだりもするけれど、それはあくまでも漢字で意味がとれるから類推しながら内容を読み取っているということであって、中国語そのものはあまりまともには勉強しておらず苦手。お暇な方に添削していただけたらありがたい。なお、日本で中国語を勉強する際にはどうしてもピンインと簡体字の組み合わせになってしまう。私自身としては繁体字の方が読みやすいのだが、キーボード入力するための注音符号が分からないので、あしからず。

  我去北京旅行的时候,访问了孔庙。孔庙的主体、大成殿里有古代礼乐用的乐器。
  我在孔庙里想起了江文也著的《上代支那正楽考:孔子の音楽》(他用日文写的这本书)和他作的交响乐《孔庙大成乐章》。从一九三〇年后半期到一九四〇年前半期,他常去孔庙查古代音乐史,依据他自己的调查写了这本书、作了这支乐曲。我读过《上代支那正楽考》的翻印本,觉得很有意思。他把孔子当做一个音乐家,以共鸣写这本书的观点很精彩。
  我看侯孝贤导演的电影《咖啡时光》的时候,初次知道了江文也的姓名。所向小津安二郎致敬描写生活在东京的电影,女主角在这部电影的故事里找寻江文也在东京的脚印。
  江文也是出生在台湾的音乐家。他去日本留学以后,在日本音乐界成名。一九三六年他作曲的《台湾舞曲》在柏林奥林匹克音乐部门获得奖牌。
  亡命俄人贵族的音乐家、亚历山大・齐尔品(Alexander Tcherepnin)在中国和日本发掘了很多有为的青年音乐家们,例如中国的贺绿汀、日本的伊福部昭等等。江文也是这些音乐家们之一。齐尔品在东亚找崭新的音乐,他不喜欢模仿西洋音乐。他劝青年音乐家们在中国和日本以自己民族的感性作乐曲。齐尔品在东京见到江文也、出生在台湾的汉人。齐尔品让江文也注目中华文明。江文也受齐尔品的启发,怀抱着关于中国浪漫情感,开始想去中国大陆。
  一九三八年江文也去北京当北京师范大学音乐系教授。日军侵略的时期,有的台湾人相信“台湾人是日中桥梁”的宣传去大陆。江文也也是这些人们之一。
  解放以后,江文也因为汉奸嫌疑被逮捕,但是马上获释。他继续在北京作曲。文化大革命时期他遭受迫害。他挽回名誉以后,在北京去世。他的生平充满波澜,我觉得非常有趣。

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2010年8月19日 (木)

王嵩山《台湾原住民:人族的文化旅程》

王嵩山《台湾原住民:人族的文化旅程》遠足文化、2010年

 台湾社会論で「族群」(ethnicity)という用語を用いる場合、本省人と外省人との対立関係に注目して中国大陸との統一か独立かという議論に結び付くことがかつては多かった。ところが、最近は多文化主義の枠組みの中でそうした本省人と外省人との対立も相対化していく傾向が見受けられる。その際、漢族が渡来してくる以前から住んでいた南島語族(オーストロネシア語族)系の原住民に着目し、歴史的パースペクティブの中で台湾という一つの島には多様な人々が重層的に折り重なってきたことを強調、そうした観点から漢族同士の対立関係も相対化、多文化主義というさらに広い枠組みの中で原住民などマイノリティーも含めた共存が説かれる。

 かつて四大族群という表現で外省人の他、本省人として福佬系、客家系、原住民に区別されたが、原住民に関しては現在、アミ族(阿美族)、パイワン族(排湾族)、タイヤル族(泰雅族)、タロコ族(太魯閣族)、ブヌン族(布農族)、プユマ族(卑南族)、ルカイ族(魯凱族)、ツォウ族(鄒族)、サイシャット族(賽夏族)、タオ族(達悟族、orヤミ族〈雅美族〉)、クバラン族(噶瑪蘭族)、サオ族(邵族)サキザヤ族(撒奇莱雅族)セデック族(賽徳克族)、以上14の原住民が認定されている。原住民は人口としてはわずか数パーセントに過ぎないにしても、それぞれに来歴も異なり、「原住民」という一言では括ることのできないユニークで互いに相異なる文化や社会組織を持っている。

 本書は台湾原住民についての概説書だが、そうした文化的多様性を強調しながら、経済活動(食生活や交換経済、分配のための社会組織)、信仰形態、芸術活動(器具や住居形式にも世界観が表現される)などそれぞれの面で各民族に独特な生活世界を紹介していく。民族としての固有性は伝統生活の見直し・維持という方向性を取るが、他方で、社会生活の近代化(例えば、学校給食や貨幣経済の浸透)によってそうした伝統が変容していくというジレンマも抱える。収入を得るため観光資源として自分たちの伝統を売り物にすると、伝統の通俗化という弊害が当然にもたらされる。それでも、マイノリティーの存在意義を積極的に認めていこうという多文化主義が定着しつつあるのは現代台湾社会の興味深いところだ(「姓氏」のない族群もいるのだから、「請問貴姓」というあいさつを当然のように使うのも差別的だという指摘もあった)。

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2010年8月17日 (火)

接接(JaeJae)《接接在日本:台灣、日本大不同》

接接(JaeJae)《接接在日本:台灣、日本大不同》(商周出版、2010年)

 台湾に行き、帰りの飛行機で暇つぶしになる本はないかなと探していたら、書店の新刊台に積まれていたので購入した本。タイトルを意訳すると、『接接が見た日本、台湾と日本は大違い!』ってところか。奥付を見ると、2010年7月20日初版で、8月2日初版9刷となっている。重版1回につき何部刷っているんだ? よほどのベストセラーなのか。

 日本人と結婚した台湾の女の子・接接が日本で暮らし始めて、日本語を猛勉強したり、台湾との生活習慣の相違に戸惑ったり、夫が実はゲーム・オタク(宅男)であることが判明して唖然としたり、と日本と台湾とのカルチャー・ギャップをコミカルに描いたイラスト・エッセイ。たとえて言うなら、小栗左多里『ダーリンは外国人』が夫婦間のカルチャー・ギャップを描いてベストセラーになったが、その設定を台湾人妻+日本人夫にしたような感じだ。

 職場の飲み会での飲酒前/飲酒後という日本人の変身ぶり。終電間際、泥酔者がゴロゴロしている新宿駅。食堂では真冬でも「おひや」が出るのに驚いたり、食べ残しを持ち帰りたいと言ったら日本人は恥ずかしがるのを不思議に思ったり。同僚とお弁当のおかず交換で鶏足を出したら「野蛮だ」と言われたが、そう言う日本人だって魚の生けづくりなんて残虐じゃないかと反撃。日本では台風休暇がないことに不満タラタラ、暴風雨の中でも頑張って出社しようとする人々を実況中継、等々。日本人自身でも意外と自覚していないポイントも結構ついてきて、彼女の驚きを通して台湾側の生活習慣も見えてくる。なかなか面白かった。この手のカルチャー・ギャップものは(悪意さえなければ)愉快に笑えるから好きだな。

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2010年8月12日 (木)

【映画】「フェアウェル──さらば、哀しみのスパイ」

「フェアウェル──さらば、哀しみのスパイ」

 時代はブレジネフ政権末期。フランス企業のエンジニアでモスクワ駐在中のピエール(ギョーム・カネ)は上司から指示された人物に会いに行った。現われたのはKGBのグリゴリエフ大佐(エミール・クストリツァ)。機密情報の連絡役をやらねばならない羽目になってしまった。素人のピエールは家族まで危険にさらすことになるのを恐れてやめたがっていたが、グリゴリエフの「世界を変えたい」という意気込みにやがて巻き込まれていく。彼の流した機密情報はフランス経由でアメリカに渡り、レーガン政権はソ連が送り込んだ有力スパイを一網打尽、情報の非対称的優位性を確信してスターウォーズ計画を大々的に立ち上げた。情報不足でアメリカの動きについていけなくなった状況を危惧したゴルバチョフは政策転換を決断する。人知れず、文字通り「世界を変える」ことに貢献したグリゴリエフだが、彼は情報漏洩の容疑で身柄を拘束された。彼が情報流出源だとなぜ分かったのか? 彼を救出して欲しいというピエールの必死の懇願をCIAは無視する。作戦のコードネームは“Farewell”──。

 活動は公にならない、従って他人から評価されることがないし、その上、汚れ仕事ばかり。報われない。それにもかかわらず、スパイは何のために働くのか? 誰も信用はできず、心を打ち明ける相手もいない。完全な孤独。「国家のために自分の生活を乱されたくない!」と怒鳴るピエールに対し、グリゴリエフは「自分の息子が新しい世界に生きていければいい」と言う。単に手に汗握るポリティカル・サスペンスというだけでなく、“忠誠”の対象が何なのかという(ある種、実存的とすら言える)葛藤がギリギリのところまで突き詰めて迫られてくるのが描かれている場合には、この手のスパイもの映画は興味深く感じる。

【データ】
原題: L'Affaire Farewell/英題:Farewell
監督・脚本:クリスチャン・カリオン
2009年/フランス/113分
(2010年8月12日、渋谷・シネマライズにて)

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黄富三『女工と台湾工業化』

黄富三(石田浩監訳)『女工と台湾工業化』(交流協会、2006年)

・戦後台湾の経済発展の背景として、労働力として支えた女性たちの社会的背景を分析した論文。原著刊行は1977年だから、もう30年前の話。現代の問題ではなく、調査データが多数収録されているので台湾社会経済史の史料としての意味合いの方が強いようだ。
・紡績業は日本統治期には微々たるもので日本からの輸入に依存→戦後、日本との経済関係が断絶した上、国民党政権と共に多数の大陸出身者が流入して、衣料品の不足→繊維工業の発展が急務とされた。また、戦後の経済建設において電子工業も急速に発展→男子労働力だけでは不足→女子労働力も動員の必要。
・女工を雇用する側の要因:男子労働者よりも低廉な賃金。軽工業は技術習得が容易→女性は結婚退職があるので労働力の新陳代謝がきき、安い賃金を維持できた。女性は単純労働にも我慢してくれた。労働争議の心配がなくて管理がしやすいと判断された。女性には兵役義務がない(兵役で召集された場合、そのポストを維持することが法律で義務付けられていた)。
・女工側の働く要因:農村経済は低収入であるため家計を補助する必要。女性の自立が可能。広い社会を見てみたいという気持ち。
・女工という形で経済社会へ女性が進出→自前の経済力を持ったので消費市場の拡大にも寄与した。
・男性よりも低い賃金、それを正当化する形で責任ある仕事を任せてもらえない。その背景には教育機会の不均等などの問題があったことも指摘される。
・読みながら、「金の卵」が東京を目指した頃の日本とか、逆に近年の中国沿岸部工場地帯の労働環境なども思い起こした。後者についてはLeslie T. Chang, Factory Girls: From Village to City in a Changing China (Spiegel & Grau, 2009、邦訳は『現代中国女工哀史』白水社、2010年)が興味深かった(→こちら)。

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2010年8月10日 (火)

呂紹理『時間と規律──日本統治期台湾における近代的時間制度導入と生活リズムの変容』

呂紹理(三尾裕子監訳)『時間と規律──日本統治期台湾における近代的時間制度導入と生活リズムの変容』(交流協会、2006年)

・「標準時間」という観念の浸透によってもたらされた台湾の社会的変容とそこに刻印された「近代性」と「植民地性」との二重性を分析。
・清朝期から、①欧米人との対外交易の始まり、②劉銘傳の新政によって時間的規範意識の変容は始まっていた。
・日本統治初期における気象情報報告、郵便電信、鉄道システムの整備→全島的時報システムの確立(1913年)。
・植民地教育→公共生活で遅刻を許さない、時間厳守励行の規範植え付けを意図。
・皇民化運動・戦時動員→社会全体が画一的生活リズムに組み込まれた→標準化された時間的規範が内面化された。
・鉄道の発車本数の増加、運行密度の高まり→時刻表は分刻み→近代的な機械時計に依存。
・製糖業で働かされる小作農も農業でありながら工場労働のような環境→「水螺」で時間を知らされて労働開始→上から時間意識が支配されたが、農村では内面化まではされておらず、労働時間外での時間意識にはつながらず。他方で、都市部の労働運動では労働時間に関する要求も見られた。
・ラジオ放送→全島レベルでの共時性、家庭内への浸透。
・レジャー活動などを取り上げた第五章については分析がまだ弱かったと著者は序文に書いている。
・植民地政府が標準時間の決定者、解釈者、配分者としての役割→時間的規範意識はあくまでも団体行動を基本として命令へ服従させることが意図されていた。個人が自主的に生活を組み立てるための判断根拠という形では利用されていなかったことを指摘。

 本書を読みながら、日本統治期に育った日本語世代の老人たちが「日本精神」「大和魂」といった言葉を使うとき、それは日本でイメージされるようないわゆる「右翼」的な観念とは異なり、そこには時間厳守も含めて生活徳目に関わる規範意識が込められていたことを思い出した。

 こうした生活徳目について、たとえば、時間厳守=期日を守る、約束を守ってウソをつかない=契約遵守の観念、礼儀正しさ=対人関係の円滑化、勤勉=職務に忠実、公共心=法律や規則の遵守、と読み替えてみると、分業によって効率性向上を図る資本主義的経済組織の運営に不可欠な生活習慣的エートスであったことが分かる。その意味で、むしろ一種の“近代性”そのものだったとすら言える。そうした近代的組織化を円滑に進めるための規範確立が国家の植民地支配事業として進められていた。その点で本書で指摘される時間意識と「近代性」及び「植民地性」とは密接に結び付いていたことが分かる。

 戦後、台湾接収にやって来た国民党をはじめとした中国人の大半にとって、この時間意識は異世界のものであった。つまり、1940年代の台湾は日本の軍需的必要もあってすでに高度な工業社会へと移行しつつあったのに対し、中国大陸はまだ時間的規範意識を要求される産業段階には入っていなかった。そのため、中国人は台湾人を奴隷根性と蔑視、台湾人は中国人を野蛮で洗練されていないと軽蔑したという点にも、両者の反目の一因があったことが考えられる。

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2010年8月 9日 (月)

春山明哲『近代日本と台湾──霧社事件・植民地統治政策の研究』

春山明哲『近代日本と台湾──霧社事件・植民地統治政策の研究』藤原書店、2008年

・著者は台湾史研究では知る人ぞ知る権威だが、どうやら本書が初めての単著のようだ。日本による植民地支配下における①霧社事件をめぐる問題(第一部)、②日本本国の政治過程、とりわけ立憲体制との関わりの中での対台湾政策の展開(第二部)、以上2点をメインテーマとして過去の論文が集められている。入手の難しい論文もまとめて読めるのはありがたい。

・1930年の霧社事件に直面した日本本国での議会・内閣など政治過程でどのような議論がかわされたのかの分析。当時は民政党の浜口雄幸内閣。議会では無産政党系(浅原健三など)が批判。文官総督には政党色があった→野党の政友会は総督の交代による失策を探したが、見当たらず、台湾問題ではむしろ政友・民政とも政策の継続性。
・陸軍の対応。鎮圧に際して毒ガスは使われたのか?→十分な毒性を持った催涙ガス。

・台湾総督による事実上の立法権を認めた六三法→日本本国の政党政治家からすると、議会の立法権を一時的に台湾総督に貸与しただけ、従っていつかは回収されるべきという認識→明治憲法が議論の引照基準となっていた。
・政党政治リーダーとしての原敬による植民地官制改革→タイミングの悪さ(朝鮮の三一独立運動など)から朝鮮総督への文官登用には失敗(山縣有朋の養子で官僚出身の山縣伊三郎が念頭にあった)→代わりに海軍出身の斎藤実が就任(→従来の陸軍の武断統治に代わって文化政治)。一方、台湾総督には官僚出身の田健治郎が初の文官総督として就任。
・原は植民地総督を政府委員として議会に出席させる制度をつくった→議会の視線を意識させる→しかし、原の死後、この制度は廃止された。
・原敬と後藤新平の比較。原は国会制度の問題として植民地を考えた。疎外された東北出身者として藩閥支配という内地における不平等を克服するため明治憲法体制→これを植民地にも広げて制度的同一性(これは同時に「同化」にもつながる)→内地延長主義。
・対して後藤は、外交問題の中で植民地を考えた。日本の国際的地位向上のため文明的植民政策→憲法の有無は関係ない、植民地統治がうまく機能すればいい→「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」というプラグマティズムから「同化」政策はとらない→特別統治主義。
・後藤や岡松参太郎には、台湾に関して特別立法を可能とする追加条項を憲法に盛り込みたいという思惑あり(「不磨の大典」たる憲法を改正しようとした試みとも言える)→台湾統治法(特別法は一般法に優越するという法理)の試み→日本本国から独立した法域の形成を意図。
・台湾独自の法慣習を考慮する必要→台湾旧慣調査→岡松参太郎は、清朝行政法研究のほか、とりわけ原住民の慣習の人類学的調査研究は法制史上で貴重な分野であることに気づいた。これについて著者は「法理論の継受」という問題意識から再評価できるのではないかと示唆している。

・第三部は台湾史研究の回顧。師であった戴国輝の思い出がしばしば語られる。

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2010年8月 8日 (日)

近藤正己『総力戦と台湾──日本植民地崩壊の研究』

近藤正己『総力戦と台湾──日本植民地崩壊の研究』刀水書房、1996年

・第一部「戦時下における植民地統治の構造」は日本の南進政策との関わり、戦時動員、先住民政策などの政策展開を分析。
・小林躋造(海軍出身)台湾総督→「南進化、工業化、皇民化」の一体性を意図、台湾を南方の玄関と位置付け。
・南進:台湾総督府には日本の南洋・中国南部への進出を担おうとする意図があった(例えば、海南島の「台湾」化の思惑)。ただし、総督府(海軍出身の小林総督)と台湾軍(陸軍)との間には路線対立→南進が国策決定されてようやく妥協→台湾は南方進出の物的・人的資源供給基地として位置付け。
・植民地人民に兵役義務がないことは日本人側の優位性の根拠→当初は徴兵制施行に消極的→異民族支配構造の枠組みを維持しながら戦時動員するため「軍夫」→戦局が押し詰まり、本格的な動員のため皇民化政策。
・日中戦争時の軍夫動員→一定数が大陸に残留→①待遇が良い、②台湾に戻っても遠からず徴兵されるだろうという見通し。
・改姓名:漢族系には任意性を強調(後の特別志願兵制度と同様に、「志願」という能動性に特別な意味づけ)。対して原住民系には、個人単位の認可改姓名(初等教育機関に在学中の生徒たち)、許可改姓名(1941年6月17日の始政記念日を期して一家全員一律に強制)の二段構え。
・高砂義勇隊の指揮官は軍人ではなく「蕃語」に通じた理蕃警察官→「蕃社」における警察支配の構造がそのまま部隊編成にまで貫徹。
・小磯国昭内閣の朝鮮及台湾在住民オ政治処遇調査会(伊澤多喜男・元台湾総督や下村宏・元台湾総督府民政長官は制限つきながら参政権を提案)の検討→台湾・朝鮮合わせて10議席の衆議院枠の配分を通達、しかし敗戦間近。
・第二部「台湾光復運動の展開」では大陸に渡って抗日運動を行った台湾出身者の活動や光復後のビジョンをめぐっての論争について分析。
・李友邦→台湾独立革命党、台湾義勇隊(朝鮮義勇隊発足に触発された。黄埔軍官学校出身者が指導。中国側から武装化は許されず)。抗日運動のため中国大陸に渡っても、中国側から疑いの目で見られた。
・中国国民党の台湾党部設置問題→対日秘密工作が目的。翁俊明殺害事件→台湾出身者の排除。
・光復後のビジョンについて柯台山、謝南光、黄朝琴、郭彝民の意見書を分析。日本統治下における高度な産業化、効率的な行政・生産機構を前提として、これらを日本の体制から引き離していかに引き継ぐかという論点が目立つ。また、中国化の問題、自治の問題。
・福建省の陳儀主席(1934年~)政権とかつて台湾総督府は経済的に良好な関係を取ろうとしていた。1937年には陳儀が台湾視察、経済開発のモデルとみなした。
・辜顕栄は戦前からアモイに投資していた。

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【映画】「沈まぬ太陽」

「沈まぬ太陽」

 山崎豊子の原作は未読。舞台は日本のナショナル・フラッグ・キャリアたる某航空会社。エリート候補だが組合活動を指導していたことから会社上層部から睨まれていた恩地(渡辺謙)のサラリーマン人生を縦軸に、御巣鷹山墜落事故の遺族対応や社内改革をめぐるあつれきが描かれる。

 企業の目的は収益性向上にあるのはもちろんだが、同時にその会社が担っている社会的ミッションへの誇り(航空会社の場合、安全運航)があってはじめて成り立つ。上層部の言う「会社のため」と恩地が言う「会社のため」のズレはそこにある。日本の高度経済成長というのも、単に経済発展というだけでなく、この恩地の人生に象徴される自分の仕事への社会的ミッションの自覚と誇りが会社への献身と結び付いた意識が下から支えていたからこそ可能であったと言える。

 上映時は割合と評判が良かったように思うが、いざ観てみるとちょっと期待はずれ。ヒューマン・ドラマとしての筋立てと企業内暗闘の筋立てとがうまくかみ合っておらず、全体的に散漫・冗長の感が強い。

【データ】
監督:若松節朗
2009年/202分
(DVDにて)

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【映画】「フロスト×ニクソン」

「フロスト×ニクソン」

 ウォーターゲート事件で大統領を辞任してから沈黙を守っていたニクソンにテレビの連続インタビューの申し込みがあった。依頼主はイギリスのトークショー司会者であるフロスト。組しやすしと判断したニクソンは受諾した。アメリカでの知名度アップを狙うフロストだが、対するは名うての策士ニクソンである。のらりくらりと論点をはぐらかして自己正当化を図るニクソンの話術に翻弄されてしまう。

 ニクソンがウォーターゲート事件への関与を初めて認めたテレビ・インタビューの模様を描く。もともとは舞台作品だったそうで、言葉のやりとりそのものに緊迫感を持たせる構成となっている。言葉を使ったルールなき格闘戦、4ラウンドの最後でフロストが一発逆転という筋立て。ただし、勝利の爽快感はむしろ抑え気味だ。かつてニクソンが大統領選挙でケネディに敗れたとき、敗因はテレビ映りの悪さだった。ラジオで討論を聴いた人はむしろニクソンに軍配をあげたとも言われる。このテレビ・インタビューでも、ニクソンが事件への関与を認めたというスクープ以上に、その時の彼の表情を捉えたことが大きくものを言った。選挙では政策論争が重視されるべきと一般論としていわれても、実際には論理的説得よりも映像など印象で物事が判断されやすい危うさが背景から見えてくる。

【データ】
監督:ロン・ハワード
2008年/アメリカ/122分
(DVDにて)

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青井哲人『植民地神社と帝国日本』

青井哲人『植民地神社と帝国日本』吉川弘文館、2005年

・日本の植民地支配下の台湾や朝鮮半島に建てられた神社を都市計画論のコンテクストの中で捉える視点で、植民地支配によって都市空間・社会・文化が再編成されていく過程が検証される。著者の専門分野は建築史。
・日本内地の神社は平地での立地が多いのに対して、外地では山の中腹が多い。人為的構築物が集まった市街地だけでなく、山や森など自然的環境も含めて日本の植民都市の性格を捉える。神社鎮座地選定の議論そのものが、同時に既存の都市が持っていた歴史的経緯をいかに取り込んで位置付けていくかという都市論の性質を帯びていた。
・例えば、護国神社の創建(1930年代後半以降)→神社祭祀に必要な条件を検討しなおして空間を再設計する態度があった→建築の性格・機能が日本支配下で一元的・均質的な機能主義。同時に、地域主義と組み合わせて、それぞれの地方色も取り入れた。つまり、「地方」に固有のアイデンティティーを認めながら、それを「帝国」へと包摂していくイデオロギーが神社創建を進めた内務省神祇局等に見出される。
・朝鮮半島では、まず日本人居留民が創建→日韓併合後、植民地行政の中心としての京城に宗教的秩序形成の意図から朝鮮神宮→戦時下、神社祭祀と民衆の大量動員のため境内・社殿の改変が行われた。また、内地における支配一元化に合わせて植民地でも技術的一元化の波及。
・台湾の寺廟整理運動:従来の研究では皇民化運動など戦時下の宗教政策による強制という側面が強調されていたが、皇民化運動以前から寺廟は段階的に減少傾向にあった。皇民化運動だけでなく、寺廟の公的施設への転用・建設、市区改正事業など植民都市としての空間的再編成の流れの中で寺廟の処分があったことも捉える必要が指摘される。
・在来都市と植民都市計画という二重性を抱え込まざるを得なくなった台湾や朝鮮半島の人々は、これらをどのように受け止めて自分たちのものにしていったのかという問題意識が示される。
・近代の神社を宗教史ではなく建築史・都市計画史の観点から分析、その上で植民地権力によって再編成された都市空間の中で抱えざるを得なくなった伝統と(押し付けられた)近代との葛藤がどのように受け止められたのかという問題意識を示しているところに関心を持った。

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2010年8月 6日 (金)

日本順益台湾原住民研究会編『台湾原住民研究への招待』、山本春樹・黄智慧・パスヤ・ポイツォヌ・下村作次郎編『台湾原住民族の現在』

 日本での台湾原住民族への関心は大きく分けて次の二つがあると言えるだろうか。第一に、霧社事件や高砂義勇隊など日本の帝国主義的権力との葛藤に焦点を合わせた歴史学的な関心。第二に、文化人類学的な関心で、揺籃期にあった日本の民族学・文化人類学的研究にとって台湾は貴重なテストケースになった。日本の領台直後の1896年に来訪した鳥居龍蔵をはじめ、伊能嘉矩、森丑之助、鹿野忠雄、台北帝国大学土俗人種学教室の移川子之蔵、宮本延人、馬淵東一、言語学教室の小川尚義、浅井惠倫、『民俗台湾』の金関丈夫、国分直一などによる研究蓄積は、戦後の台湾における研究に引き継がれた(台北の南天書局から復刻版が色々と出ている)。

 前者の歴史学的研究や聞き取り調査は、日本の戦争責任をどのように捉えるかという議論との関わりで、一般的な読者層にも比較的読まれている。これに対して、後者の民族学的研究については、戦後も引き続き一定の研究蓄積があるものの大半が専門的な学術論文であるため、一般読者層にとって必ずしもなじみやすいものではない。

 そうした中で、日本順益台湾原住民研究会編『台湾原住民研究への招待』(風響社、1998年)は、研究入門という形ではあるが専門外の一般読者にも読みやすい構成で良い本だと思う。この分野の専門家が揃って分担執筆、研究史的背景や各民族の文化的特徴について過不足なくまとめられ、本論ばかりでなく研究者自身のフィールドワーク体験をつづったエッセイが興味深い取っ掛かりとなる。(そう言えば、台北の順益台湾原住民博物館にはまだ足を運んだことがなかった。)

 山本春樹・黄智慧・パスヤ・ポイツォヌ・下村作次郎編『台湾原住民族の現在』(草風館、2004年)は、民族学ばかりでなく様々なジャンルの執筆者が集まり、とりわけ原住民出身研究者も参加した専門的論文集。草風館で翻訳出版された台湾原住民作家の文学選集との関連のようだ。1980年代末からの民主化・言論自由化に伴って原住民族側からの発言も活発となり、憲法上も1994年には「山地同胞」→「原住民」と正式名称変更、1997年には多文化主義が明記され、1996年には政府機関として行政院原住民委員会も発足している。こうした情勢を受けて、多文化主義という枠組みの中で原住民族各自のアイデンティティーをどのように保障していくか、その際にどのような問題があるのかを検討していく論考が前半部のテーマとなっている。後半部には歴史学的・民族学的論考が並ぶが、紙村徹「なぜ牡丹社民は琉球漂流民を殺害したのか?:牡丹社事件序曲の歴史人類学的素描」に興味を持った。パイワン族が琉球漂流民を虐殺したのは、「野蛮」だったからだというのは説明になっておらず、彼らの内在的な動機を探ろうとする問題意識が示されている。

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2010年8月 5日 (木)

【映画】「練習曲」

「練習曲」

 大学卒業を間近に控えて台湾一周の自転車旅行に出かけた青年(東明相:イーストン・ドン)。難聴の障害を抱えた彼だが、重そうに背負った荷物の中にギターがある。いざ弾こうと思ったとき、弦が切れてしまっていた。「壊れてたって、好きなように弾けばいいんだ」と声をかけられるシーンがあった。ハンディがあっても、壁にぶつかっても、自分なりの切り抜け方があるはずだという意味合いが込められているのか。道中に出会った人たちから励まされ、助けられながらペダルをこぎ続けていく中で、自らの人生を見つめなおしていくロード・ムービー。

 通り過ぎる風景の何気ない一瞬、一瞬が丁寧に写し撮られていく映像が実に穏やかで、心なごむように美しい。南国の穏やかさが、道中のたまたまの出会いや人情と静かにうまく溶け込んでいるので、観ながら、青年の胸中にわきおける気持ちに自然と感情移入していける。

 家に泊めてくれた青年の母親への反抗。ローカル駅で出会ったリトアニア人女性。退任間際の小学校の先生から聞いた生徒の障害児の話。工場主が中国進出して失業したため抗議活動中のにぎやかなおばさんたち。一緒に落書きして逃げたアーティスト。お互い様だと言って自転車を直してくれた同様にツーリング中の先達の話。そして、青年の障害を気遣う祖父と共に出席する祭礼(この人は最近観た「トロッコ」にも出てきたおじいさんだ)。何らかの寓意を読み取れそうなエピソードが映画のあちこちに散りばめられているが、それを並べて書き立てても野暮というものだろう。

 一つだけ言うと、台湾アイデンティティーの複合性が、ちょっとしたニュアンス程度のものにしても、映画の背景に込められているのが見えてくるところに関心を持った。日本の植民地統治期における「サヨンの鐘」(莎韻之鐘)の話が紹介されたり、大陸出身の人形作りの老人の話に耳を傾けたり。特に論評を加えることもなく淡々と映画の中に組み込まれている。そういった何やかやも、青年自身の葛藤も、すべてがこの台湾の美しい風土の中に包み込まれている。

 難しいことなど考えず、ただこの穏やかで美しい風景の中に青年と一緒に迷い込み、一つ一つの縁に身を委ねるだけでいいのかもしれない。鑑賞後に余韻の残る、なかなか良い映画だった。監督の陳懐恩は侯孝賢映画で撮影監督をしていた人らしい。

【データ】
原題:練習曲/英題:Island Etude
監督・脚本・撮影:陳懐恩(チェン・ホァイエン)
2007年/台湾/108分
(DVDにて)

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小山三郎編著『台湾映画──台湾の歴史・社会を知る窓口』

小山三郎編著『台湾映画──台湾の歴史・社会を知る窓口』(晃洋書房、2008年)

 映画という切り口を通して台湾社会史を考える主旨の論文集。映画ファン向けではなく、あくまでも台湾研究者向けの生真面目な内容である。例えば、映画ファンが興味を持ちそうな1980年代以降の台湾ニューシネマへの言及はほとんどない。具体的内容としては、日本植民地統治下の映画受容(三澤真美恵論文の、台湾人弁士による翻訳・翻案→映画受容という場における「台湾化」という指摘に興味を持った)、大陸における文革に対する国民党政権下の反応(映画「苦恋」をめぐって)、上海・香港からの影響・交流、台湾語映画、映画制作会社、評論・出版、検閲などのテーマの論文が並ぶ。

 映画というテーマを軸にして台湾と日本との関係を考えていく上では、田村志津枝『はじめに映画があった──植民地台湾と日本』(中央公論新社、2000年)が読みやすい。また、戦後台湾における映画作品とその背景との関わり方を知りたい場合には戸張東夫・寥金鳳・陳儒修『台湾映画のすべて』(丸善ブックス、2006年)が参考になる。

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2010年8月 4日 (水)

村上重良『国家神道』、安丸良夫『神々の明治維新──神仏分離と廃仏毀釈』、島薗進『国家神道と日本人』

 実のところ、神道というのが私にはよく分からない。別に批判的というのではなくて、そもそも神社が身近な存在ではないからだ。初詣に行く習慣もない。伊勢や出雲までわざわざ足を運んだこともあるが、自分の生活世界とは全く異質なものを見に行く感覚、ある種のオリエンタリズムとも言うべき視点で見てしまうよそよそしさが私にはある。土着のものでありながら、その土着性そのものが自分にとって異質だという遊離感。近代日本における国家神道というのも、こうした矛盾がある一面においてはらまれていたのかな、という気がしている。

 国家神道についてまず手に取るべき定番は、村上重良『国家神道』(岩波新書、1970年)だろう。批判意識を全面的に打ち出しながら国家神道の全体像を概説的にまとめている。内面的普遍性を志向する創唱宗教とは異なって、神道はもともと共同体祭祀が中心、従って日本民族以外には通用しない原始的な民族宗教であり、国家神道はこれを素材にして国民支配のためのイデオロギーへと仕立て上げた、という視点である。惟神の道→無思想→政治的な必要に応じて恣意的な内容を盛り込める。個人としての内面的契機を欠いており近代社会には相容れないとする問題意識は、戦後アカデミズムの思潮と足並みをそろえている。

 明治における国家神道の形成は、日本を一つの国家としてまとめ上げるため国民に国体イデオロギーを内面化させるという政治的要請と軌を一にするものであった。そのために在来の宗教生活が再編成を余儀なくされていく過程については、安丸良夫『神々の明治維新──神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、1979年)で描かれている。

 島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)は、村上書を批判的に受け継ぎながら議論を展開していく。私が関心を持ったポイントは、第一に、下からの国家神道という論点。伝統的な皇室祭祀はひっそりとしたものであった。ところが、明治維新後の皇室祭祀は祝祭日の制定、学校行事、マスコミ報道などを通して国民生活のリズムと直接結び付いた。国家儀礼を通した畏敬や愛着によって強い統合力が生み出されるという宗教形態は近代的な新しいものである。村上書が上からの支配のイデオロギーとして作用した面を強調したのに対し、島薗書では、上からばかりでなくこのようにいわば下からの国民運動としての性格も同時に持っていたところに国家神道の特徴を見出している。

 第二に関心を持ったのは、国家神道と他宗教との分業という論点。神道は宗教ではないという戦前の論理は現在の我々にはいまいち分かりづらいが(制度的には、神道は内務省神祇局が、他の宗教は文部省が所管)、国家神道は形式としての祭祀が中心であって、内面的な苦悩を救済するに足るだけの実存的拠り所は持っていない(→公)。そのため、他の宗教にそうした実存的問題を任せる(→私)という二重構造。ところが、そうした分業の一方で、靖国神社(陸海軍が所管)は若い兵士たちの戦死というまさしく実存的苦悩に関わったため、国家神道の中でも独特な位置を占めた。

 村上書ではGHQの神道指令によってこの前近代的宗教形態は解体されたと捉えていたが、国家神道の中心に位置していた天皇には何ら手がつけられていない、その点で国家神道は実は消えていないと島薗書は指摘する。神道は自然宗教だとされる一方で、この国家神道の見えづらさのため議論が混乱しているという問題意識が示されている。

(なお、最近の神道では、例えば鎌田東二のスピリチュアリティとしての神道などもあるが、これは国家神道とは全く別物だ。こういうところでも私には神道の捉えどころがよく分からず、混乱している。)

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2010年8月 3日 (火)

【映画】「Tattoo──刺青」

「Tattoo──刺青」

 ネット上でチャットのぞき部屋のバイトをしている女子高生のジェイド(レイニー・ヤン:楊丞琳)は、刺青をしたいと思い入った店で、幼い頃に憧れていた「初恋」の女性、竹子(イザベラ・リョン:梁洛施)と再会した。ネット上ではしゃぐジェイドの姿は一見、軽佻浮薄にも見えるが、心の中にぽっかりあいた空虚感を満たそうにも軸足が定まらないという感じを受ける。そして、竹子が悔恨を刻み付けるかのように腕に彫った彼岸花の刺青。次第に求め合うようになる二人の同性愛関係を通して見えてくる過去のトラウマは、1999年の台湾大地震までさかのぼる。

 刺青の持つおどろおどろしい形相は、空虚な内面を覆い隠すこけおどしになる。他方で、刺青を彫る痛みは、忘れがたい何かを心の深くまで刻み付ける。思春期の最中にあるジェイドの葛藤は、この両方の間で揺れ動く心情を表していると言えるのか。レイニー・ヤンのあどけない顔立ちに浮かぶ、ガキっぽかったり、時にエロティックだったり、喜怒哀楽様々にうつろう表情の変化が見所かな。レズビアン映画という位置付けらしいが、そっちの方には興味ないな。刺青について日本人の師匠が重々しく語るシーンがあるが、日本では高尚な芸術であるかのような理解なのか。

【データ】
原題:刺青/英題:Spider Lilies
監督・脚本:ゼロ・チョウ(周美玲)
2007年/台湾/97分
(DVDにて)

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2010年8月 2日 (月)

金賛汀『在日、激動の百年』『韓国併合百年と「在日」』

金賛汀『在日、激動の百年』(朝日選書、2004年)、『韓国併合百年と「在日」』(新潮選書、2010年)

 どちらも内容的にほぼ同じだが、後者の方がやや詳しいようだ。在日朝鮮人をテーマとして、日本による韓国併合から現在に至るまでのバランスのとれた通史というのが意外と見当たらないので、両書とも良い手引きとなる。

 戦前、留学生や労働者として日本への移入が始まり、1922年12月には日本渡航の自由化。戦時の強制的動員や貧困の中での苛酷な境遇。日本の敗戦直後、引き揚げ時の混乱、この時に約200万人いた在日朝鮮人は1946年末までにおよそ140万人が帰国したという。在日朝鮮人の法的地位は、「帝国臣民」→1945年に「解放国民」→治安対策として暫定的に「日本国籍保有者」→1952年の対日講和条約の発効と同時に「外国人」と変転。在日朝鮮人組織の変遷も分かりづらいが、一大組織として在日本朝鮮人連盟(朝連)が成立した、そして左右対立、親日派の存在などで紛糾、右派は民団を立ち上げた。朴烈が民族主義的無政府主義から反共の立場をとり、民団の団長になったというのは初めて知った。1955年には朝鮮総連が成立。当初は日本共産党との連携も持っていたが、朝鮮総連の拠って立つ金日成主義は共産主義とは全く異質な宗教的思想だと本書は捉える。総連、民団とも本国志向が強くて在日の問題を軽視、在日の定住志向が強まる中、権利擁護の運動をおこしたのは在日の中でも無党派的な人たちだと指摘。日本社会内での差別が薄まると同時に、民族意識も薄まっており、民族的アイデンティティーを保ちながらいかに日本社会と共生していくかという問題意識が示される。

 些細なことだが、メモ。朝鮮半島では選挙は実施されなかったが、日本本土にいる場合には一応「帝国臣民」として選挙権があった。戦前の衆議院議員当選者の名簿などを見ていて目についたことのある朴春琴。この人については小熊英二が書いていたようにも記憶している。東京深川で朝鮮人居住のバラック強制立ち退きの圧力を受けたとき、朝鮮人代議士としての朴春琴に陳情に行ったところ厄介払いされてしまい(彼は右翼とつるんでいた)、そこで同じ選挙区の浅沼稲次郎に陳情したところ一生懸命に対応してくれた。そのため、次の総選挙では朝鮮人票が浅沼に流れて朴春琴は落選したという。

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2010年8月 1日 (日)

金賛汀『朝鮮総連』『将軍様の錬金術──朝銀破綻と総連ダークマネー』、朴斗鎮『朝鮮総連──その虚像と実像』

 金賛汀『朝鮮総連』(新潮新書、2004年)、朴斗鎮『朝鮮総連──その虚像と実像』(中公新書ラクレ、2008年)は、共に著者自身がかつて朝鮮総連内部にいて感じた疑問をもとにその問題点を指摘する。本来、日本社会におけるマイノリティーとして弱い立場にあった在日朝鮮人の権利擁護のための組織であったにもかかわらず、北朝鮮で金日成独裁体制が確立するのに伴って総連自体も同様に非民主的な政治工作機関へと変質、総連加盟者の権利を守るどころか、逆に彼らの忠誠心を利用、搾取していく矛盾へと転落していく経緯が描かれている。在日の人々の定住志向に対して朝鮮総連は本国政府との結びつきだけで活動方針を決めてしまうズレによって、民族的アイデンティティーを保持しながら日本社会と共生していこうという在日の人々の要望に応えられなくなっている問題が指摘される。

 北朝鮮帰還事業で、出迎えた北朝鮮側と裕福な身なりをした帰国者との双方に大きな驚きにがあったこと、双方の思惑のすれ違いついて今ではよく知られている。このとき、北朝鮮は在日朝鮮人の経済的利用価値を見出し、愛国事業という名分で朝鮮総連を通して帰国者のさらなる掘り起こしや、すでに帰国した人を「人質」にしてまだ日本にいる親族へ献金を強要するなどの圧力を加えてきた。金賛汀『将軍様の錬金術──朝銀破綻と総連ダークマネー』(新潮新書、2009年)は、そうした具体例として朝銀が朝鮮総連を通して圧力のもと北朝鮮への集金マシンへと変貌していく経緯を描いている。もともと、日本の一般銀行から融資を受けられない在日朝鮮人の零細事業者にとって朝銀は不可欠な金融機関であり、生活習慣を熟知しているので柔軟なフォローもしてくれた。ところが、北朝鮮経済の破綻から集金圧力が強まる中、朝鮮総連関連の事業(パチンコ店直営、不動産投機)に不透明な形で膨大な融資を行い、健全経営を目指して拒んだ地方の朝銀理事長などは辞任を余儀なくされた。行き先の不明の金額は、当然ながら北朝鮮に渡ったことが推察される。こうした矛盾がバブル崩壊を契機に顕在化して破綻、公的資金導入によって朝鮮総連との関係は完全に絶たれる。北朝鮮は有力な金づるを失ったわけだが、何よりも困惑したのはこうした動きの埒外にあった一般の在日の事業者である。

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【映画】「遠い道のり」

「遠い道のり」

 ユン(桂錀鎂:グイ・ルンメイ)が引っ越したばかりの新居にたびたび届く封筒。前の住人宛だが、気になって開封してみると、入っていたのはカセットテープ。「Formosa(台湾)の音」というラベルが貼られている。社内不倫に嫌気がさしていたユンは、ふと思い立ってこの音が録音された場所を探しに行く。そして、このテープを送り続けている録音技師の青年。どこか破綻した精神科医。大都会・台北の生活に疲れた男女、それぞれ互いに見知らぬ彼ら三人の旅路は、自然豊かな台湾東岸の町・台東で交錯する。

 台東付近の海や森が美しい。都市生活の疲れや気だるさから逃れるように「癒し」を求める人々が風光明媚な田舎の温もりを求めてさまようという筋立ては、都市化の進んだ先進国(台湾も含めて)ではありふれたもので、この作品もストーリー的にそれほど深みを感じさせるわけではない。ただ、「音」という道具立ては面白い(韓国のホ・ジノ監督「春の日は過ぎゆく」を思い浮かべたが)。言葉はなくても、他人同士でも、音を通してつながり合えるという意味合いか。

 私が関心を持ったのは以下の点。第一に、このように「都市」的感覚を全面に打ち出した映画が台湾では普通になっていること。第二に、その「都市」的感覚の不自然さを対照的に際立たせる道具立てとして原住民族が取り上げられていること。彼らの歌や踊りはフレンドリーな「素朴さ」の演出だ。「都市」目線の原住民族像である。第三に、映画のモチーフとなっている「Formosa(台湾)の音」→台湾の風土をもう一度見直して感じ取ろうという趣旨と受け取れる。郷土としての台湾意識は、20年以上前なら公定史観としての中華意識とぶつかりかねない微妙なものであったらしいが、現在ではこうした「癒し」系映画でも政治的な硬さもなくごく当たり前な前提としてなじんでいることは、時代がだいぶ変わったのだなあと感じさせる。

 主演のグイ・ルンメイは「藍色夏恋」に出ていた娘だったのか。気づかなかった。

【データ】
原題:最遥遠的距離/英題:Most Distant Course
監督:林靖傑
2007年/台湾/113分
(DVDにて)

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