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2010年7月25日 (日)

間宮陽介『増補 ケインズとハイエク──〈自由〉の変容』

間宮陽介『増補 ケインズとハイエク──〈自由〉の変容』(ちくま学芸文庫、2006年)

・自由を基調とする社会的体系は、個人を基本単位とした自由が単なる放恣、アナーキーへと転落しかねない危険を常に内包している点で不安定なものである。個人主義と利己主義、こうしたアンビバレンスを自覚したところから、そもそも自由を可能にする条件は何であるのかを不断に反芻して問い直していくことが社会思想としての自由主義の最大公約数的な特徴であろう。この点で、個人の自由をアプリオリな前提としてそれ以上を問い直そうとはしない自由放任主義は質的に異なる考え方である。問題は、計画か自由かという二者択一に収斂されるような性格ではない。大衆社会化が進展する中における「自由」の理念の変容をどのように受け止めればいいのか。本書はこうした視点から、一面的に単純化されやすいケインズとハイエクについて検討していく。

・「慣習」について。ハイエクは「無知の個人主義」と「理性の個人主義」を大別。前者では、人間は全知万能ではないのだから個人の領域についてはその人自身に任せ、国家といえでも干渉は許されない。全知全能ではないのだから、試行錯誤の中で生き残った知識や方法→慣習・伝統に人間は依拠、これがルールを形成する。対して後者では、人間理性の普遍性を万能とみなして社会構築→慣習・伝統を軽蔑。ハイエクはもちろん前者の立場である。ところで、ケインズも、不確実性に取り巻かれる中で人間はルールを必要とする、それは慣習でもあり得ると指摘していた。

・ケインズは、長期的視野ではなく短期的視野が中心となることで経済活動が投機活動へと変貌してしまったという問題意識。ハイエクは、経済の計画化を、「理性」の濫用というばかりでなく、人民の集合体が国家を通して個人の私的領域へと干渉しようとしているという問題意識→民主主義が自由主義の対立物へと転化してしまう危険を見出した。大衆社会において私的領域の縮小、社会的羈絆から脱したアトム的個人の一人一人が自足的に価値の究極的判定者として自らを思いみなすことで、「自由」の理念が換骨奪胎され、「自由」そのものが内在的に形骸化してしまう危険、こうした観点によって本書はケインズとハイエクの二人の議論から大衆社会批判の論点を導き出していく。

・「新自由主義」モデルは、公と私、国家と市場の二分法、前者による後者への介入を抑圧とみなす。しかし、市場=私的領域とみなすのは単純化し過ぎだと本書は指摘。また、両者の間にはさまる中間団体の必要性を指摘。この論点では、例えばドラッカー『産業人の未来』が、経済的自由の行き詰まりと全体主義の台頭という時代背景の中で、それでも自由をいかに確保するのかという問題意識から中間団体としての企業組織に着目していたのを想起した。

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