シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』
シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』(原田義人訳、ツヴァイク全集19・20巻、みすず書房、1973年)
伝記文学で名高いシュテファン・ツヴァイク、彼自らの自伝的回想録である『昨日の世界』が書かれたのは1940年のこと。ユダヤ系ドイツ人として亡命を余儀なくされて各地を転々とする流浪の生活、自らの著書やかつて受け取った手紙など資料とすべきものが何一つとしてない中、ただ記憶のみを手掛かりにつづられている。
生まれ育ったウィーン、留学したベルリンやパリ、そして知己を求めてヨーロッパ各地を回った旅の生涯の中で、ヨーロッパ中の知識人や芸術家たち、例えばリルケ、ホーフマンスタール、ヘルツル、ラテナウ、フロイト、ヴァレリー、ロマン・ロラン、ジイド、ゴーリキー、ジョイス、ウェルズ、クローチェ等々、文字通り第一級の人々と幅広くかつ親密に交流を深めた。その意味で国籍にとらわれないコスモポリタン的な「ヨーロッパ人」であった。同時に、彼が生れ落ちたハプスブルク帝国は崩壊し、新生オーストリアもナチス・ドイツに併合され、ヨーロッパの黄昏を目の当たりにしていた彼は無国籍者になってしまった悲哀を否が応でも自覚せざるを得なかった。『昨日の世界』執筆の動機は、夜明けの見えない長い暗闇への絶望感か。本書執筆から二年後の1942年、彼はブラジルで自殺してしまう。
第一次世界大戦の始まりを目撃したとき、戦争に対する嫌悪感がもちろんある一方で、開戦時に人々の間で高揚した興奮状態の中に見出された、ある種の凶暴な陶酔感、暗い無意識の衝動、親交のあったフロイトの表現を借りて「文化に対する不満」があったことを記している。第一次世界大戦の開戦当初にはロマンティックな愛国意識やフランツ・ヨーゼフ帝への畏敬の念などもまだあったが、1939年にはそうした無邪気で素朴な信仰はもはやない。あるのは、機械的な破壊と野蛮。
時代は変わった。絶望感をかみしめながら、ツヴァイクは両大戦前の青春期から振り返りながら説き起こす。裕福な産業資本家であった父や、出会った知識人・芸術家たち、彼らのつつましい生活態度には内面的な自由を確保するための智慧があったことを思い浮かべる。それは、テンポのゆるやかな安定の時代、お上品な倫理道徳で上辺を取り繕える時代、緊張感のない味気ない時代であった。自我意識に芽生えた思春期の反抗精神からすると引っぺがしたくなる態のものである。しかし、人間の凶暴さが時代を大きく揺るがしている執筆時点から振り返ってみたとき、ツヴァイクの眼差しにはアンビバレントな戸惑いも浮かび上がってくる。
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