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2010年7月27日 (火)

ヨハン・ホイジンガ『あしたの蔭りの中で』

ヨハン・ホイジンガ(藤縄千艸訳)『あしたの蔭りの中で』(『ホイジンガ選集2』河出書房新社、1971年)

・1935年にブリュッセルで行われた講演を基にした時論的論考。「あした」はつまりmorgenの文語的訳。訳書としては他に堀越孝一訳『朝の影のなかに』(中央公論社)もある。
・野蛮への歩み、危機を自覚してはいても、歴史の展開は止められないという意識が現代には広まっている。「進歩」の観念の両義性。
・研究の細分化→相互理解の困難。判断力の弱まり、生活の中での知識の消化作用の停滞。思想・芸術における「生の哲学」的発想と社会的思潮との共通性に注目。

・大衆的専制主義と同時に英雄主義的言説の流行。「英雄的なものに対する感嘆は、認識や理解から直接的な体験や経験へのかの大転換──これこそ文化危機の核心ともいうべきものだが──の最も雄弁な徴候である。行為そのものへの讃美、意志への強い刺戟による批判的判断力の麻痺、美しい眩惑による理念の曖昧化、これらすべては、反ノエシス的な生活態度の率直な信奉者にとって、そのまま英雄主義の是認を可能にさせる条件なのである。」(117ページ)
・「宣伝時代は手段の制限を知らない。宣伝は、それぞれの表象に、担うことができるかぎりの暗示をあふれるほどに積み込む。宣伝は、その標語を、独断的な真理として、できるだけ重く、嫌悪と讃美の感情をこめて、公衆に押しつける。合言葉をもつ者、また単に政治的言葉を操る者、たとえば、人種学説、ボルシェヴィズム、あるいはそのようなものを操る者は、犬を打つ棒を所持するのである。今日の政治的ジャーナリズムは、おおかた、犬を打つための棒を商っているのであり、彼らは読者を、至るところで犬の幻影を見る精神錯乱の患者に教育しているのである。」…「反ノエシス的な生の教説には、一つの危険が常に結びついている。理論的理解に対する生の優位は、概念の規範とともに道徳の規範をも放棄することを強制する。もし権威が暴力行為を説くならば、その言葉は暴力的な人たちのものとなる。彼らを阻止するための法律をも、人々は自ら払いのけてしまっている。暴力的な人々は、この原理によって、残酷や非人間性のあらゆる極端さが正当化され公認されているように感じる。英雄的な課題の完遂者として、暴力によって、動物的あるいは生理的な本能を満足させるような連中があまりにも容易に流入してくるのである。」(119~120ページ)
・「判断力の裁定にではなく、むしろ存在や利害の裁定に訴える国家哲学や生の哲学にとっては、スローガンやパレードの無意味なスポーツ競争などを伴う現代の幼稚性の全領域こそが、この哲学を立派に栄えさせ、また、この哲学が奉仕する権力を豊かに成長させる一つの要素なのである。もし、この哲学が念頭においている大衆本能が、純粋な判定の宣告による検査を受けていなくても、何の支障もないのである。しかり、人々は純粋な判断を欲していないのである。なぜなら、それは知的精神の仕事であるはずだから。判断の放棄によって、責任の意識が、献身を促す事柄との感情的癒着へと低下してしまうということは、この哲学の悩みとするところとはならない。」(130ページ)
・「今日の技術的完成と経済的政治的な実行力の砦は、決して私たちの文化を野蛮化から守ってはくれない。なぜならば、これらの手段はすべて、野蛮にもまた奉仕することができるのであるから。これら完全な力に結びついた野蛮は、それだけ強さを増し、それだけ横暴になるのである。」「非常に有益で効果があるが、副作用として文化をそこなおうとしている、特に高い技術的偉業の例は、ラジオである。いかなる人も、この精神的交流の新しい道具のすぐれた価値を少しも疑いはしない。…それにもかかわらず、伝達機関としてのラジオは、日々の機能において多くの点で、思想の伝達という目的には合わない形式への逆行を意味している。このことは、日常的なラジオの使用の周知の災い──つまり無思慮の傾聴、仕事を音と精神の浪費へと低下させるおしゃべりの落ちつきのなさ等──とは関係ない。ラジオは、この避けられぬことはない欠陥は別とすれば、知識受容の遅くて限られた形式である。私たちの時代のテンポにとっては語られる言葉はあまりにも回りくどい。読むことの方が、もっと繊細な文化的機能である。精神は読むことによって、はるかに早く受け入れ、たえず選択し、緊張し、省略し、間をおいて熟慮する。すなわち一分間に一〇〇〇もの精神運動がなされるが、これは聴衆には許されないことである。授業におけるラジオや映画の使用の主張者は、「書かれた言葉の衰微」という標題のもとで、喜びの確信をもって、子供が映像と講演で教育される近い将来を語っている。それは野蛮への強力な歩みになるであろう。青少年から思考を遠ざけ、幼稚のままにとどめ、その上、おそらく急速に根本的に退屈させるのに、これ以上の手段はない。」「野蛮は高度の技術の完成と提携することができ、同様に一般的に普及している学校教育とも提携することができるのである。文化の程度を文盲の減少から推し測ることは、時代遅れの愚直さである。学校で習う知識の量が決して文化の所有量を保証しない。」…「錯覚と誤解が至るところに蔓延している。どの時代よりも人間が言葉の、つまり標語の奴隷であり、それによって人間は相互に殺し合おうとしている。」…「色褪せた中途半端な教養人においては、伝統や形式や文化に対する畏敬の有益な抑制が徐々に失われはじめている。最悪のことは、至るところに見られる「真理に対する無関心」である。これは政治的欺瞞の公然たる称揚という現象において、その頂点に達している。」「古代文化は、何百年もの時代の流れを経て思惟と概念の明解さと純粋さにまで高められたが、そこへ魔術的で幻想的なものが、熱い衝動の濃煙の中に立ち現われ、概念をくもらせた時、野蛮が登場したのである。それは、ミュートスがロゴスを排除した時であった!」(153~155ページ)

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