ケインズは素人には難しいな
経済学の基礎的訓練を受けていない私のようなド素人がケインズを理解しようとしてもなかなか歯が立たない。とりあえず、宇沢弘文『ケインズ『一般理論』を読む』(岩波現代文庫、2008年)、伊東光晴『現代に生きるケインズ──モラル・サイエンスとしての経済理論』(岩波新書、2006年)、吉川洋『ケインズ──時代と経済学』(ちくま新書、1995年)と立て続けに目を通した。それぞれ丁寧に書かれているのだが、失業や有効需要のあたりがいまいちピンとこない。これらの本が悪いのではなく、方程式をとばして斜め読みしたがる私が悪いのだが。式の展開をきちんとたどっていけばむしろ自明なのだろうが、数式嫌いには苦痛である。
そんな私にとってロバート・スキデルスキー(山岡洋一訳)『なにがケインズを復活させたのか?──ポスト市場原理主義の経済学』(日本経済新聞出版社、2010年)はとても読みやすかった。山岡さんの訳文も実に練られている。著者はケインズの評伝で知られた人だが、経済学者としてではなく、経済学の分かる歴史家というスタンス。最近の世界的経済危機を深刻化させた元凶としての主流派経済理論家たちと対比させる形でケインズの意義を説く。
新古典派経済学はあらゆる事象について確実な知識を持つ合理的人間モデルを理論的大前提としている。これに対して、事象の不確実性に対して人間はどのような態度を取るのか、そこにこそ注目したのがケインズの視野の特徴だとする点ではどのケインズ論も一致している。この不確実性を計算可能とみなし、その理論的前提が非現実的であるにもかかわらずこれこそが現実に適用すべき処方箋だとして強引に推し進めようとしたところに新古典派経済学の誤謬があるというのがスキデルスキー書の問題意識である。
日ごろの経済活動はだいたい予測可能な中で進行するにしても、不確実性という壁に直面することがある。決断を下すには何らかの確信が必要だ。自分自身に判断の根拠がない場合に他人の行動をうかがいながら自らも振舞おうとすれば有名な「美人投票」のたとえ話になるし、「習慣」に従うのも(他人も「習慣」に従う可能性が高ければ)一つの合理的判断であるし、あるいは不確実性の中でも立ちすくまず、えいやっ、と突き進む気概に注目すれば、ここで「アニマル・スピリット」という表現が出てくる。
ケインズが自らの議論の出発点に「不確実性」を置くことによって「理論」として硬直化させなかった背景としては、ブルームズベリー・グループの教養深い仲間たちとの交流、とりわけムーア、ラッセル、ヴィトゲンシュタインなどの哲学者と親交を持ち、ケインズ自身、論理学研究として『確率論』を著していたことも注目される。こうしたあたりについては伊藤邦武『ケインズの哲学』(岩波書店、1999年)がある。著者は分析哲学の方で有名な人だ。
私がむかし、ケインズについて初めて読んだ論文は西部邁『経済倫理学序説』(中公文庫、1991年)所収の「ケインズ墓碑銘──倫理の問題をめぐって」だった(本書にはもう1篇「ヴェブレン黙示録」も収録されている)。西部の持論である大衆社会批判、知識人批判のコンテクストの中で、新自由主義に対しても自己破壊的な進歩主義の一つと捉えていた。経済学と倫理の問題もケインズを論ずる人が必ず言及するポイントである。それから、佐伯啓思『ケインズの予言』(PHP新書)も本棚のどこかにあるはずなのだが、見つからない。
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